May 23, 2009

JARL釧路総会をパスして…

 JARLの総会として久々に8エリアは釧路根室支部管内で開催される第51回通常総会(たんちょう総会)ですが、我が町からも少なからず何人か乗用車の乗り合いで前夜祭から出席する人間がたくさんいるようです。また他エリアからも飛行機やフェリーで続々と北海道入りするJARL会員も多いようです。当方も夜中出発翌日帰りの片道7時間の長距離爆撃を企てたこともありましたが、関西方面からの人もたくさんいることですし、紛糾が目に見えている総会にわざわざ疲れにいくのもどうかと考えていたところ、なんと千葉の従兄弟訃報が入り、これから漁船じゃなくてフェリーで本州に発つことになり、奇しくも「どっちみち総会には行くことが出来なかった」という言い訳が出来てしまったわけです。
 使い捨てマスク、このマスク品切れ騒動になる前に大箱60枚をストックしてあったので、そのなかから10枚しっかり持参して行きますが、運悪く罹るときには罹ってしまうものなんでしょうね。

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May 12, 2009

ミックラー加算機

090512_134522 昭和40年前後、主に対米輸出を目的にスタイラス式加算機が各種作られたことは以前にMBCのポケットカリキュレーターを入手したときに詳しく書きましたが、同時期に輸出用に作られ、東京都の優良輸出品に認定されていた手動加算機がこのミクラ精機で作られたミックラー加算機です。MBCのスタイラスでラックを引くタイプに比べてかなり大振りで、中型の電卓くらいのサイズでしょうか。そのためにスタイラス操作が不要で、指先で直接ラックを押し下げることが可能になっています。このラックはMBCなどの小型計算器と異なり、自動的に桁が上がり、なおかつバネの力でラックが一定の位置に戻る仕組みのため、MBCなどのように下に引くのか上に引くのか一瞬の判断に迷うことなく直感的に使用出来ます。この仕組みであれば、計算速度に関しては素人が使用する限りは算盤の加算といい勝負だったかもしれません。しかし、減算するための特別なメカニズムがまったく無いようで、この点はリコーのアレックスと異なります。しかしラックに赤文字で逆数を振ってあるので、なんらかの減算方法があるのでしょうが、説明書はもちろんのこと欠落してますので、今の所、不明です。このミックラー加算機は輸出が主体だったことと、算盤の牙城を崩すほど普及したわけでもなく、現在にまで残っているものは少ないようです。そのため、こんな簡単なものながら、一度は箱・説明書付きの中古で16,800円という高落札額で取引されたこともあります。
 用途としてはどうやら入出金振替伝票などの集計専門に使うことを考えたのではないでしょうか。そうなると、加算がスムーズに出来ることのみが重要だったのかもしれません。ミックラー加算機はどうやら2種類の形態があるようで、双方ともに6桁ながら理大の計算機コレクション所蔵品は少々小振りのようで、リリースレバーも引き下げるのではなく軸を中心に押し下げるような構造になっているようです。構造から考えるとレバー一押しで数値がリセットされるわけではなく、何回か押し下げないと数値がリセットされないようなものだったのではないでしょうか。そのため、一回のレバー操作でリセットできるようになった改良品が今回のミックラー加算機なのかもしれません。中の数字が振られたプラスチックの数字ドラムは当時のカウンターもしくはタイガー計算器などのために作られた汎用品を流用しているような気がします。そのために数字ドラムに独自のメカニズムを付加することが難しく、そのために減算のための逆転メカニズムを組み込むことが困難だったのかもしれません。これがリコーのアレックス並にレバーを引き出すことで自由に置数を減算することが可能であれば、加算機から計算機に昇格したのでしょうが、やはりこの手の計算機のメカニズムは実用新案の出願がいろいろと絡み合っているので、似たようなメカニズムを組み入れることが出来ず、結果的に中途半端なものになってしまったのかもしれません。まあこんな単純な加算機ですが、カシオミニ登場までのつなぎ役としては一応役に立ったのでしょうか。
(2009.5.13追記) この加算機をいじっているうちにおぼろげながら減算の方法が見えてきました。ラックの右端の黒表示1のところに「−↓」の刻印があるのです。具体的な減算の方法は、たとえば555−255の計算は黒数字の555をラックで引いて置数し、次に逆数の赤表示の255(黒表示では744となる)をラックを引いて置数すると1299の表示がでますが、−表示に従って下一桁のラック(黒1)を引くと表示が1300となり繰り上がった上一桁の数字を無視すると答え「300」が得られるというものらしいです。また、999−1という単純な計算は黒999を置数したのち赤で001を置数すると1997となり下一桁黒1を引くと1998と表示され、上一桁を無視して「998」という結果を得るものです。
繰り下がり計算、たとえば500−280の計算などは黒500,赤280と赤数字は0の桁もラックを引かなければいけませんがそのときの数値は1219でこれに下一桁黒1引きで1220表示上一桁無視で220の答えを得るというもののようです。

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March 31, 2009

7メガ拡張初日

 3月30日に日付が変わったと同時に7メガの拡張、1.9メガのデーター通信モード許可ならびに135キロの新たなバンドが許可されるようになりましたが、我々の関係分としては7.100MHzから7.200MHzが変更申請無しに使用出来るようになりました。当日、日付が変わると同時ににどういう状況になるか野次馬根性でワッチしようと思ってましたがすっかり寝込んでしまいました(笑)朝に7メガの拡張帯を聞くと国内の大出力局がぼちぼちと拡張帯に出ているのが聞こえます。昼間にも思い出して拡張帯を聞いてみましたが、各局ともあの混雑してQRMの嵐だった7メガがこんなにゆったりと交信できるなんて別世界だなんて言っていましたが。また日付が変わってすぐにCQを出していたWの局にオンフレで呼び出したら驚かれたなんていう話もありましたが、おそらく海外でも日本で7メガが拡張され、面倒なスプリット運用の手間が無くなったという話を知っている人のほうが少ないのでしょうか。相変わらず夕方過ぎからは大陸のBCが入り始めてかぶりのない所での運用を強いられます。ところで、7メガ拡張で新しい周波数帯幅まで使えるということを知らないアマチュアというのはどれくらいの割合でいるのでしょうね。7メガが広がるという話は知っていても3月30日から実施されるということを知らない人も意外と多そうな。何せ官報掲載から施行まで2週間弱の猶予しかありませんでしたし…。

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March 20, 2009

横田式安全灯(炭鉱用カンテラ)

090320_083714 明治期の炭鉱では比較的に坑口からも近く浅い炭層を採掘していた分には「じみ」と呼ばれる土瓶のような形をした金属製のカンテラに菜種油などを燃料を入れ携帯用の明かりにしていました。これはガス気のない金属鉱山で使われてきた物をそのまま炭鉱に持ち込んだのですが、しばしば何かの拍子にこのじみの火が消えると坑内に設けられた火番所という所に行き、火を着けてもらいます。この火番所は「喫煙所」の役目も果たしており、煙草吸いたさにわざわざじみの火を消して火番所に現れる剛の者もいたのだとか。しかし、明治も中期に差し掛かり、各所で竪坑が開削されて採炭現場が地底深くに達するといよいよメタンガスの洗礼を受け始め、しばしばカンテラの裸火でガス爆発を起こすようになったため、デービー灯やクラニー灯という石油安全灯が徐々に普及していきます。明治の中期にドイツのウルフ氏によりウルフ式揮発油安全灯が発明されたことにより、日本でも大手の炭鉱でウルフ安全灯や同様の揮発油式安全灯であるサイベル式安全灯などの煤のでない揮発油灯が主流になっていきますが、アメリカのエジソンが充電式電池を使ったキヤップランプを売り出すに至り、大正末には大手の炭鉱では整備に手間の掛かる手提げの揮発油安全灯に代わってキヤップランプが主流になっていきます。このような揮発油安全灯ですが、乏しい外貨で外国製安全灯を輸入するよりはウルフ安全灯をデッドコピーして国産化したほうが国策に叶うと考えたのか早くも明治末期にウルフ安全灯は灯火器製造メーカーである本多商店により製造が始まり、昭和の初期に明かりとしての役目を終えた後も実に昭和40年代初期まで「簡易メタンガス検知器」として、また船舶用備品として製造が牛の涎のように続いてきました。実は東京オリンピックの聖火をアテネから運んできたのは特別なスタンドに装着され、旅客機の中に持ち込まれた本多電機製ウルフ安全灯と予備のためのハクキンカイロだということはあまり知られていないかもしれません。
 またこの国産ウルフ安全灯には本多商店製のデッドコピーのほかにも存在するらしく、文献には「横田式安全灯」の記載が見られます。各地の石炭資料館などで見られる鎧型の本多製ウルフ灯と並んで展示されている普通型のウルフ灯が横田式安全灯ではないかと推測していましたが、今回初めて銘板が残っている横田式安全灯の実物を発掘しました。入手先は宮城県の太平洋岸最南端の町からですが、この近辺には炭鉱がないため、おそらくはもう少し南に下った常磐炭田の北端あたりで使用されたものなのでしょう。ちなみに仙台近辺では戦前から戦後にかけて家庭用の燃料として小規模に亜炭が掘られており、今でも旧坑道の崩落で地表が陥没して家が傾いたなどという災害もあるようです。この横田式安全灯は銘板に「第三横田式」と記されており、それでは第一・第二の横田式というのも存在するのかという新たな疑問も出てきました。製造元は以前、福岡から入手した「江戸式安全灯」の神田は今川小路に大正末まで存在した合資会社江戸商会です。この横田式安全灯の外観は江戸式安全灯に殆どそっくりで、スチール製ボンネットは同じ物が使用されているのではないでしょうか。ただし細部に置いてかなりの差があり、横田式安全灯は単に再着火装置を省いた普通型ボンネットのウルフ式揮発油灯ですが、江戸式は再着火装置さえないものの棒芯回りに導風盤が存在しそれにより炎の燃焼効率を高くして少しでも光度を高めているような感じです。また、横田式はボンネット下部の真鍮リングの下から吸気しますが、江戸式には真鍮リングの側面にスリットが切られていてそこから吸気しているようです。双方ともに腰ガラス下にウルフ式特有の金網を張った吸気リングがあり、ここからも吸気していますが、本家のウルフ式と違い、腰ガラスと共にボンネット側に固定されているため、油壺との結合をはずすと腰ガラスや金網が不用意に落ちてこないという利点がありますが、掃除の手間を考えたらどっちの構造が便利なのか…。また、油壺との機密性に難がありそうな構造で、結合度を検査する機械にかけた場合、本家ウルフ灯より結合不良率が高そうな感じがします。当時この結合不良がガス爆発を誘引する一番の原因になったようです。マグネットロックのラッチ部品がはずされていましたが、マグネットロックの構造は江戸式の方が改良されてデザインも洗練されています。同じベンジンか粗製ガソリン(ナフサ)を使用する棒芯の揮発油灯なのですが、なぜか横田式の油壺に比べて江戸式の油壺の方が薄く出来ています。これらの点から推測すると江戸式と横田式を比較すると横田式のほうが年代的に古く、横田式を独自に改良したのが江戸式安全灯なのではないでしょうか。銘板に「第三横田式安全灯」とあるので、横田式も細かい改良が続いたのかもしれません。また江戸式は二重メッシュ構造ですが横田式は当初から分厚いメッシュ一重だったような気がします。届いた横田式安全灯のシリアルナンバーは708**番台で江戸式のシリアルナンバーが84***番台ですからこのナンバーを見ても横田式の方が古いのではないでしょうか。横田式には漢数字の逆文字で「九七五」(579)の番号が打刻されていましたので、常磐でも小規模の炭鉱ではなくかなりの規模の大炭鉱で使用されていたはずです。年代的に推測すると後に磐城炭鉱と合併した入山採炭系の炭鉱で使用されたものかもしれませんが、悲しいかなこの横田式安全灯が履歴を語ってくれるわけではないので確証はつかめません。関東大震災の火災で神田周辺が灰燼に帰したのち合資会社江戸商会の名前を聞かないところを見ると、やはり被災した後に再建されなかったと見るべきでしょう。そのころから蓄電池式の帽上灯が大手の炭鉱に急速に普及してきましたので、横田式も江戸式も照明としての役目を失い、さらに再着火装置を持たなかったことで簡易メタンガス検定用には不適で、その点は本家ウルフ揮発油灯を丸パクリした本多商店製本多式ウルフ揮発油灯のほうに分があったようです。江戸商会が被災して廃業したとすると消耗品の供給も止まるわけで、そのころから使用されなくなったとすると80年以上もどこかに放置されていたことになりますが、ボンネットも油壺も表面は錆ででこぼこに腐食しており、ボンネットの内側は虫の巣くった跡もあり、清掃にはかなりの気合いが必要でした(笑)しかし、横田式の名前となった横田さんとはいったいどこのどんな技術者だったのでしょう?

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March 19, 2009

7メガ帯拡張、135キロ帯追加、1.9メガ帯4アマでも一部運用化に

 いよいよ7メガ帯の拡張と1.9メガ帯の狭域帯データー通信解禁ならびに中波帯135キロ帯が平成21年3月30日を以て運用が解禁されることが3月17日付の官報で発表されました。7メガ帯が許可されている無線局は周波数割り当ての変更申請無しに3月30日になった瞬間から7.100MHzから7.200MHzまでの、いままでオフバンドとされていた周波数帯で運用することが可能になり、いままでWなどとスプリットで交信せざるを得なかった変則運用がついに解消され、オンフレで交信出来るようになります。また1.9メガ帯は、いままで3アマ以上しか運用の出来ないバンドでしたが、PSK31などの文字通信が解禁されたことによりA1A以外の電波形式…F1B,F1D,G1B,G1Dが4アマの資格で割り当てを受けられるようになります。また新たに加えられた中波135キロ帯は135.7から137.8kHzの幅でA1A以外のF1B,F1D,G1B,G1Dは4アマにも割り当てられることになります。135kHzというとλ≒2,200mだそうで、送受信機の自作もさることながら、アンテナをどうするかというのが問題であり、かなり気合いを入れてしばらくかかりっきりで保証認定申請まで持ってこないと局免に周波数を加えることすら難しいバンドです。北海道の牧場にロンビックアンテナ張るとか「象の檻」をこしらえるとか、潜水艦みたいに船でロングワイヤーを引っ張るとか、気象観測用の気球使ってロングワイヤーを揚げるなどと与太話には事欠かないのですが(笑)
 また、昔のWARCバンドが付いていながら解禁まで送信禁止が施されていた無線機同様に、今の無線機はオフバンド送信禁止措置(これがないと技適が取れない)が取られているため、7メガの拡張バンドに出るためにはメーカーでの改造(おおよそ消費税別で7k円前後)もしくは自分でダイオードチップ取り外しなどの改造を施さなければいけませんが、この改造を施すと「技適機」から外れるため、この無線機を新たに許可申請するためには「保証認定」を受けなければいけないのだとか…。まあうちのFT-101ZDとTS-830には関係ないことですが(笑)

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March 15, 2009

HEMMI No.641 一般技術用

 HEMMIの片面尺としては異色の幅広計算尺 No.651は計算尺競技会などでよく使用された計算尺の一つと言われていますが、そのモデルチェンジ版がこのNo.641になるようです。事実、初期のNo.641に付属していた説明書はNo.2662/651用の冊子型説明書にNo.641の補足説明を記したオレンジ色のペラが付いただけでしたが、のち制式に冊子型のNo.641単独説明書が付いたようです。HEMMI計算尺の中でも最末期の製品のためか、さほど生産期間は長くなく、殆どの需要が工業高校関係のようで、製造数量も多くないようです。構造的にはプラスチックの裏板に上下の固定尺をネジで接合するという手法は山梨の技研系にそっくりで、おそらくこの時代は電卓の急激な普及で、計算尺の需要はほぼ教育関係に特化し、HEMMIにあっても製造ラインを整理し、このNo.641の製造組み立ては山梨の下請けメーカーに移管していたのかもしれません。8インチの学生用計算尺などは昭和40年代半ばにはほぼ全量がプラスチック化し、そのすべてが山梨の下請けメーカーに生産移管されていたようです。
 No.641はHEMMIの片面計算尺としてはもっとも幅広の計算尺に属します。その上級検定試験や競技会などでの使用を考慮し二乗尺とずらし尺の双方を表面にもってくるという手法は技研時代のNo.251、FUJI計算尺のNo.2125,2125-C,2125-Dのほうが本家本元でしょう。表面と裏面の尺度はFIJIのNo.2125系とまったく同じで表面はK,A,DF,[CF,CIF,B,CI,C,] D,DI,L,の11尺、裏面は STI,T2I,T1I,SI,CI,とHEMMIお得意の逆尺になっているところがFUJIのNo.2125系と異なります。また2125系と差別化して少しでもHEMMIらしさを出すためか、固定尺および滑尺は竹にセルロイドを接着した従来のものをFUJI計算尺のようにプラの台にネジ接合し、目隠しにゴムの盲蓋を施すという構造になっています。あまり数を見ていないのではっきりとはわかりませんが、製造はどうやら昭和47年のW刻印物が一番古いらしく、昭和50年のZ刻印までの3年間という短い製造期間のためか、さほど製造総数は多くないようです。そのためかさほど珍しい計算尺ではないものの、まったく海外に輸出された計算尺ではないためかオクではけっこう高額に落札されて海外流出してしまうケースが多い計算尺のひとつです。
 大阪から入手したNo.241は刻印が「XD」ですので、昭和48年の4月製造です。あの第一次オイルショックの直前の製品になります。FUJIのNo.2125系統の計算尺と比べてみると、やはり竹芯を使っているためか安っぽくなく、滑尺のさばきもプラ尺のような動き始めのかじり付き感もなく良好です。思わず「よい計算尺」と思わせるような作りで、FUJIのプラ尺と比べると道具としての愛着をわかせるような計算尺ですが、「工業高校生用」としたFUJIのNo.2125-Dにはvや2πまで存在する豊富なゲージマークを備えるのに対してHEMMIのNo.641の表面はπとcしか存在しないのがいかにも寂しい内容です。もっとも滑尺の裏面CI尺(裏面はすべて逆尺)にはラジアン換算の3種のゲージマークは備えますが。ということで、コレクション的に選ぶのならNo.641でしょうが、実際に電気・電子系の計算に使用するのであれば、安くて実用的なFUJIのNo.2125-Dの選択の方が正しいと思われます。サイズ的には両者とも平面部が45mmで、スケール部分を含めるとNo.641が53mm、No.2125-Dは50mmと僅かに差があります。ケースは薄型の青蓋プロー成形のプラケースで表面にしぼが入った物。なぜかこのプラケースにはしぼの無い物もあるらしいです。両面用の青蓋プラケースと比べると約40mm短く若干幅広の640系計算尺専用品のようです。
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 同一尺度の計算尺3種揃い踏み(笑)
 HEMMI No.641 一般・技術用計算尺表面拡大画像はこちら
 HEMMI No.641 一般・技術用計算尺裏面拡大画像はこちら

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March 14, 2009

妊娠暦速算器

Sokusan 出産予定日というのは最終月経から「正常妊娠持続日数は280日、妊娠持続を40週とする」という定義で算出され、8ビットのマイコン時代から計算用プログラムが各種公開されていますが、助産師さんや保健師さんたちはいにしえから簡単な「妊娠暦速算器」という金属製の計算尺を使用してきました。もっとも最近ではご多分に漏れず電卓型の機械に取って変わられる命運をたどっているようですが、至極単純な仕組みのため、いまだに一部で利用されているようです。日本における妊娠暦速算器の歴史は古く、早くも明治41年に当時の産科学の大家、榊順次郎博士の考案によって特許9112号を取得した「妊娠暦速算器」が嚆矢で、大正時代末期にこの特許が切れた後にも幾種類かの妊娠暦を計算する計算尺の特許が申請されています。なにしろ人間の誕生の根本に係わる道具ですから特許の失効後には東京帝大や京都帝大周辺に発展した医療器具問屋などが帝大医学部の産科学教授の指導を受けて製作したものが発売されてきたようです。龍角散の缶のような大きさの真鍮製ニッケルメッキ容器の側面に片方は一年のカレンダーを刻み、片方には最終月経からの経過月数・日数と経過周数を刻んだものです。両シリンダーを相互に回して最終月経日に経過日数の基線を合わせると40週目の基線で出産予定日がわかるという単純な仕組みで、経過周数もわかるので検診日などの指定にもいちいちカレンダーで日数を数えなくともわかるというまさに速算器です。2月は28日しか目盛が刻まれていないので、閏年で2月を跨ぐ場合には1日を加算する必要があります。中は完全な容器になっていて、巻き尺などを納めるために使用していたようです。人間だけではなく獣医学の世界でも馬や牛などの家畜繁殖暦速算器というものがあるようなのですが、実際にどんなものか調べがつきませんでした。
 入手先は熊本からで、元は助産師さんの持ち物です。購入月日が記されており、それによると昭和23年の7月ですから団塊の世代に当たる人たちの出産ラッシュのころで、さぞかし助産師さんは毎日毎日が忙しかった事でしょう。製造所は京都の堂阪製作所という京都大周辺の医療器具問屋で、京都帝大医学部教授・岡林博士考案となっていますが、どうやら容器を開けた底に妊娠各月末における胎児の身長及び体重の標準を表した表がありこの表の作成の指導をこの教授に受けたのかもしれません。堂阪製作所は現在も鍼灸治療関係の医療器具などの製造販売を手がけているようです。もっともこの妊娠暦速算器を現在でも販売しているかどうかはわかりませんが。
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March 13, 2009

HEMMI No.274 学生用

 最近では珍尺落ちして希少尺になってしまったような感があるNo.274ですが、それでもヘンミ計算尺末期に出現した製品故に諸外国にはまったく輸出されなかった事も影響するのか、今でも時折とんでもない金額で取り引きされる計算尺です。内容的にはNo.P253の竹製版であるNo.264の裏面にC尺を加え若干表面のレイアウトを変え、No.259同様の本体サイズにワイド化した高校生用の計算尺です。レイアウト的にはほぼ技術用のNo.251と同じですが、No.251のDF,CF尺が米国好みのπ切断ずらしであるのに対してNo.274は√10切断ずらしであり、またNo.251の三角関数尺はT,S,STなのに対してNo.274はTI2,TI1,SIと逆尺で、しかもT尺が45°を中心に2分割されています。また、6°以下84°以上の微少角はNo.251はST尺で読むのに対し、No.274のほうはC尺上のラジアンと度・分・秒の変換ゲージマークを使って読むタイプの尺度です。このように内容的にはあまりNo.251と変わりばえするような計算尺ではないため、さほど食指を動かされる計算尺ではなく、ましてそこそこの金額を出すのであればNo.254WNあたりのほうが全然良いと思わせてしまうような計算尺です。そういう計算尺ですから何となく計算尺コレクターにとっては帳尻合わせ的に入手する計算尺の代表格でしょうか(笑)
 No.P253の竹版であるNo.264はR刻印の昭和42年製が一番古いらしく、当時のケースは紺帯の入った模様貼箱で、終末期は青蓋の塩ビブロー成形プラケース入りでW刻印の昭和47年製らしいのですが、このNo.274に関しては紙の貼箱入りが見あたらず、塩ビのプラケースもしくはビニール皮ケースしか見たことがありませんので、おそらくすべてのNo.274はW刻印の昭和47年からZ刻印の昭和50年まで製造が行われたということなのでしょう。ということは、おそらく何らかの理由でNo.264の製造を昭和47年の半ばでNo.274に切り替えたことになります。その理由とは、確証が得られてはいませんが計算尺の需要が急速に落ち込み、製造ラインを整理するため、No.250などのナローモデルの新規製造を終了にして、竹製両面尺の継続生産はNo.255D/259Dなどのワイドボディーだけを残したため、ほぼ工業高校特納品であるNo.264は、やむを得ずワイド化してNo.251のレイアウトに近いNo.274にモデルチェンジし、製造を継続したという事なのでしょう。そうでもなければこのようなつまらないモデルチェンジの意味を見いだすことが困難です。
 大阪の高槻から届いたNo.274はヘンミ計算尺最末期の製造である昭和50年「Z」刻印を密かに期待していたのですが、製造刻印は「YB」ですから昭和49年2月の製造でした。年代からしても当然の事ながら両面計算尺用のブロー成形の青蓋プラケース入りです。計算尺末期の製造でもあり、工業高校特納ということで短い高校時代のみの使用期間という理由もあったのでしょうが、中のビニール袋も残った状態で殆ど使用されていないきれいな個体でした。但し固定尺側面にローマ字で個人名がきれいに刻印されていました。大阪方面から入手したいかにも工業高校で使用されたような計算尺にはたまにこういうきれいな記名刻印入りが出てきますが、新学期を前に記名サービスする納入業者もしくは文具店があったようです。
Hemmi274

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March 12, 2009

度量衡換算器(PAT.136565)昭和3年

 国の定める度量衡の単位をメトリックと定めた改正度量衡法が大正10年に交付され、段階的にすべての単位はメトリックを基本とすることになり、生活に尺貫法が刻みつけられていた日本では一種のパニックが起こったようです。そのため、このような単位換算器やメートル法への換算法関連の書籍が昭和一桁代に雨後の竹の子のように多数出現しました。この手の単位換算器は紙の印刷物から金属の円盤型まで各種つくられ、特許も多数出願されたなかで、今回の換算尺は実際に特許が降りた数少ない換算器です。とはいえ単位の換算のみに特化した計算尺は19世紀の中頃から19世紀末にかけてヨーロッパではありとあらゆるものが作られ、果たして大正末から昭和の初めに矢継ぎ早に実用新案を出願された各種換算尺も実際に特許が下りた物はほんの一握りだったようです。
 この換算尺は昭和3年に荒木二郎という人の考案により実用新案が出願された「度量衡換算器」という商品で、昭和4年の9月21日に早くも特許136565が下りたものです。滑尺が二本というスタイルが目を引きますが、この手の滑尺を二本備える換算尺はヨーロッパでは普通の存在でしたので、おそらくこの特許はブリキのプレス製という構造面をあわせたものだったのではないでしょうか。年に一、二本はオクに登場する換算尺ですが、出品者が殆どの場合、商品名も用途もわからないまま出品してしまうため、計算尺マニアの検索に引っかかることもまれで、従ってさほど値段がつり上がることもない計算尺です。滑尺が2本という猫又計算尺ですが、特殊計算尺研究所のバネ計算尺のような複雑な物ではなく、単に換算種類を増やすために片面計算尺を上下に並べたようなものです。比例計算が主体となりますので、カーソルは最初から付いていません。いわゆる8インチ計算尺(正確には有効長21.2cm)で、これはもしかすると「教科書サイズからはみ出さない」ことをHEMMIのNo.2640以前に考えた結論だったかもしれません。そうなると「元祖8インチ計算尺」かもしれませんが、何せ知名度がまったくありませんし換算尺ということで、8インチ計算尺の嚆矢をHEMMI No.2640に譲ってしまったのかもしれません。尺種類は、鯨尺[メートル尺,メートル尺] 曲尺,貫匁,[キログラム,リットル] 合升斗の8尺で、構造上滑尺を裏返すことができないので滑尺裏はなし。本体裏側は各種単位の換算テーブルになっています。面白いことに尺に刻まれている目盛はすべてリバースに数字が刻まれています。特別に立派なケースが付属していたわけではないらしく、いままで目にしてきたものはすべてケースがありませんでした。
 出所は大阪の交野市からで、出品者のおじいさんの持ち物だったということです。昭和一桁代にあった尺貫法からメトリックへの移行パニックの話を出品者に申し上げると、時代に必死についていこうとしたおじいさんの姿勢を想像して偉く感動したとのことでした。とはいえそういう感動の品物を500円で他人に売り渡してしまうのは現代的な感覚なのでしょうか(笑)届いてみて初めてわかったのですが、この度量衡換算器には特許取得を境に刻印違いの前期型と後期型が存在しているようで、今回入手したものは特許が下りる前の「新案特許」と刻印(実際の目盛などは印刷)されたもので、表面右の換算単位部分の刻印も異なります。特許が下りたのが昭和4年の9月ということなので、それ以前の前期型になります。目盛が消えないように表面に透明ラッカーを施してあったらしく、このラッカーが80年の歳月ですっかり黄変しカーキというか旧陸軍軍用品みたいな色をしていますが、元々の色はクリーム色だったのでしょう。薄いブリキの板を立体的な計算尺に仕立てるプレス技法は秀逸で、おそらくこの構造が独創的ということで特許が下りたのかもしれませんが、薄板を計算尺に仕立てる工夫は戦後のジュラ期ににわかに出現した「OZI DELTA計算尺」に通じるものがあります。
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February 04, 2009

J.HEMMI No.6 5インチポケット型計算尺

 おそらくこの手の戦前HEMMI計算尺であれば日本一のコレクターであるHEMMI FANことvoola氏の守備範囲に土足で踏み込む昭和初年のJ.HEMMI時代の5インチNo.6です。J.HEMMI時代の10インチ以外の計算尺といえばNo.14しか持っておらず、過渡期のフレームレスカーソルが付属したものも欠落していたので、入手できたのはラッキー以外の何物でもありません。形態的にはスケール部分にも剥がれ止めの鋲が付くタイプですが、カーソルに金属フレームがなく分厚いカーソルグラスが樹脂のカーソルバーに直接ねじ留めされているタイプです。ケースはフラップがまだ短いタイプの物が付属しています。
 このJ.HEMMI No.6の持ち主は何と海軍軍医で終戦時の階級が軍医大佐です。軍歴からすると大正の末期、医大卒業後に軍医中尉を任官し、築地の軍医学校で海軍軍人たる教育を受け、艦隊に配属というのが海軍軍医のコースですから、おそらくこの時代に買い求めたものだと思われます。実際に軍艦の中で使用されたという話でしたが、終戦時に軍医大佐というとおそらく艦隊の軍医長、海軍省医務局の課長もしくは海軍病院の院長クラスの階級です。持ち主は太平洋戦争時には主に陸上勤務だったと想像していますが、空襲等には遭遇したとしても、艦で戦火をかいくぐらなかったおかげで昭和初期の計算尺がそのまま残ってくれたのでしょう。ちなみに戦中に存在した臨床医の速成を目的とした帝大系医学部付属の医学専門部卒業生は軍医少尉として任官し、海軍軍医学校で教育を受けたようです。戦前は軍医というと帝大医学部出身者よりも国立私立の医科専門学校出身者の方が圧倒的に多かったのでしょう。帝大出の医師などは家が貧乏で研究生活の援助がまったく受けられないような状況を除けば軍医の道など歯牙にも掛けなかったかもしれません。軍医の世界では帝大医学部出身者も医学専門学校出身者も差別は殆どなかったようですが、陸の上の医学界では特に戦時中の医学専門部で大量に養成された医学専門部出身の医師に対しては歴然とした格差が生じていたようです。手塚治虫が大阪帝大医学部の出身ではなく旧制中学を卒業して進学した大阪帝大医学部付属医科専門部出身であることはよく知られています。医学部では教授の授業が行われていたのに対して、医学専門部では講師が授業を行っていたなどともいわれていますが、戦後は新制大学に変わり医科専門部も廃止されたため、医学部出身者も医学専門部出身者も「同一大学出身者」となり、わざわざ「旧医学専門部出身」などとカミングアウトするお医者さんも少なかったのでしょう。そういえば薬害エイズ事件の被告となった安部英・元帝京大学副学長は昭和16年に東京帝大医学部を卒業の後海軍軍医となり、軍医大尉で終戦を迎えた後に東京帝大に戻っていますが、同窓生からは「優秀な医学生ならば当然、軍医なんかにはならずに大学に残っていたはずだ」などと陰口を叩かれていたという話を聞きましたが…。
 海軍軍医で話は脱線しましたが、このNo.6は大正末から昭和の4年頃までの短時間の間にNo.1系統やNo.3系統と同様にカーソルや裏セルの有無ならびに目盛に至るまで細かい部分でのマイナーチェンジを繰り返しています。No.6は大正初期からNo.1と平行して製造されたようですが、当初はNo.1同様にアルミの四角いカーソルが付属していたようです。PAT.51788によるフルフレームカーソルに大正10年頃から変わり、昭和に入ってからフレームレスカーソルにモデルチェンジしたようです。また、昭和期に入ると目盛が馬の歯形から櫛形に、尺にA,B,C,D,の尺種類が刻まれ、副カーソル線窓がオーバルから「⊃⊂」に。さらに裏側にも白いセルが平貼りになったものがJ.HEMMI時代の最終型 No.6のようです。世には逆Cカーソル(A型カーソル)が付属したNo.6がありますが、そういうモデルがあったのか、樹脂カーソルバーが崩壊して後にA型カーソルに換装されてしまったのかは定かではありません。今回入手したNo.6は部品が交換されていない全くのオリジナルのようで、スケール部分にも鋲留めがあり、目盛は馬の歯形。裏が竹のむき出しでカーソルはフレームレス。副カーソル線窓はオーバルでケースのフラップは短いタイプなので、おそらく昭和に年号が変わった前後の製造でしょう。ケース裏側に創業30周年の口上が貼られており、このシールが貼られていた期間もごくごく短かったようです。同様のシールは10インチ尺に於いてはボール紙の外箱に貼られていたようです。さすがに軍医ともなると職務上は普通の技師より計算尺の利用など限られてくるのでしょうが、このケースのきれいさは秀逸です。おそらく私物の将校行李の中にでもしまい込まれたままだったのでしょうか…。ゲージマークは同時代の10インチ尺より省略され、A,B,C,D,尺にそれぞれ刻まれたπのみです。時代が少し下るとJ.HEMMI No.6と型番は同じでも10インチ尺同様にC,C1,M,および左右の位取り指示などのマークが追加され副カーソル線窓も「⊃⊂」に変わりました。No.6は後に練習用計算尺のNo.48にモデルチェンジしたと言われていますが。構造的にはNo.48は薄型で裏板が金属板のみで上下固定尺を止めている、また副カーソル線窓が一カ所などという違いがあり、無理に後継者指名しなくともいいような(笑)
Jhemmi_no6

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January 30, 2009

HEMMI No.47 10"練習用計算尺(メトリックスケール)

 J.HEMMI時代末期のNo.1/1のデザインをほぼそのまま取り込んだ10インチ初心者練習用計算尺 No.47は、さすがに戦後には継承されなかった計算尺ゆえに、数が残っていそうで実際にはあまり出てこない計算尺の一つです。以前、形式名の入っていないNo.47を入手していましたが、今回たまたま型式入りのNo.47が出てきて思わず2本目のNo.47を入手してしまいました。このNO.47には何故か昭和37年発行のヘンミ両面計算尺の使用説明書がおまけに付いていまして、個人的にはどっちが主でどっちが従なのかわかりませんが野口先生1枚で入手したものです。前回「なぜ刻印が2種類存在するのかがわからない」と書きましたが、前回入手したものの上部スケールがインチで、今回入手したものがメトリックなため、どうやら「インチスケールのものには形式名がなく、メトリックスケールのものには形式名がある」という法則が成り立つようです。インチスケールのものに形式名が入らない理由は輸出用として上部にTHE FREDERICK POST CO.の名前が刻印され、POST 1449Tの形式名が付加されるためでしょうね。国内にインチスケールとメトリックのものがカタログ上、区別されて併売された様子はありませんが、戦前のものは他の型式も含めて国内からインチスケールのものが出てきますので、あまりこだわらずにそのときに生産されたものを双方の区別無く国内に出荷していたのかもしれません。またその当時の国内でも、機械技術の世界ではヤードポンドのほうがまだまだ幅を利かせていましたので、インチスケールの方が好まれたケースもあったのかもしれません。
 入手先は奈良の橿原市で、以前この近辺からは結構きれいなNo.50/1を入手しています。刻印違いの双方を実体顕微鏡まで使って何か相違が無いかと思って鵜の目鷹の目で捜してみますと、目盛の密度や種類にはまったく差がありませんが、唯一インチスケールのものは、目盛がゲージマークや数字を貫通している(全般的に長い)のに対してメトリックのものは寸留めになっているという相違が認められました。おそらく目盛加工の原版自体が異なるのでしょう。ところで輸出版のPOST 1449Tですが、この初期のモデルNo.1449は"SUN" HEMMI時代に入ってからのNo.1/1に他ならないのです。その形式名1449におそらく「Thin」のTを付けたものがNo.1449TすなわちNo.47ということらしく、アメリカのコレクターが言う「No.1/1のモデルチェンジ版がNo.47である」という根拠はここいらにあるようなのですが、これはあくまでもFREDERICK POST側の事情ですからヘンミ計算尺の側としてはあくまでも40番台練習用モデルでしょうね(笑)
Hemmi47
 メトリックとインチのスケール違いのNo.47
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January 29, 2009

HEMMI No.86K 6"電気用計算尺

 昨年末にIDEAL RELAY時代のNo.601を入手したのが6インチ計算尺としては最初の一本になりましたが、類は友を呼ぶというわけでもないのでしょうがタイミング良く2本目の6インチ計算尺を入手しました。それもなぜか今まで殆ど見たこともない昭和30年代のHEMMI6インチ電気用計算尺No.86Kです。昭和40年代まで作られていたはずなのにまるでお化けみたいな存在で、めったに遭遇することがないため今回初めて現物を目にすることが出来ました。このNo.86Kは戦前のNo.80の6インチ縮小版であるNo.86/3が戦後の昭和25年末に下固定尺側面にK尺を加えたNo.86/3Kを経て、最終的にNo.80Kの6インチ縮小版であるNo.86Kに生まれ変わるわけです。戦後型のNo.86/3Kは戦前の電気尺同様に滑尺溝部分にモーターの効率および電圧降下を計算する尺が刻まれていて、滑尺のインジケータで目盛を読むために、滑尺が上下の固定尺より短いという外見上の特徴がありましたが、10インチのNo.80Kの方は最初からNo.2664やNo.64と共通のボディとなったため、この6インチのNo.86Kもモーター効率および電圧降下尺が表面に移動し、滑尺も上下固定尺と等長となっています。しかし、なぜ戦前のNo.86/3の下固定尺側面にK尺を刻んだNo.86/3Kが戦後のごく短期間に発売される理由があったのかは一つの謎です。このNo86/3Kは戦前No.80/3同様に滑尺裏のSINはA,B,尺目盛で、L尺T尺はC,D,尺で読むタイプで、副カーソル線を刻んだ透明セルロイドも嵌っていない旧態依然のシロモノです。また戦後のNo.86/3KはA,B,尺の延長部分が戦前No.80/3同様に0.785から、C,D,尺は0.890スタートとなっていますが、入手したNo.86Kは通常型のNo.80K同様に0.8と0.9スタートの延長目盛です。この6インチNo.86Kにも延長目盛の違いで2種類が存在するかどうかはサンプルが少なすぎて把握していません。
 10インチのNo.80Kもさほど見かけない存在であるのに輪をかけてNo.86Kは虱潰しに捜しても見つからない計算尺です。その理由は戦前は電気技術の専門家以外にもNo.80/3が使われたためか、今でもNo.80というと戦前尺のほうを多く見かけますが、戦後は専用計算尺の種類も増えたため、相対的にNo.80系統のシェアが激減したことにありそうです。しかもアメリカ人技師は10インチの計算尺を皮ケースごと腰にぶら下げて歩くのがごく普通でしたから、ましてグローバルスタンダードから外れる6インチの電気尺の需要がアメリカで旺盛だったとも考えられません。そのため、6インチ電気尺のNo.86Kの生産数がそもそも当初から少なかったのでしょう。
 尺種類は10インチのNo.80とまったく同じで、表面がE,F,A,[B,CI,C,]D,LL2,LL3で側面にK尺を刻み、滑尺裏はS,L,T,尺です。目盛密度が10インチ尺と同一で省略がないため、拡大レンズ無しの裸眼ではいささか厳しい感じですが、戦前のように拡大レンズ付きのバージョンは発売されなかったようです。カーソルは円の断面積と出力換算のための補助カーソル線付き3本線で、側面にK尺が刻まれたため透明セルロイドで出来たインジケーターが付く専用品になります。なお、K尺は目盛が込み入ったことが原因で10,100,1000の0がすべて省略されて1,1,1と刻まれているのが10インチ尺と異なります。
 入手先は、あの特殊計算尺研究所がバネ計算尺を生んだ群馬の桐生市からでした。昔から機業が盛んだった事から発展した機械工業・自動車部品工業の町だけありこのような計算尺の需要も旺盛だったのでしょう。おまけに金園社版村上次朗の「計算尺の使い方」と何故かNo.255D/275Dの短冊形説明書が付いていました(^_^;) 刻印は「JJ」ですから昭和34年10月製。箱はスモールロゴの緑貼箱ですが、刻印が10インチ用と変わらないので6インチ用の貼箱に箔押しすると殆ど上蓋の大半がロゴマークに埋め尽くされるような感じです。箱はセロハンテープで巻かれたボロでしたが、中身は反りも隙間もない上の部類でした。
Hemmi_no86k

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January 28, 2009

RELAY No.152 技術用計算尺

 RELAY/RICOHの150番台が付番された両面計算尺で155番台以降の特殊計算尺を除くと唯一LOGLOG尺を持たないのがこのNo.152になります。ダブルスターRELAY時代の品番がDT-1005で輸出されていましたが、後に輸出用の品番も国内向けと同様にNo.152に統一されました。当時のRELAY計算尺はその殆どがHEMMI計算尺の亜流ですが、このNo.152が参考にしたモデルはHEMMIのNo.250であることは確かなのですが、いちおうは技術用のポジションであったようで、HEMMIのNo.250と異なり表面のCF,DF尺はπ切断ずらしになっています。このNo.152はRICOHの刻印が付いたものをまったく見かけませんが、それというのもRELAY刻印の時代に上下固定尺等長のNo.252にモデルチェンジしてフェードアウトしてしまったからのようです。そのためRICOH時代まで生産が続いた他の150番台LOGLOG尺に比べるとかなりレアな計算尺です。今回入手したNo.152は製造刻印が「I.S-2」ですから昭和35年2月の佐賀製ですが、以前から所持しているNo.252が「I.S-4」で昭和35年4月の佐賀製ですからこの間に製造がNo.252にシフトしてしまったのでしょうか?そのNo.252にしてもRICOH刻印の赤蓋肌色貼箱入り及び透明塩ビケース入りのものはしばしば見かける計算尺ですが、RELAY刻印のNo.252は殆ど見かけません。当時は国内向けより輸出の方が忙しかった為にあまり国内販売に力が入っていなかったのかもしれませんね。
 今回のRELAY No.152の入手先は滋賀県の草津市でしたってKIMさんの地元じゃないの?(^_^;) RELAY/RICOH両面計算尺のカーソルは終末期まで大まかに4回ほどモデルチェンジを繰り返していますが、このNo.152にはカーソルバーが横に張り出していない最初のフレームレスカーソルが付いていました。というよりもNo.252に取って代わったのだとするとこの四角いフレームレスカーソル以外には存在しないのでしょう。表面はDF,[CF,CIF,CI,C,]D,L,の7尺でDF,CF尺はπ切断ずらし。裏面はK,A,[B,S,ST,T,C,]D,DIの9尺の合計16尺です。モデルチェンジ版のNo.252の裏面の内容は若干異なりK,A,[B,T1,T2,ST,S,]D,DIの9尺です。モデルチェンジ版のRELAY No.256が裏面のみでC尺D尺を使った計算が出来なくなったのはむしろHEMMIのNo.250に近づいたような感じですが、HEMMIのNo.250は三角関数尺が逆尺ですが、RELAYはNo.152もNo.252も三角関数尺はすべて順尺だという違いがあります。No.152は逆尺のロゴと数字のみが赤で刻まれていますが、No.252のほうは逆尺は目盛まですべて赤で刻まれています。ところがNo.252に限っていうと、RELAY時代のNo.252は表面CIF尺CI尺並びに裏面DI尺が目盛まで赤で刻まれていますが、RICOH時代のNo.252は目盛まで赤で刻まれているのはCIF尺だけという違いがあるようです。この計算尺に装着されているRELAYでも初期型のカーソルは不都合なことが一点だけあり、それはネジの構造上、上下のカーソルグラスを基線に合わせて微調整することが出来ない実質的には固定タイプなのです。幸いにも上下のカーソル線が狂っているということはありませんでしたが、コストダウンのためカーソルバーにナットを埋め込む工作を嫌って下から差し込まれるピン状の袋ナットを上からのネジの受けにするという構造にしたのでしょう。後のRELAY/RICOHの計算尺が大型化したのはネジ受けのナットを埋め込んで上下のカーソルグラスが独立して調整できるようにしたからに他なりません。
Relay152

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January 27, 2009

HEMMI No.259 機械技術用(後期型 KK刻印)

 機械技術用の両面計算尺で、実質的に標準モデルとなると誰しもNo.259Dを連想すると思われます。このNo.259Dは昭和40年代に他の両面計算尺と比べてもかなり大量に使われたようで、今でも常にオク上には一本は出品されていますが、人気が非常に高く中古のものでもかなり高価に落札されています。ところが、Dの付かないNo.259はNo.259Dに比べるとかなりの少数派です。これは電気用のNo.255DとNo.255においても言えることですが、昭和20年代後半から昭和30年代中期においては両面計算尺の売価というものが物価に比較すると高価で、まだまだ個人で気軽に購入出来るような物ではなかったのでしょう。それが池田内閣の所得倍増ではありませんが個人所得の増大とともに、もはや昭和40年代に入ってからの両面計算尺は「清水の舞台から飛び降りる」思いで買うような高額商品ではなく、個人でも購入できる範囲の計算ツールと化しましたので、このあたりが「20年代30年代の両面計算尺は数が少なく、40年代の両面計算尺はそれに比べるとかなり多い」という理由なのかもしれません。
 昭和26年に他の新系列の計算尺とともに発売されたNo.259機械技術用計算尺は昭和39年末に製造されたDI尺追加のNo.259Dにマイナーチェンジするまでの約14年間に型番はそのままで恐ろしく見かけが異なる物が2種類発売されています。発売当初から昭和32年の「H」刻印のものまでは表面がL,K,DF,[CF,CIF,CI,C,]D,LL0,LL/0,の10尺、裏面がLL/1,LL/2,LL/3,A,[B,T,S,ST,C,]D,LL3,LL2,LL1,の13尺ですが、昭和33年「I」刻印からはLL尺が表面に移動し、表面がLL/1,LL/2,LL/3,DF,[CF,CIF,CI,C,D,LL3,LL2,LL1,の12尺で裏面がL,K,A,[B,T,S,ST,C,]D,LL0,LL/0の11尺です。この後期型のLOG尺を表面に配置するデザインは、以後254Wなどの学生用両面尺も含めて「ログログデュープレックスの標準レイアウト」となりました。また、後のNo.259DはNo.259の後期型裏面にDI尺を加えたマイナーチェンジ版になります。
 前期型のNo.259は「HC」刻印のものを、No.259Dは「WA」刻印の物を入手していましたが、今回後期型のNo.259を入手したことで、No.259機械技術用計算尺の3つのバリエーションがすべて揃ったことになります。今回入手したNo.259の入手先は山形県の新庄市で、製造刻印は「KK」ですから昭和35年の11月製です。殆ど使用されずにしまい込まれたものらしく、ケースはたばこのヤニでコートされていましたが、中身は竹の両端もきれいでクリーニングだけでほぼ新品同様になりました。緑の貼箱は後期のラージロゴなのですが、本体に装着されていたカーソルはバネが両端2点で接触する前期型となります。このカーソルバネの形状変更はもっと以前に行われていたと想像していましたが、昭和35年末でも旧タイプのものが使用されていたとは知りませんでした。またNo.259の20インチ版であるNo.279にも尺のレイアウトが異なる前期型と後期型がある他にDI尺が加わったNo.279Dの3種類がありますが、こちらの方を三種類とも入手するのは相当困難が伴いそうです。なにせ20インチ両面の機械技術用計算尺はオクでも2万を下ることはありませんので、これは他の人にお任せしましょう(笑)そもそも20インチの両面尺なんぞ、辛うじて電気用のNo.275Dを一本持っているだけですし(^_^;)
Hemmi259
 HEMMI No.259前期型(HC刻印)とHEMMI No.259後期型(KK刻印)の表面比較
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December 27, 2008

RICOH ALEXの変種

 昭和40年頃から続いているという石垣島の金物屋からミニ計算器のアレックスが複数個発掘され、それがオクで300円即決で出品されたため、アレックスはすでに一個持っているのにも係わらず即刻で落札してしまいました。もっとも各桁に花模様で万や千などの桁単位シールが貼られており、このパターンのアレックスは初めて見たという事情もあったのですが…。このアレックスに関しましては数々の変種が知られておりますが、大まかには加減の切り替えとリセットのレバー形状が異なる前期型と後期型の2種があります。RICOHのマークが入った後期型が欲しかったところですが石垣島からやってきたアレックスは前期型でした。説明書と沖縄県内の総販売元である日本総業という会社のペラが入っていましたが、このアレックスはどうやら沖縄県内にあっては主に訪問販売によって売られたようです。この日本総業という会社は現在の設備管理やゲルマニウム枕の同名2社とはまったく異なる怪しげな会社のようで、この沖縄事業本部というのがアパートの一室という不自然さ(笑)「宣伝販売員募集中。主婦・アルバイトの方もどうぞ」とのことで、彼らのマージンを十分得るためか、本土ではたかだか500円程度で売られた計算器が何と1,300円で販売されていたようです。しかも「沖縄県」ということですから、本土復帰後の昭和47年5月以降に売られたということになり、本土ではすでにカシオミニを嚆矢とする低価格電卓戦争突入の時期になります。しかも、説明書を開いてみて何かおかしいと思ったら、「総発売元・リコー計器、製造元・明和製作所」の部分が切り取られていました(^_^;) また昭和47年以降に販売されていたのにもかかわらず前期型のアレックスだというのもおかしいと思いましたが、どうやら後期型のアレックスは「RICOH」のマークがしっかり刻まれましたので、あえて前期型のアレックスをかき集めたような感じです。どうやら本土では低価格電卓出現でもう決定的に売れなくなった手動加算器を本土復帰直後の沖縄ならまだ売れるだろうと本土で在庫を買いたたき、製造元を不詳にするため前期型だけをかき集めて説明書の一部を切り取り、かわりに自分のところのペラを一枚入れたのかもしれません。その販売方法というのも応募してきた宣伝販売員にある程度の数を押しつけ、在庫が捌けたら事務所ごと消え去るという手法だったのかもしれません。いくら情報の少なかった沖縄とはいえ、本土で売れ残った物がどんどん売れるわけはなく、石垣島からまとめて何個も発掘されるということになったのでしょう。でもまあ、アレックスがどうしてもほしかった計算器マニアにとっては朗報でした。

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December 05, 2008

計算尺の裏板交換に挑戦!

 戦前から戦時中にかけてのHEMMI計算尺やRelayの計算尺に多く見られる欠陥が裏の金属板の腐食です。特に昭和10年以降のHEMMI計算尺の裏板で表面に灰色のアルマイトがかけてあるものは、裏板の厚さが0.3ミリと極薄の素材が使用されており、このアルミ板を本体に取り付ける鋲が貫通することにより表面のアルマイトと内部のアルミ素地に一種の金属電池を形成し、湿気に長期間曝されるとじわじわと電気分解を起こすために、長期間使用されずにそのままケースに入れられてしまい込まれた物は殆どといっていいほど腐食が始まっています。特に竹部分に挟み込まれている端の部分から腐食が始まるため、分解したアルミが酸素と結合して体積が膨張し、溝の部分を押し上げるため、溝にゆがみを来してしまうことが多く、さらに腐食が均等におこるわけではないため、溝が何カ所も押し広げられてしまったものを多く見かけます。そうなった計算尺をそのまま放置するか、手を加えるかは考え方が分かれるでしょうが、当方は剥がれたセルはジャンクの計算尺から皮膚移植し、割れたり喪失したカーソルグラスは入れ歯を作って補修するのを主義とするため、この裏板腐食問題も新たな物を作って交換しようという「再生派」です。Photo
 用意した裏板腐食の計算尺は改良A型カーソル付きの、おそらく戦時中のNo.50/1です。このNo.50/1は裏板の無いことをまったく知らずに掴まされたシロモノで、このナローボディのNo.50/1はそうそう頻繁に見かける物ではないので、いつか裏板を交換する第一候補となっていたものです。用意したアルミ板は長辺がちょうど10X30センチで厚さが0.5mmのもので、近所のDIY店で300円ほどでした。この長さなら戦後のNo.2664Sクラスのボディでも十分な長さです。腐食した裏板の厚さは0.3mmですが、この厚さでは心許ないため、戦後ものの0.5mmとしたものです。幅26mmにけがきをしてPカッターでみぞを入れ、あて板をしてL字に少しずつ折り込み、逆にあて板をして反対側に折り込むと割と簡単にかつ切断面もきれいに切り出す事が出来ました。1.5センチほど長さを短くしてこの状態で本来の溝にはめ込んでみますが、残っていた鋲の頭が引っかかったり裏板の寸法が微妙に大きかったりヤスリ一本で修正を迫られました。やっとはまりこんだ裏板の補助カーソル線窓⊃字加工ですが、電動ルーターなんかがあれば簡単に出来そうな物の、そんなものは持っていませんので無謀にも半丸ヤスリ一本で手仕上げすることになりました。裏板を本体にあてがい、⊃字の削り代をマジックインキで黒く塗りつぶし、切削範囲を決めました。しかる後、裏板をバイスに固定し、ヤスリで黒い部分を削っていきますが、けっこう手間の掛かる根気のいる仕事で、こんなの他人の為だったらお金を貰っても引き合いませんね(^_^;) 黒く印を施した部分を削り取り、カーソル線が刻まれた樹脂板の範囲まで2ミリと見積もり、赤で範囲を決めてさらにヤスリで削っていきます。もう0.5ミリ削りたい箇所があったのですが、何度も本体からの抜き差しすることが困難なため、今回はこれでギブアップ(笑)本体への鋲打ちですが、元の鋲を抜くことは実質上無理で、鋲をさらう事もボール盤でもなければ困難です。そのため、元の鋲位置から2ミリほどオフセットさせた位置に鋲を打ち直して裏板を固定することにしました。ホームセンターで一番細くて短い釘は太さ0.9mmで長さ6mmのものでしたので、これを購入してきました。裏板の鋲打ち込み位置にポンチで印を打っていきます。この場所に釘を打ち込み、頭をニッパーでさらってさらにピンポンチを使って片側8箇所合計で16箇所の鋲打ちが完成し、裏板の固定完了です。出来映えは初めての裏板交換の割にはまあまあの出来なのですが、腐食した裏板が膨張して波打った溝を修正しようと、下半分を金属製のバットの中で煮て、ポケットバイスを何カ所もかけて溝の膨らみ修正を試みたときに裏側に向かって反りが出てしまい、溝は修正出来たものの反りのため表側滑尺との真ん中あたりの接触面に隙間が出てしまったのが失敗でした。今度は「反り修正器」を作って修正を試みましょう。そういえばこの昭和10年代のNo.50/1はそうでなくとも直角断面の下側固定尺に反りが出やすいらしく、後で入手したA型カーソル付きで裏板は腐食がないNo.50/1も鋭角断面の上固定尺は何でもないのに下側の固定尺には同じように僅かに反りが出ていました。どうもサイズと構造に問題があるらしく、戦後になってNo.2664と同じワイドボディにモデルチェンジしてNo.50Wになったのはこういう問題の克服という理由もあったのかもしれません。

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December 03, 2008

IDEAL RELAY No.601 6インチ技術用計算尺

 6インチの計算尺というのはどうもポケットサイズとするには中途半端なサイズからか、あまり多くの種類を作らなかった計算尺のようです。欧米では標準10インチ尺に対してポケット尺は5インチと相場が決まっており、日本ではそれに4インチも加わった5インチとの混成軍を形成してました。それでもHEMMIは戦前から50系マンハイム、60系リッツ、80系エレクトロ、90系スタジアにそれぞれ6インチのラインナップを揃え、戦後発売の130系ダルムスタッドにも6インチを用意するなど、けっこう6インチの計算尺にはこだわっていたようですが、そもそも全世界的に見ても6インチの計算尺というのは殆ど見かけません。6インチ計算尺のメリットというのは、どうやら10インチの目盛細密度を実用上そのままにスケールダウン出来る下限の長さということでしょうか。一応ポケット尺として発売されてますので、その殆どが4,5インチのポケット尺同様に薄い構造の計算尺となっているものが多いようです。また世界的に見ても8インチ計算尺というのも小数派ですが、これは戦時中で物資逼迫期にあたり、旧制中学生用計算尺のNo.2640を10インチとせずに8インチと定め、材料を節約した事が、後々まで学生用計算尺が8インチとなった発端のようです。
 東洋特専興業時代ですから戦中戦後のRELAY計算尺にもちゃんと6インチの計算尺があったのは今回初めて知りました。この時代のRELAY計算尺は型式の刻印を打たずに裏側に型式名の入った楕円形のシールを貼ったようで、今回のRELAY計算尺は幸いなことにこのシールがしっかり残っていました。そのシールにはIDEAL RELAY No.601となっています。この「IDEAL RELAY」の商標は本体に刻まれないのであまり知られていませんが、少なくとも戦時中には使われていた商標らしく、以前に入手したRELAYの航空用計算尺に付いていたシールと同名異形式のシールです。このNo.601という計算尺は昭和34年のカタログには無く、代わりにNo.602という計算尺が掲載されています。また、6インチ電気尺のNo.605、6インチ両面計算尺のNO.650,651,652までありましたので、RELAYはある意味HEMMIよりも6インチ計算尺に固執していたのかもしれません。入手先は愛媛の今治でおそらく戦時中の物だと思われます。この当時のRELAY計算尺は東洋特専興業が製造元でしたが、その多くを親会社の理研光学の販売網に載せて全国にばらまいたらしく、東洋特専興業製造の刻印と理研光学発売の2種類の刻印がありながら、今残っているのは圧倒的に理研光学発売刻印の物が多いようです。当方の所有のものにも東洋特専興業製造刻印の物が一本もなく、なぜか理研光学発売刻印の物は4,5,6,10インチと8インチを除き各サイズが揃っていることを見ても、圧倒的に理研光学販売網で売られたもののほうが多そうです。物資逼迫時代のためか、ケースは皮サックではなくてステープルファイバーの表面を皮で模したHEMMIで言うところの代用革サックが付属しています。恐ろしいことにHEMMIではまったく知りませんが、戦争末期で金属が無くなったときにRELAYではカーソルのフレームまで竹に化けたことがあったようです。このNo.601は電気尺を除く後の600系と異なり、AB,CD尺の左右に延長尺を持ちます。しかし、L尺が滑尺裏でST尺が無いことからシステムリッツというわけでもありません。尺配置は表面がA,[C,CI,C,]D,Kの6尺、裏面がS,L,T,の3尺です。RELAYのポケット尺の大半がそうであるとおり、裏面の補助カーソル線窓は一カ所しか開いていません。このNo.601というのは当時売られていたHEMMIのNo.54という6インチ計算尺にオーバーレンジの存在も含めてそのままの丸コピー商品のようです。なぜか50系マンハイムタイプ計算尺の中にあってはこの拡大レンズカーソル付きのNo.54と普通カーソルのNo.55だけがオーバーレンジ付きで、これをそのままコピーしていますが、なぜ本家No.54,55だけにオーバーレンジが付いたのかは考えてもわかりません。HEMMI No.54はNo.47などと同様にその殆どをPOST 1453としてアメリカに渡っていますので、オーバーレンジがこの計算尺に存在する理由は、考えようによっては最初からPOSTの要求だったのかもしれません。
 四国の今治から届いたIDEAL RELAY No.601は皮サックではなく代用革サック入りでしたので、中に湿気をため込んで裏板がボロボロになるようなこともなく、保存状態は戦時尺にしては良好でした。代用革サックはもうこの戦争も末期にさしかかった時代はスフの薄布を重ねたものではなく「和紙に革もどきの紙を貼った紙サック」です。よくもこんなものが残っていたものですが、このケースだったら耐久性はともかく中の計算尺にとっては最良の保存ケースだったのでしょう。この6インチの計算尺は5インチ計算尺のように目盛密度を疎にしてしまうとまったく存在意義を失います。そのため10インチ計算尺同様に刻まれた目盛はさすがに6インチに凝縮されてしまうと判読しにくくなり、実質的に拡大レンズがないと苦しい感じですが、HEMMIが拡大レンズ付きのNo.54を標準としたのもその辺に理由があるのでしょう。ゲージマークはA,B尺上にπと1/πを表すMが存在し、C,D尺上にはC,π,C1のみです。6度以下84度以上の微少角を求めるための配慮が一切無いのはHEMMIの戦後型マンハイム尺No.50Wになっても変わりませんでしたが、そういう計算目的の為には最初からシステムリッツ尺を使えということでしょうか?そういえば同じ6インチのIDEAL RELAY No.600番台にちゃんとシステムリッツタイプの計算尺がありまして、こちらのほうは表面 K,A,[B,CI,C,]D,Lで裏面が S,S&T,T となっています。
Relay601

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November 30, 2008

HEMMI No.260 表面の書き込み

 江戸時代から石炭が採掘されてきた大牟田から荒尾にかけて鉱区が広がる三池炭田は官営を経て明治の中期に三井財閥の手に渡りますが、三池の石炭は炭質も埋蔵量も国内屈指の優良炭で、明治期から船舶などの燃料用として東南アジア方面にも輸出されてきました。明治末期にはほぼ陸上部分を掘り尽くし、有明海の海底部分に向かってどんどん採掘場所が延伸していきますが、我々の時代の社会科教科書などにも出てきたように、坑道が海底深く延びたことによって通気が悪くなり坑内温度が上昇して採掘環境が悪化したため、有明海に初島という人工島を築いて通気のための竪坑を構築したなどという話は良く知られています。その三池炭鉱は1950年代末期に「全国総労働対総資本の戦い」といわれるほどの壮絶なる労働争議を経て、保安管理の不備から多数の犠牲者を出した三川坑の炭塵爆発事故、有明坑の坑内火災などの大非常災害を起こし、平成の時代に入った1997年3月に採炭条件の悪化と海外炭との価格差により三井資本になってからも約110年を数える歴史に終止符を打ちました。当方、閉山三日前に最初で最後となる現役時代の三池炭鉱を訪れています。当時、坑内員は高田町の有明坑から入坑し、採掘した石炭は三川坑から坑外に搬出されており、三川坑側には貯炭場や船積み設備ならびにホッパーから石炭貨車に石炭が積み込まれ、それを凸型の電気機関車が牽引するという具合に炭鉱の設備が広がっていましたが、大牟田市内には明治期から残る多くの炭鉱遺跡が残ります。その殆どは採掘場所が有明海の遙か沖に延伸するに従い用済みとなったものです。また大牟田・荒尾の広大な範囲に炭鉱住宅が広がり、一部は周囲の主要坑口を半環状に結んだ三井鉱山専用線と支線でつながって坑員の通勤列車などが運行されていた時代もありました。また大牟田は炭鉱を中核とする三井グループの化学工場が広がっており、炭鉱亡き後の大牟田は宇部などと同様に化学工場が産業の中心をなしているようです。また、大牟田と荒尾は福岡県と熊本県と別な県に属しますが、市街地で切れ目無くつながっているために「他県の町」という感覚は住民でももっていないのではないでしょうか?その大牟田、正確には万田坑のあった荒尾市の万田からHEMMIのNo.260が転がり込んできました。HEMMIのNo.260は以前に茨城の竜ヶ崎から1本入手していますが、前回のものは刻印が固定尺側面に刻まれている初期型、今回のものは滑尺のちょうど金具で隠れる部分に刻まれた後期型です。どっちにしてもNo.259Dと同じボディにめいっぱい尺を詰め込んだことで型式刻印やトレードマークを入れる場所に苦労したようですが、刻印位置をあえて変える必要があったのかどうかは甚だ疑問です。そのおかげで計算尺コレクターという人種は、刻印違いのNo.260を両方とも集めなければならないのですから因果なものですが(笑)
 今回入手したNo.260は「SD」で昭和43年4月製です。前回入手したものが「RA」刻印で昭和42年1月製ですからこの間に刻印位置の変更が行われたようです。尺配置は表面がLL/1,LL/2,LL/3,DF,[CF,CIF,CI,C,]D,LL3,LL2,LL1の12尺、裏面がLL/0,LL0,K,A,[B,T,S,ST,C,]D,DI,P,Lの13尺の合計25尺です。No.259Dとの違いはP尺が加わったこととカーソルの裏面に副カーソル線を備える事ならびに尺の右側に数式が刻まれたことですが、DI尺が加わってNo.259がNo.259DになってからはさほどNO.260とNo.259Dとの機能差は無いはずです。価格差もさほど開いているわけではなく、それならば世の中にはNo.259DよりNo.260のほうが多く出回りそうなのですが、実際にはNo.259Dの数には到底かないそうもありません。ほんの何年か前まで在庫が取り寄せられた計算尺ですから希少価値はありませんが、中古でもNo.259Dほどは入手するチャンスの少ない計算尺です。製造初年は昭和39年のようで緑の貼箱入りですが、見かけるものは昭和41年以降の紺帯の入った模様貼箱のものが殆どです。また昭和47年3月製造からプラケース入りとなりましたが、プラケース入りのNo.260もあまり見かけることがありません。最終の製造は断定しきれませんが昭和49年1月製造の「YA」刻印のもののようです。またNo.260はRELAY/RICOHの高級両面計算尺、No.151の内容とほぼ同じで、No.151のほうが遙かに発売時期が古いのですが、露骨に延長尺部分までコピーしてオフサイズの計算尺を作ることをはばかったためか、No.255D/259Dなどと共通の本体を流用しています。そのため、横幅一杯に尺を並べざるを得なく、メーカー名型式刻印位置には最後まで苦労したのでしょうか。「RA」刻印のNo.260と「SD」刻印のNo.260の型式刻印の相違以外に何か違いが無いかと2本を並べて穴の開くほど観察したのですが、そもそも昭和30年代最末期に加わった新製品だけあって、目盛の切り方・刻印の書体ともにまったくと言っていいほど双方に相違は無いように感じます。
 万田からやってきたNo.260はいまならポケコンでプログラムを組んでしまうようなある種の定型業務をこなすことだけを目的に使われた計算尺らしく、その手順と計算式が表面にびっしりと書き込まれていました。まるで小泉八雲の耳なし芳一ではありませんが、このありがたい経文ではなく数式の書き込みが嫌われたのか、はたまた型式が不明だったからか、ほぼ野口先生1枚で入手した物です。書き込みはたとえ油性のサインペンで書かれようがきれいに消し去ることは出来るのですが、実際に届いてみると鉛筆書きでした。記録も取らずに消してしまうに忍びなく、スキャナで数式を取り込んでからメラミンフォームで磨くと跡形もなくきれいになりました。カーソルも分解してガラスの裏面も磨き、元に戻すと裏表のカーソル線が甚だしく合いません。No.260専用カーソルはカーソル線がオフセットして刻まれていることをすっかり忘れてました(^_^;)
 この数式ですが、当方、電気物理系の数式なら多少なりともわかりますが、力学的計算には疎いのでこの計算式のタイトルからどういう用途に使用されたのかわかる方がおられましたらご教授下さい。それにより大牟田の、どの会社のどんな部門で使用されたのかが特定できるかもしれません。しかし、これだけの目的にNo.260を使わなければいけなかった必要性が理解できませんが、会社の備品だったらとりあえず高級が付く技術用両面計算尺を要求したのでしょう(笑)
Hemmi_no260

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November 22, 2008

KEUFFEL & ESSER No.4083-1 10インチ両面型「DECITRIG」

 日本では外国製計算尺に過去、どれくらいの税率で関税を掛けていたかわかりませんが、おそらく外貨を獲得する優秀な輸出産業である計算尺製造業を保護するためにけっこう高額な輸入関税をかけていたのでしょう。さらに1ドル500円から360円の相場にレートが下がったとはいえ、輸入しても割高な外国製計算尺を売ろうとする業者がおらず、全くといっていいほど日本国内で外国製計算尺を見ることがないのは、至極当然の事です。ところが手動計算機や電動計算機に関しては戦後もスェーデン製のオドナーやコンテックス、ドイツ製のワルサーやアメリカ製のモンローなどが輸入されていますので、やはり機械式計算機は計算尺とは違って需要の増大を国内メーカーだけではまかないきれなかったのでしょうか。
 ドイツやアメリカの名だたる有名メーカー製計算尺が日本に輸入されなかったせいで、我々がこれらの優秀な計算尺を目にすることは希です。そのなかでもドイツのFABER CASTELLと並んで歴史・質・種類の3拍子揃った計算尺メーカーがアメリカのKEUFFEL & ESSER、通称 K & Eでしょうか。このKEUFFEL & ESSERはアメリカの量産計算尺メーカーとしては一番の古株で、その創業は1867年で日本では慶応三年ですからまだ幕末。ちょうど坂本龍馬が暗殺された年です。K & Eは当初から製図用品の製造販売ビジネスからスタートし、計算尺はその事業のなかでは小さな部門に過ぎなかったようです。それでも100年に近い計算尺製造の歴史を持ち、初期の木製計算尺から末期のプラ製計算尺まで多種多様な計算尺をリリースしてきました。昭和5年にHEMMIが最初に発売したユニバーサル両面型計算尺のNo.150は、 K & Eの4088の丸コピー商品で、HEMMIのその後の両面型計算尺のスタイルというのはすべてこのNo.150を踏襲しましたので、結局、終始一貫して K & Eの両面型計算尺のスタイルから抜け出せなかったということになります。また、片面計算尺にしても位取りのインジケーター付カーソルやフレームレスカーソルなど、初期のJ.HEMMI時代の計算尺もそのかなりの部分がドイツのA.W.FABERとともにK & Eの片面尺の影響を受けたことが伺えます。
 K & Eは日本におけるHEMMI計算尺のようにアメリカでは大量に使用された計算尺ですので、アメリカ本国には古いものから比較的に新しいプラスチックのものまで豊富に残っていますが、日本ではアメリカンアンティークの雑貨として紛れ込むか、もしくは進駐軍あたりから手に入れた技術屋さんあたりの放出でもなければお目に掛からない計算尺です。またK & Eのある年代の計算尺には、素材に起因する経年変化でカーソルバーがバラバラになるという「致命的な欠点」があり、今回入手したものも例外ではなく、カーソルグラスも片方が真っ二つで上下のカーソルバーはバラバラに崩壊していました。これを承知で「補修の練習用」として入手したもので、その分安くしてもらい、600円が入手金額です。届いたK & Eの両面計算尺のカーソルバーの風化ぶりは聞きしにまさる状態で、破片を指先でつぶすと白い粉に戻ってしまうくらいなのです。材質はフェノール樹脂のようなものかと思っていましたが、なんか白いクレーを糊で固めたのではないかと疑いたくなるくらいで、当然の事ながら当時の樹脂ですから石油製品であるエンジニアプラスチックの射出成型品ではなく、型に流し込んだ樹脂を加熱して固めたようなものなのでしょう。主要部分が欠落したカーソルバーは型取りしてレジンで複製するわけにもいかず、大まかな寸法は取れたので樹脂板を積層に接着して削りだし、いつか自作することにしましょう。片面のカーソルグラスが真っ二つでしたが、このカーソルグラスは厚みが2ミリを超え、さらに角がラウンドで上下の縁がフレーム枠にむかってテーパー状に削られているというPETで自作するにはとんでもなく手間の掛かる形状をしています。とりあえずHEMMIの古いNo.251のカーソルを合わせるとカーソルグラスの厚さの相違分だけガタがありますが、実用にはまったく差し支えがないのでしばらくはこのNo.251のカーソルを装着しておきます。そもそもヘンミがNo.152/153のユニバーサル型を発売するときにK & Eの両面計算尺の寸法をそのままコピーしたわけですから、No.153/251系のカーソルが合わないわけがありません(笑)
 今回入手したK & Eの両面計算尺は型式がNo.4081-3で、「DECITRIG」の愛称が付いたLOG LOG尺です。また5インチバージョンにNO.4081-1、20インチバージョンにNo.4081-5もあったようです。No.4081-3は戦前戦後と一貫して同じ形式名ながら尺配置が何回か変更になったようです。今回のものは表面に大きなK + Eマークがなく、シリアルナンバーが12万番台の製品ですから戦前の製品でしょう。ところがK & Eのシリアルナンバー付番は1924年に始まり、1から999,999が終了した時点で1にリセットするという方式を取っており、それが1975年の計算尺生産終了まで三回のリセットがあったそうです。一回目のリセットが1943年から1944年と言われていますので、その後の12万番台だとすると、戦中・戦後の微妙なところでの生産年代になるかもしれません(当時の生産は年間7万本といわれています)。表面がL,LL1,DF,[CF,CIF,CI,C,]D,LL3,LL2、裏面がLL0,LL00,A[B,T,ST,S,]D,DI,Kの20尺です。DF,CF尺はπ切断ずらしです。ナローボディですからだいたいこのあたりの尺を詰め込むのが限度ですが、非常に良くまとまっていて使いやすい両面尺だったからか、かなりの数が生産されたようで、K & Eの両面計算尺の最もよく残っているものの一つかもしれません。本体は竹製の両面計算尺よりも軽い木製で、おそらくマホガニーでしょう。木製ながら狂いが出ていないところも特筆されます。明るい茶皮のとても上質な皮ケースが付属していていましたが、さすがは馬具などの実用革製品が発達したアメリカ製だけあってとても日本ではこのようなクオリティの高いものは作れません。いまこんなものを作らせたらいったいいくらになるのでしょう?だたし中身は戦中の生産ですが、この皮ケースは戦後のもっと後のもののように感じます。しかし、この4081-3が大戦末期の製品だとすると、この系統の計算尺でVT信管から初期のジェットエンジンまで設計していたアメリカに対して、日本では戦時仕様の計算尺を使って専ら特攻兵器を設計していたのですから何か感慨深いものがあります。また、K & Eの4081-3は1962年に計算尺の型番が一斉に変更されたことにより 68-1220という型番に変更されています。
Ke40831
 カーソルはHEMMIの153/251用を装着
 KEUFFEL & ESSER No.4081-3 表面拡大画像はこちら
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November 21, 2008

POCKET CALCULATOR(ポケット計算機)

Mbcpocket ポケットカリキュレーターという非常にわかりやすい名前のスタイラス計算器ですが、クラフトワークの名曲と違い、どのボタンを押しても音楽は奏でませんから念のため。そもそもボタンらしきものは何にもありませんが(笑)会社の名前からしてポケット計算機株式会社という会社が昭和30年代の末に発売していたスタイラス式の加算機で、その名の通り小型でポケットに収納できる大きさの加算機ながら9桁の有効桁を有するものです。スタイラス式計算器は基本的には加算減算に特化していますが、国内では算盤があまりにも普及していたためにこの手のスタイラス式計算器が算盤を押しのけて普及する余地が無く、そのためその殆どはアメリカあたりに輸出することを目的として作られました。しかし、このポケットカリキュレーターは日本国内で本格的に普及させようとして競技会を開催するという案内が付いていて、一等の賞品は何とスバル360が一台当たるというのです。各地方で予選会を開いて、決勝大会は東京で交通費宿泊費も主催者負担で開催するというふれこみなのですが、「地方大会の出場者が100人以下の地区は開催を次年度に繰り延べ」などという但し書きが付いていますから、この計算機の売れ行きを考えるとおそらく東京を含めて競技会など一度も開催されないうちに会社ごと無くなってしまったのではないでしょうか?この競技会が実際に行われたかどうかご存じの方はご教授ください。このMBCの商標が付いたスタイラス計算機はドイツのADDIATORのような縦長のタイプも存在し、やはりアメリカあたりへの輸出がメインだったようですが、本格的に国内に普及させようとした意図が今ひとつわかりません。
 このスタイラス計算機の内部はラック(歯つきレール)が桁の数だけ並んだ単純な構造で、上に引いて操作する帰零レバーを備えます。歯車式加算器のように自動的に桁を繰り上がるような構造ではありません。たとえば3+8を計算しようとすると3は単純にスタイラスの先端で下端まで引くだけですが、このとき8のポジションは赤になっていますので、このときは8のポジションから逆に上端に引いて上端右の桁上がりポジションを下げると次桁が一桁上がり、表示窓に「11」を得るものです。減算は逆操作すればいいのですがこの「表示が白と赤のときには逆に引く」というお約束ごとだけ覚えておけば、それほど操作は難しくないと思います。いちおう乗除も出来るのですが、算盤での乗除同様に一桁ずつ操作してゆくので、その計算速度は計算尺の比ではありません。本体はプラスチックの成型部品をまったく使っていない単純なプレス部品により構成されている総金属製です。バネさえも一本も使われていない単純な構造で、おそらく町工場で作られた部品を内職のおばちゃんあたりが組み立てていたのではないでしょうか。川崎から届いたポケットカリキュレーターはよく無くなっている鉄製のスタイラスも残っていますし、例の競技大会の案内が記された説明書も残っていました。機構的には問題ないのですが、かなり使い込まれた個体で、内部には削れて生じたと思われる金属粉だらけで、あまつさえスタイラスを差し込むことによって出来る傷によりラックの赤表示部分が削れて白くなっています。とりあえず外側ケースの爪を起こして分解し、内部清掃とグリスアップを行うことにします。内部はリセットレバー、ラックのベースプレートとラックが9本という至極単純な構成で、ネジ一本さえありません。ラックはすべて同一形状の部品です。最初は赤がはげた部分を脱脂して焼付塗装してしまおうかと思いましたが、赤がはげて醜い部分は日常激しく使用された下3桁のラック3本に限るので、あまり使わない上3桁のものと交換することによって日常使用には差し支えないと考え、この3本を交換します。グリスアップしてラックの動きはスムースになったのですが、真ん中の桁のラックがリセットレバーを本体に戻す操作に連動して下がってしまうようになりました。あまりにもベースプレートとの摩擦が無くなってリセットレバーとの接点の摩擦のほうが大きくなったことが原因のようです。ベースプレートとラックのはまりこむ部分をラジオペンチで曲げ、意図的に摩擦を大きくしてリセットレバーのリリースと干渉しなくなりました。このスタイラス式計算機の操作具合ですが、う〜む流石に算盤の国に受け入れられなかった訳が実感できます。慣れれば計算速度も向上してくるのでしょうが、加算する数字がラックの赤表示か白表示を判断して上に引くか下に引くかの判断でタイムロスがどうしてもつきまとうため、どう熟練したとしてもその計算スピードは算盤の足下にも及びません。せめて自動的に桁の上がり下がりをしてくれれば少しは使い勝手は向上するのでしょうが…。MBCマークですが、これはどうもアメリカで大量に売られた「MAGIC BRAIN CALCULATOR」の略のようです。おそらくこのMAGIC BRAIN CALCURATORはアメリカ国内の登録商標らしく、かなり色々な形状のスタイラス計算機が発売されていましたが、このポケット計算機株式会社というのは古くからそのMAGIC BRAIN CALCULATORの製造供給元だったのでしょう。おそらくポケット計算機やポケットカリキュレーターの登録商標を取っていたのではないかと思われますが、今その商標は流れ流れてどこが持っているのでしょうか?そういえばラジコンやプラモデルというのも一般名称化していますが、れっきとした登録商標です。

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