January 27, 2012

カササギにアンテナを曲げられた!

 トマトの園芸用支柱を素材に使用した50メガ用2エレHB9CVアンテナを長年使用し続けていますが、この園芸用支柱は皮膜が紫外線劣化で2年も太陽に晒され続けるとヒビが入り、そこから雨水が浸入して中の鉄パイプを腐食し、大風が吹くと折れたりするために2年ごとに作り直さなければいけないという欠点がありますが、給電部を流用すればその交換コストはたったの数百円で済むために、今のアンテナは作り続けてもう3代目のトマト支柱アンテナになります。今年は交換の時期にあたるのですが、先日近所に住み着いているカササギという鳥がとまって、なんと給電部に使用している位相差ラインの銅線をくちばしでほじくり始めているではないですか…。このカササギという鳥は日本では佐賀平野とその周辺部および勇払原野でしか見ることが出来ない鳥のようです。どうも人為的に朝鮮半島から佐賀に持ち込まれたものが九州に定着したらしいのですが、なぜ北海道に定着して繁殖したのかはわかっていません。もちろん当方が子供の時にはそんな鳥はいませんでした。カラス目の鳥で九官鳥なんかの親戚ですが、カラスよりは一回り小さい体型で、おなかと羽の一部が白く、初めて庭にこのカササギが迷い込んできたときには突然変異の白黒のカラスかと思って我が目を疑いました。つい半年前くらいからつがいで近所のどこかに定住したらしく、まるでカラスのように近所のゴミを漁ってみたり、時には集団でないカラスを追いかけ回して空中戦を繰り広げることもあるようです。鳴き声は「かぁかぁ」ではなく「げっげっげ」とでもいうようなだみ声で、ちっともかわいくはありません。あめりかではこのカササギはカラス並の害鳥らしく、人間のゴミを漁って生活しているのが普通なんだとか。そういえば往年のアメリカのアニメ「ヘッケルとジャッケル」はカラスじゃなくてカササギなんだそうで。一歳にならないうちに買ってもらったらしいゼンマイ仕掛けのおもちゃがどこかに残っているはずです。そしてそのカササギがつがいでアンテナの端に乗っかったのか、アンテナエレメントの片側が下に折れ曲がってしまいました。とはいえ、カササギは稀少な存在だからか、あまり腹立たしくはありません。これがカラスだったらBB弾の雨を食らわせていたかもしれませんが(ウソです)。3月になったらEスポシーズンにあわせて新しいアンテナエレメントを作る事にしましょう。

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January 16, 2012

Bainbridge式炭鉱用安全燈(クラニー燈)

Bainbridge_2  このやたらと腰硝子が長くてガーゼメッシュが寸詰まりの安全燈はベインブリッジ安全燈といってあまり情報の多くない流通量も少ない安全燈ですが、形態的にはクラニー燈に属する旧式油灯安全燈です。一種の高輝度安全燈で油灯安全燈としてはやや幅広の平芯を使用し、大きな腰硝子を通して大きな炎の明かりを得るというものらしいです。この腰硝子がテーパー状になっているのが特徴的ですが、発明されたのが英国なのにもかかわらず、なぜかベルギーで多く製造され大陸側で主に使用された安全燈です。ボンネットがない形態が基本ですが、メタンが多い炭鉱のために丸型のボンネットを持ったベインブリッジ安全燈も存在したようです。年代的には1880年代のようで、まもなく炭鉱用安全燈の決定版、ウルフ揮発油燈が出現し、英国でも1887年の鉱山規則改正でこの手のクラニー燈が使用出来なくなったため、ほとんどベルギー国内のみで使用された形式の安全燈のようですが、なぜベルギーなのかはよくわかりません。また理由はわかりませんが少数がアメリカに渡ったようです。また今回のベインブリッジ安全燈はロックシステムがなぜかありませんでしたので、もしかしたらレプリカなんじゃないかと思いましたら、数少ない資料の記述によるとベルギー国内使用のベインブリッジ安全燈にはロックシステムが無かったんだそうです。一切の刻印がありませんが、製造はベルギー南部のフランスとの国境に近い炭田地帯のラ・ボバリーとかいう町に存在したアンドレとかいう会社で製造されたらしいです。500番台のビットナンバーダグが半田付けされてましたので、実際に一度は坑内に下りた安全燈に間違いないでしょう。実はこんな珍なる安全燈なのにもかかわらず、レプリカが存在するそうです。しかし、オリジナルよりもなぜか一回り大きく仕上がったようで、オリジナルの全高が約9インチなのに対し、レプリカは11インチ弱あるらしいです。このレプリカはトーマス・ウイリアムスのように全世界的に出回っているわけではなく、ドイツのとある炭鉱ミュージアムのお土産品として売られているんだとか。このベインブリッジ安全燈は腰硝子を巨大化させることによって防爆性のかなめでもある金属メッシュが申し訳程度の大きさになっています。また金属メッシュの密度も1インチ四方あたりの網目の数が後の規格では784必要なのにもかかわらず、それよりかなり疎のような気がします。メタンガスに対する防爆性能に関しては追って知るべしということでしょう。裸火のカンテラよりはマシかもしれませんが、日本でいう言うところの甲種炭鉱で使用するにはあまりにもリスクが大きすぎます。また吸気は腰硝子下の穴あきリング部分からのようですが、この部分にはウルフ安全燈のような金網ははまっているわけではなく(この個体には欠品になってしまったのかもしれませんが)ここからの吸気は通気の流速によって炎の同様が激しく、風速が大きいと消炎するなど少々どころか大いに心配な構造です。そのくせ腰硝子とガーゼメッシュおよび下部リングの間にはちゃんとアスベストを介したパッキングがはまっています。この手の金属メッシュが申し訳程度の大きさのクラニー燈は国産らしきものが明治30年前後に常磐炭田などで使用されているのを当時の絵葉書等で知ることが出来ますが、近代的な安全燈以前はこの程度の防爆性能のクラニー燈が炭鉱における個別照明器具の標準だったのかもしれません。明治30年も末になりますと安全燈取扱不良や不良安全燈によるガス爆発で一度に数百人も犠牲になる「大非常」と呼ばれる坑内災害が頻発しますが、これを契機に大手資本の炭鉱からクラニー燈の使用が止まり、ウルフ燈などの揮発油安全燈へのシフトが急速に進み、直方安全燈試験場が設立されて、安全燈の試験から発破火薬等の試験が行われ、炭鉱のガス爆発防止への研究が進んでいきます。安全燈本体の機械加工精度は明治期の本多船燈製造所のクラニー燈などと比べると雲泥の差があり、本多のクラニー燈は切れない刃物と中心が出きっていない旋盤で無理やり加工している体があり、明らかにバイトが動揺して妙な削り痕が残っているのに対して、こちらのベインブリッジ安全燈はさすがは銃器製造などの歴史が長いベルギーの挽物加工品だけあって大変に精度が高く美しい仕上がりになっています。ただこの個体はウイックピッカーの通るパイプが底板に対して斜めにロウ付けされていて、そこから灯油が漏れるので、その修正のため、バーナーであぶってロウ付けし直さなければならず、その後も油壺と底板のロウ付け部分から灯油が滲んだりして、実際に点火に至るまでけっこう手間がかかりました。ウルフ燈などの揮発油燈はオイルライターのように油壷に綿が充填されていて、そこにベンジンを注入するわけなので、オイル漏れということにはまず無縁なのですが(そのかわりライターと違い、燃料は使い切らないと残りは蒸発してしまいます)、古いクラニー燈はウイックピッカーパイプと底板の接合部分がウィークポイントになっているようです。

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January 03, 2012

2012年ニューイヤーパーティー2日目

 前日にHFハイバンドのコンディションがあまりにも良かったため、ニューイヤーパーティー2日目はいい伝播コンディションが望めないなぁと思いきや、1日目程では無いにしてもかなり伝播コンディションに恵まれました。朝8時代前半まではさすがに十分に開けたわけではありませんでしたが9時が近づくにつれ14メガも開けてきました。そこで昨日20局のボーダーラインは軽く超えていたのですが、どこから呼ばれるかの興味から14.173あたりでCQコールを開始。すると1エリアは栃木県北部から千葉県西北部から集中的にコールバックがありました。昨日は同時刻のコールバック北限が千葉県中部ですからもう少し北に伝播が移動したような感じです。そのかわりというのか北九州からの伝播が昨日より弱いようでした。また昨日のうちに20局を達成した人が多かったからか、昨日よりは運用局が少なかったような感じでした。18メガの運用局もそこそこ聞こえ、21メガは四国西部から九州南部の局がよく聞こえていましたが、コールバックしようと思ったら急にフェードアウトするような安定しないコンディションでした。そのため、14メガで10局ほど交信したのち、21メガで強く聞こえる局に応答しようと待ち構えるも、交信にはいたらず、2日目に初めて出てきたローカルの2m運用局のコールバックに回ってしまいました。

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January 02, 2012

ニューイヤーパーティー参加中!

 ここ数年のHF伝播の低調ぶりから、1月2日は2mの運用場所探しで難民のように市内中を車でうろちょろする状態が何回か続いてましたが、今年も少しでも見通し距離の稼げる場所で車が入れなければJ型アンテナに釣竿でハンディ機を使ってでも20局交信しなければいけないと覚悟を決めてました。
 ところが1月2日の9時台から10時台にかけてはここ数年で一番の伝播コンディションとなり、なんとまるで夏のコンディションのように14メガから21メガまで開いてしまい、ほんの1時間半ほどのCQ出しで14メガモノバンドのみで25局の交信が達成できてしまいました。雪にたたられ、ハイバンドも開かず、いつものショッピングセンター屋上駐車場や高台の公園駐車場から締め出しをくらい、運用場所を求めて西へ東へ迷走していた数年間は何だったのでしょうか。なんか例年の苦労がまったくない分、拍子抜けしてしまいました。
 14メガ運用開始直後は岡山県と広島県を中心にコールバックをもらっていましたが、時間とともに1エリアから6エリアまで広範囲に開け始め、北は千葉県から南は鹿児島まで交信できました。しかし、14メガでは神戸を除く大阪周辺部からのコールバックがありませんでしたが、18メガ21メガでは奈良周辺が強力に入感していたようです。14メガでは一時近接局の抑圧でまるで7メガのような状況もありましたが、最近はCW試験の撤廃で2アマ1アマ人口が10年前とは比べられないくらい増加した結果でしょうか?そうなったら14メガも特別なバンドじゃなくて7メガ21メガあたりと大差のない運用人口になりつつあるのかもしれません。
 しかし、話は変わりますが、今日の状況から見るとサイクルのピークが近づくのにもかかわらずまったく伝播コンディションが上がらない状況から、今年は半年ほどで爆発的にコンディションが急上昇する可能性も出てきたような気がします。
 もしかしたら昨日の鳥島沖マグニチュード7.0の地震の影響で電離層の電子密度が急に濃くなっていたとすれば、一時的な現象だということも考えられますが、地震と電離層電子密度上昇の関係というのはいまだに似非科学の域を出ないので、なんともいえません。これから起こる大地震の予兆だとしたら手放しでは喜べませんが。

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December 16, 2011

KEUFFEL & ESSER No.4053-3 末期型

 K&E 4053-3の歴史は大変に古く、おおよそ1909年末から半世紀以上も基本を変えずに発売続けてきましたが、時代とともに材質やカーソルなど多種多様のパターンが存在し、本国アメリカでは専門のコレクターが存在するような計算尺です。しかし、日本ではこの手の計算尺は初心者用と片付けられてしまうからかあまり注目もされませんが、日本ではCI尺K尺を備える計算尺はHEMMIの大正15年型を待たなければいけないわけで、当時としては大変に進歩的な計算尺であったことには間違いありません。また構造的にも固定尺の片方をべースプレートにねじ止めし、わずかな調整幅を確保しています。それによって欧州系片面尺のように両固定尺を金属の裏板でつなぎ、その裏板を反らすことによって両固定尺間隔を調整する構造の計算尺よりは合理的な構造になっています。また上下の固定尺は同一の形状で、分厚いマホガニー製ベースプレート側面にスケールを刻んでいる構造でした。しかし今回のK&E 4053-3は終末期に製造されたもので、それまでベースプレートを含めてマホガニーにセルロイドを貼りこんだ構造でしたが、コストダウンの産物かベースプレートが物差し状の塩化ビニール系の樹脂素材に変わりました。このK&E 4053-3は4053-2と4053-5というパターンモデルが存在し、-2は8インチのレンズカーソル付き、-5は20インチモデルです。当然のことなが10インチの4053-3が一番多く製造されたことは疑いありません。この計算尺は終始三角関数系の滑尺裏面を使用するためには滑尺を抜いて裏返して使う構造になっており、裏側のカーソル線を使うような構造になっていませんが、それも固定尺をねじ止めにして調整できる構造にしたため、裏側、カーソル線の精度が出ないというのが理由なのかもしれません。また滑尺を裏返して使用するためS尺がA尺に、T尺L尺がD尺に対応する形式の計算尺です。カーソルは初期がアルミフレームのスクエアなタイプからフレームレスカーソルが長い間続き、1930年代にフレーム付きカーソルに変更になりますが、戦前のフレーム付きカーソルは例の「経年劣化で樹脂がぼろぼろになるカーソル」ですが今回の年代のものは材質が変わったのか大丈夫なようです。換算表も張り付けの時代を経て樹脂製バックプレートは印刷にコストダウンされています。こんな計算尺にはもったいないような明るい高級茶革のハードケースが付属してました。滑尺裏にシリアルナンバー937275が刻まれており、おそらく3順目の番号ではないかと思いますが、この計算尺としては末期の1950年代半ばを過ぎたころの製品でしょうか。入手先は東京の立川市。旧米軍立川基地あたりから出たアメジャンの一部だったのかもしれません。Ke40533

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December 12, 2011

本多船燈製造所製クラニー安全燈(炭鉱用カンテラ)

Photo_4 北海道には沢山の炭鉱が操業していたわけですから、さぞかしいにしえの炭鉱の忘れ形見といえる数々の炭鉱用カンテラ、すなわち安全燈が残っていそうなものですが、実際に出てくるものというと後々まで簡易メタンガス検知に使用された本多商店改め本多電気製ウルフ揮発油燈ばかりです。それというのも北海道の炭鉱は九州の炭鉱と異なり大手の会社によって近代的な設備が逐次導入された炭鉱が殆どだったからか、安全燈の使用も早かったかわりに充電式帽上燈に切り替わるのも早く、大正期の中ごろを過ぎた頃にはウルフ揮発油燈でさえも明かりとしての役目を帽上燈に譲り渡して、自らはメタンガス検知としての役回りに退いてしまったからでしょうか。そのため、100年以上前のテービー燈やクラニー燈などの旧式灯油安全燈が北海道内から出てくることは非常にレアなケースです。今回入手した旧式のクラニー燈は深川の4代続いた農家の納屋にひそかに眠っていたというもので、へたをすると一世紀もそのまま納屋に収まっていた物なのかもしれません。日露戦争直後の道内主要炭鉱の安全燈使用状況を調べると北炭の夕張炭鉱ではすでに切羽に最新の輸入品ウルフ揮発油燈が導入され、運搬坑道などのガス気の少ないところでクラニー燈が補助的に使用されたということが書かれており、当時すでにクラニー燈は第一線から退いていたころがわかります。その後続発する重大ガス爆発事故を受けた直方の安全燈試験所などの実験により、ボンネットのないクラニー燈はメタンガスを含む風速2メートル程度の坑内通風で筒外に引火する危険性大で、さらに風速3メートル・メタンガス濃度4~5%の状態で必ず筒外ガスに引火し、きわめて危険という判定を受け、甲種と分類される炭鉱でこれら旧式油燈を使用するところはなくなりました。
 旭川から届いたクラニー燈はニューカッスルタイプとでもいうべき英国型のクラニー燈で、ウイックピッカーという鉤状の針金で棒芯を上下する棒芯式の油燈でした。ロックシステムは古いリードリベットロックで、毎回ごとに鉛のリベットで封印し、安全燈使用後にはリベットの頭を切り落として開錠するという簡易なものですが、もちろん南京錠を使用することもできます。金網(ガーゼメッシュ)のガードピラーはたったの3本で、腰硝子のガードピラーは6本です。風除けボンネットのないクラニー燈は金網がむき出しですが、今残るクラニー燈の殆どは金網の上部が腐食で失われています。それというのも金網の上部はそれでなくとも炎に晒されて酸化し劣化しているのに加えて、長年の保管でむき出しの金網上部は埃がたまりやすく、その埃が湿り気を帯びてついには金網を酸化により腐食脱落させてしまうのが原因かもしれません。ボンネットで覆われているタイプの古い安全燈はその点、金網上部の喪失率はさほど高くありませんし、たとえ金網が喪失していても外観的にはわかりませんし。
 このクラニー燈は油壷を外してもどこにも刻印のようなものがありませんでした。リードリベットロックのリング外周に番号札のようなものがロウ付けされていたような痕がありましたが、銘板などが付くスペースもありません。英国製の安全燈であればメーカー名や形式くらいの刻印はありますし、よっぽど古い安全燈でないかぎり腰硝子に硝子のサイズや製造元名が焼付ペイントされています。また切れないバイトの痕が残る工作の稚拙さなどから見てもどうもこのクラニー燈は「国産」の可能性が非常に高いように思われました。明治の末には東京に「鉱山燈」を製造している工場が複数存在していましたし、このクラニー燈は早くも幕末には日本に伝来していて、明治一桁台の年代にはトーマス・グラバーの手により高島炭鉱で使用されたことが確認されていますので、クラニー燈の国産化は割りと早くから行われていたのかもしれません。しかし、より安全なウルフ揮発油燈が発明され、主要炭鉱では揮発油燈が大量に使用されるようになったことから日本の鉱山燈製造工場も国産の揮発油燈製造を試みますが、結局は横田式などのオリジナル品製造販売の江戸商会を圧倒し、輸入の揮発油をも駆逐したのは節操なくウルフ揮発油燈を完全複製した本多商店の「本多式揮発油燈」だけです。
 このクラニー燈の構造ですが吸気は上部の金網から腰硝子の周りを伝って芯にともった炎に吸気し、排気は金網の上部から抜けてゆくという単純な構造です。また腰硝子と金網はアスベストのパッキングを介して気密を保っていますが、腰硝子はガードピラー根元のリングの内側に切られたねじリングによって金網側に締め上げられており、油壷と分離したときに腰硝子が落ちてくることがありません。このあたりは横田式などと同様に油壷とガードピラーリングの間の気密性に問題があり、直方の安全燈試験結果を見ても「危ないから使うな」とでもいうような試験結果しか残っていません。ところでこのクラニー燈には坑木に打ち込むための鉤が別途取り付けられていましたが、これは金属鉱山同様の裸火のカンテラ時代に作られたものを安全燈に流用したもので、鍬や鎌を作る野鍛冶の手によるものから鉱山の営繕場(主につるはしなどの焼きいれなどの仕事場)で作られたものまで多種多様のものがありますが、金属鉱山ではカーバイドランプに取り付けられたものが良く残っています。
そしてこのクラニー燈が国産である証拠をついに見つけました。笠のところに「CHONO TOKYO」?とでも判読できそうな刻印が打たれていたのです。さらにNの活字が裏返っているのはさすがは明治時代の産物とでもいうべきものなのでしょうか。これで確かにクラニー燈あたりの旧型安全燈は輸入品だけではなく国内で製造されてきたことが証明されました。この刻印がどういう会社のものだったのか調べがつきませんでしたが、小柳製作所にしても本多船燈製造所にしても大正初期でたかだか従業員数20名の会社ですから同程度の金属加工業者なことは確かでしょう。
打刻が不鮮明で判読しにくい「CHONO TOKYO」の正体を知ろうと、またしても大正4年版の東京府工業統計をくまなく探してみても鉱山燈に関連する工場は小柳金属品製作所と本多船燈製造所のほかはカーバイド燈製造の東京旭商会工場くらいにしか行き当たりません。それで刻印を再度いろいろな角度から検証するとどうも「T.HOND TOKYO」と見え始めてきました。語尾にあるべきAが判読できませんが、となるとどうやら明治時代に東京は京橋区本八丁堀五丁目にあった当時の名称が本多船燈製造所(当時はまだ個人商店)、後の本多電気が製造したクラニー燈であるということになります。大正4年の事業主は本多敏明、従業員は21名で、工場の規模としては佃島の合資会社小柳金属品製作所とほとんど変わりません。当時の本多船燈製造所は自前の揮発油燈開発をせずに後にドイツのウルフ揮発油燈を節操なく丸パクリし、国内の炭鉱に大量納入して企業基盤を作り、さらには帽上燈などの電気照明に進出するのですからさすがというかなんというか…。とはいっても国内の炭鉱資本からウルフ揮発油燈と同じものを安く納入出来たら大量発注するというような働きかけがあったことは確かでしょうし、この時代の日本では舶来品の丸パクリがいけないことという意識はまったくなかったはずです。むしろ舶来とまったく同じものが製造できたということが、技術力の証とされていたのかもしれません。しかし、直方の安全燈試験場の試験結果をみると当時の本家輸入品ウルフ揮発油燈と国産本多式揮発油燈との間には材料や工作精度などの問題か、防爆性にあきらかに差があったようです。さて、北海道に限らずこのクラニー燈やカーバイドランプ、発破の穴繰りに使うせっとうや鏨、採炭に使用した片鶴嘴などの古い鉱山の道具類などは全国的によく農家の納屋の中から発見されます。それだけいにしえの日本には鉱山が無数に存在していた証拠なのですが、今みたいにホームセンターに行けば必要な道具が手に入る時代と違って、こういう鉱山払い下げの道具類を扱うぼろ市のようなマーケットが存在していたのでしょうか。このクラニー燈があった4代続いたという深川の農家も、昔は提灯代わりに水田の見回りなどの用途で活用していたのかもしれません。通常は棒芯が使われたものですが、このクラニー燈の芯は晒し布が丸められたもので代用されていました。


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December 11, 2011

A.W.FABER Nr.369 5"マンハイム型計算尺

 明治から大正初期にかけて日本では主に玉屋商店や中村浅吉商店等によってドイツやアメリカの計算尺が輸入され、機械電気土木工学の技術者によって使用されました。その殆どはマンハイム型の簡単な計算尺ですが、当時の商品目録を見るとメーカー名は特に記載されていないようです。そして目録を見る限りは玉屋がA.W.FABER、中村浅吉商店がK&Eを扱っていたようです。まだ国産のHEMMI計算尺が量産化にはほど遠いような時期で、形態的にもA.W.FABERやK&Eのコピーで、素材に竹を使用したという意外に目新しさなどなかった時代のころです。それ以前は当然の事ながら帝大出身者が欧州や米国に留学し持ち帰った計算尺を見た国内の技術者が玉屋や中村浅吉商店などに計算尺の輸入を持ちかけたのでしょう。当時の計算尺の販売価格を見ると5インチ計算尺で3円ほど、10インチの片面計算尺で7円ほどとなっています。物価の上昇などもあり一概に比較できませんが大正末年から昭和初期にかけてのHEMMI計算尺の価格とだいたい同じです。今回広島の呉から入手した5"マンハイム型の計算尺はA.W.FABERの369で、箱や裏側の形状、ならびに「MADE IN BAVARIA」の刻印などを見ると、第一次大戦以前に製造されたものであることが推察できます。この369は大変に古く、おおよそ19世紀末から1934年あたりまで製造された計算尺で裏側の形状や換算表の有無、カーソルの形状の違いや刻印、ケースの違いなどかなりのパターンがありますが、さすがに国内でこれらを集めるにはその入手先として海外へ矛先を向ける必要があります。
材質はおそらく定番のマホガニー材で、狂いを防ぐためかヘンミのポケット尺なんかとは比べ物にならないくらいの分厚い計算尺です。滑尺との隙間調整のために金属板が中に仕込まれています。同時代のNestler製5"計算尺を持っていますが、それよりもさらに肉厚です。A.W.FABERの同年代片面尺の特徴として滑尺溝にスケールが刻まれていて、物差し代わりに滑尺を引き抜いた状態の計算尺全体の長さがわかるようになっている仕組みはJ.HEMMI時代の計算尺がオリジナルではなく、J.HEMMIがA.W.FABERをその部分までそのままコピーしたことに他なりません。また、カーソルもJ.HEMMI初期のアルミスクエア枠カーソル同様のもので、A.W.FABERとしてもとても古いものであることがわかります。
この369が国内で使用されたという証拠として、ケースの蓋を抜いた余白に表、裏という漢字まじりで三角関数の操作法がペン書きされていたことがあります。約100年も前の技術者の覚え書きなんでしょうね。呉の海軍工廠勤めの技術将校あたりの持ち物だとすると、当時英国戦艦ドレッドノートの出現によってそれを上回る超ド級戦艦の必要性から後の八八艦隊あたりの戦艦・巡洋艦の設計の一部なんかを計算してたのでしょうか。
 ところでこのA.W.FABERの5インチマンハイムタイプ計算尺は鉄骨構造設計を多く手がけた内藤多仲博士が長年愛用し、四ツ木のお化け煙突から東京タワーまでこれ一本で強度計算などを行ってきたものと同型だと思われます(ただし、位取りカーソル付?)。以前「内藤多仲と三塔物語」と銘打った展示会で内藤多仲愛用の計算尺として8インチのHEMMI学生用計算尺が展示されていたことで、東京タワーを設計したのはHEMMI のNo.2640というように誤って伝えられていましたが、生前の新聞インタビューなどで内藤多仲が大正2年頃に恩師佐野利器博士から欧州外遊の独逸土産として小型計算尺を貰ったものをその後50年にわたって使い続け、その間に各地の高層鉄塔や鉄骨建造物の設計をこれ一本で行ってきたということが明らかになっています。内藤博士曰く「この計算尺は船頭の櫂のようなものだ」そうです。ただこの計算尺が何だったかは確定的にわかっていないので、A.W.FABERだったのかNestlerだったのか、はたまたぜんぜん違うメーカーの計算尺だったのかはわかりません。しかし、そんなことを気にするのは計算尺コレクターくらいなもので、内藤博士にとってみれば「弘法筆を選ばず」のごとく、それがどこの製品であったかなどということはどうでもいい問題だったのでしょう。
Aw_faber369
A.W.FABER Nr.369(上)とNestler Nr.12(下)との表裏比較です。

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December 10, 2011

有価証券利廻計算器

Photo まるでコンサイスで作られた換算尺のようなセルロイド製の円形計算尺ですが、こちらに届くまでは厚紙で出来ているのではないかと思ってました。この手のものは戦前に尺貫法からメートル法への切換え時に「換算尺」として各種円形計算尺が作られましたが、有価証券利回り計算に関する計算尺は初見でした。見てのとおり逆に活字が印刷されていますし、東京都日本橋区兜町の表記でもわかるとおり、戦前の製品になります。証券会社のノベルティー品として作られた計算尺で、大東証券株式会社の文字が逆に印刷されていますが、最近大東証券の名前を聞かないと思ったら、旧富士銀行系の大東証券は山一證券破綻から始まった証券業界再編成により旧第一勧銀系勧角証券のみずほインベスターズ証券と合併して、大東証券の名前は消滅してしまいました。縦12.7cm横9.3cmの台に直径6cmの円形計算尺が乗っているもので、円形部分の表面に使用法が印刷されています。実用新案の出願番号第20515号が印刷されていますが、この手の計算尺は明治大正期から類似のものが各種出願されているので、実際にパテントが取れたかどうかはわかりません。入手先は愛知県の西尾市からで戦前のものですから台のセルロイドは湾曲してしまっています。まあ、今の世の中では利用価値がない計算尺ですが、なかなかこういう用途が限られる計算尺は捨てられる運命にありますからたとえ今は利用価値がなくとも拾っておくべきでしょう。価格は300円でした。これが1000円でしたらスルーしてしまったはずです。


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December 09, 2011

RICOH No.533 5"ポケット計算尺

 RICOHの計算尺の中ではなぜか珍しい5インチプラ尺のRICOH No.533です。見てのとおりHEMMIのP35と同じ尺種類を持つ計算尺で、滑尺の裏はブランクです。P35同様に企業ノベルティや記念品などに特化した計算尺で、今回の計算尺も旧石川島播磨重工(IHI)のノベルティです。計算尺裏に黒くIHIのロゴが入り、黒合皮のケースにはIHIのロゴが金箔押しになっています。このNo.533はケースが何パターンかあったようで、今回のものはわりとましなケースですが、通常は臙脂と透明ビニールの張り合わせケースに入っています。どっちみち特注扱いで印刷を入れさせていたわけですから当然ケースもチョイス出来たのかもしれません。このプラ尺ですが、HEMMIのプラ尺同様に山梨技研系のOEMを匂わせる計算尺です。HEMMI No.P35のほうが先輩格らしく山梨系プラ尺の改良の進展とともに数種類のパターンがあるようですが、おそらく後発のRICOH No.533のほうはこのタイプしか見たことがありません。RICOHの5インチプラ尺は他にNo.537くらいしか思い浮かびませんが、こちらはHEMMI P2634の類似とでもいうべき計算尺で、ちゃんと滑尺裏に三角関数尺がありますし、上固定尺にはスケールが刻まれています。価格も当然No.537のほうが高かったのでしょう。ところで、このNo.533は市販の状態で見つかることがない計算尺なのですが、もしかしたら特注扱いのみの販売で、発注を受けるとそのつど、その分だけを山梨に発注していたのでしょうか。そうなると自分のところに在庫を置いておく必要がありませんし、商品種類は増やすことが出来ますし、発売元に限っては実に都合がいいはずなんですが、その分メーカとしてのポリシーがまったく感じられない計算尺なわけで…。尺配置はK,DF,[CF,CI,C,]D,A,の7尺で一般的な√10切断のずらし尺になっています。カーソルはプラスチックの一体型ですが、まるでFUJIのNo.2125C/Dのような断面がカマボコ状になっていて、これで少しは目盛りが拡大されて見えているような、そうでもないような。入手先は福岡筑豊はいにしえには中小の炭鉱がひしめき合っていた田川郡の川崎町からでした。よくありがちなスケールやコンパス、烏口などに一点だけ混じっていたものです。
Ricoh_no533


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RICOH No.107 電気用計算尺

  このRICOH No.107は一昨年入手したことさえすっかり忘れてしまって、いままで放り出していたものです。言わずと知れたRELAY/RICOHの数少ない片面特殊計算尺のなかでもNo.107は電気用で、HEMMIのNo.80Kの競合商品なのですが、日本の計算尺の中でも数少ないダルムスタッドタイプの計算尺で、それだけはオリジナリティーを感じさせます。そのルーツはダブルスターRELAYの昭和20年代末期までさかのぼりますが、もしかしたら戦中戦後のアイデアルRELAYの時代にも型番は同じで微妙に異なる、おそらくHEMMIのNo.80そのままに近いようなNo.107があったかもしれません。というのも戦中航空尺にNo.109というのがあるので、No.107がすでにあってもおかしくはないのです。今回のはRICOHブランドのものですが、数年前すでにRELAYブランドのNo.107を入手しており、刻印などの比較が目的で入手したものです。カーソルフレームに切れが生じており、未使用ながらジャンク扱いの1,000円即決で入手したと思います。HEMMIのNo.80Kなどと異なり、このNo.107は補助カーソル線もなくNo.116などと共用なので、100円ほどで以前入手したNo.116のカーソルを流用してまともな一本ができあがりました。うちには同一型番の計算尺ながらRELAYとRICOHの双方が存在する計算尺が何機種かあり、比較するとRELAY時代には逆尺の目盛も数字も赤で刻まれたものがある(No.84やNo.116等)のに対してRICOHブランドになってからは逆尺は目盛が黒で数字だけが赤というものが殆どで、いささか地味になってしまった計算尺が多くなった感がありますが、このNo.107はRELAY時代から逆尺も数字だけ赤で目盛も黒です。また、数が月前ですがNo.107としては3本目となるRICOHのNo.107を入手しました。というのも競争相手がなく300円で落札出来てしまったからですが。こちらは掲載写真にケースがなかったため、計算尺のみだと思っていましたら、ちゃんとケース付きで送られてきました。ところが箱はRELAYの箱でした。RELAYからRICOHに変わるRELAY端境期にはこういうことがよくあったようで、他の計算尺でもRICOHの箱にRELAY刻印の計算尺が入っているなんて例はこの時期にはよくあることです。RICOHのほうのNo.107は刻印L.S-3で昭和38年3月製、RELAYの箱に入ったほうはL.S-1で昭和38年1月製です。ちなみに一番最初に入手したRELAY刻印のNo.107はJ.S-3で昭和36年1月製でした。ところで、ダブルスターRELAY時代の輸出用片面電気用にNo.E-1001というものがあり、当方の手元にはないのでなんとも確証はないのですが、こちらはダルムスタッド型ではなく、むしろこちらが尺のレイアウトなどの違いがあるにせよ、機能的にはHEMMI No.80に限りなく近い電気用片面尺だったようです。先行して入手したNo.107は愛媛の松山から。後から入手したNo.107は大阪の枚方市からでした。
Ricoh_no107


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☆Relay☆ B-1006 事務用計算尺

最近はなかなかオークションで計算尺を落札することが出来ず、半年以上も間が空いて入手したのがこのダブルスター時代の輸出用形式名が入ったRelay B-1006で、日本市場向けの型番はRelay No.114になります。この時代のRelay No.114は3年ほど前に入手済みですが、一般・事務用の√10切断ずらし尺を持つ計算尺です。いうなればHEMMIのNo.2664Sの前身モデルであるNo.2664の後期モデルのデッドコピーに近い計算尺ですが、確か滑尺裏の三角関数尺が逆尺というのがHEMMIのパテントだったようで、Relayの計算尺は順尺であるという差があります。又、昭和30年代に入ってからのRelay No.114とは表面デザインに相違があり、後のNo.114はCF,DF尺に延長部が加わり、CI尺全体が赤いデザインに変更になりました。以前同時代のNo.114を入手したことがありましたが、材質刻印その他に差異は認められません。しかも輸出用の品番なのに上部のスケールがメトリックになっています。このB-1006のBは「BUSINESS」の略で、日本の計算尺の分類上からゆくと「事務用」という扱いです。この輸出用の品番を持つRelayの計算尺は国内向けの品番にまったく同じものがあるのにもかかわらずなぜか国内に出回っていて、なぜこのようにNo.114とB-1006の両方が国内で販売されていたのかわかりません。ただし外箱が違い、30年代初期までのRelay No.114はあまり耐久性の良くない紫の紙箱で、B-1006のほうはHEMMIそっくりな緑の貼り箱に入っています。また後のRelay No.114とは裏側の鋲の数が異なります。ところで今回のB-1006は製造年月を表す刻印がどこを見てもありませんでした。入手先は東京の中野区からです。
Relayb1006


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October 20, 2011

ラジオアクティビティーがBGMに流れるニュース

 世田谷の高放射線量の原因が民家の床下に放置されていたラジウム系の夜光塗料だったことにはいささか驚かせられましたが、その瓶のラベルから判読できた「日本夜光」の文字から戦前の古いものだったことにすぐ気が付いたのは、私が放射性物質ラジウムを使用した夜光塗料の産業史に興味があっていささか以前に詳しく調べたことがあったからです。というのもキュリー研究所でキュリー夫人の娘のイレーヌ・キュリーと「アルファー線の飛程とその衝撃による現象について」を共同研究していた東京帝大出身の山田延男博士がパリで原因不明の奇病に冒され、やむなく帰国したのち帝大医学部であらゆる検査を受けるも原因がわからず、一種の「脳病」とされ、苦しみながら三十歳と少々という短い生涯を終えたという歴史が、実は当時の霧箱によるシンチレーション直視観測法という実験法がきわめて危険な(放射能防護的に)実験方法だっため、山田博士は眼底から脳に直接ガンマ線を浴び続けた放射線被曝で脳細胞に損傷を受けたことが原因だったことが後に薬学史の専門家になった子息によって確かめられたという話をNHKラジオ深夜便の中で聴いたのがきっかけでした。まだ放射性物質の存在が世の中に発表されてからしばらくの間は放射能被爆が人体にいかに恐ろしいものかということが判明しておらず、放射性物質を皮膚に塗布して人工的にやけどを作り、シミや痣を消すなどの美容外科的に使用されたり、健康のために放射性物質入りの薬剤を飲むなどの行為も行われたようです。また、1900年代初めに開発されたラジウムを使った自発光塗料を時計の文字盤に塗布する女子工員の間で舌ガンや口唇の皮膚ガン、さらに顎の骨に悪性の骨肉腫が多発し、というのも彼女たちは舌の先で筆の穂先をそろえるためにラジウムを口から体内に取り込んだ内部被爆でガンを発症させ、大人数の犠牲者を出しましたが、このラジウムが発生する放射能とガン発生の因果関係が証明され、外部被爆・内部被爆を防ぐための放射能防御が必要なことが判明したのは戦後のことになります。このラジウムを使用した自発光塗料というのは民生品では時計の文字盤が主な利用法でしたが、飛行機や艦船の計器に多用されたことから戦時にはその需要が高まります。そのため、輸入に頼っていたラジウムを使用した自発光塗料の国産に取り組んだのが藤木顕文という人物で、この藤木は昭和四年に日本夜光塗料製造所を設立して国産のラジウム自発光塗料製造に取り組みますが、国産に成功したのは昭和九年を待たなければいけません。今回世田谷で発見されたラジウムはその藤木の会社で作られたものですが、他に数社夜光塗料会社があったようです。この夜光塗料は重要軍事物資に指定され、民間には出回らず航空機の計器や艦船、潜水艦の計器などを照らしていましたがラジウム自発光塗料の計器に囲まれた航空機のコックピットに線量計をつっこんだらどんな数値が出たでしょうか?余談ながら藤木顕文は東芝と並んで国産の蛍光灯製造の初期を飾った人物でした。その日本夜光も昭和20年5月の空襲で焼失してしまい、会社も消滅してしまったそうです。
 ところで、ラジウムは国内調達出来なかったため、経済封鎖を受けて以降、だんだんその調達が難しくなり、戦時中は夜光塗料の生産に支障を来すようになりました。そのため、独逸本国からジェット戦闘機やロケット戦闘機の図面などとともに潜水艦ではるか大西洋・インド洋を渡って夜光塗料用のラジウムが運ばれて来たそうです。今回世田谷で見つかったラジウムがこの潜水艦で運ばれて来たものの一部なんじゃないかと考えるだけでも、なんとなくわくわくしてきます。まあ、物が物だけに物騒ではあるのですが、今回の原子力発電所事故に起因する高放射能の検出ではないとわかってからのニュース報道のバックに流れていたBGMが何とクラフトワークの「ラジオアクティビティー(放射能)」。絶対に原子力発電所事故関連のニュース映像のバックには流せない曲だなぁ、なんて思いましたが、まずクレームつける人間なんかいないだろうけど。(Mixy日記からの転載)

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June 25, 2011

液晶が白いまま表示しないPC-9821NP

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 最近のパソコンの設定は、あまりにも個人でカスタマイズする余地に欠け、面白みが薄れてしまったために、もう一度PC-98のDOS環境に回帰しようと思い(もちろん今のネット環境に対応はできません)、いろいろとPC-98ノートをジャンクで入手してきましたが、1989年から1994年にかけてのNEC PC-9801ノートにはコンデンサーの電解液に起因するコンデンサー液漏れ不良という重大な欠陥を抱えており、経年劣化で十中八九は電源が入りません。また運よく起動している個体でもしばらく使っていれば確実に動かなくなります。うちのPC-9801nx/cなんか電源系やグラフィック系の主要な液漏れコンデンサーを交換してしばらく快調に使っていたのに、新しいHDDパックをフォーマットしている最中に突然電源が落ちました。その点はマザーボードが欠陥電解コンデンサーからチップコンデンサーに変わった1994年以降のPC-9821ノートのほうがはるかに安心して使えますし、そのまま起動する個体も多いようです。ただ9801系ノートに比べて大きくて分厚くて重いというのが欠点ですが、DOSで快適に使うには我慢するしかありません。また画面表示が480X600なのでWINDOWS95にも当然ながら対応していますし、PC-9801系ノートのようにそもそもの設計不良でヒンジが破壊して液晶部分がしまらなくなることもありません。Dvc00127
 このPC-9821NPは1994年の発売でintel486DX4 75MHzという当時としては高速で、さらに液晶パネルが高価なTFTカラー液晶というものです。そのため当時のノートPCとしては高額な84万円(驚)もっとも半年後には64万円に値下げになったようですが、それにしても個人でしかもノートPCにこんなにお金をかけるのは清水の舞台から飛び降りるというより東京スカイツリーの天辺からパンジージャンプするような覚悟が要ったでしょう。もっともこれ以前にMacintoshのデスクトップとモニターを買いにいったときは財形貯蓄を100万円取り崩しても周辺機器までは買えませんでした。パソコンや周辺機器の価格が劇的に下がったのがWINDOWS95によりパソコン出荷激増以降のことで以前はメモリー1MBあたり1万円、HDD1MB(SASIの時代ですが)あたり1万円していたのが、今や5月の連休中に買ったHDDが2TBでたったの5980円です。1MB1万円の定義に当てはめると2TBのHDDの換算金額たるや200億円ですか?あんまり単位が大きすぎて混乱します。もっとも出始めの3.5インチ2HDフロッピーディスクでも一枚2000円してました。
 Videocont_2そのPC-9821NPを昨年の12月ごろにオークションで落札しました。内蔵クロック用バックアップ電池がだめで、電源を落とすと日付が狂ってしまうのが鬱陶しいですが、それ以外は完璧に起動しました。しばらくはそのままの環境で使用し、DOS版のTURBO HAMLOGなんぞで遊んでいましたが、先月、しばらく入力待ち状態でそのまま放っておいたら画面が真白になる状態が発生しました。明らかにグラフィック系の基盤のコンデンサー抜けが起因する故障と推測できます。ネットで調べると、液晶パネル裏側のTFTコントロール基盤に例の欠陥コンデンサーが多用されており、ここの液漏れが原因の故障のようでした。9821NPは本体左右のヒンジを開くと液晶パネルが上に抜け、逆向きに液晶パネルをはめ込んでプレゼンなんかに使えるというギミックが仕込まれており、液晶部分をはずしての作業が非常に楽なんですが、ねじをはずしてプラスチックのはめ込みを剥がす液晶パネルの分解が大変でした。TFTコントロール基盤にはかなりの欠陥コンデンサが使用されており、高周波周りのため、高周波特性の悪い高インピーダンスの安物電解コンデンサを使うと通電不良を起こしたりするのを恐れて高周波特性が優れ、かつ低インピーダンスなタンタルコンデンで液漏れコンデンサを置き換えることにしました。本当は全部のコンデンサーを無条件で交換したいところなのですが、タンタルコンデンサーは高価で全部交換すると部品代だけで5k円を超えますので、33μF 25Vのコンデンサー3本(@250円)と47μF 16Vのコンデンサー(@220円)2本の交換に留めます。液漏れコンデンサーの電解液は魚の生臭さのような独特な臭いがしますが、この電解液は漏れた部分のパターンを腐食しますので、リレー洗浄スプレーを掛けて徹底的に洗浄するか、薄めた酢酸溶液を綿棒につけて中和させてからふき取ります。ところが47μF 16Vの液漏れコンデンサーが込み入ったところに配置されていて、筒を囲っているプラのケースの接着をこじって剥がそうとしたらパターンまで剥がしてしまいました。実体顕微鏡を久しぶりに持ち出して観察するとこのパターンは裏からのスルーホールでかしめてあるだけのようで、表面のパターンにはどこにもつながっていません。このスルーホールにパターンを半田付けしようとしてもうまく行かず、何時間か試行錯誤した挙句、このパターンがマイナスの接地側だったことにやっと気がついて、2本分のコンデンサーの接地部分をまとめて一本にして、件のスルーホールと導通のある部分と半田付けして一件落着しました。この基盤はLCDパネルに出力部分が半田付け処理されており、剥がして裏側からジャンパーを引き出してくるわけにはいけなかったのが手間取った原因です。タンタルコンデンサーに交換し、液晶パネルを組み立てなおして本体にはめ込み、電源ボタンを押しても液晶に表示しませんでした。コンデンサーの極性はしつこく確認したはずなので、なんでかと思いましたら、電源が入ってからコンデンサーに充電する時間が少し必要だったのか、もう一度起動しなおしたらちゃんとメモリーチェックが画面に表示されて無事に起動しました。その後、何時間かつけっぱなしにしましたが、二度と画面が真白になる現象には遭遇していません。
Dvc00128 こういう手を掛けたジャンクは愛着が湧くというもので、使いにくいDOSSHELLのままだったものをファイラーとページャーの往年の定番「FDとMIEL」をインストールし、エディターは手持ちのMIFESを組み合わせたら劇的にDOS環境の使い勝手が上昇。DOSSHELLを止めてAUTOEXEC.BATをFDが立ち上がるように書き換えました。これで各ディレクトリーの移動やファイルの書き換え、実行ファイルの起動なんかも瞬時に可能になったところで、久しぶりにアンダーグラウンドな不謹慎ゲームの代表、FD12枚組みの「上九一色村物語」をインストール。98DOSのグラフィックと音源を極限までに叩く幻のゲームを今動作させています。この上九一色村物語の入手に関しては当時面白いエピソードがあったので、後日別途でネタをあげる予定です。

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June 24, 2011

夏至を過ぎた6mの近接Eスポ

 今シーズンも相変わらず6mの大オープンというような状況にはなかなか行き当たりません。昨年と比べるとほとんど変わらないコンディションが続いているような気がします。5月はそこそこ聞こえた日もあったようですが、相変わらずJR6YBR/Bが聞こえる時間が極端に短かったようで、今年もトマトの支柱で作った2エレのHB9CVアンテナでは交信の機会には恵まれませんでした。6月に入り5日に応答で今期初交信するも、その後CQを出す日があってもすべて交信するまでには至らない状態が続いています。夏至の日は聞いた話しによるとこちらでは殆ど一日中JA6YBR/Bが聞こえていたということで、やっと6mの伝搬コンディションも急上昇しはじめたようです。
 今日は朝の5時半に6mのリグのスイッチを入れるとこの時間なのにも係わらずJR6YBR/Bが559くらいで聞こえていて、これから朝の9時台くらいにかけてかなりコンディションに恵まれるような予感がしました。そして7時台後半にもう一度ワッチをかけてみると6エリアから2エリアあたりまで開いています。中部九州から北九州、山口にかけての局が特に強く、その局を呼び出す1エリアの局がかすかに聞こえるという久しぶりにかなりFBなコンディションになってきました。残念ながら出かけなければいけないため3局ほど応答して終了。たまたま忘れ物を取りに戻った9時半に未練がましくもう一度リグのスイッチを入れるとかすかに紋別郡遠軽町移動というコールが聞こえました。道内局ではちょうど今時分に21メガあたりのスキャッタでオホーツク方面や青森北部がつながることはままあるのですが、6mで同じ道内のオホーツク側からCQが聞こえたことは初めてです。悲しいかなローテーターもない南側固定アンテナでは応答しても取ってもらえるわけもなく、残念ながら交信できませんでした。平日なので、あまり応答している局もいなかったようで、ある意味チャンスだったんですが、こっちの電波が届かないのなら仕方が無い。そういえばGWならかろうじてザラザラにしか聞こえない北広島局が6エリアの局に応答している声が今日ははっきり入感てました。

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June 20, 2011

小柳式安全燈(炭鉱用カンテラ)Type Koyanagi's Flame Safety Lamp

Photo 日本国内で製造された炭鉱用安全燈というと江戸商会の横田式と横田式改良型の江戸式、本多商店の本多式(ウルフ式のデッドコピー)くらいしか文献や実際の物をいろいろ探しても見当たりませんが、実際には産炭地周辺の金属加工業者の手でデービー燈やクラニー燈あたりの旧式灯油安全燈が製作された例もあったのでしょうか。しかし、炭鉱とともにすでに歴史に埋もれてしまい、それらの実態を知ることはなかなかかなうことではありません。今回発掘した安全燈はそういう名も知れない金属加工業者の旧式灯火器とは違い、主に炭鉱用の金属加工品等を製造していたと思われる東京の合資会社小柳金属品製作所という会社が製造した小柳式安全燈というもので、基本的には外国製安全燈のコピーながら独自のアレンジが加えられて、日米欧などの特許を取得しているようです。ところが、炭鉱技術の文献をあさっても、大正期に直方安全燈試験場で行われた各種安全燈試験結果を探しても小柳式安全燈というのは出てきません。現在東京には大田区と小平市に小柳製作所という金属加工の会社がありますが、この小柳金属品製作所とは直接関係は無いようです。当方がわかる限りでは、唯一の直方の安全燈試験場に納入された「安全燈静止瓦斯試験機」が東京小柳製という記録があり、小柳金属品製作所が製造した金属加工品が炭鉱と浅からぬ因縁があったことは間違いないようです。割と簡単に過去検索できるアメリカのパテントを調べると早くも明治44年8月22日付けで東京のICHITARO KOYANAGIの申請した安全燈の「閉鎖機構とバーナー設計」に関して特許No.1001052号が認められていました。日本では他に安全燈に関して世界的にパテントを申請した会社はなく、まるっきりウルフ式揮発油燈のメカやデザインまでパクった本多商店の「本多式」が日本における安全燈の標準になるのですから皮肉なものです。
 この小柳式安全燈の特徴としては、丸型ボンネットの両脇にガードメッシュで覆われた透明な窓が設けられていることで、このことでメタンに晒された炎が腰硝子上の金網にまで達してもどこまで炎が伸びたのか、どれだけ金網が赤熱されたのかが観察できるということが特徴となっています。セノー式やピーラー式瓦斯検定燈と異なり、たとえ金網にまで伸長した炎を観測できたとしてもその長さを正確に測るゲージがあるわけではなく、メタンガス濃度検定用としては中途半端、坑内の明かりとしては側面透明窓などの破損リスクが大きく、またウルフ揮発油燈のような再着火装置を持たなかったために簡易メタンガス測定用具としても使いにくかったのでしょう。さらにエジソン型の帽上蓄電池燈の普及期にあって大手の炭鉱では照明もより安全な防爆電気照明が大量に採用されていった時期と重なりますので、この小柳式安全燈が実際に製造された数量はかなり少ないのかもしれません。また、小柳金属品製造所のその後の動静が不明のため、関東大震災によって江戸商会同様、この小柳製作所も甚大な被害を受けて廃業してしまたのではないかと思ってました。しかしこの小柳金属品製作所の顛末は意外な結果となっていたことが後にわかりました。
 大正5年1月から大正7年3月までに実施され大正9年3月に発表された直方安全燈試験所の各種安全燈試験成績の中に江戸式同様に小柳式の試験記録もありません。余談ながらこの試験成績で江戸商会の横田式安全燈がメタンガスを含む通気に晒された場合に火焔の動揺が大きいとの指摘を受けたため、腰硝子上のリングに吸気スリットとバーナー周りに導風盤を設けた横田式の改良型が江戸式のようです。
 入手先は福岡県の最南部の大牟田市。音に聞こえし三井三池炭鉱のお膝元ですから当然のこと一度は三池炭鉱で使用されたものなのでしょう。解体家屋からこんなものが出てくるなんて、さすがは歴史ある石炭の街です。実は当方、三池炭鉱には2度ほど訪れており、2度目は1997年3月末の三池閉山3日前のことでした。当時は隣の高田町の有明坑に繰込場があって、坑内員はここから海底部の坑内に降り、海底の運炭坑道を通って三川坑側に石炭を運び出していました。閉山まであとわずかだというのに、三川坑側では相変わらず凸型の電気機関車が牽引する石炭貨車にホッパーから石炭が落ちる騒音が響き渡ってました。三池港外の貯炭場周りの道路に落ちていた石炭をひとかけらいただいてきましたが、惚れ惚れとするような漆黒の瀝青炭でした。しかし、カロリーは高いのにもかかわらず、硫黄分が多いことが三池炭の欠点だったと言われています。閉山からすでに十数年が経過し、三川坑側の選炭設備もすっかり撤去されて更地になったようで、今では熾烈な三池闘争の痕跡を想像することも難しくなってしまったようです。当時はまだ単独運行だったブルートレインのはやぶさで大牟田駅から東京駅まで帰ってきたのも今では昔話になってしましました。(宇宙探査機はやぶさは小惑星イトカワの塵を持ち帰り、ブルートレインはやぶさは三池炭鉱の石炭のカケラを持ち帰った訳です)ブルトレB個室の中で、大牟田駅前の百貨店食料品街で買い求めたタイラギの貝柱と海茸の刺身を大牟田駅のキオスクに置かれていた瀬高の「園乃蝶」というカップ酒で飲むのは格別でした。その「園乃蝶」も今は廃業してありません。また、大牟田の駅弁屋も百貨店もいつのまにか廃業してしまったようです。
 三池炭鉱の話に戻りますが、三井鉱山系の三池炭鉱は筑豊の本洞、田川の両炭鉱とともに三井物産が輸入したドイツのサイペル式揮発油燈が明治の41年(1908年)年に入っており、おそらくその後もいろいろな安全燈を試していたのでしょう。その中のひとつが取引のある小柳金属品製作所の小柳式安全燈だったのかもしれません。そして各種揮発油燈を試した結果、結局はウルフ式安全燈の使用に落ち着くのでしょうが、すぐに輸入・国産の帽上蓄電池燈が台頭してきて揮発油安全燈の明かりとしての役目は長くはありませんでした。この小柳式安全燈が手元に届いてまずわかったことは、なんと平芯の油燈式安全燈だったことで、形式的にはマルソー式安全燈に分類されるものであることです。そのために再着火装置がありません。また芯は一般的な英国製カンブリアンタイプのような4分芯ではなく7分芯ほどの幅広の芯が付いており、さぞかし明るかった代わりに燃費が悪かったはずです。どうりで揮発油燈のような分厚い油壷が付いているわけです。ガードピラー根元のリング部には何らかのロックシステムが仕込まれているようで、これがパテントの対象になった閉鎖機構なのかもしれませんが、どういうロックシステムになっているのかさっぱりわからず、すぐには分解出来そうもありません。何らかの磁気ロックシステムなのかもしれませんが、磁気ロックはウルフのパテントを回避して新たなパテントを得ることが出来たのかどうか。このリング部には1351の数字が打刻されていて、これは安全燈の管理番号でしょうから、ある程度の数がまとめて三池で使われたことが伺えます。結論としてこの小柳式安全燈は揮発油安全燈以前のアーキテクチャーということになり明治末期の製品となるのでしょう。となるとパテントの申請時期はかなり早かったのだけど、実際にパテントも降りた頃にはすでに一世代前の安全燈ということになってしまい、輸入のウルフ揮発油安全燈やサイペル揮発油安全燈、そして横田式や本多式などの国産揮発油安全燈のライバルともなりえなくて、人知れず日本炭鉱技術史の記録に残らず消えてしまったのではないかと想像します。これが揮発油燈だったら各種安全燈試験の対象になってもおかしくはないのでしょうが、安全燈静止瓦斯試験機が小柳製なのに、試験対象に小柳式安全燈がないというのも皮肉なものです。もっとも小柳金属品製作所は自身の安全燈開発のために設計したのがこの安全燈静止瓦斯試験機だったのでしょうけど。また気流瓦斯試験機のほうはさすがに外国製だったようです。
 銘板をよく見ると小柳金属品製作所の所在地は東京市京橋区新佃西町となっているので調べたところ、いろいろ住居表示に変遷はありますが、現在の中央区佃2丁目のあたりでしょうか。場所的に考えると旧石川島造船所の下請け的な仕事もあったのかもしれません。佃島はいまや高層マンションが林立していますが戦前は漁師の町で、昭和39年まで対岸から渡し舟が通ってました。戦災を免れたこともあって二十数年前までは住吉神社近辺に細い路地があり戦前の木造住宅が多く残る非常に味のあるいい町でした。よく古いカメラを持って路地から路地を歩き回っていたことがあるのですが、もしかしたら知らずに小柳金属品製作所跡を通り過ぎていたかもしれません。
 ここにきて神戸大学図書館がデジタル化してくれた興味深い古い新聞記事に行き当たりました。中外商報大正6年7月11日のものですが、要約すると小柳金属品製作所は職工500人を抱える近辺でも屈指の工場であったが、前月に会計主任の小口某が(当時の金額で)三万円を横領していたのが発覚し憲兵隊に検挙されたことで出資者数名が善後策の検討を工場主に迫るも工場主はこれを放擲し、また職工たちも物価高騰の折、賃上げを要求するもこれもそのまま放置し、賃金支払日の10日になって突然表門に「機械修理のため臨時休業」云々の張り紙を出し職工の大半を解雇することを聞き知った多数の職工が表門に押し寄せたのを月島署が警戒しているというものです。たぶんこの日を以って小柳金属品製作所は事業停止になってしまったのでしょう。また別の記事によると、この小口某というのは花柳界に出入りしてこの会社の運転資金三万円を使い込んだとあります。従業員500人を抱える近辺でも屈指の大工場というと新聞記事に書かれていましたが、この記事より3年前の大正3年の東京府工場統計によるとこの時点での従業員総数はたったの20名ですので、「従業員500人の近辺では屈指の工場」というのは相当大げさに書かれたようです。この規模なら小工場の部類で、このとき同じ町内の石川島造船所は従業員1049名の当時としては正真正銘の大工場です。また製造品目も鉱山燈ブリキ缶装飾金具というような小柳式安全燈以外は取り立てて技術的にどうのこうの言うような製品ではなく、実際にはちょっと規模の大きい板金屋という程度の技術力の会社だったのでしょうか。この合資会社小柳金属品製作所は、結局事業継続資金に窮し、債権者によって清算させられ、工場敷地ともにどこかに売却され、現在は高層マンションが林立している大川端リバーシティー21の一部になっているというのが正解なのかもしれません。石川島造船所はこの翌年大正7年から第一次大戦の戦災による船腹不足で造船事業が大幅に増収増益して事業基盤を確固たるものにしていきますが、このおこぼれに少しでもあずかっていれば小柳金属品製作所も昭和の恐慌までは生き残っていたかもしれません。
ところで、同じ東京府工場統計の神田区のところを調べても江戸商会というのは掲載されていません。横田式や江戸式の江戸商会という会社はどうやら工場を構えていたわけではなく、完全な問屋というか商社を神田区の今川小路に構えていたようです。ということは、横田式や江戸式などの江戸商会製安全燈は自身が製造所を兼ねていたわけではなく、どこか別の下請けに作らせていたということになり、そうなると俄然、横田式安全燈に関しては小柳金属品製作所の関与が疑われます。どうりでなんとなく小柳式と横田式および江戸式は加工や仕様にある共通点が感じられるのですが、もしかしたらというかかなりの確率で江戸商会がこの小柳金属品製作所の出資者の一つであり、小柳金属品製作所に横田式や安全燈検査機などの付属物を製造させていたとなれば、小柳金属品製作所の主要製品のトップが「鉱山燈」で、従業員も20人以上いたとしてもおかしくないのでしょう。さらに江戸商会はこの小柳金属品製作所騒動後の大正8年に東京で開催された「災害防止展覧会」に出展してますが、そこに横田式とならんで丸型と鎧形のウルフ式揮発油燈ならびピーラー式検査燈に開錠装置や検査装置、整備機械などを展示しています。元から輸入のウルフ式揮発油燈の国内販売代理店となっていたのかもしれませんが、それよりコストの安い国産の横田式揮発油燈と二本立てで商売をしていたことになります。このときまだ横田式の改良型である江戸式はまだ完成していないようですが、この時点ですでに小柳金属品製作所は存続していないと思われるので、この江戸商会は安全燈製造に関する製造設備を小柳金属品製作所から引き上げ、別な業者に渡して横田式安全燈の生産を継続したのではないかとも考えられます。しかし、正規の輸入品ウルフ式揮発油燈を扱っていた江戸商会にとっては、となり日本橋に店を構えてウルフ式丸パクリの本多式揮発油燈を大々的に売り出し、本家ウルフ揮発油燈のシェアを席巻したコピー品販売の本多商店はまさに商売敵以上の存在だったのでしょう。本多商店は関東大震災後から現在に至るまで存続していますが、江戸商会は関東大震災後その動静が途絶えます。まさか小柳金属品製作所は本多商店からの発注を受けて本多式揮発油燈の製造にまで係わってはいなかったでしょうが、もしそうであればこの小柳市太郎という人物は策士です。それで従業員が3年で20人から500人に急成長を遂げたということは現実的には考えられないでしょう。もっとも第一次大戦特需で軍需品の生産に手を染めていたとすると話は別で、従業員が20人からいきなり500人に増えてもおかしくはありません。それくらい従業員がいないとなかなか三万円という資金を会計主任が着服できないかもしれません。
 ちなみに東京府工場統計をよくよく調べ返してみると、小柳金属品製作所と同じページに個人商店時代の「本多船燈製造所」というのが出てきました。八丁堀というと旧日本橋区だとばかり思っていたら京橋区に属しており所在地は本八丁堀五丁目で本多敏明という人の個人商店です。後の大正六年に本多商店と改組されるようですが、この時点で従業員は20人で小柳金属品製造所と規模は殆ど変わりません。製造品目は鉱山用安全燈及船燈ということで、船舶用の標識燈などの製造も行っていたようです。

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June 19, 2011

クラニー安全燈(炭鉱用カンテラ)Hughes Bros. Scranton PA.

Photo クラニー燈というのは英国の医師が本業であったウイリアム・クラニーによって開発された、デービー燈の金網による燈外メタンガスへの引火防止機構を応用しつつ、炎が金網で囲われてしまったために本来の明るさの30パーセントしか利用できなかったデービー燈の暗さを腰硝子を用いることで解消した炭坑用安全燈です。日本におけるクラニー燈使用の嚆矢は早くも明治初年にトーマス・グラバーと鍋島藩の共同開発によって開鉱された長崎の高島炭鉱のようですが、すぐに土佐藩の後藤象二郎の手に渡り、近代採炭法が試されるも成功には至らず官営を経た後、土佐出身の岩崎弥太郎に譲り渡され、昭和61年の閉山まで三菱の手によって経営されてきました。筑豊地区で安全燈が使用され始めたのは以外に遅く明治30年代も中ごろの日露戦争のようで、それまでは土瓶のような形をした裸火のカンテラが使用されてきましたが、相次いで竪坑が開坑して採炭場所が深くなるにしたがい、メタンガスの爆発による災害の洗礼を受けるようになり、筑豊のヤマでも急速に裸火のカンテラから安全燈へのシフトが進んでいきます。明治40年あたりから大手のヤマを中心に煤の出る油安全燈からウルフ式を決定版とする揮発油安全燈に代わっていきますが、大正期に入ると大手のヤマを中心に充電式帽上灯(いわゆるキャップランプ)が普及していき、昭和になると安全燈は明かりとしての役目を終え、簡易メタンガス検知器としての役割になります。
 今回入手した安全燈は数年前からしばしばオークション上に登場する謎の安全燈で、スタイルがまるっきりドイツのものなので、古いサイペル式ベンジン燈かと思いしや、実際はウィックピッカーで芯を上下する平芯の油灯でした。形式的にはクラニー燈ということになります。下から貫通するロックボルトが螺子でせり上がり、ガードピラーリングの切り欠き部分に嵌まり込むことで坑内で安全燈本体を分解できないロックシステムを備えますが、これもドイツの初期サイペルに多い形式です。サイペルも揮発油燈以前はクラニー燈を製作しており、当初はてっきりサイペルのクラニー燈かと思ってました。クラニー燈というと軽く110年ほどは経過している計算になりますが、金網のトップは失われ本体も一面に錆に覆われ、残っている銘板はすでに判読不能。銘板に赤外線を当て、赤外線スコープで判読を試みたところ、興味深い事実が判明してしまいました。銘板に辛うじてHughes Bros.の名前が見て取れます。ドイツ製だとばかり思っていたこのクラニー燈はアメリカの炭鉱地帯で有名なペンシルベニア州のスクラントンに存在したヒューズ・ブラザースという会社で製作されたアメリカ製の安全燈だったのです。ヒューズ・ブラザーズの名前なら当方も知っていますが、一貫して旧式のニューカッスルタイプのデービー燈やクラニー燈、一見マルソー燈のようなボンネッテッドクラニー燈などを製造しています。しかし、独自の改良型安全燈を開発するような技術力がこの会社には無かったようで、アメリカの炭鉱でもウルフ安全燈やケーラー揮発油安全燈などが鉱山監督局の形式認定を取得し、各炭鉱に普及したことにより安全燈のビジネスから退いてしまったようです。それでなくとも鉱山保安監督局からデービー燈やクラニー燈の流動メタンガスに晒された場合の危険度がリポートされていたでしょうし、エジソンによって発明された帽上蓄電池灯が普及してからは、尚更旧式安全燈の製造は衰退してしまったのでしょう。終末期になるかどうかは知りませんが、1915年のヒューズ・ブラザースの広告に旧式デービー燈やクラニー燈が掲載されています。しかも英国スタイルの安全燈に混じって今回のようなドイツスタイルのクラニー燈が載ってました。1915年というと日本でも直方の安全燈試験場(後の直方石炭坑爆発予防試験場)で盛んに各種安全燈の危険度実験を行っていた時期になります。
ちなみにこのペンシルベニア州スクラントンには他にもAMERICAN SAFETY LAMP & MINE SUPPLYとかJAMES M.EVERHARTなどという安全燈メーカーが存在しており、いずれも英国スタイルのデービー燈クラニー燈のデッドコピーを製造していたようです。ヒューズ・ブラザーズを含めてすべて金属加工屋で安全燈以前は坑帽の前に取り付ける真鍮の灯火器(OILWICK CAPLAMP)などのブラスウエアや、ほかに坑道の風速を計るアネモメーターや各種炭鉱用計測ゲージなんぞを作っていたようです。
 余談ながらこのペンシルベニア州のフィラデルフィア北東に位置するスクラントンという町はまさに時代とともに石炭で栄えて閉山で衰退していった町で、何か夕張市に象徴される「閉山凋落の町」のようです。夕張と違うのは、単に石炭を他の工業地域に収奪されただけではなく、スクラントンの町自体に早くから製鉄所が建設され、鉄道の支線も建設されて、一時は産業と鉄道交通の要地になったようです。また、町には全米で初めて1886年に路面電車が開業し、「エレクトリックシティ」という愛称までつけられていましたが、1900年代初めに原料調達の便から製鉄所がエリー湖沿岸に移転したことから、単なる採炭地として他の工業地帯に石炭を供給する町になってしまいました。さらに第二次大戦後、産業界が石炭から石油エネルギーへの転換が進んだことからこの町は衰退し、すべての鉄道が廃止され、エレクトリックシティーの愛称由来となった路面電車も1954年に無くなり、人口も最盛期の半分以下に減少し、日本の採炭地同様に凋落の道を辿っていったようです。このスクラントン周囲のワイオミングバレーと呼ばれる炭田地帯は、すべて炭化度が進んだ無煙炭の炭田だったようで、そのためメタンガスのリスクが少なくこのような旧式のデービー燈やクラニー燈でも危険度がさほど高くなかったため、かえって安全燈の技術革新が遅れたのではないかと思われます。
 さて、このヒューズ製クラニー燈を日本に持ち込んだのはどんな商社で、どこの炭鉱で使われたのでしょうか。残念ながら他の安全燈同様に特定の炭鉱を示すような刻印などはありません。しかも過去数個ほど同じ広島は芸備線沿線の町から発掘されていますが、このあたりは過去ロウ石や石灰石の露天採掘くらいしか鉱山の存在は思い当たりません。となると、隣は山口県の宇部炭田あたりからもたらされたものでしょうか。宇部近辺の炭鉱ではかなり早い時期にクラニー燈が使われていたとしても不思議はありません。なぜ、ニューカッスルスタイルのデービー燈、クラニー燈が基本のヒューズ・ブラザースにドイツスタイルのクラニー燈を作らせたのかという疑問に関しては、想像するしかありませんが、三井物産が取り扱ったドイツサイペルのサイペル式揮発油燈に外見だけ似せた「まがいもの」を日本の輸入代理店が作らせたのでしょうか?当然のことながら揮発油燈より油灯のほうが製造コストが安いですし、油灯は菜種油でも魚油でも使用出来た(実際には灯油と半々に混合していたそうです)ため、中小のヤマでは燃料入手の面からもあえてクラニー燈を使わざるを得なかったというのが真相かもしれません。ただ、揮発油燈に比べて菜種油や魚油を使用したクラニー燈はガーゼメッシュに溜まるカーボンも多く、赤熱されたカーボンがメタンガスを含む坑内通気に晒されると、たとえ風速が小さい(風速1.5m/S)ときでも燈内火焔の動揺激しく、燈外メタンガスに引火する可能性大で、きわめて危険であるという実験結果が大正期に発表された直方安全燈試験場の「各種安全燈実験成績」に出ています。


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January 02, 2011

ニューイヤーQSOパーティー参加中

  今年で何回目の参加なのか定かではありませんが、とりあえず12枚のシールを獲得するために今年もQSOパーティに参加中です。昨年は2日から3日にかけて大雪に見舞われ、いつもの運用場所である高台の公園を追い立てられてしまい、コンディションもさることながら、2日でやっと局をこなすという危ない橋を渡りましたが、今年はHFのコンディションも昨年よりはかなり良くなったようで、14メガでも日中に6エリアから4エリアあたりまでの伝搬が戻りつつあるような感じです。前回の運用が8月末で、それ以来の運用になりましたので、四ヶ月ぶりの声だしとなりました。相変わらずローバンドでCQを出してもなかなか取ってもらえず、QSOパーティーの追っかけに回っています。

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October 21, 2010

北海道のアマチュア局プリフィックスがJL8からJM8へ

  2000年9月から割り当てが始まり、10年の長きにわたって続いてきたJL8コールがついに今月に入りJM8コールの割り当てに変ったようです。電話級アマチュア無線技士試験が始まった直後に割り当てが始まった3文字サフィックスのJA8コールは1959年から1975年までの16年間続きましたが、その当時はアマチュア無線技士の総数が今とは比べ物にならないくらい少なかったわけですからその記録は現在とは比較になりません。無線人口が急激に増加した20年ほど前はJF8コール割り当て中だと思いましたが、その頃はあっという間に自分のプリフィックスが過去のものになり、2年も経たないうちに次々にプリフィックスが変っていくのが当たり前に感じていたという話でしたが、現にJF8→JG8→JI8→JJ8→JK8までたったの10年しか経っていません。JL8コールは割り当てが終了時点まで、最初に割り当てを受けた局が2回も再免許申請を出した計算になります。その永遠に割り当てが終了しないと思われていたJL8も過去のものとなり、現行プリフィックスというだけで10年前に開局した人も最近開局した人もまとめてなんとなくニューカマー扱いされていたような観念も薄まってゆくことでしょう。しかし、このペースで行くとJM8コールが終了してJN8コールに移行するのは20年後くらいかもしれません。

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October 20, 2010

Greco BW-600 ブローラ

Bw600
 俳優の山崎大輔がさんま御殿に出てきて「妻はジューシーフルーツのイリア」っておそらく五回は叫んでいたので、急に思い出したようにGrecoのBW-600 ブローラを出してきてしまいました。ジューシー時代のイリアさんと同じブロンドカラーのブローラです。ただし当方のブローラはメイプル指板で、イリアさんのブローラはローズウッド指板でしたが。このBW-600はフルオリジナルのワンオーナーもので、当方が千歳烏山時代に三鷹楽器烏山店から新品で買ったものなので、当然のことながら部品などは一切変えられていません。しかし、購入したのは昭和58年の12月で、製造から5年を経ていましたので、おそらく神田商会の倉庫あたりからデッドストックを穿り出してきたのでしょう。当時三鷹楽器の烏山店にはこういう怪しげな掘り出し物がけっこうありました。しかもプレミアが着くようなご時勢ではなく、円高ドル安で輸出産業も不況にあえいでいた頃だったのか、28000円という放出価格で入手しました。また当時グレコのオリジナルシリーズというのは、まだまだ価値を見出す人間も少なく、そろそろ富士弦母体のフェンダージャパンが台頭しはじめる頃でした。とはいえ、ボーナスも出ないような不況の時期に遭遇し、現金28000円というのは清水の舞台から飛び降りるような覚悟が必要だったのは言うまでもありません。
 このブローラを最初に構えたときの印象は、ネックが短いなぁというものでした。実際にはレスポールあたりのミディアムスケール相当だと思いますが、ストラトのネックに長い間慣れ親しんでいたたため、扁平な指板と共に弾きにくいと感じてました。そういえば以前、トーカイの処分セールを見に行ったヤマハ渋谷店の店員に「ストラトばっかり弾いていたら他のギターが弾けなくなる(笑)」と嘲笑されたことがありましたが、ストラトのスケールとネック形状に慣れ親しんだ感覚で一時ムスタングに宗旨替えしたときは「ショートスケールのフェンダーはなんて弾きやすいんだろう」と感激したものでした。
 閑話休題、このGreco BW-600 ブローラは20年ほど前から急に欲しがる人間が増えたようで、さらにギターグラフィックの第5号のグレコ特集が火をつけた形になり、今でも探している人の多いギターではないでしょうか。かの野村のよっちゃんがブローラを欲しがっていたので、結婚祝いに野村輪業経由であげようかと思っていたのだけど、けっきょく今でも手元にあります。一説によると100本しか作らなかったという話ですが、本当にそんなに少ない製造数だったのでしょうか?製造は昭和53年の10,11,12月の3ヶ月に集中していてそれ以後の製造ものは見当たりません。当方の製造番号もL78です。フロイトローズ全盛期に入手したブローラのTSビブラートは「なんじゃこれ」と思いましたが、確かフォルクスワーゲンのサスペンションシステムを見て思いついたって話だったかなぁ。ボディはシカモアのトップにアッシュを組み合わせた構造で薄く木目が見えています。ネックはメイプルらしく構造をローズウッド指板と共通にするため、貼りメイプル指板になっているようで、ストラトのようにネック裏からトラスロッドを入れるような構造ではないため、貼りメイプル指板であることは確かでしょう。メイプル指板仕様のインレイは確かメキシコあわびだったような。ハイポジションも弾きやすい24フレット仕様なのですが、ネックの形状が自分の好みではなかったため、またヘッドの傾斜によるストリングスのテンションがきつく、ヘビーボトムのアーニーボールを常用する当方のメインのギターになったことはありませんでした。一度、このギターを背負ってオートバイに乗っていたときに右折の車が飛び込んできて衝突、転倒しましたがギターは無事でした。しかし我がカワサキの2ストローク3気筒KH-400は哀れインナーチューブと三叉をひん曲げて修理工場行きに。このとき以来キカイダーじゃありませんがギターを背負ってオートバイに乗ることだけはやめておきました。いろいろと思い出深いブローラですから売れといわれても売りませんぞ。

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October 14, 2010

NIKKEI No.250 8インチ学生用

 あまりにも高すぎる値段設定のために昨年あたりからずっとオク上に出っぱなしの物があるせいか、今一つありがたみが薄れたNIKKEI計算尺ですが、どうして未だに希少尺の部類の計算尺には違いありません。5年でオク上に登場した数は10本に満たなく、それもすべて5インチポケット尺と8インチの学生尺ばかりです。いままで5インチポケット尺を2本入手していましたが、今回8インチのNIKKEI学生尺を入手しました。しかし、アメリカには両面計算尺から10インチの片面計算尺なども多種輸出されているようなのですが、国内には両面計算尺はもちろんのこと片面の10インチ尺さえまったく見かけることがありません。NIKKEIブランドの日本計算尺に関しては以前からいろいろ書いてきましたが、主に北米向きに計算尺を輸出していた会社らしく、自社では製造せずに下請けに製造をさせ、自らは販売を主要業務にしていた会社のようです。両面計算尺こそHEMMIのOEMのようですが、片面計算尺は裏面いっぱいに金属のバックプレートを配してピンにより上下の固定尺を固定するという他に見ることの出来ない特殊な構造で、オリジナリティーを感じさせる計算尺です。マークが日本の日、すなわち太陽を意味する○に・で、ニッスイのマークに被ってますね(笑)
 北九州から入手したNIKKEI計算尺のモデルナンバーはNo.250で8インチの学生尺は200番台の形式名が与えられていたようです。表面は学生尺としてはHEMMIのNo.45Kなどと同様に√10切断ずらし尺にK尺を加えたK,DF[CF,CI,C,]D,A,の7尺構成ですが、30年代初期の中学生計算尺によくあるように滑尺裏の三角関数が省略されていてブランクになっています。同様に滑尺裏がブランクの学生尺はFUJIのNo.86やRELAYのNo.80,No.81などがありますが、滑尺裏にセルロイドを貼るのを省略して竹の素材がそのままのためにセルロイドの経年劣化による縮でセルロイド側に反ってしまうという共通の欠点があります。もっともこれらの計算尺は中学生の3年間使えれば良いというスタンスだったのでしょうから、50年後に「反ってしまうという重大な欠陥がある」などと書いても「当時は想定外」などと言われてしまいそうですが。この8インチのNo.250は5インチの100系計算尺では問題にならなかった固定尺の反りという問題も持っており、薄い固定尺で片側にのみセルロイドを貼っていて、しかも素材の竹は接合により反りのこないような組み合わせ構造になっているわけでなく、単に竹の一本物加工となっていることにも原因があるようです。もっともたかだか2~300円程度の安物計算尺にここまで要求するのは酷ですが、5インチのものがしっかりしているのに8インチのものが反ってるというのは「狂い絶無・破損しないカーソル・断然値段が安い」のキャッチフレーズに偽りありですが(笑)
Nikkei250
NIKKEI No.250 8インチ学生用表面拡大画像はこちら
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