May 04, 2012
April 08, 2012
計算尺の世界では少数派の6インチ計算尺ですが、一回り小さい5インチポケット尺に比較すると目盛りの細密度がそのまま10インチ尺の縮小であるため、より精度が期待できる半面、拡大レンズでもなければ加齢で焦点が合わなくなった目には一寸厳しいものがあるかもしれません。もっとも当方も10インチ尺の目盛りだって今ではメガネを外さないと見えませんけどね。システムリッツの計算尺はドイツでは技術用の標準タイプとでもいうべき存在でしたが、A.W.FABERのコピーから始まった逸見式改良計算尺はJ.HEMMIの時代にはシステムリッツの計算尺は見当たらず、月桂冠の女婿大倉龜が逸見製作所に改組して商標をHEMMI "SUN"に改めた昭和4年以降に新系列の品番60番台として始めて市場に投入されました。当初はすべて逆尺CIのない10インチ尺No.60、位取り付き10インチ尺No.61および6インチ尺No.62および位取り付きのNo.63の4種類があったようですが、すぐにCI尺付きのNo.64および位取り付きNo.65、6インチ尺No.66にカーソル違いでNo.67,No.68,No.69のバリエーションを持つタイプにマイナーチェンジしてしまったため、逆尺の無いNo.60~63まだ現物を拝んだことがありません。またNo.60の初回生産ものはオーバーレンジがないそうで、カーソルもまだ3本線ではなかったようです。ただ極初期物のNo.64を一本所有してまして、そのNo.64は滑尺固定尺ともセルの剥れ止めの鋲があり、逆尺のみCIの刻印のあるレアものです。戦前のシステムリッツ計算尺のNo.64は技術用計算尺の標準品として大量に使用され、かの海軍兵学校でも√10切断系計算尺の通称兵学校計算尺を備品とする以前はNo.64を備品として使用していたそうです。そのため世の中に残るNo.64は戦後のものより戦前のもののほうが多いくらいのものですが、海軍兵学校でも備品の計算尺を変えたように戦後の片面計算尺は目はずれの少ないNo.2664及びNo.2664Sにその地位が取って代わられたのはよく知られた事実です。その多用されて数の残る10インチシステムリッツ尺に比べて小数派なのが6インチのNo.66です。このNo.66はNo.64が改良版のNo.64Tにモデルチェンジしたのちも、そのまま旧態依然の状態で出荷され、最終は緑帯の模様箱の時代まで下りますので、おそらく昭和44年あたりまで出荷が続いたのでしょう。昭和一ケタ台の最初期型は裏に大きなインストラクションシールの張られた黒擬皮紙貼箱入りで剥がれ止め鋲付き、その後剥がれ止め鋲がなくなってからなぜかK,A,B,C,D,Lの尺種類が刻まれた個体が出回り、その後再度尺種類の表記がなくなってしまいました。戦前初期ものは逆C型のA型カーソルで3本線のものが、大戦末期から戦後には改良A型カーソルに3本線というものが付属していましたが、A型カーソルは落としてガラスを割ってしまうことが多いらしく、後の改良A型カーソルのそれも副カーソル線の無いものに付け変えられてしまった個体も多く見ます。また延長尺部分の末端が昭和28年前後に変更になりA,B尺延長部分の始点が0.785から0.8に、C,D尺が0.895から0.9になったようです。これは10インチのNo.64も同様に変更されたようです。
入手先は大阪の堺市からで、多くの6インチ計算尺同様に商標ロゴが金箔押の携帯用皮ケース入りでした。皮ケースのフラップ裏に「大日本染料株式会社」らしき社名と個人名が手書きされていたので、おそらく元の所有者は化学屋さんだったのでしょう。A,B,C,Dの尺種類がうまく手彫りされていて、一見オリジナルかと見間違うところでした。
しかし、すでに二百数十本を数えるコレクションのうち6インチの計算尺はたったの3本なんですから、いかに6インチ計算尺の数が少なかったかということがわかるというもの。ポケット計算尺のように薄い構造ではなく、10インチの計算尺をそのまま短尺にしたような計算尺ですからポケット尺といえども重厚感がありますが、やはり胸ポケットに収めておくにはサイズが中途半端だったでしょうか。

一度やってみたかった60系システムリッツ尺三兄弟の揃い踏み(笑)
いちおう20インチの戦前No.70もあるのですが、さすがに一画面には収まりきりません。
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March 28, 2012
日本ではあまり出回っておらず、知名度も今ひとつ無いアキュマスの両面計算尺です。というのもこの会社の歴史は同じアメリカのK&Eなどと比べると非常に新しく、1938年創業ということですので日本でいうと昭和13年ということになります。しかも当初は中西部ミズーリ州の片田舎の町で木製尺を製造していたという会社ですので、その後は順調に発展というわけにはいかず後に権利関係が転々と変わり、工場もミズーリ州セントルイスからイリノイ州マウントオリーブ、ニュージャージー州マウンテンサイドと移転していったようです。創業当時の名前は創業地の地名から Festus Mfg. Coとでしたが1939年にACU-RULEになりイリノイに移転した1954年あたりからACU-MATHの名前に変わったようです。後にスターリングプラスチックという会社の一部門になったらしく、見慣れないSterlingの商標のOEMでいろいろなプラ尺を製造していようです。意外と日本製かもしれないと思われていたプラ尺がACU-MATHのOEMで東南アジア方面に出回っていた例も否定できません。アキュマスの計算尺は取り立てて重要かつ特殊な計算尺は見当たらず終始教育現場に特化したようなチープな学生用計算尺が多いようですが、特筆されることとしてわりと早い時期にマグネシウム合金を芯にし、表面にプラスチックを貼り付けた薄い構造の両面計算尺を生み出したことでしょうか。
このアキュマス No.1311はLOG LOG DECIMAL TRIGという愛称で、内容的にはK&Eの4081-3に相当し、アメリカではもっとも普通に利用された計算尺とほぼ同じ内容の計算尺です。日本ではHEMMIのNo.254Wあたりの計算尺に該当しますので、こちらのほうも一般技術者よりは高校生用の需要を当て込んだ所もあったのでしょうか。表面がLL02, LL03, DF [CF, CIF, CI, C] D, LL3, LL2で裏面がLL01, K, A [B, T, ST, S] D, L, LL1という内容です。同じく金属を使用した計算尺としてPICKETの計算尺がありますが、PICKETは金属の表面に目盛りを刻んだのに比べてACU-MATHは表面がプラという差がありますが、一般的には尺の種類を極限まで詰め込んだ種類のあるPICKETの計算尺のほうが人気が高いのは否めません。
入手先はドラマ「カーネーション」の舞台となった泉州岸和田で、なんでこんなものがだんじりの岸和田から出てくるのか不思議なものですが、明らかに戦後のもののようですからもしかしたらやはり米軍のアメジャンの中に混じっていたものがいまに伝わったのかもしれません。良質で丈夫な革ケースが付属している例が多い米国製計算尺ですが、さすがに破損の心配が無いマグネシウム芯の計算尺だからか、リコーのポケット尺のような簡単な皮のサックケースに入っていました。

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March 26, 2012
この計算尺は4年位前にまとめて手に入れた一本ながら放置しっぱなしだったもので、確かTECHNICAL STANDARDという英国尺とセットで手に入れたものだと思いました。名前はUNIQUE UNIVERSALというものでこのUNIQUEは同じく英国の会社で元は楽器なんかを作っていた会社だと聞いたような聞かないような…。計算尺の製造は1910年代後半から1970年代半ばあたりまでのようで、終末期には欧米の計算尺メーカーのほとんどがそうであったようにプラスチック計算尺にシフトしていったようです。それも多分は日本の山梨県内のメーカーのOEMだったかもしれません。会社自体は計算尺から撤退後も1980年代半ばまで存続していたようです。
このUNIVERSAL型は計算尺はUNIQUEのうちでも初期から販売され続けた計算尺で、のちにUNIVERSAL I を経てUNIVERSAL II にマイナーチェンジしながら70年代初頭まで販売されたようです。材質はマホガニー材で初期の英国系計算尺の多くがそうであったように木材の表面に目盛りを印刷した紙を貼り、上から透明なセルロイドをラミネートしたような構造になっているため、透明セルロイドが経年で黄変しているため、全体的に古めかしく見える原因になっています。尺は表面のみで滑尺を裏返して使用することは考えられていません。尺配置はLU,S,A,[B,CI,C,]D,T,LLの9尺です。LUはLL2、LLはLL3に相当します。三角関数が固定尺上にあるのが使いにくいためか、UNIVERSAL II にマイナーチェンジしてから三角関数尺は滑尺表面上に移動してます。ちなみにUNIVERSAL I 型は尺配置は変化せず尺種別が明示され、UNIVERSAL II 型はLU,A,[B,S,T,C,]D,LLと三角関数尺が滑尺に移動した代わりに逆尺がなくなりました。このUNIVERSAL型はカーソルバーが金属の初期型で、推定年代は1920年代末から1930年代初期くらいまでの製品でしょう。かなり早い段階から日本に入っていた個体らしく、元手以上に使い尽くされた観のある計算尺です。ケースもはげてみすぼらしくなったためか、別な紙を貼ってそこに元のケースに印刷されたロゴまで手書きされているというもの。しかし逸見次郎が苦労して竹製計算尺を開発した例でもわかるように、マホガニー製の英国尺は日本の環境には合わなかったようで、経年で反ってしまい、滑尺と固定尺がスカスカなのは仕方がありません。また滑尺が左右に飛び出す構造のため、わずかにA4スキャナーからはみ出してしまいました。

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March 21, 2012
この安全燈は北海道内から出てきた代物ですが、このような見たこともない形式の安全燈を道内のどこかの炭鉱が使用していた事実はないはずだと一瞬わが目を疑いました。形式的には下に吸気リングを有するウルフ揮発油燈の変種なのですが、再着火装置のつまみが油壷の横からはえています。またこのような揮発油燈は日本の文献には一切紹介された事がありませんし、日本の炭鉱で使われた輸入の安全燈類は研究用を除き英米独の3国以外から輸入された形跡がありません。となると、この3国以外で製造された安全燈ではないかということで調べた結果、どうやらフランス製の安全燈ではないかということになりました。ところが刻印が一切無いのでメーカーや形式を判断するすべが無く、まして英語で検索してもイギリスやアメリカの安全燈は山のように引っかかりますが、フランスやベルギーおよびオランダあたりの安全燈はまったく引っかかってきません。イギリスの国民性なのか産業革命の要となった石炭産業を誇りにする人々が多いらしく、産業史としての炭鉱研究が非常に盛んなのにくらべて、フランス人の合理主義から炭鉱の歴史などは見向きもされないのかと思って試しに仏語で検索を掛けるとイギリスに勝るとも劣らない炭鉱関連の記述がヒットしました。フランスでも重工業発展の糧になった石炭産業は特別なリスペクトを持って研究が進んでいるようです。それにくらべて日本では炭鉱の興味の対象が廃墟マニア的な視点からのものが多いようで、石炭産業に対するリスペクトの度合いが薄いということが欧米とは大きな違いになっているような気がしてなりません。廃墟を見てそこに携わった人間の生活を見ずというところでしょうか。
フランスの炭鉱はベルギーと国境を接する北東部のノール=パ・ド・カレー地域圏に集中しているようで、ここは石炭と鉄鉱石を武器にして重機械工業が古くから発達したようです。そのためか第一次大戦と第二次大戦では開戦初頭からドイツ軍の戦略目標となり、特に第一次大戦では西部戦線の主戦場となって塹壕戦が繰り広げられた場所になります。また北部のダンケルクはドーバー海峡を挟んでイギリスと接しており、ドイツの電撃戦によって南北に分断された連合軍が大量の物資を放棄してここダンケルクからイギリス本土に撤退しました。そのノール=パ・ド・カレー地域圏の炭鉱地帯に近い町にアラスという町があり、その町の名前が由来となったのかARRASという会社が各種油燈安全燈やカーバイド式安全燈、ウルフ式の揮発油燈からシェノー式検定燈まで幅広く製造していたようです。ややこしいことに最近亡くなった音楽家モーリス・アンドレの生まれ故郷、南仏にアレスという町があり、ここにも以前は炭鉱がありましたがノール=パ・ド・カレー圏のアラスとは綴りが異なります。ちなみにフランスではドイツ同様に大戦後になっても揮発油燈が照明としての用途で1960年代まで使い続けられたようで、そのため揮発油燈自体の製造も1960年代まで続けられたようです。このウルフタイプのARRAS揮発油燈は第一次大戦前から1960年ごろまで長期間にわたって製造されたようでロックシステムなどにいろいろなパターンがあります。今回は一般的なウルフパテントによるマグネチックロックですが、中にはガードピラーリングに切込みが入っていてそこに油壷から伸びたブラスのスライダーをかみ合わせてロックするというリードリベットロックの変形版も存在します。本家ウルフ揮発油燈と異なり薄い平芯を使用していて幅が17ミリほどあります。さぞかし明るい安全燈だったのでしょうが、揮発油燈の平芯は少数派ということもありかなり燃費は悪かったと思われます。油壷の横に着火装置のつまみが飛び出していますが、後期のウルフ燈と異なり、発火合金を使用したライター式の着火装置ではなくむしろ前期のウルフ燈のようにパラフィンワックス式の巻き玉火薬のようなテープマッチを使う摩擦発火装置が仕込まれています。妙に黄色っぽい腰硝子が付いていると思ったら、なんと高級クリスタルグラスメーカーのバカラ社のマークが入っていました。このバカラの腰硝子というのは特別な存在ではなく、フランス製安全燈には広く使用されていたようです。世界的な名工房の名に恥じず、安全燈の腰硝子にしておくのはもったいないくらいの名品です。ボンネットトップと油壷側面に37番のピットタッグがロウ付けされていました。丸型ボンネットは一般的な黒のエナメル塗装ではなく儀杖隊のヘルメットのような銀メッキです。世界的にも地下の坑道で炭塵にまみれる安全燈に銀メッキをあしらうなどということをするのはフランスくらいなものではないでしょうか。また揮発油燈としてはかなり背が高く、通常は25.4センチ(10インチ)のものが多いのに対してこの安全燈は28センチほどもあります。このARRAS安全燈の形式はTYPE Cとなるようですが、フランス製の安全燈に関してはまだまだ勉強不足な点もあり、これからの研究課題とさせていただきます。ところで明治大正期に輸入実績が見受けられず、直方安全燈試験場の安全燈試験場のサンプルにもフランス製安全燈が見当たりません。おそらく初期の安全燈の輸入は三国干渉の当事国であったフランスからわざわざ本家ウルフ燈の亜流の安全燈を当初から排除し、アメリカ・イギリスおよび機械輸入で実績のあるドイツの三国からの輸入に限られたのかもしれません。そのようなことから輸入実績の無いフランス製安全燈が道内から出てきたことに関して売主に念のため確認すると、想像していたとおりフランスから輸入した雑貨類のなかに混じっていたということでした。どうやら純粋にフランス本土の炭鉱で使用されたもののようです。その話を聞いてちょっとだけ興味が薄れてしまいました。
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March 20, 2012
高級機械技術用計算尺という位置づけのHEMMI No.P261は、遥か以前に滑尺が青く着色された後期型を入手済みでしたが、初めて滑尺が白い前期型未開封新品を入手したのは、これもかれこれ3年も前になります。このNo.P261はいわゆるダルムスタッドタイプの両面計算尺なんだそうで、フルログログではないものの、A,B,尺に対して逆尺のBI尺が存在し、P尺を備え、さらにカーソル裏面には副カーソル線を備えるという内容です。
No.259Dとの機能的な違いについては以前に詳しく書きましたので省略しますが、普段使いにはこれ1本でかなり「使える計算尺」ということが出来るでしょう。もっとも一連の山梨技研系OEM製品で材質が塩化ビニール素材ですので、竹材の計算尺と比べると、道具としての愛着に欠けることは否めません。この前期型No.P261はどこが出所だったのか、栃木の工具ブローカーが半年に渡り、それこそ牛の涎のように何本も出品してきたもので、落札金額も過去に後期型の未開封新品が25,500円などととんでもない落札額がついたことがありましたが、この業者が10本あまりも出品したNo.P261の前期型は1,000から2,200円くらいの範囲までしか値段が付かなかったものです。未開封新品で元値の半分から1/4の落札額にしかならないわけですから、これは1本落札しないわけにはいきませんが、いったい相手が何本持っているのか、腹のさぐり合いではありませんが、結局8本目くらいの出品のものを1,100円で落札したものです。両面の機械技術用計算尺未開封品が1,100円ということはまありませんが、これがNo.259DやNo.260あたりの未開封品となると、途端に落札額が5,000円以上に高騰するのですけどね。これというも次々に同じものが出品され、稀少度が下がってしまった結果でしょうか(笑)刻印は「OK」ですから昭和39年11月の製造で、おそらく翌年以降になって販売された製造分ではないかと思われます。No.P261の製造分としてはごく初期の製造時期にあたり、外箱は当時のHEMMI計算尺の多くがそうであったように赤の印刷で、角丸プラスチックブロー成型のケースは赤蓋のケースです。説明書は「6511Y」ですので、おそらく昭和41年度になってから発売に至ったものでしょうか。HEMMI計算尺はこのように本体製造刻印と説明書の印刷時期が1年くらいずれているものが普通ですが、「なぜ?」ということになると、確かな答えが見つかりません。製造刻印は最終的に尺の目盛を刻んで完成品になったときに刻まれるものではなく、目盛の入らない素材の行程で入れられたものなのかもしれません。初期型と後期型にパーツの成形色以外、何か差異が認められないかと捜しましたが、数字などの書体が若干異なる以外にゲージマークの数や目盛の刻み型などに大きな違いは認められませんでした。
しかし、このNo.P261は同様な機械技術用のNo.250DやNo.260に比べるとかなり数量が少ない計算尺だったことは確かで、オク上に出てくる数もこのときのようにどこからかまとめて出てくるような機会でもなければ年間に数本単位でしかでてこないような稀少な存在です。昭和40年代全般に渡って発売され続けていた計算尺なのに、何ででしょうねぇ。けっこういい計算尺だと思うので
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March 19, 2012
陸軍の砲兵用計算尺としては前回大東亜戦末期のHEMMI製苗頭計算尺を入手しましたが、砲術の理論というのは砲兵将校が会得するものであって、下士官兵が弾道計算をして砲を操作するものではありません。しかし砲兵以外の歩兵の装備として昔、曲射砲と呼ばれていた迫撃砲や小口径の榴弾砲などがあり、こちらは特別な知識なしに下士官兵が簡単に照準計算をするように、どれか特定の砲の照準装置付属品の類として作られたのがこの計算尺のようです。といいつつ正式名称や確証も得られないというのも、この手の日本軍の弾道計算尺に関しては解説がまったく見あたらず、当方もこれまで見かけたものはほんの数本です。また尺の種類が異なるタイプが見受けられますが、今回入手したものとまったく同じ物がほんの一月前にオク上に出品され、おそらく軍用品マニアにけっこうな高値で落札されていました。個人装備ではなく兵器であることの証明として東京工廠の検印を意味する「東」の刻印と滑尺と固定尺に同一のシリアルナンバーが入っています。また最大の特徴として砲金(not真鍮)素材の延べ板をフライス加工した全金属製計算尺で、そのために形状はHEMMIのスケール付き片面計算尺と同一ながらものすごく重い計算尺です。最初手にしたときは思わず笑ってしまうほどの重量でした。もちろん大リーグボール養成ギブスのように滑尺さばきを早くするため人間に負荷をかける目的ではなく、思わず厳しい鍛錬に根を上げた人間に「貴様それでも軍人か!」と制裁を加える責具のためのものでもなく、単に砲の付属物扱いのために当然のこと全金属製となったというわけなのでしょう。真鍮製では真っ黒になるか緑青に覆われそうなものですが、良質な砲金製ということもあり、六十数年の時代を経ても一部が黒ずんでいるだけで元の輝きは失っていませんでした。
スタイルとしては古いFABER CASTELの計算尺にカーソルまでそっくりですから、独逸の同種の砲兵用計算尺をスタイルごとコピーしてしまったのかもしれません。また金属に目盛りを刻む手法はもしかしたら戦後の「OZI DELTA計算尺」あたりにつながっているのかもしれません。 尺種類は流石に下士官兵でもわかるようにか英語を廃されてまして、表面が距離(10-10,000)[正弦(1-1300)、正弦(3199-1900)]距離(10-10,000)で滑尺裏が[距離(10-10,000)、正切~度1/16(0.01-45)、円周1/5400(1-800)となっており、裏返して使用するようになっています。基線長は一般的な10インチで全長は28センチ。上に28センチまでのスケールが刻まれ、下固定尺側面には28センチを140分割したスケールが刻まれています。「正切」は通常「正接」なのではないかと思いましたら、昔はこういう「切」の字を当てていたこともあったようで、誤刻ではないようです。さすがに竹製計算尺と比べると滑尺の動きはスムースとは言えませんが、まったく狂いはなく精度は抜群です。砲金製ということもあり滑尺溝にはグリース等で滑りをスムースにする必要があります。
ところで、砲兵や歩兵砲専従歩兵などは本来自衛のための小銃や拳銃を装備するのが一般的ですが、それすらも行き渡らず、自衛の兵器というと銃剣一本しか帯びていないということもあったようです。遙か明治の時代の砲兵は「牛蒡剣」と呼ばれた着剣装置のない銃剣状の刀剣一本で(明治陸軍になってからの砲兵は当初フランス式に銃装していたのにもかかわらず、後に取り上げられたそうな)不意に襲い来る清国兵やロシア兵と白兵戦を演じることもあったらしく、そうなると最後の手段として鉄扇代わりに金属製の計算尺で敵の頭を殴る使用法くらい考えていたのかもしれません(笑)これくらいの重量と形状があれば殴られたら確実に脳天をかち割られて絶命します(^_^;) でもこの砲金製計算尺というものは武器にはなかなか手ごろで、No.2664Sあたりの目盛り砲金製計算尺があったら防御武器のかわりに日常携帯したいなんて思いますが、いくら計算具と説明しても空港じゃ検査の際に取り上げられるでしょうね。
この手の軍用計算尺は茶色い皮製のフラップ付きケースに収まっていることが多いようなんですが、この計算尺は分厚いボール紙を芯にしたカーキ色キャンパス地でフラップのみ茶皮のとても丈夫なケースに収められていました。こんなケースじゃないと重いこの計算尺はすぐにケースの底を突き破ってしまいそうです。

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March 18, 2012
J.HEMMI時代の計算尺はすでに十数本が集まり、大正15年からHEMMI "SUN"に商標が変わる昭和4年ころまでの目まぐるしく変化した仕様の変遷が系統的に解明できるほどになりました。しかし、なぜこの数年間にこれだけの仕様変更が行われなければならなかったのか、その理由はいまだに判然としませんが、おそらくコピー元のA.W.FABERの仕様変更を受けて旧態依然なスタイルからの脱却を段階的に行った結果ではないかと思います。今回入手したJ.HEMMI刻印の逸見式改良計算尺は元来はNo.1でフレームレスカーソルが付いていたようです。さらに同時に出品されたものから推察すると福岡あたりのかなり老舗の文房具店に見本として置かれていたものではないかと思われます。そのため、長年の陳列の結果か、フレームレスカーソルの樹脂部分の加水分解でカーソル自体が失われたようで、なんとオキュパイド・ジャパン時代の改良A型カーソルに交換され、箱自体もオキュパイド・ジャパン時代の黒貼箱の中に入っていました。しかし、人手に渡って実用に供された計算尺ではなく、見本として長年置かれていた証明として経年ですすけている以外は驚くほどきれいなJ.HEMMI時代の計算尺でした。又、裏の換算表が一部破れていたり失われているものが多い中、このJ.HEMMI計算尺は完璧な状態で残っていました。
形態的には昭和2年から3年にかけてのもので、最終型のJ.HEMMI No.1が後のNo.47のようにA尺B尺にまで細かく数字を刻む目盛りなのに対してこちらのほうが目盛りの刻み方が以前のJ.HEMMI計算尺にほぼ等しく、しかし、尺の種類を表すA,B,C,D,の記号が刻まれ、セル剥がれ留めの鋲がスケール部分からは消え、固定尺と滑尺の左右3箇所つづの合計6本であること。裏側が竹のむき出しではなくセルの平貼りでカバーされていること。裏板は最終の厚いアルミ製ではなく以前と同じ銅板に錫鍍金で副カーソル線窓がオーバルであることなどの特徴があり、最終型の一歩手前の仕様である事がわかります。ちなみにJ.HEMMIからHEMMI "SUN"に変わる直前のNo.1は目盛りの切り方がそれ以前のものとまったく異なり、一見するとNo.47のようなものになり、バックプレートもアルミの分厚いものに変化し、裏の副カーソル線窓もオーバルから「⊃⊂」に変化します。それはHEMMI "SUN"の時代にNo.1/1として継承されますが、主に輸出に回ったようで、国内販売の主力は大正13年型のNo.102からHEMMI "SUN"時代に品番が変わったNo.50/1のほうにシフトしたようです。
今回入手したJ.HEMMI No.1は上がインチスケールで下がメトリックスケールで滑尺を抜いたバックプレートにはメトリックスケールというモデルですが、同じく国内販売ものでも上がメトリックスケールで下がインチスケール、バックプレート部分がメトリックスケールなどというものもあり、仕様は一貫していません。参考までにかなり以前に入手したJ.HEMMI時代の最終型も一緒に掲載しておきますが、こちらもフレームレスカーソル付きだったらしく、カーソルが分解して改良A型カーソルに付け替えられてました。
参考のためにJ.HEMMI No.1の2パターンを掲載します。上が今回のもので下がJ.HEMMI刻印の最終型。この間に目盛りの刻み方が根本的に変化しているのがわかります。上のモデルの裏面副カーソル線窓はオーバルで、下のモデルは⊃⊂。裏の金属板は上が銅板錫鍍金で下のモデルは分厚いアルミ板。ケースは双方とも長いフラップケースの同一のものを使用しています。双方ともオリジナルはフレームレスカーソル時代のものですが、ばらばらになってしまったためか後の改良A型カーソルに交換されています。

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March 17, 2012
久しぶりに1円で落札した計算尺です。戦前の藤野式鐵・鋳鐵重量計算器を戦後になって引き継いだのがコンサイスでしたが、コンサイスは従来の藤野式に独自のアレンジを加えて精度を高めたものがこのコンサイス金属重量計算器のようで、他に非鉄金属などの素材まで範囲を広げた重量計算器なる円形計算尺がありますが、こちらは「鋼・鋳鉄・砲金」の丸材角材の重量計算に特化した円形計算尺です。特に圧延・鋳物工場などの高熱になる職場ではビニール素材の計算尺だと熱による変形や精度の低下等のリスクを意識したのか洋白あたりの合金で出来た金属製で、コストもかかるためか現在はビニール素材の重量計算器は残るものの金属重量計算器はラインナップから落ちてしまいました。金属重量計算器と重量計算器の双方とも前期型と後期型の二種類が存在し、形態的には前期型はカーソルなしで後期型はカーソルが追加となった違いがありますが、ビニール素材の重量計算器には前期型と後期型は単にカーソルの有無だけではなく目盛りの振り方などに差異があるのに、こちらの金属重量計算器の本体には相違がなく、後期型にはカーソル追加のためセンターピン金具の形状に違いがあるくらいしか差異がありません。また金属重量計算器の裏側は前期型後期型ともに刻印や印刷等もないのっぺらぼうです。
このコンサイス金属重量計算器の原型であるというよりもコンサイス円形計算尺の元になった藤野式計算器について記すと、発売は大正時代中期で、発売当初から一般計算用、金属重量計算用、マニシストコンピューター(工作時間計算器)の3種があったようです。また尺貫法、ヤードポンドおよびメトリックが現実社会に混在していた時代の産物のためか、長さ、重量単位によってこの藤野式の金属重量計算器は5種類(二号器から六号器)に分かれておりその内訳は一般計算用を一号器とし、重量計算器のうち鋼材用で長さの単位がインチ・フィート・重量単位が貫・kg・ポンドのものを二号器、長さの単位がメートルで重量単位が貫・kg・ポンドのものを三号器、鋼・鋳鉄・砲金用重量計算器のうち長さがインチ・フィートで重量単位がポンドのものを4号器、長さがメートルで重量がキログラムのものを5号器、長さがインチで重さが貫のものを6号器、マニシストコンピューターが7号器という名称になっています。戦後になりメートル法の普及によって長さがメートル、重量がキログラム表記のものだけがコンサイスによって継承され、他のものが整理されたのは当然の成り行きでしょう。また乗除算用という刻印の藤野式計算器も見かけますが、途中から追加されたのか淘汰されたのかはわかりません。藤野式として20数年の発売期間がありますが、同じ種類の藤野式でも何度か刻印に変更があったようで、数種類のパターンモデルが存在するようです。
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March 15, 2012
個人商店時代のヘンミ計算尺に月桂冠の大倉一族の女婿である大倉龜が経営参加を申し入れたのが大正14年ですが、その大倉龜の意見を入れて海外に輸出することを主眼にして大正15年に発表されたのが大正15年型計算尺と呼ばれるNo.100番台の計算尺です。それまで発売してきたマンハイム型のNo.1に対して逆尺のCI尺を加えた物がNo.100、CI尺とK尺を加えた物がNo.102。それぞれ位取りカーソルが付属したものがNo.101とNo.103になります。また大正15年型計算尺には電気用の5"尺のNo.104と位取りカーソル付きのNo.105およびそれらの拡大レンズ付きのNo.106とNo.107がありました。この大正15年型計算尺の当時のパンフレットを昨年、偶然に入手しており、実物を入手していないのにもかかわらずその全貌が把握できてしまった次第。 このJ.HEMMI時代のNo.100番台計算尺はかなり希少な計算尺で、それでなくとも昭和4年にNo.50番台およびNo.83,84に発展してこの100番台は後に学校教材用大型計算尺の系列に化けてしまいます。100番台の大正15年型計算尺は位取りカーソル付きを除いて通常型のカーソルはフレームレス型で、見かけ上後のNo.50/1と異なります。このフレームレスカーソルは当時の世界的な流行だったようで、ドイツのA.W.FABERもアメリカのK&Eも片面尺はフレームレスカーソルでした。HEMMIの片面尺は言うなればA.W.FABERのコピーから始まったので、アルミフレームのカーソルからフレームレスカーソルになったのもA.W.FABERに追随したということなのでしょう。またCI尺K尺の追加もA.W.FABERに遅れてのことで、何らオリジナルのものではありません。J.HEMMI時代のNo.100,102と昭和4年に刻印がHEMMI "SUN"に変更になった後のNo.50/1,51/1の見かけ上の違いですが、当初は殆ど見分けがつかなかったと推測しています。というのもNo.50系列の最初期型は100番台同様にセル表面にはがれ止めの鋲がつき、カーソルもフレームレスカーソルが付属していた節があるからなのですが、それらは他の計算尺同様に逆CのA型カーソルに統一され、これもAW.FABERにならったのかはがれ止めの鋲も省略されて、我々が通常目にする戦前型のナロータイプのNo.50/1に変更になりました。No.100とNo.102の違いはK尺追加の有無にあります。No.100は単にマンハイム型A,B,C,D尺に逆尺のCI尺を追加した物、No.102はさらにK尺が加わりA,B,CI,C,D,Kとなっています。K尺追加の有無だけで2種類の計算尺を作り出すのは姑息な感じもしないではありませんが、さすがに後に仕様が継承されたのはNo.102のほうだけで、後に同仕様がないNo.100のほうが言いようによっては希少なのかもしれません。また、フレームレスカーソルはカーソルバーの劣化でバラバラになってしまい、完全品として残る確率は位取りカーソル付きの方が高いようです。 昨年同好の方々がNo.2645で盛り上がっているさなかに入手したのは位取り付きのNo.103ではないかと思って落札したもので、J.HEMMIとしては後期型の長フラップ付きケースに入ってました。場所は広島の呉からで、一緒にこれもとても古いAW.FABERの5"尺がでておりましたので、こちらのほうも一緒にいただいてしまいました。双方ともに呉の海軍工廠あたりで使用されたものなのでしょう。帝大出身の技術将校や軍属たちが艦船や兵器の設計に使用していたものなのかもしれません。後年のNo.51/1に比較すると固定尺および滑尺の鋲が際だちます。大正15年型計算尺のパンフレットを見ると、No.103の価格は当時で7円50銭となっています。この100番台計算尺は当方の知る限りここ数年で1本くらいしかオークション上では登場していませんが、前回出てきたのは昨年6月頃で、まとめて7本ほどの計算尺の中に混じっていました。そのときの落札者はそれが大正15年型のNo.103だったことに気が付いていたのかどうかはわかりません。とはいえ前回の物と異なり今回のNo.103と思われる計算尺は昭和4年直前のものらしく、初期のNo.103とは刻印が異なります。限りなくNo.51/1に近い仕様の後期型No.103といえるのか、新系列No.51/1と言うべきモデルなのか。とにかく大正14年から昭和4年までは計算尺のカーソルや刻印がめまぐるしく仕様変更されるため、「これ」という標準モデルがわかりにくいということがありますが、当方の結論からすると昭和4年の前半に作られたNo.103と同じNo.51/1でケースはJ.HEMMIの末期型をそのまま引きずり刻印だけは新系列になったものと理解すべきでしょう。ただ、No.103からNo.51/1に正式に品番が変更になったのは昭和4年の何月ころかはわかりませんが、この新系列の計算尺はケース裏に大きい英語のインストラクションシールの付いた蓋付きケースに収まっていますので、No.51/1とも言い切れない微妙な時期に発売されたものであることは確かなようです。しかし本来は表面にJ.HEMMI "SUN"と刻まれなければいけないものが、今回のものは滑尺を抜いたところに"SUN" HEMMI MADE IN JAPANとだけ刻まれてます。まあすべての固定尺、滑尺のセルが鋲止めなので、明らかに後のNo.50系列とは見かけが異なりますのでそれでも良しとしましょう。
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March 12, 2012
RELAY/RICOHの技術用計算尺中ではもっとも尺種類が詰め込まれた部類の計算尺がNo.151です。RICOHの機械技術用計算尺としては最高級の部類に入る、いわゆるフルログログデュープレックス計算尺で、HEMMIでいうところではNo.260あたりのポジションでしょうか。もっともHEMMIのNo.260はRICOHのNo.151よりかなり後発の計算尺です。このNo.151は延長尺部分が存在するために他の両面計算尺より長いという特徴があり、他の両面計算尺とはケースが共通化できないため、ケース本体は他の物と共通にして蓋だけ特別に長いものを用意してNo.151用にしています。RELAYの時代から作られている計算尺なのですが、RELAY時代は殆ど輸出に回ってしまったためか、なぜかしら国内からRELAY時代のNo.151が見つかりません。かなり以前に小型カーソル付きで青蓋プラケース入りの末期型を入手済みでしたが、この末期型は説明書こそありませんでしたが未使用のもので、もったいなくてそのままコレクション箱行きになってしましました。
そして今回、神戸から入手したNo.151は金属のカーソル枠が付いた中期型で透明塩ビケース付きのものです。刻印はRS-5なので昭和44年5月のものですが、おそらくこの年の末にはRICOHの片面計算尺も両面計算尺も青蓋のブロー成形で作られた塩ビケースに変更になったようです。また翌年にはCIF尺がグリーン化する機種(No.1051SやNo.1053等)もあらわれますが、No.151はラストまでCIF尺が黒目盛赤数字のままで終わってしまったのがマニア的には惜しいのでしょう。また、No.151のなかにはまるでHEMMIのNo.254W-Sの電子用のようにKI,AIの各逆尺にdb尺まで備えるような学校特注品と思しきものが過去見つかっており、また「OD No.151」という品番の滑尺裏面にBI尺が入った関係で滑尺表面にT2尺が移動した特注品などもあり、もしかしたらまだかなりの派生型が見つかるような可能性があります。それにしてもNo.151の数がNo.1051あたりと比べるとかなり少ないので、とんでもないNo.151に出会う確率は宝くじに当たるよりも低いかも知れません。ところで、数年前にNo.1510という同じく延長尺付きの両面計算尺が矢継ぎ早に10本近く出たことがありましたが、カーソルなどからして殆どNo.151の中期型と表面は変わらないようでした。裏を見たことがないので、なんとも言えませんがNo.151の輸出用の型番だったのでしょうか。ともあれ、No.151のほうはこれからさらに時代が下った昭和48年製まで確認されてますので、No.1051はNo.151の後継機種というわけではなかったようです。
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March 11, 2012
1991年春に発表されたPowerBookの第一世代である100,140,170の中で、170はIIci並みのCPUとモノクロTFT液晶を搭載したため、80万円前後という非常に高価なパソコンでした。そのためサブ機として使用するためには高額すぎてパワーブック100しか買えなかったユーザーは多いと思います。当然当方はパワーブックはおろかデスクトップのマッキントッシュさえ1993年まで導入が遅れましたが、その時でさえ財形貯蓄をおろして100万円を握り締めて買いに行かなければいけないほどマッキントッシュは高価なパソコンでした。マッキントッシュが値崩れして並みのパソコンになれ果てたのはパフォーマーなんかが矢継ぎ早に出始めた1994年夏くらいなことで、当方も富里のSTEPで仕事用にモニターも付属した発売直後のLC630を20万を切るくらいの値段で購入しましたが、そこにはすでにパソコン界のポルシェの片鱗さえもうかがわれないものでした。でも一年以上前に100万で購入したマックより速くてハードディスクも大容量なのは紛れも無い事実でしたが。 そのパワーブックを最初に手にしたのは1993年の夏のことで、当時30万円を切るパワーブックということで話題になった145Bです。自宅でデスクトップのマックを使用し、会社にはケンジントンのバックに詰め込んだパワーブックとスタイルライターIIを持って通勤してました。これも都内なのにも係わらず自宅から恵比寿まで車通勤だからこそでしたが、このパワブック145Bは248,000円くらいの定価で登場したところをヨドバシカメラで税別198,000円という20万円を切るプライスを提示されたために思わず購入してしまったものです。ところが間もなく定価改定で198,000円くらいの価格になったため、泣けました。その後仕事場でもLC630を個人的に導入してしまったため、145Bは誘導雷よけでデスクトップの電源を落としたような状況下でパソコン通信のレス書きをしたり、実家に帰省したときにパソコン通信の未読を落とすくらいにしか使ったことはありませんでした。モノクロ2階調の液晶画面ではカラーを前程にしたアプリケーションがうまく表示できなくなったことも出番が少なくなった原因でした。
第一世代パワーブックの170を触ったのはFSAKE自宅オフで出掛けた先のキッチンの脇に置かれていたもので、そのときはすでに現役から引退し、当方の145B同様にパソ通のレス書きくらいにしか使われていないようでしたが、薄く黄色っぽいフィルターが掛かったようなTFT液晶は当然のことながら階調のあるはっきりとした表示でした。処理能力的にはパワーブック145Bと同等ですが、コプロセッサーを搭載し、TFT液晶のモノクロ液晶モニターを備えた170は当時としても最高級の部類に入るノートパソコンでした。もっともパワーブック初のTFTカラー液晶モデルである180Cが出たあとは中古相場も一気にさがったようですが。
このパワーブック170ですが、10年ほど前に一種のオールドマック再生改造ブームの折にはけっこう高く取引されたようですが、さすがに最近ではさほど値段がつかずに取引されているようです。また、モノクロTFT液晶のパワーブックは170にしてもその後継機の180にしても液晶パネル自体の劣化でしばらく通電していると四隅が黒くなる現象がほとんどの個体に生ずるという困った問題を抱えていますので、ジャンク扱い以外が見つからない事が原因でしょうか。どうもこの液晶パネルの劣化というのは高温多湿の保管で劣化が早まるように思われます。中には液晶パネルの表面がとろとろに融けてしまったものも見受けられますが、そういう厳しい保管環境におかれていたものでもパワーブック100系統は、たとえバッテリーや内蔵電池が完全にだめになっていても、ACアダプターさえつないで電源スイッチで数回ブートパルスを送ってやれば起動を始めるものが多く、完全に液晶の表面が融けかかったパワーブックがポーンという起動音と共に起動を始めるのは何か上半身だけになってもターゲットを追い続けるターミネータみたいで、何か恐ろしささえ感じさせます。
今回、取り上げたPB170は140、150、165Cの4台セットジャンクとして1000円で入手したもので、3年ほど前のことでした。状態は液晶劣化はあったものの、起動FDを入れると起動が可能のものでしたが、メモリーとSCSIの2.5インチHDDが当然のことながら欠品でした。SCSI2.5インチHDDは10年ほどまえのオールドマックブームの際には万の値段が付くほどの貴重品でしたが、現在ではオークションを念入りに探せば入手できないということはありません。今回、秘蔵の未開封東芝540MBを開けたのですが、うまくターミネーションが効かず、外付けHDDをつけないとSCSI0のディスクとして認識してくれません。どうしても解決できなかったのですが、ひょんなことからアップルマークつきの純正2.5"SCSI HDDの中古を2個入手し、これを装着したらあっさり認識してくれました。メモリーですが、内蔵2MBでは漢字talk6.0.7ならともかく漢字talk7.1ではインストールさえ出来ません。PB170用の増設メモリーはportable用ほどではないにせよなかなかオークションにも出てきません。そういうわけでメモリー取りのためにもう一台ジャンクのPB170を入手してしまいました。残念ながら最初から付いていた2MBの増設メモリーだったので、合計は4MBになりました。これなら辛うじて漢字talk7.1も使用できますしRAM Doublerもインストールすることが出来ます。
しかし、PB170は漢字talk6.0.7がインストールできるタイプのパワーブックですから何とか6.0.7をインストールして「macが日本語に非常に不自由だったパソコン」であることの象徴であった2.1変換を試してみたい衝動に駆られます。ところがパワーブックの100,140,170の3種は漢字talk6.0.7はインストールできず、専用の6.0.7.1というバージョンしか受け付けてくれないのです。
漢字talk6.0.4および6.0.7なら数セット分くらい持っているのですが、ROM上のマシンIDが新しいマシンには古いOSがインストールできないのです。というのもこれら初代パワーブックは本国ではすでにSYSTEM 7.0付属になっていて、ハードウエア的にはすでにSYSTEM 7世代のマシン(起動音もビーンじゃなくてポーンです)なのですが、日本では漢字TALK7の開発に時間がかかり、翌年まで掛かってしまったため、急遽古い漢字talk6.0.7に手をくわえて本来はSYSTEM 7アーキテクチャーの初代PBシリーズに付属させたというのが真相なのでしょう。この漢字talk6.0.7.1という特殊バージョンは初代パワーブックシリーズ以外にはClassic IIやLC-IIなんかに付属していたはずです。このOSを単体で入手するのは15年前のアキバSofmapマック館のジャンク箱ならいざ知らず、オークションで出品されることもありません。ためしに内蔵ディスクを外付けにして6.0.7をインストールし、170に戻して起動させようとしましたが、「systemのバージョンが違います……」うんぬんのアラートが出てだめでした。そこで、オリジナルの6.0.7.1化計画はOS入手の日までペンディングになってしまいました。
半年くらいしてオークションでOSとインストラクションがすべてそろったClassic IIのジャンクを1100円で入手、これも試しにロジックボードのコンデンサーをすべて交換し、起動するようになりましたがフライバックトランスがだめで結局はOS取りにしかなりませんでした。このClassic IIは付属のOSが漢字talk7.1になってる後期型があるので、6.0.7.1目的で落札するのには注意が必要です。そしてまたしばらくして思いがけなく6.0.7時代の日本語変換ソフト(この時代だとFEPかIMか?)MAC用VJEのVer.2.5を入手。これは今では漢字talk6.0.7.1を超えるレアもので、入手できたのは奇跡に近いものがあります。これで「日本語が不自由なパソコン」の汚名を返上出来るって、本来の目的は間に合わせ程度のおばかなFEP 2.1変換を再度体感する目的とは離れてしまいますが、2.1変換しかない漢字TALK6とVJEが入っているパソコンのどっちがいいって言えば当然両方入っているほうがいいに決まっています。ところで、このPB170の時代は英語のSystem7は発売になっているのに日本語版の漢字talkがいつまで経っても発売されないのに業を煮やした五明正史さんが英語版のSystem7を日本語化するいわゆる日本語パッチのGomtalkを開発しましたが、本家の漢字Talk7.1が発売された後でもマシンパワーに乏しい旧型マックでは軽いSystem7+Gomtalkの組み合わせがその後も使い続けられたんだそうな。実は英語版System7は無償ダウンロードが可能になり、もともとフリーウエアのGomtalkもVECTORからダウンロード出来ますので、2012年の今でもこの組み合わせは試すことが可能です。ただしインターネット環境にない旧型マックにどうやってファイルを持ってくるか、今となっては困ったものが…。なにせジョブズ復活以降のマックにFDDなんかないし、SCSIも無く、OSX環境じゃ旧型マックとネットワークでつながらないし…。ところで、PB170およびPB180のモノクロTFT液晶パネル特有の四隅のブラックアウトは、室温が30度近い夏場は10分から15分で現れるのに対して、室温が一桁のときには30分くらい経たないと現れないという時差があるようです。どういう理屈なのかはわかりませんが、室温が高ければ高いほど四隅のブラックアウトが早く現れるような。それなら気温が氷点下ならばさらにブラックアウトが遅れるか、もしくは現れないのではないかという予測もたちますが、そこまで根性がないので実験はやったことがありませんけどね。
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March 10, 2012
これはやはり2年ほど前にたったの500円で千葉から入手した何の変哲も無い紺帯箱入りのHEMMI No.269土木用計算尺ですが、紺帯箱ということもあって昭和41年もしくは昭和40年の年末くらいの製造かと思いきや、なんと製造刻印「OH」ですから昭和39年の8月製造分です。たぶん今まで確認が取れている中ではもっとも製造刻印が古いと思われますがどうなんでしょう?ところで当時新たに発売になったNo.266やこのNo.269などは初回ロットの昭和40年発売ものだけが従来の緑箱入りで、昭和41年発売分(昭和40年後半の製造分)から他の両面尺などと同様に紺帯箱に変わったはずなんですが、なぜか初回ロットとして発売されるべき古い刻印のNo.269が紺帯箱に入って出てくるのかがわかりません。以前入手したNo.269はPA刻印で昭和40年1月の製造ということになり、こちらは箱がありませんでしたがおそらく緑箱入りで発売されたものだったのでしょう。しかしなぜにそれより古いNo.269が紺帯箱なのか、理由はわかりません。売主の父親の持ち物ということで、この方は大手ゼネコン勤務の方だったようですが、ご多分に漏れず大手は電子計算機化が早かったためかまったく使用されずにしまい込まれたらしく、調整ねじはまったくドライバーが当てられた様子も無く、竹の両端もまったく汚れず中身はほぼ新品に近いような状態でした。そんな状態の計算尺ですから、ケースがボロボロになって、ケースだけ新しいものと交換したなどということは考えられません。ところで、よく製造刻印と言われてますけど、この刻印は果たして完成品として出来上がった直後に打たれたものなんでしょうか?どうも未使用の計算尺はこの製造年月と説明書の印刷年月が1年ほどずれているものが普通です。となると説明書の印刷年月以降に発売されたと考えるべきでしょうから、その間完成品を1年も在庫として抱えていたことになります。在庫も半完成品も材料も資産ですから税金をはらわなければいけません。果たして一年もの間、すぐにお金にならない完成品を寝かしておく余裕なんてあったのでしょうか?どうもこの製造刻印は材料のエージングの状態を知るために目盛りを切る最終工程以前に打たれたのではないかと考えます。そうだとすると昭和41年発売分のNo.269の中に昭和39年8月刻印の本体があってもおかしくありませんし、製造刻印と取り説のデートコードが1年ずれていようとまったく矛盾はありません。ところで、今気が付いたのですが、このNo.269の箱、紺帯じゃなくて明らかに黒帯ですね。

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March 09, 2012
学生用として主に内田洋行を通じて高校に納入されていたのがHEMMIの両面計算尺No.254Wですが、高校によってはHEMMIのP253やRICOHのNo.1051系なども納入に食い込んできたのは周知のとおりです。このNo.254Wは特に丈夫なクロース張りのケースに収められ、固定尺調整用のプレートドライバーを付品として添付してあるところなど、高校生用計算尺としての内田洋行計算尺課のこだわりを感じさせますが、それだけではなく使用する先生の好みに合わせて工業高校土木科向けのスタジア尺や電子科向けなどの特注品が245W-Sというスペシャルバージョンに特注で応じていたようで、幾種類かのバリエーションが存在するなど興味がつきません。
ところで一般的にはNo.254Wはドイツの計算尺のように上下の固定尺および滑尺が同長の前期型と一般の両面計算尺と同様なK&Eタイプの後期型に分類されているようで、当方もその分類に従って同長型を前期型、一般型を後期型としておきましたが、実は2年ほど前に後期型の254Wを持っていなかったので、札幌から1300円ほどで落札した254Wがちょっとした物議をもたらしてくれました。それまで同長型の254Wは何本が持っていましたが、その一番古い刻印が「OK」なので昭和39年11月の生産ものだったのですが、当然後期型として入手した254Wの刻印は「OA」で昭和39年の1月生産ものということになります。となるとうちの一番古いNo.254Wは後期型ということになるのですが、これでは合点がいきません。となるとNo.254Wのスタイルに関しては「前期型と後期型の分類が無意味」ということになります。それではなぜ同時期に同長型と一般型が混在してしまったのでしょうか?それは確たる証言があるわけではないので、想像するしかありませんが、高校の新学期を前にして予想以上の発注を内田洋行が集めてしまい、他の両面計算尺とはまったく部品が異なる同長型の用意した材料(エージングに1年余り掛かるわけですから急に部品を調達するわけにはいきません)では足りなくなって、窮余の策からNo.251やNo.153の目盛りを切っていない材料を流用して一般型のNo.254Wが出来たのではないかと。というより高校の新学期に間に合うよう内緒で混ぜられて全国に配られたのかもしれません。そうなると一般型の254Wは当初はピンチヒッター的な存在だったのでしょう。同長型の254Wはパーツの特殊性から常に先を見越して部品を加工しておかなければならないという部品見込み生産のリスクのため、後にNo.251や153と同じパーツを使う一般型の生産に正式にシフトしてしまったのでしょうが、それはいったいいつ頃のことなんでしょうか。何せ一般型は昭和39年生産という古いものしかもっていないので新しい年代の生産ものに関してはわかりません。でもまあ昭和44年以降のNo.254W-Sなんかは一般型のものしか見かけないので、このあたりが同長型と一般型の生産の境目なのでしょうか。

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January 27, 2012
トマトの園芸用支柱を素材に使用した50メガ用2エレHB9CVアンテナを長年使用し続けていますが、この園芸用支柱は皮膜が紫外線劣化で2年も太陽に晒され続けるとヒビが入り、そこから雨水が浸入して中の鉄パイプを腐食し、大風が吹くと折れたりするために2年ごとに作り直さなければいけないという欠点がありますが、給電部を流用すればその交換コストはたったの数百円で済むために、今のアンテナは作り続けてもう3代目のトマト支柱アンテナになります。今年は交換の時期にあたるのですが、先日近所に住み着いているカササギという鳥がとまって、なんと給電部に使用している位相差ラインの銅線をくちばしでほじくり始めているではないですか…。このカササギという鳥は日本では佐賀平野とその周辺部および勇払原野でしか見ることが出来ない鳥のようです。どうも人為的に朝鮮半島から佐賀に持ち込まれたものが九州に定着したらしいのですが、なぜ北海道に定着して繁殖したのかはわかっていません。もちろん当方が子供の時にはそんな鳥はいませんでした。カラス目の鳥で九官鳥なんかの親戚ですが、カラスよりは一回り小さい体型で、おなかと羽の一部が白く、初めて庭にこのカササギが迷い込んできたときには突然変異の白黒のカラスかと思って我が目を疑いました。つい半年前くらいからつがいで近所のどこかに定住したらしく、まるでカラスのように近所のゴミを漁ってみたり、時には集団でないカラスを追いかけ回して空中戦を繰り広げることもあるようです。鳴き声は「かぁかぁ」ではなく「げっげっげ」とでもいうようなだみ声で、ちっともかわいくはありません。あめりかではこのカササギはカラス並の害鳥らしく、人間のゴミを漁って生活しているのが普通なんだとか。そういえば往年のアメリカのアニメ「ヘッケルとジャッケル」はカラスじゃなくてカササギなんだそうで。一歳にならないうちに買ってもらったらしいゼンマイ仕掛けのおもちゃがどこかに残っているはずです。そしてそのカササギがつがいでアンテナの端に乗っかったのか、アンテナエレメントの片側が下に折れ曲がってしまいました。とはいえ、カササギは稀少な存在だからか、あまり腹立たしくはありません。これがカラスだったらBB弾の雨を食らわせていたかもしれませんが(ウソです)。3月になったらEスポシーズンにあわせて新しいアンテナエレメントを作る事にしましょう。
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January 16, 2012
このやたらと腰硝子が長くてガーゼメッシュが寸詰まりの安全燈はベインブリッジ安全燈といってあまり情報の多くない流通量も少ない安全燈ですが、形態的にはクラニー燈に属する旧式油灯安全燈です。一種の高輝度安全燈で油灯安全燈としてはやや幅広の平芯を使用し、大きな腰硝子を通して大きな炎の明かりを得るというものらしいです。この腰硝子がテーパー状になっているのが特徴的ですが、発明されたのが英国なのにもかかわらず、なぜかベルギーで多く製造され大陸側で主に使用された安全燈です。ボンネットがない形態が基本ですが、メタンが多い炭鉱のために丸型のボンネットを持ったベインブリッジ安全燈も存在したようです。年代的には1880年代のようで、まもなく炭鉱用安全燈の決定版、ウルフ揮発油燈が出現し、英国でも1887年の鉱山規則改正でこの手のクラニー燈が使用出来なくなったため、ほとんどベルギー国内のみで使用された形式の安全燈のようですが、なぜベルギーなのかはよくわかりません。また理由はわかりませんが少数がアメリカに渡ったようです。また今回のベインブリッジ安全燈はロックシステムがなぜかありませんでしたので、もしかしたらレプリカなんじゃないかと思いましたら、数少ない資料の記述によるとベルギー国内使用のベインブリッジ安全燈にはロックシステムが無かったんだそうです。一切の刻印がありませんが、製造はベルギー南部のフランスとの国境に近い炭田地帯のラ・ボバリーとかいう町に存在したアンドレとかいう会社で製造されたらしいです。500番台のビットナンバーダグが半田付けされてましたので、実際に一度は坑内に下りた安全燈に間違いないでしょう。実はこんな珍なる安全燈なのにもかかわらず、レプリカが存在するそうです。しかし、オリジナルよりもなぜか一回り大きく仕上がったようで、オリジナルの全高が約9インチなのに対し、レプリカは11インチ弱あるらしいです。このレプリカはトーマス・ウイリアムスのように全世界的に出回っているわけではなく、ドイツのとある炭鉱ミュージアムのお土産品として売られているんだとか。このベインブリッジ安全燈は腰硝子を巨大化させることによって防爆性のかなめでもある金属メッシュが申し訳程度の大きさになっています。また金属メッシュの密度も1インチ四方あたりの網目の数が後の規格では784必要なのにもかかわらず、それよりかなり疎のような気がします。メタンガスに対する防爆性能に関しては追って知るべしということでしょう。裸火のカンテラよりはマシかもしれませんが、日本でいう言うところの甲種炭鉱で使用するにはあまりにもリスクが大きすぎます。また吸気は腰硝子下の穴あきリング部分からのようですが、この部分にはウルフ安全燈のような金網ははまっているわけではなく(この個体には欠品になってしまったのかもしれませんが)ここからの吸気は通気の流速によって炎の同様が激しく、風速が大きいと消炎するなど少々どころか大いに心配な構造です。そのくせ腰硝子とガーゼメッシュおよび下部リングの間にはちゃんとアスベストを介したパッキングがはまっています。この手の金属メッシュが申し訳程度の大きさのクラニー燈は国産らしきものが明治30年前後に常磐炭田などで使用されているのを当時の絵葉書等で知ることが出来ますが、近代的な安全燈以前はこの程度の防爆性能のクラニー燈が炭鉱における個別照明器具の標準だったのかもしれません。明治30年も末になりますと安全燈取扱不良や不良安全燈によるガス爆発で一度に数百人も犠牲になる「大非常」と呼ばれる坑内災害が頻発しますが、これを契機に大手資本の炭鉱からクラニー燈の使用が止まり、ウルフ燈などの揮発油安全燈へのシフトが急速に進み、直方安全燈試験場が設立されて、安全燈の試験から発破火薬等の試験が行われ、炭鉱のガス爆発防止への研究が進んでいきます。安全燈本体の機械加工精度は明治期の本多船燈製造所のクラニー燈などと比べると雲泥の差があり、本多のクラニー燈は切れない刃物と中心が出きっていない旋盤で無理やり加工している体があり、明らかにバイトが動揺して妙な削り痕が残っているのに対して、こちらのベインブリッジ安全燈はさすがは銃器製造などの歴史が長いベルギーの挽物加工品だけあって大変に精度が高く美しい仕上がりになっています。ただこの個体はウイックピッカーの通るパイプが底板に対して斜めにロウ付けされていて、そこから灯油が漏れるので、その修正のため、バーナーであぶってロウ付けし直さなければならず、その後も油壺と底板のロウ付け部分から灯油が滲んだりして、実際に点火に至るまでけっこう手間がかかりました。ウルフ燈などの揮発油燈はオイルライターのように油壷に綿が充填されていて、そこにベンジンを注入するわけなので、オイル漏れということにはまず無縁なのですが(そのかわりライターと違い、燃料は使い切らないと残りは蒸発してしまいます)、古いクラニー燈はウイックピッカーパイプと底板の接合部分がウィークポイントになっているようです。
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January 03, 2012
前日にHFハイバンドのコンディションがあまりにも良かったため、ニューイヤーパーティー2日目はいい伝播コンディションが望めないなぁと思いきや、1日目程では無いにしてもかなり伝播コンディションに恵まれました。朝8時代前半まではさすがに十分に開けたわけではありませんでしたが9時が近づくにつれ14メガも開けてきました。そこで昨日20局のボーダーラインは軽く超えていたのですが、どこから呼ばれるかの興味から14.173あたりでCQコールを開始。すると1エリアは栃木県北部から千葉県西北部から集中的にコールバックがありました。昨日は同時刻のコールバック北限が千葉県中部ですからもう少し北に伝播が移動したような感じです。そのかわりというのか北九州からの伝播が昨日より弱いようでした。また昨日のうちに20局を達成した人が多かったからか、昨日よりは運用局が少なかったような感じでした。18メガの運用局もそこそこ聞こえ、21メガは四国西部から九州南部の局がよく聞こえていましたが、コールバックしようと思ったら急にフェードアウトするような安定しないコンディションでした。そのため、14メガで10局ほど交信したのち、21メガで強く聞こえる局に応答しようと待ち構えるも、交信にはいたらず、2日目に初めて出てきたローカルの2m運用局のコールバックに回ってしまいました。
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January 02, 2012
ここ数年のHF伝播の低調ぶりから、1月2日は2mの運用場所探しで難民のように市内中を車でうろちょろする状態が何回か続いてましたが、今年も少しでも見通し距離の稼げる場所で車が入れなければJ型アンテナに釣竿でハンディ機を使ってでも20局交信しなければいけないと覚悟を決めてました。
ところが1月2日の9時台から10時台にかけてはここ数年で一番の伝播コンディションとなり、なんとまるで夏のコンディションのように14メガから21メガまで開いてしまい、ほんの1時間半ほどのCQ出しで14メガモノバンドのみで25局の交信が達成できてしまいました。雪にたたられ、ハイバンドも開かず、いつものショッピングセンター屋上駐車場や高台の公園駐車場から締め出しをくらい、運用場所を求めて西へ東へ迷走していた数年間は何だったのでしょうか。なんか例年の苦労がまったくない分、拍子抜けしてしまいました。
14メガ運用開始直後は岡山県と広島県を中心にコールバックをもらっていましたが、時間とともに1エリアから6エリアまで広範囲に開け始め、北は千葉県から南は鹿児島まで交信できました。しかし、14メガでは神戸を除く大阪周辺部からのコールバックがありませんでしたが、18メガ21メガでは奈良周辺が強力に入感していたようです。14メガでは一時近接局の抑圧でまるで7メガのような状況もありましたが、最近はCW試験の撤廃で2アマ1アマ人口が10年前とは比べられないくらい増加した結果でしょうか?そうなったら14メガも特別なバンドじゃなくて7メガ21メガあたりと大差のない運用人口になりつつあるのかもしれません。
しかし、話は変わりますが、今日の状況から見るとサイクルのピークが近づくのにもかかわらずまったく伝播コンディションが上がらない状況から、今年は半年ほどで爆発的にコンディションが急上昇する可能性も出てきたような気がします。
もしかしたら昨日の鳥島沖マグニチュード7.0の地震の影響で電離層の電子密度が急に濃くなっていたとすれば、一時的な現象だということも考えられますが、地震と電離層電子密度上昇の関係というのはいまだに似非科学の域を出ないので、なんともいえません。これから起こる大地震の予兆だとしたら手放しでは喜べませんが。
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December 16, 2011
K&E 4053-3の歴史は大変に古く、おおよそ1909年末から半世紀以上も基本を変えずに発売続けてきましたが、時代とともに材質やカーソルなど多種多様のパターンが存在し、本国アメリカでは専門のコレクターが存在するような計算尺です。しかし、日本ではこの手の計算尺は初心者用と片付けられてしまうからかあまり注目もされませんが、日本ではCI尺K尺を備える計算尺はHEMMIの大正15年型を待たなければいけないわけで、当時としては大変に進歩的な計算尺であったことには間違いありません。また構造的にも固定尺の片方をべースプレートにねじ止めし、わずかな調整幅を確保しています。それによって欧州系片面尺のように両固定尺を金属の裏板でつなぎ、その裏板を反らすことによって両固定尺間隔を調整する構造の計算尺よりは合理的な構造になっています。また上下の固定尺は同一の形状で、分厚いマホガニー製ベースプレート側面にスケールを刻んでいる構造でした。しかし今回のK&E 4053-3は終末期に製造されたもので、それまでベースプレートを含めてマホガニーにセルロイドを貼りこんだ構造でしたが、コストダウンの産物かベースプレートが物差し状の塩化ビニール系の樹脂素材に変わりました。このK&E 4053-3は4053-2と4053-5というパターンモデルが存在し、-2は8インチのレンズカーソル付き、-5は20インチモデルです。当然のことなが10インチの4053-3が一番多く製造されたことは疑いありません。この計算尺は終始三角関数系の滑尺裏面を使用するためには滑尺を抜いて裏返して使う構造になっており、裏側のカーソル線を使うような構造になっていませんが、それも固定尺をねじ止めにして調整できる構造にしたため、裏側、カーソル線の精度が出ないというのが理由なのかもしれません。また滑尺を裏返して使用するためS尺がA尺に、T尺L尺がD尺に対応する形式の計算尺です。カーソルは初期がアルミフレームのスクエアなタイプからフレームレスカーソルが長い間続き、1930年代にフレーム付きカーソルに変更になりますが、戦前のフレーム付きカーソルは例の「経年劣化で樹脂がぼろぼろになるカーソル」ですが今回の年代のものは材質が変わったのか大丈夫なようです。換算表も張り付けの時代を経て樹脂製バックプレートは印刷にコストダウンされています。こんな計算尺にはもったいないような明るい高級茶革のハードケースが付属してました。滑尺裏にシリアルナンバー937275が刻まれており、おそらく3順目の番号ではないかと思いますが、この計算尺としては末期の1950年代半ばを過ぎたころの製品でしょうか。入手先は東京の立川市。旧米軍立川基地あたりから出たアメジャンの一部だったのかもしれません。
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December 12, 2011
北海道には沢山の炭鉱が操業していたわけですから、さぞかしいにしえの炭鉱の忘れ形見といえる数々の炭鉱用カンテラ、すなわち安全燈が残っていそうなものですが、実際に出てくるものというと後々まで簡易メタンガス検知に使用された本多商店改め本多電気製ウルフ揮発油燈ばかりです。それというのも北海道の炭鉱は九州の炭鉱と異なり大手の会社によって近代的な設備が逐次導入された炭鉱が殆どだったからか、安全燈の使用も早かったかわりに充電式帽上燈に切り替わるのも早く、大正期の中ごろを過ぎた頃にはウルフ揮発油燈でさえも明かりとしての役目を帽上燈に譲り渡して、自らはメタンガス検知としての役回りに退いてしまったからでしょうか。そのため、100年以上前のテービー燈やクラニー燈などの旧式灯油安全燈が北海道内から出てくることは非常にレアなケースです。今回入手した旧式のクラニー燈は深川の4代続いた農家の納屋にひそかに眠っていたというもので、へたをすると一世紀もそのまま納屋に収まっていた物なのかもしれません。日露戦争直後の道内主要炭鉱の安全燈使用状況を調べると北炭の夕張炭鉱ではすでに切羽に最新の輸入品ウルフ揮発油燈が導入され、運搬坑道などのガス気の少ないところでクラニー燈が補助的に使用されたということが書かれており、当時すでにクラニー燈は第一線から退いていたころがわかります。その後続発する重大ガス爆発事故を受けた直方の安全燈試験所などの実験により、ボンネットのないクラニー燈はメタンガスを含む風速2メートル程度の坑内通風で筒外に引火する危険性大で、さらに風速3メートル・メタンガス濃度4~5%の状態で必ず筒外ガスに引火し、きわめて危険という判定を受け、甲種と分類される炭鉱でこれら旧式油燈を使用するところはなくなりました。
旭川から届いたクラニー燈はニューカッスルタイプとでもいうべき英国型のクラニー燈で、ウイックピッカーという鉤状の針金で棒芯を上下する棒芯式の油燈でした。ロックシステムは古いリードリベットロックで、毎回ごとに鉛のリベットで封印し、安全燈使用後にはリベットの頭を切り落として開錠するという簡易なものですが、もちろん南京錠を使用することもできます。金網(ガーゼメッシュ)のガードピラーはたったの3本で、腰硝子のガードピラーは6本です。風除けボンネットのないクラニー燈は金網がむき出しですが、今残るクラニー燈の殆どは金網の上部が腐食で失われています。それというのも金網の上部はそれでなくとも炎に晒されて酸化し劣化しているのに加えて、長年の保管でむき出しの金網上部は埃がたまりやすく、その埃が湿り気を帯びてついには金網を酸化により腐食脱落させてしまうのが原因かもしれません。ボンネットで覆われているタイプの古い安全燈はその点、金網上部の喪失率はさほど高くありませんし、たとえ金網が喪失していても外観的にはわかりませんし。
このクラニー燈は油壷を外してもどこにも刻印のようなものがありませんでした。リードリベットロックのリング外周に番号札のようなものがロウ付けされていたような痕がありましたが、銘板などが付くスペースもありません。英国製の安全燈であればメーカー名や形式くらいの刻印はありますし、よっぽど古い安全燈でないかぎり腰硝子に硝子のサイズや製造元名が焼付ペイントされています。また切れないバイトの痕が残る工作の稚拙さなどから見てもどうもこのクラニー燈は「国産」の可能性が非常に高いように思われました。明治の末には東京に「鉱山燈」を製造している工場が複数存在していましたし、このクラニー燈は早くも幕末には日本に伝来していて、明治一桁台の年代にはトーマス・グラバーの手により高島炭鉱で使用されたことが確認されていますので、クラニー燈の国産化は割りと早くから行われていたのかもしれません。しかし、より安全なウルフ揮発油燈が発明され、主要炭鉱では揮発油燈が大量に使用されるようになったことから日本の鉱山燈製造工場も国産の揮発油燈製造を試みますが、結局は横田式などのオリジナル品製造販売の江戸商会を圧倒し、輸入の揮発油をも駆逐したのは節操なくウルフ揮発油燈を完全複製した本多商店の「本多式揮発油燈」だけです。
このクラニー燈の構造ですが吸気は上部の金網から腰硝子の周りを伝って芯にともった炎に吸気し、排気は金網の上部から抜けてゆくという単純な構造です。また腰硝子と金網はアスベストのパッキングを介して気密を保っていますが、腰硝子はガードピラー根元のリングの内側に切られたねじリングによって金網側に締め上げられており、油壷と分離したときに腰硝子が落ちてくることがありません。このあたりは横田式などと同様に油壷とガードピラーリングの間の気密性に問題があり、直方の安全燈試験結果を見ても「危ないから使うな」とでもいうような試験結果しか残っていません。ところでこのクラニー燈には坑木に打ち込むための鉤が別途取り付けられていましたが、これは金属鉱山同様の裸火のカンテラ時代に作られたものを安全燈に流用したもので、鍬や鎌を作る野鍛冶の手によるものから鉱山の営繕場(主につるはしなどの焼きいれなどの仕事場)で作られたものまで多種多様のものがありますが、金属鉱山ではカーバイドランプに取り付けられたものが良く残っています。
そしてこのクラニー燈が国産である証拠をついに見つけました。笠のところに「CHONO TOKYO」?とでも判読できそうな刻印が打たれていたのです。さらにNの活字が裏返っているのはさすがは明治時代の産物とでもいうべきものなのでしょうか。これで確かにクラニー燈あたりの旧型安全燈は輸入品だけではなく国内で製造されてきたことが証明されました。この刻印がどういう会社のものだったのか調べがつきませんでしたが、小柳製作所にしても本多船燈製造所にしても大正初期でたかだか従業員数20名の会社ですから同程度の金属加工業者なことは確かでしょう。
打刻が不鮮明で判読しにくい「CHONO TOKYO」の正体を知ろうと、またしても大正4年版の東京府工業統計をくまなく探してみても鉱山燈に関連する工場は小柳金属品製作所と本多船燈製造所のほかはカーバイド燈製造の東京旭商会工場くらいにしか行き当たりません。それで刻印を再度いろいろな角度から検証するとどうも「T.HOND TOKYO」と見え始めてきました。語尾にあるべきAが判読できませんが、となるとどうやら明治時代に東京は京橋区本八丁堀五丁目にあった当時の名称が本多船燈製造所(当時はまだ個人商店)、後の本多電気が製造したクラニー燈であるということになります。大正4年の事業主は本多敏明、従業員は21名で、工場の規模としては佃島の合資会社小柳金属品製作所とほとんど変わりません。当時の本多船燈製造所は自前の揮発油燈開発をせずに後にドイツのウルフ揮発油燈を節操なく丸パクリし、国内の炭鉱に大量納入して企業基盤を作り、さらには帽上燈などの電気照明に進出するのですからさすがというかなんというか…。とはいっても国内の炭鉱資本からウルフ揮発油燈と同じものを安く納入出来たら大量発注するというような働きかけがあったことは確かでしょうし、この時代の日本では舶来品の丸パクリがいけないことという意識はまったくなかったはずです。むしろ舶来とまったく同じものが製造できたということが、技術力の証とされていたのかもしれません。しかし、直方の安全燈試験場の試験結果をみると当時の本家輸入品ウルフ揮発油燈と国産本多式揮発油燈との間には材料や工作精度などの問題か、防爆性にあきらかに差があったようです。さて、北海道に限らずこのクラニー燈やカーバイドランプ、発破の穴繰りに使うせっとうや鏨、採炭に使用した片鶴嘴などの古い鉱山の道具類などは全国的によく農家の納屋の中から発見されます。それだけいにしえの日本には鉱山が無数に存在していた証拠なのですが、今みたいにホームセンターに行けば必要な道具が手に入る時代と違って、こういう鉱山払い下げの道具類を扱うぼろ市のようなマーケットが存在していたのでしょうか。このクラニー燈があった4代続いたという深川の農家も、昔は提灯代わりに水田の見回りなどの用途で活用していたのかもしれません。通常は棒芯が使われたものですが、このクラニー燈の芯は晒し布が丸められたもので代用されていました。
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