February 11, 2017

前川合名会社教材用クラニー灯

Dvc00156
 これは炭鉱とはまず縁の無い岡山の津山から手に入れたクラニー灯ですが、実は最初から炭鉱用として作られたものではなく、学校教材用として作られた種類のクラニー灯と目論んで入手した代物です。学校教材と炭鉱用安全灯とは関連性がよくは浮かびませんが、物理化学の分野で網のなかの炎に外部の可燃性ガスが引火しないというハンフリー・デイヴィーの実験成果の検証でもしていたのかもしれません。もっとも過去に入手した学校教材用と思われる本多のデーヴィー灯は実際に火をつけた形跡も無く、富山の統合されて今はない高校の備品ラベルが付いていた本多のクラニー灯にも火をつけた形跡も無いため、おそらくは教科書だけではなく現物がこうであるという「形あるもの」を見せて実際には実証実験をしないで終わってしまったのではないかと思われます。

 本多製のデーヴィー灯もクラニー灯も一度は明治時代に実際に炭鉱の坑内で使用するために作られた本物ですが、世の中には教材用として作られた実際の坑内ではあぶなくてとても使用に耐えないような安全灯が存在します。おもに大阪の教材メーカーが大阪市内の安治川あたりの船燈製作所に作らせたもので、確認しているところでは大阪寶文館(ほうぶんかん)機械店とこの前川合名会社の2社です。
寶文館機械店は現在大阪の北区大淀中に宝文館機械株式会社として盛業中ですが、この前川合名会社は戦前の南区塩町通(現中央区南船場)に存在した総合教材商社だったものの戦後の情報がないため、おそらく戦災で廃業したものと思われます。他にも教材用の安全灯を製作していたところもあったかもしれませんが、関東のほうでは本多商店製作のちゃんとまともな旧型デービー灯やクラニー灯が教材用として出回っているのに対し、なぜ大阪がこういう教材用の安全灯モドキをわざわざ作らせていたのかが謎です。
 考えるに昭和に入ってからは本多商店あたりでも明治の安全灯をわざわざ小ロットの発注には応じてくれなくなり、防爆性能は怪しくとも学校の実験程度には使用できる安価な安全灯を安治川近辺の船灯業者に作らせたということなのでしょう。その教材用安全灯が一種類だけではなく今のところ異なる教材会社による二種類が存在し、仕様も構造も共通ではないという事も特筆されます。おそらく別々の船灯製造所で作られたものなのでしょう。
 
 この前川合資会社というのは戦前昭和13年ごろに発行した学校向け教材の目録をネット上で目にすることが出来ますが、ありとあらゆる理科実験器具や運動用具とともに学校教練用の歩兵銃や機関銃などというものもあり、実際に軍から払い下げられた廃銃のサンパチ式のほかに教練用にわざわざ作られた銃などもあったようで、サンパチ式の教練銃が30円の値段をつけているのが目を引きました。それ以上の情報はネット上でもうかがい知れず、大阪空襲後にどうなったかのかも判然としません。塩町通が南船場のどの辺りに位置するのかはよくはわからないのですが、昔の取引先が松屋町筋にあって何度か心斎橋の駅から松屋町筋まで歩きましたので、その道すがらだったのでしょうか?資料によると戦前塩町通には名前どおりの塩屋ではなくなぜか砂糖問屋が多かったとのこと。いろいろ塩町通を調べてみましたが、やはりこの界隈は昭和20年3月13から14日の大阪大空襲で殆どの建物が壊滅してしまい、古い建物は鉄筋コンクリートの一部のものしか残っていないそうです。このときの空襲の模様はNHK朝ドラの「ごちそうさん」の中で地下鉄心斎橋の駅に逃げ込んで地下鉄電車で梅田に避難し難を逃れるというエピソードで見たことがあります。
 この前川の教材用クラニー灯は腰ガラスに部分が寸詰まりでメッシュガーゼ部分が長いために一見して不恰好です。通常の本多クラニー灯の腰ガラスが外国のものの寸法を踏襲しているため約5.8センチ超の高さがあるのにくらべてわずか3.8センチしかないのが原因です。またガーゼメッシュの部分のガードピラーが3本なのはまだ許せますが、腰ガラスのガードピラーも3本しかなく、どのクラニー灯でもこの部分は5本のガードピラーを使用しているため、教材用とはいえ実用のクラニー灯とは異なります。また、本来分解されないための安全灯なのに外に露出したナットを外すことによって分解可能で、またロック機構がありません。ガーゼメッシュは二重ですが吸気は一枚メッシュのところから内部に入り、排気はミュゼラー式のような金属のチムニーではなくメッシュのチムニーを通って二枚のメッシュを通して抜けるというマルソーでもない変な方式です。芯の繰り出しはウルフ灯のように丸いノブが付いているので繰り出し式かと思いきや、ウィックピッカーで引っ掛けて芯を上げ下げする前時代的な方式です。時代が下っているだけに本多のデーヴィー灯やクラニー灯のように種油を使用するものではなく灯油が使えるタイプだと思います。

 学校では実験器具扱いだったようで、実験器具にふさわしく総クローム鍍金仕上げになっています。元はおそらく顕微鏡のように個別の木箱にでも入れられていたのでしょうか。

 内陸の津山市から出てきたものですが、この手の安全灯は考案者ハンフリー・デービーの発明として教科書で扱われていたためか底に備品名「デーヴィー氏安全灯」と書かれたラベルが貼付けられていました。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

February 09, 2017

スプリアス規制後までの無線局延命作戦その3

 固定局の開局時に用意したHF無線機は八重洲の真空管ファイナルの無線機FT-101ZDの後期型WARCバンド付きです。本来ノッチが加わった最終型が欲しかったのですがタイミングが悪く見つかりませんでした。1エリアの現役ハムの方から入手したのですが、本人の物ではなく知り合いからの委託品とのこと。実は違法CBに使用していたらしく10メーターバンドの二個の水晶が入れ換えられていました。また長い間縦方向で押し入れのなかに保管されていたからか、πマッチの要であるギロチンのコアが出入りするプラスチック部品が変形していてコアが引っかかるという問題を抱えていて、やんわりクレームを申し上げると中古部品代相当の5千円値引きして返金してくれたというシロモノです。この変形したギロチンのプラスチック部品は同寸のドリルで入り口を円形に整形することで事後の調整なしにいままで正常に働いていました。またWARCバンド付きなのにWARCが10MHz以外送信解除されておらず、ジャンパー線をカットして送信解除する必要がありました。固定局開局当初はよく夕方の24MHzなどに出ていましたが、FT-101でWARCバンドに出ているというとZシリーズを知らないOMさんからすごい改造を施したなどと勘違いされることもありました。
 このような1970年代後期の骨董的無線機ですが、混信除去能力はさすがに今の無線機には劣り、アナログVFOゆえにQRHがあって、暖まるまで100Hz単位で周波数が上がって行くという当時としては当たり前ながら今は許容できない欠点があります。また真空管無線機ゆえに無線機の電源と真空管のヒーターのスイッチを両方入れてもしばらく経たないと電波を出せない、バンドを移動するたびに同調を取り直さなければ行けないということも今のハムの人たちには煩わしいだけだと思います。それでも真空管特有の野太い変調は概ね好評で、受信音もがさがさしておらずに長時間でも大変聞きやすい無線機でした。

 しかし、このFT-101ZDは最終的にスプリアス確認保証の認定対象機には入りませんでした。同じくうちでは夏場の稼ぎ頭で唯一の6m機であったIC-551が、同じく2mオールモード機IC-290がスプリアス保証認定対象外となりました。真空管機はすべてダメだと思っていたのですが、八重洲はそれこそ101シリーズも901シリーズもそして国内最終真空管ファイナル無線機のFT-102までが全滅だったのに対し、トリオはなんとTS-520SからTS-820S、TS-530VおよびTS-530S、TS-830VおよびTS-830Sの合計6機種がスプリアス認定保証対象機として残ってしまったのです。そうすると移動局で最初に入れたTS-830Vはスプリアス認定保証さえ取得すればそのまま使えるということなのですが、今やオンエアしている局は最低3アマ50Wが標準になってしまって、アンテナがプアなうちでは心もとない出力です。

 そうなったら真空管ファイナルの無線機操作の伝統芸保存(笑)のためにもジャンクでもいいからとりあえずこの6機種の中から固定局に保証認定を取って増設申請することを目論みました。そして動作確認無しのジャンク扱いのTS-830Sを手に入れましたが、忙しさにかまけてどういう状態かまったく見ていません。一台生きているTS-830Vがあるので、いざとなったら部品の食い合わせでも何とかなりそうです。そして最近なんと函館の現役HAMの方からいちおう可動状態のTS-520Sまで入手してしまいました。TS-820のほうは中途半端感が否めなく興味がありませんでしたが、TS-830SとTS-520Sの二台があればたとえFT-101ZDが使用不可になる日が訪れても真空管ファイナル機のチューニングという伝統芸は継承出来ますし、TS-520Sのファイナル管は松下のS-2001Aながら6146Bをそのまま2本差し替えても使用可とのことなので、TS-830Sとの共用が可能ですし、期限が来て使用出来なくなったFT-101ZDから流用することも可能です。
 固定局はこのTS-830SとTS-520Sを増設扱いで保証認定を申請し、変更届を出す準備を行う予定ですが、第一送信機のFT-101ZDに関しても再免許申請は受理されるものの「第○送信機は平成34年11月30日を超えて使用出来ません」との但し書きが局免に印刷されるようです。

 ところで、うちには6JS6Cという真空管がまったくの箱入り新品NECのものが2本、東芝グリーンベルトの中古管2本、NECの中古管2本の合計6本のストックがあるのにも関わらず、それを使う無線機が一台もないという状況がすでに十数年続いています。しかし、スプリアス規制でこれらを死蔵させるのも忍びなく、短い期間でも使えればいいやとのことで、実は昨年3月に最終型に近いFT-101Eを入手してありました。7MHzあたりでの感度も申し分なく120Wくらい出るケースだけところどころさびのスポットがあるもののものすごくきれいなFT-101Eです。これも新スプリアス規制に適合しませんので最長で平成34年の11月30日までしか使用出来ませんが、これもいちおう増設として保証認定を取って変更届を出すつもりでいます。だた押し入れに入れられていた期間が非常に長かったようで、14MHzから上の周波数の感度が落ちしているようです。そのため再調整をしなければいけないのですが忙しさにかまけていまだに何もしていません。最近はオークションでもFT-101はどんどん出品されているようです。マイクのインピーダンスもわかっていない人が手を出しても変調が浅いとかなんとか変な事を言い出しそうですが、実は古い真空管機はハイインピーダンスのマイクを使用しなければいけません。うちに現在あるものではFT-101EとTS-520Sが該当します。FT-101Eは八重洲の600Ω-50kΩ切換え式のスタンドマイクYD-148とプリモのUD-844がありますし、TS-520SはスタンドマイクのMC-50がハイローの切換え式ですから心配はありません。しかしスタンドマイクは取り回しが聞かないのでハイインピーダンスのハンドマイクが欲しいところですが、こちらのほうはオークションでも殆ど見なくなりました。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

February 08, 2017

スプリアス規制後までの無線局延命作戦その2

 JARDに申請した移動局の変更申請でしたが、デジタルモードの付加装置付きのTS-690SATの他に下駄代わりの軽自動車に載せる貰い物の144/430の20Wモービル機をはじめ、あとはジャンクで購入して修理調整してものになったハンディー機の数々をまとめて10台になりました。

 変更申請書は付加装置の部分に関してはけっこう厄介なところがあり、最初は手書きで申請書を起こしていたのですが、結局はフリーウエアの「局免印刷」のお世話になりました。このフリーウエアはデジタルモードの申請もほぼそのままのデフォルトで構わないのですが、1.9MHzのデジタルモード、特にJT65などは占有帯域幅が適合するためにボーレートなどの説明書きに特記事項を加えないと申請がおりないようです。そのためネットの情報をもとに特記事項を加える予定でしたが、これが今ひとつ理解出来なかったため、JARDから問い合わせが来てあとから修正することを前提に局免印刷デフォルトの内容で提出してしまいました。
 5000円を最初に振り込んでその領収書を添付した保証申請書と変更申請書の束を簡易書留で送付したのが平成28年の6/12。ひと月程経っても何ら申請内容に対する問い合わせがないため、内容が間違っていないかどうかの問い合わせをメールで送ったらこの返事が届いたのがそれから二週間後でした。やはり「このままでは1.9MHz帯のデジタルモードが通りませんのでこの部分を削除すればすぐに書類を総合通信局に回します」ということだったので、即日ネットで調べたモードとボーレートを特記事項に加えることで申請が通るはずだから、何なら事項書を印刷し直して送りますとの回答メールを送ったらこれがまた返事がなかなか来ず、2週間後に返事の催促をして返事というか「調べて8/12までに回答する」という返事が8/6日に来ました。

 さすがはスプリアス認定保証の準備でサンプリング調査に手間がかかって多忙なのだろうとあきらめモードでしたが、メールのやり取りに往復2週間というのも大変な話です。このままでは移動局の免許の期限が10/15と迫ってきてますので、先に「保証認定と変更申請を出願中」という備考を付けて一足先に移動局の再免許申請の方を総合通信局の方に電子申請で提出してしまいました。

 8/12になっても何ら回答がメールで届かなかったJARDでしたが、8/15にいきなり「8/12付けで保証認定が降りて書類を総合通信局に送付した」なる郵便物が届きました。結局約束だった回答は8/12にありませんでした。まあこれで一件落着のはずですが、せめてひと月ぐらいで保証認定が降りると思っていた物がまるまる2ヶ月掛かるというのは付加装置を申請したということもありますが今ま提出した保証認定になかった長さでした。

 その後月末に総合通信局のほうから電話があり、再免許申請分の免許があがって来ているけど、変更申請のほうも受理されているので、どうするかとのこと。それで二度手間にならないよう変更申請の局免があがったらそちらの方を送付してくれるようにお願いしました。

 そしてデジタルモードが加わった新たな局免が9/9付けで交付となり新たに10台の無線機が許可を受け、移動局の無線機の台数が合計17台になりました。結局は保証認定の書面を提出して総通局から新たな局免を受け取るまでまるまる3ヶ月掛かった計算になります。スプリアス実態調査の真っ最中ということもありそこに人手を取られたためか、タイミングが悪かったとしか言いようがありません。

 これでHFを含む移動局免許が平成33年10月まで有効になり、その期限までは使用出来る事になったわけですが、問題は固定局のほうです。
真空管しかない固定局をどうするか?その問題はしばらくは先送りしてしまいました。
(続く)

| | Comments (0) | TrackBack (0)

January 03, 2017

伝播コンディション最悪だったニューイヤーパーティ2017

 昨年の夏シーズンは無線機の入れ替えを行い、デジタルモードを運用するための付加装置を追加した変更申請が伴ったものですから、6月のはじめにJARDに申請した保証認定が降りるまで2ヶ月少々かかり、さらに地元の総合通信局から新しい免許状がおりるまでさらに1ヶ月の合計3ヶ月を要し、免許状が届いたのが9月10日を過ぎていました。季節は夏場のEスポ伝播シーズンをとっくに終え、秋のF層伝播シーズンに入って久しく、そのため夏場のハイバンドが好調なシーズンを昨年はまるまるQRT状態ですごしたことになります。 
 まあ、こんなのは言い訳にもならないのですが、昨年お正月のQSOパーティー以降に交信した局数はたったの数局でした。

 年も改まって今年も迎えたニューイヤーのQSOパーティーですが、当局のように最近は殆どお正月にしか声を出さないという局も多いようで、何かお互いにあまり運用していないことの言い訳をし合っているような状態です。
 そして1/2日の9時にスタートした2017年のニューイヤーパーティーですが、例年なら14メガでCQを掛けると主に6エリア5エリア4エリア方面から次々にコールバックがあって、コンディションが落ち始める10時台後半を待たずに20局に近い交信数を稼いであとは挨拶代わりに2mのローカル局のCQを追っかけて回るというのが普通です。ところが今年は14メガの国内伝播が非常に悪く、ロシア沿海州の局のQSOが聞こえている状態で国内が完全にスキップしていました。9時台に14メガでコールバックを下さったのは同じ市内の局たった1局だけでした。確かに14メガのバンド内では6エリア局がかろうじて8エリア局と交信しているのが不安定に聞こえるだけです。これではまずいと早くも2m局の追っかけに回りますが、昨年新たに建て直した2階屋根上2バンド3段GPにTS-711の10Wでは同じ市内でもSが3くらいに落ちる場所もあるくらいで、まして札幌方向には山の障害物があって市内の東地区の局が交信している千歳札幌方面の局の信号がまったく聞こえないほどです。またローカル局の総3アマ化V/Uの50W変更もあって、CQを出している局に複数局がコールバックしていると食われてしまうことも多く、なかなか交信の順番が回ってこないということもあり、11時台まで交信できた2m局も4局で14メガの市内局含めて11時までに5局と20局を交信しなくてはいけないQSOパーティーとしては壊滅的なスコアでした。その後11時代に市内の二文字コールのOMさんのCQに九州方面の局からコールバックがあるのを聞いて14.375付近で再度CQを開始。すると長崎、市内局3局、鹿児島、福岡嘉穂郡の局からコールバックがありましたがそれ以上の地域までは開きませんでした。12時までにトータル9局という体たらくさで、翌日3日は出ている局数が激減するのがわかっているので2mローカル局と極力QSOを試みますがそのご13時台に2局、20時台に1局交信し2日の更新局数トータルで14局で翌日に繰越しました。

 翌3日の14メガコンディションも6エリアが何局か聞こえている割にはCQを掛けても食いついてくる局がおらず、かろうじて9時台で宮崎の昔コンテストの14メガでよく交信したOMさんからコールバックがあっただけでトータル50分で交信できたのはこの1局のみでした。
2mの隣町の局にコールバックしてもビームがとんでもない方向を向いているのかまったく反応なしでした。この時点でまだ15局でしたが、困ったときの最終手段で少し離れたショッピングモールの屋上駐車場に向かい、移動運用を掛けることにし、9:58に自宅を出発。昨年変更申請が通った10台の無線機のなかの一台が日常ゲタ代わりに乗っているダイハツタントに載せたIC-207という20Wモービル機で普段使っている50cm程度のアンテナを全長1.5mほどある高ゲインなアンテナと交換すると場所が札幌方面に開けていることもあって千歳の局と札幌の局が交信しているのが59で聞こえてきます。ローカル局に2局コールバックをしてから144.90でCQを開始すると千歳の局からコールバックがあり、このときはお互いに55のシグナルレポートでした。その後ローカル局をはさんで千歳局、北広島局からつぎつぎにコールバックをもらい、59で交信成立。次に札幌市は南区藤野の局からコールバックがあり、その次には札幌手稲区の手稲山山頂ポータブル局との交信が成立。その後も千歳、札幌の局と何局か交信しましたが、一番の長距離交信は山を越えた先の虻田郡洞爺湖町ポータブルの局からでさすがにお互いシグナルレポートが辛うじて51でしたが改めてこの運用場所のロケーションの良さを再確認しました。一時間少々の運用の間に回りに車が増えてきたため、12時過ぎには退散し、この場所での交信局数は11局を数えて余裕で20局以上を達成しました。まあ、この屋上駐車場に移動運用を掛けないと正直20局は危なかったということでしょう。2日間のトータル交信局数が26局です。
 しかし、10年位前のニューイヤーパーティーのときもHFのコンディションが2日間まったくダメで、市内を移動運用場所を探して彷徨っていたいたことがあったような気がします。おまけに雪が積もっていつも移動場所に使っていた緑ヶ丘公園の駐車場から追いたてを食らって非常に困ったと思いましたが、この緑ヶ丘公園の管理業務が民間移転され、2日3日が休業で閉鎖されてからしばらく経ちます。ここは某ショッピングセンターの屋上駐車場よりさらに高くて函館方面への電波の飛びも良かったので残念です。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

September 20, 2016

JEPPESEN CR-5 航法計算盤

Jeppsencr5  比較的に航法計算盤としては安価に売られているJEPPESENのフライトコンピュータ類ですが、このCR-5は元JALのクラシックジャンボに長く搭乗されていた航空機関士のSさんから譲っていただいたものです。自家用航空機のライセンス訓練生が使用していたものではなく、実際にジャンボジェット機のコックピットの中でSさんとともに歩んできたフライトコンピュータですから、いくら安価なフライトコンピュータとはいえ道具としての歴史が違います。しかし、クラシックジャンボが国内線から消えて久しく、またジャンボ自体も日本の航空会社から引退してしまう時代となりましたが、おそらく国土交通省のライセンス的にはいまだに航空通信士と航空機関士は残っているのでしょうか? このJEPPESEN という会社はコロラド州デンバーに存在する会社で1955年からフライトコンピュータやプロッターなどの航法計算用具を現在まで作り続けているようです。比較的に安価なプラスチック素材の物ばかりでその価格も30ドル以下の価格帯ですが、日本ではこういうものを必要とする人口がすくないため、どうしてもコンサイスのフライトコンピュータのような価格にならざるをえません。さすがに自家用車並みに自家用機があふれているアメリカだけのことはあります。
もっとも航法計算の世界でも基本教育はこういうアナログのものを使用するようですが、実践で使用するのはすでに電卓方式の航法計算機です。

Jeppsencr5_6 また大型機では航空会社のディスパッチャーが作成したフライトプランをブリーフィングでクルーと確認しあいますが、運行途中で何かの都合で変更が生じた場合には離陸地のディスパッチャーと連絡を取り、ディスパッチャーがはじき出したデータをコンピューターリンクで受け取って使用するようで、2人乗務員体制では機上で飛行経路と飛行高度変更、燃料の残計算や到着時間の算出などの計算からは一切開放されたようで、この省力化もあって航空機関士が要らなくなったことにもつながるのでしょう。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

September 19, 2016

フラー円筒計算尺

2_2 イギリスはロンドンのW.F.スタンレー社によるフラー円筒計算尺No.1です。カービック社のオーティス・キングス同様にらせん状に尺を巻いて有効基線長を高めた計算尺で基線長はなんと驚異の500インチで有効桁も4桁と格段の精度を誇ります。その分大きさも大きく、もはやポケットに入れて持ち運ぶようなものではなく、タイガー計算機なみの可搬性しかありません。同じように円筒形の計算尺としては同時代にサチャー円筒計算尺というものが作られていますが、こちらはらせん状の目盛りがあるものではなく、目盛りを分割した固定尺を星型に配置し、その中心を円筒の滑尺がスライドするという仕組みで、基本的に構造が異なります。またこのフラー円筒計算尺はオーティス・キングスの上下のC,D尺の円筒を伸縮させ、真ん中のカーソルになっている筒をスライドさせて計算するのではなく、対数目盛りは真ん中の円筒の一本だけで、真鍮の自由に動く2本のポインターをセットし円筒を回転させて計算するというオーティス・キングスとは真逆の方式の円筒計算尺です。
 このフラー円筒計算尺は北アイルランドのベルファスト市にあるクイーンカレッジの土木学の教授ジョージ・フラー博士が1878年に開発し1879年に特許を取得したものをロンドンのW.F.スタンレー社が商品化したものです。

 重厚な木箱に収納されており、真鍮製のスタンド金具を使用して木箱の片面から斜めにセット出来るようになっています。この箱と金具がセットになっていないと相当価値が落ちてしまうようです。

 このフラー円筒計算尺は特に計算精度を要求される研究部門などに限って使用されたようで、実際には内藤多仲博士がドイツ製の5インチポケット尺で殆どの建築の構造計算(実際は手回し計算機を併用)をおこなったくらいですので、一般の用途にはまったく必要ないものでした。そのため、製造は1878年あたりから1960年代まで牛の涎のように細々と続いたようですが、その間の製造総数たるやイギリスのコレクターの調査によると14,000本あまりにしか過ぎません。また製造終了後も1978年ころまで探せば店頭入手可能だったという話です。製造年数80年の長きにわたり14,000本の製造総数というと一年の出荷数でたったの175本です。需要もさることながら殆ど手作りだったという証拠でしょう。ありがたいことにすべての個体にシリアルナンバーが打たれており、末尾の二桁が製造年を現しているため、各個体の製造年の確認は容易です。

アメリカではK&EがOEM先として1895年から販売され、当初のモデルナンバーはNo.1742でしたが1901年よりNo.4015に改番されます。1895年のNo.1742のカタログプライスは28ドル、1901年のNo4015のプライスは30ドル、時代が下った1925年のプライスは42ドルと年々価格は上がっています。しかしK&Eは自社で製造したサシャー円筒計算尺No.4012のほうが力を入れて販売していたのは当然で、こちらのほうが若干値段が高く1892年版のカタログプライスは30ドル、1913年版のプライスは35ドルです。3_2 また後の年代にNo.2というLog計算に特化したフラー円筒計算尺が発売され、こちらのほうは円筒にある500インチのC尺はそのままですが、内円にプラスとマイナスのべき乗尺が刻まれ、対数計算が精密に行なうことができるというものです。1941年発行の説明書には追加でNo.2のべき乗尺の解説が載せられています。しかし、WEB上でNo.2の存在を詳細に解説してあるところが見つからず、いつから追加になったのか、シリアルナンバーがNo.1に含められているのか、それども独立しているかはよくわかりません。少なくとも昭和の始めくらいの年代にはNo.2はすでに作られていたようでシリアルナンバーもNo.1と連番だったようです。

入手先は同じく道内の旭川で、なぜ東京や京都ではなく地方のそれも旭川というところからこのフラー円筒計算尺が出てきたのか、計算尺そのものよりその出自のほうに大いに興味があり、自分としてはかなり高額で入手したものなのですが、出品者の言によるとさるアンティークコレクターからの買い取り品とのことで、それ以上のことはわからないとのことでした。旭川という土地柄、旧陸軍第七師団や大手の炭鉱などの備品が流れてきたものかと妄想をめぐらせていたのですが、届いた品物の製造番号は8千番台で製造年を見たらなんと第二次大戦中の1943年の品物でした。交戦国イギリスの計算尺が日本に入ってきたわけがありませんし、シンガポールから鹵獲したとしても年代が合いません。敗戦国日本が戦後すぐにこういうものを輸入できたはずもなく、おそらくはそのアンティークコレクターが海外から買い付けたものということが言えそうです。その事実がわかってちょっとだけ興味が失せてしまいました。入手した業者はよくデパートなどの骨董フェアなどを回っている業者で、そういうイベントでの換金に失敗してオクに出したようですが、ケースに貼られていた値札には28万円となっていました。e-bayなんかの落札相場を無視するといつまで経っても不良在庫です。入手価格はe-bayの落札平均相場より若干安い程度でした。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

September 18, 2016

K1型金利スケール/不動産スケール

K1  東京新橋の新製品開発センターという少々怪しげな会社が発売した一種のアイデア商品で、おおまかに金利シリーズのK型、レジャーシリーズのY型G型および実務シリーズのS型B型が説明書に記載されていますが、果たしてすべてのものが製造され発売にいたったのかは不明です。また特許出願中とありますが、この手の換算尺は明治末期から昭和にかけてありとあらゆるものが特許申請されあえなく討ち死にしてますので、はたして実際に特許申請したのかどうかも怪しいところです。
 それで金利スケールは表面が共通で裏面が異なるK1からK4までの4種類、Y型はレジャーシリーズとされる外貨換算尺でY1とY2型2種類とG1型は競馬専用、S型はビジネス用とされる仕入れ用のS1型と建築板金スケースのB2型がカタログ上に記載され、それぞれ定価が940円となっています。大昔の銀行通帳入れのように粗末で薄いビニールシースに入っています。
 おそらく発売は昭和40年代後半ごろでしょうか?というのも説明書きにこの会社で出版した非常に高い月刊誌の広告が載っていて、その「月刊世界のアイデア」という雑誌が昭和41年創刊で別の「月刊世界の新商売」という雑誌は昭和46年創刊ということになっています。前者が12ヶ月で45,000円、後者が12ヶ月で16,000円となっていますが、もしかしたら総会屋が各企業から利益誘導を受けるような形で各企業に何口か購読させる雑誌で一般の書店にはもちろん並ぶような雑誌ではないでしょう。
 キャッチフレーズが「どなたにも使える頭脳兵器シリーズ」とは人を食ったようなキャッチフレーズです。このK1型金利スケールは表面が元金と年利をあわせると期日が何日でどれくらいの利息が掛かるかということが一目でわかるような換算尺になっており、年利18%が上限とは昔のグレーゾーン金利時代のサラ金や闇金では使えませんね(笑) 
 裏側の不動産スケールは坪と平米の換算と坪単価をあわせて何坪でいくらかの総額がわかるようになっていますが坪単価の最小単位が30万円です。まあ位取りを変えて換算すればいいわけですが、表示の最小単位が坪30万円というと主に東京の不動産屋を対象にしたということでしょう。 監修は東京工大名誉教授の川下研介、製作は横浜国大助教授松本久志となっています。
 故川下研介名誉教授は東工大の主に熱学・熱力学の専門家。松本久志教授は同姓同名のマンガ家のほうが有名ですが横浜国大の科学教育・美学、美術史の専門家です。しかしなぜこの人たちがこのような計算尺に係わったのかがわかりません。もしかしてお金だけもらって名前だけ使わせたとか? 入手先は確か愛知県の西尾市だったと記憶しています。


| | Comments (0) | TrackBack (0)

UTO No.930U Poly-e

Img_0698 デンマーク製の計算尺は日本では直接輸入されたことがないため、DIWAくらいしか知られていないと思いますが、今回入手したものは同じくデンマークのUTOというメーカーのNo.930Uという計算尺だと思われます。このUTOというメーカーは品物自体日本でまったく見たことが無く、予備知識はぜんぜんありませんでしたが、DIWAが計算尺の終末期まで特殊な計算尺がほとんど無かったのに対し、このUTOではHEMMIを上回るほどの特殊計算尺をリリースし、おもに北米市場に流していたということが特筆されます。
 またこの計算尺はアメリカの化学繊維大手だったCHEMSTRAND社の特別なノベルティーになっており、ROLEXの腕時計ケースのような緑の表皮をあしらった木製クラムシェルケースに収められ、さらに計算尺本体のブリッジに金メッキが施され、カーソルバーにも金のメタルが埋め込まれているという「特別仕様の別注品?」です。得意先に配ったのか、それとも懸賞の景品にでもしたのかはわかりませんが、ケースにまで会社のキャッチフレーズと社名が金色で入れられているような状態で、とても実用にするようなものではなかったためか、まったく使われた形跡の無い計算尺でした。

 通常型番が刻印されている滑尺端にCHEMSTAND社のマークが入っているため、型番がわかりませんでしたがどうやらNo.930の一族であることはわかりました。しかしこのNo.930は同一型番で尺のレイアウトがかなり細かく異なるバリアントがたくさんあるようで、そのものズバリの型番がよくわかりませんがおそらくはNo.930Uなのでしょう。尺種類は表面がLL03,LL02,LL01,DF,[CF,CIF,CI.C,]D,LL3,LL2,LL1の12尺、裏面がL,K,A,[B,T,ST,S,]D,D1,Pの10尺の合計22尺です。いちおうシステムリッツということになるのでしょう。表面はほぼノーマルなのに裏面はS尺とD尺が相対していたり同一固定尺上にD尺,DI尺とP尺が並んでいたり、意図することは良くわかりますが、日本の計算尺になれてしまうと何か妙な違和感があります。このあたりの尺配置で同一型番で年代によっていろいろなバリアントが存在するようです。製造年代は1950年代後半から1960年代初頭にかけてでしょうか?
 このUTO社はアメリカのニュージャージー州にHOFFMAN PRODUCTSという代理店が存在したようで、そこを通じていろいろな計算尺が輸出されたようですが、それはすべて第二次大戦後のことのようで、すでにプラスチックの計算尺のみのアメリカ輸出だったようです。
 またこのUTOのプラスチック製計算尺の終末期は日本のFUJIあたりの構造がそっくりな計算尺も存在したようですが、やはり計算尺終末期には日本の山梨でOEM製造された事実もあったのでしょうか?日本で入手できる個体がないのでその追跡は困難ですが今後の研究が必要です。
 入手先は横浜市の神奈川区だと記憶してます。しかしなぜ日本にこういうものが手付かずで残っていたのかが不思議です。
Uto930
Uto930_2


| | Comments (0) | TrackBack (0)

September 17, 2016

竹内改良計算尺

Photo_7
 大田スター計算尺同様に国産計算尺の黎明期に発売されたものの逸見式計算尺のように後に実を残さず歴史のなかに埋もれてしまったのがこの竹内計算尺です。過去にオークション上で出品されたのが数本というレアな計算尺で現在知られているのは5インチと10インチのマンハイム型2種だけです。10インチのものはKimさんのコレクションに納まっておりまして本体はおそらくマホガニーと思しき木製の計算尺でした。それで5インチのポケット型も木製には違いないと思っていたのですがやはりマホガニー材が使用された木製計算尺です。裏側が寸、英インチ、米インチの換算尺になっている表面4尺滑尺裏4尺のマンハイム型ポケット尺です。尺種は表がA,[B,C,]Dの4尺で滑尺裏がS,L,T,の3尺で副カーソル線窓は開いておらず三角関数などを計算する場合は滑尺を裏返す方式です。
 面白いのは裏の単位換算テーブルを使用するときはカーソルを反対側にはめ込むことが出来るような構造になっており、そのために通常のポケット尺のように上面にスケールを持たない練習用計算尺のような上下が平らな上下対称系の計算尺です。
目盛りはJ.HEMMIのように刻まれたものではなく、おそらくセルロイドの上から目盛りを印刷したもののようです。そのため一部消えかかっている部分があり、またおそらく磨くと確実に目盛りが消えそうできれいにすることも出来ません。英国系木製尺のようにその上から薄い透明セルロイドシートでも被せてあれば目盛りも消えることがないのでしょうがこのあたりの細工はJ.HEMMI計算尺の敵ではありません。

 カーソルはJ.HEMMI初期のもの同様にA.W.FABERのコピーでアルミフルフレームのものが付いていますが、これは実にJ.HEMMIのNo.1のものとまったく同一のものです。以前当方はめまぐるしくカーソルのフレームが変わるJ.HEMMI計算尺を見て、おそらくカーソルはJ.HEMMIが自社製造していたのではなく、どこか別の金属加工屋に作らせていたのではないかと推測していましたが、どうやらそれはあながち間違いではなかったようです。このカーソル製造元がどこであるかは知りませんが、少なくともここではフルフレームのカーソルと位取り付きのカーソルの2種類を製造し、J.HEMMIだけではなく大田スター計算尺と竹内計算尺にも供給していたことになります。そしてなぜかそれらのカーソルを大正14年以前に何らかの理由で供給できなくなりJ.HEMMIでは大正15年式計算尺からカーソルの供給元でなぜか迷走して短期間でいろんなカーソルが出現し、大田スター計算尺は独自のフレームレスカーソルを付けざるを得なかったということなのでしょうか?

 表面刻印はC.TAKEUCHI'S IMPROVED SLIDE RULEとなっており、竹内改良計算尺となりますが何に対してどこが改良されたのかがわかりません。Cは当然名前の頭文字なのですがそうなると頭がCHA,CHU,CHOで始まる名前なのでしょうか?CHAは加藤茶のCHAくらいしか思い当たりませんがCHUなら忠一、忠太郎などいくらでも考えられますし、CHOならいかりや長介をはじめとし長一、長一郎など長男を連想させる名前はたくさんあります。さてこの竹内さんの名前はいったい何でどういう人だったのでしょうか?
 また表面にAPART OF USED PATENT 21257とありますが、この明治の末のパテントナンバーを記してわざわざそれを使用していないと記する理由と意図がわかりません。
 裏面の単位換算尺部分に大阪竹内製とあり、この計算尺が東京で作られたものでなく関西は大阪で製造されたということがわかりました。ケースにはY.T.SLIDE RULEとありおそらくはYさんとTさんのダブルネームだなんて想像していますがTは当然竹内さんでしょうがYさんはいったい誰?

 この竹内計算尺に関しては異論もあるでしょうが、製造年代が大正初年あたりから大正10年代までのごくわずかな期間の製造だったのではないかと推測しています。おそらく第一次大戦の混乱で欧米でHEMMI同様に輸出主体で製造していたものの大戦終了でドイツ計算尺の為替安による輸出復活台頭で欧米への輸出が立ち行かなくなり、あわてて国内に販売をシフトしたのでしょうか。しかし、この竹内計算尺はHEMMIのように目盛りを刻むという技術が無く、目盛りが印刷のため使用しているうちに消えてしまうという重大な欠点があり、またマホガニーの複雑な形状加工ということもあって大田スター計算尺同様にポリフェーズトマンハイム尺に改良されることもなく早々に淘汰されてしまったのでしょう。大阪竹内製と漢字で印刷が入っているのと換算尺が寸と吋なことからこの個体は国内向けの製造のものということになります。
 ただ幸いなことは形状とその厚みから大田スター計算尺のように反ってしまって滑尺も動かないということもなく、さほど狂いも無く未だに可動することでしょうか。
 入手先は和歌山県の橋本市は高野口からです。いかにも古いものが残りそうな場所ですが、こういうところでいったい何の用途で使ったのでしょうか?
Photo_5
Photo_6


| | Comments (0) | TrackBack (0)

September 16, 2016

中央計器製作所標準速算器

Photo_2 日本における円形計算尺で古くからよく知られたものは玉屋商店から発売された藤野式計算尺だと思います。この藤野式は乗除用と金属重量計算用のほかにスタジアと切削時間計算器などが揃っていましたが、どうやら戦時中の金属統制で姿を消し、戦後になってからコンサイス円形計算尺としてよみがえり、今に至るのは周知の事実です。
 その他の円形計算尺といえば大正末期から昭和の初期にかけてメートル法の施行により度量衡の単位換算尺で円形のものが多く作られた以外には目新しいものがなく、わずかに単位換算機能に簡単な対数尺をつけたようなものが存在するくらいでしょうか?

 この標準速算器というのは大阪の斉藤喜代治という人が昭和10年くらいに発売したものを戦後になって中央計器製作所という会社が発売した円形計算尺です。昭和10年の発売当初はA号B号C号に特号の4種類があったようで、A号は直径3寸5分、B号は3寸、C号は2寸9分なのに対して特号は8寸5分というまるで通称「円盤」と呼ばれるラリー用計算尺ほどの大きさがあるもののようです。A型で定価2円だったのに対して特号は8円の定価がついていたようです。ヘンミの標準的な10インチ片面尺が当時8円前後ですから特号でやっとヘンミの10インチ片面尺の価格相当で他のものはポケット用や練習用にも届かないような価格の廉価な計算尺ということになります。それというのもブリキの円形盤に薄いセルロイドの円盤を重ねて鳩目でカーソルと一緒に止めてあるというような簡単な構造なためです。それはおそらくA号という2円のバージョンでB号はセルロイドのみの構造、C号は紙にコートをかけただけの構造と推定されます。その材質別の3種類は中央計器製作所の発売となっても継続し、今回入手したのは紙にコートだけ掛けた一番安いバージョンです。
 しかし戦後になって斉藤喜代治の標準速算器がなぜ再登場したのかはわかりませんが、この中央計器製作所の説明書によると説明書の著作兼発行人が斉藤喜代治で製造発売元が中央計器製作所というようになっています。そのため、戦前は考案発売は斉藤喜代治だったものの製造は中央計器製作所が行っており、戦後は製造も販売が中央計器に移ったということかもしれません。
 手元にあるものはコートされたボール紙製のもので発売価格が250円となっています。他に500円と1000円のものがありますので、おそらく内容は同じながらセルロイド製、ブリキのプレス製などの材質違いで内容はまったく同じものだったのでしょう。裏面はまったくのブランクです。高いものには単位換算の早見表くらいついていたのでしょうか?


| | Comments (0) | TrackBack (0)

不明金属重量計算器(藤野式コピー)

Photo 円形の金属重量計算器というものは国内では大正時代に作られた藤野式計算器に始まり、戦時中の金属枯渇時代に一旦姿を消した後、戦後はコンサイス金属重量計算器として若干の改良を施した上で発売されたことはコンサイスの説明書にもわざわざ書かれていることなので明白ですが、実は藤野式金属重量計算器の丸々コピーのイミテーションが出回っていたことは意外と知られていません。
 このコピー品の金属重量計算器は一度しかオク上で見かけたことがありませんが、それは単なる茶封筒に入れられ、半紙一枚分の使用説明書のペラが一枚入っているという実に簡単なものです。その藤野式コピーを今回見つけてしまいましたので捕獲しておきました。

 今回入手したものは当然のこと茶封筒も説明書きも失われて酷使されたものですが、出所が広島の呉なのでまた根拠のない仮説を立ててみました。そもそも呉は海軍工廠もあった日本海軍の中では横須賀を上回る最重要の軍港です。かの戦艦大和をはじめ、数々の軍艦が設計・製造された場所ですが、以前から呉から出たドイツ製の計算尺を複数入手しています。それだけ計算用具が重要で各種使用されていたことがわかりますが、軍艦は当然のこと金属の塊ですから船体設計だけではなく造船の現場などでも材料や加工品の重量計算のため、藤野式重量計算器が使用されていたことだと想像しています。藤野式計算尺は一般計算用よりも金属重量計算器のほうが数がはけているようで、その証拠として現在オクに出てくる藤野式計算尺は一般計算用よりも金属重量計算器のほうが多いように思えます。それだけ原材料の重量計算では現場で重宝されていたのでしょう。

 藤野式計算尺は大正6年ころから戦時中の金属調達ができなくなったころまで30年近く販売されたようですが、いざ製造中止になったところで困ったのは軍の工廠、兵器廠だったのではないでしょうか?軍艦や飛行機製造のため、民需用の金属製品の製造を禁止したら、今度は製造に必要な金属重量計算器が調達できなくなったなんてお笑いもいいところですが、それはさすがに軍隊で、おそらく軍需用に材料を藤野式の製造元に送って軍需品として特納させたのかもしれません。戦時中ということもあり、包装は単なる茶封筒で説明書も藁半紙一枚というのも説明がつくと思います。さらに製造元の刻印などがないのも軍特納品ということで説明が付くはずです。
 それで藤野式の鋼・鋳物・砲金用金属重量計算器には寸法と重量単位により2554~2556号の三種類存在しましたが、この藤野式コピーには長さがメトリック、重量がキログラムのNo.2555号に相当するものしか現在見つかっていません。当時の設計はヤード・ポンドから完全にメトリックに移行してましたので、軍需品として1種類しか無いというのも納得出来ます。


| | Comments (0) | TrackBack (0)

September 15, 2016

中岸式万能図形計算器

Photo  戦前の円形計算尺の有名どころはしっかりした工作と別途の解説書などか充実した藤野式計算器ですが、大正末から昭和の初期にかけて度量衡の尺貫法からメートル法への移行に沿ったかたちで単位換算に便利な円形計算尺がいくつか出現しています・
 代表的なところは昭和2年のイソメ式円形計算器ですが、やや遅れて昭和4年ごろから発売されたのがこの中岸式計算器です。

 実はイソメ式計算器も中岸式計算器もそれほど高価な計算用具ではなかったからか、発売された数に比較して
残存している数が少なく、オークションに登場してくるもののみでその全貌を推測しようとするのも困難です。それでもいままで判明したことは東京製作所と称する会社で発売された円形計算器はまったく同じものでイソメ式と中岸式の両方の名前が存在することと、そののちこのA,B尺のみの単位換算系円形計算器は昭和4年に新しい版を起こして中岸製作所名でP.N.242591を冠して発売されていること。その他中岸式には一歩踏み込んだセルロイドのカーソルが付き、表面にA,B,C,D,尺の4尺を備える「万能図形計算器」とタイトルの付いた円形計算尺が存在する、のたったこれだけしか判明していません。こちらの中岸式のほうもP.N.242591が印刷されていますので、おそらくこのプレスで製作されたブリキ製計算尺の構造的な特許を取得していたのではないかと想像しています。
 富山から入手した中岸式の万能図形計算器は戦前の製品でその証拠に奇跡的に残っている中岸製作所の所在地が東京市浅草区千束町1-85というように記載されていますので、昭和18年以前であることは間違いありません。いちおう製造販売元ではなく発売元となっていますので、製作所を名乗りながらも別な下請工場で作らせていたのでしょうか?

 プレスのブリキ円盤塗装をかけてメモリを印刷というのはイソメ式の時代と変わりありませんが、おそらくはこんなブリキ細工の計算尺でも金属枯渇で民生品の製造禁止を受けて戦争が激しくなる前に製造中止となってしまったのでしょう。

 A,B,C,D,の4尺と書きましたがこれは尺の種類ではなく説明上の位置を示すだけのものでありイソメ式の尺種がイ、ロと表記されていたことと同様です。A,B,尺は実質的なC,D,尺でこの部分だけ可動し計算することができますが、Cは二乗尺、Dは三乗尺でお互いには可動しません図形計算器のタイトルだけあって平方立方計算に特化した使い勝手を考えてのことだと思います。
Photo_2


| | Comments (1) | TrackBack (0)

September 04, 2016

新スプリアス規制後までの無線局延命作戦その1

 平成29年11月30日に終了する10年間の猶予期限終了を以て旧技適機を含む旧スプリアス規格で製造された無線機は新規の申請も再免許申請もおりないことに決まっています。新規申請や従前使用している旧スプリアス規格無線機再免許申請の場合には新たなスプリアスの規格を満たしているという個別の検査結果を添えるということになっていますが、現在使用されている無線機の総数を検査するとなるとそれこそ各地に陸運事務所並みの検査場や民間車検場などのような設備を多数設ける必要があり、それでなくとも趣味だけの世界のアマチュア無線機にそれだけの税金を投入することなど到底ありえません。それで旧技適機以前の機種を使用しているアマチュア無線家の殆どは救済措置として現在JARDが実施しているアマチュア無線機のサンプリングによるスプリアス実証試験の結果によりJARDから新たな制度の保証認定を受けられるだろうという目論見で積極的な対策を施していないようです。少なくともうちのローカルではみなそのように楽観的に構えている人たちばかりですが、当方の設備はHFが真空管ファイナルのアナログ機ばかりで、他の無線機も30年以上の骨董品をかき集めてQRVしている始末ですので、まずスプリアスの新規格を通る見込みも保証認定が成立する見込みもありません。 そのため、最悪局免の期限切れで廃局ということになります。さらに悪いことには固定局が29.11.30の猶予期限から半年のタイミングで期限が切れてしまいます。

 しかし、移動局の局免の期限が今年10月で、再免許を申請すれば29.11.30の期限を迎えても4年近く使用できるため、まずは現在真空管機のみ申請してある状態をもっと新しいトランジスタファイナルの無線機を追加し、ついでに真空管のアナログ機ではQRHのために諦めていたデジタルモードを使用するために付加装置を接続した状態で保証認定を取得して変更申請し、その上ですぐに再免許申請をしてしまおうという延命対策を企てる事にしました。おまけに修理目的で落札して修理が完了した後そのまま放り出してあったハンディー機多数ともらい物のモービル機などをあわせて変更申請の保証認定に加えることにします。

 それで新たな無線機選びですが、新しい技適の無線機を導入するとなると、固定局維持の方まで予算が回らなくなるために再免許後5年使うことだけを考えてデジタル運用との親和性が高くて世の中にたくさんで回っており中古としての値段がある程度こなれているHF無線機を選びます。最近は旧技適機もオークションでは投売り状態なのですが、結局技適以前のKENWOODのTS-690SATのオートマチックチューナー付きを38,000円で落札しました。これ、3月の頭に入手したのですが、製造年が製造番号から見ると1991年らしいので実に25年落ちです。 いろいろコンパクトなボディーに機能を詰め込みすぎたため、けっこうノイジーだという話もありますが、外部入出力のDINのACC端子があり、デジタルモードとの親和性も高いようです。その使い勝手の良さから名機と呼ばれるのも間違いではないでしょう。おまけにTS-680時代と異なり50MHzが50W出力なので、IC-551以来の10W割り当ての出力から晴れて50MHzも50W出力の運用が可能になります。
 
3月の頭に入手したTS-690SATですが、デジタルモードの諸元内容等を調べるのが面倒くさくてなかなか変更申請の書類がまとまりません。その間にずるずると時が過ぎていきました。

 現在保証認定は以前どおりTSSと新たに加わったJARDの二社で行っています。この二社には保証認定手数料に差があり、TSSは変更申請の保証認定は何台でも3000円、それに比べてJARDは1台は3000円ですが2台以上は5000円です。今回の変更申請は旧技適機を含めて台数が10台にもなるためにTSSのほうがお得なのですが、以前JARD主催のアマチュア無線免許養成講習で講師料を何度もいただいたので、今回はJARDに少し還元することにしました。
(続く)

| | Comments (0) | TrackBack (0)

September 01, 2016

CEAG炭鉱用蓄電池式防爆安全灯(炭鉱用カンテラ)

160831_094935  英国シーグ社の炭鉱用蓄電池式防爆安全灯、あちらのカテゴリーによるとインスペクションランプと呼ばれるものです。炭鉱の坑内での設備点検などに使用された手提げの携帯電灯ですが、メタンガスなどに引火しないように中が完全にシールドされ、万が一中でスパークなどが発生しても外部のメタンガス等に引火しない構造になっています。
 その仕組みは灯油や揮発油を使用する安全灯に比べれば簡単なものですが、万が一ランプのガラスが破損して電球を壊した際には直ちに電球の回路を離断して電球のフィラメントがメタンガスに触れない構造が必要です。

 日本ではこの手のインスペクションランプはキャップランプの蓄電池とランプの本体を合体させた弁当箱にキャップランプが付いているようなインスペクションランプしかありませんが、外国では吊り下げの蓄電池式安全灯が最初に使用された関係で筒型の蓄電池が存在し、そのためにインスペクションランプもこれを流用した筒型のものが作られています。
 炭鉱用の防爆蓄電池灯としてはスウェーデンのNIFE(ニッフェ)社とイギリスのCEAG(シーグ)社が有名で、個人もちの坑内用灯火としては1920年代から徐々に石油安全灯や揮発油安全灯に取って代わられました。筒型の吊り下げ蓄電池灯は中の蓄電池も筒型ですが、液槽は一つのみで、二つの電極が壁面のカーブにあわせて湾曲しており、鉛蓄電池ゆえに電圧は2Vです。キャップランプの蓄電池は鉛蓄電池式は2層構造にするため角型で4V、アルカリ蓄電池式は2層型で2.5Vの公称電圧でしたのでそれより低電圧の蓄電池を使用したものです。ちなみにシーグは鉛蓄電池式でニッフェはアルカリ蓄電池式でした。さらにウルフも比較的に早くから蓄池式安全燈を発売していましたが、こちらもアルカリ蓄電池式です。

話は英国製蓄電池灯から脱線しますが、昭和23年に発行された「電気安全燈の理論と実際」という本を偶然入手しまして、当時の紙不足のおり、大変に紙質が悪く70年ほど経過した今では崩壊しそうな本なのですが、この本の著者が長年三井三池炭鉱の安全燈係として勤務されてた方ゆえに歴史から理論、日常の取り扱いにいたるまで実に詳しく書かれた蓄電池安全燈の参考書です。
 その蓄電池安全燈の歴史の中で、蓄電池式安全燈を使用したのは三池炭鉱のような大炭鉱ではなく、実は大正2年にガス爆発事故で423人の犠牲者を出して経営が傾いた石狩石炭の新夕張若菜辺坑を買収して設備面のてこ入れを図った北海道炭鉱汽船により大正9年7月にエジソン蓄電池式安全燈100個を導入したのが嚆矢だったそうです。しかし、この新夕張炭鉱はガス気が多く危険なヤマでその後も小さな事故が続き、設備投資の割には収益が上がらず、早くも昭和6年に閉山させてしまったようです。その大正9年から10年にかけて北炭系の夕張本鉱、空知鉱などに使用が広がり、九州では三池炭鉱が大正12年12月にエジソンD型蓄電池安全燈が600個導入されたのを皮切りに大正13年から14年にかけて高島、方城、鯰田、新入、上山田の三菱系炭鉱と豊国などの明治系炭鉱、田川などの三井系炭鉱でもエジソン式蓄電池燈が導入され、揮発油安全燈から電気安全燈へのシフトが広がっていったそうです。わが国では手提げの蓄電池安全燈はまったく使用がひろがりませんでしたが、唯一本多商店より手提げの蓄電池安全燈が製作されたようです。160831_095125  大正から昭和にかけての工学博士で採鉱学という著書のある永積純次郎によるとシーグ、ニッフェ、ウルフの各手提げ蓄電池安全燈の比較で「シーグ燈は此種の電燈中構造最も完備し、且つ製作優秀なるものとせらる」と記しています。どうやらこれは個人の感想ではなく誰かの受け売りのような感じですが、確かに真鍮のダイカストとプレスを組み合わせた部品構成は精度が高そうで、また落としたりしたところで何の不都合もないような安定感が感じられます。しかし鉛蓄電池を使用していることで鉛の電極や電解液の希硫酸の重量もあり、インスペクションランプでは鉛蓄電池の電解液抜きで2.2キログラムという超重量級です。これはウルフ揮発油安全燈の1.6キロをはるかに上回ります。坑内で分解されないように電球部分と取っ手のついた蓋の部分がリードリベットロックになっていています。さらに蓋の部分を30度ほど回転されると鉛蓄電池の電極の導通が切れて消灯、取っ手の部分を正位置に回すと鉛蓄電池との導通が出来て点灯するというスイッチになっていて、鉛蓄電池の電極にはスプリングが仕込んであるプランジャーになっています。この仕組みは外部と完全に隔離されていて独立したスイッチも設けることも要らずシンプルで良いアイデアだと思います。
 このシーグのインスペクションランプはある種の揮発油安全燈がそうであったように船舶の搭載品として日本にやってきたようで、出所は国際貿易港の神戸からでした。時代的のは1940年から1950年代くらいの代物で、インスペクションランプの形態としてはセカンドタイプになるようです。届いた当初は酸化皮膜で真っ黒でしたが極力パーツを分解してバレルと蓋だけにし、酸性溶液に3時間ほど浸したのちにブラシでこすり洗いし、磨き上げたのがこの状態です。ブラスウエアとしても相当な異彩を放っており、机の上に置いておくだけでも部屋の雰囲気が変わります。入手価格はたったの1k円です。少し前まで中の蓄電池のないシーグのインスペクションランプがオクで半年以上も再出品を繰り返していましたが、やっと最近落札された価格は8k円でした。


| | Comments (0) | TrackBack (0)

August 31, 2016

COSSET DUBRULLEミュゼラー式安全燈(炭鉱用カンテラ)

160831_094809  フランスの北部、ベルギーとの国境を接するノール=バ・ド・カレー地域圏は古くから石炭資源に支えられた重工業が発展してきました。その重工業の発展とベルギーに隣接するという地理的な要因で両大戦ともにドイツ軍の侵攻ルートとなり、第一次世界大戦では一帯が主戦場となってしまうという不幸な歴史も抱えています。そのベルギー国境をまたいだ炭鉱地帯はイギリスの炭鉱と比べてメタンガスの量が多く、古くからガス爆発事故が多発していましたが、そのためイギリスに先駆けて安全燈の改良が進み、クラニー燈を改良したミュゼラー型安全燈やマルソー型安全燈、ガス検知燈としてのセノー型ガス検定燈などはすべてフランスで開発され、それがイギリスでも普及していたものです。しかし、ドイツで考案されたウルフ揮発油燈の登場によってフランスでも1910年代以降は油燈から揮発油燈に変化してゆき、その後蓄電池式安全燈に世代交代していったのは諸外国同様です。
 以前、札幌から入手したARRAS製の揮発油燈はフランスからのアンティーク雑貨類に混じっていたということでしたが、明治時代からの文献をいろいろ調べてみてもフランス製の安全燈を輸入しようとした動きはありませんでした。思うに安全燈の導入初期がちょうど三国干渉の時期と重なり、三国干渉に中立だった米国や英国から調達できる物品をわざわざ三国干渉の当事国であるフランスからも選択する必要を認めなかったということだったのかもしれません。もっとも臥薪嘗胆のスローガンの矛先は、遼東半島を獲得して極東艦隊を旅順港に送り込み、日本ののど元に飛び出しナイフをちらつかせた帝政ロシアに向けられることになりましたが。そのため、安全燈に関する明治期からの技術書や試験などの記録をいろいろ探してもミュゼラーやマルソーならびにセノーがフランスで開発されたことは記されているものの、実際のフランス製安全燈を扱ったものは見当たりませんでした。
 今回入手したちょっと変わった形の油壷を持つ安全燈はフランスからの雑貨に混じって日本にやってきたCOSSET DUBRULLEというノール=バ・ド・カレー地域圏の工業都市リールに存在した会社の製品で、形態的には初期のミュゼラータイプの安全燈になります。
ガーゼメッシュが一重で、その中に金属製のチムニーが入っている構造の典型的なミュゼラー式安全燈で、年代はおそらく1870年代から1880年代にわたって使用された大変に古い安全燈です。焼き物ではありませんが高台付きの油壷で、その真ん中に芯をネジ式に上下するためのノブが鎮座しています。下からロックボルトをねじ込んで施錠するタイプのロックシステムが付いていたらしいのですが、プレス製のガードピラーリングの中身のメカが欠損していてその構造がどうなっていたか確認できません。また油壷と結合できないためにカーゴピラーリングからネジで仮止めになっていました。そして腰硝子はえらい気泡のたくさん入ったものが装着されていましたが、割と早い時代に廃品になった腰硝子の欠損したランプの体裁を整えるために何かのビンをカットしてはめ込んだものらしいです。唯一フランス的だと思ったのは芯押さえの金具が鰐口状になっていて、そのギザギザで平芯を押されているため、芯の交換が簡単だということくらいでしょうか?芯は底のつまみを回して繰り出す方式になっています。普通切られているは油壷とカードピラーリングの双方にまったくネジが切られていないため、おそらくはカードピラーリングの中身と油壷をロックボルトで結合し、それがロックシステムを兼ねるというような構造だったのかもしれません。まあ欠損だらけで資料にもなりませんが、ここまで古い安全燈に、しかもフランス製にお目にかかることもそうはないので、いちおうコレクション入りだけはしてしまいました。形態的にもフランス以外では見かけない特徴のある安全燈です。そのデザインはルノー・4やシトローエン・2CVにつながるようなフランスのインダストリアルデザインの粋を感じさせます。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

August 25, 2016

小柳式安全燈(炭鉱用カンテラ)Type Koyanagi's Flame Safety Lamp

160825_132136   明治から昭和初期までの外国に比べて短かった日本の炭鉱用安全燈の歴史において、小柳市太郎の経営していた小柳金属品製作所の安全燈はまったく知られていない安全燈の類だったようで、各地の炭鉱博物館でもその姿を見たこともなく、数年前に三池炭鉱の大牟田から発掘されるまで炭鉱技術系の文献にもまったく載っていない世の中にも知られていない幻の安全燈でした。当方、それ以前から日本人が安全燈で欧米の特許を取得していたことは知っていましたが、それが現実に製品化されていたことはぜんぜん知りませんでした。
 参考資料や手がかりもまったく無かったために国会図書館の資料や神戸大学のデジタルアーカイブ中の新聞記事などを調査した結果、この小柳式安全燈の小柳金属品製造所は、どうやら大正6年ごろに経理担当者の運転資金使い込みによる背任横領が発覚して資金繰りに窮して事業を停止し、出資者によって設備その他を差し押さえられたことによってこの小柳金属品製造所は地上からも歴史からも消滅してしまったであろうことを知りました。そのあたりの詳しいことは前回大牟田から入手した小柳式安全燈のときに詳しく書きましたので割愛しますが、当時渡船でしか渡ることの出来なかった佃島の石川島造船所のそばに従業員20名くらいの小工場を構えていたのが小柳金属品製作所です。現在は大川端リバーシティー21の敷地に呑み込まれているのではないかと思います。
 何せ前回と今回の2個の残存個体しか見たことが無いので全容はいまだ謎に包まれている小柳式安全燈ですが、経営者小柳市太郎によって早くも明治の末期にバーナーデザインとロックシステムの国際的なパテントを取得していることが特筆されます。しかし、いまだにその公開特許の内容を精査できていないため、いったいどういう特許だったのかはわかっていませんでしたが、今回ロックが開錠されてバーナーが原型のまま出てきた小柳式を入手したことによってその概要が判明しました。

 入手先は炭鉱とは縁の無い都内の質店が営む「ペン先からロケットまで何でも買取り」というリサイクルショップがオクに出品したものでした。どういう経緯で持ち込まれたか来歴をたずねたのですが、質屋という信用がものを言う商売柄か、残念ながらやんわりと無視されてしまいました。しかし都内といえども戦前の炭鉱に勤めていた炭鉱技師のOBは都内に戻ってきて居を構えている例が多く、山下洋輔氏のご父君も三井の炭鉱技師ですし、下北沢在住の知り合いの祖父も三井の炭鉱技師で、山野炭鉱の鉱長まで務めていたという話しでした。そういう炭鉱技師OBが炭鉱の象徴としての安全燈を記念に持ち帰り、それから何十年も経過した後、なにも知らない子孫が屋敷の建て替えで家財とともに処分してしまったものがリサイクル業者の手によりオークション上に出回るということはあるのでしょう。 160825_132315_2  
 届いた小柳式安全燈は以前大牟田から入手したガス検定用と思しき特殊なものではなく、明かりとして使われた通常型の安全燈です。ロックのかみ合う部分が切断されて開錠されていたため、かみ合う部分がどういう形状だったかはわかりませんが、油壷からスプリングで押し上げられたプランジャーが下部ガードピラーリング底面の穴に結合してロックするシステムで、同様のロックシステムは英国のアーネスト・ヘイルウッドが考案してアイクロイド&ベスト社名でパテントを取った油壷下部から磁石を当てて開錠するものがありますが、どうやらこちらは上部から同極の磁石をガードピラーリングに押し当てて反発力でプランジャーのかみ合いを解除するタイプの磁気ロックシステムなのかもしれません。燃料は灯油なので平芯ですが、英国などの油燈安全燈の芯はハーフインチですから約4分芯なのに対して当時の家庭用吊りランプ同様に5分芯です。芯の上げ下げはウィックピッカーという針金の鉤で上下させるものではなく油壷下部のネジを回して繰り出す割と近代的なタイプですが、バーナステムの中の芯押さえの横にラックを刻んであって、底ネジシャフトに固定されたウォームギアの回転によって芯を繰り出すというまったく凝った方式です。この個体には燃焼効率を上げるためか側面に穴がたくさん開いたフード状の導風板が付いていて、白いので陶器かと思ったら瀬戸引きのプレスで作られたものでした。以前大牟田から入手したものはガス検定用に基準炎を作り出すためかこのバーナーキャップは付いていませんでした。燃料の補給は本多式ウルフなどと同様にカニ目回しでネジを外して燃料を補給するタイプで、灯油用のため揮発油燈のように油壷に中綿がつめられておらず空洞です。しかし、油壷の給油口が漏斗状になっていていちいち漏斗をあてがわなくともビンにでも入れた灯油をそのまま注くことが出来るというアイデアは他に例がありません。ガーゼメッシュは二重になっていましたので、形態的にはマルソー式安全灯ということになります。 160825_132334_2  この貴重な小柳式安全燈はロックシステムの意味も構造も理解していないようなランプコレクターの手によって破壊的な開錠を試みられたため、ガードピラー4本の上部が切断されボンネットが分離しています。それで開錠できるわけもなく、結局は油壷と下部ガードピラーリングの間に薄い刃物をあててプランジャーのかみ合う部分を切断して分解に成功したというな無残な個体でした。さらに動かない繰り出しネジのつまみを無理やり回して軸をねじ切ってしまっています。それほど坑内で使用されないうちに引き上げられたようなきれいな個体だっただけに、素人の手にかかって資料としての価値が落ちてしまったのが至極残念でしたが、接着剤でつなげられたガードピラーは真鍮の丸棒ですから受けの部分も含めてISOのネジを切りなおして近々新しく製作することにします。油壷とガードピラーリングのナンバーは1029番とマッチングでした。以前の三池炭鉱で使用された小柳式の検定燈が1351番でしたが、このナンバーの書体と級数がまったく同じなので、おそらくは同じ福岡は三池炭鉱の坑内で一度は使用された三池炭鉱の遺物の可能性が高いと思われます。
 しかし、さすがに国際的にパテントを申請しただけあってバーナーの芯の繰り出しにラック&ウォームギアを使用しただけでも小柳市太郎の非凡な才能を感じさせますが、明治の末に自社工場でウォームギアを切り出す工作が可能だったとすると、この小柳金属品製作所は対岸の本多船燈製造所などと比べものにならない高い工作技術を持っていたことになります。ただし、英国を除いて世界的には灯油の安全燈から揮発油安全燈に急激にシフトしていた時期にあたり、日本も例外ではなく本多船燈も江戸商会もほぼウルフ揮発油燈をまるパクリして大量に販売していった波に飲み込まれて、この独創的な小柳式安全燈は旧式油灯の烙印を押されて日本の炭鉱からは淘汰され、炭鉱技術史からもその存在さえ無視されたのでしょうか。国際パテントナンバーを記載した大きな銘盤はイギリスの安全灯を意識してのことででしょうが、おそらく小柳市太郎はアイクロイド&ベスト社の天才安全灯考案者のアーネスト・ヘイルウッドの存在を知っていて、ヘイルウッドに対抗して新しい油灯式安全灯の開発に情熱を注いでいたのかもしれません。
160825_132418_3 三池の宮浦鉱らしき明治期における安全燈整備風景の画像がネットにアップされていますが、そこに大量にならぶ安全燈が揮発油燈のようでいてどうも平芯の油燈に見えて仕方がありません。油灯式の旧普通型ウルフ灯かもしれませんが、これが小柳式のマルソー燈だとするとある時期には三池炭鉱には小柳金属品製作所の安全燈がたくさん入っていたものの、明治の末にはドイツのザイペルあたりの揮発油燈が入ってきて早々に淘汰されたということなのかもしれません。

 それで結局ガードピラーを作って交換し、完全な安全灯の姿に再生するまでに1年と2ヶ月掛かってしまいました。小ロットの材料調達が東急ハンズも何にもない田舎では難しく、また、本来分解することが出来ないように作ってある安全灯をどのように分解してガードピラーを付替えるかという工程に自信が持てなかったということもあって手がつけられなかったのですが、リペットの頭をやすりで平らにしてポンチを打ち、ドリルを当ててリベットの頭をさらうとボンネットが分解出来そうだという確信が生まれ、これが成功したことで大方80%ほどの技術的な問題がクリアできた感じでした。本来は小型の旋盤とボール盤くらいないととても出来ない作業ですが、金切ノコ、ハンドドリル、やすり、タップ&ダイスおよびハンドリペッターのみでやり遂げた部品製作および再生作業でした。
 

| | Comments (0) | TrackBack (0)

March 29, 2016

うちにネコを入れてしまった!23 激しいベルクのトイレハイ

Img_0435_2  うちのメインクーンのベルクはブリーダーさんのところから生後68日あまりでやってきたときからある瞬間に突然部屋の中を走りまわり、猫タワーの上で膨らんで威嚇のポーズを取ったり妙な声の雄たけびを上げたのちトイレに駆け込んでうんちをたれるという行動がありました

 これは生後一年以上たち、虚勢して半年以上経た今でも部屋の中を妙な声を上げながら縦横斜めに走り回ったのちにトイレに駆け込んで勢いよく砂をかき寄せて周りに砂を撒き散らし、そしてうんちという行動は変わりません。

 またうんちをしたあとはトイレを置いてあるすぐ横の壁をこれでもかというばかり神経質に手をこすりつけるため、壁が傷まないようにカバーを貼ってしまったくらいです。このうんちの前の妙なテンションのあがり方はラグドールメスのうにには見られない行動です。ベルクが部屋の中をわけもなく走り始めたらそろそろうんちのサインだと思って、いつまでも走り回っていたら「早くうんちしろ!」なんて声をかけるくらいで気にもしませんでした。しかし子猫のときならいざ知らず、7.6キロの大猫がうんち前に無秩序に走り回るのはそろそろご勘弁と言いたいくらいです。

 もしかしたら便秘が苦しくて走り回っていたのかと思いきや、たれたうんちは柔らかい(笑)

 このトイレの前後に走り回る行動というのは、どうやら猫の野生時代の習性の名残らしく、最近はこの行動を称して「うんちハイ」とか「トイレハイ」というような言い方をするそうです。うんちしている最中は一番外敵に狙われやすいのでうんちをする前に周りを威嚇し、うんちしたあとはダッシュで自分のテリトリーに逃げ込むという習性が残ったそうですが、今までこれほどまでにうんち前、部屋の中を縦横無尽に走り回る猫は初めてです。

 もしかしたら一番野生の猫の形質を受け継いでいるというキジトラという被毛と関係あるのでしょうか?

 しかし、夜中にこのうんちハイになられて、寝ている飼い主の腹の上までどかどか走り回られるのは本当に迷惑なんですが、年齢的に1歳2ヶ月を過ぎ、必ずしも毎回うんちの前に走り回ることが無くなり、静かだからオシッコかと思いきやうんちということもあります。年齢がある程度になるとトイレハイにはならなくなるのでしょうか?

| | Comments (0) | TrackBack (0)

March 25, 2016

うちにネコをいれてしまった ! 22 換毛期にはやはりこれ!

160325_102928 もし、小型の箱のようなものに猫を入れ、スイッチを押すと抜けかけた毛がすっかり吸い込まれてしまい、家の中では落ちた毛のことをまったく気にしないで生活できるような夢のような装置ができたなら、その経済効果はいかほどに?

 彼岸も過ぎて雪が降ったとしても昼までにはすっかり融けてしまうような本格的な春を迎えました。
うちの猫どもも本格的な換毛期を迎えつつあり、先月くらいから抱き上げると服に盛大に抜け毛が着くということに。

 夢のような魔法の箱はまだ発明されていませんが、現実世界ではおなじみのファーミネーターというトリミングナイフをT字型の柄にはめ込んだようなアンダーコート抜き器でアンダーコートを抜くのが今のところ最善の方法です。
 実はお正月に親戚のメインクーン混じりの大猫兄妹用に叔父に使っていたファーミネーターを進呈してしまったため、一時的にアンダーコートをバサバサと抜くような道具がなかったのです。

 そもそも叔父にあげてしまったファーミネーターというのが平行輸入品のいわゆるにせものっぽいものだったのですが刃の出来はさほど悪くなく両方の猫の夏毛から冬毛への換毛期をこれで乗り切りました。大型長毛種用で価格は送料込みで1800円でしたからほぼニセモノ確定なのですが、刃の工作精度などがさほど悪くは感じられず、おまけの鳥の羽のおもちゃもついていましたので、もしかしたら正規の工場から横流しされたものかと思ってしまうくらいのものでした。

 そこでまた別な業者から並行輸入と称するファーミネーター大型長毛種猫用を入手しましたが、届いてみてよく刃先を見るとどうも以前使っていたファーミネーターと違うようです。溝がかなり浅く、ためしに使ってみるとほんの表面近くのアンダーコートしか取れません。ホームセンターで正規品の大型長毛種猫用の刃先と比べてみると、やはり溝の深さがぜんぜん浅くて短毛種用の刃先と同じものでした。それなのに刃先にはちゃんとLong Hairと印刷されています。まあこんなものクレームで送り返したところでそちらの労力のほうが大変なので泣き寝入りでしたが、おそらくこれは中国の製造メーカー側の品質管理の問題でしょう。刃の溝の深さを見れば短毛用か長毛用かわかりそうなものですが、所詮にせものに物づくりの良心も品質管理も求めるほうがムリというものでしょう。

 そのうちメインクーンもラグドールもアンダーコートがもっさりしていまにも大量に抜けそうで、特にラグのほうはアンダーコートが密でふけまで浮いて来たのでアンダーコートの手入れは緊急問題になってきました。

 しかし、もう通販の並行輸入ものには懲りたので、ライトハウスが輸入代理店の正規品ファーミネーター大型長毛種猫用を探します。しかし税込みだと大型猫用は7千円を越えてしまうため躊躇してましたが、ヤクオフの正規品スタート3000円というのもにわかに信じることが出来ず、結局近所で一番安かったのがイオン・ペットで正規品を購入してしまいました。税込で7千円をわずかに切るくらいですが、背に腹は代えられません。これが小型猫用でしたらかなり割安なのですが。

 さすがに今回のファーミネーターはアンダーコートがばさばさ抜けますが、使用感や効果は最初の並行輸入もののファーミネーターと特に差は無いようです。

160325_103111
 左がニセモノで右が正規品。長毛種猫用のカラーのグリップに仕込まれながら、明らかに短毛種用の溝の深さです。刃先の加工もいい加減です。
160325_103138
 グリップの樹脂の色合いも微妙に異なり、エジェクターの灰色樹脂の大きさ形も微妙に異なりました。また刃先カバーの成型はまったく異なります。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

February 11, 2016

廃局 ? ! 我が貧乏無線局の行方

 無線機の新スプリアス規定の猶予期限がいよいよあと2年を切り、当方の貧乏無線設備は旧技適マークつき無線機を含めてすべて新スプリアス規定をクリアできない無線機ばかりのため、実質的にはすべて無線機を買い換えないと免許状更新が受けられないという状況に陥ってしまいます。
 悪いことに真空管リグでしか免許状を得ていない100Wの固定局が新スプリアス規定の猶予期限平成29年11月30日を超えて半年で局免の期限を迎えるため、更新手続きを申請するためには各バンドの占有帯域幅以外の輻射スプリアスの強度を一年以内に校正したスペアナで測定して測定結果を所定の書式で提出しないといけなくなるそうです。

 そもそも旧技適の無線機でさえ対策をほどこさなければクリアできないものを、アナログVFOでファイナルが真空管の無線機で対策を施すなどということはほぼ不可能です。そうなるとコリンズであろうがFT-101であろうが愛すべき昔の真空管リグというのは平成29年11月30日を超えて多かれ少なかれ5年以内に局免の期限を以て電波の世界から消滅してしまうことを意味します。

 デジタルシグナルプロセッサーによる内部処理が行われるのが標準になってしまい、スイッチを入れればすぐに電波が出せるHF機に対してアナログ真空管のHF機というのはパワースイッチと同時にヒータースイッチを入れ、真空管が温まらなければ電波が出せず、バンドごとにプレートとロードの摘みを調整してチューニングを取らなければいけないという儀式が付きまとい、アナログVFOは温まらないと周波数が安定せずQRHがあるため、ときどき周波数を調整してやらなければいけないなど、トランジスタファイナルのHFリグしか使ったことのない人にとってはわずらわしい以外の何物でもないのでしょうが、当方はそれがわずらわしいと思ったことは一度もありませんし、むしろ伝統技能の継承だなんて思ってそれを楽しんでいました。ただ安定度の問題でPSK-31などのデジタルモードの運用にはまったくの不向きで、そちらのほうは当初から切り捨てていました。真空管リグを一生使っていこうと思っていたため、新品の6146Bや6JS6Cなどの終段真空管は未使用品をストックしていたのですが、それも局免期限の終了とともに無駄なコレクションになってしまいそうです。今では空の上でお互いに真空管リグでQSOするなどという機会も激減してしまいましたが、明らかに最新の内部デジタル処理のリグの声とは違って野太く温かみのある音は真空管リグならではのものです。まあ、新スプリアス規定の完全実行はWARCのRRで以前から決まっていたことなので電波の質が適合しない真空管リグの無線の世界からの強制退場というのは製造終了後35年ほど経過しているために仕方がないことなのでしょうが、個人的には無線機の調整もできない最新リグを使ってアマチュア無線技士からアマチュア無線交信士に格下げになるのは忸怩たるものがあります。またうちの機材は人が捨てるようなものをかき集めて修理調整して現役に復帰させた無線設備ばかりですが、アマチュア無線はアンテナの自作も含めてほんの僅かな費用だけでもそろえることが可能だということを身をもって証明してきました。うちの無線設備なぞ1980年前後のものばかりです。さすがにハンディ機は1990年前後まで時代は下りますがそれでも25年は経過しています。アマチュア無線というものは最新のリグでも骨董的なリグでも、自作のリグでさえも平等に交信できるということが当たり前だったのに、これからは選択が限られた新スプリアス規定クリアのリグ同士でしか交信できなくなることになるのでしょう。

 現在保障認定業務も行うようになったJARDが新スプリアス適用以前の無線機のサンプルを集めて各機種がどれだけ規制値を逸脱しているか、クリアできる機種があるかどうかの調査を行う準備をしているようです。この結果如何では頭に002KNが付かない旧技適マークの無線機でも平成29年11月30日を超えて保障認定さえ得れば免許状更新し続けることが可能になるかもしれませんが、それはあくまでも素の状態でスプリアス規制値をクリアしていることが前提になるでしょう。旧技適よりも古い無線機、まして真空管ファイナル時代の無線機はどう転んでも救済処置はないことを覚悟して新しい無線機を探したほうが利口です。

 しかし、現在JARL会員の平均年齢は60歳を超えており、年金生活者も多いというなかで、最低でも10数万円するHFの普及機に買い換えてまで無線を続けようというアマチュア無線家が何割くらいいるでしょうか?平成29年12月1日を境にその後数年で怒涛の廃局ラッシュというものが続いてゆく気がします。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

January 08, 2016

うちにネコをいれてしまった!#21ベルク1歳の誕生日を迎える

 ベルク(メインクーン・ブラウンクラシックタビー)も本日1/8で1歳を迎えました。

 虚勢1ヶ月後の生後8ヶ月まで食が細くてやせっぽちで、標準的なメインクーンよりも遥かに軽かったため、4キロ台で成長が止まってしまうのではないかと心配でしたが、ブリーダーさんの言葉通りその後はぐんぐん成長し、現在体重は6.6キログラムです。

 メインクーンとしては標準的な体重になったと思いますが、まだまだ体型は細くて長いという印象なので、もっと体重が増えてゆくと思います。

 現在ロイカナのキトンをメインに朝晩缶詰とパウチのウエットをミックスして与え、おやつにデビフの犬用スナックボーイ・ササミを食べさせていますが、朝方になるとおなかが空いてたまらないらしく、3時とか4時に人を起こすので、そのつど少量のロイカナ・キトンを与えています。

 メインクーンのロイカナキトンは12ヶ月ではなく14ヶ月の指定だったと思います。それだけ成長が続くため普通のネコより高カロリーを続けるようにとのことですが、そろそろ次のフードをチョイスしていかなければなりません。

 うにの現在のフードがヒルスのアダルト尿路ケアのチキンで、その粒の大きさと硬さが好みみたいでしょっちゅう盗み食いしてますので、14ヶ月過ぎたあとはこのヒルズに統合したほうがいいかもしれません。

 ところで、知り合いのトイプードルのティーカップサイズ(1.4キロ♀1.5歳)が食が細くて合うフードがなくてずっと苦労しているのを見て、オリジンの犬用フードを試しに買ってプレゼントしてあげました。オリジンのフードは最近近所のイオンペットで扱いだしたのですが、このサイズのトイプー1匹なら高価なオリジンの犬用フードに切り替えてもさほど経済的な負担にはならないはずです。

 結果は驚異的で、いつも嫌がる食事の時間に自分から駆け寄ってきてオリジンのフードに食いついたそうで、ロイカナなど三種類ミックスしたフードの中からオリジンの粒だけ選んで食べたそうです。ただこのサイズの犬には粒がやや大きいので砕いて与えたとのこと。 高価だけどグルテンフリーで75%肉の固形餌恐るべし。
 しかし、うちのネコ2匹にオリジンを食わせたら飼い主がふりかけご飯しか食べられなくなりそう(笑)
160108_085924


| | Comments (0) | TrackBack (0)

January 05, 2016

うちにネコを入れてしまった!20 ベルクの体重増加作戦

151228_093452 新年となり、松が明けた1月8日にはベルクが1歳の誕生日を迎えます。
 
11月におなかの調子を壊して体重が容易に増えない時期が続きましたが、月末にはおなかの調子もよくなり、便が硬くなるのを見計らって本来は犬用のおやつであるデビフのスナックボーイ・ササミカットというのを与え始めました。ブリーダーさんには体重増加のため、オリジンのターキーを勧められサンプルも頂いたのですが、札幌あたりならいざ知らず道内でも他地域ではオリジンの高級なフードなんか見たことありません。ましてオリジンのスナックなど聞いたこともなかったので、以前に見聞きしていたデビフの肉を与えることで体重停滞から脱してくれるのではと近所のホームセンターから購入してきました。いちおうムネ肉とササミの両方を購入してきたのですがベルクにとってはササミのほうが好みのようで、現在ではササミばかり購入しています。

 その結果は劇的で、与えてから数日で6キロの大台を超え、年が明けて現在は6.5キロを超えました。一日一袋しか与えていないのですが、どうも食欲の誘い水的なものになったのか、普通のウエットもドライも残さず食べるようになり、毛も一段と伸びてきてふさふさになってきた関係もあって何かふた回りくらい大きくなった印象です。ラグドールのうにが現在6.7キロですから体重もあまり変わらなくなりましたが、うにと一緒に並ぶと目線が5センチくらい高く、尻尾を含めた長さも1.5倍くらい長いようなそんな印象です。
 すでに背伸びをすると台所のシンクに頭が届くようなサイズになりました。まな板の上に包丁など置きっぱなしにすると落として怪我をさせそうで、注意しています。

 メインクーンも6.5キロを超えるとさすがに大猫の片鱗を見せ初めてきており、4キロ台前半しか知らない知り合いにはものすごく大きくなったという印象を持たれています。もっとも家の中では最初から大猫だったラグのうにしか比較対象がないので、それほど大きくなったという認識はありませんが、重さは確かに増した感じがあり、最近はひざの上に乗せていると足がしびれてきます。また、夜布団の上に乗られると思わず息が詰まりそうなほどの重さですし、足元で寝られると寝返りが打てません。

 最近やっとウエットの回数を一日3回から2回にしました。かりかりだけは置き餌にしていますが、それでもいまだに昼時になると「ごはん!ごはん!」としゃべって缶詰を要求してきます(笑)

| | Comments (0) | TrackBack (0)

December 12, 2015

うちにネコを入れてしまった!19 ベルク下痢で病院に行く

151206_115929  ベルク(メインクーン)の月齢10ヶ月目の11月のことですが、月初の体重は約5600グラムでした。虚勢後1ヶ月間はさほど順調に体重が増えたわけではないのですが、その後に急激に体重が増え、一ヵ月と少々で900gほど増えた計算です。11月も順調に体重が増加し、一気に6000gの大台に達すると思ったのですが、どういうわけか一旦5800gに増えたのち、便が急激にゆるくなり、一日6回も排泄するようになりました。

 急激に気温が低下したために一時的におなかの調子を崩したのかと思い、湯たんぽなどを入れて保温するようにしたものの、これを嫌がって逃げてしまう始末で、そのうち水みたいな便を出すようになり、ついに近所の前田獣医科に連れて行くことになりました。高校の一年先輩の前田ドクターが言うには第一に急激に量を食べ過ぎるようになった過食による消化不良とのことですが、念のため検便してみると、腸内細菌の構成が善玉菌より悪玉菌のほうが多い状態で、まず腸内環境の改善を図る治療が必要とのこと。5日分の整腸剤と下痢止めを処方されましたが、5日経っても便がゆるければ抗生物質投与と言われました。
 猫に錠剤を飲ませるのは初めてだったのですが、ベルクはすなおに口を開けさせてくれて錠剤をのどに落として口を閉め、のど元をなぜると案外かんたんに錠剤を飲んでくれました。

 ところが、2-3日薬を飲ませ続けるも一向に便が固くならず、一時はどうなることかと大変心配したのですが、4日目くらいに便の形がはっきりするようになり、5日目にはまだやわらかいもののしっかりした便を出すようになりました。薬が切れたのですが、原因は腸内菌のバランスが崩れたことだとわかっているので、人間用のビオフェルミンSを朝晩一錠ずつ飲ませることで日々便の具合もよくなり、回数も一日2乃至3回くらいに減少しています。
 このおなかの調子が悪かったためか、11月は一旦5800グラムまで達した体重が減少に転じて5650グラムになり、最終的に5780グラム前後で、またもや停滞期に入って月末を迎えました。

 

| | Comments (0) | TrackBack (0)

October 12, 2015

うちにネコをいれてしまった!18 ベルク体重5kgの壁突破!

151002_092216  ベルクの去勢も済ませてしばらく経つので、先日ブリーダーさんに血統証明書の発行をお願いしました。ペットショップで購入した純血種には最初から血統書が付いていると思いますが、ブリーダーさんによってはペットタイプの純血種はスタンダードのタイプ維持の観点から飼い主が乱繁殖させるのを防ぐために血統書発行の条件に虚勢・避妊手術の証明書添付を義務づけているところがあります。これには賛否があるでしょうが、飼い主の「一度は出産させてその子猫を見てみたい」というエゴで出産させ、行く当てのない子猫を増やすという無責任な行為をしたがる飼い主を防ぐためにも有効だと思います。やはり人間と一緒の家の中で一生室内飼いするためにも猫には虚勢・避妊手術は絶対に必要です。
 そのとき、ブリーダーさんに去勢直前直後の画像をお見せしましたが、やはり同月齢の子よりも体長は劣らないものの体重はやはり軽いといわれました。骨格はしっかりしているのでもっと大きくなる要素は十分にあるので、ロイヤルカナンの栄養パウダーを補助的に使うことを勧められました。けっこうこれは高いので購入を躊躇していましたが虚勢時4.1キロだった体重が去勢後50日で1キロ増の5.1キロにやっと達して一安心です。やはりどうも男性ホルモンが食欲の抑制に働いていたようで、去勢直後の一ヶ月はそれほど食べるという印象はありませんでしたが、男性ホルモンの影響が衰えた一ヵ月後くらいから急に食欲が増したようで、最近は朝のパウチのウェットを食べ切っておかわりまで要求し、その後カリカリも食べており、生後9ヶ月を過ぎてそろそろ一日二食に変えようかと思っていたのに昼になると「ごはん、ごはん」としゃべって缶詰を要求してくる始末です。うんちも明け方と夕方の一日二回大量にひねり出しています。そんな感じですから栄養パウダーの世話にならなくても生後1年で6キロ台になる見込みは十分立つように感じます。かかりつけの獣医には今はカロリーをセーブする必要はなくて、どんどん食べさせるように言われていますが、早くダイエットを申し渡されるくらいの大ネコになってほしいものです。せっかくメインクーンに生まれてきたのですから(笑)

| | Comments (0) | TrackBack (0)

September 26, 2015

うちにネコを入れてしまった!17ラグドールのダイエット

150901_093639 メインクーンのベルクは去勢後に順調に体重が増加して一月ほどで400gほど増えました。以前は食が細くてなかなか体重が増えず、同月齢のメインクーンと比べて軽い体重が去勢を機会に追い込みに入った感じです。以前は日中の食事は缶詰ばかり食べたがってカリカリにはあまり口をつけなかったのですが、現在では缶詰を食べたあとにカリカリまで食べるようになり、これはすぐに5キロ台に突入するかと思ったのですが、4.7キロのところでまた停滞期に入ってしまいました。ラグドールのうにに高カロリーのロイカナキトンを食べられてしまうため、夜中の置きえさが出来なくなったのが主原因ではないかと思いますが、ベルク自身も高カロリーのロイカナキトンよりも今うにに食べさせているヒルズc/dのライトのほうが好みらしく、放っておいたらロイカナキトンを食わずに低カロリーのヒルズc/dライトのほうに口をつけてしまいます。
 ラグドールのうにのほうは前飼い主から特定のエサしか口にしないし、ウエットは基本的に嫌いだといわれていたのですが、療法食にも切り替えることに成功し、いまではベルクに出した缶詰を奪うように食べてしまうようになりました。猫の嗜好なんていうのは何かのきっかけで変わってしまうこともあるのでしょう。そういえばベルクもうちに来た当初は缶詰というとササミ缶しか食べなかったものの、最近はささみ缶はあまり好みではなくなったようで、ネスレのフィリックスというパウチのウエットばかり食べています。

 そのラグドールのうにですが、うちに来たときはすでに6.1kgの大猫で、膀胱炎治療で通院していたころには6.05kgまで体重が低下したものの、その後体調が元に戻り食欲が戻ったからか、今は6.2kgまで体重が増えてしまいました。獣医さんからは猫の種類からしてそんなに深刻なデブというわけではないけれど、出来れば5キロ台までダイエットさせたほうがよいといわれています。何せ腰の括れがないので治療に通ってもキャリーケースの上から引っ張り出して診察台に載せるのが一苦労で、最後には蓋をはずしてケースを逆さまにしましょう、なんていわれるくらいでした。おまけに歩く姿はひぐまのようで、あまり積極的に動こうとはせず、日中は体格に言わせてベルクから奪い取ったネコタワーの最上段で寝てばかりいます。さらに一日中置き餌にされていた関係か時間を区切ってごはんにするという習慣がなかったようで、目が覚めてはちょろっと食いしてまた元に場所に戻って寝るということを四六時中繰り返しています。これじゃあ太ってしまうのもあたりまえで、置き餌はやめて残った餌は引っ込めてしまい、時間時間でしか食べさせないようにし、夜中は基本的に食べ物は置かないことにしました。その煽りを食ったのがベルクで、いつもは主に夜中にカリカリを食べていたものですから明け方におなかがすいてたまらないらしく、先日は空腹で胃液を吐いてしまいました。成長期だからしかたがなく最近はうにに食われないように夜中に一口分だけロイカナのキトンを密かに食べさせていますが、困ったものでその音を聞きつけたうにが体に似合わないすばやさで駆け寄ってきます。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

August 31, 2015

うちにネコを入れてしまった!16ラグドールまで加わった我が家

150829_112246  突然ですがうちに2匹目の猫をいれてしまいました。
2歳10ヶ月のメスの猫で、市内の方から里子に迎えました。その猫種というのがラグドールというメインクーンに勝るとも劣らない大猫になる種類で、避妊手術を済ませてからウエイトコントロールがうまくいかなかったのか、それともこれくらいの体重で適切なのか、すでの6キロ超の堂々たるラグドールです 。前飼い主が転職で入寮ということになり、泣く泣く手放されたということでしたが。

 同じ市内だったということもあって、里親を申し込んでからとんとん拍子に話がまとまり、早くもその日の夜には我が家につれてくることになりました。キャリアケースを車に入れて走り出したとたんに鳴き出し、おしっこまで漏らすしまう始末で先が思いやられる感じでしたが何とか我が家に入れて先住猫との対面となりました。ところが予想通りそんなに簡単になれてくれる訳がなく、う~という威嚇の声を出してテーブルの下に入ってしまう始末です。翌日も先住猫にはまったく慣れる様子がないため、二段ケージを買ってきて何日かは先住猫に邪魔されない環境で過ごしてもらうことにしたのですが、どうも様子がおかしいのです。フードが合わないと下痢をする以外はまったくの健康体だという話だったのですが、どうも常にお尻が濡れていて尿臭が漂い、あまつさえ何度も何度もトイレに座ってもおしっこが出ないということを繰り返していました。翌日も先住猫が興味を持って近寄ってきても迷惑そうに威嚇するという状態は変わらず、確証はなかったのですがどうやら体の具合が悪そうで、おそらく尿路系疾患、特に膀胱炎疑いですぐに先住猫を同じ週の月曜に虚勢手術してもらったばかりの近所の動物病院に持ち込むと案の定、膀胱炎症状だといわれました。そこで膀胱カテーテルを入れられて尿を採取したのち膀胱洗浄ということになり殺されるかのような断末魔の悲鳴を上げ、その後エコーで膀胱周囲を観察すると、膀胱壁にストルバイトの塊、おそらく砂状の塊があり、これが原因で膀胱壁に細菌感染して膀胱炎になっているとの診断です。また洗浄した液の中からもストルバイトの四角い結晶が見つかりました。
 治療のため、毎日しばらくは抗生物質の点滴と投薬に通うことになりました。さらに療法食に切り替えるように厳命を受けたのですが、サンプルにいただいたヒルズはそのままではまったく受けつけず、1/4混入からはじめる療法食切り替えトレーニングを始めています。
150825_183925  また点滴2日目以降から急速に体調が改善したためか、本来のべた甘気質が最大限に発揮されるようになり、先住猫のちょっかいにも余裕で相手ができるようになりました。いまでも微妙な距離感はありますが、キャットタワーの最上段と二段目にいっしょに長くなっているというくらいの関係までには持ってこれたようです。まあこれから家族として長く一緒にすごせるように、具合が悪くなった猫の症状をすぐに察知してただちに動物病院に連れて行くのは飼い主の義務ですが、何か前飼い主のツケを全部払わされているような気分です。前の飼い主の方は仕事で一緒にすごせる時間が短いとはいえ、アンダーコートにオーバーコートが絡み付いて一瞬肉の塊かと思わせるような毛玉が何箇所も出来ていて、耳の穴は手入れをした様子が無く、足の裏の毛は伸び放題、おまけに餌のやり方を気にせず膀胱結石が主因で一週間手入れ不要のトイレから尿道を伝わって細菌感染して起こった膀胱炎を見落としていたわけですからお世辞にも大切に育ててきたとは胸を張れないでしょうし、まして健康な猫であったわけではありません。
 膀胱炎ラグドール、4日抗生物質の点滴に通ってすっかり体調が戻ったようで、先住猫ともすっかり折り合いがついて距離感もまったくなくなってしまいました。うちに来た当初はう~とばかりうなって、まったく関わろうとしなかったのですが…

 うちの先住猫ではあたりまえのことでしたが、「飼い猫はちゃんとしたエサを食べさせて水をたくさん飲ませ、それらの量のチェックを欠かさず、定期的に体重の増減を調べる。またトイレは手入れ不要のものを使わず、毎回ごと汚れた砂の部分は取り除き、新しい砂を補充し、定期的に砂の総入れ替えを行う。」が猫の健康を保つための最低限のケアです。

 結局、8日間点滴と抗生物質の注射に通い、最後に2週間の持続抗生物質(一本4500円)を投与して通院終了となりました。今では先住のベルクを押しのけて一番いいポジションに居座り、人間に対してはおなかを見せて甘えてくる媚にゃんこに変身してしまいました。アンダーコートが密になりすぎて腰まわりに毛玉が出来やすく、抜け毛も大変だったのですが、ファーミネーターのおかげでアンダーコートをかなり梳いたことで、抜け毛も落ち着いてきました。見掛けがデブなので、運動能力がそれなりかと思いましたら、走り回る能力はベルクに劣るものの上下にジャンプする能力は遜色なく、猫タワーの2段目まで一気に飛び上がれるくらいの筋力はあるみたいです。

 エサは現在ヒルズのc/dが100%ですが、油断しているとベルクのロイカナのキトンを食いたがるため、キトンに手をつけたらさっとヒルズのc/dの皿に差し替えることをしています。またウェットは好きではないという話でしたのに、ベルクのウエットまで手を出す始末で、c/dだけしか食べさせないというのもなかなか猫の好みがありますから大変です。でもまあ、当初まったく口をつけなかったヒルスのc/dをトレーニングの結果、短時間で100%切り替えられたのは良かったですが、前田先生によると100%の療法食に切り替えるのに3週間以上掛かった猫もいるそうで、やはり好みのエサから必要な療法食に切り替えるのは大変なことだと感じました。

 もとの名前が「ウニ」という名前なのですが、見かけがサンダーバード2号みたいなので、影で「サンダーバード2号」といわれています(笑)

| | Comments (1) | TrackBack (0)

August 18, 2015

うちにネコを入れてしまった!15 メインクーンの去勢時期は?

150817_193119  オス猫の去勢はいつするべきかという時期に関してはいろいろな説があるようです。未避妊のメス猫といっしょに飼っている場合は早めにしなければならない事は当然ですが、単独飼いのオスの場合となると話は別で、あまり早く去勢をしてしまうと尿路形成の関係で良くないという話もありますし、成長途中で去勢することによって体が大きくなりにくくなるとか、顔が子供のように小さいままで成長し、見かけが貧弱にになるとか、未確認情報ばかりで混乱してきます。
 2回目のワクチンを接種してもらったうちの近所の獣医は7ヶ月過ぎを勧めてきましたが、メインクーンは一般の猫と比べて成熟がゆるやかで、体を十分に成長させるには10ヶ月目くらいの去勢が適当ではないかとブリーダーさんにも相談しました。ブリーダーさんの話では7ヶ月を過ぎてくらいの去勢で成長が止まるという経験はなく、自分のところの繁殖メインクーンは10ヶ月を過ぎてもスプレーに及ぶオス猫の話は聞かないとのことで、去勢の時期に関してはなんとも言えないといわれ、ますます混乱してきました。果たしてメインクーンのオスは7ヶ月で去勢するべきか10ヶ月すぎて去勢するべきか。ただ、去勢を遅らせると尿臭がきつくなるそうで、これも室内飼いの猫としては決定的にいやです。
 結局は獣医の勧めどおり7ヶ月過ぎて去勢することになったのですが、そのきっかけとして6ヶ月過ぎからときおり飼い主の腕にまたがって手首を噛み腰を使うという擬似性行為が見られるようになったことと、あいかわらず食が細くて他のメインクーンよりも成長が遅く、去勢することによって食欲が出てくると成長の遅れの挽回、特に体重が増加につながってくれるのではないかということからです。普通の猫は約10ヶ月で成長がほぼ止まるといわれますが、メインクーンは体格で14ヶ月、体重は5年近くかけて成長が続くといわれます。しかし、うちの猫のように急激な成長期にあまり食が細くて食べないのも困ってしまいます。
 歯が永久歯に生え変わったばかりで、ペニスにまだトゲトゲが立ってない7ヶ月目の若猫のタマを抜くのはまだかわいそうな気もしますが、今後人間とずっと一緒に暮らしていくためにはやむを得ません。
 お盆明け翌日9時に手術の予約を先月からいれてあった近所の動物病院に猫を持ち込み、院長(高校の一年先輩で獣医学博士)の指示でキャリングケースを開けて洗濯ネットに猫を押し込みました。うちの猫は洗濯ネットになどいれられたことはないのですがまったく抵抗せずあっさり網の中に納まり、診察台にしこまれた体重計で体重を量ると朝に家で量ったと同じ4.1キロと出ました、昨日朝は4.2キロもあったのですが、昨夕以降の絶食と水止めが影響したのか100gのマイナスです。ここで飼い主の用事は終わり、受付で手術の同意書(ようするにどうやって死んでも絶対に文句は言わないという誓約書)書いて、あとは夕方5時過ぎに手術費用の清算をして猫を受け取るように言われて動物病院を離れました。お盆期間中休みだったこともあって犬の患畜で混雑していましたが、猫は去勢の予約を入れてあるうちのと、もう一匹お盆期間中に体調を崩して食欲がなくなったという若い猫だけでした。午後5時すぎに猫を連れ帰るように指示され、キャリングケースだけ持って動物病院を後にしました。
 夕方5時ちょうどに再度動物病院に出かけると朝とは打って変わって患畜だらけで猫の患畜も4匹おり、ウサギの患畜もあとから一匹やってきました。30分くらい待たされたのち、タマなしになった猫と対面。患部をなめないようにエリザベスカラーを巻かれて見事なパラボラアンテナ猫になっていました。そこで獣医からの注意事項を聞きましたが、まず、気管から全身麻酔をかけたため、まだ麻酔の影響は残っているのであと3時間から4時間は絶食水止めを継続し、まず水を飲ませた一時間後から少量の食事をさせること。麻酔の影響で体温の調整機能が低下しているので、低体温にならないように注意すること。メインクーンは胴体も首も長いのでエリザベスカラーが首元までずれると患部をなめる可能性があるので、エリザベスカラーの根元にバンダナでも巻いて首元までずれないように処置する。エリザベスカラーは2週間はそのまま巻いておくこと。縫合糸は融けて吸収されるものを使用しているが、いちおう2週間後に経過を見るため受診することをすすめる、などのことでした。
 家に帰ったうちの猫は慣れないパラボラアンテナに四苦八苦しているようで、水が飲みたくて電源が切られた給水器にがちがちとパラボラをぶつけるも当然水を飲むことが出来ず、ほぼ24時間の飲まず食わずの状況でかわいそうで仕方がありませんでしたが心を鬼にして要求を無視。時間が来て給水器の電源を入れるもなかなかうまく飲めません。さらに時間がたってカリカリをだしてやりましたが、パラボラがじゃまで皿から大量に餌をこぼすは、挙句の果てはパラボラのふちで皿をひっくり返すはで、見ていられません。このエリザベスカラーと折り合いがつくのにまだまだ時間がかかりそうですが、なれたときにはもう2週間くらい経って取ってもいい時期に来ているかもしれません。

| | Comments (2) | TrackBack (0)

August 11, 2015

テクノス カイザーシグナルへのこだわり

150810_134131_2   30年ほど前、何せ貧乏だったので使用している時計は数千円のセイコーのサブブランドであるAlLBAのデジタルでした。時計というものは何個持っていても所詮一個しか身につけられないので、気に入ったものを一個持っていればそれでいいというのは正論だとは思いますが、タキシードにダイバーズウォッチではさすがにセンスを疑われます。というわけで、その後少々自由なお金が出来たときに何個か時計を買ったのですが、すべて特殊な時計ばかりで、ダイバーズのほかにはクォーツのムーンフェイズ付きクロノグラフ、出始めたばかりの気圧・高度計付きで気圧の変化がメモリーできるデジタル、機械式ムーンフェイズ付き手巻きのクロノグラフ、デジタル式のヨットタイマー、星座早見表付きシチズンのコスモサインなどでしたが、人にあげてしまったり売ったりしまい込んだりして、結局29年間の長きにわたって欠かさず毎日身につけているのはROLEXのサブマリーナ#16800なのです。サブマリーナの中身の機械は年々進化していますが見かけはまったく変わっていません。そのため、古い時計をいつまでも身につけているとは傍から見てもまったくわからず、おまけに他の時計が欲しいなどとは思わなくなってしまったため、一時ブームになったカシオGショックの限定モデルなどにもまったく興味がなく25年間は中古を含めて時計を新しく購入したことがありませんでした。

 ところが、その間も一個だけ気になった時計がありました。それが今は商標権が売られてしまい中華安時計ブランドに成り果ててしまった感がありますが、当時はスイス製舶来時計の代表的メーカーで、日本では平和堂貿易が扱っていたテクノスの70年代後半に発売されたある特殊なメカが仕込まれた時計だったのです。実は正確な時計の名前は知らなかったのですが、中学校のある先生がこのテクノスをはめてきて、見せてもらうと丸い窓から赤い光がチカチカと光る(ように見えた)のです。当時の中学の先生の給料でスイス製の時計というのも考えられませんが、この先生は実家が塾を経営していて夜はそこの講師もしているらしくかなりの副収入があったのでしょう。車も実家のクラウンの黒塗り4ドアか白いクラウンの2ドアを気分によって乗り換えてきており、通常身につけている時計はオメガでした。まあ、今と比べると子供の数が多く、塾も今のような進学塾というよりももう少しで公立高に引っかかるように通う補習塾的な意味合いが強いものでしたが、アルバイトが禁止された今と違って当時の先生たちは学習塾講師もさることながら個人の家庭教師などの副業が盛んに行われていたものだったのです。また音楽の先生はピアノ教室、美術の先生は絵画教室なども普通におこなっていたのです。それでそのテクノスの赤く光る腕時計は長い間電気式の時計だと思っており、それもボラゾンという名前だと思っていました。地元の時計屋の新聞広告でその名前を見たような記憶があったからです。実は機械式時計で中の赤い光が電気で光るのではなく赤く塗装したパドルのようなものが間欠的に回転している仕組みで、名前がテクノスのカイザーシグナルというものだったことを知ったのは比較的最近のことです。
 しかし、当時の中学生が時計としての興味の中心はセイコーまたはシチズンのストップウオッチ付き時計、いわゆるクロノグラフです。通常の自動巻き腕時計が一万円台前半が多かったときにこれらは一万円台後半から二万円台前半くらいしました。
 今のように時計が100円ショップに普通に置いてある時代と異なり、地方では時計というのは地元の時計眼鏡店で進学などをきっかけに買ってもらうもので、そのため地元の時計眼鏡店では3月くらいに新作の時計のチラシを配るのが普通で、それを見て志望校に合格したらストップウォッチ付きの腕時計を買ってもらうことを夢に見ていたのです。結局は高校進学するときにセイコーのファイブスポーツスピートタイマーの30分計付きクロノの青文字盤のものを買ってもらったのですが、ちょうど液晶のデジタルクォーツウォッチの勃興期にあたり、そのときのデジタルクォーツウォッチは舶来のスイス製時計くらいの値段だったので、当然購入の選択肢にはありませんでした。高校では10人中半分はセイコーかシチズンのクロノをはめていたと思います。その生産の多数を中学高校生の需要でまかなっていたのではないかと思うほどです。さすがに高校の中ではスイス製の腕時計をはめている人間はあまりおらず、わずかにブラスバンドの一年後輩がラドーのごついカットガラスの風防がついた時計をはめていたのしか覚えがありません。当時、国産の普及品腕時計が1万円台で買えたのに同じ機能のスイスの時計が4万円台でしたが、関税や物品税を考えるとレベル的には国産の時計とそう変わりがないはずです。それなのにわざわざ舶来腕時計を買い与える親は相当見栄っ張りなんだと思ってしまいました。しかし、そのセイコーの機械式クロノを使用していた数年間にデジタルウォッチの価格は劇的に低下し、結局4年ほど使用したのちセイコーのサブブランドALBAのデジタルクロノを買って使うようになりました。その数千円台の普及品デジタルウォッチの出現で時計というものは進学などの節目に買って貰う特別なものではなくなり、幼稚園児や小学生が普通にしているものになってしまたのです。そのあたりからスイス製の機械式時計の凋落が決定的になったのではないでしょうか。
 ロレックスやオメガなどと比べて素人目線からもスイスの普及クラスのイメージだったテクノスやラドーは一時は相当幅を利かしたスイス製腕時計ですが、当時からまったく欲しいと思ったことがありませんでした。それから幾星霜、平和堂貿易はテクノスを見限って久しく、ラドーの酒田時計貿易は会社自体がなくなってしまいました。そんな時代に唯一懐かしいのが中学の先生がしていたテクノスの赤いシグナルが点滅する時計です。調べるとボラゾンだと思っていた時計がカイザーという時計の仲間のカイザーシグナルだということがわかり、電気式だと思っていたものが実は機械式の自動巻きで、赤く光っていると思っていたシグナルも赤いローターの間欠回転であったことを知ってしまいました。
 そうなったら中古で程度のいいものをオークションで落として分解掃除に出して現役復帰させようといろいろ見てみるものの、ごついカットガラスが飛び出している関係でカットガラスの角に打ち傷が入ってしまっているものがほとんどでした。まあだらだらと2年ほど出物がないか探していたのですが、今年になって以前人にあげてしまったシチズンのウインドジャックというデジタル式ヨットタイマーを2年前に買い戻した名古屋の業者からパープルグラデーション文字盤のテクノスカイザーシグナルを6800円ほどで落札しました。ここの業者は遺失物関係の払い下げ品から価値のありそうなものを大量にオークションで裁いているような業者です。ジャンク扱いですから当然動作の保障もありませんが、ガラスのエッジに殆ど傷が見当たらない、いうなればあまり使用せずにしまい込まれた様子が伺われ、部品の交換なしに分解掃除だけで完動品になりそうでした。届いたカイザーシグナルは思ったよりもガラスの程度が抜群で、エッジに何箇所か微細な欠けがあるものの、このまま使用してまったく差し支えないレベルです。文字盤は何色かあるなかで一番数が少ないパープルグラデーションで、文字盤にしみもなく、針のメッキにもまったく曇りもありません。ただし、相当以前にそのまましまい込まれてしまったらしく、鎖バンドの駒が固着してしまっており、竜頭も巻くことは出来ますが、引いて時刻を合わせることができません。竜頭を巻き上げると秒針がちゃんと動くため、大きな部品欠損とかはないはずですが、時計の姿勢を変えると止まってしまうようです。どっちみちオーバーホール対象としてそのまま数ヶ月しまいこんでしまいました。中身は多くのスイス時計メーカーがそうであったように自社で作ったものではなく、1978年にETA社に合併したムーブメント専業メーカーのAS(アドルフ・シルト)社のものをそのまま詰め込んだらしいのです。このムーブメントは日付のクイックチェンジはロレックス並みで0時を過ぎるとチッと日付が変わります。竜頭も同様に二段引きで一段目で回して日にちをセットするというようなクィックセットですが、竜頭を引ききったところで秒針が止まるハック機構がありません。機械式の時計の精度などたかが知れていますので、厳密に合わせる意味がなかった時代かもしれませんが、今となっては違和感があります。また同世代の日本製ムーブメントが竜頭のプッシュで日付の曜日も、そして曜日は日英が切り替えられるのが当たり前だった当時と比べても見劣りがするものです。しばらく放り出してしまったテクノスカイザーシグナルですが、ふと思い出して手動で竜頭をいっぱいに巻き上げると姿勢に関係なく止まらない動くようになりました。さらに竜頭も引くことが出来るようになりましたが日付のクイックセットが出来ません。しかし時刻は合わせられるようになり日付のクイックチェンジも快調なので、日付が変わったところで4時間戻してまた0時で日付が変われば4時間戻すということを繰り返して日付も合わせました。こうなったら実用上差し支えがないので分解掃除に出さずにこのまま様子を見ることにします。しかし、昔の機械は部品取りが最低1点ほどないと部品の食い合わせなどが心配で、最近3600円でブルーグラデーションでガラスの傷もまだ我慢できるコンディションのカイザーシグナルを入手。こちらはシグナルのローターが全回転しておらず、さらにカレンダーがまったくチェンジしないというジャンクでしたが、竜頭の一段引きでちゃんと日付が早送りできて時計としても機能しているというものです。蓋を開けると20数年前の分解掃除を示す年号がマジック書きされていましたが、あんまりこのメカを知らない時計屋がこのシグナルローターの組み立てを間違えて基部のギアもろともローター回転不良とカレンダー不良を来しているのかもしれません。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

August 10, 2015

オーティス・キングス円筒計算尺L型

150810_133912 計算尺の精度を高めるためには有効基線長を高める必要がありますが、通常の10インチの計算尺の読み取り精度を一桁あげるにはその二乗の長さ、すなわち100インチの計算尺が必要だということになります。そんな長さの計算尺を部屋の中で使うわけにもいかず、またそのような長さの計算尺に精密で狂いのない目盛りを刻むのも至難の技であるため、20インチの計算尺に80インチの基線長を4分割で目盛りを刻んだものが実質的な超精密計算尺として認知されているわけです。その計算尺の精度をより高める試みは古くから円筒に目盛りをスパイラルに刻んでゆくことは誰しも考えたことなのでしょうが、特許を取って実際に商品化したのは1878年にジョージ・フーラによって考案された円筒計算尺やエドウィン・サッチャーが1881年に特許を取得し、スイスのディモン・シュミットという会社が市販した円筒計算尺などがありましたが、どちらも研究室などで使用することを想定して、外に持ち歩くということは考慮されておらず、タイガー計算機なみの可搬性しかなかったと思います。その円筒計算尺を思い切って極小サイズにしてポケットに入れて持ち運びを可能にしたのがイギリスのカービックという会社から発売されたオーティス・キングスという円筒計算尺です。おそらく世界で一番成功した円筒計算尺でその販売期間は1921年から1972年という長きにわたり、基本構造がまったく変わらずに発売し続けられました。長期間にわたりかなりな数が出回っているため戦前から日本にも入ってきているようですが、一般の用途にはここまでの精度は要求されないので、おそらくは大学などの研究室や企業の設計開発部門などの業務用に使用されたのでしょう。また輸入品としてさぞかし高価な計算道具だったはずで、それゆえに国内にあったものが中古市場に出てくることはけっこうまれです。でも本国イギリスでは最終価格が4ポンド25ペンス少々とかなりお安い計算具であったため、電卓出現後も一定の需要があったようで、在庫分は1978年ごろまで売られていたというような情報もあります。おそらくは英国内ではヘンミの計算尺のほうがはるかに高価だったのでしょう。

 大阪から届いたオーティスキングスは形式Lと呼ばれる分類上TypeCという形状の戦後から終末期まで作られたもののようです。黒の皮もどきの貼り箱でぺらぺらの説明書とポンド・ペンス・シリングおよび反対側がインチの単位などでよく使用される分数をデシマルに換算する換算表が付属していました。箱の中はそれ以上のスペースがないのを見ると、この時代は皮ケースは別売りアクセサリーだったのでしょうか?元から日本にあったものらしいのですが、時代が下ったためかさほど使用されずにしまい込まれてしまったらしく、新品に近いほどの程度抜群の個体でした。形状が何かノーベルの特殊警棒そのままで、振ったら中子が出てきて長い警棒に変身しそうですが、このオーティス・キングを伸ばして見せても一般の人は警棒と勘違いするかもしれません。おそらく「金属の棍棒類」に該当として航空機機内持ち込み制限品に該当しそうです(笑) 売主は計算機の類だとはわかっていたようですが、円筒計算尺というものの存在は知らなかったようで、うまいタイトルで出品してくれたおかげで鵜の目鷹の目で珍品を漁っているライバル諸氏に発見されず、開始価格で難なく落札できたものです。とはいえその落札金額は当方の通常落札品の中ではかなりの高額でした。

 このオーティスキングスは収納長がちょうど6インチです。5インチのポケット計算尺の全長にほぼ等しくシャツのポケットに収まるくらいのサイズですが、基線長が60インチ(152.4cm)と20インチの計算尺を遥かにしのぎます。 しかし、印刷した紙のスケールを円筒に巻く構造のため、ある部分の精度が担保されていないらしく、精度に関しては80インチ4分割の20インチ計算尺に劣るようです。
 
オーティス・キングスの目盛りは初期が目盛りを印刷した紙にニスコーティングだったものがいろいろ材料の試行錯誤があって、末期は目盛りが印刷された紙のビニールコーティングラミネート構造のようです、金属の筒とこすらないように分厚いフェルトを介してカーソルおよび金属の筒が収縮するようになっており、古いオーティス・キングスでこの目盛りを刻んだ紙にダメージを受けているものはよほど酷使されたものです。この目盛り板には形式があってTypeCのLは上がLog尺を含むスケールNo.430、下がスケールNo.429です。TypeCのKはNo.423とNo.414の組み合わせです。オーティス・キングスには割と初期のTypeAのものからシリアルナンバーが打たれており、それはアルファベットと4桁の組み合わせて、例外として初期はアルファベットなしの1から始まって9999まで行くと次にA1というように続けられ、いつのまにかX0001のような空数字を入れるようになりました。そのシリアルナンバーによっておおよその製造年代が特定されるようです。またこのシリアルナンバーはKもLも関係なく連番になっているようで、末期にZ9999まで使い果たしたあとはA0001に戻って二順目のBXXXXまで使われたようです。今回入手したLはシリアルナンバーがY0314とかなり新しく、イギリスのコレクター情報ではおおよそ1965年前後の製造のようで、どうりであまり使用されていない個体なわけです。乗除に関しては高価でしたがすでに国産の電卓が出回ってきており、対数計算もまもなく電卓でカバー出来る時代がそこまで来ている時期で、多くの通常計算尺同様に急速に衰退してくるタイミングの生産だったため、殆ど使われていなかったために状態がいいのは当然でしょう。製造総数ですが、あまりこれに触れた資料がないため、判然とはしないのですがシリアルナンバーの頭に頭文字のない初期のもの9999本を含めてA0001からZ9999までが総数269,973本、二順目A9999とBが半分くらい作ったと仮定して5000本を足したとしても1921年から1972年まで総数284,972本で「おおよそ30万本が約50年間の総生産数」となり、これが多いと見るか少ないと見るか、判断に苦しむ数字です。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

July 28, 2015

うちにネコを入れてしまった!14 ネコアレルギー

Img_0187  実は当方、子供のときからアレルギー持ちで、子供のときは青魚を食べれば必ず蕁麻疹が出てしまい、小学校3年の時には全身の蕁麻疹で入院してしまうほどでした。また北海道には杉花粉症がありませんが、6月の末になると道端に蔓延るイネ科の牧草花粉アレルギーによって7月の終わりまで目のかゆみ、慢性的な鼻づまり、くしゃみにに襲われます。さらに9月にも花粉症のおかわりがきて、霜が降りるころになってやっと落ち着くということを繰り返しています。逆に東京にいたときには2月末から5月くらいまでの杉花粉シーズンを乗り切ればあとは平気でした。食物アレルギーは子供のときから比べると劇的に改善を遂げたのですが、これは冷蔵したまま輸送する技術が発達して魚を獲ってから流通するまでの温度管理がしっかりしたことにより流通過程で魚にヒスタミンが溜まらなくなったことが大きいのではないかと思っています。ところが唯一ホヤだけは食べると5回に1回ほどいまだに蕁麻疹が出て病院のお世話になってしまうのですが、それだけ獲ってからの温度管理がシビアなのでしょう。ホヤ好きなのですが、スーパーで殻つきを買って食べるのを一切やめてしまいました。また、皮膚の刺激アレルギーというのかどうかはわかりませんが、腕にかばんをぶら下げたりすると取っ手の刺激で接触部分がみみず腫れになってしまったり、ある種の合成洗剤による刺激で常に主婦性湿疹という手荒れでステロイド軟こうと保湿剤が欠かせません。
 昔、皮膚科で血液検査してもらい、アレルギーの因子を調べてもらったことがあるのですが、アレルギー体質としてはかなりなものだとお墨付きをもらってしまったこともあるのです。
 普通だったらこんなアレルギー体質だったら猫とか犬は絶対にNGだろうと思うのですが、不思議なことに一つ屋根の下で猫3匹と同居していたときもまったく平気した。犬は外飼いの犬と子供のときから接触がありましたが、こちらも平気だったので犬も平気なようです。そのため、今回猫を家に入れるにあたって、年齢的に体質が変わっていたら困ると思いましたが、やはりまるっきり平気でした。

 しかし、世の中には犬アレルギー猫アレルギーを錦の御旗にして自分の飼い犬飼い猫を他人に里子に出してしまう人が大変増えてしまったように感じます。中には「昨日、ペットショップで買ったばかりですが、家族の一人がアレルギーになってしまい、至急新しい飼い主を探します」などという身勝手な人まで出てくる始末です。「生まれた子供がアレルギー持ちでやむを得ず新たな飼い主を探します」や「結婚相手がアレルギー持ちで一緒に暮らせなくなりました」などはまだ汲むべき事情が少しはありますが、「飼ったはいいが家族がアレルギーになったからいらなくなった」は理由になりません。また不要になったペットは最近の保健所では引き取らないところが多くなり、家族のアレルギーを理由にした「飼育放棄」が激増してきたのではないかと思います。それならなぜ買ったのか、引き取ったのかと問い詰めたいところでが、引き取り手がなければ、車で遠いところに運んで放逐してしまうのでしょうか?


| | Comments (0) | TrackBack (0)

July 25, 2015

うちにネコを入れてしまった13 猫にエビオスをあたえる

 Img_0104
 猫の毛玉の体内滞留対策として猫草を置いておくのが一般的です。この猫草がえん麦であることは最近知りましたが、当方の知識としてはえん麦というとオートミールやグラノーラの原料というよりも、戦前の北海道で馬の飼料として植えられていた一面のえん麦畑をイメージしてしまいます。もちろん戦後は軍馬や馬車馬などの使役馬がいなくなって、馬の生産といえばほとんど競走馬需要だけということになり、北海道の一面のえん麦畑の風景というのは過去のものになりました。当然ながら当方もえん麦というものは実物を見たことがなかったのです。
 親戚の米俵のように大きなメインクーン2匹は一週間に一度、この猫草の新しいのを与えられてすぐに丸坊主にしてしまうらしいのですが、これは毛玉対策というよりも、部屋の中の鉢物にいたずらをされないための対策だといいます。うちの猫は生後2ヶ月少々でうちに来たときからエビオスをかじらせていました。

 エビオスは戦前から販売されているビール酵母を利用した胃腸薬ですが、けっこう独特な香りがして当方は子供のときから苦手で乳酸菌製剤のビオフェルミンしか家にはなかったのですが、このくせのある香りが猫が大好きだという話は昔から聞いていました。またエビオスを猫に飲ませると毛玉をスムーズに排出して便も固くなり、結果として体全体の調子を整えるということで、うちのも、うちに来た2ヶ月少々のときから毎食後1錠かじらせることにしたのです。ところがこの月齢では一日3錠は胃に負担を与えたわけではないのでしょうが、かえって便がゆるい状態が続いてしまい。餌もロイヤルカナンのマザー&ベビーからニュートロのキトンに変え、缶詰もササミ缶をやめたのですが、なかなか新しい餌の組み合わせになれてくれず、ちっとも食べてくれないは、便はゆるいまんまでなかなか固くならず、けっこう心配しました。そしてエビオスはこの猫の体質にあわないのではないかと思い切ってしばらく投与を中止。4ヶ月齢くらいにロイヤルカナンのキトンに餌を代えるころには便の固さも安定してきましたが、エビオス投与はそのまま中止してきました。

 5ヶ月齢くらいからに上半身を激しく横にスイングしたかと思ったら床に餌を吐き戻すことが始まり、いよいよ消化器にヘアボールが滞留したのが影響を始めたようでした。それでもエビオスを再度投与するのをためらっていたのですが、最近週一くらいに吐き戻しがあるため、エビオスの再投与を開始しました。今回は一日1錠投与として様子を見ていますが特に便には影響がないようで、一日3錠まで増量するかどうか検討中です。ちなみにうちの猫もエビオスは大好きで、瓶をかちゃかちゃと振って音を立てただけでエビオス欲しさに飛んで来ます。ただ気になるのはビール酵母以外の添加物で、人間に影響がなくても猫の尿路系に影響を与えないかどうかが心配です。動物用のエビオスが無くなってからは人間用のエビオスを与えるか、ペット用ビール酵母として販売されているものを与えるしかありませんが、こちらは添加物情報がありませんのでちょっとためらってしまいます。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

July 18, 2015

うちにネコを入れてしまった12メインクーンの乳歯生え変わり

150711_064120 ネット上で猫の乳歯が生え変わるタイミングを調べてみると、一般的には早い猫で生後3ヶ月過ぎから永久歯が生え始めて乳歯が抜け、殆どの猫が生後半年くらいで永久歯が生え揃うということが語られているようですが、どうもメインクーンという猫は成長速度がほかの猫より遅いらしく生後5ヶ月たってもまったく永久歯が生えてくる様子がありませんでした。
150718_070408
 うちの猫だけ特別に成長が遅いのかもしれませんが、それでも生後6ヶ月に達する直前にやっと左右上の犬歯の歯茎が赤くなり始め、生後6ヶ月目に上左右犬歯が乳歯と永久歯が同時に生えている二重歯の状態になりました。この二重歯の状態でじゃれられて噛まれると痛いの何の(笑)まあ猫の成長過程で二重歯で噛まれるのはその時期だけですから貴重な経験だと思って噛まれてましたが、生後190日目くらいにいよいよ乳歯がぐらつき始め、乳歯の回収体制に入っていたのですがいつのまにか、まず左上犬歯が抜けているのに気がついて抜けた乳歯を探すもどうやら飲み込んでしまったのかみつけることが出来ませんでした。抜けた乳歯は全部回収して記念に保管しようと思っていたのですが一本目から早くもロスト!翌朝、いつもより余計にじゃれつくようなので、乳歯の様子を調べると右上の犬歯も抜けていました。部屋の中から出ていないのであたりを探すと胸の毛に抜けたての乳歯がぶら下がっていたため、やっと一本目の回収成功となりました。

 猫の種類による差もあるのでしょうが、歯が生え変わる順番というのは下の歯からだと思っていたのですが、うちのは上左右の犬歯というのが意外な気がしました。次は下左右の犬歯のような気がしますが、今のところ永久歯の頭が歯茎から顔を見せる様子がまだないようです。また歯が抜けた後は歯茎が赤くはなっていますが抜けたときに出血があっった様子はありませんでした。またメインクーンも個体差があるのでしょうが、一般的には成長が緩やかなだけ、乳歯から永久歯への生え変わりも一般の猫より遅いような気がします。


| | Comments (0) | TrackBack (0)

July 16, 2015

うちにネコを入れてしまった!11 メインクーンの毛色の変化

 Img_0131
 うちのメインクーンはメインクーンとしてはスタンダードな毛色であるブラウンで、さらにクラシックタビーという左右の胴体にアメリカンショートヘアで日本でも認知されるようになった渦巻紋のあるキジトラ猫です。 これは日本の猫にはなかった縞模様だったはずなのですが、一時のアメリカンショートヘアブームで遺伝子が交雑してしまい、いまやノラネコでこの縞模様を持つ猫なんぞ珍しくもなくなりました。今や日本猫としてのはっきりした特長を持つサバトラ白や白黒の牛模様で尻尾の短いボブテイルの猫なんざほぼ絶滅品種です。

 黒や白などのソリッドカラーの猫は生まれたときから毛色が変わることが無いと思いますが、うちのはブリーダーさんから我が家にやってきてから一月くらい、ちょうど生後3ヶ月齢のベビーコートが生え変わって短毛種のように変身したときに毛色が変わり始めました。
 もともと明るい茶色が顔周りから背中にかけて分布していて、この明るい茶色のメインクーンを見かけなかったために、一種の一目ぼれして導入した猫だったのですが、だんだん顔周りの茶色の毛先がだんだんシルバーっぽいベージュに変化してしまい、いまでは赤ちゃん猫時代の茶色でふさふさした印象がまったくなくなり、くすんだベージュに濃い茶色の縞模様の猫という感じです。見かけが変化したといって別に愛情が薄れるわけではありませんがソリッドカラー以外の猫は毛色が子供のときと大人のときにはがらりと変化することはあらかじめ理解しておいたほうがよさそうです。

 ところが生後6ヶ月を過ぎてまた毛色が変化してきたようで、背中の明るい茶色が戻ってきて心なしか顔周りの毛にも微妙に茶色が戻ってきたような感じがします。抜けた毛を観察すると一本の毛が層に分かれて毛が伸びると毛先の色が別な色に変化してゆくようで、最終的には元の明るい茶色に戻るのかもしれません。まあ、これは今後の楽しみではありますが、ひげもうちに来た当初は真っ白だったのですが、だんだんと一本の毛の一部がブラウンに変化していき、今は白いひげと根元茶色真ん中白先端また茶色のまだらなひげが混在しているという感じです。また尻尾の毛も当初は濃いブラウンに微妙に明るいベージュが縞になっている状態だったのですが、4ヶ月目くらいからだんだんと尻尾がのびて毛がふさふさになるにしたがって尻尾の上面が濃い茶色、裏面が明るいベージュの縞模様というように変化してきました。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

July 14, 2015

うちにネコを入れてしまった!10 メインクーンに水を飲ませる

Img_0103  飼い猫は本来リビア山猫が祖先といわれていますが、そのリビア山猫は砂漠の周辺部分が生活の場だったためか、生活上さほど水には恵まれない生活環境で、水が乏しいゆえに濃い尿を出すなどという話を聞いたことがあります。それが原因なのか飼い猫になったのちも腎臓や尿路の病気はつきもので、以前の同居猫のオスは2匹とも尿路結石で病院のお世話になりました。そのため、水をあまり飲みたがらない猫はロクなことにならないという頭があり、とにかく水を飲ませることには神経を使い、猫を迎え入れる前に電動の循環式給水器を購入したほどです。

 ブリーダーさんに水のことを尋ねると、そこでは大きな容器に新鮮な水を常に入れておくだけで、とくに電動の水やり器は使ったことがないということだったので、慣れない給水器をいきなり用意するよりも最初はステンレスの容器を置きえさと同じ餌台に並べて置いておくということにしました。当初これで問題はなかったのですが、家にもなれてくるとこの水の容器に足を突っ込んだり、挙句の果てにはひっくり返すなどの暴挙に出たため、生後4ヶ月過ぎくらいに一階の水やり環境を電動循環式給水器ピュアクリスタルというものに変えてしまいました。これはなかなかの優れもので、水を満たすと重量もあってひっくり返ることは考えられない理想のものでしたが、すぐにこいつに慣れてしまい、水の摂取量も格段に増えた感じです。この容器は熱帯魚などの水槽で使うような水中ポンプで水槽から水をくみ上げ、平たいキノコ型の上皿の中心から放出し、フィルターと活性炭を通してろ過して水槽に戻すというもので、月に一度のフィルター交換が指定されていました。やはり猫がどう水を飲むのかよく考えられたシロモノなのですが、うちのは本体に両手を掛けて、手前ではなくて常にいちばん奥のほうから飲むという飲み方に固執するため、胸の毛や首輪が濡れてしまうのですが、本人ならぬ本猫はいっこうに気にしていないようです。

 メインクーンと水との関わりはよく言われていますが、うちのは他家のメインクーンのように蛇口から流れる水に興味を持つということも、餌を水につけて洗ってしまうということもありませんでしたが、容器の中に実際に水があるのかどうか前足を突っ込んで確かめないといけない性分らしく、何度も水に浸してはそれを振ってあたりに水を散らすというような行動があります。2階ではペットボトルをさかさまに取り付けるプラスチックの給水器を使っていましたが、ペットボトルの根元を前足でいじくって倒そうとするので、何でかと思いましたら、ぺットボトルの蓋が大好きで、どうやらキャップを取ったボトルの飲み口の部分がさかさまに取り付けるとキャップに見えて、どうしてもそれを取り出したくてはずそうはずそうとする行動のようです。しかたがなくペットボトルをはずしてしまい、水が少なくなったら別なペットボトルから補充するというやりかたに変えています。(続く)

| | Comments (0) | TrackBack (0)

July 13, 2015

うちにネコを入れてしまった!9 しゃべるメインクーン

Img_0081  メインクーンという猫はほどんど鳴かない猫だといわれていますが、なるほど普通の猫がなにかを要求するときににゃあにゃあと鳴いて訴えるのに、メインクーンは遊んでほしいときも黙って遊びの道具を飼い主の目の前にポロリと落とすとか、後ろに迫って前足でとんとん叩くというような猫です。それでも鳴かないわけではなく、「ルー」や「グッ」というような短い鳴き声は出しますし、足を踏まれたときなんかには普通の猫同様に「フギャー」という声も出しますが、「にゃあ」という声は声帯の構造からして出せないのではないかと思います。また実物大獣毛マウスのおもちゃを出したときに本気で「フー」という威嚇の声を出しましたが、この声を聞いたのはこの時を含めて2回だけで、普段おとなしいメインクーンが威嚇の声を出すとちょっと怖かったです。

 生後4ヶ月を過ぎたころ、人間用の夕食の準備をしていたときにとつぜん「ワン」と鳴かれました。なんだこいつは犬の鳴き声も出せるのかと思ったら「グーワン」と鳴いてなにかを訴えているのです。よく考えたら「ごはん」が欲しいと人間に意思を伝えているようで、考えてみればベルクはうちに来たときからずっと、もしかしたらごはんという言葉をしゃべるかもしれないという淡い期待を持って毎回缶詰をあたえるときに「ベルク、ごはん食べるのごはん、ごはん」を繰り返したことがこんなに早く成果が出てごはんとしゃべって缶詰を要求するようになったのです。普通の猫は「にゃあ」の変形でいろんな言葉をしゃべるのがいるようですが、メインクーンはにゃあと鳴けないのでグーという声にうまくワンと鳴いてつけたし、「グワン」というようにしゃべるようになったようです。しかし、言葉で人間との意思の疎通ができるようになったとはすばらしいことですが、最初からごはんという言葉しか教えていないので、ほかの言葉をいまさら教えてしゃべる可能性はほとんどありません。でもひとつの言葉だけでも「しゃべる猫」認定です。またかりかりをごはんというものだとは認識しておらず、あくまでも缶詰のことがグワンだと思っているようです。それ以降、食事の時間が近づいて人間が動き出したのを察知し、近寄ってきて「グワン、グワン」を連発しています。「クララが立った!」ではありませんが、「うちの猫がしゃべった!」と親戚に言ったら「飼い主はそう聞こえるものなのよ」なんていわれましたが、ちゃんと自分の意思で缶詰が食いたくて「グワン」と話しかけてくるのです。(続く)

| | Comments (0) | TrackBack (0)

July 12, 2015

うちにネコを入れてしまった!8

Img_0079  メインクーンという猫種で一般的に言われるのが、「犬のような性格で賢く、人間の後を常について歩いて人間のそばにいることが大好きだけど、抱かれたりなでられたりするのは好きではない」というように解説されています。昔、飼い猫相性占いというのがあって、それによると当方との相性が一番いいのがアメリカンショートヘアで、一番相性がよくないのがメインクーンだとありました。妙なことに最近のどこかの猫相性占いでは一番相性がいいのがメインクーンで、相性が悪いのがアビシニアンだというのですからこんなものはあてになりません。しかし当初は猫と同居するのあたり、猫とちょっと距離をおいた生活になるのかと思ってましたが実際はかなりベタベタな生活になりました。平気でひざの上に乗ってきますし、そのまま寝てしまうこともあります。猫との距離を縮めたのは、やはり最初から拒絶せずに甘噛みとベロベロを猫の親愛の情だとしてすべて受け入れたことで、寝ていて鼻の頭まであのやすりのような舌でベロベロ舐められるのを甘受してきたことで、いちおう猫の仲間としての信頼を得たのではないかと思っています。これがいきなりの兄弟2頭飼いだったらこれほど短期間に人間との距離を縮めることはできなかったでしょう。子猫のうちに飼い主と十分触れ合える時間があるのだったらやはり単独飼いが一番です。逆に外出が多くて日中触れ合うことが不可能なら兄弟で飼わないとかわいそうかもしれません。

 慣れたとはいえ、それでもいまだに猫が変わったように噛んだり引っかいたり蹴ったりすることもあるので、猫が何かのきっかけで豹変ならぬ猫変するのは仕方がないと諦めつつ、最近は暴れすぎるとキャリングケースの中に禁固刑に処す処置をとってアドレナリンの値が下がるのを待つ始末です。おかげで以前は手の甲が引っかき傷だらけでしたが、最近はさほどあたらしい傷は増えません。2ヶ月までは兄弟姉妹や異母兄弟たちといっしょの生活だったため、社会性は勉強できていたと思います。またねこじゃらしや小ネズミのおもちゃを使って狩猟本能を満たすような遊びを徹底的にやりました。ねこじゃらしで座布団の上をぐるぐると何十回転させ、まるでちび黒サンボのトラのように回る遊びが好きでした。小ねずみのおもちゃはじゃれて遊んでいるうちにそれを人に見せにくるようになりました。どうやら飼い猫が取ったねすみやすずめを飼い主に自慢げに見せに来る行動と似ているので、徹底的に褒めてなでてやったらいつのまにか投げたねずみを回収して持ってくるという遊びに発展し、今度は子ねずみがペットボトルの蓋になりました。そして生後4ヶ月ごろにはペットボトルの蓋やねこじゃらしをどこかから持ってきて飼い主の目の前にポロリと落とし、遊びを要求するようになったのです。

 画像は生後3ヶ月のもので、まだベビーコートが抜けきらず体重も1.5kg前後でした。その後、ベビーコートが抜けるとまるで短毛種の猫みたいになり、何か顔の丸くないアメショーのブラウンクラシックタビーのようになります。また濃い茶色の色がほとんど抜けて、シルバーベージュとでも言うような毛色に変化してます。現在生後6ヶ月で3.7kgの状態ですが、妙に3ヶ月齢のときが懐かしい(笑)
(続く)

| | Comments (0) | TrackBack (0)

July 11, 2015

うちにネコを入れてしまった!7

150430_175855  ブリーダーさんに少しビビリですと言われてしまったうちのベルクでしたが、ポジティブに考えるとそれは思慮深くて賢いというように考えるようにしました。それは意外にも当たったようで、まず音に驚いて飛び上がって逃げていくようなそういう臆病という意味でのビビリではないようです。確かに知らない人がいるとテーブルの下に入ってゆくような感じで、2階から降ろすときも抱いて階段を下りようとしたら鳴くので最初の2ヶ月間はわざわざキャリーケースに入れて階段の上り下りをしたものです。さらに知らない部屋には絶対に自分から探検しようという気が無く、2ヶ月の間は1階のリビングと2階の寝室以外入ったことがありませんでした。よく言えば思慮深い猫ということも出来、身に危険が及ぶような危ないことは絶対にしないし近づかないということは人間にとって実に扱いやすい猫でした。また、雷や地震になってもまったく動じるふしもありませんが、別に鈍感なわけでもなく、妙に度胸が据わったところもありそうです。

 人間の言うことはよく聴いて決してテーブルには上がりませんし、人間の食べ物にちょっかいを出すことも無く、お菓子の袋をテーブルの上に置いて外出しても平気です。そういう性格ですからあまりあぶない目に遭遇したことはなく、いつも行方を確かめておかないと何をするかわからないような、手間を取らせるような猫ではありませんでしたが、鳴き声を立てないので存在が目立たず、少しでも動いたら鈴の音でわかるように100円ショップで買った首輪を装着しました。それでもさほど抵抗しませんでしたが、これが成猫だと殺されるがごとく首輪を嫌がって抵抗するやつがいます。音がするのでだいぶ所在がわかるようになりましたが、まだ猫のほうが人間との間合いがわからず、後ろに下がったら思い切り子猫の足を踏んでしまい、聞いたことのないような悲鳴を上げられました。いまでは人間との間合いを学習して人間に足を踏まれるような間抜けなことはしません。

 うちにきてから一週間後の日曜日に簡易トイレを持って知り合いの家に連れて行きました。ここには1.7キロほどのトイプードルがいるので、その反応を見てみたいというのがあったのです。おそらく生まれてこのかた猫以外の生物は人間しか見たことがなかったはずで、トイプーが興味深々で近寄ってきてさかんに臭いを嗅ごうとしてくるのに怖がるそぶりもまったくなく、犬との遭遇体験を無事に済ませてしまいました。もっとも自分の大きさとさほど変わらない犬を見ても猫だと思っていたふしがないわけではありませんが。今ではベルクのほうが倍以上に大きくなってしまって、ここんちのトイプードルのほうがちょっと怖がるくらいです(笑)

| | Comments (0) | TrackBack (0)

July 10, 2015

うちにネコを入れてしまった!6

 猫を連れて帰った翌日、向かいに住んでいた叔母が急死し、いきなり不幸を呼び込む猫と化してしまったベルクですが、翌日から途端に親戚関係の出入りが激しくなりました。親戚関係は猫を飼っているもしくは飼っていた家が多く、猫扱いに長けた親戚に抱かれたりなでられたりしましたが、別に抵抗もせず相変わらず鳴き声もたてずにされるがままになり、隙を見て猫ちぐらのなかに逃げ込むという具合でした。お通夜とお葬式で1匹だけ残してくことにしましたが、ケージが無くともいたずらされる心配が少なく、そのまま1階に残してゆくことにしましたが、案の定なにもせずにおとなしく1階の猫ちぐらのなかで寝ていてくれたようです。親戚の猫好きご老女たちからかわいい、これ以上大きくならないでほしいなどと評判だったべルクですが、飼い主にとっては早く大きくなってほしく、このまま小さかったらとても困ると思ってしまいました。しかし、うちに来て3ヶ月半経ち、日本猫の成猫くらいの重さになってみると、半年くらいは子猫の1kgサイズのままでいくれたほうがよかった、なんて思ってしまうから勝手な物です。

 うちに来たときから食が細くておとなしく、まさに借りてきたネコとはこのことだろうかと思いました。ロイヤルカナンのマザー&ベイビーは置きえさにして1階でも2階でもいつでも食べられるようにしておいたのですが、食べている姿を見たことがなく、1日朝昼晩与えるささみ系の缶詰だけ少しは食べるという状態で、魚系の缶詰はまったく口をつけようとはしません。かなりの偏食のようでしたが、とりあえず命をつなぐためにささみ缶だけ食べさせていました。今考えるとあまり食欲が無かったのは環境の変化と偏食だけではなく、引渡しの2日前に摂取された第一回目の3種混合ワクチンの影響が大きかったと思います。ブリーダーさんによっては第一回目のワクチン接種から一週間は様子を見てその後引き渡しというところもあるようですが、何せ今回はブリーダーさん一ヶ月入院不在で退院翌日の引渡しということで時間的にはやむを得ない処置だったと思います。予防接種はブリーダー仲間にお願いしたようです。そのワクチンの影響というのは2回目も同じで、このときは体重1.7kgくらいにはなっていましたが、午前中ワクチンを接種して15分動物病院の待合室で安静にしてから再度診察して以上がないかどうかチェックしてもらいました。家に帰るとどうも普段と様子が異なり、食欲が途端になくなって夕方までキャットタワーの上でうとうと寝てばかりいたというような様子です。

 家に来て一週間もすぎるとワクチンの影響も抜け、環境にも慣れたようで、カリカリも少しずつ食べてくれるようになりましたが、最初は好調だったうんちの硬さがあまり消化がよくなかったササミばかり食べていたのが原因か途端にゆるくなってしまいました。子猫のゲリ便のくさいことくさいこと。部屋の中ににおいが充満して死にそうなくらいです(笑) おまけに足にうんちがついたままベッドの上に飛び乗ってきて、このときには怒るわけにも行かず、次回から猫が柔らかいうんちをしたあとは、トイレから出る前に手足とお尻を猫用ウエットティッシュで拭くというのが習慣になりました。
 おなかがゆるくなったらニュートラルチョイスのキトンチキンのほうがいいと言われてサンプルもいただいたのですが、これはまったく食べなくて、しばらくの間おなかがゆるくならないえさのやり方を試行錯誤していましたが、ときどきおなかのゆるくなることをしばらく繰り返していました。(続く)

| | Comments (0) | TrackBack (0)

July 09, 2015

うちにネコを入れてしまった!5

  猫の名前はかねてからそう名づけようと決めていたベルク・カッツェ(山猫)を考えていました。ブラウンの縞猫なので、山猫らしい風情はあるのですが、しかしそれではあのガッチャマンの敵役のイメージが強すぎるので、ミドルネームをいれてベルク・フリードリッヒ・カッツェで通称ベルクとしました。本当は飼い主でも忘れてしまいそうな長い名前、たとえば寿限無とかピカソのフルネームとかそういうのにあこがれるのですが、飼い主が忘れてしまっても間抜けでミドルネームひとつ入れるのにとどめてしまいました。普段はベルクとしか呼ばないので何の意味もありません。

 猫を飼うにあたって、これからいろいろとイタズラをしてくれるでしょうから、そうならないうちに考えられる予防策はいろいろしておいたつもりです。家具で爪を研がないようにダンボールの爪研ぎ器を置いておくようなものですが、性格がビビリというだけあって自分の知らない物に手を出そうという気はまったくなく、2階と1階リビングから他の部屋に出て行くという気もまったくなかったようです。また、生後2ヶ月少々で、まだ体重も1kg弱というような手のひらに納まるような幼猫ですからまだ家具の上に上がって物を落としまくるという悪さも出来ません。しかし早晩高い所によじ登って物を落としまくり、被害をこうむることは目に見えているので、猫タワーを導入するしかなさそうです。

 昼間は1階で、夜は2階につれて行くということにしたのですが、第1日目の明け方にトイレに行くために1階におりて戻ったあとに子猫が跡形もなく消え去ってしまいました。表立ったところはすべてもぐりこまないように100円ショップのネットや新聞紙で塞いであったのですが、このありさまです。なにせまだ名前を呼んでも返事をするわけではなく、まだ腹が減ったといって表に出てくる年齢でもありません。ふと思い出してベッドのマットレスを剥がしてベッドの敷板を開けてみると、ベッドの隙間から中にもぐりこんだ子猫が見つかりました。キャリーケースに入れて部屋を出ればよかったのですが、こんなところにもぐりこむとは思いもよらず油断していました。翌日ホームセンターに走ってベッドと壁の間に発泡スチロールで作られたブロックを挟み込んでベッドの下にもぐりこめなくしたの言うまでもありません。(続く)

| | Comments (0) | TrackBack (0)

July 08, 2015

うちにネコを入れてしまった!4

150315_200534  途中のホームセンターでササミ系の缶詰を何種類か購入したのちブリーダーさん宅から約一時間半で帰宅。キャリアケースをリビングに持ち込み、使用済みの砂を猫トイレのあたらしい砂に混ぜ、ロイヤルカナンのカリカリと水の容器を餌台におき、いざキャリアケースの上蓋をあけて猫を初めて部屋の中に放ちました。猫は自分の置かれた環境がどうなったのかよく理解できないのは当然で、何か固まってしまいましたので、とりあえずは暗くて安心できそうな猫ちぐらならぬニセちぐらの中に放り込んだら、そこが自分の場所だと理解したようで、しばらく日中はもっぱらそこで生活するようになりました。まあ当所から予想してきたことですが、環境が急激に変わったせいか時間になってもカリカリはおろか猫缶も一切口にせず、水も飲んでくれません。当然トイレにも入りませんでした。以後どうやって食事をさせるか、あの手この手を使いましたがしばらくの間けっこう苦労しました。夜、あまりにもニセちぐらの中から出てこないので、もふもふ攻撃を加えて強制的にスキンシップを計りましたが嫌がらず少なからず警戒心を解いたようでした。
 夜中は1階に一匹で置いておくのも心配なので2階の自室に連れて行きました。そこにも猫トイレと餌皿、水入れは置いてあります。ちゃんと布団の中に入ってくるくらい警戒心が薄れたものの、相変わらず餌を食べてくれず、やっと夜中の3時半くらいになって空腹に耐えかねたのか、人の指をやすりのような舌で舐め始めたので、前夜の缶詰をちょっと温めて与えてやったら初めて食事をしてくれました。そこでつかさず砂の上に乗せてやったらおしっこもしてくれましたのでちょっとだけ安心しました。でも翌日からも餌の食いつきが極端に細くて一週間くらいあの手この手で苦労することになります。そうでなくとも少々小ぶりの猫だったのですが、えさの食いつきが悪かっただけにいまだに他の猫より成長が20日間くらい出遅れた感じです。(続く)

| | Comments (0) | TrackBack (0)

July 07, 2015

教材だったクラニー安全燈(炭鉱用カンテラ)

150706_083836  一度も坑内に下がったことのない本多船燈製造所製のクラニー安全燈おおよそ明治30年代の製造品を入手しました。以前北海道の深川の4代100年以上続いた農家の納屋から出てきた同じく本多船燈製造所製のクラニー安全燈を入手していますが、そちらは実際に坑内で酷使されたのちに古道具屋経由で農家に入ったようで、農家に入ってからもすでに100年は経過してガーゼメッシュのトップが欠落しているような状態でしたが、今回の物はまったくの完全品で、すべてのパーツが揃っており、一度も坑内で使われていない証拠に本体に打ち傷ひとつありません。それもそのはず、学校の教材としてずっと保管された個体だったからなのです。以前にも本多船燈製造所製デービー安全燈を入手したときにまったく傷が無く新品のような状態だったために、学校の教材落ちを指摘していましたが、今回のものはさる富山県内の高等学校の備品管理シールが底に残っていました。この炭鉱用安全燈がどういう授業で使用されるために学校に入ったのかはよくわかりませんが、実際の安全燈製造メーカー以外に大阪の教材メーカーがどこか金属加工業者に製造させて自社の銘板を装着した構造的には坑内では使用するのが危険なほどの怪しげな教材用安全燈を見たことがあります。
 昔の資料をいろいろ読み解くとクラニー安全燈は明治25年くらいから国産化されたのをきっかけに各地の炭鉱に普及したようですが、日露戦争で石炭の生産が拡大したことで各地で安全燈が原因の重大事故が頻発し、これを契機に大手の炭鉱では早くも新型の揮発油安全燈を導入しクラニー安全燈はメタンガス引火の危険が大きい切羽から運搬坑道などの使用に限定されます。しかし中小零細の炭鉱ではコスト的に揮発油安全燈を導入することなく大手炭鉱でお役御免になったデービー安全燈やクラニー安全燈などを使用し続けますが、まだ裸火の灯油カンテラよりもマシだと思ったのでしょうか。デービー安全燈やクラニー安全燈が完全に炭鉱坑内から引退するのは大正初期に直方安全燈試験場の実験結果からメタンを含む気流にさらされた場合の危険度が証明されてからのようですが、その時期にはすでにほとんどの炭鉱で揮発油安全燈が普及していました。
 入手先は富山県の高岡市ですが、上記のとおり富山県内の統合されて無くなった高校の備品落ちです。以前の深川の古い農家から出たクラニー燈と異なり金網以外の全体にニッケルメッキがかけてありました。できた当初は高級感漂うなかなか華やいだ安全燈だったはずです。芯はロープをほぐしたようなもので、灯火用の棒芯とは異なります。これは神奈川から入手したこれも教材備品落ちらしい本多のデービー燈のものとも同じでした。この時代の安全燈全般がそうですが、使用するのは引火点の低い原油由来の灯油ではなく、植物性のともし油もしくは植物性油と灯油の混合物でしょう。


| | Comments (0) | TrackBack (0)

うちにネコを入れてしまった!3

 今年は記憶にないほどの暖冬で、結局凍結防止のために水道を落とすということが一度もありませんでした。その暖冬のせいか普段の年は5月中旬にならないと芽吹かない若葉が4月の後半には芽吹いてしまうような暖かい年で、こういう年の冬に生まれた猫の成育にもきっといい影響があるはずです。そんな珍しくもほとんど雪が解けてしまった札幌に車で猫を迎えにいきました。その場所は札幌郊外の豊平川と石狩川の合流に近いあたりに存在するブリーダーさんで、札幌といえば中心部と昔、親戚のあった平岸周辺とその川を挟んで反対側しか土地勘がありません。カーナビがなかったら一旦中心部に出ないとたどり着けなかった場所だったかもしれません。それで前日に退院してきたばかりのブリーダーさん宅へ伺い、招きいれられた部屋が子猫部屋で、なんと1月2月に生まれたメインクーンの子猫たちが20匹近くもひしめいているのです。おそらくこれ以降もこんなにたくさんのメインクーンの子猫たちに足元に擦り寄られることはないのでしょうが、驚いてしまいました。活発な子猫は金網で作ったバリケードをよじ登って何とかほかの場所に脱出しようというのが何匹かいる中でほとんどの子猫はブールータビー&ホワイトやブルーソリッドなどの灰色のものが多く、ブラウンの子猫は今回お願いした子猫一匹だけでした。この子がそうですと抱かされた子猫はほとんど手のひらサイズで、成長のいい兄弟猫よりも少し小ぶりのようでした。1/8生まれの子猫は初産の子で、4匹兄弟のうちオス2匹メス2匹のうちの1匹とのこと。そしていわれたのが「ちょっとビビリな子です」という言葉で、とたんにマイナスイメージが頭を駆け巡りました。とかく猫を迎え入れるときは、大勢の中から一番人間に対して物怖じせずフレンドリーなやつを選び、人間にビビッて隅っこに固まっていうような猫は避けるべきという言葉です。猫扱い上級者ならビビリの猫をフレンドリーな猫に飼いならすことは訳ないのでしょうが、こちらはいちおう猫を飼うことは初めてみたいなものです。こちらに抱かれていても細かく震えているような状態でしたが、良いと思って選んだ猫ですし、乗りかかった船なのでそのまま連れて帰ることにし、書類に一通り署名していろいろなサンプルのプレミアムフードやおもちゃをいただいて帰宅の途につくことになりました。そのときにいわれたのが、カリカリは置き餌にして缶詰を毎回食べさせてほしいということと、ケージ飼いはせずに自由に歩きまわれるよう室内飼いしてほしいということ、当たり前のことですが具合が悪いようだったらすぐに病院に連れて行く、時期が来たら去勢して繁殖には絶対に使用しない、ワクチンを必ず接種させるなどの基本的なことです。第一回目の3種混合ワクチンは3日前に接種済みとのことで、証明書が付いていました。缶詰のことは頭にまったくなく用意していなかったのですが、帰りに何種類か買って帰ることにします。細かい手続きを終えていざ帰宅しようとブリーダーさん宅を出たところで臭いつきの猫砂をもらうのを忘れたため、ブリーダーさん宅に戻り、猫砂を少しいただいてきました。それはペーパーサンドで、木質の砂しか用意していませんが何とかなると思い、助手席の扉がこちら側になるようにキャリアケースにシートベルトをかけ、一路高速道路をつかわず一般道78kmの道を帰ることにします。ワクチン接種で一度は車に揺られたことはあるのでしょうが、猫にとって長距離移動は初めてで酔わないか心配です。でも案外平気で一言も鳴かずにじっとしていましたが、家まであと10キロというところで急にしきりに鳴き始めました。急にいつもと違う環境に連れて行かれることを悟って不安になったのでしょうか?(続く)

| | Comments (0) | TrackBack (0)

July 06, 2015

うちにネコを入れてしまった!2

1425105532530  実家に帰ってすでに10数年を経過し、母親はおろか親戚の叔父叔母がことごとく亡くなったことで我が歳を悟ったわけではありませんが、父親もすでに平均寿命を大幅に超えてしまったため、大かれ少なかれ独り身になることは目に見えています。さらに室内飼いの猫だと普通に20年くらいは生きてしまうようで、そうなると今飼ったとしても猫の寿命が尽きるころにはこちらだっていい老人です。それにペットショップの売りっぱなしと異なり、ブリーダーさんから猫をいただく場合には単身者や猫の寿命を考えて高齢者には渡さないというところも多いらしく、それなら猫を飼うなら今が最後のチャンスということで、猫探しが始まりました。
 実はしばらく前に我が家の向かいの家がご夫婦ともども介護施設で生活することとなって空き家になり、その空き家がしばらくの間、保護猫をあたらしい飼い主に斡旋する間に育成する団体の保護猫ハウスになっていたことがあって、成猫を貰い受けるという猫の飼い方もあったのですが、やはりどうしても一匹目の猫は子猫の段階から育成してちゃんと自分でしつけてみたいという気持ちが大きく、結局は長年の目標だったメインクーンの子猫を探しました。ラグドールという選択肢も捨てがたく、市内に割りと有名なキャッテリーも存在したのですが、2ヶ月探して札幌のメインクーン専門ブリーダーさんからブラウンクラシックタビーの♂(いわゆるキジトラ)を迎え入れることになりました。ところがブリーダーさんがアイスバーンで転倒して骨折入院し、退院してくるまで見学もままならず、結局は生後68日目の3/15に対面即連れ帰るということになりました。その間一ヶ月間が空いてしまうわけで、子猫の性格が固まり始める段階でブリーダーが不在なのは何かと心配で、迎え入れ希望の子猫がどういう性格なのかわからないまま引渡しの日を迎えたわけです。その間、家の中は床に転がっているものは極力片付け、家具の隙間などは丸めた新聞紙でふさいで人間の手の届かないところに子猫がもぐりこむのを防ぐ処置を施し、要所要所には100円ショップで購入した金属ネットを施し、棚に上がって物を落とさないように片付けたのはいうまでもありません。つぎに猫を飼うために必要な用具用品を何回にもわけで少しずつ購入していきました。一番悩んだのは飼育用のケージを購入するか否かだったのですが、これは一旦先送りし、トイレを1階と2階にそれぞれ1個ずつ計2台、餌の容器と餌台、餌はブリーダーさん指定のロイヤルカナンのマザー&ベイビーを2kg袋で、猫が安心して隠れていられるように猫ちぐらのようなもの、猫ベッド&ブランケット、爪とぎダンボール。そして、猫砂は先方で何を使用しているか聞き忘れたのですが、これがいいだろうと選んだのがアイリスオオヤマの固まる猫の砂ウッディーフレッシュ7リッター入りでした。猫を連れ帰るのに必要なキャリアはホームセンターでたまたま特売になっていたプラスチック製のもので、これは正面の金属製の扉だけではなく、上蓋も簡単に両方向からひらくという優れもので、何と1,480円というリーズナブルなプライスで購入したもの。一番悩んだのは猫用の給水器で、以前の猫があまり水分を取りこたがらず、餌が原因のこともあって尿管結石を患ってしまい、医者からアイムスの療法食を出されて以後はそればかり食わされていたという経験があるので、とにかく猫が水を飲まないとろくなことにならないという頭があって、結局は電動ポンプで常に水が循環する猫用ファンテンを飼ってしまいました。これは結局すぐに使用せず、しばらく後になって使用することになります。その他猫じゃらしや紐つきのネズミなどおもちゃやスリッカーブラシや金属製のコーム、猫の爪きり、消臭スプレーなどのこまごまとした物も猫を迎え入れる前にすべて準備しておきました。(続く)

| | Comments (0) | TrackBack (0)

ザイペル式揮発油安全燈(炭鉱用カンテラ)

150705_091546  このいかにもドイツ製らしい姿をした揮発油安全燈は正真正銘北海道から出てきたものです。製造所の刻印はありませんでしたがおそらく明治末に輸入されたドイツはウイルヘルム・ザイペルのザイペル式揮発油安全燈です。ザイペルの揮発油安全燈は明治の後期にドイツから輸入されて三井系の炭鉱で使用された記録がありますが、すぐに構造が優れてより安全なウルフ安全燈やその国産コピーの本多式や横田式の揮発油安全燈に置き換えられ、「名前は知られていても現物にお目にかかることの出来ない」安全燈の代表でした。今回当時のザイペル揮発油燈が入手出来たことにより、ウルフ揮発油燈のパテントが生きていた時代のザイペル揮発油燈がどういう構造だったかということがよくわかりました。ザイペルの揮発油燈は戦後のものを一個所持していますが、こちらはまったくのウルフ揮発油燈で、下ガードピラーリングから金網のはまったホールを通して筒内に吸気して燃焼させ、上部の二重メッシュの金網から排気するというシステムでしたが、この初期のザイペル式揮発油燈は単純にクラニー燈を揮発油燈にしただけのものです。吸気も下から行うのではなく上部のガーゼメッシュを通して行い、排気もガーゼメッシュを通して行う効率の悪いものです。またガーゼメッシュも二重ではなくその構造からして十九世紀末の安全燈で、二十世紀初頭の安全燈事故防止に関する各国の保安基準には適合しない構造なのですが、その頃にはウルフ揮発油燈の基本パテントが切れてザイペルでもウルフタイプの揮発油燈が作られていたようです。それゆえにザイペル式などと呼ばれるような特徴的な構造は一切なく、旧型のクラニー燈を揮発油燈にしただけのものですが、なぜか後の直方安全燈試験場のサンプルにもザイペル式として記載されています。

 日本では明治30年代後半に主要炭鉱でドイツからの輸入のウルフ揮発油燈が使用されていた記録がありますが、なぜ同時期に構造的にはクラニー燈と変わらないザイペル式揮発油燈が輸入されたのかがわかりません。どうも三井系の炭鉱に最初に使用されたことから三井物産が係わったことが想像されます。同時期の三井系企業である王子製紙苫小牧工場の建設顛末と三井物産の干渉に関して調べたことがありますが、三井系企業に対する部材調達を三井物産が一手に支配したがり、他の商社からの部材のほうが優秀で価格が安くても、ときには三井物産が三井総本家まで告げ口をしてまで強引に部材調達を独占するということも多かったようです。おそらくフリードマン・ウルフ商会には実績のある日本国内の代理店がすでに存在し、三井物産がフリードマン・ウルフ商会と独占的な代理店契約を結べなかったために、利ざやが大きいが実は間に合わせ的なザイペル式揮発油燈に手を出してしまったのでしょうか。正にドイツの亜炭鉱と日本の瀝青炭鉱の違いもわからないような技術的な素人商社員が単純に商売優先で輸入し、「三井全体の利益」として三井系の炭鉱に押し付けたザイペル式揮発油燈ですが、案の定日本の炭鉱の実情には合わなくて、あまり使用されずに国産揮発油燈に置き換えられてしまったようです。かろうじて大正期の直方安全燈試験場の試験サンプルの中にザイペルの名前を見ることは可能でした。この三井物産とザイペルの係わりは想像の域を出ないので、今後新たなエビデンスが必要です。

 構造的には棒芯を油壷底のネジで繰り出すタイプです。ロックシステムはサイドボルトを締めることでロックする簡単な方式ですが、輸入された当時はまだウルフの磁気ロックシステムのパテントが有効だったからでしょうか。油壷はウルフのようにスチールの外皮を持つ真鍮との二重構造ではなく一重の銅合金製です。ボンネットがないこともあって非常に軽い安全燈です。かんしゃく玉式の再着火装置があるはずなのですが、それを装着して出荷するとウルフのパテントに抵触してしまうため、これはオプション扱いだったふしがあり、この個体には再着火装置がついていませんでした。単純に大正初期に第二次大戦が勃発し、かんしゃく玉が輸入できなくなったときに再着火装置を装着できずに出荷された国産他機種に流用された可能性はありますが、輸入コストを抑えるため、再着火装置のオプションなしで輸入されたということも否定できません。(直方安全燈試験場のサンプルになったザイペルもわざわざ「着火装置なし」と注記があります) ドイツの亜炭鉱で使用されるため、メタンガスの気流にさらされるリスクが少なく、ボンネットがありません。その分小型軽量で吊り環までの高さは23.5cmほどです。サイズ的にはジュニアウルフ燈のサイズです。メッシュは一重でその高さは8cm程しかなくそれを保護するガードピラーは3本、腰ガラスのガードピラーも3本です。本多のクラニー燈でさえ腰ガラスのガードピラーは6本あります。跳ね上げ式の反射板を装着するであろうヒンジが一箇所ありました。重量は燃料と再着火装置抜きで800gと超軽量です。これが本多のウルフ燈だと倍の1.6kgもあります。ボンネットレスだということと、油壷が一重で肉薄なことが全体の重量に影響しているようです。ちなみに総アルミ製のヘイルウッド安全燈はさすがに950gと軽量です。

 入手先は北海道の岩見沢で、いにしえは石炭輸送の中継地として広大な操車場を抱える鉄道の町でした。近くには幌内や幾春別、美唄の大炭鉱、旧栗沢町に中小の炭鉱などが存在しますが、売主に入手先を尋ねるも知り合いから入手したもので、その出自は不明とのこと。輸入雑貨品に混じっていたというものではないので道内の炭鉱にもたらされたザイペル揮発油燈には間違いないのですが、どこの炭鉱が使用していたものかわからないのが玉に瑕です。時期的には鉄道国有の保証金を元手に開発により出した室蘭の製鋼所の建設資金繰りで三井の軍門に下った北海道炭鉱汽船の炭鉱に三井の手によって押し付けられたものなのでしょうか?当時すでに北炭では輸入のウルフ揮発油燈が切羽で使用されており、ザイペル式揮発油燈は運搬坑道などのガス気の少ないところでクラニー燈などから置き換えられた程度でほどなくお蔵入りしてしまったのでしょうか?

 この時代のウィルヘルム・ザイペルの揮発油燈には技術的な独自性がまったく感じられず、技術的にはフリードマン・ウルフ商会とは雲泥の差、英国のエイクロイド&ベストの足元にも及ばず、英国や米国の炭鉱地帯のブラスウェアの安全燈製造会社程度の技術力の会社です。しかし、ザイペルの揮発油燈はその後ウルフのパテントが切れたころに構造的にはウルフ安全燈の完全コピーを果たし、またドイツの炭鉱では1960年代まで揮発油安全燈が明かりとして使い続けられたことから、長期間にわたり揮発油安全燈製造会社として永らえたようです。ただ、第二次大戦後に戦争協力企業として解体されたというようなことを何かで読んだような気がするのですが、戦後は名前を変えて存続したのでしょうか?
 
 ところで、ウルフ揮発油安全燈ですが、どうも最初の市販品は平芯の油燈だったようです。これは日本にも入ってきており旧型ウルフ燈とされることもあるようですが、構造的にはのちのウルフ揮発油燈に共通なものの平芯油燈ですから再着火装置もありませんが、下部リングからメッシュを通して吸気するまぎれもなくウルフ式です。揮発油燈になるまでの間に合わせ的なものだったのか、イギリス国内では油燈が好まれ、また再着火装置が認められなかったことからイギリス国内向けと揮発油の供給が困難な地域向けに作られた代物だったのでしょうか?

| | Comments (0) | TrackBack (0)

July 05, 2015

うちにネコを入れてしまった!

 実は意外にネコ好きなのです。とはいえ、うちの母親が大のネコ嫌いというか動物全般がイヤで、外で飼う犬だけは祖母が熊除けとして山に連れて行く目的で35年ほど前まで何代が絶えたことが無かったのですが、家の中にはうちの母親が嫁に来てからというもの一度もネコが家に上がったことが無かったのです。その前まではねずみ対策として我が家でも出入り自由の飼い猫がいたということですが、ある日外で猫いらずを食ったねずみを食べて死んでしまったとのこと。それ以来60年に近いほど我が家にはネコがいなかったわけですが、あれだけネコ嫌いだった母親も亡くなって7年ほど経ち、そろそろこちらもいい歳になって子猫から育てるのは最後のチャンスということで、ついに我が家にネコを一匹入れてしまいました。実はネコとの同居は初めてというわけではなく、20年以上前に世田谷から千葉の奥地に引っ越すとき一軒家を会社の同僚とシェアし、その同僚が連れてきた3匹の猫と同じ屋根の下で暮らした経験があります。その3匹というのが純血種のシャムのオス、雑種の灰色メス、拾われたまだ子供の尻尾の短いサバトラの3匹です。このときにそれぞれまったく性格の異なる3匹と付き合ったことで、自分自身はネコを飼ったことが無いのにもかかわらずネコの扱いの経験が少しは付いたと思っています。純血のシャムのオスは非常におっとりした性格ながら非常にいたずらが激しく、なんでも噛んでみないとすなまいようなネコでした。ところがえさにあまり執着しないので、自分の餌を他にの2匹に食べられてしまって、仕舞いにはやせ細って毛艶が悪くなってしまったために別の部屋で一匹だけゆっくり自分のペースで餌を食べさせなくてはならなくなりました。他の2匹はこと餌を食うのには貪欲で、野良上がりのサバトラ子猫は特にがっついていて、両後ろ足を持ち上げて逆さまにしても餌を食べ続けている野良のDNAを確実に継承しているようなネコで、あっという間に他の二匹より大きく成長してしまったのは言うまでもありません。メスの灰色猫は臆病者で、人にかまわれるのを嫌がるような猫だったため、フレンドリーなオス猫たちと比べて飼い主にもあまりかわいがられていないような猫でしたが、このメス猫は個人的に手なずけてみようと思い、単独で部屋に入れておやつを与えることで信頼関係を築き、夜中に部屋のドアをかりかりと引っかいて甘えに来るような猫になってしまいました。その後、下が店舗になっている共同住宅に引っ越して猫との同居は解消しましたが、それ以来20年ほど猫とのかかわりがありません。その当時はアメリカンショートヘアが大流行で、どこのペットショップへ行っても猫といえばアメショーばかりだったのは、一時期の町の中がシベリアンハスキーだらけの状況と似たようなものでしたが、そのとき新聞で見た大型でタテガミのようなもののある猫のニューカマーがメインクーンだったのです。その当時はまだ日本での繁殖がさほど盛んでなかったためか(ブームに乗ったにわかブリーダーがお金になるアメショーの繁殖に走っていた)そこいらのペットショップで見かけることもなく、ブリーダーから譲り受けたとしてもペットタイプで40万くらいの価格がしたと記憶してます。ペット不可の共同住宅で猫を飼うことも出来ず、いつか猫を飼うのだったらメインクーンだと思って世界の猫カタログだけは4年くらい買い続けていました。
 そのうち実家に帰ることになり猫嫌いの母親と同居ということになって猫を育てる時間と暇は出来たものの、メインクーンはおろか捨て猫も拾って来られない生活になってしまったのです。(続く)

| | Comments (0) | TrackBack (0)

船舶用ボンネッテッドクラニー安全燈

150705_091446  炭鉱用安全燈として製作されたものは船舶用の灯火として使用するために海事用として転用されたものがありますが、これは炭鉱同様に密閉された空間に可燃性ガス(ボイラーが損傷して燃焼中の石炭に缶水が触れて一酸化炭素が発生したり、揮発油の気化等によるもの)や粉塵(船倉内に舞い上がった積荷の粉体など)が引火点に達する濃度となった場合に引火爆発する可能性があり、また船倉内には酸素欠乏箇所もあって酸素濃度を検知する必要もあり、あるトン数を超える船舶は逓信省(戦後には運輸省)の形式認定を受けた防爆燈を備える義務があったようです。実際に昭和の初期には米国本国などから石油製品を輸入するタンカーなどで気化した可燃性ガス引火事故が発生したということですし、現在でも船倉内の点検や清掃に入って有毒ガスや酸欠で命を落としたという事故があります。当方の知る限りでは戦前戦後を通して唯一本多電気(本多船燈製造所の後身)が炭鉱用に供給していたウルフ安全燈コピーの本多式簡易ガス検定燈が逓信省と運輸省の双方とも形式認定を取った唯一の揮発油燈タイプの防爆安全燈だと思いますが、双方とも形式名・製造メーカー・検定番号・製造年月・製造番号などが刻まれた大型の銘板が油壷に付されることで、逓信省と運輸省の銘板の無い炭鉱用簡易ガス検定燈と区別することが出来ます。この海事用の防爆安全燈は昭和30年代にはバッテリー式の防爆ハンドランプに完全に換わってしまいましたが、実際には相当以前から備え付け義務があったものの使われることのない備品(船舶用の銅鑼やふいご式の霧笛同様に)だったのかもしれません。というのも常時メタンガスの危険と隣り合わせの炭鉱よりも、船舶では安全燈を使用しなければいけない状況というのは酸素欠乏箇所検知を除いて少なく、また揮発油安全燈は蓋の開いたオイルライターのように充填したオイルは蒸発してしまうため、いざ使用する段に燃料充填の手間がかかり、現実には火気使用制限エリアで手あぶり程度の暖房代わりに使われたというのが正しいのでしょうか。船舶用としては昭和30年代に日本船灯によって販売された本多電気製のウルフ燈を見たことがあり、ちゃんと日本船灯の銘板が装着されていましたが、運輸省の形式番号や製造年月が記載された銘板には本多電気と記載されていました。
 今回入手した安全燈は日本製であることは疑いの無い代物なのですが、イギリス在住の安全燈コレクターが所有しているもの以外にまったく見かけたことがなく、製造所を含めて謎の安全燈でした。そのコレクター所有の刻印から得られた情報が唯一「SENTO」だったことから船燈であることを想像し、日本船燈あたりの製造ではないかとを疑いましたが、日本船燈は昭和10年代からの会社なのでこのような燈火を製造していたことは考えられず、本多船灯製造所の刻印は「T.HONDA TOKYO」でのちには松葉の菱形にHの文字の社紋となり「Sento」の刻印は一度も使用しておらず、どうやら本多製でもなさそうです。また明治時代から「船燈製造及販売規則」という法律によって船舶で使用される燈火はプレートに船燈というタイトルとともに製品種類、製造年月、製造番号、製造場所、製造会社(多くは個人商店名)が付されていて、「船燈」がすべてのプレートのタイトルとなると正体を特定するのは困難を極めます。唯一亀甲にNKのマークが確認できますが旧日本鋼管はNKKですし、こんなものに手を出すはずはありませんが、どうやら大阪に存在する中村重政の中村船燈製造所が製造した可能性が高いです。実際に届いた代物にはペイントが塗り込められたトップハットにエッジング銘板が装着されていました。剥離剤でペイントをはがして銘板の判読を試みましたが判読できた文字は「月製…株式会社…東京大阪」の結局わずかな情報しか得られませんでした。しかし、銘板の感じからするとやはり船舶用の安全燈と判断してよさそうです。あまり大きな商船で使用されたものではなく、往年の木造機帆船あたりの規模の船舶で使用されたものなのでしょうか。
 安全燈としての構造はやはりボンネッテッドクラニー燈なのですが、日本の炭鉱坑内で使用された国産のデービー燈やクラニー燈が種油などの石油由来以外の燃料専用で、精製度の高い灯油を使用するとバーナーステムから炎が燃え上がってしまうのに対してこれはさすがにクラニー燈といえども石油専用になっているようで、逆火がバーナーステムに開いたホールに引火しないようバーナーが改良されています。また空気の流入経路が根本的に改良されていて、ガードピラー下部リング側面の二箇所に網が張られてそこからピンホール3個が内部に貫通していてそこから吸い込んだ空気で燃焼して排気がカーゼメッシュを通して上部から逃げるというウルフ燈に近い空気の経路となっています。芯の上げ下げもウルフ燈同様に油壷下部のネジで繰り出すようになっています。またロックシステムも簡単なサイドボルトロックでした。また炭鉱坑内で使用するものではないため上部の吊り環は鉤ではなく直径も細い環となっていました。ところがカーゼメッシュのところが金属の円筒で囲われた明らかに国産のボンネッテッドクラニー燈がほかにも存在し、一度目にしたことのあるものは明らかに坑道内で使用された形跡のある傷だらけの安全燈でした。それは銅山が多く操業していた秋田から出たものだったのでガス爆発防止のためではなく、発破直後の坑道内で粉塵爆発防止のために試用されたものだったのでしょうか?これは油壷などの形状からして本多船燈製に間違いないようでした。
この手の安全燈に共通する構造として油壷本体は真鍮を旋盤加工してくり抜き、鉄板もしくは真鍮板製の円形底板をロウ付けするものなのですが、打撃により油壷の変形や経年劣化によって、今では灯油を注ぐと底板のロウ付け部分やウイックピッカーステムのロウ付け部分から灯油がじわじわと漏れ出してくるものがほとんどです。逆に揮発油燈はベンジンを油壷の綿にしみこませる構造なので、液体の漏れのリスクは少ないです。そのため、症状の軽いものはガストーチで半田付け部分を炙り直す程度で漏れが止まることもあるのですが、今回の安全燈は複数個所から液漏れしていたので、瞬間接着剤を何層も重ねて埋めなおしてしまいました。構造上灯油を充填するたびに芯上下のためのネジをはずさなければならなく、非常に面倒くさい構造です。また炭鉱用安全燈の腰硝子は熱処理された分厚いものなのにくらべて、この安全燈の腰硝子はそれにくらべると2/3くらいの薄いものが着いています。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

June 29, 2015

炭鉱杖(タンコツ)と玄能つえ

150629_120752   鉱山の坑内で明治の時代から職員や幹部が坑内に入るときに携えていったのがこれらの道具です。長らく名称がわからなかったのですが通称炭鉱つえ(タンコツ)と呼ばれたらしく、採炭用のツルハシ(画像の一番下)とは使用目的がまったく異なるものです。その金属部分は長さ15センチ内外で全体の長さが85~100cmあり、金属の部分は初期の登山用ピッケル、特に戦後の登山ブームのときに夏山用として杖代わりに使用されていたものと形状やサイズが似ていますが、夏山用ピッケルと異なり、シャフトが丸棒で石突もスパイク状にはなっていません。ピッケル部分を止める目釘も簡単なものが一本で、登山用で滑落したときには一発でシャフトとピッケルが分離してしまうこと疑いありません。明治時代のまだ裸火のカンテラを使用していた炭鉱や鉱山の坑内でも洋服を着て足元はわらじ履きの小頭らしき偉そうな人が片手にカンテラ、片手にタンコツを持ち、半裸体でツルハシを振るう坑夫を監督しているようなやらせ写真はけっこう残っていて、いまでもネット上で目にすることは容易です。おそらく明治の時代に炭鉱杖を片手にえらそうに振舞う小頭や炭鉱主なんかを揶揄して「たんこつ」なんていう言葉が生まれたのかもしれませんが、どの鉱山用語解説の本にも出てこない用語です。大正時代以降には炭鉱会社幹部職員の一種のステータスになっていたらしく、幹部の集合写真なんかでは陸軍の将校の軍刀のように幹部職員全員がこのたんこつを携えているような写真もありました。どうも明治期から大正期にかけては杖代わりというよりいざというときの自衛の武器という側面もあったようです。明治の初期の官営炭鉱の時代には囚人を使役していましたし、その後の納屋支配の炭鉱にあってもその労働には暴力的支配が伴っていました。そのため、ツルハシを所持している坑夫のいる坑内に丸腰で入るのも危険で、自衛の武器代わりに携えていったというのがいつのまにか幹部職員の印みたいになっていったのでしょうか?中には仕込み杖になっていたタンコツを持ち歩いていた幹部もいたとか。しかし、時代が大正から昭和に変わり、炭鉱労働も納屋制を廃止して会社直轄雇が増えてゆくのにしたがい、坑内の労働環境も変化を遂げます。もはや自衛の武器がわりは必要ではなくなり、タンコツはヘッドがピッケルからテストハンマー状に変化していき、これを特に「玄能つえ」と言ったらしいのですが、これは支柱の緩みや天板などの緩みを叩いてチェックする実用的なものです。これは昭和40年代くらいまで幹部や技術職員によって坑内で使用されたようですが、ゴジラに続く戦後の怪獣映画第二弾「空の大怪獣ラドン」で佐原健二をはじめ、炭鉱技師の殆どがこの玄能つえを手にしていますので興味のある方は見てみてください。この玄能つえでメガヌロンに対峙するシーンもありますからいまだ自衛の武器という側面は抜けていなかったのかも(笑) 実は戦時中、この玄能つえは不要不急の鉄材として献納供出されてしまったらしく、戦時中の炭鉱幹部の集合写真では同じ形状の白木のものに変わっているのを見ることが出来ます。また昭和24年に昭和天皇が三池の三川鉱坑内に入られたときも天皇陛下を初め会社幹部全員がこの白木のタンコツを使用していました。ちゃんと鉄の玄能つえに戻ったのは昭和20年代半ばを過ぎてからでしょうか?タンコツと玄能つえは現在まとめて4本所持していますが、そのうちタンコツはピッケル部分が磁気を帯びない軽合金で出来ています。おそらく坑内の測量作業で磁気コンパスを狂わせない配慮なのでしょうが、シャフトは円で石突も軽合金製。福島の鉱山の多かった町からの収集品。玄能つえの一本は北海道内から、他の二本はまとめて大阪からで個人の所持名が刻まれています。


| | Comments (0) | TrackBack (0)

October 02, 2014

キンモクセイの芳香剤はなぜ廃れてしまったのか?

140921_143609  学生生活で初めて東京暮らしとなり、思いっきり暑い夏が終わってそろそろ冬の足音が聞こえ始めたある10月の晩、帰宅のためいつもの路地の角を曲がると路面にプラスチックのようなオレンジの小片が散らばっています。それと同時に特徴的な強い芳香を感じました。キンモクセイでしたが、何で本物を見たこともない北海道出身の人間がすぐにキンモクセイであることを理解したのかというと、兎にも角にもトイレや部屋の芳香剤として嗅ぎ慣れたおなじみの匂いだったためにすぐに気がついたのでした。普通は逆じゃないかと思うのですが、北海道では本物のキンモクセイが育たず、芳香剤でしかかいだことが無いからです。そのため、キンモクセイの香り=トイレを連想してしまうのが当時の年代を過ごした人たちには共通だと思うのですが、今やキンモクセイの香りのする芳香剤はほぼ絶滅品種となり、普通のドラッグストアなどに出かけても並んでいないことが普通になりました。キンモクセイの香りの芳香剤に代わり、平成になってから台頭したのがラベンダーの香りの芳香剤なんだそうで、今やトイレの香りのイメージといえばラベンダーなんだとか。これには汲み取り式から水洗に生活様式が変化して、強い香りで臭気をごまかす必要が薄れたということが大きいそうですが、我々の世代のポトーソ便所には「煙出し片脳油」などという戦前からの定番商品も存在してました。そういえばポトーソ便所にはトイレットロールではないシート状の「ちり紙」というのを使用していて、ちり紙交換などと言葉は残っていますが、再生技術の進んだ現代では信じらませんが当時のちり紙というのは古新聞古雑誌を融かして再生された再生紙ながらところどころに元の活字が残っているような下級の再生紙で、脱墨技術も確立されていなかったため、限りなく灰色の紙だったのです。まあ新聞紙を使うよりはましですが、使用にあたって揉んでやわらかくするという作業が付きまとってました(笑)そういえば当時のポトーソ便所にはちり紙とともに芳香剤としてパラジクロロベンゼンの丸い塊がネットで吊るされているのが普通でした。このネオパラボールなどの名前で売られていた芳香剤も水洗トイレの普及と香りの芳香剤の台頭で急速に廃れていったようです。
 本州からさかんにキンモクセイ開花の便りがラジオで聞かれ始め、改めてキンモクセイの香りの芳香剤を探してみましたが、古にはローズとともに芳香剤の2巨頭の1角であったキンモクセイは見事に店頭から消え去ってしまいました。ネットを検索してみるとわずかに製造はされていることがわかりましたので、改めてスーパードラッグストアホームセンターを何軒も探して入手できたのがエステーの室内用芳香剤「自動でシュパッと」と小林製薬のトイレ用芳香剤「サワデー」の2種類です。ところが双方ともに昔の強烈な香りのキンモクセイ芳香剤とは異なり、オレンジの香りなどを調合したやんわりとしたもので、どうもイメージはキンモクセイながら本物のキンモクセイの香りとは相当異なった現代的なものに進化したことが伺われます。どうもトイレを連想させるような香りではなくなってしまいました。それが何となく古を知る身には物足りないような…。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

August 04, 2014

意外に気がつかないHEMMI No.2664Sのインチスケール

 日本国内における計算尺の永遠のスタンダードと言えるのがHEMMIのNo.2664Sだということは誰もが認めるところです。本命計算尺のバーターという形で自分の意思に係わらずいつの間にかコレクションにHEMMIのNo.2664Sが増殖してしまい、古くはH刻印の極初期型からX刻印の末期方までありとあらゆるバリエーションが揃ってしまいました。そのため過去にケース、刻印、スケール等の変遷もまとめて発表済みです。今回また新たにバーターでNo.2664Sがやってきたのですが、普通ならそのままバルクのダンボール行きになってしまうところ、たまたま刻印のチェックだけしようと中身を確かめてみたところ、なにかおかしいと感じました。よくよく見ると上部のスケールがインチで刻まれてます。No.2664の上面インチスケールは当たり前のように存在しますが、No.2664Sに限っていえば、上面にインチスケールがあるのはいままで相当な数をチェックしてきたはずですが、今回までまったく気がついたことがありません。それで初期から末期まで手持ちのNo.2664Sを調べてみたのですが、下固定尺側面には年代ごとにパターンが異なるものが存在するものの、上面は十数本すべてメトリックの27cmスケールで相違ありませんでした。
 HEMMIの計算尺はJ.HEMMIの時代から仕向け先などによって上部スケールがインチとメトリックの両方あるのが普通で、国内にはその両方が出回っていたのにもかかわらず、その区別を明確にして販売していた節はまったく感じられません。原則、国内ではメトリックのスケール付きのものを販売して、数が足りなくなったとか輸出向けに準備していたものがキャンセルになって余剰が生じたなどの際は輸出用のインチスケールのものも流していたのではないかと考えていますが、これは製品の中でもフレデリック・ポストなどのOEMで対米輸出用がある計算尺に限られ、学生用などの国内向けで対米向け輸出の無い計算尺には原則インチスケールのバリエーションが存在しないと思ってました。すなわちNo.64やNo.50Wなどには戦後のものであっても国内向けにインチスケールとメトリックスケールが混在し、欧米ではポピュラーではなく、輸出用OEMのない√10切断ずらしのNo.2664Sはインチスケールのものが最初から存在しないと思っていたのです。ところが、No.2664にはスケールがメトリックとインチのものが戦時中を含めて全製造期間を通じて混在(昭和20年代製造のものは返ってインチスケールのもののほうが多い?)しますので、国内専用にインチスケールなしの原則には合致しません。というよりまったくそのあたりの疑問にはいままで深入りしていなかったのでした。HEMMI No.2664Sに関してはあまりにもスタンダードすぎて、過去のオークション落札品チェックなどほとんどしていないのですが、このインチスケール付きのNo.2664Sの存在にはまったく気づかされていなかったというのが本音です。製造刻印は「JG」なので昭和34年7月。下固定尺の側面にはメトリックで27cmまでのスケールが刻まれているパターンのNo.2664Sです。このNo.2664Sも昭和40年代半ばを過ぎると上面にメトリックのスケールが刻まれるのみで下固定尺側面はブランクになりますので、おそらくインチスケール付きのNo.2664Sは昭和30年代半ばまでの初期タイプのNo.2664Sにしかないパターンなのかもしれません。そう思ってよく調べたら表面下固定尺の右下に形式名刻印が移動した昭和40年代初期のNo.2664Sにもインチスケールのものの存在を確認しました。「上面インチスケール付きNo.2664S」をお持ちの方はぜひ製造刻印をお知らせください。
また、昭和34年製造の片面計算尺だけに存在するまるでダブルスターリレー時代の片面尺のような特殊な黄色いアルマイト処理の裏板ですが、このインチスケールのNo.2664Sは通常のものが装着されていて、以前入手した昭和34年もののNo.64や40RKのような完璧なアルミのなべのような黄色い裏板ではありませんでした。
Hemmi2664s


| | Comments (4) | TrackBack (0)

August 03, 2014

正体不明の理研計算尺(IDEAL RELAY No.100?)

Photo_2  リコー創業者の市川清と計算尺製造の係わりに関しては何度か書きましたが、そもそもは河井精造の河井式計算尺の工房を市村が買収して日本文具を設立したのは市村が理研コンツェルンの前身、理化学興業株式会社の感光紙部門の部長をしていた時代の話らしく、当時、理研感光紙の一代理店経営者の身から理化学研究所の総帥大河内所長のたっての希望で理研の特許を製品化して理研の研究費に充当するための企業である理化学興業入りしたものの、理研生え抜きではなく、大した学歴もない市村の理研入社は古参の社員や幹部から相当反発をくらったらしく、市村は職務をボイコットして無為無策を決め込んだなどという話を聞いています。結局は大河内所長の英断により理化学興業の感光紙部門を独立させ、理研感光紙工業という新会社を設立して専務に収まったのが昭和11年2月のことで、このときがリコー三愛グループの創立とされているのですが、市村の個人会社である日本文具の設立がそれをさかのぼること半年あまり前であり、この会社が理研とはまったくかかわりがなく、リコー三愛グループの歴史から黙殺されているのはこのあたりの経緯にあるのかもしれません。理研感光紙工業はオリンピックカメラを買収して昭和13年に理研光学工業と名前が変わります。この理研光学工業が今に続く世界のリコーとなるわけです。話は河井式計算尺の工房を買収で設立された日本文具に戻りますが、当初この日本文具に移行した当初は河井式計算尺そのままのラインナップで「ストロング印計算尺」という商標で売られたらしく、昭和12年の玉屋商品目録に特徴的な河井式のカーソルが着いた姿でイラストが載せられています。しかし、いまだにストロング印の計算尺の現物は目にしたことが無く、河井式計算尺の工房買収は計算尺作りのノウハウを得ることが目的で、ストロング印の計算尺は河井式計算尺の仕掛品を捌くための臨時の商標で、仕掛品がなくなったと同時に消滅してしまったのかもしれません。昭和15年ころにRelayの商標がつく計算尺が、市村の故郷佐賀で設立された東洋特専興業で製造され、発売されるまでストロング印の計算尺が製造し続けられていたとすると、現物が何種類か発掘されてもよさそうな気がします。また日本文具はシャープペンシルや万年筆の製造も行っており、佐賀に本格的な計算尺製造設備が稼動する以前は、売り上げの主体はそちらのほうだったようで、川井式計算尺の仕掛品が尽きてから佐賀で本格的にRelay計算尺の製造が始まるまで、日本文具では一時的に計算尺の製造は途絶えていたのかもしれません。
 それで今回京都から入手した裏板が相当腐食しかけた片面計算尺ですが、HEMMIの50/1の後期物差し目盛型のようでありながら、裏面には副カーソル線窓が片方しかなく、固定尺のつなぎが一枚の金属板でしかないまるでポケット尺のような10インチポリフェーズドマンハイム尺で、確証がないもののおそらくRelayの一番最初のモデルNo.100ではないかと推測するものです。ところがNo.100という型番はダブルスターRelayの時代に両面計算尺の型番に化けているようで、最初のNo.100はまもなくちゃんと裏面両側に副カーソル線窓が開いているNo.101に製造が切り替わったのではないかと想像しています。戦前Ideal Relay時代のNo.101は持っていないため、KIMさんコレクションのNo.101の画像と比べてみると、まさに裏側の副カーソル線窓が片側だけか両側かの違い以外にケース、刻印、換算表、書体、鋲の数まで寸部の相違もありません。ただしこの推定No.100には本来Relayのマークが刻印されている部分に理研のマーク以外にモデルナンバーも製造に係わる会社名もなにもないのです。この理研のマークですが、理化学研究所のマークなのか、理研コンツェルンのどこかのマークなのか、いろいろ調べたのですが現代のCIを採用したマークばかりが出てきてなかなか戦前のマークに行き当たりません。本来理化学研究所のマークは単純に○に理の字だったようです。このマークの真ん中をよくよく見るとどうやら「光」を図案化したマークのようなので、戦前の理研光学のマークにほぼ間違いないようです。とはいえ確証がないために、戦前のオリンピックからアドラー、護国、リコールにいたるまで戦前の理研光学系カメラの広告を手元のカメラ系資料を駆使していろいろ調べたのですが、この理研光学のマークはまったく出てきませんでした。これらの資料を調べるうちにひとつわかったことは、昭和16年7月に民生カメラの製造が禁止になり、理研光学のカメラ部門は軍用双眼鏡を生産する仕事の傍ら、会社の一部をグループ企業の旭無線に委譲して無線機の部品製造という業種に転換したということです。すなわちカメラ製造販売という収益の大部分を失ってしまい、昭和16年7月以降、理研光学本体は会社維持のための収益を確保するためにいろいろと模索をしたのでしょうか。そのため、本来ならば理化学研究所の特許を工業化してその収益を理化学研究所の研究費に還元させるために理研系企業なのにも係わらず、理研系企業の飛行機特殊部品の敷地に間借りした理研とはまったく関係の無い市村の個人企業の東洋特専興業が製造した計算尺を理研光学の販売ルートに乗せて販売するなど、理研系企業の創立理念とはかけ離れた市村の行動に理研の他の理事や役員から横槍が入ったのが遠因になったためか、昭和17年の新年会の席だったかで理研系の大河内理事長や他の役員達と意見の相違で衝突し、市村は部下をかばって理研系企業の全12社の役員ポストを辞任しています。しかし、大河内理事長は市村の才覚と今までの実績を惜しんで理研光学、旭無線、飛行機特殊部品の3社を理研コンツェルンから切り離し、市村に託して独立させ、ここに「世界のリコー」の基礎が固まるのです。この独立を果たしたことにより理研の特許で収益を上げて研究費として理研に還元するという縛りがなくなり、戦時中の難局を乗り越えて会社を維持するためになりふり構わずいろいろなことに手を出すことが可能になったのです。このため、世に出回っている「理研光学工業発売」刻印付きのIDEAL-RELAY計算尺はおそらく昭和17年の理研光学独立以降に正式に理研光学の販売ルートで発売されたものなのでしょうが、今回のNo.100と推定される計算尺は理研光学のマークのみ入れられた正体不明の計算尺で、おそらく「市村は理研を私物化している」という他の理研系企業の役員の指摘どおり、理研光学独立以前に市村の個人企業である東洋特専興業から理研直系である理研光学を通じて販売された限りなくグレーゾーンの計算尺なのかもしれません。
Relay100_3
Relay100_4

| | Comments (0) | TrackBack (0)

August 02, 2014

藤野式計算器No.2551一般計算用(乗除用)

2551  藤野式計算器というのは大正6年ころから戦時中までに発売されていたわが国における円形計算尺の嚆矢で、一般計算用のほかは金属重量計算器およびマニシストコンピュータ(工作時間計算器)が発売されていました。コンサイスの計算尺が戦後にこの藤野式を元に製造されたことはコンサイスの説明書に記載されているとおりです。この藤野式計算器はすべて金属製で、銀座の玉屋商店が解説書などを出しているところを見るとどうやら玉屋を通じて発売されたか、藤野式の特許をもとに玉屋商店が関係工場に製造させたのではないかと考えます。藤野式の中でも世の中に一番残っているのは金属重量計算器で、逆に一度も目にしていないのがマニシストコンピュータですが、それにしてもこの10年でオークション上で目にした数は全種類を合わせても20点を上回る数字ではありません。
 不思議なことに一般計算用の藤野式No.2551には同じ型番にもかかわらずまったく書体が異なるものが存在し、片や「一般計算用」、片や「乗除用」と用途表示まで異なったものになっています。一般計算用の書体が大様な装飾文字風で製造番号という書体が大きなものなのに対して、乗除用表示のものが明朝っぽい筆記体で製造番号の書体が小さいというようになっています。相対的にも後者の書体のほうが級数が小さくなっていますが、エッジングで入れられたであろう目盛りや文字は後者のほうが深く刻まれているような気がします。これらに対して金属重量計算器のほうは全製造期間を通じて同じ仕様で製造されているようです。ところが改めて過去のオークションに登場した藤野式のNo.2551を検証すると「一般計算用」表記と「乗除用」表記のほかに「乗除算用」と表記されたものがありました。そうすると藤野式のNo.2551は刻印違いで3種類存在することになります。なにせ今の世に出てくる数が少ないので手元でじっくり見比べて違いを詳細に比べるわけにもいきません。一ついえることは、以前「横志空9190」のスタンプと本体に錨の刻印が入った明らかに旧海軍航空隊備品の藤野式No.2551が出てきたことがあり、そのことから昭和10年以降のものと推定できますが、この藤野式の刻印が「乗除算用」になってましたので、おそらくは古い順に「一般計算用」「乗除用」「乗除算用」ということになるのでしょう。金属重量計算用に変種が見当たらないのに一般計算用だけになぜ変種が3種類もあるのかが不思議です。大正8年玉屋商店発行の藤野式計算器の解説書のなかのNo.2551は書体の大きな装飾文字風の「一般計算用」でした。今回秋田から入手した藤野式計算器No.2551は、相当使い込まれたもので、「乗除用」表記なので3種あるタイプの中の中期型にあたるものです。真ん中の要のかしめは緩み、内側の円盤はべこべこにゆがんでいました。でもまあ、、まったく使われないで仕舞い込まれた計算尺よりも、ここまで徹底的に使われるのは計算尺にとっても本望でしょう。この藤野式No.2551の直径は9cmで基線長25cmに若干満たないのですが、そこに刻まれているのは1-10,000の4乗尺のため、そのままだと計算精度たるやまともな答えが出るものではありませんが、そこは臨機応変に桁の数を読み換えて使用し、必要な精度を確保するというものなのでしょうか。
 そういえば金属重量計算器カテゴリーの藤野式の中には「金属重量計算器」としか刻印の無いノーブランドの明らかに藤野式コピー品と思われる円形計算尺も存在し、藤野式はボール紙の箱にパラフィン紙に包まれた状態で販売されていたのに対してこちらのコピー品はガリ版刷りの簡単な使用説明がついた粗末な紙袋に入れられたものを見たことがありますが、他にも刻印違いのノーブランド重量計算器を見たことがあるので、藤野式重量計算器の特許失効後はコピー品が複数売られていたのかもしれません。


| | Comments (0) | TrackBack (0)

«FUJI  No.1280 高級技術用