September 22, 2019

青札NEC PC-9821V233/M7C2 とPC-9821V233/M7VE2のほぼ結晶化の記録

Dvc00914   PC-9821V233/M7C2、通称「青札」ValueStarのPENTIUM MMX 233MHz搭載タワー型PC98ですが、登場から5ヶ月ほどの97年10月にDOS/Vアーキテクチャ化したPC-9821NX系マシンが登場したために、その後もしばらくはDOS/V系NXと併売されたものの、実質的に「NECにPC98しかなかった時代」の最後のオールインワン・コンシューマー向けセットモデルだと言えるかもしれません。青札発売当時、当方が使用してきたマシンはパソコン通信とインターネットおよび画像処理系、MIDIでの音楽製作系のすべてをMacintoshの68040系マシン2台で分担し、Macで出来ないことはCompaqのDOS/V 486DX-2 66MHzマシンのWINDOWS95環境を使用、どうしてもPC98のソフトを使用しなければいけないときはEPSON PC-486HA 486DX-4 100MHz、X68Kソフトを使用しなければいけないときにはもらい物のX68000ACEを、というものだったのですが、さすがにCPUが続々とPENTIUM化したWIN 95時代の日進月歩のアーキテクチャ進化スピードにはついていけず、所有各マシンがそろそろ粗大ごみ化しかけていた時期でした。97年10月にNXが登場したときにはマスコミが大々的に「NECがついにPC98を切り捨てた」と流れたニュースのインパクトが強すぎて、その直前のPC-9821V233は何かあまり印象に残らなかったマシンだったかもしれません。そのためというわけではないのでしょうが、どうも市場には台数がそれ以前のPC98と比較しあまり出回っていないのか、その前に発売されたPC-9821V200M7C2と比べても玉数が少ない印象です。当方、ネイティブなPC98使いではないので、98に関しては詳しく語る薀蓄がありませんが、このPC-9821V233には当然ながら98独特なローカルバス「Cバス」が搭載されており、古い98の資産がそのまま活用できる(しかし、WINDOWS95に対応しているCバスボードが必要)という利点がありますが、当時のマシンスペックでも使いやすいWINDOWS 2000にCバスボードのドライバーのほうが殆ど対応していないようで、さりとてLINUXでCバス対応しているものの開発もはるか昔に停止してしまっているために、今メインのマシンにしようと思ってもそれはなかなか無理な話でしょう。
 実は一昨年(2011年)、このPC-9821V233M7C3系のリカバリーディスク一式を入手してしまいました。たとえHDDが抜かれていようと、必要なドライバーの心配がなくなったために、一台ジャンクの青札タワーの再生に挑戦しようと目論んでオークションを探していたのですが、今でこそ青札タワーのV233はタマ数が豊富でいつでもオク上で見かけますが、昨年の初め頃はさすがに青札V233の完全作動ものはそこそこの値段が付き、動作保証ナシのジャンクも玉数が少なく、ジャンクとしてはまあ適当な値段で愛知から入手したのは2012年5月の中ごろになります。青札V200に対して青札V233はタマ数がかなり少ない感じですが、実はこのタマはかなり以前からオークション上を、回転寿司の干からびたいなり寿司のごとく、手を出す者も無く何度も回り続けていた、というか何度も再出品を繰り返されていたものです。相当敬遠される理由があったのかどうかはわかりません。青札タワーV233には、手持ちの98キーボードがLアングルのせいで差し込みことすら出来ず、結局あとでWINキー付き98キーボードと丸コネクターの98マウスの両方とも買い揃えるハメに陥りました。これが意外と高価な買い物になり、本体を上回る金額になったのがどうも納得がいきませんでしたが。
 愛知から届いた青札V233にとりあえずこれもPC-98用に一昨年確保しておいた、水平24.8kHz出力にも対応するEIZOの液晶モニターFlex Scan L465をつないで電源を入れるも本体は一応電源が入るようですが、モニターには「No Signal」という文字しか表示されません。一応HDDなども回っているようですが、なぜか起動する様子もありません。どこが悪いのかの原因を特定するすべもなく、その後忙しさにまぎれてそのまま1月ほど放り出してしまいました。
 その後、ひょんなことからまず第一の原因としてピラメいたのは、何かの原因でCPUが飛んでいるのではないかということで、そういえば電源を入れたときにCPU回りからまったく作動音がしませんでした。それなら一層のことAMDのK6プロセッサーを使用した6倍速ODP入れてやれば一石二鳥ということで、さっそく動作品の中古「PK-K6H400/98」を入手したのですが、どうもこのODPはWIN95起動時のタイミングに難があり、対策のパッチを当てないといけないらしく、万が一この青札V233がWIN98や98SEにアップグレードされていなければ起動も出来ない可能性があるため、とりあえずノーマルのCPUも動作確認用に入手する必要がありました。ところがPENTIUM MMX 233MHzなんざ今時まず単独では入手出来ませんから、当時でもタマ数が比較的に豊富だった動作品のMMX 200MHzを500円で入手。この時点で3.5倍速から3倍速の青札V200に降格です(笑)
 和歌山から届いたPENTIUM MMX 200MHzをオリジナルの233MHzと交換しようとしてヒートシンクを外そうとしたら、CPUとヒートシンクのペルチェ素子との接触面に放熱グリスがなにも塗られていなかったのですが、これがオリジナルなんでしょうか?もしかして前の持ち主がふき取ってそのままにしたため、CPUが熱中症死してしまったのでしょうか?とりあえず動作確認用ながら放熱グリスをたっぷり塗りこんでヒートシンクを取り付け、いざ電源を入れてみるとちゃんとCPUの起動音がして初めてモニター画面に何か表示が出てきますが、貞子呪いのTV画面のように下半分が謎のモザイク状の漢字の羅列で埋め尽くされています。明らかな映像出力の不良です。何回か機動を繰り返してみるうちに左上部分にわずかにメモリーチェックしているのが見えたり見えなかったりして、それによるとどうもメモリーカウントのところでERRORも起こしている様子。
こりゃあかなりの大仕事になりそうだと考えつつ、とりあえず通称「抜いちゃだめボード」を外してコンデンサーの外見チェックをしてみましたが、不良になるようなコンデンサーは見当たらず、そうなったらソケットとの接触不良を疑って接点復活材を薄くスプレーしてボードを何度か抜き差しし、接触不良解消を図ります。ほかのボードも同じような状況でしょうからすべてのボードのソケットも分解洗浄し、メモリーソケットも洗浄してメモリーを差しなおし、いざ機動させてみると今度は正常にメモリーカウントが始まってWINDOWSの起動画面が現れます。予想通りOSはWINDOWS 95のままのようです。そして起動が終わってデスクトップ画面があわられるとそのデスクトップが点滅を繰り返すというか、映りの悪い真空管テレビみたいに映像が斜めに流れて消えるを繰り返しているではないですか。これは以前出来の悪いモニター切換器のスイッチが原因で同じ症状に行き当たったことがあります。原因はモニターコネクターのGNDの接触不良が疑われたので、モニターコネクターの洗浄を行い抜き差しを繰り返して再度機動させると今度は安定したデスクトップ画面が維持するようになりました。どうも履歴を調べてみると2001年を境に使用されたことがないようで、そうなるとそれから11年の間電源が入らなかったことになります。そのあいだに各コネクターがすっかり酸化皮膜を形成して導通不良を起こしたようですが、よくもまあこんな状態で、というかCPUを飛ばしたマシンが捨てられずに残っていたものです。それを入手してとりあえず動くように手間をかける人間も相当なアホウの暇人ですが(笑)
 ODPをつける前にWINDOWS 98にアップグレードしたほうが動作的にも確実なので、「NEC PCサポート FOR WINDOWS 98」というWIN98用ドライバー付きのWINDOWS 98を入手、このサポートCD-ROMを先にインストールしてドライバーをアップデートしたのちWINDOWS 98でOS アップグレードし、問題なく起動確認した後、一旦電源を落としてPK-K6H400/98 ODPを装着。これも問題なく起動を始め、体感的にもかなりきびきびと動作が速くなったような感じがするようになりました(但しHELPキーを押しながら起動させても98設定画面が出なくなってしまいました)。手持ちのPCIバス用LANボードを装着し、ドライバーをインストールしてインターネットにつながるようになりましたが、確か標準添付のIE3だったかではもはや今のWEBページじゃスプリプトエラーアラートのオンパレードでまともに動作しません。このIE3でWIN98で使用できるギリのIE6をDLして何とか今のWEBページもFLASHが多用されていないものなら表示することが出来るようになりましたが、USB接続機器をまともにつなぐことを考えたら98SEにアップグレードする必要がありそうです。またメモリーのトータルがその当時の標準の32MB+32MBの64MBしかなく、重いページを表示させるとハングしたりブラウザーが落ちてしまう有様。(本当はWIN98とIE6との相性が原因で、IE5.5のほうが動作が確実らしいです)セキュリティーホールの件も含めてまともにネット閲覧に使用するには問題が多すぎます。
 そういえば装着されていたCDドライブはATA接続のSONY純正品20倍速(spec的には最高24倍速のはずなんですが…)でしたが、最初に電源を入れたときに何かトレイの挙動がおかしかったため、ゴムベルトの劣化を警戒して手持ちの同じくSONY製CD-RWに交換してしまいました。同じSONYだとドライバーも大差ないだろうという目論みでしたが、ちゃんと認識して動作してます。このドライブはなんとアップルマーク付きのG4 DA用で、アップルの純正品がPC98の中に入っているという不思議な状況に。こんな部品が使えるのもこの時期の98が汎用DOS/Vパーツ流用が多かったことがよくわかります。手持ちのWinCDR 5.0でちゃんとCD-Rが焼けるかどうかはもう少し暇になったら検証してみましょう。ところで、この青札V233はCDモデルだったため、青札V200とV233のDVDドライブ搭載モデルのVRAMが4MBだったのにも係わらず、VRAMが2MBとスペックダウンとなり、そのため1024x768モードでフルカラーが表示できないのが不満です。抜いちゃだめボードにVRAMを追加するわけにはいかないので、VRAMを4MBにして1024x768モードでフルカラーにするためには社外品のPCIグラフィックボードを使用して抜いちゃだめボードとつなぐという方法しかなく、そのためのウィンドウズアクセラレーターというのはもともと数も種類も少ないため、今では入手するのに困難が付きまといます。幸運にも98PCIバス専用で往年の高速グラフィックアクセラレーターチップ:S3社ViRGE/DXを搭載したI-O DATAのGA-PGWX4/98PCIの未開封品を1k円で入手。これで1024X768モードでもフルカラーの環境が整いました。
 ところが2012年の夏の終わりになって同じくPC-9821V233M7VE2というVRAMが4MBも最初から搭載され、MPEG-2をハードウエアエンコードするボードとDVD-ROMドライブを搭載する青札マシンが1.5k円で転がり込んできました。おそらくPC98アーキテクチャーのValueStarでDVD-ROMを認識出来るのは前モデルの青札V200DVDモデルとこのモデルだけだったと思います。何かCPUの飛んだ接触不良だらけの青札V233M7C2が3k円で青V233M7VE2が半額で入手出来るというのは何か釈然としません。WINキーつきの98キーボードや98マウスのほうがそれぞれこの価格より高額なんですから。まあ、安価にDVDモデルが手に入ったことはうれしいことですが、当時の青札V233M7C2と青札V233M7VE2の価格差は実に18万円くらいの差がついていたようで、この価格差はほとんどDVD-ROMドライブとMPEG-2デコーダーおよびISDNコミニケーションボードのコストですが、この今では信じられないような価格差のため、世の中には青札V233のDVDモデルはかなり希少な存在のようです。(しかし、NX発売が発表されてからは急に割引率が高くなり、半額近くで入手したという話もあるそうな)また4ヵ月後にNXと併売になった時点で、PC-9821のラインナップの中からはDVD-ROMモデルはなくなっていたようです。いつものPC98系に強い業者から届いた青札V233M7VE2は外見が最初のV233M7C2より傷も汚れもそれなりだったため、かなり使い尽くされてHDDもメモリーも抜かれた状態だと思ってケースを開けたら、中身は部品が抜かれた様子がまったくなく、モニターを繋いで起動させてみるとちゃんとオリジナルのWindows95が立ち上がりました。HDDは3つにパーテーションを切られていましたが、合計の容量はPC98史上最大の純正6GBでした。VE2なので当初のインストール済みソフトはWORDとEXELではなく、まだDOS時代のPC98標準ワープロと表計算のてっぱんの組み合わせである当時は未だユーザーが多かった一太郎とWin版のLotus1-2-3のバンドルです。まあDOS時代のデーターを有効にコンバートして活用することを考えたのでしょうが。なんとヲタ同人系ゲームのディスクがそのままDVD-ROMに残ってました。VRAMが4MBなので標準で1024x768モードでも32bitフルカラーが表示できるアドバンスは大きいのですが、メインメモリーは工場出荷状態の32MBのままでした。大きいタワー型のPC98を2台も置いておく余裕が無いので割と外観のきれいだったV233M7C2の外装とメモリーおよびPK-K6H400/98 ODPをV233M7VE2に移植し、V233M7VE2のほうを生かすことにしました。ところがDVD-ROMとMPEG-2デコーダーを搭載して電源を強化せざるを得なかったのか、熱対策でV233M5VE2のほうは側面にファンが増設されており、その面に格子状のスリットがV233M7C2とは反対側に開けられているため、ケース自体、V233M7C2とV233M7VE2では互換性がないことが判明。そんなことはまったく知りませんでしたが、青札タワーの外見だけでCD-ROMモデルとDVD-ROMモデルの識別の目安になるはずです。
 しばらく試験運用していると突然DVD-ROMの調子が悪くなり、バタバタとディスクが暴れる音がし始めたため、DVD-ROMを外して分解を始めると、ディスクを押さえる樹脂製のキャップに亀裂が入っており、これが原因でディスクを正常に読み込めなくなったようです。型番はSONYのDDU100Eでこれは記念すべきSONYのDVDドライブ第一号です。発表は1997年1月で、当初PC-9821V200、まもなくPC-9821V233に搭載されて発売されたのですが、ヘッドがCD用とDVD用の2個になっているのが特徴です。出荷価格がなんと10万円。もっとも一年後に発売された後継機のDDU220Eは読み込み速度が大幅にアップしたのにもかかわらず、価格が5万円に下がってました。新しいドライブに交換すればいいのでしょうが、WIN95のドライバーを有する同年代のドライブの手持ちがなく、記念すべきSONYのDVDドライブ初号機を残すためにも、亀裂の入った樹脂キャップは接着剤を何回も充填して鑢で研ぎ出し、元のドライブを組み立て直して筐体に収め、起動してみると異音もなくなり、正常に動作するようになりました。読み込みも今のところ問題ありません。その後NEC PCサポートキットを使用してドライバー等を更新し、WINDOWS 98を経てWINDOWS 98SEにアップデートし、ISDNコミニケーションボードを外してPCI LANボードを装着してネット接続を確認。いったん電源をおとして電源コード類を抜き、V233M7C2からPK-K6H400/98を抜いてV233M7VE2のほうに装着し、逆にVE2のPENTIUM MMX 233MHzのほうをV233M7C2に戻しました。またV233M7C2のセカンドバンクからメモリーを抜いてV233M7VE2のセカンドバンクに差すと32MB+64MBの合計96MBとして認識されました。V233M7C2のときは2枚差しで合計64MBだったのにどうしたことでしょう?
 さらにV233M7C2に装着してあったPK-K6H400/98 ODPをV233M7VE2に移植し、問題なく400MHzにブーストアップ完了しました。さらにPCIバスにLANボードを取り付けますが、V233M7VE2は3つともPCIバスが占有されているため、一番下のISDNコミニュケーションボードを外して新たにLANボードをリプレースします。このコミニュケーションボードが長さ30センチもあるおそらく専用品で、そのためボード後部のオーバーハングを本体のプラスチッククリップで挟みこんで保持するようになっており、V233M7C2はこのクリップがどんな役目をするのかわからなかったのに、これで合点がいった次第。さらにV233M7VE2にはMPEG-2ハードウエアエンコーダーボードもこのクリップでオーバーハングを支えています。
 こちらのV233M7VE2のほうもウエブブラウザーは98SE標準のIE4からIE6SP1をダウンロードし、今出来のウエブページもスクリプトエラー頻発を回避できるようになりました。もっとも今時98SEに対応するセキュリティーソフトもすでに開発が止まってますので、極力ネット接続は避けるのは当然ですが。
 いきなり2台になってしまったタワー型の98ですが、その容積は小型のファンヒーター並です。当然のことながら2台を並べておいて置く余裕もなく(MacintoshのQuadra 950だって最近持て余してます)V233M7VE2のほうを残してV233M7C2のほうは倉庫行きになりそうな。メモリーを一枚抜いたV233M7C2を久しぶりにモニターに繋いで電源を入れると、いきなり下半分が意味のない漢字で埋め尽くされる例の「貞子呪いの画面」が再現されました。ちゃんと画像にしておけば良かったのですが、そこまで頭が回らず、またメモリーカウントでエラーを起こしているようなので、1バンク目に残ったNECの純正メモリーの接触不良を疑って一旦ソケットからメモリーを抜きソケットの導通改善を試みます。どうやら当初から1バンク目のメモリーは接触不良で、移植した2バンク目のメモリーしかカウントしていなかったようです。接点復活材を塗って少し磨き、元のバンクにはめ直すとちゃんとメモリーチェックで32MBの容量で認識してくれ、正常に起動画面に移行しました。うちにはけっこう5インチ時代のソフトが残っているため、インストールのためには内蔵か外付けの5インチドライブが必要になってきます。また9821の型番に変わってからのPC98は1M FDDインターフェースが内蔵されておらず、Cバスに1M FDDインターフェースボードを追加してやる必要があります。ところが、Cバスの1M FDDインターフェースは何枚か手持ちがあるのですが付属のケーブルがなく、さらにWindowsには対応していない古いボードばかりです。型番を調べたら600kBの2DD専用なんていうのもありました(笑)。とりあえずWindows95,98にも対応するCバスボードが必要になってきますが、FDD34ピンケーブルと8ピン追加信号ケーブルが揃っていてV233に使えるものとなると、おのずから選択肢が限られ、LogitecのLFA-19を中古で入手しました。これ、説明書もなかったものでケーブルの接続には少々とまどいましたが、無事にDOS上でもWindows上でも外付けFDDを認識しています。
 手持ちのαDATA AD-F51SRのシングル5インチFDDが余っていたので、これをV233専用外付けドライブにしました。これで5インチディスクしかないソフトウエアのHDDへのインストールも可能になりました。
ところで、今ではあまり気にする人はいないでしょうが、PC98は今のAT互換機やMacintoshのようにCD-ROMからブートすることが出来ません。そのため、HDDを初期化してしまったものはたとえリカバリーのCD-ROMがあったとしてもCDを起動してOSをインストールすることが出来ないのです。当時からPC98を骨の髄までしゃぶりつくした人ならいざ知らず、WIN95からしか使ったことのない98ユーザーやCONFIG.SYSやAUTOEXEC.BATの知識の無い人は初期化されたHDDにOSをリカバリーすることは無理、というかかなり敷居が高いかもしれません。またたまさか起動ディスクを作ってあったとしても、OSは任意の場所にインストールは不可能で、起動したディスクにしかOSをインストール出来ないということは、フロッピーで起動したマシンにはフローピー自身にインストールすることになってしまうため、HDDにOSを絶対にリカバリー不可ということになります。また起動時にCDドライブのドライバーを読み込むようにしなければCDを読み込むことさえ不可能なのです。そこで実験というわけではないのですが、もう一台の98で2パーテーションにして初期化したHDDをV233M7C2に組み込んで、WIN95でリカバリーする実験をしてみることにしました。というのもWIN95用のV233付属起動ディスクはあったのですが、このディスクのセクターの一部に不良を生じていて読み込み不可で、システムのイントール用ディスクは欠品という状況だったため、WIN98のインストールの過程で作った起動ディスクを使ってHDDに起動に必要なファイルをコピーしてHDDから起動可とし、さらにCDドライブを認識するSYSファイルなどをコピーし、今度はHDDにコピーしたCONFIG.SYSとAUTOEXEC.BATを書き換え、起動ディスクを抜いてリセットを掛けると起動ディスクからブートするのと同じようにHDDからブートし、CDドライブも認識するようになりました。しかし、V233付属のCD-ROMにはSETUP.EXEがない(一般的に出回っているアップデート版にも見当たりません)のですが、実はバックアップCD-ROM(2枚目)の\WINDOWS\OPTIONS\CABSの中にSETUP.EXEが隠されていて、これを実行するとWIN95のインストーラーが起動し、起動ディスク上にシステムインストールが始まります。インストール終了後にプロダクトキーを聞いてきますので、WIN98アップデート前にWIN95のプロパーティ画面から控えておいたナンバーを打ち込んで認証終了。ところが、2つに分けておいたパーテーションのもう一方にMS-DOS 6.2をインストールしてデュアルブートにしようと思い、領域にインストールしようとすると、これが不可能でした。そこで思いあたったのが、本来製品版のWIN95のフォーマット形式はFAT16で2GBまでのHDD領域しか認識できないのですがV233M7C2付属のWIN95はOEMの拡張版OSR2で、どうやらデフォルトはFAT32でフォーマットされてしまうため、FAT16フォーマットしか使えないMS-DOS6.2はFAT32フォーマットされたHDD上には素直にインストール出来ないのではないかと。まあ、それが正解かどうかはわかりませんでしたが、そうなるとB領域だけFAT32からFAT16にフォーマットしなおさなければならないようです。ところがよくよく調べるとこのV233も当初からデフォルトでFAT16のフォーマットに変更がなく、単にフォーマットメニューでB領域の状態変更をBOOT可にしなかったためにMS-DOS6.2がインストールできなかっただけの話のようでした。どういう操作をしたか確定的なことは忘れましたが、たぶん状態変更の操作のみであっさりOSインストールが成功し、BOOTメニューで起動OSがWINDOWSとMS-DOSの両方が選べる状態になりました。(その後、V233/M7C2のほうはV233M7VE2からはずしたCPUを装着し、3.5倍速233MHzに戻った後、さらにその後にやってきた猫のためにベッドサイドにおかれ、その上に雑誌などでかさ上げされたクッションなどを介して今や猫ベッドとして4年以上も活躍中です)
 PC98はDOS/V機やMacintoshと比べるとCDブート出来ないだけ真っさらな状態では「非常にOSリカバリーがしにくい」PCですが、それというのも本来の98専用MS-DOS機のアーキテクチャーを無理やり大容量メディア用に拡張してしまったために、何かと制約が多い、今で言ったら「ガラパゴスPC」となってしまったということなんでしょうか。また同じPC98の中でも末期にはHDDのフォーマットの違い、ドライブの接続形式の違いなどまであり、ますます個別の取り扱いのノウハウを必要としますが、まあこの青札より後にはあっさり98アーキテクチャーを捨て、NXでDOS/V化したのは当然の判断だったはずです。根っからのMacintoshユーザーにとっては実に対極的なマシンですが、最初からGUI環境を手に入れたWIN95以降からパソコンに触ったユーザーも拒絶し、いじる、カスタマイズする苦労と楽しみは閉鎖的なMacintoshの比ではありません。いまさらじゃありませんが根っからのMacintoshユーザーにとっては実に興味深い(笑)

 (実は先日2019年の9月になってから4年ぶりくらいに青札V233/M7VE2に火が入り、こんな文章を記録していたのを思い出しました。世代的にはWIN95も触った事が無い、ましてMS-DOSなんざプロンプトの先の操作をどうしていいかわからないユーザーの方が多くなりましたが、この備忘録が新しい世代の人たちが旧PC98いじりのための参考になれば…)

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September 08, 2019

ウルフ安全燈型ライター(麻生創業100年記念品)

Photo_20190908092701  筑豊の炭鉱御三家の一人、麻生太吉が飯塚で炭鉱事業に着手してから100年を記念して昭和48年6月1日に飯塚で開催された麻生100周年記念式典で配られたと思しき記念品がこのウルフ安全燈型ライターです。当時の麻生本社は昭和41年に炭鉱事業から完全撤退し、麻生セメントを中核とする企業体勢に完全にシフトしており、麻生100年を節目として父親から現内閣副総理兼財務大臣の麻生太郎に麻生セメントの社長を譲るということが発表されていました。その後麻生太郎氏政界進出とともに麻生セメントを始めとする麻生グループの経営を弟に譲りましたが、現在の麻生グループはセメントなどの製造業よりも飯塚周辺に所有する広大な不動産を活用し、飯塚病院を始めとする医療や介護・福祉などのサービス業のほうに比重が移っています。
 その麻生100周年で配られたと思しき卓上ライターですが、本多のウルフ揮発油安全燈を模したもので、一見ブロンズ風に青い緑青風フィニッシュを施しているものの、その素材は鋳鉄の鋳物で、磁石が付着します。昭和48年当時、どこかのデパートの法人担当部に発注したとしても千円というわけにはいかなかったでしょうから、もしかしたら式典で配られたというよりも得意先に配るために作られたのかもしれません。そうなると桐の箱に入って5千円以上はコストが掛かっていたのでしょうか?
 安全燈油壷部分に「麻生創業100周年記念」の陽刻があります。
 このウルフ安全燈型卓上ライター、以前はたまにオークションなどでもたまに見かけたのですが、最近はまったく見つかりません。そういえば炭鉱業時代の麻生産業本社は炭鉱坑内にならって社屋全面禁煙で休み時間には屋外に出ないと喫煙出来なかったそうです。それがいつまで踏襲されたのかはわかりませんが、炭鉱業から撤退し、いまだに喫煙者の麻生太郎氏が社長になるに及んで社内は喫煙おかまいなしになったのは想像に難くありません(笑)

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August 31, 2019

半纏・志ん宿十二社いずみ(新宿区熊野神社祭礼)

Photo_20190831134301 Photo_20190831134302  背中に大きく志ん宿十二社(しんじゅくじゅうにそう)と染め抜かれた、半纏襟にいずみという表記のある熊野神社祭礼用の長半纏です。十二社(じゅうにそう)というのは東京でも難読地名の一つですが、現在は西新宿4丁目という住所表示になっています。十二社界隈にはその昔、熊野神社の境内に大きな滝があり、それに付随して大小の池(そもそもは農業用のため池だったという)があって江戸の時代から景勝の地だったという話です。熊野神社は室町時代の応永年間に紀州出身の商人、鈴木九郎によって熊野三山の十二所権現全てを祭ったのが十二社の名前の始まりといわれています。その十二社池の畔は今でいう江戸っ子のちょっとした行楽の地となり、やがて茶屋や料亭などが立ち並び、花街として最盛期には100軒の茶屋や料亭がひしめいていたとのこと。
 その十二社池も新宿副都心整備の一環として昭和43年に淀橋浄水場などとともに埋め立てられてしまったようで、現在は池に向かって道路がわずかに傾斜している地形でしかその痕跡をたどる事ができません。今でも十二社通から一歩入ってしまうと少し時代が止まってしまったような路地が現れるようです。それが西新宿のビル群とのコントラスト深めています。
 実は当方、れっきとした元新宿区民で、新宿区で成人式に出席しています。成人式の講演は生活の知恵などでおなじみのNHKの酒井広アナウンサーと当時ナナハン師匠だった現人間国宝柳家小三治師匠でした。住んでいたのは柏木と呼ばれる北新宿なので、熊野神社のテリトリーからは外れてしまうのですが、西新宿には今でも何となく郷愁を感じてしまいます。
 現在、熊野神社の春と秋の例大祭には熊野神社氏子の町神輿が13基出るようで、それぞれの睦が存在するらしいのですが、昔から13睦なのか、いつの時代から町会が統合され、13睦になったのかはわかりません。十二社のいずみという睦がいまでもちゃんとあるのなら申し訳ないのですが、やはり十二社界隈の居住人口減少と高齢化で十二社宮元に統合してしまったのでしょうか?いちおう現在の13睦は十二社宮元、角三、西新宿、角一東部、西新宿1丁目、角一南部、歌舞伎町、欅橋、柳橋、淀橋宮本、谷中、元淀、新宿西口でしょうか?角は「かく」ではなくこの界隈の旧名角筈(つのはず)の「つの」ですので念のため。
 この十二社いずみの半纏はけっこう厚くて立派な生地が使用されている長半纏です。いまのように多色染めというわけではなく紺の木綿地に白染め抜きですが、時代的には昭和30年代から40年代くらいでしょうか。このころはまだ西新宿の各商店街も賑わっていたでしょうし、居住人口もまだまだ多数あったのでしょうけどその時代は知りません。でも当方が新宿に住み始めた昭和53年頃は京王プラザホテルの西側にはまだ高いビルは一棟もありませんでした。

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August 30, 2019

半纏・アツミ自転車(渥美自転車製作所:台東区)

 Photo_20190830124101 Photo_20190830124102 アツミの自転車と表記のある自転車メーカー渥美自転車製作所の割と長めの半纏です。時代はおそらく昭和20年代後半から30年くらいに掛けてのものだと思います。自転車メーカーの半纏というのは意外に種類が多く、というのも当時の町の自転車屋さんは普段着に半纏を引っ掛けてパンクの修理などの作業をしていたのでしょう。今は自転車生産から手を引いてしまっている日米富士自転車や片倉工業、水谷自転車、ツノダ自転車、宮田自転車、ブリジストンなどの半纏もあり、酒屋半纏同様ある一定のコレクターが存在するようです。このアツミ自転車は東京の台東区に存在した当時ですから丈夫な実用車のメーカーで、おそらくはフレームだけ自社製造でその他のギアやチェーン、ブレーキはハブ、タイヤやスポークは専門部品メーカーから仕入れるいわゆる組立工場だったのでしょう。ところが昭和30年に近づいた頃、何とオートバイに手を出してしまいその後資金繰りに窮したのか倒産してしまったようです。自転車メーカーは本田の赤カブ(補助エンジンの方)やビスモーターのように原動機を自転車に着けた時代から本格的にオートバイとして設計された物の時代が来たのを好機と見て、オートバイに進出するところが多くありました。その結果はアツミ同様に山口自転車は倒産、宮田、日米富士や片倉は早々に撤退、ブリジストンは輸出のみという形で粘りはしましたがオートバイから撤退しています。その原因は少なからず本田のスーパーカブ発売が原因なのでしょう。キャノンのキャノネット発売で弱小カメラメーカーが次々に倒産に追い込まれたのと同様です。
 まあこのアツミ自転車は「自転車屋がオートバイに手を出して成功したところなし」を地でいったような会社ですが、そのオートバイの存在は手元の資料ではもう30年以上前に八重洲出版から出版されたモーターサイクリスト別冊国産モーターサイクル戦後史に掲載されていたと思い、今回探してみましたが見つかりませでした。
 しばらく前であれば古典自転車マニアの人がアツミ自転車の紹介をしている頁に行き当たったのですが、現在は自転車の頁は閉鎖されてしまったようで、謎のオートバイとしてアツミオートバイを公開している人の頁にしか行き当たりません。
 この半纏は東北方面から入手したものだったため、おそらくは関東を越えて東北方面にも自転車はシェアがあったのかもしれません。黒木綿の半纏で腰模様がローマ字というのが洒落ています。背模様はおそらく前輪の大きいオーデイナリー型自転車の前輪にアルファベットのAのデザイン文字があしらわれたもののようです。半纏のデザインとしてもなかな秀逸なデザインだと思います。もっとも自転車は商店で配達に使用するようなごつい実用車でしたが。

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August 29, 2019

半纏・朝日鷹(高木酒造:山形県村山市)

Photo_20190829121101 Photo_20190829121201  山形県村山市は実は母方の実家があり、その実家の所在地だった大字名取の最上川を挟んで北西の方向にあるのが富並という古くからの稲作地域です。その富並に江戸時代初期から綿々と続く酒造会社が高木酒造です。朝日鷹を商標にした酒で、ごく地元の配達出来る範囲に直売するくらいの規模のいわゆる地酒の醸造元だったのですが、25年程前に十四代という銘柄の日本酒が日本酒マニアに大好評を博し、一気に全国に名前を轟かすことになった酒造会社です。その人気ぶりは山形県内から小売価格で十四代をかき集め、倍以上のプレミアム価格で売るというようなブローカーが暗躍し、地元でも手に入らないという現象が生じました。実は当方の母方の伯父が地元の税務署勤務で、酒税担当ではないものの高木酒造の13代目、14代目はよく知っているという話でした。当方千葉の成田近辺に在住の時は電車で品川まで出てからわざわざ東急の武蔵小山に立寄り、酒屋のかがた屋さんに立ち寄って十四代の一升瓶を2本抱えて目黒線、大井町線、田園都市線から横浜線に乗り換え、山形を引き払って町田在住だった伯父の所に行き、よく十四代を酌み交わしたものです。そのときに高木酒造に関する話も聞きましたが、13代目を高木の親父、14代目を高木の息子と称していました。高木の親父が村山市長選に立候補したけど落選したとか、村山で最初にクラウン買ったのは高木の息子で、楯岡から天童の税務署に出張するときたまたまそのクラウンに便乗させてもらったら雪で滑って雪山に突っ込んだとか、そんなような与太話ばかりです。その大正14年生まれ伯父も亡くなって今年で7年も経ち、そんな話を聞きながら酒を酌み交わしたのも昔話になりました。
 この高木酒造の半纏はまだ十四代ブランドが確立する前のおそらくは昭和末期くらいのものではないと思っています。今は十四代の半纏しか作っていないのでしょうか。酒屋半纏には珍しい茶色のメクラ縞半纏で、なんか遠目には丹前生地にも見えてしまいますが(笑)
 表の半纏襟には清酒朝日鷹の染め抜き。裏は清酒朝日鷹の文字が黄色い起毛印刷で描かれています。

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半纏・金滴(金滴酒造:樺戸郡新十津川町)

Photo_20190829093701  樺戸郡新十津川町にある金滴酒造の半纏です。
新十津川町は明治22年の奈良の十津川郷の大水害で被災した人たちが移住して築き上げた開拓地でした。十津川郷の人たちは古くから朝廷に仕えており、南北朝時代に南朝を支えた関係で十津川郷士として特別な地位を与えられ、幕末には朝廷警護のお役を賜ったほど勤王の志厚く、明治になってからも全員が士族身分となった由。明治22年8月の大水害は台風がらみの大雨で十津川(熊野川)の流域の山腹が崩れてあちこちで天然ダムが形成され、その決壊による大洪水で甚大な被害を生じたとされています。このとき、十津川郷の復旧には30年は掛かるだろうなどといわれるほど地形も変わってしまい。十津川郷6か村内の戸数2403戸の約1/4、610戸が被災、同年10月に被災者2489人が北海道に移住。翌明治23年6月に600戸2489人が石狩川支流の徳富川流域のトック原野に開拓に入ったのが新十津川町のそもそもの始まりです。未開の原野の原生林を切り倒し、耕地として整備し、米が取れるようになるまで10年は酒を飲まずに開拓に従事するという誓いを立たそうです。一面の水田地帯にするまでは並大抵の苦労ではなく、その辺りは昔のNHKドラマ「新十津川物語」にもなるほどでした。入植から10年を経て、やっと稲作の目処が付くようになりましたが、度重なる石狩川の水害、害虫の大発生などの災害にも見舞われながらも一大稲作地帯としての基盤を固めて行ったそうです。
 そのような開拓の歴史の中で明治39年に主に十津川郷出身者90人の出資により創立したのが金滴酒造の前身の新十津川酒造で酒名は徳富川でした。他の酒造会社というのはたいてい地元資産家の個人経営の酒蔵が殆どですが、こちらは最初から地元出資者による株式会社組織の会社でした。大正7年に増資したのを機に酒名を金滴、銀滴、花の雫に変更。金滴はピンネシリ山から流れる砂金のイメージから命名したもので、これが今に続いています。戦時中昭和19年には企業整備法で他の3蔵を統合合併し、存続会社となり、戦後の昭和26年に現在の金滴酒造に社名変更し今に至ります。金滴酒造は2008年に売り上げ不振から負債6億円余りを抱えて札幌地方裁判所に民事再生法の適用を申請。千歳鶴の日本清酒の支援が入り、社長が元道議会議長、取締役が元日本清酒役員の新体制で2009年4月に再建計画が裁判所で承認され旧資本全額減資のうえ1社7人の新たな出資1500万円で再建着手。その翌年に迎え入れられたのが現上川大雪酒造の川端杜氏です。川端氏は北海道産酒造米の吟風を使用していきなり2011年の新酒鑑評会で金賞を獲得。普通酒の生産がほとんどで、取立てて日本酒通の話題にも上る事もなかった金滴の名を一躍有名にしたのですが、川端杜氏は2014年の11月の取締役会で突然他の従業員数名とともに解任されます。この辺りの話は憶測が憶測を呼んでいますが、会社側は円満退社、川端氏側は解雇というように考えており、杜氏は以前の小野寺氏が復帰したとことでした。
 その金滴のメクラ縞半纏ですが、実際に仕込みに従事したことのある蔵人さんの持ち物だったのでしょうか。男山の半纏と一緒だったものです。かなり着古されたもので襟の上などぼろぼろになってます。普通の酒蔵は蔵じまいのときには蔵人に新しい半纏と帆前掛を配るのがしきたりだったとのことですが、よっぽど資金に余裕がなかったのでしょうか(笑)
 なお、半纏裏には背文字等ありません。

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August 27, 2019

半纏・北海男山(株式会社男山:旭川市)

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 北海男山は旭川の株式会社男山が醸造販売する清酒の酒名です。こちらの男山は新酒鑑評会金賞の常連ですし、モンドセレクションにも毎年出品して金賞を受賞し、今や北海道を代表する日本酒の蔵元です。
 関ヶ原の乱が起こった1600年頃、伊丹の鴻池善右衛門(後の鴻池財閥の始祖)が清酒の大量醸造の方式を編み出したことにより摂津の伊丹周辺が清酒醸造の一大産地となり、江戸に大量に下り酒として日本酒を送り出します。その後幕府の江戸に送られる伊丹酒の総量規制が掛かってから伊丹周辺の酒造業は衰退しますが1666年(寛文6年)に伊丹の領主になった公家の近衛家が醸造を保護育成したためその後も発展を続け、剣菱が将軍の御前酒にもなったという話です。そのなかで木綿屋山本本家の男山は元禄から享保にかけて最盛期を迎え、男山は8代将軍吉宗の御前酒にもなったという銘酒でしたので、その男山の名前にあやかった酒が全国に広がることになります。その伊丹酒も享保の末期から兵庫の灘が地の利なども活かして伊丹や池田の酒を脅かし、江戸後期の天保年間に西宮で宮水が発見されたことにより灘の酒質が向上して伊丹の酒造業は衰退し、剣菱や松竹梅は灘に移転し、男山の木綿屋山本本家は明治の初めまでに休醸してしまいます。
 北海男山は明治32年に山崎與吉が旭川に山崎酒造場を開設したのが始まりです。地元の上川米を使用し、今泉という酒名で軍都旭川の第七師団、鉄道建設に携わる人夫たちの需要を支えましたが、戦時中の昭和19年に北の誉の野口酒造場を存続会社とする旭川酒類に戦時統合されてしまいます。
戦後に多くの旭川の酒造メーカー同様に昭和24年に旭川酒類より分離独立し山崎酒造として北海男山の酒名を使用しますが、昭和43年に木綿屋山本本家の末裔を探し出して男山の名と印鑑及び納め袋を正式に継承。会社の名前も男山株式会社に改称し今に至ります。蔵元は代々山崎與吉の名前を継承しています。
 北海男山が日本酒の衰退後も生き残ったのはひとえに技術を磨いて酒質の優れた日本酒を作り続けてきた事につきます。現在旭川の蔵は高砂酒造、男山、合同酒精の大雪乃蔵の3酒造業者にまで減ってしまいましたが、どの業者も酒質を追求したことにより一時の日本酒離れをによる酒蔵廃業ラッシュを乗り越えた酒造場です。ただ、高砂酒造は本業以外のゴルフ場子会社の経営破綻で資金が焦げ付き、千歳鶴の日本清酒の子会社になってしまいましたが。
 この黒の半纏は製造元はわかりませんが半纏襟には清酒男山、背には北海男山のロゴが染め抜きされたものです。おそらくは昭和40年代のもので丈が短く詰められているので実際に仕込み作業に使用していたのかもしれません。いっしょに金滴の半纏も同様に短く詰められたものが出て来ています。男山と金滴の両方の仕込み作業に携わったことのある元蔵人さんの持ち物だったのでしょうか。

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半纏・北の錦(小林酒造:夕張郡栗山町)

Photo_20190827090101 Photo_20190827090102  北海道の栗山町で現在も盛業中の小林酒造、北の錦の半纏です。
栗山町の表玄関のJR室蘭本線栗山駅というのはその昔、大変ににぎわっていた駅で、それというのも炭都で最盛期は12万人の人口を誇った夕張市への短絡路線である夕張鉄道の接続駅だったのです。夕陽に照らされた3両編成の珍しい夕張鉄道湘南フェイスの気動車。額からは長いタイフォンのラッパが飛び出しているその姿は目に焼き付いています。
 その炭都夕張の炭鉱従事者人口の需要で隆盛を極めていたのがこの小林酒造でした。
 小林酒造の創業は何と明治11年だそうで、江戸時代から続く酒蔵が普通にある内地と比べるとせいぜい140年程ではありますが、北海道でいまだに続いている酒蔵としてはもっとも古い日本清酒の前身柴田酒造店(明治5年)に続くものです。日露戦争直前の明治33年に栗山町に移転、以後順調に規模を拡大し、旺盛な炭鉱関係の需要に応えて来たようです。昭和18年の企業調整法によっても札幌市内の酒造メーカーなどと統合されず、逆に陸軍指定工場になって原料の確保が出来、単独の経営が可能だったとのこと。
 戦後、炭都夕張の凋落と人口減少により大幅に石高を減らしてゆくものの、いち早く道産酒造米に注目し、前蔵元と前社員杜氏の脇田征也氏(苫小牧工業高校OB)の二人三脚によって酒質を高め、本州産山田錦と協会9号に頼らず、道産米だけで鑑評会金賞を受賞するまでになったというのは画期的なことでした。以後道内酒造メーカーのほとんどが道内産酒造米を使用して高品質な酒を作出すること北海道全体の日本酒の評判を上げる結果になっています。また、この小林酒造はプライベートブランドが非常に多く、旅館やホテルの名前のラベルの酒があったかと思ったら北の錦だったり、各地の酒屋などの協同組合が自分の土地の水をわざわざ持ち込んで特別に仕込んでもらうような事に広く対応しているようです。
 この北の錦、株式会社小林酒造のめくら縞半纏は比較的に新しい昭和の末期頃のものだと思います。というのも背中の清酒王北の錦のロゴがベルベットのような起毛印刷になっており、これは今出来の化学繊維の酒屋半纏でもよく使われている印刷法だからです。半纏襟は○田株式会社小林酒造の染め抜きで、半纏襟裏にひょうたん型の記名部分の染め抜きがあり、おそらくは君が袖と同じ仙台の業者の半纏でしょう。

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August 26, 2019

半纏・登鶴(登鶴酒造:旭川市)

Photo_20190826133401  登鶴酒造は旭川にかつて存在した酒蔵の一つです。北海道内におけるシェアはかなりあったようで、広く北海道内に製品が出荷されていましたが、昭和61年に廃業し、商標は栗山の小林酒造に譲渡されました。うちの近所の酒屋さんの表にも未だに登鶴と北の錦の看板が掲げられています。登鶴の醸造元は旭川で米穀商・肥料商などを営んでいた京都出身の世木澤藤三郎が、大正7年に地元の瀬古太郎助の酒造場(明治37年創業)を買収した酒造会社で、おそらくは事業を継いだ長男の世木澤登の名前にちなんだのが登鶴ではないかと思います。
 軍都旭川の旺盛な日本酒需要に支えられ、隆盛を極めますが、戦前の石高総量規制、統制経済による原料米の制限などを経て昭和19年には北の誉の野口酒造を存続会社とした旭川酒類株式会社に戦時統合されてしまいます。戦後の昭和24年に旭川酒類から分離独立して登鶴酒造になりました。昭和40年頃には北の誉などと同様にTVのCMが頻繁に流れるほどだったのですが、アルコールの嗜好変化による日本酒離れには抗しがたく廃業となってしまった由。レンガの酒蔵は移築され確かお菓子の会社のお店になっているらしく、またレンガ造りの蔵のある世木澤家の本宅はいまだそのままの姿で残っているそうです。
 このめくら縞半纏もざっくりと分厚いもので、仙台青山染工場の「青山製」の染め抜きが半纏襟裏にあるものです。背模様はありません。
 ちなみに登鶴はその音読みで「とうかく」から選挙には欠かせなかった酒だそうです。現在では酒を振る舞うのは当然ダメとして、選挙事務所に陣中見舞いとして酒を送るのもはばかられるのかこういう酒の姿も減りました。 なお、商標を受け継いだ小林酒造では業務用、宴会用などの一合瓶に登鶴の名称を使用したものが作られています。よほどおめでたい酒名と認識されているのでしょうか。

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半纏・君が袖(君が袖酒造:網走市)

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 網走監獄のイメージか最果ての地の印象が強い網走市ですが、ここにも昔は漁業関係者などの旺盛な日本酒需要に支えられた酒蔵が存在しました。その酒名は「君が袖」です。万葉集にある額田王の確か天智天皇に対する相聞歌『茜さす紫野ゆき標野ゆき野守は見ずや君か袖振る」から命名された粋な酒名で電氣正宗などという世俗的な命名とは比べ物になりません。創業は昭和4年で廃業は昭和47年となっているようですが、平成7年頃から網走の酒店有志が網走の水をわざわざ新十津川の金滴酒造に送り委託醸造してもらった君が袖ブランドの日本酒が復活しています。ただ、滋賀に同じく「君が袖」の名の焼酎があるためか、ブランド名は「君が袖」を避けて「君が袖ふる」までがブランド名とされたような気もしますが、地元ではもちろん君が袖としか呼ばれていない由。
 このメクラ縞半纏はざっくりと分厚い昭和30年代くらいまで遡るもので、おそらくは仙台産らしいのですがどこの製品なのかわかりません。ただ、半纏襟裏に白くひょうたん型に染め抜きされた記名部分があるという特徴があり、他の半纏にもひょうたん型の染め抜きの存在するものが確認出来ます。なお、裏に背印などはありません。

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半纏・優等清酒福泉(水村酒造店:不明)

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 福泉というと都内のスーパーあたりに必ず置いてあった料理酒やみりん風調味料のイメージがあり、その線で探してみたのですが、この清酒福泉の水村酒造店に関しては何ら情報のかけらにも行き当たりませんでした。福泉というブランドは静岡県富士市の現福泉産業及び鳥取県東伯郡湯梨浜町の福羅酒造の二社が使用しているようですが、他にも旭川高砂酒造の前身である小檜山酒造が創業時に用いてた酒名の一つが福泉だったそうです。福泉というといかにも水に関しておめでたい名称なので、他にも多くの酒造店で使用された名称なのでしょうが、酒造店の数というのは明治の末から大正期の好景気時代に全国的にピークを迎え、いささか乱立ぎみだったところにまずは昭和の世界恐慌で体力のなかったところが破綻して数を減らし、さらに昭和10年代からの酒造組合の生産石高規制、さらに戦時統制経済の米の配給制減を経て昭和18年の企業整備令により統合や廃業で一気に数を減らしてしまったということです。
 この水村酒造店というのもそういう時代の流れの中で統合又は廃業してしまった酒造店だったのでしょうか?背印の優等清酒の文字が逆なのでおそらくは戦前の半纏なのかもしれません。
 福泉は全国的にあった酒名なのでしょうが、青森のおそらく津軽地方に「電氣正宗」という今にしてみればとんでもない酒名を出していた酒造店があったらしいです。明治の末期にはいままでランプ生活していた田舎が電気の開通で一気に文明開化が訪れたため、電気というと時代の最先端をいくハイカラな名前だったのでしょう。まあ、大都会浅草の神谷バーにも「電氣ブラン」なるものもありましたが。また大正末期にはやたらと「ラジオ」の付く名前が流行っていて、ラジオ湯という銭湯やラジオ劇場などという映画館が多数あったというお話です。
 岩手の喜久盛の「電氣菩薩」はマンガから命名されたっていうお話のようですが。

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August 25, 2019

半纏・六花酒造(青森県弘前市)

Photo_20190825141501 Photo_20190825141502  清酒じょっぱりで盛業中の弘前は六花酒造の酒蔵半纏には珍しいえんじ色の半纏です。
六花酒造は弘前を代表する3つの酒蔵である高嶋屋酒造(白藤)、白梅酒造(白梅)、川村酒造店(一洋)の3社が昭和47年に合併し、一番歴史が長かった高嶋屋酒造(1719年創業)の免許を活かし、他社が免許を返上することで出来上がった酒造会社です。六花酒造の六花は雪の結晶の意で当時の弘前市長の命名だったとか。
 この合併経緯というのはやはりアルコール嗜好の変化と大手酒造会社の製品台頭で地元市場が狭まるのを危惧した3社が経営強化のために合併したとのこと。弘前近辺の中小の酒蔵は最盛期には100軒を数えたそうですが、戦時統制での廃業で一気に数を減らし、さらに昭和40年代からの市場環境の変化でさらに淘汰され、現在弘前市内の酒蔵は10軒ということですが、人口比にして10軒の酒蔵はかなり多いという印象です。さらに4年程前に弘前市内の白神酒造が火災で消失し、廃業かと思われましたが六花酒造の一部を借りて仕込みを継続し、3年を経て新たに自社の酒蔵を建て直したといううれしいニュースもありました。
 この半纏も仙台青山染工場製で、おそらくは昭和の後期のものだと思われます。木綿をえんじに染め、半纏襟に六花酒造株式会社、裏に六花のロゴが染め抜きされています。


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半纏・松緑(斉藤酒造店:青森県弘前市)

Photo_20190825084902 Photo_20190825084901  この清酒松緑の半纏は山形の村山市の楯岡駅近くにあった松緑(現在六歌仙に統合)の蔵元半纏かと思って入手したのですが、実は青森県弘前市の明治37年創業の斉藤酒造が醸造する松緑の半纏でした。松緑という清酒は他にも白雪の小西酒造でも使用している名称ですが、おそらくは「めでためでたの若松様よ」にでもちなむようなおめでたい名称でなのでしょう。でもこちらの松緑は敷地内の樹齢300年にもなる老松にちなんでの命名だとのこと。
 この弘前斉藤酒造は今年(2019年)になってブランド名の松緑酒造に商号変更したとのこと。蔵元は代々斉藤仁左衛門という名前を襲名するらしく、現蔵元は十八代目で女性だそうです。酒造業に進出したのは明治37年ながら、それまでは長年にわたり日本酒作りには欠かせない酒母を近辺の酒蔵に出荷するのを生業としていたらしいです。それだけ蔵には優秀な酵母が住み着いていたのでしょう。
 半纏は昭和30年代あたりまで時代が遡るもので生地は黒。半纏襟にヤマニの屋号と株式会社斉藤酒造店、背に清酒松緑の印の染め抜きです。製造は仙台のほまれ屋でした。

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August 24, 2019

半纏・清酒阿櫻(阿櫻酒造:秋田県横手市)

Photo_20190824141402 Photo_20190824141401  秋田県の横手に現存する明治19年創業の阿櫻酒造の半纏です。
 名前の由来は地元横手城の別名である阿櫻城から取ったというもの。
 横手は米どころ秋田ということもあり、昔は中小の酒蔵が多数存在した場所でしたが、やはりアルコール類の嗜好変化による日本酒需要の減少から酒造場も淘汰され、現在の横手では自社で日本酒を醸造販売しているところは阿櫻酒造のほかに日の丸醸造、浅舞酒造、舞鶴酒造、備前酒造、新日の丸工場などを数えるだけです。この他にも他社ブランド、いわゆる桶買いメーカーも存在するかもしれません。
 この半纏は仙台青山染工場製で表に清酒阿櫻、裏に阿櫻のロゴが染め抜きで描かれた黒半纏です。おそらくは昭和40年代くらいの半纏でしょう。

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August 23, 2019

半纏・線路工手(箱根登山鉄道:小田原市)

Photo_20190823182601 Photo_20190823182602  この線路工手と半纏襟に染め抜きされた半纏は国鉄ではなく、おそらくは中京・近畿方面の私鉄で保線に使用された半纏だとの思い込みで、その正体解明でどつぼに入り込み、なんとそのマークがどこの鉄道会社か確証を得るのに10年も掛かってしまったものです。
 確か愛知から入手したということもあり、最初は名鉄に買収された小規模の電鉄会社を。つぎに近鉄に買収された小規模の電鉄会社の社章をしらみつぶしに探したのですがまったく手がかりがつかめず、さらに名鉄系以外の中京地区の廃止鉄道を当たったのですが、らちがあきませんでした。
 そこで学習したのは社名を図案化してレールマークで囲ったという鉄道の社章が多いということで、たとえば東武鉄道などの旧マークは東の図案化。西武鉄道の旧マークは西の字の図案化。京王帝都の旧マークは京の字の図案化です。そして今回半纏コレクションのアップにあたり、冷静にこの半纏の背に染め抜かれた社章を観察すると、何とカタカナの「ハコネ」の文字が浮かび上がり、これがヒントになって正体が判明しました。その鉄道会社は「箱根登山鉄道」です。
 私鉄史ハンドブックに現存私鉄の社章掲載されていたのに、ピント外れの検索をしていたのと掲載されているマークと半纏裏の社章の印象がまったく異なるため、気がつきませんでした。
 線路工手という職名からおそらくは戦前くらいまで時代が遡る作業系半纏です。平地と違い、高低差の激しい箱根登山鉄道の保線工事はさぞかし大変な職場環境だったと思われます。平地では桜が咲き始めているのに箱根の山ではまだ雪がちらつくということもあったでしょうし、戦前ということもあり、重い保線工事の道具を人力で引き上げながら日々事故がないように鉄路のメンテナンスを行うというのは並大抵なことではなかったと思われます。
 何せ標高のある場所での作業でしょうから気候的にも環境は厳しかったことを裏付けられるように、本来一重の半纏に手作りで子供用着物の端切れかなにかで裏地が施されています。生地自体も戦前の半纏に共通して紺の割と厚めの生地が使用されています。

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半纏・清酒万葉(万葉酒造:岩見沢市)

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 岩見沢市にかつて存在した万葉酒造の半纏です。清酒万葉はかつて幌内三笠方面や美唄方面の旺盛な炭鉱需要に支えられた酒造メーカーでしたが、相次ぐ炭鉱閉山で周辺人口も流出してしまい、またアルコールの嗜好変化や大手メーカーの日本酒流通等もあり、惜しくも昭和62年頃に廃業し、万葉の商標は栗山町の小林酒造に引き継がれました。今でも小林酒造が出荷する宴会用のとっくり型一合瓶などに清酒万葉の商標が使用されていますが、中身はまぎれもなく北の錦です。
 このめくら縞半纏は仙台の青山染工場製でメクラ縞半纏には珍しく背中にも万葉の商標と葵の葉のような染めが施されています。おそらくはこの半纏も岩見沢近辺の飲食店に配られたものなのでしょう。

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半纏・神威鶴(白方酒造:小樽市)

Photo_20190823120602 清酒神威鶴は小樽の奥沢にあった白方酒造が醸造していた日本酒の商標です。白方酒造は積丹半島の突端の余別というところで醸造を開始したのがそもそもの始まりで、大正5年に小樽の奥沢に移転しましたが、今でも余別には白方家本家筋の酒屋があるという話を聞いています。神威鶴の名前は積丹の神威岬から名付けられたそうで、余別という当時は余市から美国を経由してくる汽船でしか交通手段が無かった場所。こんな辺鄙なところで地産地消出来たわけですから、当時のニシン景気とそれに携わる出稼ぎのやん衆の数はいかほどのものがあったのでしょうか。
 日本酒需要の衰退により白方酒造は昭和58年に廃業しますが、健在でも小樽の奥沢に蔵の建物がそのまま残り、往事の様子を垣間見せてくれているそうです。神威鶴は現在、小樽の田中酒造が製造して小樽近辺と積丹方面で売られているそうです。
 神威鶴の半纏はめくら縞で常に良い酒神威鶴の染め抜きの半纏襟。裏文字はありません。おそらくはこれも問屋経由で飲食店に配られたものなのでしょう。

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半纏・清酒大雪山(北海道上川郡愛別町)

Photo_20190823120601  世の中には日本酒の酒造メーカーの半纏というのがよく残っており、紺や黒の色の濃い半纏のほかにめくら縞と呼ばれる細かい縦ストライプの半纏があります。蔵元に働く蔵人の労働着としてのものと、得意先の酒問屋経由で小売店や飲食店に配られるものがあり、こちらは一種の広告宣伝費として消費されたものなのでしょう。そのほかに帆前掛けと呼ばれる帆布の紺染め抜きの前掛けなどもあり、これも宣伝用として問屋経由で大量に配られたようです。
 今から50年程前までは宴会といえばまず日本酒で、重量物ゆえに地産地消の商品として地方の中小酒蔵のいわゆる地酒がまだまだ地元で流通消費され商売出来る環境だったのですが、昭和40年代も半ばを過ぎてアルコール消費の嗜好変化、輸送環境の改善で地元の中小酒蔵は大打撃を受け、日本酒の蔵元は一気に数を減らしました。今に残っている地方のメーカーは何かしら特徴を持ち、ある程度のリピーターを抱えているところばかりで、普通酒や日常酒に関しては大手の日本酒メーカー製品が全国津々浦々まで出回っている状況です。普通酒しか仕込んでいなかった地方酒蔵は大手の傘下に入り、桶買い専門として仕込んだ酒はタンクローリーで運び出されるか、大手の商標が付けられたいわゆるOEM生産、もしくは大手の看板が掲げられてしまうところもあるようです。
 この大雪山という名前の清酒は上川の愛別町に蔵を構えていた酒造メーカーでしたが昭和56年に廃業しています。旭川周辺の地域を商圏としていた小規模の酒蔵でした。それゆえに札幌以南の道南あたりで見かけた事はありません。
 愛別にまだ蔵の建物が残っているという話も聞きましたが、もう20年近く前に美瑛の有名な酒屋さんの倉庫でそのまま大雪山が未開封で発見されたというのが新聞に載ったことがあります。大雪山の名はお隣の上川町で40数年ぶりに日本酒酒造免許を獲得した蔵元が地元の酒造米を使用した清酒が上川大雪という名前で間接的に継承しています。蔵元は金滴酒造で日本酒鑑評会で金賞を受賞した程の杜氏なので、これからの発展が楽しみな酒蔵です。
 半纏はざっくりとした大きめのメクラ縞で半纏襟にはよいお酒大雪山の染め抜き文字があります。裏に染め文字その他はありません。問屋経由で飲食店向きに配った半纏でしょうか。

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August 22, 2019

半纏・中山炭鉱(山形県新庄市)

Photo_20190822182101 Photo_20190822182102  中山炭鉱というのは山形県新庄市鳥越(6坑)にあった日本最大の亜炭田、最上炭田の亜炭炭鉱です。Wikiの鉱山一覧に無責任にも最上炭田から遠く離れた山形県東村山郡中山町に存在したようなことが書かれていますが、まったくの誤りです。また中山炭鉱は複数の坑口を持ち、当初は最上炭田の中心地である舟形町鼠沢が当初の創業地らしいです。
 その最上炭田の中でも中山炭鉱はもっとも規模の大きい炭鉱で、その産出炭は古くは最上川の水運で、陸羽西線が開通してからは鉄道で酒田方面に送られ、醸造業などで使用するボイラーの燃料になったと言われています。たぬき掘りに近いほどんどは数人規模の亜炭炭鉱が多い中で中山炭鉱は戦後すぐに鉄製カッペや摩擦鉄柱などを導入した炭鉱でした。それというのも採掘場所は地下200mにも及び、近代設備導入が不可欠だったのでしょう。その終焉は定かではありません。というのも炭鉱の閉山は閉山交付金支給の関係でいつ閉山の届けが出たのかは昭和29年頃からすべて判明するのですが、亜炭山にはその適用がなかったからです。ある資料によるとこの最上炭田の中では中山炭鉱と郡一炭鉱の2鉱だけが規模を縮小しながらも昭和50年代まで残り、採掘した亜炭は燃料用としてでなく、主に土壌改良材としての需要だったとか。この中山炭鉱の名前は終戦で復員したのち山形で税務署員になった伯父がよく知っていて、山形の村山地方ではそこそこ名前が知れた炭鉱だったようです。
 その山形は最上炭田最大の亜炭鉱中山炭鉱の半纏ですが、通常のものよりやや長めの黒の木綿地の半纏です。背中に山に中の背印が入り、腰には入山型の模様が白抜きされています。山形の亜炭鉱も小規模の炭鉱が多かったためか、その存在を今に伝えるものもあまり残っていません。その中でこの中山炭鉱の半纏というのはかなりレアな資料です。
 

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半纏・磐城炭鉱(福島県いわき市)

Photo_20190822161901 Photo_20190822161902  磐城炭鉱は明治17年に実業家の渋沢栄一、浅野総一郎により磐城炭鉱社として創業されましたが、それというのも西南戦争によって筑豊炭が途絶えた苦い経験から東京により近い常磐炭田の開発が急がれたためということらしいです。その渋沢栄一と浅野総一郎らは安定的に常磐炭を東京に輸送するため、日本鉄道磐城線(現常磐線)の建設のも着手することになります。その常磐炭ですが九州や北海道の石炭にくらべて灰分が多くカロリーが低い褐炭がメインで、6000cal~7000calの九州北海道炭に比べると5000calそこそこの低品位炭です。そのため、コークスなどの製鉄用原料炭にはならず、もっぱら火力発電等の燃料炭として使用されて来たようです。その磐城炭鉱は戦時中の昭和19年に川崎財閥が主体だった入山採炭と合併して常磐炭鉱となり戦後の高度経済成長を支えて来ますが、坑内から発生する温泉水の高温には常に悩まされて来たようで、「石炭1トン掘るごとに温泉水が4トン湧き出る」などと言われる程だったようです。その常磐炭鉱も昭和60年の中郷炭鉱の閉山をもってその歴史に終止符を打ちました。
 その常磐炭鉱合併前の戦前磐城炭鉱の割と厚地の炭鉱半纏です。おそらくは実際に坑外作業用として使用されていたものではないでしょうか。背印は磐城炭鉱のマークで赤、腰には波型のグレーが入る割と凝った染色の半纏で生地は厚地木綿の紺染めです。

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半纏・渡辺炭鉱(仙台市)

Photo_20190822140001 Photo_20190822140002  渡辺炭鉱というのは仙台にあった八木山近辺の亜炭の採掘業者でその名前は当方の資料では内田老鶴社の日本の鉱山という資料に記されているのみです。
仙台の広瀬川沿い青葉山と八木山の間には炭化度の低い亜炭が存在するのは藩政時代から知られており、炭化度の特に低い埋もれ木は埋もれ木細工の素材として仙台特産工芸品として認知されてきました。亜炭の採掘が特に盛んになったのは戦後のことらしく、家庭用燃料不足を補うために盛んに採掘され、暖房や風呂の燃料として使用されたようですが、その採掘業者というのは大きくとも数人規模くらいのたぬき掘に近いような業態で、農閑期の秋冬だけ稼働するようなところも多かったという話です。その中には八木山地区から亜炭搬出用にトロッコ軌道まで作った業者もあったという話ですが。その仙台亜炭も仙台に整備された都市ガス網の普及により昭和35年あたりまで終息し、一部の業者により採掘が続けられたもののそれも昭和30年代末には終息したというお話。今ではどこにあるのかも把握出来ない旧坑道が陥落して家が傾いたとかそういうネガティブな話しか伝わってきません。
 その渡辺炭鉱の半纏ですが、仙台市の八木山近辺にお住まいの方から東日本大震災直後に入手したものです。どういう関わりがあるのかお尋ねしたのですが、なぜこの半纏が家にあるのかは御存知ありませんでした。それでも震災後長い間ガスが止まって風呂にも入れなかったときに作業の応援に入った北海道のガス会社の人が復旧に来てくれて本当にありがたかったというお話をお聞きしています。昔は地元の亜炭を燃やして風呂を沸かしていたのでしょうけどね。
 この半纏はおそらくは昭和30年代の仙台ほまれ屋のラベルがついた黒地半纏です。このほまれ屋の半纏も東北北海道ではよく見かける物ですが、おそらくは染工場ではなく呉服店のような業種だと考えています。生地は黒の割と目のつまっているもので背文字は○健。字が違いますが渡辺健さんだったのでしょうか?あとで調べた所仙台のほまれ屋は現在でも盛業中でした。昭和7年に江刺屋として染色業を開始したものの、のちに染色業と縫製業を分社化したりし、また早くからシルクスクリーン印刷などの新しい染色法の工場を仙台郊外の町に作ったりして時代を生き残り、現在も仙台であらゆる布染色製品に対応した会社を経営しているようです。ただし、染め抜きなどの伝統的な染色が絡むものはすべて外注だそうです。

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半纏・北海道炭鉱汽船

Photo_20190822133701 Photo_20190822133702  うちの半纏コレクションのうちでは一番古いとおぼしき北海道炭鉱汽船の半纏。
おそらくは明治の末から大正期に掛けて使用されたものでしょう。北海道炭鉱汽船は自身の炭鉱から採掘される石炭を室蘭港や小樽港に搬出するための鉄道網を持っていましたが、明治38年に国家買収され鉄道業から撤退し、おそらくはその後に配られたものではないかと思われます。当時は縫製なしで布として配られたようで、縫製はおそらくその家の奥さんの手縫い。炭鉱坑内では半纏などは着用しないため、会社幹部などを迎えるためやその他会社の行事式典のための晴れ着。もしくは北海道炭鉱汽船が所有していた石炭埠頭などで働く港湾作業員のための作業着だったのかもしれません。布に一部ダメージがありますが、北海道の炭鉱が盛んだった頃の炭鉱資料としても貴重です。
 昭和の仕事着の半纏と比べると非常に丈の長い長半纏になっています、生地は紺木綿地に赤の五芒星の北炭マークに腰文字はグレーで炭の字を模したもので、染めの色数などの行程を考えてもけっこう割高な半纏で流石は石炭需要と鉄道買収の保証金で潤っていた会社です。
 その北海道炭鉱汽船は鉄道買収の保証金を元手に室蘭に英国鉄鋼メーカー2社と共同出資で製鋼所を建設するもののその資金がかさみ、製鋼所は後に三井財閥に取得されてしまうことになります。


  

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半纏・仙台の染工場から生まれた北の仕事着

1_20190822132601 2  企業や商店で昔、ユニフォームとして使用されていた半纏。これは明治の末に染色技術の新たな技術革新により急速に普及し、以前はバラバラなスタイルで勤務していた労働者がどの集団に所属するのかということを明らかにしたという効果がありました。とくに土木建設関係の業種ではいろいろな下請けが労働力を提供しており、どこの下請けがどれだけ現場にきているかということもわかりますし、元請け下請けの人別も半纏の文字や印だけでわかる事になりました。一種のアイデンティフィケーションの役目を果たしており、変な話ですが現場で事故で死んだ人間がどこから派遣されてきたかというのもすぐに判別が付くことになります。
 また、酒蔵の蔵人などの杜氏に引き連れられて季節労働に入った農民などは、仕込みに入った酒蔵の半纏を身につけることにより一体感が高まり派遣先の帰属意識を高め、誇りを持って仕事をさせるいう効果もあるのでしょう。
 この企業や商店ものの印半纏ですが、東北北海道ではそのほとんどが仙台で作られていたということを知る人はどれくらいいるのでしょうか?
仙台は伊達政宗の時代から機業と染色業がさかんに行われていて、有名な仙台平の袴生地や木綿の藍染めは江戸時代から盛んに行われてきたようです。
染色業に関しては、藩政によりすべて若林区の南染師町というところに集められ、七郷堀という川で水洗いをする風景というのが戦後まで見られていたようです。
この染色業は明治の末に常盤紺型という新たな染色法により染めの輪郭が非常にくっきりとした染め物が出来上がったことにより印半纏、帆前掛、手拭などの生産が流星を極め、その中でも最大の工場が青山染工場でした。青山染工場の青山惣吉は明治16年の生まれで江戸時代からの歴史があるものの衰退しかけた家業を常盤紺型の染色技法を用いた印半纏や帆前掛を北海道から樺太というフロンティアに売り歩き、明治末期から大正期に掛けては仙台では比べるものの無い大染色工場を築きました。
 特に北海道、樺太では港湾荷役業や鉄道建設業に携わる会社からの大量発注をうけ、早くも明治40年頃には北関東から樺太までのシェアを獲得していたようです。
 その青山染工場も不動産、金融業にまで手を広げていたのが昭和始めの世界恐慌で打撃を受け、当主の青山惣吉を昭和7年に失ったことなどもあり、以前のような勢いは無くなったものの、その後も長く昭和40年代前半くらいまで印半纏は帆前掛などを生産していたものの、その後にやってくる作業服の変化、化学繊維の普及によるシルクスクリーン印刷の台頭などにより染色業からは撤退し、会社は残っていたものの平成22年に破産宣告を申請して廃業してしまいました。
 現在でも半纏の襟裏に○定、青山製の染め抜きが残る酒屋半纏などは多く残っています。

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July 28, 2019

ウルフ揮発油安全燈整備風景

Photo_20190728122301 Photo_20190728122302  明治末から大正に掛けての時代にはよく炭鉱や鉱山が写真館を手配して事業所のあれこれを撮影させ、それを何枚組かの絵はがきにしたものが多く残っています。ちょうど初期のオフセット印刷が普及してきたこともあり、写真印刷が簡単になった時代背景もありますが、この組み物の絵はがきは今で言う所の一種の会社案内のパンフレットみたいなものでしょう。その多くは鉱山の機械設備や運搬設備を始め、採掘現場や福利厚生施設なども網羅しているものがあり、これが郵便物として世の中に出回る事により会社のイメージアップはおろか、就職先としての宣伝効果も意図していたのかもしれません。
 その炭鉱鉱山の企業ものの絵はがきの中でも当方が注目しているのは炭鉱用安全燈の整備風景に関するもの。一枚はけっこう数が出回っている北海道炭鉱汽船の夕張一坑の安全燈室におけるウルフ揮発油安全燈の整備風景と称するものの一枚です。この安全燈室では3カット分の絵はがきが存在していて、その中でもこちらは奥の方の整備卓から給油卓側を望む様子。時代は大正中期から末期のようで、夥しく並んでいるウルフ安全燈はすべてボンネットスリットが4列の本多製鎧型ウルフ揮発油安全燈です。ガス検定用としてではなく明かりとして坑内で使用していた時代のウルフ燈のため、ゴム球を接続するシャッター式吸気リングの付く後のガス検定燈タイプのウルフ燈とは異なります。
 もう一枚は他ではまったく見た事が無かった北海道炭鉱汽船の幌内炭鉱安全燈室のウルフ揮発油安全燈整備の様子で、作業台の左右に取り付けられているのがベンチマグネットという大型の馬蹄形磁石です。これに磁気ロック部分を押し当てて油壷を解錠するのですが、こちらのウルフ安全燈もボンネットスリット4列の本多製鎧型ウルフ揮発油安全燈です。
 夕張一坑安全燈室の原版がカメラのあおりを駆使して手前から奥まできっちりピントが来ているのに対して、幌内炭鉱安全燈室の原版はレンズの性能もあるのか窓側からの光線でややハロを引いて描写も甘くなっています。ただ、この幌内炭鉱安全燈室の絵はがきは他に見た事が無く、あとどういうカットが存在していたのかも不明です。
 ちなみに夕張炭鉱にエジソン型蓄電池安全燈が導入されたのは大正9年末から10年にかけてで、その後逐次明かりとしてのウルフ揮発油安全灯は姿を消して行きます。

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June 25, 2019

米国ウルフ揮発油安全灯(ガス検定用)

 

Amewolf1 Amewolf2 Amewolf3   アメリカ国内で使用されたウルフ揮発油安全灯のうちでもメタンガス簡易検定用に特化したタイプのバリアントです。こちらのウルフ揮発油安全灯の中でも第一次大戦以前にドイツ国内で製造されてアメリカ国内に輸入されていたものです。というのも第一次大戦までは特許の関係もありすべてのウルフ安全灯はドイツ国内で製造されたものがアメリカに輸入され、WOLF SAFETY LAMP OF AMERICA INC.のオーバルタイプの銘板が油壷に張られた状態で販売されていました。この時代のWOLF AMERICAの所在地はニューヨークですが、第一次大戦中は当然の事ウルフ安全灯の輸入は途絶えます。このときにMade in U.S.A.の揮発油安全灯としてアメリカの安全灯市場に登場したのがKOEHLER(ケーラー)揮発油安全灯です。おりしも1915年にアメリカ鉱山監督局(UNITED STATES BUREAU OF MINE)の保安規則が変わり、形式認定を出した安全灯しか坑道内で使用出来なくなり、当時第一次大戦で敵国ドイツのウルフ安全灯はアメリカで形式認定を取る事も製品を輸出することも出来なかったこともあり、市場でのケーラー安全灯の台頭を許すことになります。実際にウルフ安全灯がアメリカ鉱山監督局の形式認定を得たのが鉱山保安規則改正から5年後の1920年ということで、この時点で敗戦国ドイツでは未曾有の敗戦後インフレで部材の調達もままならず、このときからアメリカ国内でウルフ安全灯を製造することになり、本社もニューヨークからお隣のブルックリンに移転し、油壷に張られた銘板にも本社がブルックリンの住所に変わりました。この時までにアメリカ石炭鉱業監督局に形式認定を受けた安全灯を生産するメーカーはケーラー、英国アイクロイド&ベストとウルフの3社だけでその後50年間にわたり安全灯で新規の形式認定を取得したメーカーは無いそうです。ケーラー安全灯は構造的にはまったくのウルフ安全灯のコピーですが、その時点でウルフ安全灯の主要システムはすべてパテントが切れていたために合法でした。もしも第一次大戦の空白期がなければアメリカの炭鉱におけるケーラー安全灯はそれほどウルフ安全灯の牙城を崩す存在にはならなかったのでしょう。
参考までに鉱山監督局の形式認定番号と取得年月日は第一号のKOEHLERの最初のブラス製揮発油安全灯がU.S.B.M.No.201で1915年8月21日の取得。第二号が英国ACKROID & BESTのヘイルウッド電気着火式石油安全灯でNO.202を1917年1月8日で取得。第三号がKOEHLERのアルミタイプ揮発油安全灯でNo.203を1919年2月7日に取得。そしてウルフ揮発油安全灯は第四号のNo.204で1921年7月18日の取得ですからケーラーに遅れる事、実に6年も経過していました。

 このメタンガス検知に特化したウルフ安全灯はこれもすでに入手から2年程経過したものです。うちの記念すべき第一号ウルフ安全灯と同じくオーバルタイプのWOLF SAFETY LAMP OF AMERICA INC.,NEW YORK U.S.Aの銘板があるものですが、構造がやや異なり、以前のものはトップがスチールなのにこちらは真鍮製です。またメタンガスを筒内に導くためのカップリングニップルが油壷から飛び出しています。このニップルには逆止弁が内蔵されているみたいで、ここにスクリュータイプの金具を介したゴム球付きホースを接続し、坑道の天井付近に溜まりやすいメタンガスを筒内に導入し、基準炎がどれだけ伸延するかを腰硝子に書き込まれた金線目盛により高さを測定し、おおよそのメタンガス濃度を測定するという代物です。また炎の高さを明瞭に確認するためのオプションのミラーを取り付けるマウントが下ガードピラーリングにあり、ロックシステムは以前から所持していたアメリカンウルフ同様にスクリューボルトロックです。また通常のウルフ安全灯が油壷上部のメッシュスリットを通して吸気するのに対し、こちらはガス検定専用になっているため油壷からの吸気をなくし、通常はマルソータイプと同じく上部ガーゼメッシュからの吸気で小さな基準炎を作り、そこにゴム球のポンプを繋いだカップラーを通して油壷下部から外気を導入するという仕組みに変わっています。そのため照明器具として使用されたことはなく、もっぱらメタンガス簡易測定のためのウルフ灯なので、激しく使用された打痕や大きな傷もまったくありませんでした。
 入手は埼玉の川口からだったような気がしますが、その日本国内への来歴は不明です。しかし、日本の炭鉱では使われた形跡がないので、おそらくはアメリカからの雑貨品に混じって日本にやってきたのではないでしょうか。

 

 

 

 

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June 21, 2019

英国WOLF TYPE FS 安全灯(GPO LAMP)

Wolf_fs1 Wolf_fs3  Wolf_fs4 イギリスは中部のサウスヨークシャーのシェフィールドで現在も盛業中のウルフセフティーランプカンパニーによって製造された普通型ボンネットのマルソー型安全灯です。この安全灯も2年ほど前に入手したのですが、G.P.O.1963の銘板に惑わされてしばらくその正体を探るのを放棄して放り出していました。というのもG.P.Oというのは英国のGENERAL POST OFFICEのことで、日本で言うとさしずめ日本郵便というよりも昔の逓信省あたりに近い組織の気がします。その歴史はさすがに英国だけのことはあり1652年ですから江戸時代の初期だとのこと。日本ではそれから220年も経過しないと郵便制度も確立しなかったのですからさすがに社会のインフラの構築が早かった英国は違います。そのGPOがなぜ炭鉱でも殆ど使われなくなっていた安全灯を必要としたのか、その答えがなかなか見つからなかったのです。さすがに日本の旧国鉄のように炭鉱を経営したとはどうしても思えず、まさが郵便配達に安全灯を持たせたわけでもないでしょうし、その納得出来る答えが見つからずに苦労したのです。
 それから2年余り経って見つけた答えはこの安全灯はGPOが通信設備のある地下下水道などで通信ケーブルの敷設・点検のために作らせたものとの事。このWolf Type FSはGPOの依頼のもとに1957年から1958年にWilliam Norman Bishopという人によって設計された10-20点のサンプルのうち、実際に採用されたF型をさらに改良したもので、1962年から実に1988年までの長きに渡り年間1500-2000個作られたとのことです。納入価格は£20だったようです。
GPOだから郵便事業ばかりかと思ったら戦前までの日本のように電信電話はおろか放送事業まで統括していた組織のようです。そのため、古くは電信用のケーブル、後には電話用のケーブル布設・点検などの業務のために安全灯がある程度の数量が必要だったようで、戦前はPattersonやThomas Wiliamsなどの炭鉱用安全灯もそのままGPOの銘板を付けられて使用されていたようです。国防上の観点からかなり早い時期に通信インフラの地下化が行われていたのでしょうか?
 なぜ地下工事に安全灯が必要だったかというと下水道はメタンガスのリスクがあったかどうかは知りませんが、地下道は酸欠という問題が大きかったようで、安全灯の炎の勢いが急に小さくなったら急いでその場を離れるという配慮が必要だったからでしょう。同様にアメリカのケーラー安全灯も地下工事用途のために近年まで新品で購入出来たみたいです。
 製造元の英国ウルフセフティーランプカンパニーはドイツフリードマン・ウルフ商会の代理店を1912年に引き継いだWilliam Mauriceが設立した会社で、当初パラフィンマッチ式の再着火装置が英国の鉱山保安基準を満たさないため使用できず、さらに油灯がメインで揮発油灯がなかなかそれに取って代わることが出来なかった英国で当初は英国の保安基準に合致する普通型のウルフ揮発油安全灯を製造発売していたものの、William Mauriceがそもそもは電気系の技師だったため、おそらく当初から揮発油安全灯ビジネスにはあまり乗り気ではなく、これからの主流になるであろう蓄電池式の防爆安全灯やキャップランプのほうにビジネスの主軸を移した事で、今でもWolf Safety Lampを名乗る唯一の会社として残っている訳です。
 皮肉な事にもその電気安全灯の英国ウルフが1960年代から80年代まで製造した安全灯ですが、その当時炭鉱用安全灯を新たに作れるメーカーが残っていなかったのでしょうか?このWolf Type FSは揮発油ではなく灯油を使用する油灯式のマルソータイプの安全灯です。油灯ながら油壷に中綿が充填されており、油壷底のつまみで棒芯を繰り出すタイプの安全灯で当然の事ながら再着火装置はありません。一見マグネチックロックの出っ張りがあるのですが、ロックシステムはありません。さすがはレプリカではなく本物の安全灯らしくボンネットは分厚いスチール板で油壷もウルフ灯らしくスチールの外皮を被った真鍮製でかなりずしりと重みのある安全灯です。
 この個体はG.P.O.1963の銘板のあるType FSとしては初期の生産に属します。日本でいうと昭和30年代末から平成に時代が変わる前年まで作られていた安全灯で、その用途からしてもさほどダメージの少ないものが意外に沢山残っているようです。実際に炭鉱で使用されたものではなく、歴史も浅いためか有り難みは薄いのですが、それでも日本では見かけない珍しい安全灯です。
 入手先はすっかり忘れてしまいましたが最近多い匿名配送だったからでしょうか?そのため、日本に入って来た経緯も不明です。

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June 18, 2019

J.H.NAYLOR 双芯安全灯(炭鉱用カンテラ)

   Naylorwigan1 Naylorwigan2 Naylorwigan3    イギリスの炭鉱地帯マンチェスターに隣接する現在のグレーターマンチェスター州ウィガンという炭鉱町に存在したJ.H.Naylorにより作られた安全灯です。この会社の創業その他の詳しいことはよくわかりませんでしたが、おそらくは1800年代後半から1960年くらいまで存続した金属加工メーカーのようで、真鍮加工品(ブラスウェア)がメインの会社だったようです。創業時はJames Henry Naylorという人の個人商店のような形でスタートし、後に会社組織になったときにはおそらくは炭鉱用で使用される砲金のボイラーマウント、各種バルブなどを生産していたようです。技術的には取立てて目を見張るような革新的な発明はないものの、唯一1930年代に入ってからのSPIRALARMという一種のガス警報ランプのような安全灯を製作しており、このランプはメタンガスで筒内爆 発を起こすとスイッチが入って底の赤いランプが点灯しメタンガスの危険を警報するというもののようです。他にはこのメーカーは棒芯の数を双芯はおろか3芯にまで増やしたランプを製作していたことが特筆され、高輝度ではあるもののメタンガスに対するリスクがどうなのかというのも心配な安全灯ですが、通常の製品は平芯スチールボンネットのオーソドックスなマルソータイプの油灯式安全灯でした。

 このウィガンという町は2001年の人口が81,000人余りの決して大きくない町ですが、往年のプロレスマニアには有名なビリー・ライレージムがあった場所だということを今回初めて知りました。通称スネークピット(蛇の穴)として力自慢の炭坑夫たちに盛んだったランカシャースタイルレスリングを伝えた名門ジムで、「プロレスの神様」カール・ゴッチや「人間風車」ビル・ロビンソンなどが門下生として知られています。タイガーマスクの虎の穴はここから名前を拝借したものですが、ルール無用の悪の覆面レスラーを養成しファイトマネーから上納金を搾取するという秘密組織ではなく、あくまでも真剣勝負のストロングスタイルのレスリングジムで倒されても蛇のように攻撃し続けるファイトスタイルからスネークピットとして一世風靡した名門ジムでした。安全灯のほうに話が戻りますが、このJ.H.Naylorの安全灯は油壷などにNaylor Wiganと刻印が打たれているのが普通で、そのためにNaylor Wiganというのが社名というか安全灯の商品名で、Wiganというのが所在地だということは今回調べてみて初めて知りました。1800年代末までは普通のマルソータイプの石油安全灯を製作していたようですが、1900年代初期からか油壷の底ネジで炎の長さを調整するタイプのマルソー灯を製作したようです。今回の双芯安全灯もその時代の構造と同じものですが、炎の調整というのが芯を繰り出すのではなく、何と芯の外筒の長さを変えることで結果的に芯の頭の出かたを調整し、それにより炎の高さを調整するというものです。その外筒に該当するのが底ネジに連結したシャフト先端に装着されたギアとかみ合う内側にネジが刻まれたギアで、このギアが芯のガイドステムに刻まれたネジ山を上下することで芯の頭の出を調整するというシロモノです。なんとも発想の転換が奇想天外で、このバーナー形式を何というかは調べがつきませんでしたが、芯のほうを繰り出さずにギアが芯のガイドステムを上下することで炎を調整するという事を知って何か狐につままれたような気がしました。このギア式のバーナーは芯のほうが焼けて短くなった際にはニードルか何かで芯を引き上げてやる必要があり、それを非合理だと考えたのか、後のNaylor Wiganの安全灯は芯を保持するリテーナーをギアで繰り出す方式に変わったようです。双芯ともなるとさすがに単芯の安全灯よりも灯油の消費は激しく、使用時間10時間以上を想定したのか揮発油安全灯のような大きな油壷がついており、揮発油安全灯は中が綿が充填されているのに対しこちらは中は空洞と思いきや中綿が充填されている気配があります。というのも油壷の注油リッドの中に金網のストレーナーがあり中身が確認出来ないからなのですが、確か英国では鉱山保安法でパラフィンマッチ式再着火装置のある揮発油安全灯が持ち込めなかったような話を聞いたため揮発油安全灯が普及せず、当然灯油使用かと思ったのですが、もしかしたら揮発油兼用ということもあるかもしれません。ボンネットとトップは銀色の地肌が出ており、黒のエナメルを失って鉄の地肌が出ているのかと思っていたら、こちらは双方共にアルミ板で出来ていました。なぜかこの銀色ボンネットのNaylor安全灯にロックシステムがないものが多く、こちらも例外ではなかったために不思議に思っていたのですが、どうやら坑道内の測量などの用途で一般坑員ではないちゃんと安全教育も受けた職員の技師にのみ使用されたため、ロックシステムが不要ということだったのでしょう。日本の本多式ウルフ検定灯でも最初からロックシステムがないものもよく見かけます。アルミの安全灯は坑内測量の際の磁気コンパスに影響を与えないために、一般坑員用には鉄のボンネットでなければ強度的に検定が通らないイギリスでは坑内測量用の特殊用途としてよく作られましたが、当時の日本ではアルミの生産も加工技術も伴わなかったのとキャップランプがすぐに普及したため、まったく見られない安全灯です。 この個体はもうかなり以前に兵庫県の神戸に隣接する町から入手したもので、つり下げるためのフックが欠品でした。どうも神戸港に入港した外国船の備品かなにかのようです。よく歴史ある国際貿易港の町からは外国製の安全灯が出て来ることがあり、当方もそのような外国製安全灯を入手しています。正規には日本にまったく輸入されなかった安全灯のため、そうでもなければ日本でお目にかかる安全灯ではありません。どこかの船の不良セーラーがわずかな飲み代欲しさに船から持ち出したものだったのでしょう。

 この個体はフックが欠品でバーナー部品の芯押さえも欠品だと思われていたため、今まで3年程非常に冷遇されていた安全灯で、何と2階の猫トイレの脇に置かれ、長い間猫どもがトイレに入ったのちにこの安全灯のトップで前足についた砂を掻き落としていました(笑)
 しばらく行方不明だったガストーチバーナーが見つかり、小柳式安全灯のガートピラーを作った真鍮の丸棒を炙って加工し、釣り下げフックを自作することになり、改めていろいろ調べてみるとなかなか興味のある事実が発見され、さらに部品が欠品だと思われていたバーナーがこれで完全品とわかり、加えてボンネットとトップもアルミ製と判明して一気に興味を引かれる安全灯に変身したのです。

短くなった芯がガイドステムの中で石のように固まっていましたので、ドリルを通して除去。長いピンポンチを通してみると、やはり油壷には固まった中綿のようなものの感触があり、中空ではありませんでした。そうなると限りなく揮発油灯の構造という気もしますが、これに関する燃料の記述がパラフィンという以外の記述は見つからず、油灯にしてもなぜ中綿があるのか不思議です。最新のグラスファイバーを芯にした棒芯を入れてみましたが、油壷の中綿が邪魔でそう長い長さの芯は入ってくれません。燃料のリッドは横にスライドする蓋で、揮発油安全灯のようなねじで密閉する蓋と比べると気密性が劣るので、やはりパラフィン(灯油)仕様の安全灯なのでしょうか?また、一時期英国では盛んに高輝度安全灯が盛んに工夫されて製造されましたが、芯を単純に増やして行ったのが単に高輝度を得るためだけであたのかも何らかの記述には行き当たりませんでした。マルソータイプの空気の流通からすると、単純に芯の数を増やして行ってもその燃焼に見合うだけの空気の流入量を増やさなければならないと思うのですが?

 

 

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April 06, 2019

JARDスプリアス確認保証シール

Dvc00643  古い無線機でしか運用してない我が貧乏無線局では平成34年11月30日以降実施される新スプリアスに対応しない無線設備の暫定使用期限終了問題はかなり深刻な問題で、一時は無線設備の入換を検討するくらいでした。しかしこれはどのアマチュア局でも同様な問題だったようで、結局はJARDがかなりの台数をサンプリング調査し、その結果を以て総務省とスプリアス認定保証制度設定の交渉を行った結果、現在総合通信局に許可を得て運用中の無線設備に関してはJARDのスプリアス確認保証機種に限ってJARDから保証認定を受けることにより平成34年11月30日を超えても再免許が取得可能という制度が出来上がってまもなく3年近く経ちます。
 当初我が家の無線設備は固定局がアナログの真空管無線機しかなく、このままでは固定局廃局もやむなしという事態だったのですが、JARDのスプリアス確認保証制度の対象機種が発表されてからちょうど一年後に固定局開局時から使用してきたFT-101ZDが対象機種になったことがきっかけで固定局も延命可能になりました。
 その後スプリアス確認保証機種入りしたTS-830SとTS-520Sおよび手持ちだったものの追加申請を出していなかったFT-101EをTSS経由で追加変更申請していました。
 そして昨年2月に固定局分としてFT-101ZD,TS-830S,TS-520Sのスプリアス認定保証を申請。その後6月30日で期限を迎える固定局の再免許申請をネット経由で申請したところ、FT-101Eまでなんら特記事項が付かずに再免許が降りてしまいました。どうもTSS経由で申請するとスプリアスが規定値に収まっていることを前提に保証認定されるため、スプリアス確認保証を受けずとも再免許されるというのは本当だったようで、そうなると固定局もTSS経由で追加したTS-830SとTS-520S分のスプリアス確認保証料は無駄な出費だったということになります。
 とりあえず固定局は昨年中に平成34年問題はクリアしたのですが、問題は移動局です。移動局はジャンクのハンディー機などを修理調整したものなども含めて全部で第17無線機までの大所帯。そのうち第9から第17無線機までは再免許を見越して平成28年の8月12日にJARDで保証認定をうけて追加申請および再免許を受けたものなのですが、どうやらスプリアス確認保証制度発効後の平成28年9月だったか10月以降にJARDで保証認定を受けて追加した無線機であればスプリアス確認保証の申請は不要だったというお話です。何せ免許の期限が迫っていたためにやむを得ない処置でしたが、そのためすべての無線機のスプリアス確認保証を受けなければ次回の再免許取得時に「これらの無線機は令和4年11月30日を超えて使用できません」との特記事項が付いてしまいます。
 免許の期限までまと2年半あるのですが、JARDのスプリアス認定保証制度のJARL会員割引がそろそろ終了するとの噂を聞きつけて2台分とはいえ台数が多いとその割引もバカにならないので固定局から1年経ってようやく移動局16台分の保証料(基本保証料込でJARL会員割引2台)15500円を送金して申請書とJARL会員書コピーを添えて送金すると2週間半ほどでスプリアス確認保証の通知書が届きました。
 なぜに16台かというと第3無線機のIC-290が数少ない認定機種落ちだったからです。昨年と異なるのはJARDのスプリアス確認保証設備を証明する金色のシールが発行されるようになったことで、このシールは貼るのも貼らないのも任意で法的な拘束力のあった総務省の旧無線局免許証票とは異なります。ただし、シールの他人への譲渡などは禁止され、さらに無線機を廃棄したり他人に譲り渡すときは剥がさないといけないそうです。
 いちおう「私をスキーに連れてって」で一世風靡したicomのIC-μ2に貼ってみました。こんな古いハンディー機でも使う使わないに係わらずちゃんと追加機種1000円払ってスプリアス確認保証を受ければずっと再免許を受けることが出来ますが、怠ればやがて単なるゴミと化してしまいます。
 でもまあ、JARDシールと無線局免許証票が並んで貼られると「正しく免許取得して運用してますよ」感が強くなり、いかにもお上に使わせていただいている無線設備(当たり前ですが)という風情が(笑)

 ちなみに最近知ったのですが昨年にさらにスプリアス確認保証認定機種が追加になったようで、6mモノバンドリグの名機FT-625やTS-660も確認保証認定機種入りしたようです。6m専門にやっている人ならこれら2機種はアナログ機とはいえ外しがたいものがあったのか、いろいろと確認保証機種入りさせる努力が一部の6mマンたちの中からあったのかなあという感じがしました。まあ、うちの貧乏無線局ではあとからIC-551が確認保証リスト入りしただけで万々歳だったのですが。

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April 05, 2019

Kenko 8x30mm7.5°Z型双眼鏡(Orient Co.)

  Dvc00639Dvc00641このKenko 8x30mm7.5度のZタイプの双眼鏡はいつ購入したのかもまったく記憶がありません。当時のKenkoのことですからどこかのメーカーにOEM製造させたものには違いないのですがそこに打たれたメーカーコードは組立メーカーがJ-B277でダイキャストがJ-B22となっています。JーB277のメーカーコードはかなりの末番で一覧によるとオリエントという表記しかわからず、これはおそらく双眼鏡輸出を手がけていた昭和23年創立のオリエント商事だと思われますが、オリエンタル貿易J-B138というメーカーコードもあり、こちらとの関連性もよくわかりません。ただ昭和23年創業のオリエント商事は現在では金属建材などの輸入製造卸売りの商社として盛業中です。おそらくはオリエント商事のOEM元が資金的にオリエント商事に組み入れられ、そこからKenkoにOEMで製品が出回ったということなのでしょうか。JBナンバーもJEナンバーも揃っているところから昭和44年以前の双眼鏡かと思いきや、対物レンズセルにはエキセンリングがあるものの、プリズムはそれぞれ弾性の接着剤で止められ、鏡体からイモネジで視軸調整するという方式のおそらくは昭和40年代後半から50年代初期に掛けての製造のようです。モノコートながらプリズムを含めてフルコーティングの双眼鏡です。またやや艶が気になるものの鏡体内部は丁寧に黒塗りされており、それがコントラスト上昇につながっているようです。見え方は視野の周囲がやや収差が気になるものの中心部は解像力もよくきわめてシャープな見え方をする双眼鏡です。同じKenkoのOEMでもJ-B114の新井光学の比ではありません。新井光学の製品よりももっと見え方が良い双眼鏡で、見た目だけではJBナンバーがなければ鎌倉光機のOEMだといっても通用するかもしれませんが、特に画像に何か立体感を感じさせるのが岡谷光学のVistaを連想させる双眼鏡でなかなか良いレベルの双眼鏡だと思います。しかし、スタンダードな視野の双眼鏡にしては周囲の収差がやや目立つことと、中心部は良いものの周囲に行くに従い解像力がやや物足りないのが欠点で、この視角の双眼鏡であれば全視野均一な画質であってもおかしくはないはずでしょう。それが所詮パーツ外注で組立だけ行う双眼鏡組立調整業のメーカーの製品の限界点でしょうか。

 

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February 12, 2019

ワイズ複素数計算尺 Whythe Comlex Slide Rule

Dvc00503  Whythe Complex SlideRuleという複素数に特化した計算尺です。イギリス表記なのでおそらく日本語読みではワイズ複素数計算尺でしょうか。
複素数というと交流や高周波の電力などのべクトル計算のために必須で、iではなくjという虚数記号を使用しますが、当方も1級アマチュア無線技師や通信士試験受験のために改めて勉強し始めたものの、結局は試験問題に複素数が絡む問題に遭遇しないうちにすっかり電気工学系計算にも疎くなってしまいました。
 そんな電気工学系必至な複素数計算ですが、それを計算尺にしようという試みはいろいろあるものの、このWhythe Complex SlideRuleは商品化された数少ない複素数専用計算尺の一つです。
 見かけはフラー円筒計算尺そのものですが、構造的には円筒状のチャートがこの範囲内で上下するだけという構造。製造はフラー円筒計算尺と同じW.F.スタンレー社です。
Dvc00502 この複素数計算尺はD.J.WhytheがイギリスBBCのために設計し、W.F.スタンレー社が商品化したもので、1961年の発売ですから日本で言うと昭和36年ということになります。そして1969年まで作られていたというか商品として残っていたようですが、果たしてどれくらいの数が製造されたのかはわかりませんでした。
フラー円筒計算尺が80年で14,000本しか作らなかったのを考えると、この特殊な計算尺は歴史も新しいということもあり、極めて少数しか作られなかったのでしょう。
 マホガニーのケースに入れられているというスタイルはフラー円筒計算尺とまったく変わりませんが、驚いたことにこの複素数計算尺は構造は木製ではなくベークライトのような樹脂製に変わっています。おそらくは生産性を上げるための工夫だったのでしょうか?
発売当時の価格は210ポンドだそうですが、現在の貨幣価値にするとおおよそ500ドル相当だそうです。さすがに竹製計算尺の比ではありません。
 日本では個人的にパソコンでチャートを印刷し、それを使用して複素数計算尺を作るという試みはされていますが、さすがにこのワイズ複素数計算尺のように商品化されたという話は聞いておらず、またワイズ複素数計算尺自体発売が新しいためか、その存在も日本では知られておらず、大学の研究室にフラー円筒計算尺はあってもワイズ複素数計算尺の姿は見たことがありません。
Dvc00501 シリアルナンバーは6289で昭和37年製の89番、実はKT-3326という備品番号がエングレーブしてあり、ここでピンと来たのが相当以前に厚木在住の無線の大OMさんから譲っていただいた米軍落ちのHEMMI No.266電子用計算尺。このブリッジには備品番号KTA-12939がエングレーブしてありました。その番号の類似性からするとおそらくは米軍の同じ部署(通信隊?)あたりで使われた備品が民間に流れたものだったのでしょう。出た場所も相模原との境界線に近い町田市の北部ですし、前出のNo.266と同じく座間か厚木もしくは立川基地あたりとの関連が疑われます。
 さすがは米軍で日本の貧乏な研究機関にもないようなものが備品がごろごろ転がっていたのでしょう。昔、今から40年前というとベトナム戦争で多用された払い下げの電子パーツや計測器がまだまだアメジャンとして大量に出回っていて、16号線沿線には専門の店もあったものですが、今やそれも昔話になりました。16号線沿線にアメジャンが多かったのは横浜線矢部駅近くに米軍のデポがあって、大抵のサープラスはここで扱われていたのに理由があります。
 米軍落ちということもあるのでしょうがマホガニー製のケースに斜め45°に立てるための真鍮の棒と取り説が欠品でした。それでもこの時代に製造されたフラー円筒計算尺同様に金属のスタンドは鏝状ではなく単なる曲がった棒なので、自作は出来そうです。

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January 31, 2019

星円盤計算器(STAR SLIDING DISK)No.120

Dvc00466 星円盤計算器(STAR SLIDING DISK)というのは昭和30年代に発売された円形計算尺らしく、数は少ないのにオークション上にとんでもない値段で出品されているものがいつもあるためか、あまり有り難みが感じられない計算尺です。とはいえ、ここ15年程でおそらく15点未満しか出品されていないため、レアな円形計算尺であることは確かです。 今回外箱、サックケース、説明書まですべて揃ったものを500円で入手。これが初めてのSTAR円盤計算器の入手になりました。 前々から感じていた事なのですが、このSTAR円盤計算器というのはオークションで出てくる地域がかなり偏っていて、北陸の石川、富山、新潟と長野あたりの出品が多いようで、九州や北海道などの末端からの出品がないことを不思議に思っていました。今回入手した商品が完全品で説明書も揃っていたためにその理由がわかりましたが、その製造元は富山県の富山市だったのです。製造元はスター円盤計算器製作所となっていますが、その説明書に稲垣測量器械店稲垣長太郎というスタンプが押されており、住所が同一なことからおそらくは両社は同一の会社でしょう。業態が個人商店であり、製造数もさほど多くはなく、その販売エリアが北陸周辺に限られたというのもわかるような気がします。富山は昔から製薬業が盛んな地域だということは知られていますが、その傍ら機械工業というのも中央から離れている地方にも関わらず盛んだったということは意外に知られていません。本江機械、後の立山重工業は産業用蒸気機関車を製造していましたし、不二越などは富山から発祥した世界的に有名な会社で、独自に考案した油圧計算尺がHEMMIからリリースされていたのはよく知られています。
Dvc00465 このSTAR円盤計算器の特徴としては製造側の能書きによると、(1) 中心軸と内輪の回転は金属と金属の回転であるから容易に摩耗しないこと (2) 使用材料はジュラルミン板及びビニール板であるから構造堅固であり永年の使用に耐える (3) 小型に製作出来るため携帯に便利である (4) 円形であるため計算能率を向上出来ること (5) 2乗、3乗、1/2乗、1/3乗、の精度が良いこと (6) 目盛が正確明瞭にして容易に摩耗しないこと (7) カーソルはアクリライト(風防ガラス)を使用しているから透明度よく破損のおそれがないこと となっていますが、「円形のため目はずれがない」が最大の特徴なのに「計算能率を向上出来る」とするのはいかがなものかと(笑)
 まあ能書きに述べられているようにこのSTAR円盤計算器だけが持ち、他のコンサイスなどの円形計算尺と最も異なる構造は真ん中に金属の円盤が入っていて裏面はこの円盤に接着されたピニールの三角関数尺、表面は金属の円盤をサンドイッチした形で外側の円盤は金属板に接着、内側の円盤が自由に回転するという構造になっています。そのため、コンサイスのビニール製円形計算尺と比べると金属板の部分だけ分厚く丈夫で、内側円盤の回転もスムースでした。
Dvc00464 このSTAR円盤計算器の型番はNo.120で主尺の基線長は10インチ。尺種は内側からカウントするようで、内側からL,CI,C,D,A,K,で裏面がtanとsinの3分割尺ならびにラジアンの尺が加わります。この時点では他に主尺の基線長が7.5インチのやや小振りなNo.250の2種類が用意されていたようですが、後に裏面がブランクで主にノベルティー用として広告スペースとしたNo.25と裏面にLL尺が加わってLog-Log 両面化したNo.1660が加わったようです。一連のSTAR円盤計算器はその構造が実用新案440028と意匠登録130076を取得したようで、昭和32年度の文部省教育用品審査合格品にもなっていたようです。
 しかし、学校現場では売価150円から200円の8インチ生徒用計算尺が普及しつつある時代に売価750円の円形計算尺が入り込む余地はなく、また製造元が学校等のまとまった数量の受注に対応できるほどの規模でもなく、さらに内田洋行などの有力教材商社と太いパイプを築き上げるには富山は地の利もなかったということもあり、北陸周辺でわずかに使用されただけで消滅してしまったということなのでしょう。入手したNo.120も金沢市内から出たものです。また、以前見かけたNo.25は裏面に富山市内の測量会社の広告になっていましたので、ノベルティー商品としても完全に身内の需要しかなかったということなのでしょう。
 でもまあこの構造の円形計算尺を大手の製造に任せず、個人商店レベルで作り上げたのは見事な事だと思います。

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January 30, 2019

アストロ光学8x30mm7.5°Z型双眼鏡(パルス光学)

Dvc00463 アストロ光学は現在こそ天体観測施設の設計施工の仕事しかしていませんが、我々が天体少年だったころは間違いなく一流の天体望遠鏡メーカーでした。地元の眼鏡店でビクセン、エイコー、カートン、ケンコー、ミザールあたりしか並んでいない時にアストロの屈折赤道儀は日本光学の8cm屈折赤道儀とはいかないものの医者や土建屋の息子でなければ決して手の届かない存在だったことは確かです。またポータブルではなくドーム据え付け型が主力だったのも敷居が高かった原因でしょうか。そのアストロ光学ですが、総合光学メーカーとして天体望遠鏡のほかに双眼鏡も提供していましたが、双眼鏡は自社では生産せずに外部調達で済ませていたようです。 そのアストロ光学ブランドの双眼鏡ですが、あまり数量的には出回っていなかったようで、おそらくはロット2-300個くらいの数量で作らせたものが在庫になりそれを求めに応じて少しずつ出荷していったという程度の数量しか生産されていなかったのかもしれません。ただし天体観測の主流だった7x50mmは見かけの異なるタイプを見かけますので時間を置いて追加発注された節があります。
Dvc00462 それにしても天体望遠鏡は有名なのにアストロ光学の双眼鏡は情報も現物も少なく、昨年に7x50mmを入手しましたがその後まったく現物にはお目にかからず、今回やっと8x30mmの双眼鏡が久しぶりに見つかって入手した次第でした。
 外観は以前入手した7x50mmほぼそのままで、一見大塚光学製のようにも見えますが7x50mmと同じくパルス光学の製品でしょう。光学設計としても戦時中に設計され、戦後にその設計図が共有されたために板橋輸出用双眼鏡としてスタンダードになった8x30mm7.5°と凡庸なスペックの双眼鏡です。この時代、8x30mmは広角化が進み、すでに8.5°がスタンダードになりつつある時代に旧態依然の7.5°とは天体観測用としても少々物足りない感じですが、製造のパルス光学自体スタンダードな8x30mmの部品を自社製造出来るわけでもなくスタンダードな部品しか外部調達できなかったということでしょうか。
 東京杉並のリサイクル業者から1k円で入手したアストロの8x30mmでしたが、さほど酷使された様子も無く本体の程度は悪くありませんでした。さらに内部の状態も対物レンズ裏が若干曇っていた以外にフルオーバーホールの必要もありませんでしたが、視軸は縦横に若干ずれており、対物レンズをセルごと外してクリーニングしたついでにエキセンリングで視軸調整実施。
Dvc00461 視軸がきれいに合った状態でいつもの送電線鉄塔先端を観察してみたところ、視野がスタンダードな7.5度なのに周辺部のゆがみが若干大きいような感じがします。分厚いフルコーティングのおかげもあって視界は標準的な板橋輸出双眼鏡と比べるとやや明るいながらコントラストが物足りないのは標準的な板橋輸出双眼鏡と変わりありません。ただ解像力は意外に高く、線も細い描写を見せてくれるような気がしました。夜間、天体観測用に使用するのであればまた別な見え方をしてくれる期待度が高い双眼鏡です。
 以前入手したアストロ光学7x50mm7.1°の双眼鏡はJ-B230のパルス光学の刻印がありましたが、この8x30mm7.5°には今の所J-B230刻印は確認していません。しかし、細部の作り込みやデザインの共通性からしてもパルス光学でOEM製造されたことは間違いないでしょう。このパルス光学ですが、JBナンバーもかなり末番で、おそらくは厚木光学やオパル光学あたりと創業が近いような感じがしますが、いろいろと資料を探してみても工場がどこに存在していたかさえわかりません。しかし、このパルス光学は例の東栄光学樹脂環訴訟の被告の一社になり、500万円の賠償金が確定したようですが、その際会社を解散して損害賠償金を逃れたか、それともまともに払ったのかは定かではありません。この訴訟の控訴審判決が出た昭和の末期までは存続していたことは確実です。

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January 29, 2019

東亜光学Comet7x18mm7°M型双眼鏡

Dvc00460 昭和20年代から小型のミクロンタイプを生産していたJ-B1のコードを持つ東亜光学の7x18mm7°Mタイプ双眼鏡です。Cometの商標がありますが、Comet名義では対米輸出はなかったようで、国内向けの東亜光学Mタイプ双眼鏡の商標なのでしょう。また国内向けのためかダイキャストメーカーのJ-E7の刻印はありますが、J-B1の刻印はありません。Mタイプの双眼鏡はニコン方式の対物レンズを移動させて焦点を調整する方式とVixsenなどのように接眼レンズを動かして焦点調節する2タイプがあります。この東亜のCometはニコン方式です。またM型双眼鏡専業メーカーの栃原光学はかなりのメーカーにOEM生産でM型双眼鏡を一手に供給していましたが、こちらも焦点調節はニコン方式だったために小型のM型双眼鏡といえば対物レンスを移動させる方式の方がポピュラーだったかもしれません。
 この東亜光学のMタイプ双眼鏡は札幌から入手したものでしたが、北海道の光学製品は季節による寒暖差が激しくて内部が結露してしまい、カビだらけのものが多いようなイメージがあったのですが、多湿で夏場が高温な地域や冬場に雪が多くて湿気がこもるような地方のものよりもコンディションがマシなものが多いような気がします。たとえプリズムやレンズの裏側にカビのスポットが見受けられてもクリーニングで取りきれるものが多いような感じがします。夏場はそれほどジメジメしておらず、冬場は気温が氷点下2桁にもなると空気中の水分も氷結して湿度が極端に低くなるというのも要因でしょう。
Dvc00459 この東亜光学のMタイプ双眼鏡も構造上埃の侵入こそありましたが内部まで分解クリーニングの必要も無く、外側から視軸の調整をしてそれで終わりでした。見え方としては口径が小さいだけに分解能に不満はありますが今出来の視軸もあっているのかどうか怪しいような輸入品プラスチック製Mタイプ双眼鏡と比べることが出来ないほどよく見えると感じました。東亜光学はこれより小型の6x15mmがミニマムサイズだと思いましたが、それよりも実用的な小型Mタイプ双眼鏡だと思います。

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December 23, 2018

SUPER FUJI 7x35mm11°BL型双眼鏡(大塚光学?)

Dvc00384 珍しいSUPER FUJIブランドのBL型7x35mm 11°の超広角タイプの双眼鏡です。SUPER FUJIの双眼鏡製造元は2流の輸出用双眼鏡メーカーと認識していましたが、こんなりっぱな双眼鏡まで作っていたのかと一瞬感心してしまいました。
 ところがこのメーカーは通常30mmと50mmのZタイプの双眼鏡しか作っておらず、既成の部品を集めて組み立てることしかしていなかったため、怪しいと思ったら案の定この双眼鏡はどうやらその形状からして大塚光学もしくは鎌倉光機のOEMのようです。どちらかというと大塚光学の方が近いような感じで、このままDia Stoneの商標が付いてもおかしくないような双眼鏡ですが。
 それでSUPER FUJIの製造元ですが、今の所は大宮に工場を構えていたJB19のコードを持つ不二工芸社が怪しいのではないかと思っています。不二工芸社は昭和28年8月に渋谷区内で創業し、後に大宮に工場を構えるのですが、昭和40年初期には従業員100名以上を抱える双眼鏡組立業の会社としてはかなり大きな会社だったようです。昭和40年の従業員規模からすると鎌倉光機や大塚光学の1.5倍、日吉光学の実に3倍程の規模の会社でしたが、双眼鏡だけではなくレンズシャッタ−式カメラの組み立ての外注でも請け負っていたのでしょうか?
Dvc00383 国内向けのSUPER FUJIブランドの双眼鏡はいうに及ばず、アメリカにもかなりの数が出回っているようなのですが、面白いことに輸出向けの双眼鏡は正直なスペック表示なのですが、国内向けの双眼鏡は一貫して倍率詐称双眼鏡だったようです。たとえば8x30mmの双眼鏡はすべて12x30mmに、9x35mmの双眼鏡は15x35mmに、7x50mmは12x50mmにという感じです。また国内向けのOEM生産させたものにまでこの基準を要求していた節があり鎌倉光機のOEMらしきBL型9x35mmが15x35mmの6.5°表示になっていたものもあるようです。いったい15倍の双眼鏡で見かけ視界が90°ってどんな双眼鏡でしょう(笑)
 そういうポリシーの会社ですが、さすがに超広角双眼鏡の倍率を水増しするのは違うとでも思ったのか、このBL型はSUPER FUJIにしてはまともなスペック表示です。また、高級品イメージを印象づけるためか、普通は白のロゴですがこの双眼鏡には金色で色埋めされています。おそらくSUPER FUJIではBL型の自社生産は行われなかったようで、こちらはJBナンバーこそ未発見ながらパーツ構成からして鎌倉光機ではなく大塚光学のOEMだと思われます。時代は昭和40年代半ばくらいに遡ると思われ、その根拠としては段ボール芯に革もどきの擬皮紙を貼付けたものながら飯盒型のケースが付属していたこと。接眼レンズが後の大塚光学製超広角双眼鏡のものと異なり純粋なエルフレタイプらしく、光機舎の昭和40年代の超広角双眼鏡同様に極端にアイリリーフが短い大目玉の接眼レンズが付いていたことによります。この接眼レンズは真ん中が3枚合わせの3群3枚構成ですが、後の超広角双眼鏡は鎌倉光機にしても大塚光学にしても両端が2枚合わせで真ん中が単レンズの3群3枚構成の接眼レンスに変わり、ここまで大目玉の接眼レンスは使用されなくなります。それに伴い視界周囲の収差もだいぶ軽減され、像面解像度も均一化されたと思いますが、この双眼鏡はKenkoブランドの光機舎7x35mm 11°BLタイプに近い見え方でした。
Dvc00382 北海道札幌からやってきたこのSUPER FUJIは経年で内部のグリースの揮発性分が蒸発し、ややプリズム面に曇りがある以外はカビも視軸の狂いも無くそのままでも使用に耐えないことはないレベルの商品でした。そのためまだ分解はしていないものの、対物側から内部を見た感じではややテカリが気になるもののちゃんと反射防止塗装が施され、対物レンズ筒には割りと長めの遮光筒がはめ込まれています。ただし光機舎の同タイプのようなプリズムの遮光カバーは使用されておらず、これは遮光筒で済ませてしまたようですが、一概にどちらがいいのかはわかりません。コーティングは全ての面がシアンのモノコートのようです。重量はストラップ抜きで840gと光機舎の同タイプよりも100g以上軽量ですが、世代の新しい鎌倉光機のFocalブランド7x35mm11°の700gにはかないません。
 遠くの送電線鉄塔を覗いてみた感じではエルフレ独特のコントラストがやや甘い感じながら中心部の解像力はさほど悪くなく、しかし周囲に行くに従い収差で像が湾曲するという同時代の光機舎の超広角双眼鏡に近い見え方で、同じ7X35mm11°の双眼鏡でも時代が下った大塚光学や鎌倉光機のものとは見え方が異なります。
 なんかDia Stoneの商標が付いた7x35mm 11°の双眼鏡のほうがうれしいような気もしますが、二流メーカーの商標が付いた実は一流品ということで、レア度は確かに大きいようです。でもTOYOTAの車にHYUNDAIのバッジが付いていてもちっともうれしくありませんが(笑)
 SUPER FUJIの双眼鏡は昭和50年代以降のプラスチック多用双眼鏡やズームの双眼鏡も見あたらない事からおそらくはドルの変動相場制移行による円高やオイルショックによる資材高騰により不二工芸社の企業活動停止かなにかで昭和40年代末まで残っていなかったのではないでしょうか?

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December 21, 2018

Vixen 6-12x32mm BL型ズーム双眼鏡(遠州光学機械)

Dvc00377
 これも1円で落札したビクセンの中型ズーム双眼鏡です。6-12x32mmというズーム比2倍の無理の無い設計のBL型ズーム双眼鏡で、メーカーコードらしきものが残っており、どこが製造してビクセンに納めたかという興味だけで入手したものです。結論からするとこの双眼鏡の製造元は板橋区の上板橋に存在したJB55の遠州光学機械という会社でした。遠州光学の設立は昭和23年の2月と古く、元は浜松と甲府に工場を構えていたそうで、そのことから推測するともともとはKOWAの興服産業同様に旧豊川海軍工廠の流れをくんでいる会社なのかもしれません。光機舎のなき後にもかなりいろいろな会社にズーム双眼鏡をOEM生産しており、その代表どころとしてはCOPITARが上げられます。その遠州光学製COPITARズーム双眼鏡は昭和50年代初期には雑誌広告に載るくらいでしたからよく売れたズーム双眼鏡の一つだったようで、この遠州光学製のCOPITARズーム双眼鏡はかなりの数が残っているようです。またいつ頃の出荷かはわかりませんがENSYUブランドを冠した遠州光学の自社製品も見つかっています。
Dvc00376 遠州光学の双眼鏡は平成初期頃までは生産されていたようですが、円高不況、プラザ合意による円高容認策後に輸出のコストが上昇し、1ドル80円台という急激な円高に見舞われた平成中期以降は双眼鏡製造にはかかわっていなさそうな感じです。現在同じく板橋区の前野町に遠州光学精機という会社がありますが、おそらくそこが旧遠州光学機械でしょう。板橋で遠州を名乗るのもいかにも不自然ですし、遠州光学精機でズーム双眼鏡の特許も申請していたようです。ただこれは20年前の情報なので、現在の遠州光学精機がどういう企業活動をしているかは不明です。板橋双眼鏡業者の勝ち組にあるように利益の上がった時に自社名義の不動産を次々に取得し、双眼鏡生産からの撤退後は自社名義の不動産管理業あたりに業態変化して存続しているかもしれません。
 この遠州光学製ビクセン6-12X32mmズーム双眼鏡は多くの古いズーム双眼鏡に多く見られるように変倍レバー側のズームカムガイド筒が固着してしまい、まったく動きません。それを無理に動かそうとしたらしく変倍レバーが折れてしまっているジャンクです。そのため、固着している最高倍率側での固定倍率でしか使用できないため、12x32mmのBL型双眼鏡になってしまっています。
Dvc00375_2 ズームの連動はギア式ですが、時代の新しい大塚光学や鎌倉光機のプラスチックを多用したズームメカと比べると時代が古いなりにカム筒押さえ冠などの部品点数がやたらと沢山あり、仕事は丁寧なのですがけっこうなコストが掛かっています。またコーティングもアンバーとマゼンダを組み合わせたカラーバランスもよさそうな多層膜っぽいコートで、なんか昭和40年代末期のカメラレンズのようです。接眼レンズのコーティングもまったく手抜きされておらず丁寧な仕上がりでした。
 最高倍率でしか見る事が出来ないためにズーム双眼鏡のテストとしてはちょっと酷ですが、やはりズーム特有の反射面の多さから来るコントラストの甘さと像面の解像力の甘さは否定出来ません。内部の反射防止塗装も丁寧に施されているのですが、やはりズームの双眼鏡はいらないなという印象です。これ、おそらくは昭和48年以降おそらくは昭和50年代初期くらいの製品だと思うのですが、ビクセンの双眼鏡としても単なる 8x30mmあたりと比べるとけっこうお高い双眼鏡だったのでしょう。それでもこの遠州光学製のOEMのズーム双眼鏡が日本から海外までかなりの数が残っているようで、昭和60年あたりまでは付加価値の付いた双眼鏡として大量に製造されていたことがわかります。

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December 16, 2018

Vixen 8x30mm 7.5°Zタイプ双眼鏡(厚木光学)

Dvc00365 懐かしい逆アローにVixenのロゴが入った光友社時代のビクセン8x30mm7.5°Zタイプの双眼鏡です。光友社が株式会社ビクセンに社名変更したのは昭和45年とのことですが、当時板橋区に工場を持っていたものの天体望遠鏡から双眼鏡、顕微鏡からルーペまで扱っていた総合光学商社として広く光学製品全般を扱っていた関係で、下請けの業者に製造させたOEM製品がかなりの割合を占めていたようです。それらOEM製品も自社でしっかり検品してから出荷する体制が整っていたのが信用につながったのか、未だにビクセンはケンコー・トキナーとならぶ総合光学商社として業界に君臨しているわけです。
 前にも書いていますが当方が一番最初に購入したのがビクセンのZタイプの7x50mmの双眼鏡で昭和48年1月のことです。まあ天体望遠鏡も前年に購入したビクセンのエータカスタムという6cmの経緯台だったため、よくも悪くもビクセンの製品が自分の基準になってしまい、それよりよく見えるか見えないかで双眼鏡の善し悪しを判断しているようなところが未だにあるかもしれません。
 とはいえ、今迄入手した双眼鏡はゆうに70台近くになり、ビクセンのセカンドブランドのFOKUSやVISIONなどの双眼鏡も混じっていますが、ビクセンブランドの双眼鏡はこれが二台目。というのも昭和47年以降のビクセンの双眼鏡はOEMで作った工場が単純によくわからないために氏素性を解明する興味に欠けるということがあると思います。まあ、製造部門のビクセン光学やアトラス光学製であれば OEM製品とはいえませんが、それでも昭和40年代前半くらいまでのビクセンの双眼鏡はどこのメーカーのOEMかということがはっきりわかるものがあります。そういうものには興味を引かれてしまうのですが。
Dvc00363 この札幌近郊の町から送ってもらった推定昭和40年代前半のビクセン8x30mmはJ-B272の組立業者コードとJ-E6のダイキャスト業者のコードが残る製品でそれによると製造元は厚木光学でした。厚木光学はJBナンバーも末番に近いくらいの後発メーカーらしく、どこに工場を構えていてどれくらいの人員を抱えていたのかという情報も一切ありませんがSPLENDERという商標のZタイプ30mmおよび50mmの双眼鏡を国内外に出荷していたようです。以前からこの厚木光学のSPLENDERに興味があり、狙っていたのですが思わずビクセンブランドの厚木光学製を入手したことになりました。
 厚木光学は昭和30年代後半から40年代初期のおそらくはオパル光学あたりと同時期の創業メーカーだと思われます。ビクセン以外にどういうメーカー・商社に製品を供給していたかはわかりませんがオパル光学同様に自社ブランドのSPLENDERで国内だけではなく海外にも製品を出荷していたようです。しかし、製品は30mmと50mmのZタイプの双眼鏡のみのようで、広角などの双眼鏡も見あたらず、技術的には取立ててどうのこうのいうようなメーカーではありません。多くの板橋双眼鏡メーカーがそうであったように、部品は同業部品屋からの供給を受けて組み立て調整業に徹した会社だったのでしょう。製品も昭和40年代らしきものしか見つかりませんし、もしかしたら円の切り上げやドルの変動相場制移行、オイルショックによる資材高騰を乗り切れずに廃業、もしくはビクセンに人員ごと吸収されて第二工場の母体になってしまったかもしれません。
Dvc00362 その厚木光学製ビクセン8x30mmですが、これはビクセンの仕様指示なのか使用しているパーツには高級感がないものの非常に丁寧に組み立てられた良品です。プリズムも各レンズ面もすべてわりと厚めにコートされたフルコーティングの双眼鏡で、鏡体内部もつや消し塗料で丁寧に塗り込まれています。しかも冬場と夏場の気温差が大きくレンズ内部の結露からカビに発展しやすい北海道の双眼鏡にしてはプリズムの光路周囲に若干のカビが見受けられたものの、光学系の狂いも無く外観的にも殆ど使用されていないようなシロモノでした。対物レンズの鏡筒を外し、綿棒に無水アルコールを浸して接眼側プリズムの光路周囲を拭いてやることのみで清掃終了でした。
 さて、実際に遠くの送電線鉄塔を覗いた感じではコントラストはやや足りないものの解像力はかなりあり視野周辺の像のゆがみなども気にならないレベルです。最近送電線などがやや太く見えがちな双眼鏡によく行き当たりますがこの双眼鏡は線の太さもノーマルに感じました。まあ岡谷のVISTAと比べると物足りないところはままありますが、双眼鏡としては至極まともなレベルだと思います。同年代Kenkoの新井光学製よりもこちらのほうがぜんぜん良い双眼鏡だと感じました。でも同じくKenkoのスカイメイト8x30mmの見え方には及びません。おそらくスカイメイト8x30mmは鎌倉光機製でしょう。しかし、ケースもポシェット型なのにシボの入った本革製でしたし、当時これが一家に一台あったらけっこうなものだったでしょうね。

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December 14, 2018

HEMMI 海軍兵学校計算尺(戦時No.2664簡易型)

 通称海軍兵学校計算尺と呼ばれる戦時中のNo.2664の簡易型です。別に材料が枯渇してNo.2664からスケール部分が省略されたのではなく必要最小限の仕様として公用に注文されたアメリカでいうところのGovernment Propertyとしての計算尺ではないかと想像しており、海軍兵学校が発注した特別仕様の計算尺という証拠はありません。ただし、海軍兵学校ではちゃんとこの新しいずらし尺の計算尺を使用するための教本を用意しており、新しいずらし尺用準拠の教本をわざわざ作成したのが海軍兵学校以外に見あたらないため、主に海軍兵学校で使われたというのは間違いないところです。
 その兵学校計算尺ですが、戦時中から他の官公庁にも出回ったらしく、こちらは旧電電公社、今のNTT関係の方から入手した計算尺です。その入手経緯というのは出品者のお父上が工業高校を卒業した昭和29年に北海道で電電公社に就職した際、個人の計算道具をまったく所持していなかったため、10歳程年上だった先輩がこれを使えと言ってくれた計算尺がこの兵学校計算尺だったそうです。その先輩とは2年程で転勤のため別れ別れになり、その後一度も一緒にならなかったため、どういう経緯でこの計算尺を所持していたのかはわからないそうですが、戦時中の海軍兵学校で使用された計算尺と同形のものと出品者からお父上に伝えていただくと驚かれていたそうです。計算機が出回りだす迄の十数年間、非常によく使いこなされた計算尺で、黒のサックケースがぼろぼろになり、それを中子に布の巾着ケースをかぶせたものの中に入っていました。
 その通称兵学校計算尺ですが、製造開始時はまだ材料にも余裕があったようで、裏側はちゃんとアルミの総裏でオーバル窓が開いていますが、その後にはさすがに材料にも余裕が無くなったと見えて裏側金属はオーバル窓の空いたアルミを両端だけに使い、中程は裏抜きされて樹脂のままというモデルも見つかっています。それからすると総裏金属兵学校計算尺は昭和18年頃、中抜きモデルは昭和19年あたりの製造でしょうか?本当にアルミ等の材料が枯渇した戦争末期の計算尺のようにカミソリの刃のような金属で上下の固定尺を繋いだモデルももしかしたら存在するのかもしれません。
 まだ総裏アルミ継ぎのモデルが存在する事から本当に材料が無くなってしまってこういう簡易型のNo.2664が出来たわけではないことがわかると思います。
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December 08, 2018

RICOH No.121 10"機械技術用計算尺

 RICOHの片面計算尺の中では比較的に新しい計算尺なのにも関わらず今迄オークションで見かけた数は十数年間で片手にも満たないというNo.121です。一応は機械技術用とのことですがその内容はHEMMIのNo.130同様にダルムスタット式の片面計算尺になります。
 ダルムスタットの計算尺はドイツのA.W.Faberなどではおなじみでリッツ式同様に戦前には世界に蔓延った時代がありましたが、両面計算尺の普及に従い、戦後はFaberでも両面計算尺を作るようになって急速にその存在感を失ったような気がします。片面計算尺でべき乗計算が出来るように特化したものですが、HEMMIではリッツの片面計算尺の60番台シリーズは昭和一桁の登場と早かった物のダルムスタットのNo.130は昭和15年頃に一度発売が発表されたものの日中戦争激化と太平洋戦争の開戦でお蔵入りし、戦後の昭和20年代中頃になって初めて商品化されたものです。
 そのため、戦時中も使用され、目盛が馬の歯形から物差し型に進化していったNo.64に比べ昭和20年代の発売にも関わらず目盛が馬の歯形という旧態依然さが疑問でしたが、これは戦前に完成していたダルムスタットの目盛の型をそのまま使用したためと理解しています。
 そんな少々時代のニーズから外れたダルムスタットの片面計算尺をなぜRICOHで新しくつくらなければいけなかったというのがわかりません。しかも品番も110番台から飛んで120番台というのも驚きですが、この120番台の計算尺は当方このNo.121の存在しか知りません。
 このNo.121は今迄見た数本はすべて透明塩ビケース入りの昭和40年代前半の製造らしきもので、それもすべてデッドストックの新品でした。今回初めて青蓋のポリエチレン製ケースの物が出て来たわけなので、昭和45年以降も継続してリリースされ続けたことになります。
 この個体の記号はUS-5ですので昭和47年5月の佐賀製、RICOHの計算尺としてもかなり末期に製造になりますが、それにしてもこの時期にダルムスタットの計算尺なんか需要があったのかはなはだ疑問ですし、一般的にもある種の業務用途を除いてはほとんどが高校生用の用途で種類を絞りつつあた時代の生産です。おそらくはHEMMIでもNo.130はその時点で製造はされていなかったでしょう。
 内容的にはHEMMI No.130の側面に刻まれたS,T尺を上固定尺に移動させ、L尺を滑尺裏に移したもので、尺のレイアウトは異なる物の尺種類と数はまったく同じです。尺レイアウトは表面がS,T,A,[B,K,CI,C,]D,Pの9尺、滑尺裏がL,LL1,LL2,LL3,の4尺です。カーソルはC,D尺側に副カーソル線を有するプラスチックの一体型で、このNo.121の専用品になります。
 計算尺末期の製品でもあり、その特殊性もあって開封品で外箱などもありませんでしたが表面のざらつきも残るほぼ未使用品でした。最近匿名配送が多くなり、詳しい発送場所はわかりませんが大阪方面から出た計算尺のようです。
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November 29, 2018

SUPER ZENITH 8x30mm 7.5°Z型双眼鏡(東栄光学?)

Dvc00322 ZENITHという双眼鏡は、もともとはフランスだったかイギリスにその名前のつく双眼鏡があったらしいのですが、どうも戦前か戦後すぐに日本でその名前をパクった双眼鏡が現れていたようです。戦後は一貫して輸出用の双眼鏡の商標だったようですが、その商標を持っていたところが輸出商社だったのか、それともどこかの製造メーカーだったのか判然としません。後にSUPER ZENITHの商標を有する双眼鏡も出て来ましたが、これはどこかの中核光学メーカーを中心としたグループのパブリックドメイン的な商標ではないかと想像してますが、そのグループ名が東京光学機器製造組合だったか輸出双眼鏡製造組合だったか詳しいことはよく知りませんが一応は協同組合的な名称を名乗っていたのではないかと思います。
 その中でもいち早くプラスチック鏡体のSUPER ZENITHにLIGHT WEIGHTのロゴを付けて国内外に大量に売っていたのがどうも埼玉県鳩ケ谷に工場を構えていたJB4の東栄光学のようです。この東栄光学という会社は対物レンズや接眼レンズをプラスチックのセルに歯車型の樹脂環を使用して高周波溶着するという技術で特許を取っており、類似の手法を使用した同業数社に対して特許権侵害でそれぞれ500万円の損害賠償を請求して民事訴訟を起こしたいわゆる東栄光学樹脂環訴訟の原告で、この特許が切れる迄はこのプラ製Zタイプ双眼鏡をほぼ独占的に製造していたようです。しかし、この特許が切れてからは中国製の類似プラ製双眼鏡が日本にも押し寄せ、現在望遠鏡工業界のメンバーには東栄光学名前はありません。訴えられた一社の鎌倉光機はいまだに世界各国の有名メーカーのOEMで盛業中なのですから皮肉な物です。
Dvc00321 そのおそらくは東栄光学製SUPER ZENITHの20x50mmZ型を持っていますが、件の樹脂環接着のおかげて接眼レンズが分解できないもののその構成はプラレンズを使用した2群2枚のラムスデンでした。レンズの張り合わせがないだけその分コストダウン出来ますが、そこまでするかという感じです。アメリカでの評判も「Toy Binoculars」的な指摘が多かったような。
 そのSUPER ZENITHですが、プラスチック化する以前の昭和40年代後半くらいまでのものは所々コストダウンされている安物的な部分はありますがそれでも割とまじめに作られている双眼鏡です。東栄光学以外にもいろんなところで製造されていたようで、昭和44年以前のいわゆる輸出双眼鏡血統制度時代にはいろいろなメーカーコ−ドが見受けられるようです。例としてはJ-B206の藤田光機、J-B256の新星光学を確認しています。
 それで4台まとめて落札した双眼鏡の中で3台のケンコーはそれぞれ1円だったのですが、こいつだけ10円で入札した主がいて結局は11円落札でした。それでも4台まとめて14円ですから文句はいえません。SUPER ZENITHとしては至極まともな双眼鏡で、プリズムも全面モノコートされていました。さほど内部も黴びたり曇ったりということもなく、オーバーホールは楽でしたが、プリズムポケットがぴたり決まるというわけではなく、やや調整に手間取った個体です。プリズムの固定は透明グルーでしたからおそらくは昭和40年代後半の製品として間違いないでしょう。そしていろいろ分解して行き気がついた事は、本来JBナンバーが打たれているところにOmcのようなマークが入っている事。また右側視度調整リングにディオブターの目盛や数字が無く+-で済ませている、という共通点のある双眼鏡は一つ思い当たりました。それはHUNTERの双眼鏡GOLDというやつで、このHUNTER GOLD 50mmというやつは接眼レンズが樹脂レンズで構成がラムスデンというのは後のSUPER ZENITHのプラ双眼鏡に共通します。またプラのSUPER ZENITHの視度調整環にも+-の表示しかないなどこの8X30mmのSUPER ZENITHを通じてHUNTERからプラスチックSUPER ZENITHまですべてつながっていくような気がします。確たる証拠はありませんが、もしかしたらこれはらすべて東栄光学の製品でしょうか?またプラ製SUPER ZENITHの12x50mmのケースにLENS CLUB HUNTERと印刷されたセミハードケースが付属していたのを見た事があります。本来ならば黒の無印もしくはSUPER ZENITHと印刷されたケースでなければいけないところ、員数合わせでHUNTERのケースを付けてしまうことが出来るのは両者が同じ会社で作られたことを暗に物語っているのではないでしょうか。
 このSUPER ZENITHの8x30mm 7.5°は双眼鏡としてはけっこうまともなほうで、コントラストは不満があるものの解像力は悪くありません。ただやや線が太めに見える事と周辺部の収差がやや気になるくらいです。内部の反射防止処置を丁寧に施せばそこそこ使える双眼鏡になりそうで、その面ではカスタムベースに最適などという評価。なにせ世の中に沢山ありますから(笑)


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November 26, 2018

Kenko Skymate 8x30mm 7.5°Z型双眼鏡

Dvc00324 3台のKenko 8x30mm 7.5°のZ型双眼鏡の一台で、こちらはSkymateという機種名が付いています。おおよそ昭和40年代の後半の製品らしく、すでにJBコードもJEコードも刻印されていない双眼鏡ですが、前出2台の新井光学の双眼鏡とは明らかに作りも見え方も異なり、けっこう名のある双眼鏡OEMメーカーの製品は確かでしょう。
 スカイメイトと名前がついているくらいですからおそらくは昭和46年の火星大接近による天文ブームにあやかった天体観測用を連想させるネーミングですがどうなのでしょう?当時、なりたての天文マニアで、望遠鏡も双眼鏡もビクセンを購入してしまい、あまりケンコーには注目していなかったためか記憶がありません。
 しかしまあ、カートンにしてもケンコーにしても当時はメーカーだと思っていたのは当然ですが、実のところ光学商社でいろいろな会社に望遠鏡双眼鏡を作らせ、それを自社ブランドとして売っていたなんてまったく知りませんでしたし、よくカタログの写真と店頭に並んでいる同じスペックの双眼鏡が外観がまったく違うということが不思議だったのです。

Dvc00323 そのケンコースカイメイト8x30mmですが、見かけは昭和40年代末期の鎌倉光機のZ型双眼鏡にそっくりです。それでも鎌倉光機にしても大塚光学にしてもどこかにメーカーコードがさりげなく打たれているのが普通なので、鎌倉光機の製品の可能性も高いながらその確証はありません。また対物セルのカバーと鏡筒の間に飾りリングが入れられる手法というのが当時同じく鎌倉光機からOEMで双眼鏡を受けていたコピターのZ型双眼鏡にもよく似ているような感じもしますが、内部まで探ってみたもののその出自を証明するような証拠はなにもありませんでした。
 それでも実際に覗いた感じも解像力、コントラストもけっこう高く、視野の周辺部の収差もよく押さえられており、OEMの双眼鏡としては一流どころの製品に匹敵する双眼鏡だと思いました。新井光学のOEM双眼鏡とは比べ物にならないくらいのいい双眼鏡です。対物接眼レンズともにシアンのモノコートで、ブリズムは当時のことですからBK7材のプリズムですが、射出瞳径も真円でした。プリズムも新井光学のようなタガネ固定ではなく透明なグルーを使用した固定法です。視軸の調整はさすがにエキセンリングでした。このあとすぐの時代の大塚光学製Kenko 8x30mmは対物レンズセルもプラスチック化して視軸の調整も鏡体2カ所に設けられた芋ネジでプリズムを微動させる手法に変わりましたが。
 何かスカイメイトと名付けられているくらいですから一応は光学性能にうるさい天文マニア用に材料、メーカー共に吟味した結果なのかと想像してしまいます。実はこの双眼鏡、まったくレンズもプリズムも曇っておらず、視軸も狂っていなかったためレンズの表面だけ拭いただけの双眼鏡で、古い中古の双眼鏡としては珍しい個体でした。
 まあ一般的にはKenkoの双眼鏡として片がついてしまう双眼鏡なのですが、板橋輸出双眼鏡の底なし沼に入り込んでしまうとそれがどこのOEM製品か気になって仕方が無いのです(笑)

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November 25, 2018

Kenko 8x30mm 7.5°Z型双眼鏡(新井光学)

Dvc00326 おそらくは昭和40年代前半の製造と思われるKenko 8x30mm 7.5°のZタイプの双眼鏡ですが、前出のKenko Aceと同じくJ-B114の新井光学のOEMになります。こちらのほうが年代がAceよりも若干古いようで、その証拠にAceには打たれていなかった鏡体製造メーカーのJ-E22の刻印もちゃんと揃っています。それでもKenkoの名入れは彫刻ではなくスクリーントーン印刷なのでおそらくは昭和40年代前半の製品だと思います。
 Kenko Aceと比べるとプリズム面のコートが省略されていたりしますが、見え方にさほど差があるわけではありません。ただ、分解していていただけなかったのは、プリズム固定でタガネを入れる際にへたな職人が手がけたのかプリズムが一部タガネ目の当たったところが欠けていたことで、特に右の対物側プリズムは2カ所のタガネ目の両方とも小さく欠けていました。さらに右の接眼側のプリズムにも一カ所タガネ目でプリズムに欠けが生じています。いかに光路に関係なくともこういう組立は絶対に容認出来ませんし、新井光学の技能の底の浅さというのが見え隠れしてしまうようです。それだけでここの双眼鏡自体がろくでもない製品に思えてしまいます。
Dvc00325 内容的にはさほどコストダウンが要求されなかった発注だったのか内部の塗りもまだ丁寧ですし覗いた感じも解像力・コントラストともに物足りない物の輸出双眼鏡としては標準レベルですが、周辺部の収差がスタンダードな視界の双眼鏡にも関わらず若干大きいようで歪んで見えてしまいます。
 なんかプリズムの欠けの一件でいやな思いの残った双眼鏡ですが、このプリズムのタガネ目打ちの固定というのは昭和40年代後半になると接着に変わり、このようにプリズムを欠けさせてしまうような雑な仕事も無くなるのですが、そもそも一流といわれるメーカーの双眼鏡はプリズムポケットの精度が良いためか、そのままプリズムがピタリとはまり込んで微動だにしないものです。所詮部品をかき集めて組み立て調整を生業としている会社だからそれぞれの部品の公差で錫箔調整やタガネ打ちなどは避けられないのでしょう。

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November 23, 2018

Kenko ACE 8x30mm 7.5°Z型双眼鏡(新井光学)

Dvc00320_2  久しぶりに1円双眼鏡を4台まとめて落札しました。とはいえ1台だけ11円付いてしまったのがあるので、正確には1円3台11円1台です。そのなかの3台が同じKenkoの年代違いの8x30mm 7.5°のスタンダードな双眼鏡です。すべて刻印が異なるため、どういうメーカーがOEMでKenkoに納めたかという興味のみでまとめて落札したものです。
 まずKenko Aceという機種名が入った8x30mm 7.5°のZタイプ双眼鏡ですが、こちら対物セルの飾りリングがどこかにぶつけでもしたのか変形していて外れないというジャンク。覗いてみると視軸はもちろん上下左右にずれていて、プリズムが曇っていてよく見えないというシロモノ。Aceという機種名のつくKenkoの双眼鏡は一時期何機種かあったようで、8x30mmから12x30mmや12x50mm、16x50mmあたりが確認されています。ある特定メーカーの納入物を区別するための機種名なのかはよくわかりません。年代的には昭和40年代前半くらいの製品でしょうか。Kenkoマークなどがすべてスクリーントーン印刷に変わっています。内容的には同じく入手した昭和40年代前半くらいの8x30mm 7.5°に殆ど変わりませんでした。というのも2台とも板橋区大山金井町にあった株式会社新井光学という会社のOEM生産の双眼鏡だったためです。
 新井光学は創業が昭和29年7月で当時は有限会社でスタートしたものの昭和35年5月に株式会社化した輸出双眼鏡組立専業の会社でJB114のメーカーコードが与えられていました。人員は総勢15名でしたから泡沫の組み立て工場の社員数人というところよりも大所帯なものの企業規模でいえば中小というよりも零細のカテゴリーに入りそうな大きさです。
 このKenko ACE 8x30 7.5°の双眼鏡はスペック的には他の板橋輸出双眼鏡とさほど変わらないスペックですが、プリズム面を含めてすべてのレンズ面がコーティングされているフルコーティングでさらに陣笠も金属製という割とコストダウンが目立たない双眼鏡です。しかも鏡体内部は黒のつや消し塗装がちゃんと施されており、当時の鵜の目鷹の目でコストダウンされてきた輸出双眼鏡よりも高級な双眼鏡です。
Dvc00319 内部はさほど酷いカビ等も無く洗浄できれいになりましたが決定的にダメだったのは対物側のプリズムの二等辺面のコーティングが劣化して白内障を起こしていたことです。高温多湿の環境下にしまい込まれるとカメラのレンズ等のコーティングが劣化して白内障を起こす事はありますが、モノコートの双眼鏡プリズムの白内障は初めてです。コーティングされていなければ問題なかったのでしょうが、順光下ならまだしも逆光下だと画面が白っぽくなるなどコントラスト低下の影響は免れないでしょう。
 左の対物セルから飾りリングが外せないため、左右の視軸が完全調整出来ていないのですが、遠くの送電鉄塔を覗いてみるとプリズムコーティング劣化の影響もあるのかやや視野のコントラストに不満はあるものの解像力などは結構良好な双眼鏡でした。ニコンには及ばないものの岡谷光学のVistaに肩を並べるかもしれない掘り出し物双眼鏡の感があります。もっとも技術的には一切冒険はしておらず、部品は周辺からのかき集めで組立しかしていないメーカーですから技術的にどうのこうのということはありません。ただ、プリズムに錫箔修正跡がけっこう見受けられたので、いい加減ではなくまじめに調整はしていたのだろうとは思います。 このKenko ACEにはメーカーコードのJ-B114はあるものの、鏡体メーカーのコードは付いていませんでした。

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November 22, 2018

Friend 7-21x40mm Z型ズーム双眼鏡(鎌倉光機)

Dvc00312  Kenkoが双眼鏡・望遠鏡などの光学製品を自社製造するために設立したフレンド光学(現ケンコー光学)のFriendブランドのズームタイプ双眼鏡です。フレンド光学の設立は昭和49年のことらしく、工場は埼玉の坂戸にあったらしいです。
 Kenkoの光学製品は昭和50年代からKenkoブランドとFriendブランドの二本立てで商品を用意していたのはVixen光学とアトラス光学の2社でVixenブランドとFokusブランドの2本立ての商品ラインナップを用意していたのと同じ理由でしょうか。どちらにしても急激に発展したディスカウント系の販売店に商品を流すための方法としてセカンドブランドを用意する必要があったのでしょう。
 それでFOCALの7x35mmと同時に落札したこの双眼鏡はフレンド光学の自社製品ではなくて何と鎌倉光機のOEM製品の双眼鏡でした。Friendの双眼鏡というとどうしても廉価版のイメージがありますが、こういう一流OEMメーカーの製品もあったということがわかり、なかなかFriendの双眼鏡も侮れないと再認識した次第です。下陣笠のトリポッドキャップとダイキャスト内部にJ-B133の刻印がありました。奇しくも今回は2台まとめて出品された双眼鏡の双方ともが鎌倉光機の双眼鏡だったということになります。Friendの双眼鏡も平成に入ってからはフィリピンのセブ島に設立したケンコーの現地法人が製作した双眼鏡が多くなり、こういうように石ころの中から玉が出てくる事もなかなか無くなったとは思いますが。
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 とはいえ、やはりセカンドブランドのフレンドですからからりコストダウンの掛かった双眼鏡で年代的には昭和60年代初期あたりでしょうか。まず対物鏡筒がすでに対物セル一体のプラスチック成形品になっています。対物レンズがシアンモノコートの一応は硝子レンズの色消しですが、エキセンリングが省略され、鏡体の芋ネジでプリズムを微動させ、視軸調整するタイプのZ型ズームで、プリズム押さえもネジで止めるのではなく鏡体差し込みになっています対物レンズとプリズムを外して洗浄しましたが、鏡体内部はやや反射の多そうなケミカル処理になっています
 クイックフォーカスなので対物側から基軸抜け止めのネジを緩めて接眼レンズアッセンブリーを抜き出す方式ではなく上陣笠のネジを蓮してその下のクイックフォーカスメカ基軸と鳥居の連結ネジを外して接眼レンスアッセンブリーを抜き取る必要があります。左右のズームの連動は鳥居の裏側に仕込まれたギアによる連動です。ズームのカムを移動させるメカはさすがに金属ですが、外側の接眼レンズのセルなどもすでにプラスチックの成型品で、レンズも高周波ウエルダーを使った溶着です。実はこのプラスチックのレンズセルにギア型のリングを高周波ウレルダーで溶着する技術というのはスーパーゼニスなどのプラスチック製双眼鏡を作りまくったJ-B4の東栄光学が特許を取り、高周波ウェルダーのメーカーと共同開発した機械を使用して実際の製品になったらしいのですが、この高周波ウェルダーメーカーが他社にも売り込んだのかそれとも他社が独自でどこかに作らせたのか、昭和50年代半ばから60年に掛けて特許侵害で東栄光学が複数の双眼鏡メーカーを訴えてそれぞれ500万円の損害賠償を請求する訴訟事件に発展したという曰く付きのレンズセルなのです。その被告の中に鎌倉光機も含まれていて結局は2審でも控訴棄却となり敗訴が確定したと思いますが、興味のある方は「東栄光学樹脂環訴訟」という件の判例集でも検索してみましょう
 それで組み上がったままで遠くの送電線鉄塔を覗いてみると激しく上下左右にずれてしまっていたために張り革の芋ネジのところをほじくり、芋ネジによって上下左右に視軸調整したのですが、左の像が若干倒れ気味。ズームの双眼鏡でおまけにコストダウンのよく効いた機種でもあり、解像力、コントラストともにディスカウント店あたりに並んでいた同様の双眼鏡と五十歩百歩のような感じです。玉かと思って思わず拾ってみたらビー玉だったというような思いですが、製造が鎌倉光機といえどもさすがにコストの掛けられない双眼鏡はこんなものなのでしょうか。もっともFOCALの超広角双眼鏡のおまけみたいなものですけどね。

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November 21, 2018

FOCAL 7x35mm11°BL型超広角双眼鏡(鎌倉光機)

Dvc00315  FOCALという商標の双眼鏡は日本でも普通に見かけるものですが、これはアメリカの大手ディスカウントチェーンのKMartの前身、SS KRESGE COMPANYの光学製品の商標です。KMartは日本でいうとダイエーのようなディスカウント百貨店チェーンでしたが、アマゾンなどのインターネット販売の急激な台頭で一気に業績が悪化し、店舗/人員数の整理を行うも2002年に連邦破産法の適応を受けて会社更生法の適応を受けて新たなKMartを設立したという話です。この新生KMartはアメリカ西部開拓時代からのカタログ通販業者SEARSを合併するも、こちらも2018年10月ですからついこないだ破産して会社更生法を申請したようです。現在裁判所の管理下で再建を目出しているようですが、役員の流出を防止するために特別ボーナスを出す許可を裁判所に申請しているそうです。ところが多くのKMart店舗閉鎖に伴う従業員解雇に際し、解雇予告手当を8週分払う約束が4週分で打ち切られたようで、アメリカ国内でもこの破産管理下での役員賞与支給に批判が出ているのだとか。アマゾンの台頭でシアーズの名前まで消滅しそうになったこの破産事件というのはかなりのニュースのはずですが、日本ではまったく報道を見ませんでした。このシアーズも自社のカタログ通信販売で昭和20年代から日本製輸入光学製品を発売してきており、カメラはTOWERブランドでしたが双眼鏡はそのままSEARSだったようです。
 輸出にあたってはどこかの光学輸出品商社が介在していてその都度いろいろなメーカーに作らせていたはずでFOCALの双眼鏡は単一メーカーの製品ではないようです。このBLタイプ7x35mm11°の超広角双眼鏡ですが、その形状から鎌倉光機もしくは日吉光学のOEMとにらんで入手した双眼鏡です。しかし、なぜこの手の相手先OEMブランドの双眼鏡が日本で平気で出回っていたのでしょうか。おそらくは商社側で追加注文を見込んでいくらか余剰に生産させていたものが結局は行き場を失い、換金目的で国内に出回ったのでしょうか。今の世の中、いくら相手の注文の品物とはいえ、相手の商標の商品をそのまま市場に流したら商標法違反で捕まりますからわざわざノーブランドにしてディスカウント系に流すのでしょうが、おおらかというかいい加減というかそういう時代もあったようです。
Dvc00314 アメリカに渡ったFOCAL双眼鏡の画像をいろいろ見てみると、やはり光機舎あり、鎌倉光機あり、大塚光学あり、末期にはクイックフォーカス付きの双眼鏡などもありました。さすがに大手ディスカウントチェーンだけに価格にはかなり厳しかったのかもしれません。
 それで会社がSS KRESGEからKMartに商標変更したのは1977年だそうで、FOCALの双眼鏡もその後はFOCALの名称にKMartのマークが追加になったようなので、製造年代の判定には役立つかもしれません。
 札幌から2台まとめて入手したうちの1台のFOCAL 7x35mmは11°という超広角双眼鏡双眼鏡ですが、普通ならそこそこ高い落札額が付く物の今回は競争相手も無く2台まとめて1k円でした。届いた双眼鏡は7X35mmの11°BLタイプとしてはかなりコンパクトに感じられ、重量もかなり軽い印象だったためキッチンスケールで量ってみるとストラップ抜きで770gという破格の軽さでした。そこそこ使い込まれ、長期に渡ってしまい込まれていたためか対物レンズの内側もグリース類の蒸発した油分で曇っており、視軸も左右に大きくずれているという状態でしたが、なんといってもJ-B133の刻印が打たれた鎌倉光機の双眼鏡に間違いないため、手をかければ普段使いの双眼鏡として活躍してくれるはずです。接眼見口がゴムの折込タイプに変わっていることから年代的にはそれほど古い双眼鏡ではなさそうですが、それでも対物レンズのセルは樹脂ではなくエキセンリングが組み込まれたもので、プラスチックの成型品を使用している部品がないなど、構造的には昭和40年代のBL型双眼鏡と変わりません。それでも鏡体ダイキャストは金型の射出成形になったようで、対物側から抜きやすいように以前の製品より平坦に感じられるものです。そのおかげで軽量化していることは確かですが。
 この鎌倉光機製双眼鏡はFOCALのロゴの左上にKMartのマークが追加になっている事などから1977年以降に作られたことは確定されますが、おそらくは80年代初期くらいの製品ではないでしょうか。それでもプリズムはBK7のままのようですから80年代初期くらいの円高不況以前の製品かもしれません。
オーバーホールしてプリズムアッセンブリープレートの芋ネジ3点で視軸を調整するとエキセンリングを使用しなくとも視軸はピタリと合いましたが、覗いた感じははやり光機舎の7x35mm11°のときのような驚きと感動はありません。まあ、超広角双眼鏡に慣れてしまったということも大きいのでしょうが、まだきれいに反射防止塗装がされていた時代と異なり、コストダウンでプリズムカバーも無くなり、内部も黒染処理で済まされてしまったことがコントラストがやや物足りない原因になっているのかもしれません。解像力は前出の大塚光学の7x35mm11°よりも中心部は優れていると思いますが、何か覗いていて軽く目眩を起こしそうな感覚にとらわれてしまいました。大塚光学のものよりもやや周辺部の収差がきつかったからでしょうか?


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November 19, 2018

OPAL 8X30MM 7.5°Zタイプ双眼鏡(オパル光学)

Dvc00304 オパル光学の8X30 7.5°CFタイプの双眼鏡です。オパル光学という会社は製造業者コードがJ-B248とかなりの末番で、おそらくは昭和40年近辺の創業ではないかと思われます。何となくマークがターゲットのようなマークなのでもしかしたらジェームズ・ボンドの流行った昭和40年頃というのもあながち外れていないかもしれません。
 このオパル光学のOPALブランドの双眼鏡は国内向けの商標らしく輸出にOPALブランドで出回った様子は無いようです。はたして輸出用としてどういうOEM製品があったのか知りたいところです。製品は8X30,7X50,10X50,16X50,ズームの10-30X50くらいしかないようで、しかもズームは大塚光学のOEM製品のようです。これらを見てもオパル光学独自の特徴のある製品は見あたらず、技術的にどうのこうの評価するべき会社ではなかったような印象です。
 送料が安かったので同じ北海道内から入手したOPAL 8x30mm 7.5°のZタイプ双眼鏡でしたが、若干プリズムにカビはあるものの全般的には酷使された様子も無くわりにきれいな個体でした。分解前に遠くの送電線鉄塔を覗いてみましたが視軸もあっており、一旦分解してもエキセンリングの調整だけで視軸は合わせられそうです。
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 中の状態は鏡体内部の反射防止が甘く、簡易的な塗りで済ませてあるために内部反射がコントラストに影響しそうで、プリズムは対物、接眼側ともにノンコーティング。レンズは対物接眼ともに割と薄めのシアンコーティングでした。オーバーホール後に実際に覗いてみた感じではコントラストも解像力もやや物足りません。特に像面のピントが合いそうでいてかっちり合わないような感じで、なにか光軸自体が合っていないのではないかと疑ってしまうような個体でした。まあいろいろ輸出用8x30mm 7.5°のスタンダードな双眼鏡はいままでいろいろ試しましたが、見え方に関しては並以下というような評価で、特に線がやや太く見えてしまうような傾向を感じました。大手のニコンや準大手の岡谷ビスタに比べるのは酷ですが、日吉光学や大塚光学にも遥かに及ばず格下の双眼鏡だと感じてしまいます。まあ輸出用の板橋双眼鏡としても正直やや物足りなさを感じます。

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November 18, 2018

NEPTUNE 8x30mm 7.5°Zタイプ双眼鏡(大宮光学機械)

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 NEPTUNEブランドの8x30 7.5° CFの双眼鏡です。以前にメーカーの手がかりがなくておそらくは板橋光学機械製造のものではないかと指摘した8X30 7.5 IFとは異なり、こちらは昭和34年以降に組み立てられた輸出用双眼鏡で、メーカーコードはJ-B11の大宮光学機械で製造されたものでした。ダイキャストもJ-E11ですからこの双眼鏡は組立も本体も双方とも11番という珍しい組み合わせになっています。
 大宮光学機械は昭和29年4月に練馬区の仲町に設立された純粋な輸出双眼鏡組立の会社です。国内向けの双眼鏡はあまり無かったようでわずかにカートン光学OEMがあったことはわかっています。この双眼鏡は世田谷区の当方より一回りくらい年配の方の家にずっとあった双眼鏡だそうで、なんでも教師をされていた父君の旧制中学時代の教え子が「うちの会社でもこのようなものが作れるようになりました」とわざわざ自慢げに持って来てくれたのがこのNEPTUNEブランドの双眼鏡だったそうです。最初からむき出しの本体しかなかったので、あとで近所の眼鏡店から双眼鏡のソフトケースを購入してそれ以来の長い間、家の唯一の双眼鏡として長年活躍してきたそうです。その双眼鏡が家にやって来たのが昭和34年か35年とのことなので、当方の製造時期の見立てとも完全に一致しました。
 当時、双眼鏡組立は儲かるというので板橋の周辺に雨後のタケノコのように多くの双眼鏡組立業者が乱立し、それに従い手間賃が安くても仕事を欲しがる業者のダンピングと買い付け業者の買いたたきなどがあり、体力の無い輸出双眼鏡組立業者の倒産・廃業が相次いだ時期です。そのため、輸出向け双眼鏡の製造業は中小企業等調整法とかいう町の清涼飲料業者と同等の扱いで特別に輸出双眼鏡製造組合の下で生産数の割当と価格カルテルが独占禁止法除外されていて、さらには組合が双眼鏡を買い上げて輸出業者に渡すというシステムが出来上がったころの製品らしいのです。しかし、この目論みは各社が製造した製品を組合がさばききれない程抱えた事や、組合に属さない業者が自由生産を続けた事から早々に破綻したようですが、輸出双眼鏡はその組立た製造元とダイカストを収めた会社を明確に示すためあらかじめ割り当てられたJ-BコードとJ-Eコードを刻印することとなっていました。この輸出双眼鏡のメーカーコードは昭和44年に廃止されたそうですが、それ以降もずっと自社のコードを付しているメーカーもありますし、逆に国内向けの双眼鏡には刻印する義務がなかったため、昭和44年以前の双眼鏡でもまったく刻印がない双眼鏡も多く、さらにユニオン光学のように顕微鏡が本業で、輸出双眼鏡製造組合には参加しなかったメーカーなども何社かあるようです。
Dvc00306 この大宮光学機械製のNEPTUNE双眼鏡ですが、まだまだ全体的にはコストダウンのしわ寄せは来ておらず、さらに部品の寄せ集めで左右のコーティングが異なっていたり、本来合わない部品を無理に調整で合わせてあるようないい加減な双眼鏡ではなく、かなりしっかりした作りの双眼鏡だという印象を受けました。上と下の陣笠の素材も両方とも金属で、ネジを締め上げると割れてしまうような安物ではありません。また、接眼レンズの口径が大きくてあたかも広角双眼鏡のように見えますが、ごく普通の8X30mm双眼鏡でした。
 FULLY COATEDとありますが、接眼側のプリズムにはコーティングがあるものの対物側のプリズムはノンコートのようです。筐体内部は反射防止の黒塗装はさすがに省略されていて黒染めでお茶を濁しているのが不満ですがまあ輸出用で当時は価格が決められていた中ではよくまとまっている双眼鏡です。対物レンズ接眼レンズともにマゼンダ掛かったシアンのモノコートです。片方の対物レンズにスポット的なバルサム切れが何カ所か生じています。
 ただ、分解前に遠くの送電線に先端を覗いてみたらきれいに左右に離れて見えていたので、届いた時点で視軸が合っていなかったのですが、レンズおよびプリズム洗浄後に組み立てる、エキセンリングで調整を図るも修正しきれず、プリズムはタガネで固定されていて上下左右にまったく動かす余地がなく、現在は保留中です。ただ、視軸が合っていない状態で片方ずつ目標物を覗いてみてもあまり結像が良いとはいえませんでした。対物側プリズムに錫箔による修正が2箇所ありましたが、どうも修正しきれていないような感じで、左右おのおのの光軸が合っていないような気がします。感覚としてはアウトフォーカスから合わせようとしていっても焦点が合いそうで合わなく、シャープなピントが望めない状態で、もしかしたら員数外部品かき集めて双眼鏡を一台でっちあげ、恩師の所に手土産として持参して来たということでしょうか。まあ製品状態だったらケースもキャップもなしってことは無かったと思いますが。

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October 29, 2018

エアコンスターダクトメジャー(コンサイス製)

 横浜の現在旭区にある空調部品製造業者のエアコンスターという会社が発売したダクトメジャーという流量計算尺です。なんと現在でもこの会社に注文すると入手出来る現行商品らしいです。さらに直径11センチの小型と直径15センチの大型の二種類があり、小型は7500円、大型は12000円なんだとか。そして裏側にはコンサイス謹製と書かれてある通り、企業の特注によりコンサイスで作られた製品であることがわかります。
 こちらは15センチの大型ダクトメジャーで、表面は冷暖房のための空気配管用、裏面は温水冷水配管用の計算を行うものです。目盛は配管の太さ、温度、圧力、流量などを相互に計算直読するもので、ある条件を変化させることによりすぐに相互の変化の値が読めるため、いまだにこういうアナログな計算尺が重宝される数少ない業界が空調関係かもしれません。
 まあ流量計算というのは当方の専門外なので、それを知りたい方はこちらを参照下さい。
 このダクトメジャーの特許はこのエアコンスター社が所有している特許で計算尺に書かれている所在地も旭区に移転する以前の横浜市港北区の住所が記載されているため、一度ミニマムの数量でコンサイスに発注した物がいまだにほぼ不良在庫として残っているみたいな感じです。
こういうものは古くなっても使えなくなるわけでもなく、今後も在庫が尽きる迄売り続けられるのでしょうが、はたして直近では年間何件くらいの問い合わせがあるのでしょうか?何か人ごとながら気になってしまいます。
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彫刻家藤戸竹喜さんのこと

 阿寒湖畔で長年活躍されてきた彫刻家の藤戸竹喜氏が亡くなりました。
竹喜さんとは今から35年近く前の当方20代前半のときに東京の渋谷でお会いしたのが最初で最後だったのですが、そのときのことを少々書いておきます。

 当時渋谷の店の日給月給のアルバイト時代で、おそらくは人生で一番貧乏で将来の夢も希望も持てないような生活の時代でしたが、ある平日の朝、店の開店準備をしようとしていたときにふらっと店の中に現れた後姿の大きな人がいました。
くるりと振り向いたのは堂々たる体躯のぎょろりとした目を持つりっぱなアイヌ民族の人でした。
 そしてうちでアメリカから直接買い付け、1ヶ月先に到着予定で予約を受け付けていたアメリカのフライトジャケットCWU-45/Pのことをどこから聞きつけていたのか北海道から上京したついでにうちの店にやってきたとのこと。
 まだ予約を取るためにマネキンに着せてある見本が一枚しかなく、それをどうしても売ってくれとご所望。最後には「同じ北海道人だべや」なんて言われて社長に相談して結局は見本で一枚しかないCWU-45/PのLサイズを渡してしまいました。マネキンから見本をはがして持っていったのは竹喜さんと有名な結婚詐欺師クヒオ大佐の二人だけです。
 そのときいただいた経木の名刺に「彫刻家 藤戸竹喜」と書かれており、阿寒湖畔に工房を持っているということで、今と違ってネット検索できるわけでもなく、てっきり観光客むけの熊の木彫りのおやじかと思っていて有名な彫刻家だとは思ってもみませんでした。その藤戸竹喜という名前を良く目にするようになったのは北海道に帰って来てからの事です。
 そして竹喜さんがジャケットを送って欲しいというので、どこに送ればいいかとたずねると「北海道阿寒湖畔、藤戸竹喜で荷物は届く」と言い残して店を後にされました。
 半信半疑で宅急便の伝票に北海道阿寒湖畔、藤戸竹喜とだけ書いて荷物を出したのですが、それで無事に届いたのは言うまでもありません(笑)
 3年後の5月、ユースホステルを泊まり歩いて道東旅行に出かけた際、阿寒湖畔の竹喜さんの工房に寄ったのですが、残念ながらご不在でした。

 まあ、こんな思い出しか当方に書くことは出来ませんが、彫刻家として人生を全うされた竹喜さんのご冥福をお祈りします。

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October 28, 2018

日本製らしい真鍮タンクのバタフライランタン

Dvc00248  関西の大きな被害をもたらした平成30年台風21号が北海道を通過した9月5日の翌日6日未明に胆振地方東部で最大震度7を観測する地震がありました。
震源から40キロ近く離れたわが町でも震度5強を観測しましたが、最初小さな縦揺れからいきなり大きな横揺れになり、手近においてあるヘルメットを被る暇も猫を抱き上げる暇も無く本や無線機やパソコンまで落下しました。
ベッドの上も床も落下物の山になり、10キロに成長したメインクーンのベルクもラグドールのうにも下敷きになって圧死したと思い、急いで電気をつけるとベルクはベッドと壁の間に頭をつっこみ、胴体も本の直撃を免れ、うにはたんすとベッドの間の安全空間に潜り込んでいたためにこちらも物の直撃を免れて奇跡的に無傷でした。部屋のドアを開けようにもドアの外側に物が落下してドアが開かず、仕方が無いので二階の屋根伝いに階段踊り場に窓を開けて進入し一階に下りてまずありったけの容器に水を確保し、風呂桶にも水をためるということをしました。
そうこうしているうちに停電してしまい、ミニマグライトの場所がわかっていたので手探りでマグライトを探し出して点灯し、つぎに前日の台風の停電対策用に石油を入れてあったうちで一番大きなDIETZのハリケーンランタンNo.80ブリザートにマッチで火を灯し、それを持って一階に降りたのと逆ルートで二階に戻り、この灯油ランタンの明かりでその後も頻繁に起こる余震の揺れを気にしながら明るくなるまでの一時間半あまりを過ごしました。
 しかし、このすぐ使えるハリケーンランタンが在ったのは実に心強く、電池のなくなる心配をしなくとも済み、災害時にはツナ缶で明かりを取るよりもハリケーンランタン1個備えておくのがいかに有効かということが身にしみました。
 家の周囲では余震を恐れて道端で懐中電灯を照らしながら明るくなるまで外で過ごしているアパートの住民などけっこういましたが、ポケットラジオさえ用意していないようでした。
 近所の発電所が地震の影響で深刻な被害を被り、そのために北海道全体が停電し、いつ停電が解消するかわからないという情報だったので、3日は停電すると思って朝には石油の吊りランプをはじめ3基くらいに給油して停電の夜に備えたのですが、被災地優先措置だったのか停電は地震から9時間後の14時すぎに解消し、電気の無い夜を過ごさないで済んだことは言うに及ばずその日の晩には炊飯器も使え風呂のお湯も沸かせるというおおよそ被災地ではないような日常に戻ってしまいました。
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 それでも市内では停電が解消した地区は半分にも満たず、停電が解消しなかった地区では携帯電話の充電場所を探し回り、ホームセンターにカセットガスのボンベと乾電池と飲料水を求めて何時間も並び、夜は懐中電灯の明かりでカセットコンロで沸かしたお湯でカップ麺を啜っていた家が多かったようです。停電が翌朝まで解消しなかった妹宅では車はPHVなのでそこからリールを引っ張り、まず冷蔵庫の中身が解けないように電源確保し、余剰電力で電磁調理器を使って煮炊きしたそうです。新しい停電対策として今後こういうやり方が増えていくのでしょう。
 その地震による停電が9月の初めだったために暖房の心配はありませんでしたが、北海道は電気を使わないと作動しない石油ストーブやましてオール電化の家が多いため、地震以降冬場の災害による停電を懸念して電気を使わなくとも使用できるポータブルの石油ストーブが飛ぶように売れて家電量販店でもホームセンターでも手ごろな価格のものは売り場から姿を消しています。
 うちは反射式の古い石油ストーブは2台ありますが、まだ朝晩しか暖房を使用しない時期にはリビングでアラジンの石油ストーブを使用しています。その他カセットボンベを使用するガスストーブもありますし、ランプは売るほどあるので、また停電に見舞われても大丈夫でしょう。 
 ただ、灯油ランプはLEDなどのランプと比べるといかにも暗く、こんな明るさじゃゴハンも食べられないという人もいるのでしょうが、昔のひとはこの豆電球くらいの明るさの下で夜は生活していたのです。
 そこにいきなり加わったのが灯油使用の加圧式マントルランプ。これ、6月に亡くなった叔父の釣り道具小屋を整理していた従妹が持ってきてくれた代物でバタフライランタンです。香港製かと思って別にありがたみも感じてはいなかったというのが正直なところでしたが、ダメな加圧式ランタンの代表みたいに言われるバタフライランタンにしては作りこみも悪くなく、さらに良く見るとまだ西ドイツ時代の工業硝子メーカーショット社の風防硝子がついています。また最初からリフレクターがはめ込まれていました。
俄然よく調べてみる気になり、ネット上の情報を検索するとバタフライランタンは中国製だけではなくどうやら日本で組み立てられたものも存在するらしく、その識別法はタンクが真鍮製か鉄製の違いがあるとのこと。ためしに磁石を当ててみると確かに磁石がくっ付かないためにタンクは真鍮製のようです。さらに風防硝子はmade in West Germanyなので統合前の西ドイツ製であることから、おそらくは30年はゆうに経過している古いシロモノのようです。
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 そうなると自身は炭鉱の安全灯の専門でキャンプ用の灯具にはまったく興味がないとはいえ、そのまま放っておくには忍びなく、整備する気になってしまったのですが、工具や消耗品は一部が欠品ながら黒のビニールレザーの収納ケースの中にマントル5枚と一緒に入っていました。とりあえずはポンプが固着していてまったく動かないため、パッキンを交換する必要がありますが、ポンプの革パッキンは予備の部品が入っていました。ネットの情報とyoutubeの実際の取り扱い動画などを見ながら圧力漏れや各部の緩みが無いことを確認。なにせ数回くらいしか使われた形跡が無い個体だったのでそのままいけると思い、何十年もそのままだった黄色に変色した灯油をタンクから排出して新しい灯油を500cc補充。メーターを見ながらポンプで加圧してプレヒートバーナーを点火しようとするとどうもガスの出が良くないようで、ノズルが少々つまり気味のようですが、徐々にガス圧も安定してきて盛大に炎を上げます。
 そしてコックを下に回すとマントルに着火するものの半分くらいしか明るくなりません。さすがに古いままのマントルではダメなようで一旦圧を逃がして消火し、冷えるのを待ってトップを外し、新しい500CPのマントルを取り付けます。
 そして再度プレヒートバーナーで一度マントルを焼き、再度プレヒート1分少々でコックを下に回すと見事マントルにやや黄色っぽい光が点りました。
 よく新しい中華製シーアンカーなどのランタンが炎上するという情報や動画を見ましたが、炎上することもなく、ポンプの革パッキンを交換しただけで殆ど手が掛からなかったのはもともと出来が悪くなかったからでしょうか?
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 そしてこの日本製らしいバタフライランタンの正体ですが、プレヒート用アルコール皿が付属していて、さらにトップの作りが違うのでフシミ製作所で作られたものではないようです。そして付属していたのが紙箱ではなくビニールレザーのキットケースになっており、それはオリンピック釣具名義で発売したものに近いのですが、ケースにオリンピックのロゴがなく、バタフライのエンボスしかありません。叔父が釣り道具の一つとして買い求めたものなので、おそらくは釣具店で昔買い求めたものに間違いはなさそうです。山用品やキャンプ用品の専門店に出かける人ではないので。そのため、オリンピック釣具のバタフライランタンを手がけたメーカーの製作ながらオリンピック釣具とは異なったルートで販売されたものだと断定できるかもしれません。 国産品のバタフライランタンには間違いないようです。
 ところで、これをもってきてくれた従妹からこんなものも出てきたけどいるなら捨てないで確保しておくというメールとともに送られてきた画像は何と古いホエーブスとコールマンのケロシンストーブ。
 こういうのもありがたがってオークションで競り合う趣味はないのですが、とりあえず確保だけお願いしておきました。しかし、双方ともにさほどは使用しないまましまい込んでしまっていたようですが、見る人間が見たらとんだお宝が転がっていたと思うかもしれません(笑)
 

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October 26, 2018

教育計算尺研究所電気用No.100(コンサイス)

 たしか蔵前工業高校を最後に定年退職され、計算尺の解説などの書籍を多数執筆し、昭和30年代はHEMMI計算尺の出張講師などもされていた杉浦次郎氏が晩年自身が主催されていた教育計算尺研究所名義でリリースしていた円形計算尺の一つNo.100電気用計算尺です。他にNo.120一般型、電子用のNo.380などがありました。
 またこの一連の計算尺はすべて杉浦次郎氏が考案・設計したものなのでしょうが、なぜかコンサイス刻印が入っているものと入っていない物があり、さらにNo.380のように説明書は教育計算尺研究所なのに計算尺自体にはコンサイスのメーカー名以外ないというものなど、いろいろなパターンが存在するようです。
 このNo.100はC,D尺の直径が約6.5cmと小型の一般用計算尺No.27の精度に等しく、直径はNo.27の8cmに対して9cmと一回り大きな計算尺です。それでもコンサイス製の円形計算尺としてはやや小さめの計算尺です。
 表面はいきなり交流の力率やベクトルなどに絡む計算に使用する尺がメインで外周部分がP2,R2の二分割、2乗どうしを計算するP1,内周部分にQとラジアン、度の換算目盛を備えます。裏側は外周部分にCos.Sin尺、A尺、内周部分にB尺、Tan尺、C尺が並びます。
 まあ言うなれば目はずれのないHEMMI No.153のポケットタイプみたいな感じでしょうか。
 表面にいきなり交流系の電力などのベクトル計算などの尺を持って来たのはちょっとやり過ぎで、表面と裏面のレイアウトが逆だったらまだ使い勝手が良かったような気がするのですが。
 その教育計算尺研究所リリースのNo.100,No.120,No.380のうち、No.380の電子用は説明書もコンサイスのものに改められて再リリースされていますが、他は代替するものが多いので、あえてコンサイスブランドにすることなくディスコンになってしまったのでしょうか?
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