February 18, 2010

HEMMI 苗頭計算尺

 「苗頭」というと何か農業関係の用語で、畑に植え付ける苗の数でも意味するのかと勘違いしそうですが、これは歴とした砲術用語です。いつごろに苗頭という用語が出来たのかは定かではありませんが、どうも江戸時代末期あたりまでさかのぼることが出来るようです。もしかしたら高島平にその名を残す高島秋帆あたりが翻訳した西洋砲術用語なのかもしれません。苗頭とは風になびく稲穂の意味で、実際にとらえた目標に対して左右どれだけの角度をつけて射撃をするのか、その角度のことを「苗頭」というのだそうです。実際には上下の角度のことも苗頭と言ったらしいですが。その苗頭は目標の距離と進行方向、速度などによって変わってくるわけですがそれ以外にも空気の温度、湿度や風速風向、さらには地球の自転の影響や使用装薬、弾頭重量や砲身の摩耗具合などの要素も絡んできて、とても単純な計算尺で苗頭が正確に算出できるわけではなく、各国でかなり複雑な機械式の射撃指揮装置が実用化されていました。電子計算機の開発意図というのも弾道計算が目的だったことはよく知られています。ところが、陸上の砲撃にあっては主に固定された構築物に対するものなので、海上戦闘などと比べると相手の未来位置などを勘案する必要がないだけ苗頭の計算が単純化され、計算尺程度の用具で計算が可能となり、陸軍の砲兵用計算尺としてかなり多様な計算尺が日本でも作られていたようです。その砲兵用計算尺は丈夫な茶色の皮ケースに入った金属製のものや、一般の計算尺同様に竹芯にセルロイドを被せたものまで見かけます。今回発掘した苗頭計算尺は戦時中のものでヘンミが係わった砲兵用計算尺の中では終末期に属する物のようです。昭和17年に辺見製作所から発行された砲兵用計算尺教程という教本に従った計算尺なのではないかと想像していたのですが、実はこの時代にまったく別な砲兵用計算尺というものが存在し、この教本はどうやらそちらの計算尺の解説書のようです。
 入手先は四国の新居浜からでした。新居浜からは以前にも別な戦時中計算尺をしたような覚えがあります。元の持ち主は徳島の善通寺に連隊本部を構えた歩兵第43連隊の下士官だったそうで、現在もご健在のようです。年齢的なことを考えるとおそらく現役中に乙種幹部候補生となって軍曹に昇進したか、教育期間中に終戦を迎えたとなると終戦時には20代前後くらいの年齢だったのではないでしょうか。ちなみに当方が中学高校時代の先生の中には師範学校卒業と同時に応集し、現役で乙幹、甲幹で終戦時には軍曹や少尉だった先生がごろごろしてました。無線部の顧問だったI先生からは、乙幹の教育訓練とはいっても毎日毎日身につけた地雷で戦車に体ごと飛び込む演習ばかりやらされていたなんていう話を聞かされましたが、戦争末期の幹部候補生なんかは所詮消耗品扱いでろくに専門教育を施しもしなかったのでしょう。
 歩兵43連隊は開戦時には満州に展開しており、一部の大隊がグアムの防衛に転出し、米軍のグアム上陸戦に遭遇して玉砕したことがありましたが、昭和20年の4月に米軍の本土上陸作戦に備えて満州から四国の高知県海岸部に移動したことで、終戦時のソ連侵攻に遭遇することもなく内地で終戦を迎えた幸運な連隊のようです。満州に残されていたらシベリアに抑留されていたことは疑いないでしょう。
 この苗頭計算尺にはモデルナンバーがありません。軍用の特殊な計算尺であることを考えると当然なことです。ボディは戦時中に発売になったNo.2664に等しく、ごく初期のNo.2664や兵学校計算尺などと同様に裏の副カーソル線窓はオーバルです。また、この苗頭計算尺は昭和17年の砲兵用計算尺よりも明らかに新しい製品のようで、砲兵用計算尺がNo.2664のようなずらし尺を備えて一般の計算にも使えるようになっているのに対してまったくの専用計算尺であり、一般の計算に使用できるような計算尺ではありません。しかし、裏側に換算表が残っており、明らかにずらし尺を備えたNo.2664用の物でした。戦争末期の昭和19年以降の計算尺であることの証明としてケースが黒い疑皮紙を表面にあしらった単なる紙サックです。いうなれば兵器扱いの物品にもかかわらず物資窮乏期の計算尺には皮ケースも用意出来なかったのかと驚かされますが、この時期には兵隊の帯革(たいかく)まで布製品になってしまうほど革製品が枯渇していたわけですから致し方がなかったのでしょう。さらに金属が枯渇してきた戦争末期の製品のため、上下の固定尺を繋ぐアルミの板がもう計算尺製造には回ってこなくなったようで、さりとて何らかの金属を介さなければ滑尺と固定尺の隙間が調整出来ないため、この戦時仕様の苗頭計算尺は上下の固定尺がオーバルウインドウの付いたセル板とともに、安全カミソリの刃くらいの大きさの薄い鋼の板を三カ所設けてアルミ裏板の代わりとしています。もしかしたら本当に切れなくなった片刃の安全カミソリの刃の部分をグラインダーで落として部品として使用していたのかもしれません(笑)
 ところで、戦時中に2種類の同一目的計算尺が出来た理由ですが、当初は火砲の苗頭を算出して指示を出すのはもっぱら専門教育を受けた将校の仕事で、運動物理学や力学の理論から弾道学を学んでおり、おそらく普通の計算尺と方眼紙くらいあれば苗頭の計算など可能だったのでしょうが、「消耗戦が進むにつれて下級将校の絶対数も不足し、徴兵した現役兵の中から乙幹資格者を選別し、理論などを深く教育することなしにケースバイケースでの専用計算尺の操作だけ教育して苗頭を計算させるようにするため、難しい記号などを避け、すべてかっこ付きの番号で操作をさせるための簡易な計算尺を新たに作る必要があった。」というのが新旧二種類の砲兵用計算尺が作られたきっかけではないかと思います。またこの計算尺に付随した教本があるはずですが、まだ目にしたことはありません。
 さて、この苗頭計算尺の使い方ですが、さすがに砲術理論は専門外(いまどき自衛隊にでも入隊しなければこんなもの学ぶ機会もないでしょうし)ですので、さっぱりわかんない(笑) でもまあ、単一用途の特殊計算尺は計算尺コレクターの人気は高く、まして戦時中の一時期にしか作られなかった正真正銘のHEMMI計算尺ですから、まともにオークションに出品されたらさぞかし落札額が高騰するのでしょうね。
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February 15, 2010

HEMMI カロリー計算尺

 HEMMIのカロリー計算尺はNo.P267やNo.P270などとともに昭和40年代の中盤以降に登場した特殊計算尺で、当時の社会情勢としてすでに一般の計算尺は劇的に価格が下がってきた電卓に駆逐され、その殆どが教育現場での使用に限定されつつある状況であったためか、その生産を山梨の技研系メーカーに丸投げしたような形で製造された計算尺です。そのため、エージングなどにコストの掛かる竹製ではなく成型品の切削加工で済む塩化ビニール素材の樹脂製品となっています。この手の保健衛生系計算尺は8インチの体重バランス計算尺というものがありましたが、この計算尺は性別年齢や体格さらに労働内容なども勘案して必要摂取カロリー量などの計算を行う計算尺のようです。対象は保健師さんとか栄養士さんあたりでしょうか。表面尺度は:キソ代謝、所要量、労作別、キソ年齢(男女)、フツウ年齢(男女)、1〜5才身長、6−身長、1〜6才体重、6−体重、体表面積の10尺。裏面は100g中成分、消ヒ成分、ハイキ率、CI,C,D,A,Lの8尺です。ヘンミ計算尺の最後のパンフレットにも市販特殊計算尺4種類のうちの一本として掲載されているため、その存在自体はよく知られていますがその割には現物が意外に少ないようで、捜してもあまり見つからない計算尺の代表かも知れません。
 また知る限りでは初期のものが固定尺を繋ぐブリッジの成形色が緑で、後のものが滑尺やカーソルバーと色味が統一され、アイスブルー色となります。おそらく初期型は余ったP261あたりの部品流用なんでしょうね。さすがは甲斐商人(笑) そういえば身幅はP253より少々広いP261と共通です。価格はヘンミのパンフレット上では3,500円の定価が載っています。
 入手先は岐阜県の垂井からでした。製造記号が「ZH」ですからついに50年代に突入した昭和50年8月生産分。Z記号の計算尺が欠落していましたので、おかげで最終生産年度のヘンミ尺が何とか加わりました。外箱と説明書が失われていましたが本体はビニール袋に納められたほぼ未使用品です。ケースは青蓋のブロー成型品ですが、後期の角張った薄いケースと異なり初期のP261同様の角丸ケースでした。製品名を表す「Calorie」のオーバルシールがケースの表裏に貼られています。
Calorie
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February 14, 2010

Nestler Nr.26 MECHANICA

ARISTとA.W.FABERとともにドイツ計算尺御三家の一角を担うNestlerの計算尺です。Nestlerの計算尺の初期のものはセルのはがれ止めに小さなマイナスねじを打ってあるのが特徴ですが、見かけでは初期のA.W.FABERのものとほとんど変わらず、特にマンハイムタイプは画像だけ見せられてもドイツ製のどのメーカーの計算尺かわからないものがけっこうあります。この初期型のNestlerは以前のシーメンス・シュケルトのノベルティーであるPre WW IのNr.12の5インチタイプを入手しましたが、今回は10インチでねじ止めのない比較的に新しい時代のNr.26です。とはいっても戦後の同型計算尺は品番が変わっていますのでPre WW IIくらいの時代はあるでしょうか。Nestlerで一番有名な計算尺はかのアルベルト・アインシュタインを始め、ロケット工学者のフォン・ブラウンやセルゲイ・コロレフなどに使用され、まさに未来を切り開いたツールであるシステムリッツ式計算尺「Nr.23」ですが、今回のNr.26はNr.23ほど有名ではない計算尺ながら戦後はNr.0260と品番を変えながらも実質的に全く変わらない計算尺が1975年に至るまで作り続けられていたようで、まったく以て頑固なドイツ人気質を伺わせるような計算尺です。戦後のNestler計算尺は他社同様にコストダウンからプラスチック化していき、計算尺末期には日本の技研系OEMの計算尺なども現れたようですが、この10インチ片面計算尺シリーズのダルムスタッド、リッツ、メカニカの三種類はマホガニー製のものが発売され続けてきたようです。
 このNr.26メカニカの基本はA,B,C,D,尺のマンハイムとその派生型ではなく二乗尺三乗尺の組み合わせなのです。表面はRohr (phi)mm // Schnittiefe a, Hobein m/s, (Pattenbr.) D.H./min [ Schnittgeschw.m/min, Vorschub s/U in mm Vorschub s/U in mm, C ] D th in min. で側面にtan, sinが刻まれていますが、実はこの計算尺は旋盤による金属の切削加工のための切削速度や回転数などを計算する特殊計算尺なのです。この計算尺の原型はFREDERICK TAYLORという人によって開発され、A.W.FABERなどでも348や1-48などの型番で1970年代まで発売され続けています。日本ではなぜかHEMMIをはじめとする大手メーカーでこの種の計算尺を市販したことがないのが不思議ですが、機械メーカーが特注品として作られたものが幾種類かあったようです。しかし、旋盤加工の現場でしか使用されなかったゆえに、我々が目にすることは殆どありません。現場じゃ何年も昔からNC旋盤の時代ですし…。
 入手先は東京からで、おそらくドイツ本国からの買い付け品に混じっていた品物のような感じでした。かなりの長期間発売され続けた計算尺ですから、製造年代に関して興味のあるところですが、Made in W.Germanyの刻印が見あたらず、やはり辛うじて戦前もしくは戦時中の製品なのではないかと想像します。世界にはこの手の旋盤切削計算尺を専門に研究している人がいますので、興味のある方は検索してみてください。
 しかし、日本に同様の計算尺がなかった理由ですが、戦前における工業力の差もさることながら、徒弟制度的な技術の伝承という面において、そういう計算は親方の「感」に頼っていて、それは弟子が長年親方の仕事をともにすることによって習得できる技であり、同じドイツはマイスターの国ですが、そういうものは感にたよるのではなく、合理的な方法により算出するという違いがこの手の計算尺の必要性の有無に影響していたのかもしれません。
Nestler26
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August 22, 2009

HEMMI No.P403経営用計算尺(販売業用)

 HEMMIの特殊計算尺は他の企業との共同開発によって誕生したものが数多く発売されていますが、この経営計算尺も株式会社田辺経営という経営コンサルタントらしき会社とのコラボによって発売された計算尺です。現在でも社名はカタカナに変わりましたがコンサルタント業をメインに会社は存続しています。この経営計算尺は製造業用と販売業容の2種類があり、それぞれNo.P402とNo.P403と400番台の特殊計算尺の型番が与えられています。発売は昭和40年代に入ってからで、ベースはベストセラーNo.P253と同じものですから、生産は山梨の技研系OEMということなのでしょう。おそらく長期間にわたって生産され続けたものではなく、短期間に製造されただけのものであったと思われますが、意外と古い文房具屋の片隅からデッドストック状態で発見される機会もある計算尺です。やはり純粋なる計算用具としての計算尺よりはあきらかに売れなかった計算尺なのでしょう。 この P402と P403は解説書が 付いたセットと一般の2種類が発売されていたようです。 入手したのは販売業用のNo.P403のほうです。入手先は以前に稀少尺であるNo.274と同じ人からで、大阪は高槻市からの入手になります。外箱及び取り説はありませんでしたが、プラケースの中にリファレンスシートが入っていました。刻印は「RB」ですから昭和42年の2月製です。
 このNo.P403は緑色成形色のブリッジが接着された裏面が√10切断ずらし尺をもつ普通の計算尺で、表面が経営分析に使用する各種尺度を持ち合わせた部分になります。また裏面の普通計算尺部分にはLL1,LL2尺が刻まれていて、この部分で複利計算と成長率などの計算を行うようになっているようです。表面で行える経営分析計算は説明書がないので全部の機能はわかりませんが、総資本経常利益率、損益分岐点操業度、限界利益率、売上高増加指数、自己資本比率、自己資本比率、自己資本増加指数、支払利息率、流動比率、一人あたり年間経常利益、一人あたり月間付加価値高などを計算して企業としての経営分析を行う資料を得るものですが、当然のことながら会計学の知識が少々ないと意味のない計算尺であることは、高周波の知識なしにNo.266を欲しがるようなものでしょうか(笑)
 この計算尺は400番台の型番が示すとおり特殊計算尺のカテゴリーに入っていますが、デッドストックが各地から発掘されるためか400番台の計算尺にしては比較的に入手しやすく、続けて数本出品が続いたために落札金額がさほど上昇せず入手に至ったものですが、その後また出品がしばらく途絶えてますので、次回は又けっこうな金額になるかもしれません。
Hemmip403
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August 21, 2009

発破標準装薬量計算器 by コンサイス

Explossive 「Fire in the hole !」というのは直訳すると「爆発するぞ!」とでも言うのか、鉱山や土木工事現場で発破をかけるときの決まり文句ですが、それが転じて軍隊で手榴弾をぶち込み、爆破する際に回りに注意を促すときのかけ声にもなっているようです。その発破の際に装薬量を計算するための計算尺が存在すること自体、まったく知りませんでした。この発破標準薬量計算尺は軍用ではなくトンネル工事や鉱山の坑道掘進などに行われる発破の装薬量を計算するための計算尺で、見た目でもわかるとおり円形計算尺のコンサイスのOEM計算尺です。この手の特殊用途の計算尺がコンサイスにはたくさんあったようで、当方の手元にもNKKの薄板ロール重量計算尺や簡易測高計などがありますが、その殆どがコンサイスのカタログには存在しないものなので、町の古い文具店の片隅から見つかるようなものではありません。他の現場でどうなっているかはわかりませんが、炭坑では事前に発破係員が記載する発破係員日誌などという発破実施予定表が存在し、実施場所、発破回数、時間、ガス炭塵の状況、発破孔、装薬種類、装薬量などを詳しく記載して担当課長の決裁を受けるような仕組みになっています。当方が以前入手した炭鉱読本という技術書のなかに偶然、昭和16年という古い時代の発破係員日誌が2枚挟まっていました。大焼層という炭層が卸の場所であり、三菱系の炭鉱から出た書籍だったために鯰田か方城のどちらかの炭鉱だろうと特定しかねていましたが、別なページに方城炭鉱購買部のレシートが挟まっていましたので、この発破係員日誌も筑豊は三菱方城炭鉱のものだということが特定できました。
 この発破標準薬量計算器は岡山にある中国爆砕工事株式会社という土木工事会社が東京のコンサイスに作らせたものです。この会社は近年まで存在していたようなのですが、公共工事の削減の影響か、平成18年末に社会保険の全喪失届けを出して廃業してしまったようです。この計算尺がどの程度の数を作られたのかはわかりませんが、おそらく一回きり生産の特注品でしょう。年代的には説明書に引用された参考図書が昭和46年発行のものが多く、昭和40年代後半あたりの製品なのは間違いないところでしょう。構造的にはA面とB面の両方がある両面型の計算尺です。この装薬量計算というのはハウザーの基本式によって成立するもので、別表に従って使用する爆薬の威力係数(日本では60%桜ダイナマイトを標準値1.0とすると往年の採炭学教科書にありました)と破砕する岩石の抗力係数を調べ、最小抵抗線、孔間隔、および孔長を実測したのち、A面の岩石抗力係数と爆薬威力係数を合わせ、目盛りを合わせたまま連動カーソルを最小抵抗線の目盛りに合わせればその外側の目盛りで発破係数が求められる。このまま裏返してB面の孔間隔と孔長の目盛りを合わせ、目盛りを合わせたまま最小抵抗線の目盛りをカーソルに合わせればその外側の赤色目盛りで装薬量を求めるというものです。こういう発破装薬量の計算というのは、かなやま友子の「せっとうたがねでチンチン」の時代から親方・子分の間に経験則による技術伝承がなされてきたものなのですが、近代の土木工学における合理的な計算法を経験則に頼らず簡単に行うためのツールとしてはこの計算尺はなかなかの優れものだったのでしょう。ところが、さすがにこういう計算用具を必要とする事業所には限りがあり、世の中に出回った数もおそらくは特注の最低ロットに近い数しか出回っていないことは容易に想像できます。特許出願中の計算尺ですが、果たして特許は下りたのでしょうか?
 入手先は以前に何度もけっこうな稀少尺を入手したことがある東北一の学都、仙台市からで、説明書と使用のしおりの2冊が含まれているおそらくは未使用品でした。まあ、その他の特殊計算尺同様にこの計算尺が発売された時期にはおそらくプログラム電卓まで発売されるにいたり、あんまり出番がなかった計算尺かもしれません。これも電卓以降に出現した計算尺の宿命でしょうか。
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August 16, 2009

98ノート狂騒曲

C 当時住んでいた富里町、現富里市の七栄にMacintoshの販売でも有名だったSTEPの富里店があり、説明もサポートもとりあえず求めない当方は出たばかりのLC630をはじめ、かなりのディスカウントプライスでPERFORMER 588やDOS/V機のCOMPAQ PROLINEOR およびEPSONの98互換機PC-486HAなどを購入し、X-68000ACEを含めて一時期「AMIGA以外で動かないパソコンゲームタイトルはない」(さすがに8ビット機は除きますが)環境が整っていた時期がありました。そのEPSONのPC-486HAは唯一の98互換機でしたが、終末期の98互換機らしく、486DX2 66MHzでWindows アクセラレーターも備えるという98の資産を活用するだけではオーバースペックな内容のパソコンでしたが、EPSONの98互換機からの撤退により、PC-486はWindowsがWin95までは対応したもののWin98の対応が切り捨ててしまったため、この機械ではWin95にアップデートしたまでで終わってしまいました。FDD 3ドライブ搭載でFM音源も動作したので、懐かしの98系ゲームにはもってこいのマシンでしたが、CDドライブを内蔵出来ず外付けになってしまうため、CD-ROMが必要なタイトルはDOS-V機の方を起動してしまうため、ゲーム以外には使用することもなく、いつの間にか電源も入らなくなってしまいましたが、こないだ久しぶりに電源を入れてみると問題なく起動しました。内蔵電池くらいはもう駄目かと思いましたが、日付も狂っておらず他のマシンが全て駄目になってもこのPC-486HAは最期まで生き残るのではないかと思わせる程でした(笑)
 しばらくぶりでMS-DOSのコマンドをこのPC-486HAで打ってみましたが、パラメータとかスイッチとか既に忘却の彼方で、FDフォーマットのコマンドにどんなスイッチを追加したら1.44でフォーマット出来るのかなんていうことまで、まるで記憶喪失にかかったように忘れ去っていました。ところが記憶に残っていないものの、指が勝手に覚えているということはけっこうあるようで、しばらくいじっていたらさほど不自由なく扱えるようになりました。
 こうなったら個人持ちではついぞ縁がなかった98ノートをDOSのみで操作してみたい衝動に駆られましたが、条件としてはPC98独特の640X400表示でTFTカラーのNEC PC-9801ノートというと、386SX搭載のPC-9801 NC、486SXのPC-9801 NA/C、同じくPC-9801 NX/Cというところなのですが、どちらにしても15年は経過しているため、そのままで作動するというものは少なく、電源が入らずに起動しないというものが殆どになってしまったようです。不動になってしまったマシンだと1台数百円で入手は可能ですが、NX/Cだけはさすがに不動でももう少し金額が張るようです。どっちにしても本体より送料のほうが嵩んでしまうため、同一エリア内限定で対象物を探しました。その結果、HDD付きNA/Cを300円で、NX/Cを2台で1,000円という金額で入手しました。どちらも不動のジャンク扱いであることは言うまでもなく、98ノートが必ず陥る欠陥部分である液晶パネル根本のプラスチック部品が折れてしまってぐらぐらになっているものばかりです。これらの98ノートはまず電源基板上の10μF 16Vの電解コンデンサーの交換が必須ですが、このコンデンサーは5月に上京した際に秋葉原で30個ほど入手済みでした。とりあえず手始めにNA/Cのほうを分解してまず液晶パネル根本のプラスチック部分を分解してヒンジを取り外し、プラ部分は丁寧に破片を集めて2液性の即乾性エポキシ接着剤で二度とバラバラにならないように隙間部分にもたっぷり樹脂埋めしました。翌日まで乾燥させ、肉やせした部分をさらに樹脂埋めしてさらに翌日、オーバーホールしてグリスアップしたヒンジをネジで接合し、ヒンジ部分の再生が完了しました。電源部分のコンデンサーを交換し、それだけで一度WIN 3.1が立ち上がったのですが、すぐに起動不能に陥り、実体顕微鏡で基板を観察するとありとあらゆるコンデンサーが液漏れを起こし始めていました。おそらく電源部分のコンデンサーを交換したことで正常な電圧がかかった他のコンデンサーが連鎖的にパンクしていったようです。手持ちのコンデンサーにはないような容量のものがあったため、近所のハム屋で入手したものはサイズがノートの基板には大きすぎ、何個か巧みにオフセットさせて交換したものの、きりがなくなって現在放置中です。最近の98ノートは経年で電源系コンデンサーの交換だけではうまく動かなくなりつつあるのかもしれません。
ほぼ隣の町のようなところから2台のNX/Cを入手しましたが、双方とも液晶パネルのヒンジが破壊していて、あまつさえ一台はベース部分にも大きくひびが入っていました。この2台のNX/Cのうち比較的にきれいな方を生かして再生を進めることにします。売り主の話では外見のきたない方はブートすることもあるが、双方ともにFDDの読み込みが不良とのことで、場合によっては二個一にしていいとこ取りで1台を仕立てるという作戦に出ます。外見のきれいな方を分解してまずヒンジ部分を分解して樹脂埋めし、ヒンジはオーバーホールして動きがスムーズになるようにしました。取り出したメインのマザーボードは電源系のコンデンサーを無条件に交換し、元通りに組み立てて電源をつないだ後にブートさせてみると、これだけでは電源が入りません。マザーボードの各コンデンサーを双眼実体顕微鏡でよく観察すると、液晶の出力系に連なるグラフィックボードとおぼしきサブ基板のコンデンサーが液漏れしているようです。このコンデンサーも交換し、再度組み立てて電源を入れると「ピポッ」という音と共にメモリーチェックが始まりました。ところがメモリーチェックの段階でシステムエラーを起こし、ピーの連続音とともに赤文字で「Parity Check Error」の表示が出て起動が止まってしまいます。どうやらオンボードメモリーに障害があるようで、こうなったら外見の汚いほうのマザーボードをはずしてこちらに移植を企てます。このマザーボードを移植して電源回路のコンデンサーを交換した後、組み立てなおして電源をつなぎ、起動ボタンを押すと無事にメモリーチェックが始まり、システムディスクを要求するようになりました。そしてNA/Cに付いていたHDDを入れて起動してみると、見事にシステムが立ち上がりましたが、なんかおかしいと思ったら、起動音のピポッが鳴らないのです。どうもこのマザーボードは外付けの出力端子が追加してあったため、この回路を除去してこちらに移植したのですが、圧電ブザーの配線が切られていたようで、そのためにピポッがならなかったようです。そのため、交換した元の圧電ブザーを外してこちらのほうに移植し、組み立て直すとちゃんとピポッ音がでるようになりました。FDDは書き込みがまったくダメで、読み込みは短いセクターのファイルは問題ないものの長いセクターのファイルは読み込めずにI/O ERRORが出てフリーズしてしまいます。もう一台のFDDに交換しても同じ状況でした。そのため、FDDのオーバーホールを行い、ヘッド摺動部のグリースアップなど行ったのですが、症状がまったく改善しません。そこでしばらくはHDDだけでいろいろと動かしていたのですが、あるとき、よもやと思い、FDDに連なる基板のパターンを顕微鏡で追ってゆくと、HDDベイと110PIN拡張コネクターの間にある5本の電解コンデンサーのうち、左側の82μF 25Vの電解コンデンサー2本に液漏れを発見し、このような中途半端なコンデンサーは市販品が見あたらないために33μFと47μFをこの狭いスペースに組み合わせて半田付けし、その結果FDDからの読み込み書き込みはまったく問題なくなりました。ところが今度はHDDからのファイル読み込みが怪しくなり、どうもその隣の120μFの電解コンデンサー3本に液漏れが伝染していったようです。ぼろぼろの水道管直しではありませんが、一カ所穴をふさぐと水圧が高くなって他の脆弱な部分に水漏れが伝播していくというものでしょうか…。この120μFに近い容量のコンデンサーは近所では入手不可なので、レストアはこちらもペンディングになってしまいました。FDDを直す前に2台のNX/Cを入手した同じ先から倍速のODPと12MBの拡張メモリーを入手してあり、けっこうなパフォーマンスのアップに感動していたところでしたから、早く代替品のコンデンサーを入手しなければ…、しかしゲーム機にするには音源がないのが致命的ですが、DOSでの文章作成は字が大きくてそろそろ怪しくなった目にも快適です。またマウスに依存せずにコマンドで操作するインターフェースは慣れるとかえって楽なことが実感できました(笑)ただ、この時代の98というのは国民機などと呼ばれたスタンドアローン的な存在だったからか、他のファイル形式にコンバートして他のコンピューターでも読めるような機能が備わっていないソフトばっかりだったようで、98のワープロで書いた文章が今では他に応用出来ないのが不満ではありますが。
 また後日、PC-9801 NS/EのジャンクをACアダプタ付きで200円ほどで入手しました。386SXの16MHzというスペックで当然ながらモノクロですが、DOSで主に文章を打つにはなんら問題はありません。この機種からHDDがおなじみのカートリッジ式になったようで、NA/CやNX/Cなどとも共通です。一瞬電源が入るが起動不能とのことで、当然の事ながら電源基板のコンデンサー抜けの症状ですが、このNS/Eの中身をあげてびっくり。なんと電源系サブ基板の裏側に10μF 16Vと1μF 50Vの表面実装用コンデンサーがあり、半田で固定されたこの基板を抜かなければこのコンデンサーの顔も拝めないのです。この基板を抜くにしても当方の道具としては半田吸い取りポンプと吸着線くらいしかありませんので、作業には非常に困難が予想されました。とりあえず表側から半田を吸い取り、吸着線スルーホールの半田まで除去しようとしましたが、けっこうパターンを切りまくりながらこの基板を取り出すことには取り出したのですが…。結局は予想通り10μF 16Vのコンデンサーは激しく液漏れしていて周りのICの足まで腐食させている始末でした。この電源基板を元通りにするには剥がしたパターンまで再生しなければならず、故障原因はわかりましたが、果たしてレストアが完了する日は来るのでしょうか(^_^;)たぶん、もう一台NS/Eをどこからか調達してきて今度は電源系のサブ基板をメインのボード側から抜いてコンデンサーを交換し、いいところ取りで二個一にしないとダメでしょうね。やっぱりこの手の古い98ノートは最低でも2台同じものがないと、完動品をでっち上げるのが難しそうです。

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August 12, 2009

起動しないPowerBook G3 Pismo

Pismo
 PORTABLEの再生に一応は成功したことに気が大きくなったわけではありませんが、現在OS9環境が今更ながらのOSXへの移行で、CLASSIC環境ではIMのATOKによる日本が入力が使えず、FILEMAKERのプラグインであるMac用アマチュア無線交信LOGソフトCQLOGでの地名入力や氏名の入力などが、おバカな「ことえり」だけしか使えないことに耐えられなくなったことからLOGソフトはこれも今更ながらWIN XP用のTURBO HAMLOGに完全移行するとともに、OS9の専用機としてPOWERBOOKを導入することを画策しました。
ターゲットは最近起動しない個体ばかりになったことでジャンク扱いの投げ売りされているPOWER BOOK G3です。それも数年前まではけっこうな金額でやりとりされていた2000年2月モデルのPISMOを狙います。FIER WIREが搭載されたロジックボードのアーキテクチャーがG4 AGP相当であり、SCSI機器がまだまだ残っている当方にはLOMBARDという選択肢もあったのですが、やはり設計上新しいロジックボードの方が延命措置に対応しやすいのではないかということからPISMOを探し出しました。本当は最終2000年10月モデルのほうがよかったのですけど、基本的にHDDの容量とOSのバージョンしか違わないことと、POWERBOOK G4がまもなく鳴り物入りで発売されたため、玉数が2000年2月モデルと比べると格段に少ないようです。
 送料を節約するため、同一エリアから落札したPISMOは400MHzのメモリー198MBでHDDは標準の6GB。殆ど使われたような傷のないきれいな個体で、液晶パネルの滑りもなく、キーボードのテカリも全くなかったことから、どうやらしばらく使われただけで何年もしまい込まれたものであることがうかがわれました。元箱はありませんでしたが、システム9.0.2のCDやインストラクションなども付属しています。この状態で落札金額2,980円。数年前なら5万では購入できなかったでしょう。もちろん「起動せず」のジャンク扱いで購入したのはいうまでもありません。
 POWERBOOK全般のバックアップ電池はPRAMデーター保持が目的ですが、それ自体が充電されるリチウムの二次電池です。そのために、充電能力が低下するとその機能を果たさなくなります。またPOWERBOOK G3の場合は内蔵のバッテリーからPRAMバッテリーに充電電力を供給するために、内蔵バッテリーの寿命で電力が供給されなくなると、常にDCアダプタを繋がない限りは数分で放電してしまい、データー保持が出来なくなるようです。このPRAMバッテリーの電力供給がないとDCアダプタを繋いでも起動出来ないということになり、そろそろ内蔵バッテリーもPRAMバッテリーも寿命が尽きたPOWERBOOKが起動不能ジャンクとしてオークションに沢山出回ることになるわけです。すなわち、内蔵バッテリーが死んでいても、DCアダプターからの電力供給がちゃんとあって、PRAMバッテリーさえ充電能力のある新しいものに換えればかなりの確率で起動に成功することが予想できました。
 届いたPISMOは予想通りDCアダプターを繋いで起動ボタンを押してもうんともすんともではなく「ポーンともジャーン」ともいいません。まずはDCアダプターの電圧チェックをするためにステレオミニプラグと同型の本体側プラグにテスターを当てようとしましたが、先端は使用されておらず、奥がマイナスとプラスにアサインされているので、そのままではテスター棒が届かず、導線で鍵を作ってテスター棒の先端にワニ口にかませ何とか測定したところまったく電圧が出ていませんでした。DCアダプターの本体は発火の危険があるために回収されたM4402ですので、コンデンサ抜けを疑って慎重に接着を剥がして二つに分解。中身をみてもコンデンサ等に液漏れや膨らみなどの異常はないようです。ためしに出力側の電圧を計るとちゃんと24V出ていました。そうなるとコードのどこかで断線を起こしている訳ですが、殆どはプラグの近辺で断線を起こすことは容易に想像出来ます。そのため、プラグから15センチくらいの所でコードを切断し、残ったコードのアタプタ側からの導通を調べるとこちらは正常でした。そのため、予想通りこの15センチのどこかで断線している部分があったわけです。残ったコードにプラグ部分を着ければいい訳なんですが、プラグは一体に成形されているために分解出来るような構造にはなっていません。そこはアマチュア的な発想からこのプラグのビニール部分を切開して金属のプラグ部分を取り出し、残ったコードに半田着けしてからビニール部分を再生するという手段を講じました。これがなかなか手間のかかる仕事で、あまつさえ外周部のカラーとマイナス側に430kΩの抵抗が装着されているため、再生までたっぷり2時間くらいの手間が掛かったような事態になりました。まあ、なんとか実用に耐えるレベルにプラグを再生して出力を計ろうとしてテスターを当てると一瞬ショートさせて火花を散らしましたが、これでちゃんと出力が出ていることを確認。アダブタ側にも損傷無く、アダプタ本体もシアノアクリレート系接着剤で外装を接着して一件落着。
 ためしにアダプターを繋ぎっぱなしにして48時間置いておくもPRAMバッテリーには充電されないようで、起動ボタンを押しても起動できませんでした。
そうなったら新しいPRAMバッテリーを買うしかありませんが、これはネットを捜せば今でも容易に購入する事が出来ます。とはいえ、ロジックボード不良ということになるとPRAMバッテリーを交換したところで無意味なのですが、高知で個人営業の修理屋をやっている人が起動までの完全な技術的サポート込みでPRAMバッテリーを販売していて、万が一PRAMバッテリー交換で起動しない場合はロジックボードの貸し出しまでしてくれて原因究明にとことんつき合ってくれるというのがあり、ここから約4,000円でPRAMバッテリーを送ってもらいました。何か本体より遥かに高いPRAMバッテリーを購入するというのは内心忸怩たるものがありますが、ここまで来たら仕方がありません。6160108 ロジックボード交換までしなければいけなくなったらどうしようかと思いましたが、届いたPRAMバッテリーをキーボードを剥ぐって古いものと交換し、DCアダプターを装着して起動ボタンを押すとジャーンという起動音とともにあっさりと起動してしまいました。起動不能の状態だったからか、HDD内のデーターが残っています。そのことから推測するとどうも業務用個人持ちのパソコンだったらしく、2005年の4月以来起動不能に陥ったようで、その後使われた形跡がありませんでした。ネットを通じて外部にもアクセスを全くしなかったらしく、OSやファームウエアのアップデートもiTuneのダウンロードもまったくされていませんでしたので、ファームウエアをアップデート後、OSを9.0.2から9.1を経て9.2.2にアップデートしました。WEBブラウザはIEの5.0のままで、5.1にもアップデートされていませんでした。今時MICRO SOFTでもこんな古いMAC用のブラウザを配布していません。ところが蛇の道は蛇で今でもバージョンの古いWEBブラウザーでホームページがどう見えているのかを検証するために必要なのかIEのありとあらゆるバージョンを配布しているところがあり、当然英語版のみですが、Ver5.1.5をダウンロードしました。IEの5.1だと今や最新のJAVAやFLASHなどに対応していないため見ることができないWEBページが増えてきましたが、OS10.2.8のIEやSAFARIの遅さにへきへきしていましたので、最近はオークションなどの検索はこのPISMOに移行してしまいました。どうしても動画などをサクサク見たいのであればWIN XPマシンのFIREFOXをを起動させてしまいますが(笑)iTuneもすでにVer1.0は配布しているところが見つからず(MP3デコーダーの関係でこちらの音質のほうが好みでしたが)OS9の最終版2.2をAPPLEからダウンロードしました。HDDが6GBしかないので、多くのMP3データを入れるわけにはいきませんが、さすがG3はG4機に比べるとMP3データへのデコードに掛かる時間が格段に長くなりました。あまりCPUに負担が掛かる作業は期待しない方がいいでしょう。SCSI機器を使うためにはPCカードスロットにSCSIカードを刺してそれにSCSI機器をケーブルを介して繋がなければいけないのですが、ジャンク扱いでRATOCのREX-CB31を購入し、ドライバーもダウンロードしたもののSCSIケーブルが欠品で、このPCカード用SCSIケーブルを別に購入すると意外に高くつくのでいまだにスロットにはカードが刺さっただけでSCSI機器を利用するまでには至っていません。けっこう機器との相性はシビアなものがあるらしいですが。ところで、このPISMOからDVDのソフトウエアエンコードが可能になったからか、けっこう快適にDVDを見ることが出来るようになり、いままでデスクトップ上のモニターでしか見ることの出来なかったDVDがデスク上を離れて何処でも見ることが出来るようになったというのが一つの収穫でした(笑)

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August 10, 2009

Macintosh Portable レストア奮闘記

090812_090539 Macintosh Portableというと、マッキントッシュで最初の液晶画面を持ったポータブルコンピュータで、発売は1989年ですから今から20年前になります。その発売価格はHDD内蔵モデルで軽く100万円を超え、おいそれと個人で購入出来るものではありませんでした。CPUはモトローラの68000でクロックは16MHzというものでしたが、当時の個人ユーザーは同時期に発売された68030を搭載した一体型モデルSE/30のほうに目がいったようで、Portableのほうは当初からサブマシンとして外へマッキントッシュを持ち出せることに価値を見いだした一部の贅沢な人により、日本ではほんの僅かな数が出回ったにすぎないようです。一説によると2年あまりの間に400台しか流通しなかったとか。我々コンシューマーが手軽にMacのポータブル機に手を出せるようになったのは、PowerBookの100(開発コード:SAPPORO)を待たなければいけません。発売当初の1989年にスペースシャトルに乗って宇宙に飛び出した記念すべきマッキントッシュです。無重力状態でイジェクトしたフロッピーを飛ばす映像が残っているそうですから、youtubeあたりを検索すればみることが出来るかもしれません。
 当方がデスクトップMACのサブマシンとして個人的に仕事用として手にしたのはPowerBook 145Bですから1993年のことです。当時にしてもモノクロの2階調の液晶ディスプレーにも関わらず、25万円もしました。もっとも一ヶ月もたたないうちに定価の改定があり、同じモデルが18万に値下げされてへこみましたが。ということで、マッキントッシュのノートに関してはまともに購入したのはこの145Bだけで、拡張性の問題と、自宅と職場の両方にデスクトップを置いておくという環境が長く続いたために、PowerBookをかついで歩く必要が全くなく、雷の日にサージ対策でデスクトップの電源を落としてPowerBookのバッテリー駆動でパソ通のレス作成くらいしか利用していませんでした。その後購入して3年もたたないうちに我がPowerBook 145BはケンジントンのPowerBook用ショルダーケースと一緒に知り合いの長女(当時中学一年)のファーストコンピューターとなりました。
 当方、Macintosh Potableは過去に一度だけしかさわったことがありません。たぶん秋葉原の中古マックを扱っていたところに飾ってあり、システムもなにも付属していないジャンク扱いとしての商品でした。以前、仕事で使用していたRICOHのマイツールLX・ラップトップ機にテンキーとトラックボール部分だけ幅広なのが印象的なマシンですが、さすがはマックだけあってしゃれたデザインを感じさせました。しかし、当時の漢字トーク7.1を走らせるには最低でも68030の25MHzにメモリーも8MBは必要で、そのことからも当時すでに「まともに使うことが難しい」マシンだったため、そのときはデザインに惹かれて買って帰るということはありませんでした。それからすでに16年の歳月が経過しており、今年は記念すべきPortableの発売20周年の節目の年に、自らの意志とは無関係に、なんとわが家にPortableが一台やってきました。最近はオークションにも68Kマックは殆ど掘り出し物はありません。オクではなく高校同期から譲り受けたものなのです。付属品はマニュアルやシステムディスクを含めてすべて揃っていました。どういう使い方をしていたのかはわかりませんが、付属のシステムディスク類は使われた形跡がなく、ハイパーカードなどはマニュアルも含めてシュリンクされたままです。貴重なシステムケース入りで、探している人が多いネームカードは未開封の状態で入ってました。
 「Open Me First」というファイルに入っている「Your Apple Tour of the Macintosh Portable」というフロッピーディスクをSystem 7.5の入っているパワーブック540Cのスーパードライブで開いてみようとすると、ダメでした。HDではなくDDの800Kでフォーマットされているのかと思い、フロッピーの識別穴の片方をテープで塞いでスーパードライブにかけても認識してくれませんでした。この時代のマッキントッシュからは殆ど10年くらい遠ざかっていますから、どうすれば読めるんだったかすっかり忘れたなぁ(笑)漢字トーク7.1しか入っていないマシンなんか手元にありませんしねぇ。起動音のジャーンが出なくなったという症状が出ており、おそらくサウンド回路周辺のコンデンサー抜けが疑われました。Portableに限らず1989年のSE/30などに至るまでコンデンサーの劣化に起因するトラブルというのは枚挙にいとまがなく、出来ればもう少し耐圧の高いコンデンサーにすべて交換したほうがいいかもしれません。同じモトローラ互換の68000を使うSHARP X-68000の電源回路に使用しているコンデンサーも同様のトラブルを抱えており、時限爆弾のようにある日突然、一部のコンデンサーが抜けて回路のショートを起こし、周辺のトランジスタやダイオードを焼いてしまうという故障をほぼ100%の確率起こします。また数の多いSE/30などは素人修理でコンデンサーを交換して、半田付け不良でさらにトラブルを起こしている個体もあるので注意が必要です。しかし、スペースシャトルで宇宙にまで行ったPortableで使用しているコンデンサーがかくもクオリティーの低いものだとはにわかに信じがたい事柄ですが、交換しなければいけないコンデンサーは47μFの耐圧16Vとか同じく470μF、1μFあたりと容量が統一されてますので、部品を集めるのは比較的に楽です。まあ念のために耐圧32Vあたりに変更したほうがベターでしょう。内蔵バッテリーは円形シールドタイプの鉛蓄電池が横に3本直結されたものが四角いバッテリーケースに封入されており、鉛電池の直列3本ですから公称電圧は6Vです。鉛蓄電池は常にフローティングで満充電に近い状態にしておく必要があり、使わないで何年も放っておいたPortableのバッテリーは充電可能な状態のものが「ない」と言い切ってかまわないほどです。そのため、DCアダプターで使用すれば良さそうなものなのですが、PortableのDCアダプターは鉛蓄電池のフローティング充電のみに特化していて、単独でPortableをブートするだけの容量がありません。そのため、友人はこのPortableを送ってくれる前に、実験用の安定化電源をつないでブートすることを確認したそうです。100系のパワーブックのDCアダプターを使用すれば単独ブートが可能らしいですが、すでに当方の手元には100系パワーブックは一台もなく、内蔵電池が使えないというのも悔しいので代替の鉛シールドバッテリー捜しました。単一電池と比べるとふた回りも太い円筒形鉛シールドバッテリーは現在のところ国内では市販されている様子がなく(海難救助信号用機器のバッテリーに似たようなものがありそうでしたが調べがつかず)Portableオーナーがどういうように工夫しているかと情報検索すると、GS-YUASAにPORTALACという制御弁型鉛シールドバッテリーが市販されていて、このPE6V4.5というバッテリーをバッテリーケースの中に仕込む改造が主流になっているようです。このバッテリーは6Vで容量が4Ahというもので、オリジナルの5Ahの20%減の容量ですが、自分で組電池を作って発火などのリスクを考えたらこのバッテリーを使うしか方法がないようです。ネットで値段を調べると約6,000円(@@;)とてももったいなくて購入出来る金額ではありませんが、そこは蛇の道は蛇で、そもそもGS-YUASAのPORTALAC自体が国産ではなく輸入品のOEM商品ため、似たような輸入のバッテリーがないかと検索を掛けまくりましたらあっさり見つかりました。値段も1,000円から2,000円という手頃な価格ですからこれを使ってバッテリーの再生をしないわけには行きません。ゆうちょ口座振り込み可でエクスパックで送ってくれる一番安い業者をヤフオクで捜すと1,400円というところがあり、これを直ちに落札しました。バッテリーが届く前にオリジナルのバッテリーケースの分解を試みます。上蓋の回りに時計の裏蓋オープナーの通称「剥がし」を差し込んで慎重に接着箇所文字どおり剥がしていきますが、無理に剥がすと蓋を二つに割ってしまいますので、「慎重に、なおかつ大胆に」剥がしてゆくと、比較的きれいに中身を取り出すことが出来ました。届いたバッテリーを自動車用の配線具で配線および元の電池にスポット着けされていた端子を剥がして半田付けし、ケースに収めるとあっさりと収まりました。このバッテリーを本体に納め、ACアダプタも繋いでキーボードを叩くもブートしませんでした。英語のマニュアルをよく読むと、バッテリーマネージャーのリセットが必要で、その操作はインタラプトとリセットのスイッチを同時に数秒間押すというもの。そのスイッチがどこについているのかもわかっていませんでしたが、結局はバッテリーマネージャーのリセット操作をしてキーボードを叩くもブート不能(T_T) こうなったらロジックボードを取り出してコンデンサの交換をするしかありませんが、しばらくキーを叩き続けると、そのうち起動音もなくいきなりシステムが立ち上がり、すぐにバッテリー残量切れでシャットダウン動作するという「とりあえず形だけブート」が確認できました。その後はバッテリーマネージャーをリセットしようがまったくだめ。やはりロジックボードのコンデンサ抜けが最大の要因のようです。このポータブルのロジックボードはサウンド回りも電源関係の回路回りも47μF,16Vの表面実装型の電解コンデンサが多用されていて、このコンデンサが経年劣化で容量抜けしており、このコンデンサとリセット・インタラプトスイッチ回りの1μFの50Vの電解コンデンサがあればブートも起動音も出るようになりそうな感じです。ところが田舎のことゆえ、電子部品を扱っているのはHAMショップくらいしかなく、そのHAMショップも最近はよっぽどのOMでも修理調整はメーカーのサービスセンターまかせで、半田ごてさえ二十年以上握ったことがないなんていう人も多いためか、電子部品の種類は限られてしまいます。そのため、地元では必要な時に必要な電子部品を必要な数だけそろえるのは不可能に近いため、ロジックボードのコンデンサ交換という作業に入れないまま、ポータブルの修理は一旦中断してペンディングになってしまいました。
 ところが、5月も20日を過ぎ突然、東京の両国で一人暮らしをしていた10才年下の従兄弟がパソコンの前に座ったまま亡くなっていたのが発見され、千葉は松戸の実家近くで葬儀が行われるため、親戚代表で上京することになりました。また変死扱いで行政解剖などの扱いになり、葬儀まで時間が空いたため、船で茨城の大洗に上陸し、水戸から電車で松戸まで移動することにし、葬儀後に秋葉原に寄って部品調達することを目論み、メモに必要なコンデンサーの種類を書き込み、夕方便の大洗行きの船に乗り込みました。パソコンを起動したままで心不全で亡くなった従兄弟は、将来の我が死に様を連想させましたが、葬儀も無事に終わって秋葉原に30分だけ立ち寄ることが出来、大急ぎでコンデンサを4種類と、たまたまAAタイプのタブ付きニッカド電池が売られていたため、hpの旧型電卓修理に使うために1ダースほど仕入れてきました。秋葉原は11年ぶりでしたが、以前より電子部品や電気系ジャンクが少なくなったとはいえ、電子部品が自由に手に入らない田舎の人間にとっては今でも宝の山のような存在です。しかし、秋葉原の町もTEX開通などで相当変わったようですが、特にアキハバラデパートがまるきり無くなって、総武線のホームがそのまま見える光景にはびっくり。よく焼き上がりの様子をガラス越しに見ていたアキハバラデパート一階のお好み焼きを妙にもう一度食ってみたくなりました。
 帰りの大洗発の夕方便は水戸市内の中学修学旅行で貸切となり、次便である深夜出航の便までなにもない大洗港で11時間足止めを食らったりしましたが無事に帰還し、帰還してから数日後にポータブルの修理を再開しました。今度はロジックボードを取り出してコンデンサ交換の作業ですが、ロジックボードを取り出すためには液晶パネルからキーボードまですべてを取り外す全分解が必要です。ところがこのポータブルはハードディスクをマウントプレートに取り付ける以外にネジがまったく使われておらず、ロジックボードの固定を含めてすべて「はめ込み」で組み立てられています。なんと酔狂な設計なことか呆れるばかりですが、今となってはかえってプラスチックの経年劣化ではめ込みの爪などを折りやすく、分解には手順を誤らないことと慎重さが必要です。分解手順はHP上に公開されていますので、それを参考に無事にロジックボードまで外すことが出来ました。ロジックボードは静電気避けにアルミホイルにくるんでおきます。翌日になってロジックボード上のコンデンサをルーペでよく観察すると、けっこう液漏れして足の部分が腐食しているものが何個か見つかりました。090602_230155今回は47μF全部と1μFのコンデンサのうち、常時電圧のかかると思しきリセット&インタラプトスイッチ回りの1μFのコンデンサを交換します。ロジックボードから元の表面実装型コンデンサを半田ごてで暖めて外しますが、足の部分の腐食なども影響しているのか、それとも手順が良かったのかあっさりと基板のパターンも剥がさずに取り去ることができました。交換用コンデンサは表面実装型の半田付けが今一つ自信が無かったので、すべて足つきの筒型電解コンデンサです。そのため、足を短くしても表面実装タイプのものより倍以上背が高くなり、上板に干渉してしまうため、コンデンサを斜めにオフセットしなければいけません。また半田付けする前に、足の長さをそろえ、足にペーストを塗って予め半田メッキしておきます。必要はありませんが、コンデンサは保険をかねて耐圧を高いものにしておきました。ボトムケースにロジックボードを納めて上板を取り付けようとするとやはりまだ交換したコンデンサが干渉しましたので、足を曲げてコンデンサを寝かせましたが、インタラプトスイッチ近くの1μFのコンデンサを寝かせる際に足をマイクロラジオペンチで押さえて曲げればよかったものの、そのまま曲げたせいで、半田付けした足元のプリント基板のパターンを剥離させてしまいました。このパターンは髪の毛一本分くらいの幅しか無く、半端なルーペで観察しても状態がよくわからず、この微細部分に半田を載せて再度コンデンサの足を付ける訳にもいきません。ここで普段はめったに使わない双眼の実体顕微鏡まで持ち出してプリント基板を観察すると、ほんの微細なスルーホールで基板裏側に繋がっており、その基板裏側の部分からジャンパー線を延ばしてコンデンサの足に半田付けし、何とか最大の危機を回避しました。部品を元通りに組み立ててバッテリーも組み込み、ACアダプタを繋いでバッテリーマネージャーをリセットしてキーボードのキーを叩くと、ピーンという何とも軽い起動音(1分間の深イイ話のジングルに使われているあの音!)を発してあっさりと起動してしまいました。ところが、ちゃんとハッピーマックが出てWelcome To Macintoshに至ってデスクトップが表示されるのですが、アイコンもメニューも出てこないんですよね。ちゃんとマウスカーソルなんかは動いているのですが、何回かリセットしてもこの現象は解決できませんでした。スリープしたまま1週間ほど放って置いたのですが、もう一度キーボードを叩いて起動を試みると、起動音とともにほんの僅かな秒数でデスクトップが表示されました。なんでだろう?と思わず首を傾げましたが、ロジックボード上の障害は思いつきません。もっともメモリーが不良であるという原因も否定できませんが、後日システムディスクから起動しなおすとあっさりとデスクトップが表示されました。どうもHDD上から英語版6.0.5で起動させるとうまくシステムが読み込みきれない現象でもあるのでしょうか。HDDの中身には往年のMAC WORDとEG WORDが入っており、システムは英語版6.0.5と漢字TALK6.0.4です。貴重なFEPであるVJEの2.1も入ってました。このシステムの英語版と日本語版はデスクトップ上のDAによってすぐに切り替えられるようになっていましたが、いかんせんPOORな標準のオンボード上1MBの内蔵メモリしか利用できないので、日本語のワープロを使おうにもメモリー不足で、最近のMacのデスクトップ上には絶滅種の「爆弾」を連発します。せめて拡張メモリーを含めて4MBのメモリーがあれば漢字トーク6上では不自由しないのですが、拡張スロットは無情にも空でした。まあ、Yoo-Editに漢字TALK6.0.7でも使用できるVer1.6.3が今でも公開されているので、わざわざ不自由な2.1変換を使って文章を打ってみるという楽しみもあります。ところで、どうやら充電池のほうに正常に充電出来ていないようで、プラグを差していても強制スリープのアラートが出続きます。また、バッテリーを外して単独で安定化電源で7.5V,440mAでスロー充電をかけ、充電の完了したバッテリーで再度起動させてみるとまたデスクトップからメニューもアイコンも消えてしまうという現象が出ました。もう一度システムディスクから起動し、再度システムスイッチャーでHDD上の英語6.0.5から起動しようとすると、漢字トーク6.0.4しか認識できなくなるという障害が発生。HDD上から漢字トーク6.0.4を内蔵メモリーのみの状態で起動させると、システム終了を選ぶとメモリー不足でシステムエラーの爆弾アラートが出てきて正常にシステムを終了できません(泣)誰かPORTABLE用拡張メモリー、1MBタイプでもいいですから恵んでいただけるような酔狂な方いませんか?
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 基盤の下に隠れた開発者たちのサインの数々


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JAIAアワードボーナス局運用中

 システム変更に伴い、ここに書き込むのも久しぶりですが、例年通り7月から我が貧乏電波研究所もJAIAアワードボーナス局として運用してきました。ところが今年は昨年と比べても極端に6mが開く時間が短く、例年2/3は50MHzで交信数を稼いでいるのにもかかわらず、今年は全くだめでした。おまけに21MHzも昨年に比べると低調で、こちらの交信数もまったく延びず、このままではボーナス局の役目を果たせないまま8月末を迎えるのかと危ぶみましたが、21MHzが開かないときには18MHzで交信数を延ばしたことと、7MHz帯の拡張が実施されたおかげで、当方のような屋根よりちょっと高いだけの自作ダイポールアンテナのような設備でも拡張バンドのなかであれば弱肉強食の世界に巻き込まれない周波数を探す事ができ、7MHzの交信数をある程度あげることができ、現在までに400交信弱の交信数をあげることができました。季節的には先週あたりから秋型の伝搬に移行しつつあり、ハイバンドの運用はますます時間的にも苦しくなりつつあります。とりあえずあと100局何とかしたいところですが、7MHzの拡張帯は相変わらず大陸のBC局のかぶりで運用できる隙間が限られてしまい、日によってはそこに何局も群がってしまう状況になると、さすがに当方のような弱小局の出番はありません…。7MHzの拡張帯で18時代に1時間ほどCQを掛けても、一局からもコールバックされないこともよくありますし。

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May 23, 2009

JARL釧路総会をパスして…

 JARLの総会として久々に8エリアは釧路根室支部管内で開催される第51回通常総会(たんちょう総会)ですが、我が町からも少なからず何人か乗用車の乗り合いで前夜祭から出席する人間がたくさんいるようです。また他エリアからも飛行機やフェリーで続々と北海道入りするJARL会員も多いようです。当方も夜中出発翌日帰りの片道7時間の長距離爆撃を企てたこともありましたが、関西方面からの人もたくさんいることですし、紛糾が目に見えている総会にわざわざ疲れにいくのもどうかと考えていたところ、なんと千葉の従兄弟訃報が入り、これから漁船じゃなくてフェリーで本州に発つことになり、奇しくも「どっちみち総会には行くことが出来なかった」という言い訳が出来てしまったわけです。
 使い捨てマスク、このマスク品切れ騒動になる前に大箱60枚をストックしてあったので、そのなかから10枚しっかり持参して行きますが、運悪く罹るときには罹ってしまうものなんでしょうね。

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May 12, 2009

ミックラー加算機

090512_134522 昭和40年前後、主に対米輸出を目的にスタイラス式加算機が各種作られたことは以前にMBCのポケットカリキュレーターを入手したときに詳しく書きましたが、同時期に輸出用に作られ、東京都の優良輸出品に認定されていた手動加算機がこのミクラ精機で作られたミックラー加算機です。MBCのスタイラスでラックを引くタイプに比べてかなり大振りで、中型の電卓くらいのサイズでしょうか。そのためにスタイラス操作が不要で、指先で直接ラックを押し下げることが可能になっています。このラックはMBCなどの小型計算器と異なり、自動的に桁が上がり、なおかつバネの力でラックが一定の位置に戻る仕組みのため、MBCなどのように下に引くのか上に引くのか一瞬の判断に迷うことなく直感的に使用出来ます。この仕組みであれば、計算速度に関しては素人が使用する限りは算盤の加算といい勝負だったかもしれません。しかし、減算するための特別なメカニズムがまったく無いようで、この点はリコーのアレックスと異なります。しかしラックに赤文字で逆数を振ってあるので、なんらかの減算方法があるのでしょうが、説明書はもちろんのこと欠落してますので、今の所、不明です。このミックラー加算機は輸出が主体だったことと、算盤の牙城を崩すほど普及したわけでもなく、現在にまで残っているものは少ないようです。そのため、こんな簡単なものながら、一度は箱・説明書付きの中古で16,800円という高落札額で取引されたこともあります。
 用途としてはどうやら入出金振替伝票などの集計専門に使うことを考えたのではないでしょうか。そうなると、加算がスムーズに出来ることのみが重要だったのかもしれません。ミックラー加算機はどうやら2種類の形態があるようで、双方ともに6桁ながら理大の計算機コレクション所蔵品は少々小振りのようで、リリースレバーも引き下げるのではなく軸を中心に押し下げるような構造になっているようです。構造から考えるとレバー一押しで数値がリセットされるわけではなく、何回か押し下げないと数値がリセットされないようなものだったのではないでしょうか。そのため、一回のレバー操作でリセットできるようになった改良品が今回のミックラー加算機なのかもしれません。中の数字が振られたプラスチックの数字ドラムは当時のカウンターもしくはタイガー計算器などのために作られた汎用品を流用しているような気がします。そのために数字ドラムに独自のメカニズムを付加することが難しく、そのために減算のための逆転メカニズムを組み込むことが困難だったのかもしれません。これがリコーのアレックス並にレバーを引き出すことで自由に置数を減算することが可能であれば、加算機から計算機に昇格したのでしょうが、やはりこの手の計算機のメカニズムは実用新案の出願がいろいろと絡み合っているので、似たようなメカニズムを組み入れることが出来ず、結果的に中途半端なものになってしまったのかもしれません。まあこんな単純な加算機ですが、カシオミニ登場までのつなぎ役としては一応役に立ったのでしょうか。
(2009.5.13追記) この加算機をいじっているうちにおぼろげながら減算の方法が見えてきました。ラックの右端の黒表示1のところに「−↓」の刻印があるのです。具体的な減算の方法は、たとえば555−255の計算は黒数字の555をラックで引いて置数し、次に逆数の赤表示の255(黒表示では744となる)をラックを引いて置数すると1299の表示がでますが、−表示に従って下一桁のラック(黒1)を引くと表示が1300となり繰り上がった上一桁の数字を無視すると答え「300」が得られるというものらしいです。また、999−1という単純な計算は黒999を置数したのち赤で001を置数すると1997となり下一桁黒1を引くと1998と表示され、上一桁を無視して「998」という結果を得るものです。
繰り下がり計算、たとえば500−280の計算などは黒500,赤280と赤数字は0の桁もラックを引かなければいけませんがそのときの数値は1219でこれに下一桁黒1引きで1220表示上一桁無視で220の答えを得るというもののようです。

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March 31, 2009

7メガ拡張初日

 3月30日に日付が変わったと同時に7メガの拡張、1.9メガのデーター通信モード許可ならびに135キロの新たなバンドが許可されるようになりましたが、我々の関係分としては7.100MHzから7.200MHzが変更申請無しに使用出来るようになりました。当日、日付が変わると同時ににどういう状況になるか野次馬根性でワッチしようと思ってましたがすっかり寝込んでしまいました(笑)朝に7メガの拡張帯を聞くと国内の大出力局がぼちぼちと拡張帯に出ているのが聞こえます。昼間にも思い出して拡張帯を聞いてみましたが、各局ともあの混雑してQRMの嵐だった7メガがこんなにゆったりと交信できるなんて別世界だなんて言っていましたが。また日付が変わってすぐにCQを出していたWの局にオンフレで呼び出したら驚かれたなんていう話もありましたが、おそらく海外でも日本で7メガが拡張され、面倒なスプリット運用の手間が無くなったという話を知っている人のほうが少ないのでしょうか。相変わらず夕方過ぎからは大陸のBCが入り始めてかぶりのない所での運用を強いられます。ところで、7メガ拡張で新しい周波数帯幅まで使えるということを知らないアマチュアというのはどれくらいの割合でいるのでしょうね。7メガが広がるという話は知っていても3月30日から実施されるということを知らない人も意外と多そうな。何せ官報掲載から施行まで2週間弱の猶予しかありませんでしたし…。

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March 20, 2009

横田式安全灯(炭鉱用カンテラ)

090320_083714 明治期の炭鉱では比較的に坑口からも近く浅い炭層を採掘していた分には「じみ」と呼ばれる土瓶のような形をした金属製のカンテラに菜種油などを燃料を入れ携帯用の明かりにしていました。これはガス気のない金属鉱山で使われてきた物をそのまま炭鉱に持ち込んだのですが、しばしば何かの拍子にこのじみの火が消えると坑内に設けられた火番所という所に行き、火を着けてもらいます。この火番所は「喫煙所」の役目も果たしており、煙草吸いたさにわざわざじみの火を消して火番所に現れる剛の者もいたのだとか。しかし、明治も中期に差し掛かり、各所で竪坑が開削されて採炭現場が地底深くに達するといよいよメタンガスの洗礼を受け始め、しばしばカンテラの裸火でガス爆発を起こすようになったため、デービー灯やクラニー灯という石油安全灯が徐々に普及していきます。明治の中期にドイツのウルフ氏によりウルフ式揮発油安全灯が発明されたことにより、日本でも大手の炭鉱でウルフ安全灯や同様の揮発油式安全灯であるサイベル式安全灯などの煤のでない揮発油灯が主流になっていきますが、アメリカのエジソンが充電式電池を使ったキヤップランプを売り出すに至り、大正末には大手の炭鉱では整備に手間の掛かる手提げの揮発油安全灯に代わってキヤップランプが主流になっていきます。このような揮発油安全灯ですが、乏しい外貨で外国製安全灯を輸入するよりはウルフ安全灯をデッドコピーして国産化したほうが国策に叶うと考えたのか早くも明治末期にウルフ安全灯は灯火器製造メーカーである本多商店により製造が始まり、昭和の初期に明かりとしての役目を終えた後も実に昭和40年代初期まで「簡易メタンガス検知器」として、また船舶用備品として製造が牛の涎のように続いてきました。実は東京オリンピックの聖火をアテネから運んできたのは特別なスタンドに装着され、旅客機の中に持ち込まれた本多電機製ウルフ安全灯と予備のためのハクキンカイロだということはあまり知られていないかもしれません。
 またこの国産ウルフ安全灯には本多商店製のデッドコピーのほかにも存在するらしく、文献には「横田式安全灯」の記載が見られます。各地の石炭資料館などで見られる鎧型の本多製ウルフ灯と並んで展示されている普通型のウルフ灯が横田式安全灯ではないかと推測していましたが、今回初めて銘板が残っている横田式安全灯の実物を発掘しました。入手先は宮城県の太平洋岸最南端の町からですが、この近辺には炭鉱がないため、おそらくはもう少し南に下った常磐炭田の北端あたりで使用されたものなのでしょう。ちなみに仙台近辺では戦前から戦後にかけて家庭用の燃料として小規模に亜炭が掘られており、今でも旧坑道の崩落で地表が陥没して家が傾いたなどという災害もあるようです。この横田式安全灯は銘板に「第三横田式」と記されており、それでは第一・第二の横田式というのも存在するのかという新たな疑問も出てきました。製造元は以前、福岡から入手した「江戸式安全灯」の神田は今川小路に大正末まで存在した合資会社江戸商会です。この横田式安全灯の外観は江戸式安全灯に殆どそっくりで、スチール製ボンネットは同じ物が使用されているのではないでしょうか。ただし細部に置いてかなりの差があり、横田式安全灯は単に再着火装置を省いた普通型ボンネットのウルフ式揮発油灯ですが、江戸式は再着火装置さえないものの棒芯回りに導風盤が存在しそれにより炎の燃焼効率を高くして少しでも光度を高めているような感じです。また、横田式はボンネット下部の真鍮リングの下から吸気しますが、江戸式には真鍮リングの側面にスリットが切られていてそこから吸気しているようです。双方ともに腰ガラス下にウルフ式特有の金網を張った吸気リングがあり、ここからも吸気していますが、本家のウルフ式と違い、腰ガラスと共にボンネット側に固定されているため、油壺との結合をはずすと腰ガラスや金網が不用意に落ちてこないという利点がありますが、掃除の手間を考えたらどっちの構造が便利なのか…。また、油壺との機密性に難がありそうな構造で、結合度を検査する機械にかけた場合、本家ウルフ灯より結合不良率が高そうな感じがします。当時この結合不良がガス爆発を誘引する一番の原因になったようです。マグネットロックのラッチ部品がはずされていましたが、マグネットロックの構造は江戸式の方が改良されてデザインも洗練されています。同じベンジンか粗製ガソリン(ナフサ)を使用する棒芯の揮発油灯なのですが、なぜか横田式の油壺に比べて江戸式の油壺の方が薄く出来ています。これらの点から推測すると江戸式と横田式を比較すると横田式のほうが年代的に古く、横田式を独自に改良したのが江戸式安全灯なのではないでしょうか。銘板に「第三横田式安全灯」とあるので、横田式も細かい改良が続いたのかもしれません。また江戸式は二重メッシュ構造ですが横田式は当初から分厚いメッシュ一重だったような気がします。届いた横田式安全灯のシリアルナンバーは708**番台で江戸式のシリアルナンバーが84***番台ですからこのナンバーを見ても横田式の方が古いのではないでしょうか。横田式には漢数字の逆文字で「九七五」(579)の番号が打刻されていましたので、常磐でも小規模の炭鉱ではなくかなりの規模の大炭鉱で使用されていたはずです。年代的に推測すると後に磐城炭鉱と合併した入山採炭系の炭鉱で使用されたものかもしれませんが、悲しいかなこの横田式安全灯が履歴を語ってくれるわけではないので確証はつかめません。関東大震災の火災で神田周辺が灰燼に帰したのち合資会社江戸商会の名前を聞かないところを見ると、やはり被災した後に再建されなかったと見るべきでしょう。そのころから蓄電池式の帽上灯が大手の炭鉱に急速に普及してきましたので、横田式も江戸式も照明としての役目を失い、さらに再着火装置を持たなかったことで簡易メタンガス検定用には不適で、その点は本家ウルフ揮発油灯を丸パクリした本多商店製本多式ウルフ揮発油灯のほうに分があったようです。江戸商会が被災して廃業したとすると消耗品の供給も止まるわけで、そのころから使用されなくなったとすると80年以上もどこかに放置されていたことになりますが、ボンネットも油壺も表面は錆ででこぼこに腐食しており、ボンネットの内側は虫の巣くった跡もあり、清掃にはかなりの気合いが必要でした(笑)しかし、横田式の名前となった横田さんとはいったいどこのどんな技術者だったのでしょう?

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March 19, 2009

7メガ帯拡張、135キロ帯追加、1.9メガ帯4アマでも一部運用化に

 いよいよ7メガ帯の拡張と1.9メガ帯の狭域帯データー通信解禁ならびに中波帯135キロ帯が平成21年3月30日を以て運用が解禁されることが3月17日付の官報で発表されました。7メガ帯が許可されている無線局は周波数割り当ての変更申請無しに3月30日になった瞬間から7.100MHzから7.200MHzまでの、いままでオフバンドとされていた周波数帯で運用することが可能になり、いままでWなどとスプリットで交信せざるを得なかった変則運用がついに解消され、オンフレで交信出来るようになります。また1.9メガ帯は、いままで3アマ以上しか運用の出来ないバンドでしたが、PSK31などの文字通信が解禁されたことによりA1A以外の電波形式…F1B,F1D,G1B,G1Dが4アマの資格で割り当てを受けられるようになります。また新たに加えられた中波135キロ帯は135.7から137.8kHzの幅でA1A以外のF1B,F1D,G1B,G1Dは4アマにも割り当てられることになります。135kHzというとλ≒2,200mだそうで、送受信機の自作もさることながら、アンテナをどうするかというのが問題であり、かなり気合いを入れてしばらくかかりっきりで保証認定申請まで持ってこないと局免に周波数を加えることすら難しいバンドです。北海道の牧場にロンビックアンテナ張るとか「象の檻」をこしらえるとか、潜水艦みたいに船でロングワイヤーを引っ張るとか、気象観測用の気球使ってロングワイヤーを揚げるなどと与太話には事欠かないのですが(笑)
 また、昔のWARCバンドが付いていながら解禁まで送信禁止が施されていた無線機同様に、今の無線機はオフバンド送信禁止措置(これがないと技適が取れない)が取られているため、7メガの拡張バンドに出るためにはメーカーでの改造(おおよそ消費税別で7k円前後)もしくは自分でダイオードチップ取り外しなどの改造を施さなければいけませんが、この改造を施すと「技適機」から外れるため、この無線機を新たに許可申請するためには「保証認定」を受けなければいけないのだとか…。まあうちのFT-101ZDとTS-830には関係ないことですが(笑)

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March 15, 2009

HEMMI No.641 一般技術用

 HEMMIの片面尺としては異色の幅広計算尺 No.651は計算尺競技会などでよく使用された計算尺の一つと言われていますが、そのモデルチェンジ版がこのNo.641になるようです。事実、初期のNo.641に付属していた説明書はNo.2662/651用の冊子型説明書にNo.641の補足説明を記したオレンジ色のペラが付いただけでしたが、のち制式に冊子型のNo.641単独説明書が付いたようです。HEMMI計算尺の中でも最末期の製品のためか、さほど生産期間は長くなく、殆どの需要が工業高校関係のようで、製造数量も多くないようです。構造的にはプラスチックの裏板に上下の固定尺をネジで接合するという手法は山梨の技研系にそっくりで、おそらくこの時代は電卓の急激な普及で、計算尺の需要はほぼ教育関係に特化し、HEMMIにあっても製造ラインを整理し、このNo.641の製造組み立ては山梨の下請けメーカーに移管していたのかもしれません。8インチの学生用計算尺などは昭和40年代半ばにはほぼ全量がプラスチック化し、そのすべてが山梨の下請けメーカーに生産移管されていたようです。
 No.641はHEMMIの片面計算尺としてはもっとも幅広の計算尺に属します。その上級検定試験や競技会などでの使用を考慮し二乗尺とずらし尺の双方を表面にもってくるという手法は技研時代のNo.251、FUJI計算尺のNo.2125,2125-C,2125-Dのほうが本家本元でしょう。表面と裏面の尺度はFIJIのNo.2125系とまったく同じで表面はK,A,DF,[CF,CIF,B,CI,C,] D,DI,L,の11尺、裏面は STI,T2I,T1I,SI,CI,とHEMMIお得意の逆尺になっているところがFUJIのNo.2125系と異なります。また2125系と差別化して少しでもHEMMIらしさを出すためか、固定尺および滑尺は竹にセルロイドを接着した従来のものをFUJI計算尺のようにプラの台にネジ接合し、目隠しにゴムの盲蓋を施すという構造になっています。あまり数を見ていないのではっきりとはわかりませんが、製造はどうやら昭和47年のW刻印物が一番古いらしく、昭和50年のZ刻印までの3年間という短い製造期間のためか、さほど製造総数は多くないようです。そのためかさほど珍しい計算尺ではないものの、まったく海外に輸出された計算尺ではないためかオクではけっこう高額に落札されて海外流出してしまうケースが多い計算尺のひとつです。
 大阪から入手したNo.241は刻印が「XD」ですので、昭和48年の4月製造です。あの第一次オイルショックの直前の製品になります。FUJIのNo.2125系統の計算尺と比べてみると、やはり竹芯を使っているためか安っぽくなく、滑尺のさばきもプラ尺のような動き始めのかじり付き感もなく良好です。思わず「よい計算尺」と思わせるような作りで、FUJIのプラ尺と比べると道具としての愛着をわかせるような計算尺ですが、「工業高校生用」としたFUJIのNo.2125-Dにはvや2πまで存在する豊富なゲージマークを備えるのに対してHEMMIのNo.641の表面はπとcしか存在しないのがいかにも寂しい内容です。もっとも滑尺の裏面CI尺(裏面はすべて逆尺)にはラジアン換算の3種のゲージマークは備えますが。ということで、コレクション的に選ぶのならNo.641でしょうが、実際に電気・電子系の計算に使用するのであれば、安くて実用的なFUJIのNo.2125-Dの選択の方が正しいと思われます。サイズ的には両者とも平面部が45mmで、スケール部分を含めるとNo.641が53mm、No.2125-Dは50mmと僅かに差があります。ケースは薄型の青蓋プロー成形のプラケースで表面にしぼが入った物。なぜかこのプラケースにはしぼの無い物もあるらしいです。両面用の青蓋プラケースと比べると約40mm短く若干幅広の640系計算尺専用品のようです。
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 同一尺度の計算尺3種揃い踏み(笑)
 HEMMI No.641 一般・技術用計算尺表面拡大画像はこちら
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March 14, 2009

妊娠暦速算器

Sokusan 出産予定日というのは最終月経から「正常妊娠持続日数は280日、妊娠持続を40週とする」という定義で算出され、8ビットのマイコン時代から計算用プログラムが各種公開されていますが、助産師さんや保健師さんたちはいにしえから簡単な「妊娠暦速算器」という金属製の計算尺を使用してきました。もっとも最近ではご多分に漏れず電卓型の機械に取って変わられる命運をたどっているようですが、至極単純な仕組みのため、いまだに一部で利用されているようです。日本における妊娠暦速算器の歴史は古く、早くも明治41年に当時の産科学の大家、榊順次郎博士の考案によって特許9112号を取得した「妊娠暦速算器」が嚆矢で、大正時代末期にこの特許が切れた後にも幾種類かの妊娠暦を計算する計算尺の特許が申請されています。なにしろ人間の誕生の根本に係わる道具ですから特許の失効後には東京帝大や京都帝大周辺に発展した医療器具問屋などが帝大医学部の産科学教授の指導を受けて製作したものが発売されてきたようです。龍角散の缶のような大きさの真鍮製ニッケルメッキ容器の側面に片方は一年のカレンダーを刻み、片方には最終月経からの経過月数・日数と経過周数を刻んだものです。両シリンダーを相互に回して最終月経日に経過日数の基線を合わせると40週目の基線で出産予定日がわかるという単純な仕組みで、経過周数もわかるので検診日などの指定にもいちいちカレンダーで日数を数えなくともわかるというまさに速算器です。2月は28日しか目盛が刻まれていないので、閏年で2月を跨ぐ場合には1日を加算する必要があります。中は完全な容器になっていて、巻き尺などを納めるために使用していたようです。人間だけではなく獣医学の世界でも馬や牛などの家畜繁殖暦速算器というものがあるようなのですが、実際にどんなものか調べがつきませんでした。
 入手先は熊本からで、元は助産師さんの持ち物です。購入月日が記されており、それによると昭和23年の7月ですから団塊の世代に当たる人たちの出産ラッシュのころで、さぞかし助産師さんは毎日毎日が忙しかった事でしょう。製造所は京都の堂阪製作所という京都大周辺の医療器具問屋で、京都帝大医学部教授・岡林博士考案となっていますが、どうやら容器を開けた底に妊娠各月末における胎児の身長及び体重の標準を表した表がありこの表の作成の指導をこの教授に受けたのかもしれません。堂阪製作所は現在も鍼灸治療関係の医療器具などの製造販売を手がけているようです。もっともこの妊娠暦速算器を現在でも販売しているかどうかはわかりませんが。
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March 13, 2009

HEMMI No.274 学生用

 最近では珍尺落ちして希少尺になってしまったような感があるNo.274ですが、それでもヘンミ計算尺末期に出現した製品故に諸外国にはまったく輸出されなかった事も影響するのか、今でも時折とんでもない金額で取り引きされる計算尺です。内容的にはNo.P253の竹製版であるNo.264の裏面にC尺を加え若干表面のレイアウトを変え、No.259同様の本体サイズにワイド化した高校生用の計算尺です。レイアウト的にはほぼ技術用のNo.251と同じですが、No.251のDF,CF尺が米国好みのπ切断ずらしであるのに対してNo.274は√10切断ずらしであり、またNo.251の三角関数尺はT,S,STなのに対してNo.274はTI2,TI1,SIと逆尺で、しかもT尺が45°を中心に2分割されています。また、6°以下84°以上の微少角はNo.251はST尺で読むのに対し、No.274のほうはC尺上のラジアンと度・分・秒の変換ゲージマークを使って読むタイプの尺度です。このように内容的にはあまりNo.251と変わりばえするような計算尺ではないため、さほど食指を動かされる計算尺ではなく、ましてそこそこの金額を出すのであればNo.254WNあたりのほうが全然良いと思わせてしまうような計算尺です。そういう計算尺ですから何となく計算尺コレクターにとっては帳尻合わせ的に入手する計算尺の代表格でしょうか(笑)
 No.P253の竹版であるNo.264はR刻印の昭和42年製が一番古いらしく、当時のケースは紺帯の入った模様貼箱で、終末期は青蓋の塩ビブロー成形プラケース入りでW刻印の昭和47年製らしいのですが、このNo.274に関しては紙の貼箱入りが見あたらず、塩ビのプラケースもしくはビニール皮ケースしか見たことがありませんので、おそらくすべてのNo.274はW刻印の昭和47年からZ刻印の昭和50年まで製造が行われたということなのでしょう。ということは、おそらく何らかの理由でNo.264の製造を昭和47年の半ばでNo.274に切り替えたことになります。その理由とは、確証が得られてはいませんが計算尺の需要が急速に落ち込み、製造ラインを整理するため、No.250などのナローモデルの新規製造を終了にして、竹製両面尺の継続生産はNo.255D/259Dなどのワイドボディーだけを残したため、ほぼ工業高校特納品であるNo.264は、やむを得ずワイド化してNo.251のレイアウトに近いNo.274にモデルチェンジし、製造を継続したという事なのでしょう。そうでもなければこのようなつまらないモデルチェンジの意味を見いだすことが困難です。
 大阪の高槻から届いたNo.274はヘンミ計算尺最末期の製造である昭和50年「Z」刻印を密かに期待していたのですが、製造刻印は「YB」ですから昭和49年2月の製造でした。年代からしても当然の事ながら両面計算尺用のブロー成形の青蓋プラケース入りです。計算尺末期の製造でもあり、工業高校特納ということで短い高校時代のみの使用期間という理由もあったのでしょうが、中のビニール袋も残った状態で殆ど使用されていないきれいな個体でした。但し固定尺側面にローマ字で個人名がきれいに刻印されていました。大阪方面から入手したいかにも工業高校で使用されたような計算尺にはたまにこういうきれいな記名刻印入りが出てきますが、新学期を前に記名サービスする納入業者もしくは文具店があったようです。
Hemmi274

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March 12, 2009

度量衡換算器(PAT.136565)昭和3年

 国の定める度量衡の単位をメトリックと定めた改正度量衡法が大正10年に交付され、段階的にすべての単位はメトリックを基本とすることになり、生活に尺貫法が刻みつけられていた日本では一種のパニックが起こったようです。そのため、このような単位換算器やメートル法への換算法関連の書籍が昭和一桁代に雨後の竹の子のように多数出現しました。この手の単位換算器は紙の印刷物から金属の円盤型まで各種つくられ、特許も多数出願されたなかで、今回の換算尺は実際に特許が降りた数少ない換算器です。とはいえ単位の換算のみに特化した計算尺は19世紀の中頃から19世紀末にかけてヨーロッパではありとあらゆるものが作られ、果たして大正末から昭和の初めに矢継ぎ早に実用新案を出願された各種換算尺も実際に特許が下りた物はほんの一握りだったようです。
 この換算尺は昭和3年に荒木二郎という人の考案により実用新案が出願された「度量衡換算器」という商品で、昭和4年の9月21日に早くも特許136565が下りたものです。滑尺が二本というスタイルが目を引きますが、この手の滑尺を二本備える換算尺はヨーロッパでは普通の存在でしたので、おそらくこの特許はブリキのプレス製という構造面をあわせたものだったのではないでしょうか。年に一、二本はオクに登場する換算尺ですが、出品者が殆どの場合、商品名も用途もわからないまま出品してしまうため、計算尺マニアの検索に引っかかることもまれで、従ってさほど値段がつり上がることもない計算尺です。滑尺が2本という猫又計算尺ですが、特殊計算尺研究所のバネ計算尺のような複雑な物ではなく、単に換算種類を増やすために片面計算尺を上下に並べたようなものです。比例計算が主体となりますので、カーソルは最初から付いていません。いわゆる8インチ計算尺(正確には有効長21.2cm)で、これはもしかすると「教科書サイズからはみ出さない」ことをHEMMIのNo.2640以前に考えた結論だったかもしれません。そうなると「元祖8インチ計算尺」かもしれませんが、何せ知名度がまったくありませんし換算尺ということで、8インチ計算尺の嚆矢をHEMMI No.2640に譲ってしまったのかもしれません。尺種類は、鯨尺[メートル尺,メートル尺] 曲尺,貫匁,[キログラム,リットル] 合升斗の8尺で、構造上滑尺を裏返すことができないので滑尺裏はなし。本体裏側は各種単位の換算テーブルになっています。面白いことに尺に刻まれている目盛はすべてリバースに数字が刻まれています。特別に立派なケースが付属していたわけではないらしく、いままで目にしてきたものはすべてケースがありませんでした。
 出所は大阪の交野市からで、出品者のおじいさんの持ち物だったということです。昭和一桁代にあった尺貫法からメトリックへの移行パニックの話を出品者に申し上げると、時代に必死についていこうとしたおじいさんの姿勢を想像して偉く感動したとのことでした。とはいえそういう感動の品物を500円で他人に売り渡してしまうのは現代的な感覚なのでしょうか(笑)届いてみて初めてわかったのですが、この度量衡換算器には特許取得を境に刻印違いの前期型と後期型が存在しているようで、今回入手したものは特許が下りる前の「新案特許」と刻印(実際の目盛などは印刷)されたもので、表面右の換算単位部分の刻印も異なります。特許が下りたのが昭和4年の9月ということなので、それ以前の前期型になります。目盛が消えないように表面に透明ラッカーを施してあったらしく、このラッカーが80年の歳月ですっかり黄変しカーキというか旧陸軍軍用品みたいな色をしていますが、元々の色はクリーム色だったのでしょう。薄いブリキの板を立体的な計算尺に仕立てるプレス技法は秀逸で、おそらくこの構造が独創的ということで特許が下りたのかもしれませんが、薄板を計算尺に仕立てる工夫は戦後のジュラ期ににわかに出現した「OZI DELTA計算尺」に通じるものがあります。
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February 04, 2009

J.HEMMI No.6 5インチポケット型計算尺

 おそらくこの手の戦前HEMMI計算尺であれば日本一のコレクターであるHEMMI FANことvoola氏の守備範囲に土足で踏み込む昭和初年のJ.HEMMI時代の5インチNo.6です。J.HEMMI時代の10インチ以外の計算尺といえばNo.14しか持っておらず、過渡期のフレームレスカーソルが付属したものも欠落していたので、入手できたのはラッキー以外の何物でもありません。形態的にはスケール部分にも剥がれ止めの鋲が付くタイプですが、カーソルに金属フレームがなく分厚いカーソルグラスが樹脂のカーソルバーに直接ねじ留めされているタイプです。ケースはフラップがまだ短いタイプの物が付属しています。
 このJ.HEMMI No.6の持ち主は何と海軍軍医で終戦時の階級が軍医大佐です。軍歴からすると大正の末期、医大卒業後に軍医中尉を任官し、築地の軍医学校で海軍軍人たる教育を受け、艦隊に配属というのが海軍軍医のコースですから、おそらくこの時代に買い求めたものだと思われます。実際に軍艦の中で使用されたという話でしたが、終戦時に軍医大佐というとおそらく艦隊の軍医長、海軍省医務局の課長もしくは海軍病院の院長クラスの階級です。持ち主は太平洋戦争時には主に陸上勤務だったと想像していますが、空襲等には遭遇したとしても、艦で戦火をかいくぐらなかったおかげで昭和初期の計算尺がそのまま残ってくれたのでしょう。ちなみに戦中に存在した臨床医の速成を目的とした帝大系医学部付属の医学専門部卒業生は軍医少尉として任官し、海軍軍医学校で教育を受けたようです。戦前は軍医というと帝大医学部出身者よりも国立私立の医科専門学校出身者の方が圧倒的に多かったのでしょう。帝大出の医師などは家が貧乏で研究生活の援助がまったく受けられないような状況を除けば軍医の道など歯牙にも掛けなかったかもしれません。軍医の世界では帝大医学部出身者も医学専門学校出身者も差別は殆どなかったようですが、陸の上の医学界では特に戦時中の医学専門部で大量に養成された医学専門部出身の医師に対しては歴然とした格差が生じていたようです。手塚治虫が大阪帝大医学部の出身ではなく旧制中学を卒業して進学した大阪帝大医学部付属医科専門部出身であることはよく知られています。医学部では教授の授業が行われていたのに対して、医学専門部では講師が授業を行っていたなどともいわれていますが、戦後は新制大学に変わり医科専門部も廃止されたため、医学部出身者も医学専門部出身者も「同一大学出身者」となり、わざわざ「旧医学専門部出身」などとカミングアウトするお医者さんも少なかったのでしょう。そういえば薬害エイズ事件の被告となった安部英・元帝京大学副学長は昭和16年に東京帝大医学部を卒業の後海軍軍医となり、軍医大尉で終戦を迎えた後に東京帝大に戻っていますが、同窓生からは「優秀な医学生ならば当然、軍医なんかにはならずに大学に残っていたはずだ」などと陰口を叩かれていたという話を聞きましたが…。
 海軍軍医で話は脱線しましたが、このNo.6は大正末から昭和の4年頃までの短時間の間にNo.1系統やNo.3系統と同様にカーソルや裏セルの有無ならびに目盛に至るまで細かい部分でのマイナーチェンジを繰り返しています。No.6は大正初期からNo.1と平行して製造されたようですが、当初はNo.1同様にアルミの四角いカーソルが付属していたようです。PAT.51788によるフルフレームカーソルに大正10年頃から変わり、昭和に入ってからフレームレスカーソルにモデルチェンジしたようです。また、昭和期に入ると目盛が馬の歯形から櫛形に、尺にA,B,C,D,の尺種類が刻まれ、副カーソル線窓がオーバルから「⊃⊂」に。さらに裏側にも白いセルが平貼りになったものがJ.HEMMI時代の最終型 No.6のようです。世には逆Cカーソル(A型カーソル)が付属したNo.6がありますが、そういうモデルがあったのか、樹脂カーソルバーが崩壊して後にA型カーソルに換装されてしまったのかは定かではありません。今回入手したNo.6は部品が交換されていない全くのオリジナルのようで、スケール部分にも鋲留めがあり、目盛は馬の歯形。裏が竹のむき出しでカーソルはフレームレス。副カーソル線窓はオーバルでケースのフラップは短いタイプなので、おそらく昭和に年号が変わった前後の製造でしょう。ケース裏側に創業30周年の口上が貼られており、このシールが貼られていた期間もごくごく短かったようです。同様のシールは10インチ尺に於いてはボール紙の外箱に貼られていたようです。さすがに軍医ともなると職務上は普通の技師より計算尺の利用など限られてくるのでしょうが、このケースのきれいさは秀逸です。おそらく私物の将校行李の中にでもしまい込まれたままだったのでしょうか…。ゲージマークは同時代の10インチ尺より省略され、A,B,C,D,尺にそれぞれ刻まれたπのみです。時代が少し下るとJ.HEMMI No.6と型番は同じでも10インチ尺同様にC,C1,M,および左右の位取り指示などのマークが追加され副カーソル線窓も「⊃⊂」に変わりました。No.6は後に練習用計算尺のNo.48にモデルチェンジしたと言われていますが。構造的にはNo.48は薄型で裏板が金属板のみで上下固定尺を止めている、また副カーソル線窓が一カ所などという違いがあり、無理に後継者指名しなくともいいような(笑)
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January 30, 2009

HEMMI No.47 10"練習用計算尺(メトリックスケール)

 J.HEMMI時代末期のNo.1/1のデザインをほぼそのまま取り込んだ10インチ初心者練習用計算尺 No.47は、さすがに戦後には継承されなかった計算尺ゆえに、数が残っていそうで実際にはあまり出てこない計算尺の一つです。以前、形式名の入っていないNo.47を入手していましたが、今回たまたま型式入りのNo.47が出てきて思わず2本目のNo.47を入手してしまいました。このNO.47には何故か昭和37年発行のヘンミ両面計算尺の使用説明書がおまけに付いていまして、個人的にはどっちが主でどっちが従なのかわかりませんが野口先生1枚で入手したものです。前回「なぜ刻印が2種類存在するのかがわからない」と書きましたが、前回入手したものの上部スケールがインチで、今回入手したものがメトリックなため、どうやら「インチスケールのものには形式名がなく、メトリックスケールのものには形式名がある」という法則が成り立つようです。インチスケールのものに形式名が入らない理由は輸出用として上部にTHE FREDERICK POST CO.の名前が刻印され、POST 1449Tの形式名が付加されるためでしょうね。国内にインチスケールとメトリックのものがカタログ上、区別されて併売された様子はありませんが、戦前のものは他の型式も含めて国内からインチスケールのものが出てきますので、あまりこだわらずにそのときに生産されたものを双方の区別無く国内に出荷していたのかもしれません。またその当時の国内でも、機械技術の世界ではヤードポンドのほうがまだまだ幅を利かせていましたので、インチスケールの方が好まれたケースもあったのかもしれません。
 入手先は奈良の橿原市で、以前この近辺からは結構きれいなNo.50/1を入手しています。刻印違いの双方を実体顕微鏡まで使って何か相違が無いかと思って鵜の目鷹の目で捜してみますと、目盛の密度や種類にはまったく差がありませんが、唯一インチスケールのものは、目盛がゲージマークや数字を貫通している(全般的に長い)のに対してメトリックのものは寸留めになっているという相違が認められました。おそらく目盛加工の原版自体が異なるのでしょう。ところで輸出版のPOST 1449Tですが、この初期のモデルNo.1449は"SUN" HEMMI時代に入ってからのNo.1/1に他ならないのです。その形式名1449におそらく「Thin」のTを付けたものがNo.1449TすなわちNo.47ということらしく、アメリカのコレクターが言う「No.1/1のモデルチェンジ版がNo.47である」という根拠はここいらにあるようなのですが、これはあくまでもFREDERICK POST側の事情ですからヘンミ計算尺の側としてはあくまでも40番台練習用モデルでしょうね(笑)
Hemmi47
 メトリックとインチのスケール違いのNo.47
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