HEMMI 苗頭計算尺
「苗頭」というと何か農業関係の用語で、畑に植え付ける苗の数でも意味するのかと勘違いしそうですが、これは歴とした砲術用語です。いつごろに苗頭という用語が出来たのかは定かではありませんが、どうも江戸時代末期あたりまでさかのぼることが出来るようです。もしかしたら高島平にその名を残す高島秋帆あたりが翻訳した西洋砲術用語なのかもしれません。苗頭とは風になびく稲穂の意味で、実際にとらえた目標に対して左右どれだけの角度をつけて射撃をするのか、その角度のことを「苗頭」というのだそうです。実際には上下の角度のことも苗頭と言ったらしいですが。その苗頭は目標の距離と進行方向、速度などによって変わってくるわけですがそれ以外にも空気の温度、湿度や風速風向、さらには地球の自転の影響や使用装薬、弾頭重量や砲身の摩耗具合などの要素も絡んできて、とても単純な計算尺で苗頭が正確に算出できるわけではなく、各国でかなり複雑な機械式の射撃指揮装置が実用化されていました。電子計算機の開発意図というのも弾道計算が目的だったことはよく知られています。ところが、陸上の砲撃にあっては主に固定された構築物に対するものなので、海上戦闘などと比べると相手の未来位置などを勘案する必要がないだけ苗頭の計算が単純化され、計算尺程度の用具で計算が可能となり、陸軍の砲兵用計算尺としてかなり多様な計算尺が日本でも作られていたようです。その砲兵用計算尺は丈夫な茶色の皮ケースに入った金属製のものや、一般の計算尺同様に竹芯にセルロイドを被せたものまで見かけます。今回発掘した苗頭計算尺は戦時中のものでヘンミが係わった砲兵用計算尺の中では終末期に属する物のようです。昭和17年に辺見製作所から発行された砲兵用計算尺教程という教本に従った計算尺なのではないかと想像していたのですが、実はこの時代にまったく別な砲兵用計算尺というものが存在し、この教本はどうやらそちらの計算尺の解説書のようです。
入手先は四国の新居浜からでした。新居浜からは以前にも別な戦時中計算尺をしたような覚えがあります。元の持ち主は徳島の善通寺に連隊本部を構えた歩兵第43連隊の下士官だったそうで、現在もご健在のようです。年齢的なことを考えるとおそらく現役中に乙種幹部候補生となって軍曹に昇進したか、教育期間中に終戦を迎えたとなると終戦時には20代前後くらいの年齢だったのではないでしょうか。ちなみに当方が中学高校時代の先生の中には師範学校卒業と同時に応集し、現役で乙幹、甲幹で終戦時には軍曹や少尉だった先生がごろごろしてました。無線部の顧問だったI先生からは、乙幹の教育訓練とはいっても毎日毎日身につけた地雷で戦車に体ごと飛び込む演習ばかりやらされていたなんていう話を聞かされましたが、戦争末期の幹部候補生なんかは所詮消耗品扱いでろくに専門教育を施しもしなかったのでしょう。
歩兵43連隊は開戦時には満州に展開しており、一部の大隊がグアムの防衛に転出し、米軍のグアム上陸戦に遭遇して玉砕したことがありましたが、昭和20年の4月に米軍の本土上陸作戦に備えて満州から四国の高知県海岸部に移動したことで、終戦時のソ連侵攻に遭遇することもなく内地で終戦を迎えた幸運な連隊のようです。満州に残されていたらシベリアに抑留されていたことは疑いないでしょう。
この苗頭計算尺にはモデルナンバーがありません。軍用の特殊な計算尺であることを考えると当然なことです。ボディは戦時中に発売になったNo.2664に等しく、ごく初期のNo.2664や兵学校計算尺などと同様に裏の副カーソル線窓はオーバルです。また、この苗頭計算尺は昭和17年の砲兵用計算尺よりも明らかに新しい製品のようで、砲兵用計算尺がNo.2664のようなずらし尺を備えて一般の計算にも使えるようになっているのに対してまったくの専用計算尺であり、一般の計算に使用できるような計算尺ではありません。しかし、裏側に換算表が残っており、明らかにずらし尺を備えたNo.2664用の物でした。戦争末期の昭和19年以降の計算尺であることの証明としてケースが黒い疑皮紙を表面にあしらった単なる紙サックです。いうなれば兵器扱いの物品にもかかわらず物資窮乏期の計算尺には皮ケースも用意出来なかったのかと驚かされますが、この時期には兵隊の帯革(たいかく)まで布製品になってしまうほど革製品が枯渇していたわけですから致し方がなかったのでしょう。さらに金属が枯渇してきた戦争末期の製品のため、上下の固定尺を繋ぐアルミの板がもう計算尺製造には回ってこなくなったようで、さりとて何らかの金属を介さなければ滑尺と固定尺の隙間が調整出来ないため、この戦時仕様の苗頭計算尺は上下の固定尺がオーバルウインドウの付いたセル板とともに、安全カミソリの刃くらいの大きさの薄い鋼の板を三カ所設けてアルミ裏板の代わりとしています。もしかしたら本当に切れなくなった片刃の安全カミソリの刃の部分をグラインダーで落として部品として使用していたのかもしれません(笑)
ところで、戦時中に2種類の同一目的計算尺が出来た理由ですが、当初は火砲の苗頭を算出して指示を出すのはもっぱら専門教育を受けた将校の仕事で、運動物理学や力学の理論から弾道学を学んでおり、おそらく普通の計算尺と方眼紙くらいあれば苗頭の計算など可能だったのでしょうが、「消耗戦が進むにつれて下級将校の絶対数も不足し、徴兵した現役兵の中から乙幹資格者を選別し、理論などを深く教育することなしにケースバイケースでの専用計算尺の操作だけ教育して苗頭を計算させるようにするため、難しい記号などを避け、すべてかっこ付きの番号で操作をさせるための簡易な計算尺を新たに作る必要があった。」というのが新旧二種類の砲兵用計算尺が作られたきっかけではないかと思います。またこの計算尺に付随した教本があるはずですが、まだ目にしたことはありません。
さて、この苗頭計算尺の使い方ですが、さすがに砲術理論は専門外(いまどき自衛隊にでも入隊しなければこんなもの学ぶ機会もないでしょうし)ですので、さっぱりわかんない(笑) でもまあ、単一用途の特殊計算尺は計算尺コレクターの人気は高く、まして戦時中の一時期にしか作られなかった正真正銘のHEMMI計算尺ですから、まともにオークションに出品されたらさぞかし落札額が高騰するのでしょうね。

HEMMI 苗頭計算尺表面拡大画像はこちら
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「Fire in the hole !」というのは直訳すると「爆発するぞ!」とでも言うのか、鉱山や土木工事現場で発破をかけるときの決まり文句ですが、それが転じて軍隊で手榴弾をぶち込み、爆破する際に回りに注意を促すときのかけ声にもなっているようです。その発破の際に装薬量を計算するための計算尺が存在すること自体、まったく知りませんでした。この発破標準薬量計算尺は軍用ではなくトンネル工事や鉱山の坑道掘進などに行われる発破の装薬量を計算するための計算尺で、見た目でもわかるとおり円形計算尺のコンサイスのOEM計算尺です。この手の特殊用途の計算尺がコンサイスにはたくさんあったようで、当方の手元にもNKKの薄板ロール重量計算尺や簡易測高計などがありますが、その殆どがコンサイスのカタログには存在しないものなので、町の古い文具店の片隅から見つかるようなものではありません。他の現場でどうなっているかはわかりませんが、炭坑では事前に発破係員が記載する発破係員日誌などという発破実施予定表が存在し、実施場所、発破回数、時間、ガス炭塵の状況、発破孔、装薬種類、装薬量などを詳しく記載して担当課長の決裁を受けるような仕組みになっています。当方が以前入手した炭鉱読本という技術書のなかに偶然、昭和16年という古い時代の発破係員日誌が2枚挟まっていました。大焼層という炭層が卸の場所であり、三菱系の炭鉱から出た書籍だったために鯰田か方城のどちらかの炭鉱だろうと特定しかねていましたが、別なページに方城炭鉱購買部のレシートが挟まっていましたので、この発破係員日誌も筑豊は三菱方城炭鉱のものだということが特定できました。

ロジックボード交換までしなければいけなくなったらどうしようかと思いましたが、届いたPRAMバッテリーをキーボードを剥ぐって古いものと交換し、DCアダプターを装着して起動ボタンを押すとジャーンという起動音とともにあっさりと起動してしまいました。起動不能の状態だったからか、HDD内のデーターが残っています。そのことから推測するとどうも業務用個人持ちのパソコンだったらしく、2005年の4月以来起動不能に陥ったようで、その後使われた形跡がありませんでした。ネットを通じて外部にもアクセスを全くしなかったらしく、OSやファームウエアのアップデートもiTuneのダウンロードもまったくされていませんでしたので、ファームウエアをアップデート後、OSを9.0.2から9.1を経て9.2.2にアップデートしました。WEBブラウザはIEの5.0のままで、5.1にもアップデートされていませんでした。今時MICRO SOFTでもこんな古いMAC用のブラウザを配布していません。ところが蛇の道は蛇で今でもバージョンの古いWEBブラウザーでホームページがどう見えているのかを検証するために必要なのかIEのありとあらゆるバージョンを配布しているところがあり、当然英語版のみですが、Ver5.1.5をダウンロードしました。IEの5.1だと今や最新のJAVAやFLASHなどに対応していないため見ることができないWEBページが増えてきましたが、OS10.2.8のIEやSAFARIの遅さにへきへきしていましたので、最近はオークションなどの検索はこのPISMOに移行してしまいました。どうしても動画などをサクサク見たいのであればWIN XPマシンのFIREFOXをを起動させてしまいますが(笑)iTuneもすでにVer1.0は配布しているところが見つからず(MP3デコーダーの関係でこちらの音質のほうが好みでしたが)OS9の最終版2.2をAPPLEからダウンロードしました。HDDが6GBしかないので、多くのMP3データを入れるわけにはいきませんが、さすがG3はG4機に比べるとMP3データへのデコードに掛かる時間が格段に長くなりました。あまりCPUに負担が掛かる作業は期待しない方がいいでしょう。SCSI機器を使うためにはPCカードスロットにSCSIカードを刺してそれにSCSI機器をケーブルを介して繋がなければいけないのですが、ジャンク扱いでRATOCのREX-CB31を購入し、ドライバーもダウンロードしたもののSCSIケーブルが欠品で、このPCカード用SCSIケーブルを別に購入すると意外に高くつくのでいまだにスロットにはカードが刺さっただけでSCSI機器を利用するまでには至っていません。けっこう機器との相性はシビアなものがあるらしいですが。ところで、このPISMOからDVDのソフトウエアエンコードが可能になったからか、けっこう快適にDVDを見ることが出来るようになり、いままでデスクトップ上のモニターでしか見ることの出来なかったDVDがデスク上を離れて何処でも見ることが出来るようになったというのが一つの収穫でした(笑)
Macintosh Portableというと、マッキントッシュで最初の液晶画面を持ったポータブルコンピュータで、発売は1989年ですから今から20年前になります。その発売価格はHDD内蔵モデルで軽く100万円を超え、おいそれと個人で購入出来るものではありませんでした。CPUはモトローラの68000でクロックは16MHzというものでしたが、当時の個人ユーザーは同時期に発売された68030を搭載した一体型モデルSE/30のほうに目がいったようで、Portableのほうは当初からサブマシンとして外へマッキントッシュを持ち出せることに価値を見いだした一部の贅沢な人により、日本ではほんの僅かな数が出回ったにすぎないようです。一説によると2年あまりの間に400台しか流通しなかったとか。我々コンシューマーが手軽にMacのポータブル機に手を出せるようになったのは、PowerBookの100(開発コード:SAPPORO)を待たなければいけません。発売当初の1989年にスペースシャトルに乗って宇宙に飛び出した記念すべきマッキントッシュです。無重力状態でイジェクトしたフロッピーを飛ばす映像が残っているそうですから、youtubeあたりを検索すればみることが出来るかもしれません。
今回は47μF全部と1μFのコンデンサのうち、常時電圧のかかると思しきリセット&インタラプトスイッチ回りの1μFのコンデンサを交換します。ロジックボードから元の表面実装型コンデンサを半田ごてで暖めて外しますが、足の部分の腐食なども影響しているのか、それとも手順が良かったのかあっさりと基板のパターンも剥がさずに取り去ることができました。交換用コンデンサは表面実装型の半田付けが今一つ自信が無かったので、すべて足つきの筒型電解コンデンサです。そのため、足を短くしても表面実装タイプのものより倍以上背が高くなり、上板に干渉してしまうため、コンデンサを斜めにオフセットしなければいけません。また半田付けする前に、足の長さをそろえ、足にペーストを塗って予め半田メッキしておきます。必要はありませんが、コンデンサは保険をかねて耐圧を高いものにしておきました。ボトムケースにロジックボードを納めて上板を取り付けようとするとやはりまだ交換したコンデンサが干渉しましたので、足を曲げてコンデンサを寝かせましたが、インタラプトスイッチ近くの1μFのコンデンサを寝かせる際に足をマイクロラジオペンチで押さえて曲げればよかったものの、そのまま曲げたせいで、半田付けした足元のプリント基板のパターンを剥離させてしまいました。このパターンは髪の毛一本分くらいの幅しか無く、半端なルーペで観察しても状態がよくわからず、この微細部分に半田を載せて再度コンデンサの足を付ける訳にもいきません。ここで普段はめったに使わない双眼の実体顕微鏡まで持ち出してプリント基板を観察すると、ほんの微細なスルーホールで基板裏側に繋がっており、その基板裏側の部分からジャンパー線を延ばしてコンデンサの足に半田付けし、何とか最大の危機を回避しました。部品を元通りに組み立ててバッテリーも組み込み、ACアダプタを繋いでバッテリーマネージャーをリセットしてキーボードのキーを叩くと、ピーンという何とも軽い起動音(1分間の深イイ話のジングルに使われているあの音!)を発してあっさりと起動してしまいました。ところが、ちゃんとハッピーマックが出てWelcome To Macintoshに至ってデスクトップが表示されるのですが、アイコンもメニューも出てこないんですよね。ちゃんとマウスカーソルなんかは動いているのですが、何回かリセットしてもこの現象は解決できませんでした。スリープしたまま1週間ほど放って置いたのですが、もう一度キーボードを叩いて起動を試みると、起動音とともにほんの僅かな秒数でデスクトップが表示されました。なんでだろう?と思わず首を傾げましたが、ロジックボード上の障害は思いつきません。もっともメモリーが不良であるという原因も否定できませんが、後日システムディスクから起動しなおすとあっさりとデスクトップが表示されました。どうもHDD上から英語版6.0.5で起動させるとうまくシステムが読み込みきれない現象でもあるのでしょうか。HDDの中身には往年のMAC WORDとEG WORDが入っており、システムは英語版6.0.5と漢字TALK6.0.4です。貴重なFEPであるVJEの2.1も入ってました。このシステムの英語版と日本語版はデスクトップ上のDAによってすぐに切り替えられるようになっていましたが、いかんせんPOORな標準のオンボード上1MBの内蔵メモリしか利用できないので、日本語のワープロを使おうにもメモリー不足で、最近のMacのデスクトップ上には絶滅種の「爆弾」を連発します。せめて拡張メモリーを含めて4MBのメモリーがあれば漢字トーク6上では不自由しないのですが、拡張スロットは無情にも空でした。まあ、Yoo-Editに漢字TALK6.0.7でも使用できるVer1.6.3が今でも公開されているので、わざわざ不自由な2.1変換を使って文章を打ってみるという楽しみもあります。ところで、どうやら充電池のほうに正常に充電出来ていないようで、プラグを差していても強制スリープのアラートが出続きます。また、バッテリーを外して単独で安定化電源で7.5V,440mAでスロー充電をかけ、充電の完了したバッテリーで再度起動させてみるとまたデスクトップからメニューもアイコンも消えてしまうという現象が出ました。もう一度システムディスクから起動し、再度システムスイッチャーでHDD上の英語6.0.5から起動しようとすると、漢字トーク6.0.4しか認識できなくなるという障害が発生。HDD上から漢字トーク6.0.4を内蔵メモリーのみの状態で起動させると、システム終了を選ぶとメモリー不足でシステムエラーの爆弾アラートが出てきて正常にシステムを終了できません(泣)誰かPORTABLE用拡張メモリー、1MBタイプでもいいですから恵んでいただけるような酔狂な方いませんか?
昭和40年前後、主に対米輸出を目的にスタイラス式加算機が各種作られたことは以前にMBCのポケットカリキュレーターを入手したときに詳しく書きましたが、同時期に輸出用に作られ、東京都の優良輸出品に認定されていた手動加算機がこのミクラ精機で作られたミックラー加算機です。MBCのスタイラスでラックを引くタイプに比べてかなり大振りで、中型の電卓くらいのサイズでしょうか。そのためにスタイラス操作が不要で、指先で直接ラックを押し下げることが可能になっています。このラックはMBCなどの小型計算器と異なり、自動的に桁が上がり、なおかつバネの力でラックが一定の位置に戻る仕組みのため、MBCなどのように下に引くのか上に引くのか一瞬の判断に迷うことなく直感的に使用出来ます。この仕組みであれば、計算速度に関しては素人が使用する限りは算盤の加算といい勝負だったかもしれません。しかし、減算するための特別なメカニズムがまったく無いようで、この点はリコーのアレックスと異なります。しかしラックに赤文字で逆数を振ってあるので、なんらかの減算方法があるのでしょうが、説明書はもちろんのこと欠落してますので、今の所、不明です。このミックラー加算機は輸出が主体だったことと、算盤の牙城を崩すほど普及したわけでもなく、現在にまで残っているものは少ないようです。そのため、こんな簡単なものながら、一度は箱・説明書付きの中古で16,800円という高落札額で取引されたこともあります。
明治期の炭鉱では比較的に坑口からも近く浅い炭層を採掘していた分には「じみ」と呼ばれる土瓶のような形をした金属製のカンテラに菜種油などを燃料を入れ携帯用の明かりにしていました。これはガス気のない金属鉱山で使われてきた物をそのまま炭鉱に持ち込んだのですが、しばしば何かの拍子にこのじみの火が消えると坑内に設けられた火番所という所に行き、火を着けてもらいます。この火番所は「喫煙所」の役目も果たしており、煙草吸いたさにわざわざじみの火を消して火番所に現れる剛の者もいたのだとか。しかし、明治も中期に差し掛かり、各所で竪坑が開削されて採炭現場が地底深くに達するといよいよメタンガスの洗礼を受け始め、しばしばカンテラの裸火でガス爆発を起こすようになったため、デービー灯やクラニー灯という石油安全灯が徐々に普及していきます。明治の中期にドイツのウルフ氏によりウルフ式揮発油安全灯が発明されたことにより、日本でも大手の炭鉱でウルフ安全灯や同様の揮発油式安全灯であるサイベル式安全灯などの煤のでない揮発油灯が主流になっていきますが、アメリカのエジソンが充電式電池を使ったキヤップランプを売り出すに至り、大正末には大手の炭鉱では整備に手間の掛かる手提げの揮発油安全灯に代わってキヤップランプが主流になっていきます。このような揮発油安全灯ですが、乏しい外貨で外国製安全灯を輸入するよりはウルフ安全灯をデッドコピーして国産化したほうが国策に叶うと考えたのか早くも明治末期にウルフ安全灯は灯火器製造メーカーである本多商店により製造が始まり、昭和の初期に明かりとしての役目を終えた後も実に昭和40年代初期まで「簡易メタンガス検知器」として、また船舶用備品として製造が牛の涎のように続いてきました。実は東京オリンピックの聖火をアテネから運んできたのは特別なスタンドに装着され、旅客機の中に持ち込まれた本多電機製ウルフ安全灯と予備のためのハクキンカイロだということはあまり知られていないかもしれません。






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