12/24日で本線終煙30周年
本日12月24日は国鉄の本線上から蒸気機関車の最終運行が行われて30年目の日となりました。30年前の当日はD51 241の夕張線最終貨物列車の6788レの追分駅到着を迎えることもなく、その日は同じ高校の合唱部によるクリスマスイブコンサートに顔を見せざるを得ず、追分駅には出掛けませんでした。それでも3日前の12月21日に追分機関区に出掛け、一足先に機関庫内のD51たちに別れを告げましたので、さほど歯がゆい思いをしたわけではありません。自分にとっての蒸機との惜別の儀式は3日前にすでに終わっていました。12月21日に追分機関区に降り立ったときは、さほどマニアの姿は見ることが出来ませんでした。線路を渡り機関区に行くとすでに火を落としている9600やD51もありましたが、機関庫内は白い蒸気のまとわりつく火の入った機関車ばかりで、あと3日でこの機関車達がすべて火を落としてDD51に取って代わられるということがまったく信じられない程でした。ひっきりなしに牽引任務を終えたD51が帰ってきますし、機関庫からもD51が出てきて転車台で方向を変え、牽引任務に出てゆきます。入換の9600も忙しそうに駅の構内を走り回っておりました。まったく以て蒸気機関車が「余力を持ちながらの強制的な幕引き」にさらされたような印象をさらに強めたような感じでした。
追分機関区の蒸気機関車は入れ換えの9600を残してすべてこの昭和50年12月24日を以て全て火を落としました。9600型だけは翌年の3月まで追分駅構内の入換作業に従事しておりましたが、全道各地から保存を目的に追分機関区の扇形庫に集結されていた機関車の多くは、翌年4月の追分機関区の火災によって新造のディーゼル機関車とともに焼失してしまいました。国立博物館に展示される予定だった最後の本線牽引蒸機D51 241もこの火災に遭遇し、残っておりません。すでに火の気の無くなった機関庫で全ての機関車が焼け落ちるような火災がなぜ起こったのか未だに原因はわかっておりませんが、国鉄労使関係の対立が頂点にあった頃ですし、ディーゼル機関車転換による人員配置上の問題もあり、「放火か?」という噂もありながら、結局は有耶無耶になってしまったようでした。新聞には「蒸気機関車の焼身自殺」などと書かれたものもあったようですが、剥製のようになりどこかの公園に雨ざらしで放置され、ガラスは割られて部品も盗まれ錆びて穴だらけの躯を晒して「危険」という理由で、結局は解体されてしまうより、そのまま終焉の地で機関車として荼毘にふされたほうが結局は良かったのではないかと考えています。
昭和50年12月21日の追分機関区
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