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December 14, 2005

最後のSL旅客列車から30年

 本日12月14日は特別な記念日です。とはいっても雪の本所松坂町吉良邸討ち入りではありません。日本で最後まで残った蒸気機関車旅客列車(C57 135牽引225レ)が終焉を迎えた昭和50年12月14日から数えて30年目の記念日なのです。当時、まだ地元にいて蒸気機関車の終焉に立ち会えたのは、蒸気機関車マニアの端くれとしてはまったくもって幸運なことでした。また、この日まで旅客列車も貨物列車もその殆どが蒸気機関車牽引だった室蘭本線の沿線に育った自分にとっては、蒸気機関車というのは特別な存在ではなく、ごく日常の風景だったのにも係わらず、12月14日には旅客列車が、12月24日からは貨物列車からも蒸気機関車が引退し、それまではだんだんDD51に置き換えられて細々と運行されていた蒸気機関車が徐々に姿を消していったのではなくて、蒸気機関車はその前日まで当たり前のようにひっきりなしに走っていたものがその日を境にぷっつりと姿を消したというか「動力近代化」のポリシーのもとにまだ余力を残しながら強制的に引退されられたというような印象でした。追分機関区では入換えのためのDE10が揃わずに翌年3月まで9600型が煙を上げ続けていたのは有名な話です。
 最後まで残った蒸気機関車牽引旅客列車は室蘭本線の室蘭と岩見沢を結んでいました。岩見沢に親戚がいた関係で、苫小牧から岩見沢まではこの客車列車に何度も乗りましたが、鋼体化改造客車と鋼体客車の寄せ集めで、近代化改装済の青色客車は末期に編成に混じることはあっても40年代初めはニス塗りの茶色い客車ばかりでした。中には「オハニ」とかいう半分荷物車になった客車もありました。優等列車がなかった室蘭本線ではかなり遅くまでこの古い客車に似つかず車内販売も行われており、沿線の追分駅でもアイスクリームや追分饅頭の立ち売りが、栗山駅でも栗饅頭の立ち売りがあった時代がありました。40年代までは白いグローブのついた白熱灯照明でしたが、いつの間にか旧白熱灯の台座にサークラインを配した蛍光灯照明に変わりました。室蘭から岩見沢までの中間地点がちょうど苫小牧で、ホームの先端に蒸気機関車の炭水車に給水する給水塔が立っており、旅客列車が入るたびに燃料掛の職員がテンダに上がって給水と石炭のかき寄せをしたものです。ちょうどホームから岩見沢寄りに40年代の始めまで駅前から支笏湖方面に向かう道路の踏切があって、以前は踏切警士がいて踏切の開閉をおこなっていたのですが、1キロほど先に陸橋が出来たためにこの踏切が廃止になり、その変わりに人道跨線橋が出来ました。この跨線橋が絶好の列車観察ポイントでホームからは離れていますが、貨物列車はすぐ目の前で停止して給水をし、乗務員交代などが行われるために、その作業を見るために飽きずに通ったものでした。乗務員交代の時は機関車を降りてきた乗務員が黒い学生鞄のようなものに挟んでいた小さなヘッドのハンマーを取り出し、ロッドの辺りをカンカンたたき始めるのですが、この作業がなんか格好良くてね(笑)小学生の時は将来断然「蒸気機関車の機関士」志望だったのですが、その時すでに数年後に廃止で、大人になるときまで保たない職業だった
(^_^;) 結局DLは蒸機を廃止に追い込んだ敵だった為DL運転士にはなりたくなかったし、国鉄も赤字続きで鉄道員にはなりませんでした。
 昭和50年になってからは北海道内でも蒸気機関車廃止路線が次々に出てきて、旅客列車では一足先に宗谷本線の普通列車から蒸気機関車が引退し、夏にはここ室蘭本線にC57 38,44,57,135,144が残るだけとなりましたが、列車によってはDD51牽引になったり、C57の員数調整でD51牽引の列車に変わったりして、そういう列車に乗り合わせると何か損をしたような気になりました。貨物列車は比較的に当時はまだ石炭貨物列車が多かったために根室本線芦別から赤平、滝川を経て岩見沢に至る滝川機関区のカマ、歌志内、上砂川を経て同じく岩見沢に至る滝川・岩見沢第一機関区のカマ、幌内線から岩見沢に至る岩見沢第一機関区のカマ、夕張からと岩見沢から苫小牧を経て室蘭までに至る追分機関区のカマなどが未だに健在でした。また、各操車場では9600型が未だに煙をあげておりましたが、地元の苫小牧機関区は日高本線からすでにC11が引退し、苫小牧貨物ヤードの石炭貨車入換えもDD13により無煙化が一足先に済んでおり、寂しいものになっておりました。昭和40年代初めには苫小牧は九州の若松を抜いて貨物取扱高200万トンを超える日本一の貨物取扱高を誇ったことがあります。というのも従来は明治時代からの長きに渡って室蘭港から積み出していた石炭を距離の短い苫小牧から積み出すことを計画して、砂浜海岸を人工的に掘削して「掘込式の港」を築き、石炭埠頭を設置したことによります。そのために苫小牧操車場は広大な敷地を擁し、上り線から到着した石炭貨車を臨港鉄道のロッド式DLが受け取って石炭埠頭に送り込み、広大な貯炭場でストックされたのち、本州の火力発電所に向けて船積みされるという作業を延々と繰り返していたのです。そのため、ヤードに多くの入換用機関車が必要になって、昭和44年当時の最盛期には「苫」の区名札を着けた9600が9両ほどもおり、さらに日高本線貨物用にC11が何両もいて、あのときが苫小牧機関区の最盛期だったのでしょうね。その後だんだんDD13が増えて、気がつくと9600は1両もいなくなってしまいました。苫小牧貨物ヤードには上下の本線をまたぐオーバークロス跨線橋が設けられており、本線を塞ぐことなく空になった石炭貨車を下り線側に移動できるなっており、現在はその土台部分の一部が残っていて当時のなごりを目にすることが出来ますが、それだけ石炭貨車の取扱量が凄まじかったということですね。全盛期石炭取扱高300万トンを30トン積みのセキに換算するとのべ10万両分ですか?(@_@) 1日の取扱両数にしても270両近いですねぇ。その石炭輸送のおかげで室蘭本線は当時の輸送コスト高の国鉄路線では珍しく黒字の優良路線だったのです。岩見沢・追分方面から苫小牧ヤードで貨車を開放したD51は単機で苫小牧駅への側線を進行し、苫小牧駅構内のターンテーブルで方向を変え、給水を済ませてヤードに戻り、空のセキを牽いて追分・岩見沢方面に戻るという繰り返しで、苫小牧駅のホーム西側にはそんなD51が4〜5両かたまって駐泊しておりました。こんなことが苫小牧では1年365日24時間ぶっ通しで続いていたわけです。そんな苫小牧ヤードにも石炭産業の斜陽化によって40年代後半には空の側線ばかりが目立つようになり、石炭埠頭の広大な貯炭場は出番を失ってぺんぺん草が生えているような状況になりつつありました。石炭埠頭はその後コンテナ埠頭に変わり、現在では東港にコールセンタが設置され、積み出すのではなくオーストラリアからの石炭を運搬船から降ろし、道内各火力発電所に石炭を供給するための60万トン規模の貯炭場と化しております。
 C57さよなら列車の写真ですが、これは苫小牧駅の例の人道跨線橋から撮った写真です。室蘭出発は雪の中の出発だったそうですが、苫小牧は朝からいい天気でした。新聞社や放送局の飛行機やヘリコプが飛び交う中で、到着1時間前から寒い中を立って待っていましたが、もちろん1番乗りでした。三々五々人が集まり出しますが、到着予定の9時半近くになっても一向に煙が見えてきません。そのなかでやっと50分遅れくらいでC57 135号機に牽引された最後の旅客列車が苫小牧駅に到着いたしました。入換え作業および予定時刻通過列車はウヤ状態だったんでしょうね。今のように頻繁に特急列車が走る時代では考えられませんが、駅構内にこんなに人が立ち入って溢れることは未だかつてありませんでした。そして225レはいよいよ出発の時を迎え、汽笛と共に最後の旅客列車が走り始め、周りの人たちは拍手でそれを迎えました。人道跨線橋を懐かしい石炭と蒸気の混じり合った匂いとドラフト音で包み込みながら、C57さよなら列車は客車のボギー台車が鳴らすタタンタタンというポイントを渡る音を残して、永遠の世界に走り去りました。そして12月24日、クリスマスイブの夜に夕張線上でD51の貨物列車が最終運行を迎え、この日を以て日本の鉄道路線上から蒸気機関車牽引列車が消滅しました。以後、復活蒸気機関車の運行にも興味が無く、近づいたことさえありません。ただ、東京に出て20年目にして初めて交通博物館でC57 135と再会しましたが、体温の感じられない蒸機の躯はセミの抜け殻みたいでもの悲しかったです。また、各地で蒸気機関車の復活運転が行われるようになりましたが、動物園の人寄せパンダみたいで、「働いている蒸気機関車」らしさがまったく感じられません。やっぱり蒸気機関車は煤にまみれて、またブレーキ粉の赤サビで汚れ、時には「スト権奪還」や「団結」のペイント跡も生々しく文句も言わずに走り回る「生き物」であって欲しいものです。
c571351


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