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June 26, 2007

8J8GRNとの交信数

 地元で開催された第58回全国植樹祭に伴いJARL胆振日高支部が6月24日まで特別記念局8J8GRNを運用しましたが、交信できたバンドは以下の5バンドとなりました。一番多く運用された21メガSSBが抜けているのは不思議ですけど、10メガ18メガのCWとたまたま交信できたのはラッキーでしたね(笑)
 6/13 7メガSSB  室蘭
 6/20 10メガCW  苫小牧
 6/19 18メガCW  苫小牧
 6/18 144メガFM 苫小牧
 6/20 430メガFM 苫小牧
 144/430は両方ともハンディ機のホイップアンテナからの交信です(笑)あんまりしばらく使っていなかったから電波がちゃんと出るかどうか半信半疑でした(^_^;)

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June 14, 2007

列島梅雨入りと記念局運用

 九州から関東まで2日間で一気に梅雨入りしたようですが、その梅雨の遅れが一因になっているのか6m及びHFハイバンドのEスポ伝搬が今シーズンはことさら良くなかったようでした。その中でうちの支部管内から第58回全国植樹祭を全国にアピールするために特別記念局 8J8GRN の運用が11日の夜から24日までの予定で室蘭を皮切りに始まりました。相変わらず12日13日の全日、ハイバンドの伝搬がpoorだったみたいで、殆ど7メガSSBでの運用だったようですが、2日で約1000局超の局と交信し、次の登別にバトンならぬリグを渡したようです。打って変わって本日14日は「キングソロモンの法則」ではありませんが、日本列島に横たわる前線のおかげか21メガが広範囲にオープンしたようで、登別では主に21メガで1エリアから6エリアまで間断なくパイルアップの状態になったようです。これで夏至近くの一年で一番ハイバンドの伝搬が期待できる時期の記念局運用の本領発揮となることでしょう。かくいう私はJARL会員ではあっても地域クラブ所属ではありませんし、何せタワーも建っていない貧乏電波研究所ということもあり、記念局運用メンバーの中には加わってませんので残念ですが念のため(^_^;)
 ところで、記念局のコールサインは運用にあたるJARL支部からの希望で最終的には総通局が許可するようですが、植樹祭というとどういうサフイックスを付けるかということでどこの支部も頭を悩ませているようです。過去にもサフィックスが「SJU」とか単に「I」一文字というのがあったようですが、今回もコールサイン命名には相当苦労したようで、「ツリープランティングフェスティバル」だからTPFだろうなどという珍妙な直訳英語も飛び出した挙げ句、 人間一人あたりの緑の面積が非常に広い苫小牧を象徴し、CWの打ちやすさも考慮して「8J8GRT」(グリーンタウン・苫小牧)と命名したはずだったのですが、申請段階でいつのまにか「T」が「N」に化けて「8J8GRN」で、単なる(グリーン)を意味するようになってしまったんだそうです(^_^;) おかげでコールサインに短点が一つ増えてしまったそうな(笑)

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June 04, 2007

玉屋/逸見式改良計算尺の謎解き

 先代金馬師匠「たがや」の枕に「橋の上 玉屋玉屋の人の声 なぜか鍵屋と言わぬ情(錠)無し」などという江戸狂歌が引用されていますが、花火の玉屋は文化五年(1808)に鍵屋の手代、清七が独立し、新たに花火屋を起こしたものです。それから大川(隅田川)の花火は上流は玉屋が、下流は鍵屋が担当しましたが、清七を改名した玉屋市兵衛は技術が優秀で柳・流星などの新たな花火を次々に考案し、本家の鍵屋をしのいで江戸っ子のハートをがっちりと掴んだようで、そこから花火の誉め言葉というと「玉屋〜」というのが定着したんだそうな。先代金馬師匠は「誉めやすい」と言う点を強調しておりましたが、この玉屋は天保十四年五月(1843)に自宅から出火し、廻りの半町を焼くという「特大の花火」を打ち上げてしまい、江戸から所払いとなってしまったようです。幕府によって強制的に廃業させられた玉屋に対する江戸っ子の「権力への反発心」とか「判官贔屓」いうのもあったのでしょうが、それ以降大川の花火はずっと鍵屋が戦前まで仕切っていたのにも係わらず、相変わらずかけ声は「玉屋〜〜〜〜〜〜〜〜〜(ジュッ)」が続いていたわけです。玉屋の営業期間はわずかに一代35年間でした。「玉屋だと 又またぬかすわ と鍵屋云い」(江戸川柳)
 この誰もが知っている花火の玉屋に対して、測量や航海関係の人たちにしか馴染みの無いのが今回の計算尺に係わってくる玉屋です。その創業は何と江戸時代も初期の延宝三年(1675)で、江戸市中は現在の松屋デパート前に玉屋藤左衛門が玉屋の屋号で眼鏡店を開いたのがそもそものルーツらしいです。その玉屋が江戸時代の歴史に名を記しているのは日本全図を作成した伊能忠敬が和時計師大野弥三郎規周の製作した測量器を玉屋を通じて入手した史実などがあります。その時期にしても花火の玉屋が創業する以前の事だといえば如何に歴史のある老舗かということがお解りだと思います。この眼鏡の玉屋は江戸時代約200年間を無事に乗り切り明治の時代にはいると玉屋商店として外国製の測量機器系諸機器の輸入販売を手がけたのを手始めに測量器の国産化に着手、明治26年には度器の製造免許を得、明治34年には千駄ヶ谷工場を建設し本格的な測量機器の製造を開始したのと同時に合名会社玉屋商店に改組しました。昭和7年には株式会社化し池上工場を増設、航海用六分儀などの航海測器も手がけるようになります。昭和58年にタマヤ計測システム株式会社という新会社を立ち上げて営業権譲渡し、現在タマヤ計測システム株式会社は株式会社エプソンの100%子会社です。330年の玉屋の歴史をざっと辿ってみましたが、実は逸見治郎が作り上げた計算尺は当初この玉屋商店が流通に乗せており、欧米に輸出をしたのもこの玉屋商店によってでした。逸見治郎と玉屋商店のつながりに関しては当方もよくわからないのですが、計算尺製造以前に中村測量計器製作所の目盛職人として仕事をした商品が玉屋商店で取り扱われたことでしょう。製造した物を販売ルートに乗せるために逸見治郎が計算尺を銀座の玉屋商店に持ち込んだことは疑いありません。
 このあたりの歴史を株式会社ヘンミの沿革から抜粋すると
 1895 逸見治郎が計算尺の製作研究に入る(中村浅吉測量器械店)
 1909 逸見治郎、竹材(孟宗竹)を組み合わせた計算尺を完成させる
 1912 竹材の組合せ合板計算尺の特許を取得(PAT.No.22129)
 1917 英仏で特許を取得
 1920 中国・米国・カナダで特許を取得
    この頃から独逸製計算尺に替わり欧米からの発注拡大
    独自の機械切刻法を案出して大量生産を可能とする
 1924 大倉龜がロンドンでヘンミ計算尺を目撃する
    逸見治郎商店の猿楽町にあった本社兼工場焼失
 1925 大倉龜が逸見治郎を尋ね経営参加を申し出る
 1926 海外への輸出を考慮した大正15年型計算尺の販売開始
 1928 合資会社逸見製作所設立
 1929 ユニバーサル(両面)計算尺発売
    (商標がJ.HEMMIから"SUN"HEMMIに換わる)
 1933 逸見製作所を株式会社に改組
 このような経緯をたどって計算尺製造の個人商店から大倉龜の力により製造販売及び輸出まで手がける会社に発展していったことがよくわかると思います。玉屋商店の取扱商品目録にいつ頃から逸見治郎の計算尺が載ったのかは把握しておりませんが、少なくとも1913年発行のものには掲載されているようで、これは国内パテントを取った1年後のことになります。この当時は10"と5"のマンハイム尺本体にカーソル違いのバリエーションしかありませんでした。この玉屋商店の製品目録を見たことがないのでどういう刻印があったか(もちろん図版はイラストでしょうから刻印なんか省略してあったでしょうが)わかりません。これは想像ですが後の「J.HEMMI」という商標は入らずTAMAYAの商標のみで売られていたのではないかと考えます。J.HEMMIと"SUN"の商標が計算尺に刻印されるようになったのはいつ頃からでしょうか?これも想像ですが当初は独自に販売ルートを持たなかった個人商店の逸見治郎はJ.HEMMIの刻印を本体に入れず、「逸見式改良計算尺」という刻印が社名代わりとなり、1917年に英国のパテントが降り、本格的な輸出用として英国パテントナンバーが表に入れられるようになってからJ.HEMMI "SUN"とmade in Japanが始めて表に入れられ、日本国パテントナンバーと逸見式改良計算尺の刻印が滑尺溝のバックプレート部分に移動したのではないでしょうか?まあ、あまりにも見た事のある個体数が少ないので確証はありません。(実はTAMAYA刻印以前で1912年の特許取得以前にJ.HEMMIならぬJ.HENMI.TSUKIJI.TOKYO.JAPANの刻印のものがあるらしく、また特許取得直後でまだパテントナンバーが入らないころに、以前逸見次郎が仕事をしていた中村浅吉測量器械店向けのA.NAKAMURA.NIHONBASHI.TOKYO刻印の逸見式計算尺があるそうな…)
 さて、「TAMAYA」の刻印を見かけて入手した今回の計算尺ですが、ケースとカーソルが失われれてました。新しい計算尺だとよっぽど希少な計算尺でもないとカーソル無しの計算尺は食指を動かされないのですが、今回はまったくの別格です。届いた計算尺はカーソルが無いのでNo.1かNo.2として発売されたかは判然としません。表面には「TAMAYA & Co.」と逆文字旧字体で「専売特許 逸見式改良計算尺」と刻まれただけで、J.HEMMI "SUN"のトレードマークもありません。滑尺を抜いた溝に「PATENT No.22129」とのみ刻まれております。このことから製造年代を推測すると1913年から1917年に掛けての製造ではないかと考えられますが、手持ちの1922年頃のNo.2や他の人のコレクション入りしているNo.1あたりと比べると、今回入手の計算尺は何とCD尺に「π」マークが無く、πはAB尺上にだけ刻まれています。まさか刻印を入れ忘れたエラー物ということはないと思いますので、このC,D,尺にπゲージが無いものがかなり初期の逸見式改良計算尺ということが出来ると考えます。又πゲージやMゲージマークの書体や大きさが異なり、1922年頃のNo.2と比較しても数字の大きさや書体などが一部異なります。目盛の機械切刻法で量産されたNo.1よりかなり手作りの部分を感じさせるような計算尺で、これらを総合して推測するとやはり1913年に限りなく近い頃に作られたNo.1かNo.2ということが出来るのではないでしょうか?さらに滑尺を抜いた溝の部分にはスケールが刻まれていますが、単位はメトリックで国内向けのものでした。しかしこのスケールに打たれている数字の打ち方も後のものとは異なっています。
 また、この時代の逸見式改良計算尺はどれを見ても竹がむき出しの部分が茶色く、当初は経年変化で茶色に変色したのではないかと思いましたが、表面のセルがまんべんなく焼けて黄色くなっている個体も殆ど新品同様にセルが白いままの個体も同じように茶色い竹がむき出しであり、さらにセルが剥げた部分も似たような色をしていることから、当初は竹の積層合板を元になった外国のマホガニー材の代用と考え、わざわざマホガニー材に見せかける為に竹材を茶色く着色する工程を施していたのではないでしょうか?
 まあ、比較する個体も資料も少ないだけにこういう現物を目の当たりにするのは貴重な体験でした。
(追記)2014.4.17
 ところで、玉屋扱いの逸見式改良計算尺と同時代と思しき「K.HATTORI」刻印の逸見式改良計算尺が1点、2年ほど前にオークション上に出たことがありました。そのときはあまり気にもしなかったのですが、よくよく調べてみると、K.HATTORIは服部時計店および精工舎の創業者服部金太郎の名前で、逸見次郎は逸見式改良計算尺の販売先として少なくとも中村浅吉測量機械店と玉屋、ならびに服部時計店の三社に仕向け先ネームのいわゆるOEMとして計算尺を卸してしたことになります。さらに服部時計店は1917年〔大正6年)に株式会社化するので、このK.HATTORIのネームは個人商店時代の服部時計店のもので、株式会社化以前に逸見次郎が持ち込んだものに間違いありません。しかし、逸見次郎が逸見式改良計算尺として完成させたはいいが、販売ルート開拓でなかなか苦労していたことが伺われて、なかなか興味深い事実でした。
Tama

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June 03, 2007

夜間の6m大オープン

 2日土曜日はEスポシーズンの週末にもかかわらず、支部長の介添え兼運転手として北海道本部の会議に出席するため札幌に出掛けなければいけなかったため、出がけにハイバンドのワッチだけで日中の運用が出来ませんでした。6mのコンディションは「意外に開いていないな」という印象で、後ろ髪引かれることもなく支部長を車に乗せて札幌まで出掛けたわけなんですが…。
 帰りは18時過ぎになりましたので、食事後に2階にすぐ上がり、パソコンを立ち上げて6mのリグの電源を入れました。パソコンでネットクラスターを調べても日中にはあまり8の入感情報は上がっていなかったようです。どうやら広範囲にオープンはした様子がありません。6mもその時点ではスポット的に6エリアの鹿児島と宮崎の局が聞こえる程度でした。夏至までもう20日あまりしか残されていない計算ですから、例年では夕方から宵の口に掛けて1エリアから7エリアあたりまでEスポにより強力にオープンする事が多いのですが、今年は梅雨前線の形成と北上が遅れているのも関係しているのか、あまりEスポの恩恵を受けることが少なく、特に夜間のオープンはここ8エリアに関しては少ないようです。21メガまで下ると22時台くらいまで聞こえることは5月の末から頻繁に起こっては来ていたようですが。
 2日夜は日ハム対阪神の試合もカタが着いた21時30分過ぎに21メガをワッチすると、3アマ養成講習でとなり同士になっていたおじいちゃんと孫ほど歳の開きのあるOM氏と中学生のKくんがラグチューしてました(笑)この2人はハイバンドが聞こえ始めると同時に21メガに出てくることが多く、結局はラグチューが始まってしまうことが多いらしく、最近よく聞こえてます。21メガ広域的に開いているようだったので6mのリグの電源を入れると夜だというのに1エリアがかなり強力に入感しているところに遭遇しました。奇しくもオール神奈川コンテストがスタートした直後で、50.250から50.330近辺に掛けてかなりの局数が出ていましたので、下の方から順番にコンテストサービスとして応答。それにしても強い伝搬で、メーターが殆ど振り切れんばかりに入感している局ばかりです。コンテスト局と10局ほどと交信しましたが、8エリアからこの時間にこんなに強い信号をもらうなどと想像もしていなかったなどと言っている局もいました。コンテストバンドのエッジには神奈川の局のみを呼ぶ管外局が何局か聞こえますが、わが弱小地方支部コンテストと違い、流石はメジャーな支部コンテストですね(笑)
 50.250以上はコンテスト局に占領されているため、50.250以下でなかなか出る周波数がありません。久しぶりにFMモード周波数に出てみると51.020から51.200近辺まで珍しくびっしりとQRLで、51.200など大阪ローカル同士で延々とラグチューしている声もはっきりと聞こえます。その交信に被って長野は飯田市の局がCQを出し始めましたので、LOGからコールサインを検索すると当局が無線を解禁した直後に7メガで交信してから4年間交信履歴がない局だったので、50.240にQSYしてもらって今シーズン始めてのFMモードでの交信が成立。つぎに51.040で川越の局と交信しましたが、この局は6mでもいろいろなモードで出没しているようで当局とは50メガAM,SSB,FMの3モードを達成しました(笑)その後22:10過ぎにはコンディションが緩やかに低下し、FMモードでの交信はそろそろ終息。AMモードも50.600のロールコールが辛うじてきこえてましたがそれもそろそろ終息し、6mワッチを終了しました。
 打って変わって3日は朝からあまりコンディションが良くないようですが、夕方からまたコンディションが戻ってくるのでしょうか。

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June 01, 2007

RICOH No.84 8"学生用計算尺

 日本の中で一番多く生産された計算尺というとそれは安定した大量需要のあった8インチの学生用計算尺、つまり中学の数学の授業で使われた計算尺でしょう。形態的には表にだけ平面的にセルロイドが貼られてスケールはナシ。尺種類は表面 K,DF,[CF,CI,C,]D,Aで滑尺裏が[S,L,T,] もしくは[SI,L,TI] というところが定番で、その他にもA,B,C,D,尺のマンハイム型の学生尺もありましたが昭和40年代に入ってからはもっぱら√10切断ずらしの物が主に使われたようです。その中でも一般用片面計算尺の定番がHEMMIのNo.2664Sとすると8インチ学生用計算尺の定番はHEMMIのNo.45Kでしょうか。HEMMIのNo.45Kは昭和37年頃にHEMMIのNo.45にK尺を足して目盛をより細密にしたものですが、そのHEMMIのNo.45Kは途中でNo.P45Kなどという派生モデルを産みながら山梨技研系のNo.P45SおよびNo.P45Dというプラスチック尺にモデルチェンジして昭和50年あたりまで製造されました。ところがHEMMIのNo.45Kより1年あまり先行して発売されながら昭和の49年まで竹の素材のままモデルチェンジなしに製造されたのがこのRICOHのNo.84なのです。そのNo.84はRELAY No.84として三愛計器時代の昭和36年頃に発売されたのではないかと言うことは以前書きましたので省略しますが、昭和38年に社名がリコー計器に変わるとともにNo.84もRELAYからRICOHに変わります。そのときに丹頂黒ケースから当時のRICOH計算尺の貼箱を模した赤蓋本体透明裏ベージュの国鉄急行気動車のようなビニールケース付きで発売されています。RICOH初期のころはRELAY時代の仕掛品があったためか金属枠入りガラスカーソルですが、間もなくカーソルはプラスチックの成型品に変わります。その後ケースが蓋と裏側が青色で本体が透明のビニールケース付きとなり赤で目盛られていたCI尺が黒に変わり、数字だけが赤というような戦前の計算尺のような色合いとなります。最後までその状態が続きますが、ケースはさらに臙脂を濃くしたような透明部分のないものに変わりこれが最終型となりました。まあこの8インチ学生用計算尺の一種類をカーソル違い、ケース違いで全てのパターンを集めようというコレクターは「いない」のではないかと思いますが(笑) それほど価値を認められていない「路傍の石」状態の計算尺なので、500円などという値段が付いていても入手を躊躇してしまいます。ところが3本セットなどという計算尺の中にはこの8インチ学生尺が混じっているケースが多く(おまけで出品者の好意により1本いただいたこともあり)、本人の意思に係わらずいつの間にか増殖していくのもこの手の計算尺なのですが(^_^;)
 というわけで今回も自分の意志に係わらず入手したのがこのRICOH No.84でした。RELAYの昭和36年製No.84があるので、100円とでも値段が付いていない限りは見向きもしない計算尺かも知れません。というもの今回のNo.84は3本組で売り出されていた物の1本で、その中の目的は唯一カーソル無しだった戦前計算尺のみで、もう1本のNo.2664Sとともに当方にとってはおまけみたいなものでした。No.2664Sも最近はおまけ扱いでいつのまにか個体数が増加しました。こうなったらあまりにも普通すぎて好きではないNo.2664Sも考え得るパターンモデルを全部集めましょうか?(笑)
 一つ救いなのはプラカーソルでビニールケース入りのRICOH No.84は1本も持っていなかったためにコレクション入りとなりました。RELAY及び初期のRICOHと比べてCI尺の数字だけが赤いというモノトーンに近いデザインの計算尺ですが、ここいらでコストダウンして竹製の計算尺としての品質を維持したのでしょうか?HEMMIがコストダウンのため計算尺の新製品を次々にプラスチック化していったのに比べ、昭和49年の最終生産まで学生尺として竹製を維持し続けたのはかえって偉かったのかもしれません。裏面は他の学生尺同様にセルが張られておらず竹面が出ていますが、いちおうニス塗りされています。それでもRICOHの学生尺はHEMMIの学生尺に比べると簡単にひと刷毛塗っただけという雰囲気でこの竹面に直接製造刻印を打刻してあり、今回のNo.84は「US-9」ですから昭和47年9月佐賀工場製となります。昭和47年というとHEMMIでは竹製の学生計算尺がフェードアウトしてプラスチック製の学生尺にすべて生産がシフトしたころでしょうか。青と透明のビニールを組み合わせたケースに入ってますが、そうなると最終型の不透明ビニールケースはほんのわずかな期間だけ付属していたことになるようです。RELAYとRICOHのNo.84をじっくり比較してみますと、カーソルとCI尺の色の違いだけでなくRELAYのA尺にはπがあるがRICOHには無い。RELAYのCD尺にはラジアンを度に変換する5.729の「ρ°」があるがRICOHには無い。RELAYのSINの最小目盛は10分だがRICOHは5分である。三角関数の数字の刻み方が一部異なるという違いがあります。全般的にはRICOHのNo.84になって中学生の学習範囲以外のゲージマークなどがすっぱり切り取られた感はありますが、三角関数などはより読取り精度が向上した感じです。
「路傍の石」などとコレクション目線で蔑んだ計算尺ですが、昔から主張しているとおり無線従事者国家試験に持ち込むのであれば必要以上の機能を備えており、問題用紙の余白にちまちま筆算するより遙かに効率が良く、この手の8インチ学生尺であれば「この計算尺は使えません」と試験官から使用拒否に合うことも考えられないので、大いに活用していただきたいと思います。ただし最近の無線従事者国家試験は上級通信士および無線技術士試験レベルでなければ活躍の機会が無く、アマチュアの上級試験にわざわざ計算尺の使用法を一から覚えて計算尺を試験場に持ち込む必要がなくなったことを当方も認めざるをえなくなりました。何せ最近の試験は合格率からすると2人に1人は合格する試験ですし、みな計算尺なんぞ使っていないのですから(^_^;)
Ricoh84
RICOH No.84 8"学生用計算尺表面の拡大画像はこちら
RICOH No.84 8"学生用計算尺裏面の拡大画像はこちら
参考までに
RELAY No.84 8"学生用計算尺表面の拡大画像はこちら
RELAY No.84 8"学生用計算尺裏面の拡大画像はこちら

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