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October 28, 2007

創世記のJ.HENMI(NO.1) 計算尺

Jhenmi
 逸見治郎の個人商店時代の計算尺は1912年に竹製計算尺の日本国特許第22129号が降りてからは、専売特許逸見式改良計算尺としてJ.HEMMIの商標または取扱元のTAMAYA & CO.の商標が付けられて販売されましたが、その竹製計算尺の特許番号交付前の1912年以前は当然の事ながらパテントナンバーが入らないものが作られていました。その中には中村測量機械店の名前の入った物などもあったようですが、逸見治郎の個人商店として売られたもののブランド名はよく知られるJ.HEMMIではなくJ.HENMIの刻印が入ったものでした。うちの一番古い逸見式改良計算尺はパテントナンバーが降りた直後のTAMAYAブランドのもので、推定年代1913年頃の物。後のJ.HEMMIのNo.1と刻印が異なり、πマークもA,B尺にしか無いものでしたが、今回のものはさらに古く計算尺で刻印も「J.HENMI」とまるっきりローマ字表記のブランド名のものです。
この「J.HENMI」というローマ字表記の計算尺はNさんのコレクションで初めて目にすることが出来ましたが、今回の計算尺はどうやらNさんのものよりも新しいもののようです。それというのも逆文字で滑尺左に「特許」の刻印があり、刻印は「J.HENMI.TSUKIJI.TOKYO.JAPAN」から「J.HENMI.TOKYO.JAPAN」に変わっています。おそらく旧東京市内から豊多摩郡渋谷町の猿楽町に作業場を移転したため、場所をTOKYO.JAPANと省略してしまったのでしょうか。さらにまだ"SUN"のトレードマークを使用していませんが、おそらく本格的に輸出が始まっていなかったころの製品なのでしょう。このJ.HENMI計算尺は滑尺の左端に逆文字で「特許」の刻印が入り、滑尺を抜いた溝にパテントナンバー22129が刻印されていますが、同様の物はTさんのコレクションにあります。このNo.1はイギリス帰りのようですがJ.HEMMIの刻印が無くA,B尺C,D尺ともにπマークが追加された少々後のタイプのようです。製造年に興味が尽きない所ですが、刻印が殆ど同一なTAMAYA & CO.には後の計算尺同様に逸見式改良計算尺の刻印が入っていますので、それよりさらに古く、パテント取得の年である1912年から1913年頃の製造ではないでしょうか。どっちみちパテント取得前の殆ど手作り状態から脱し、ある程度まとまった数を生産できる体制が整いつつあることを感じさせる計算尺です。ケースも大正末期まで使われるボール紙を芯に黒い布を被せた(たぶん本の装丁を参考にした?)フラップの短いサックケースが付属していますが、未だマークの刻印もまったくない無印でした。この時代の計算尺はアルミの枠で出来たカーソルが付属していますが、耐久性に乏しく失われた物が多い中で、この計算尺は奇跡的に「枠」だけ残っていました。当方のNo.2と異なり、ちゃんとカーソルばねが入っています。このカーソルガラスは戦前のNo.40などのA型改良カーソルと同一サイズで、部品取り用としてタダみたいな値段で落としておいた裏板の殆ど朽ちかけたNo.40のカーソルからカーソルガラスを取り出し、No.1のカーソルのばねを縮めて慎重に嵌め込むと何の問題もなく使えるようになりました。ただ、この時代のカーソル線は黒のようですが、赤いカーソル線に変わってしまい、何となく「違和感が〜」。この計算尺は上のスケールがメトリックで下がインチ、滑尺溝のスケールもインチとなり、手持ちのTAMAYA刻印のものと逆になります。のちのNo.1は本体にこれでもかとばかりにパテントナンバーやトレードマークなどの刻印ををちりばめ、少々オーバーデコレーションのような気がしますが、この時代のNo.1は漢字の「逸見式改良計算尺」の刻印さえ入らず、まるでメーカー刻印しか入っていない「戦時尺」のような雰囲気さえあります(笑)
No1
 上からNo.1 J.HENMI、No.1 TAMAYA & CO.、No.2 J.HEMMI "SUN"、No.1/1 J.HEMMI "SUN"(後期型)
 J.HENMI(No.1)計算尺表面拡大画像はこちら
 J.HENMI(No.1)計算尺裏面拡大画像はこちら
 J.HENMI'No.1)計算尺滑尺溝拡大画像はこちら
 J.HENMI'No.1)計算尺滑尺裏面拡大画像はこちら

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October 27, 2007

HEMMI No.275D 20インチ電気用

 20インチの両面型電気用計算尺はユニバーサル型No.153の20インチ版No.154が始まりで、昭和14年頃の価格表によるとNo.153が17円50銭の定価に対してNo.154の価格は何と85円になっています。20インチ片面尺のNo.70が33円ですから、いかに高価な物であったかがわかろうという物。本来電気用であるNo.153が電気の枠を超えてあらゆる分野の技術用として使用されたために、戦前の両面計算尺にしてはかなりの数が残っているのに対して、その20インチ版No.154はその価格故かレアな計算尺です。その部分を価格面で埋めたのがリッツの20インチNo.70で、そのためか戦前尺の中では一番頻繁に見かける20インチ計算尺になります。
 さて、戦後の復興期に入ると計算尺の需要も拡大し、専門分野の両面計算尺として電気用No.255と技術用No.259が作られますが、双方の20インチ版として作られたのがNo.275とNo.279です。それぞれ元の10インチ版が尺のレイアウト変更やDI尺追加などのマイナーチェンジに合わせて20インチ版も変更され、時期により電気用はNo.275前期型、後期型、No.275D、技術用はNo.279前期型、後期型、No.279Dのそれぞれ3種類が知られています。最終型のNo.275DおよびNo.279Dは40年代に入り10インチ両面尺同様に紺帯の模様入りベージュ貼箱入りとなりますが、さすがに20インチ用の青蓋塩ビケースは金型が作られずに終わったようです。
 今回入手したNo.275Dは「QE」刻印ですから昭和41年5月の製造。ちょうどケムール人が東京を走り回り、パトカーに追いかけられていたあの頃です、ってそれはウルトラQの話だろ?(゚o゜)☆\バキ 実はこのNo.275Dは高校同期生からの頂き物で、当方にとっては記念すべきちょうど100本目のコレクション(現在105本目通過中)にそれにふさわしい大物でした。それでなくとも計算尺などというのは役目が終わった現代ではゴミ扱いですが、まして20インチの計算尺など引き出しの中に入れておくわけにもいかず、業務用の計算具としてはタイガー計算機同様にゴミに出されてこの世から姿を消してしまう運命なのかも知れません。昭和41年製ですから程なく精密計算は電卓の時代となり、さほど活躍しないまましまい込まれてしまったのでしょう、それほど傷みなどのない計算尺でした。しかし、外箱はさすがに某所で30年以上は放置された積年の汚れで煤け、中性洗剤を溶かしたぬるま湯を浸したペーパータオルで汚れを落とそうとするとペーパータオルが真っ黒になりました(^_^;) 内容的には単にNo.255Dを倍の長さにしたもので、表面がL,K,DF,[CF,CIF,CI,C,]D,LL3,LL2,LL1で裏がSh1,Sh2,Th,A,[B,TI1,TI2,SI,C,]D,DI,χ,θの24尺も変わりません。身幅もNo.255Dと同じなのですが、カーソルだけが特殊でカーソルグラスの右側に緑色で尺種類記号が刻まれている専用品です。一部緑の文字が消えかかっていましたので、グラスを外して緑のクレパスで色上げし、裏表のカーソル線を合わせてクリーニングと整備完了。20インチ計算尺は10インチ計算尺の倍の読みとり精度を持ちますが10インチ計算尺の、読み取り精度を一桁上げて有効桁数4桁にするためには20インチでは不十分で、計算上は100インチの計算尺が必要です。それでも100インチを5分割して20インチ計算尺に仕立てるのも無理が生ずるため、80インチを6分割もしくは4分割して19インチ尺及び20インチ尺にしたのが超精密用計算尺のNo.200及びNo.201として用意されてました。それにしても昭和40年代ともなると何桁という精度が必要な計算にはすでに電卓が出てきたために、概算で済む分野には10インチ計算尺は使われても20インチ計算尺を持ち出す機会は殆ど失われていたのが現実だったのでしょう。ところで、当方No.255の初期型は所有していますが、実は一般的なNo.255Dは一本も持っていないのです。それなのにNo.275Dがあるなんて、なんかいびつなコレクション構造を露呈してます(^_^;) 「275Dはあるけれど、255D持ってねぇ。でもそんなの……」(以下お約束事につき省略)(呆)
Hemmi_no275d
 下の小判鮫は大きさ比較のためのNo.32


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October 23, 2007

ハイブリット車に化けたキハ160型気動車

160_3 (今日ニュースを見てびっくりしましたが、何と日高本線の1型式1両しかない気動車キハ160が苗穂工場でハイブリッド車に改造され、報道陣に公開されたようです。)
 これを撮影したのは確か1997年9月に北海道入りしたときにたまたま苫小牧駅で遭遇したキハ160という全国レベルからすると大変に珍しい気動車です。というのも同型車が全くない1車種1両という気動車で、それというのもJRコヒになって日高本線に新製投入されたキハ130のうち確かキハ130-5か-6が日高本線の浜厚真近辺で無理に踏切を渡ろうとしたダンプと衝突して廃車となり、その補充として新潟鐵工所で新製された1両しかない気動車だからです。現在はキハ130の後釜に入ったキハ40と同系統のカラーリングになってますが、この写真が登場時のオリジナル塗装となります。JR発足直後に投入されたキハ130は閑散時の日高本線での輸送密度に合わせ、キハ40の代替として15.8mという各地の第三セクターに移管された地方鉄道で多用されたレールバスと同等の車格として製造されたものです。しかし、荒天時には波しぶきを直接浴びるような場所を走り、冬場には厳しい寒さに曝される北海道では耐候性に問題があり、十数年ですべて廃車となってしましましたが、キハ160はこの辺りを改良し、北海道の厳しい冬場に適合した車両となっており、キハ130が全て廃車になり、キハ40が日高本線に再度登板した後も保留車扱いながらその後も本線にちょくちょく顔を出し(残念ながら目撃したことはありません)、この9月の初めには苗穂工場を出場したようです。この写真を撮った9月でまだ半年しか経っていない真新しい状態でした。ライトも新製気動車らしく最初からハロゲンとディスチャージの2本立てでした。(そのハロゲンとディスチャージランプおよびキハ130っぽい顔つきが種車バレしましたが、しかしハイブリッド車化して苗穂を出場していたとは鉄分の薄いわたくしには想像もつかないことで)(^_^;)
160_4
 ライカIIIgにズミクロン35/f2.0という取り合わせで撮影
 やはりこちらのオリジナルカラーのほうが好きでした


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October 21, 2007

21メガで久しぶりに交信

 季節はとっくに秋を過ぎて冬に向かいつついあり、朝晩は暖房が必要な8エリアですが、電波伝搬的には例年のように秋冬型にスイッチするのが極端に遅れているような感じでした。10月に入り全市全郡コンストを迎え、例年であれば14メガ辺りが6エリアの末端から開き始め、1エリアあたりまで交信できるはずなんですが、今年は6エリアあたりもピンポイントでしか聞こえないような低調ぶりでした。最新情報は把握していませんが、サイクルのボトムは年明けくらいでしょうか?
 そんなような状況ですから8月を過ぎてアクティビティが完全に低下してしまい、9月はモービルで隣の支部コンテストに1局サービスした1交信しかない有様。430メガのダクトで海を挟んだ7エリアと交信できる季節も今年は430のリグがアンテナにも繋いでいない状況で不意にしてしまいました。このままだとニューイアーパーティーまで交信数ゼロに陥るところでしたが、ローカルの話では21メガで午前の10時台から短いながらも開くチャンスがあったということで、10/20日土曜日の10:30過ぎに久しぶりにリグに火を入れました。21メガでチューニングをとりますと、1エリアが珍しく開いています。ここでチャンスを逃したら本当にニューイアーパーティーまで交信数ゼロに陥るかと危惧し、21.228MHzSSBでCQを開始するとまず1エリアは浦安の局から1発でコールバックがあり、お互いに59で交信成立。続いてさいたま市は南区の局との交信となりましたが、1エリアがこの時期これほどに開くというのも珍しく、交信する局もみな21メガでは久しぶりに8エリアと交信できたと言っていましたので、あながちこちらがサボっていてチャンスを逃していたばかりではないようです。神戸市西区や和歌山県有田郡などからも呼ばれましたが、やはり1エリアが中心で横浜市の西部ならびにさいたま市からの電波が強いという状況だったようです。この日は11時台まで10局ほどと交信。本日も期待して9時台から21メガをワッチしてましたがDUとYB、9M2あたりからしか聞こえませんでしたが、11時台になって九州末端の長崎及び鹿児島あたりが強力に聞こえ始めてきたようです。季節的にやっと通常の21メガコンディションに戻りつつあるようですね。

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October 06, 2007

盛岡駅の485系はつかり

 ちょうどお盆の帰省シーズンである8月15日前後の道南地方は統計的に低気圧の通り道となって天気が良くないことが多いような気がします。千葉の成田の近所に住んでいたときは交代で夏休みを取っていた関係で、意図的に民族大移動の状況を呈するお盆を避けて8月末から9月に入ってから夏休みを取り北海道に帰省してました。天気のリスクを回避して晴天下で写真を撮りたいという目論見からです。また、急ぐ旅でもないために飛行機に乗らず、北斗星で北海道まで来るというのは何度かやっていましたが、日中の列車乗り継ぎで北海道まで帰省するというのはこのときが初めてだったような気がしました。
 たぶん1995年ですから12年前の帰省は9月になってからの事だと思います。主目的が廃止になる深名線の名寄から深川までの完乗だったと思いました。出発は成田駅で、コースとしては成田から東京まで特急の「すいごう」、東京から東北新幹線で盛岡まで、盛岡から青森までは「はつかり」、青森から函館までは「快速海峡」函館からは「北斗」でとりあえず苫小牧まで「海峡」以外は指定席特急券をすべて事前に購入し、乗車券は成田から名寄回り深名線経由で深川までというものです。成田駅で発行された乗車券は経由地が印刷しきれずに駅員に「深名線回りで深川行きだとこれだとわかりませんが?」と尋ねると「金額で判断すれば大丈夫だと思うんですが、念のため名寄を手書きしておきます」などと手書きで経由地を追加されてしまいました(^_^;) 成田を7時代の特急すいごうに乗ると8時台後半には東京駅に到着し、そうすると9時代の東北新幹線やまびこで盛岡から11時38分青森行きのはつかりに接続、このはつかりは青森で15時何分か発の海峡に接続し、海峡は函館で19時何分か発の北斗に接続するという乗り継ぎです。正確な出発時刻の記録が取れないのは深名線廃止時の記念にとって置いた時刻表が出てこないからなんですが、当方は本物の「鉄」じゃないので、時刻表にはとんと無関心だからというのもありますか(^_^;)
 さて、当方の記憶が正しければ7時38分発の183系特急すいごうは東京方の先頭車が指定席。ドンケのカメラバック担いでザックを背負って最初から立って東京駅まで行くのもイヤだなあと思って指定席券取ったら、なんと1号車の指定席の乗客は当方1人でした(@_@;) 京成のモーニングライナーも走ってますし、ちょっと中途半端な時間帯の特急のため通勤客にそっぽをむかれ、現在では7時台の特急はNEXが成田に止まるようなスジになっているようですが、当時は朝の上りのNEXに成田停車は無かったような気がします。東京駅の京葉線地下から東北新幹線ホームに上がりやまびこに乗り朝からビール付きの弁当(笑)酒を飲まない現在の生活からは考えられませんが、その昔は「汽車酒の楽しみを語る会」を自認してましたので、とにかくよく寝台車から新幹線までよく飲みましたな   (^_^;) ビール如きでは当然のことアルコールが足りないので紙パックのワインをストローで飲んだらこれが不味かった。やっぱり酒をストローで飲むなんていうのはいけません。また汽車酒の楽しみを語る会的にいいますと、新幹線と酒との相性は良くないです。あんまり早すぎるのとトンネルが多いために車窓を楽しみながらの汽車酒が落ち着いて楽しめないのと、車窓の景色が早く動きすぎて目が回ります(笑)この「汽車酒の楽しみを語る会」には剛の者がいて、かなりの宿酔いで小倉駅から181系特急いそかぜに乗ろうとして気持ち悪くなり、線路に向かって吐いたら直前に飲んだトマトジュースで線路が真っ赤になり、それを見たいそかぜの車掌がビックリして救急車を呼ぼうとした、なんちゅうヤシもいました(^_^;) 当方も六本木でオフ会やって、さんざん飲んで成田まで帰るのがイヤになり、新宿から急行アルプスに乗り松本で急行千曲に乗り継ぎ、篠ノ井から碓氷峠経由で高崎に下り、東京に戻ってくるという汽車泊をしたのですが、揺れる電車で眠るどころか酔いが回って散々な目に遭い、ついに横川で電車を降りてホームのトイレに駈け込んで吐いたら、そこは男子トイレじゃなくて女子トイレだったということもありました(自爆)
 東京駅から盛岡駅に移動する新幹線はあまり「鉄道」的な感動は薄いのですが、新幹線ホームから降りて在来線のホームに降りてゆくそのプロセスがすでに東北の匂いを感じさせ、いかにも「ここが本当の東北の玄関口」を感じさせられて非常に好きでした。在来線3番ホームにはすでに485系国鉄色のはつかりが短い編成で新幹線の接続を待っており、ホームは駅弁のワゴンが何台か出ています。なんか国鉄時代の特急始発駅の賑わいを思い出させましたが、列車の編成も短く決して乗り継ぎ客でホームが溢れるという状況ではありません。昼前なので弁当を買いますが、あえてむつ弁の幕の内とお茶を買います。幕の内は内容が普遍だからこそおかずの味付け、米のうまさなどに差があり、食べて比べる面白みがあると感じさせます。たとえば中身の焼き魚一つを取っても北海道の幕の内は小さくても「紅鮭」ですが、他の所はトラウトとか塩鱒のところが多いです。ちょっと気取った所の幕の内の魚はさわらの塩焼きやぶりの照り焼きだったりするところもあります。弁当を買ったところで485系はつかりに乗り込みますが、座席のモケットが張り替えられたくらいでオリジナルのセミリクライニングシートの車両でした。485系はつかりが走り出したところで幕の内に手を付けますが、煮物の味付けが濃くなり、安いカマボコとたまごが分厚くなりました(^_^;) なんか東京駅の幕の内と比べるとあまり洗練されていない内容の幕の内ですが、半分にしたコロッケは駅弁の幕の内には勘弁してもらいたい物です。485系はつかりは刈り入れが終わりはさ掛けされた稲穂が金色に輝く穀倉地帯を抜けて山越えに掛かります。途中沼宮内と好摩の側線には運用から外れた50系レッドトレインが土崎か郡山での解体待ちか、延々とかなりの両数が留置されていました。
 翌年も同じコースで帰省しましたが、国鉄色の485系がリニューアルされたプラスチック内装でフルリクライニングシートに変わった485系3000番台に変わってしまい、盛岡からの「奥の細道」紀行の風情が失われ、まして八戸まで新幹線が開通し、快速海峡が終焉を迎え、新型の直通特急が函館まで通じるようになってからこのコースはまったく興味を失ってしまいました。快速海峡の乗り継ぎの間、青森駅ホームの上り側売店で十和田の地酒「鳩正宗」のカップを2本買って陸奥湾の光る水面を眺めながら、また津軽林鉄の痕跡を車窓に探しながら、あまり乗り心地の良くない津軽線の50系51型での汽車酒の楽しさも過去帳入りして久しいです。
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October 02, 2007

HEMMI No.80/1 電気用(戦前品)

 戦前の10インチ電気尺No.80は2本目ですが、この時代のNo.80は電気分野だけではなく、広く一般の技術者達に愛用されたようで、けっこう数多く残されているようです。ところが昭和一桁の時代から開戦前までの10年余りで数々のマイナーチェンジを繰り返し、パターンモデルが各種存在するためにコレクション的には非常に興味深い計算尺です。前回、山口から入手したNo.80は昭和10年代以前のモデルで、セルの剥がれ止めのためか固定尺滑尺とも左右6カ所の鋲止めで、目盛は馬の歯型のボックスタイプ、延長尺も刻まれていない初期型でしたが今回入手したNo.80は延長尺付で鋲止めがなくなった昭和10年代以降の中期型となります。戦中戦後のNo.80は普通の物差し型目盛になり、カーソルも改良A型カーソル付きになります。入手したNo.80は滑尺溝に「No.80/1」という赤いスタンプが残されており、時代からすると本来はA型カーソル(逆C型)で副カーソル線のないものが付いていたはずなのですが、すでにカーソル自体が失われてました。このA型カーソルは樹脂のカーソルバーがウイークポイントで、経年劣化でバラバラになりやすいのでしょう。しかし、戦後片面計算尺のスタンダードであるNo.2664Sなどのカーソルサイズがコンパチですから数の多いNo.2664Sからカーソルを移植することは可能です。No.80/1ですから本来は副カーソル線無しで正しいのですが、やはりA型カーソルが付いていた方が格好が良いのですけどね。でも70年近く前の計算尺ですから贅沢は言えませんし、現代まで残っていただけ感謝しなくてはいけません。そういえば初期のNo.80で延長尺の無いものに「W」のゲージマークの付いているものがあるようです。このW付のNo.80は換算表も他とは異なるWの説明の付いた物が装着されているようです。Wゲージは電線などの断面積と長さで重量を導き出すゲージでマテリアルにより同然密度が異なるのでセットする数値がマテリアル別に換算表に示されているようです。しかし、なぜWゲージが短期間で消え去ったのかは一つのナゾですが、当方のNo.80も延長尺無し6カ所鋲止めのタイプながらWゲージは付いていませんし、換算表も一般的なものです。
 大阪から届いたNO.80/1は斑に黄変したもので、さすがに磨いても黄ばみが取れませんでした。おそらく日焼けによるもののようで、滑尺裏はやはり真っ白でした。セルの接着法が確立した後のNo.80ですから鋲止めもなく、スケール部分のセルは裏側にちゃんと被さっていて、前期型のように裏を白の塗装でごまかすということもありません。また、カーソルのはまる溝も幅が狭くなり後の片面尺の溝寸法と変わらなくなっています。前期型と異なり、裏板が腐食に弱い例の灰色加工のされたアルミ薄板で、やはり端の方が腐食しかかってます。上部は27センチまでのメトリックスケール、下部固定尺側面は10インチのインチスケール付きですから、一応国内向けに作られたものです。部品取りのNo.2664Sからカーソルを調達しましたが、せっかく延長尺付きなのだから3本線カーソルが欲しいところです。でもまあ世の中には延長尺付きなのに普通カーソル付きの計算尺もいくつもありますが。箱は黒の擬皮紙をあしらった戦前型の楕円断面のケースで、英語で書かれていた取扱などの大きなラベルがはがされてました。戦時中、大きな英語で書かれたラベルのケースを持ち歩くと「非国民」なんていわれたからでしょうか?ミャンマ-ではありませんが、軍部が国政を支配して何でも「軍の命令=国の方針」がまかり通っていたなんて、想像するだけでもまったくもっていやな時代です。
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(カーソルは80/3用を付けてあります)
 HEMMI No.80/1電気用(戦前)表面拡大画像はこちら
 HEMMI No.80/1電気用(戦前)裏面拡大画像はこちら


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特急スーパーカムイ初日のトラブル

 地元紙によると1日午後7時、旭川駅発車の特急スーパーカムイが何らかの不具合で発車不能になり、結局24分遅れで札幌に向けて出発したとのことです。原因はまだ詳しく判明しておりませんが、発車手順を最初から繰り返すことによってようやく24分遅れで動き出したとのことです。そこで思い出したのはもう50年近くなりますが(当然リアルタイムでは知りません)東北本線のというよりも、世界で初めて登場したDC特急「はつかり」の数々のトラブル発生による運転事故です。ここに「80系特急気動車の故障と処置」なるトラブル事例と対策に関して書かれた分厚い部内教育用資料がありますが、バルブの開閉による機械的な操作によって蒸気機関車を動かしていた乗務員が、電気的スイッチの断続により動かす特急気動車への転換に関して、いかに想定外のトラブルが多発したのかがわかるという物です。
 しかし、今回は789系1000番台ということで、スーパー白鳥の運用経験からすると考えられないトラブル発生だと思うのですが、いかがなもんでしょうか?(笑)このままトラブルが続出すると一時的に789系1000番台が運用から外れて対策を施すまで一時的に781系で運行されるってことは「考えられない」でしょうけど(^_^;)
 まあ、最近の電車はコンピュータ仕掛けで走る部分が多いので、一部プログラムのバグなんていうのが原因の一旦なんでしょうが。

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October 01, 2007

785系特急すずらん本日より登場

 32年前の蒸気機関車廃止のときもそうでしたが、前日まで普段通り貨物列車の牽引に当たっていたD51があの日を境に永久に見られなくなったのと同様に、昨日まで特急すずらんの運用を担当していた781系が運用を外れ、今日から室蘭本線では新顔の785系ずずらんが登場しました。
 下りの1号は時間の都合で撮れませんでしたが、3号を昨日と同じ青葉駅から撮ってきました。2分ほど遅延していたからか、もともと130キロ運行の電車だからか、781系に比べてかなり早くなった印象で、当方の旧式デジカメではシャッターのタイミングに神経を使いました。LED表示の列車名表示が残念ながら見えません。どう変わったのか楽しみです。でもまあ、個人的には大嫌いな電車です(^_^;) ところが電車では珍しくグッドデザインマークに選定されているんですね。ちなみにこのすずらん3号はNE-1編成5両のようで、481系のときより1両増えました。沼ノ端停車になったとは言え、一両増える必要があったのかどうか…
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 10/1特急すずらん3号青葉駅2分遅延で通過

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