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January 21, 2008

HEMMI計算尺用別売レザーケース

1 ヘンミ計算尺用別売レザーケースの両面用と片面用の2個を偶然にも入手しました。レザーと言っても40年代のケースはビニールの黒芯に茶色い皮もどきのビニールを被せたもので、30年代までの皮ケースとは異なります。この皮もどきのケースは今となっては茶色のビニールが黒芯から剥がれ、さらに経年劣化で固くなってしまったものが殆どです。今回入手のケースは未使用品ですが、片面用のほうは茶色いビニールがめくれて硬化もはじまっていたのにも係わらず、両面用の方は柔らかいままでした。どうしたものかと思ったら両面用ケースの方が素材の厚みが薄いのです。ちなみに両面用の方は1.7ミリなのに対して片面用の方は2.7ミリありました。40年代初期と思われる両面用のケースが手持ちにありまして、そちらの方は厚みが2.7ミリありますので、今回の両面用のケースはさらにコストダウンされた後期のタイプなのでしょうか。戦前には「並サック」「革サック」の2種類が売られていた別売ケースですが、欧米と違い日本では高温多湿の気候によって革製のケースは素材自体が吸湿してしまって、常に中身の計算尺の湿度を高め、結果的に皮ケースは入れられた計算尺の裏板やカーソル枠など金属類の腐食を促進させる要因になっています。逆にステープルファイバー(スフ)あたりの積層素材の並サックは内部に湿気を溜めないためか、中の計算尺の保存性を高めるのに一役買っているようです。ビニール素材のレザーケースは素材自体がまったく湿気を引きませんし、蓋がフラップで、隙間が開いているため通気があり、意外と中身の計算尺の保存性は良く、以前入手したNo.260がこのケースに納められていたのにも係わらず金属類も表面もまったく腐食がないのに驚かされたことがあります。逆に塩ビのブロー成形で作られたプラケースは、中の通気性がまったくなく、それが原因で金属が接触していた部分のセルロイドまで腐食させてしまったものをよく見ます。どうやら、日本で使う分に限っては本皮製のレザーケースよりビニール製のフェイクレザーケースのほうが理にかなっているのかもしれません。ヘンミがポケット尺以外の皮ケースを国内向けはビニール素材にしてしまったのはコストダウンの他に高温多湿下での保存性の問題もあったかもしれませんな(笑)
 さて、計算尺の別売レザーケースですが、今となっては他の付属品同様に未使用で両面・片面用の両方とも見つかる機会は少なく、特に片面用のケースは今回初めて手に入れました。片面計算尺はあまりこの手の別売りケースの必要も少ないと思われ、特に40年代以降の片面計算尺で、これに入れられた状態でオクに出品されている物はあまり記憶がありません。

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January 17, 2008

加藤数物製作所コーア No.3 8"生徒用

 以前から印判手の瀬戸物なんかを購入していた秋田の古物商が、12月から廃業文具店からの商品を大量に出品していて、その出品の中に戦中戦後の粗製濫造期に作られた加藤数物製作所(かとうすうぶつせいさくしょ)という所から発売された生徒用8インチの「コーア計算尺」というのがほぼ1ダース以上出てきてこれが2本ずつ出品され、これを入手した人が何人かいます。何せこんな計算尺がまともな状態で大量に出てくることなど今後は考えられませんので、当方もその中のケースの傷みが少ない物を選んで2本入手しました。コーア計算尺というと「興亜」を意味するのでしょうから当然のことながら戦時中のアジア侵略を正当化するスローガンから名前が取られており、戦時中の発売であることは間違いのないところですが、製造元の加藤数物製作所なる会社のラベル印刷が旧字体と新字体の両方が存在しますので、戦中に発売され、戦後にも製造が続いていたことが確かなようです。どちらにしても物のない時代に代用素材の計算尺として作られたもので、手法としては木材の表面に白ペイントを塗り、そこに目盛を印刷したもので、カーソルなどは単なる透明セルロイドを曲げただけのシロモノです。もちろん金属はすべて兵器生産に回された時代ですからカーソルばねなども入っていません。戦時中発売の生徒用計算尺、HEMMI No.2640が表面セルの厚みを減らし、カーソルばねを半分の長さにしてまでもまともな計算尺を作り出そうと苦心していたのに比べると、最初から入手が容易な木材をどう使って代用計算尺の形を作り上げようとしたかの成果であり、戦後の混乱も治まり、まともな計算尺を作り上げるための素材が出回り始める時代になってから淘汰されたのはやむを得ないでしょう。しかし、戦時中の製品のラベルを見るとこの代用素材による製造手法の実用新案が出願されていたようですが、戦中戦後の混乱期にそれが認められたかどうかは判りません。今まで当方が見たことのある生徒用コーア計算尺はNo.3とNo.4の2種類あり、No.3はA,B,C,D尺に逆尺とK尺が加わったマンハイム式、No.4は√10切断のずらし尺です。その他にも10インチと思しき「対数説明尺」というラベルの貼られた計算尺もあるようです。
 加藤数物製作所は、戦前には東京都神田区花房町と大阪市西区阿波座の2カ所に営業拠点があったようですが、空襲で被災したものか、戦後発売のものは大阪府八尾市の所在地だけが印刷されています。この加藤数物製作所は教材関係の問屋だったようで、製造元が別にあったようです。戦後の混乱も落ち着き、まともな計算尺が製造出来るような時代になると加藤数物製作所は計算尺製造から撤退し、OEM先の工場から本体裏のメーカー名がペイントで潰され、紙ケースのラベルのメーカー名も「高級製図器械」という紙ラベルを上から貼られたものが換金のため市場に出回ったようです。OEM先の製造工場は、おそらくまったく計算尺製造とは関係ない指物工場か何かだったのでしょう。しかし計算尺の世界にはまったく名前を残さなかった粗製濫造期のメーカーだけにそれ以上のことは判りませんでした。
 コーア計算尺の戦中製造品と戦後製造品にあっては同じ計算尺ながら刻印等に少々違いが認められ、戦中品の本体表面メーカー名は「敵性語禁止」のおりか、○にKをあしらった社紋を挟んで「コーア (K) カトー」とされているのにも係わらず、戦後の製造品は「KOA (K) KATO」となっています。さらに戦中製造品は同じ計算尺ながらHEMMIの古いマンハイム尺のように固定尺両端に桁取りの指示のためか記号が印刷されているのにもかかわらず、戦後製造品には省略されています。
 秋田から届いたコーアNo.3は製造からすでに60年を経過し、表面の塗装もカーソルのセルロイドもまんべんなく黄変してます。構造的にはさすがに木材単板だと反りにより滑尺の出し入れが出来なくなることが明白ですので、滑尺、固定尺に裏板の全てが3ピース構造の合板、すなわちベニヤ板で出来た計算尺ということになります。固定尺は裏板に接着されたうえに、両端を何と釘で止められていますが、この釘の打ち方も前期型と後期型と異なるようで、前期型は固定尺の側から釘を打ち込んであるのであたかも初期のHEMMI片面尺のセルロイドの剥がれ止めのように見えるのですが、後期型は裏板側から釘を打ち込んであるので、固定尺面にわずかに釘の先端が見えています。どっちにしても「間に合わせ」の構造であることには変わりなく、ある程度物資が豊富になり始めた頃までに、会社ごと消えてしまったのは当然の事かも知れません.。後が続かない「カストリ計算尺」とでもいうべき存在だったのでしょうか(笑)しかし気の毒なのは、こんな計算尺を12本以上も押しつけられてまったく売れずに60年も不良在庫にしていた東北の文具店です(^_^;)
(2008.10.18追記)加藤数物製作所は大阪の西区で教育用機械器具、理化学機械器具の会社として盛業中でした。
No3
 加藤数物製作所生徒用コーア計算尺No.3表面拡大画像はこちら
 加藤数物製作所生徒用コーア計算尺No.3裏面拡大画像はこちら


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January 13, 2008

RICOH ALEXE 計算器

 日本においては古来から「読み書き算盤」が教育の根幹となり、加算減算に関してはあまりにも算盤が普遍的すぎたためか、他の計算用具がまったく普及しませんでした。それでも輸出用を主眼としたスタイラス式計算器などが昭和30年代から40年代の初めにかけて各種作られましたが、電卓の出現により短時間で市場から姿を消しました。その中で五桁というカシオミニよりも一桁少ない計算桁ながらも、カシオミニ発売までのはざまの時代にけっこう売れたのがこの手動計算機のアレックスです。明和製作所といっても同名の会社は日本中に存在しますので、どういった会社だったのかはよく判りませんが、当初からリコーの販売ルートにのせて売られていたようで、後に本体の表示も「RICOH ALEXE」になります。このALEXEを販売していたのは計算尺製造のリコー計器ですので、リコー計算尺と同一ルートで販売されていたのでしょう。外観的には前期と後期の2種類が存在するようで、本体右の加算・減算及びリセットのレバーの形が異なるようです。また、本体ロゴも「ALEXE MINI CALCULATOR」と「RICOH ALEXE」の2種類あり、RICOH ALEXE印字のものは昭和45年の大阪万博に協賛して「万博モデル」が存在しますので、その頃まで作られていたようです。おそらく昭和30年代末期の発売ですので、こんな単純な加算器の割には長生きしたようですが、これもリコーの販売力と低価格あってのことでしょう。日本製スタイラス式加算器の方は昭和40年代前半に尽く姿を消しているようです。
 このアレックスは基本的には機械式計算器の原点ライトニングのように一桁ごとの歯車で繰り上がり/繰り下がりを連動させるもので、スタイラスを差し込んで回すのではなく、上に配置したブッシュボタンで操作するものです。たとえば326に254を加算しようとすると、まず百の位のボタンを3回、十の位を2回、一の位を6回押して表示窓に326を出し、次ぎに百の位のボタンを2回、十の位を5回、一の位を4回押して加算することで表示窓に580の答を見るものです。減算は右上のレバーを横に引き出すことによって歯車が逆転し、押した数値の分だけ減算出来るようになっています。999を置数するためにはそれぞれのボタンを9回ずつ押すのではなくて、タイガー計算機などと同様に1000を置数してから1を引くことにより操作回数を省くことも可能です。リセットは下のレバーを横に引くことで表示を0に戻しますが、一回の操作で帰零することが不可能で、たとえば表示の数字に9が一個でも混じっていると9回横に引かないと帰零できません。また、最初の値数は表示窓で確認できますが、加算/減算する数値はそれぞれの桁を押す回数を頭の中でカウントする必要があり、うっかりすると何回押したのか判らなくなるのが欠点で、さらに値数に数字分だけの押す回数を必要とすることから計算速度は算盤の敵ではなく、スタイラス式計算器の比でもありません。そのため、算盤に取って代わる物ではなく「500円だから買ってはみたが、実用にはならない」からか、計算実務には使われずにそのまましまい込まれてしまったものが多いようです。このアレックスはアメリカも特許が取得され、アメリカには「ALEXE」ではなく「RAMBLER」の名前が印刷されたものが輸出され発売されていたようです。算盤のないアメリカではこの手の加算器が電卓出現まで結構重宝されたようです。それにしても当時の定価500円は計算尺でも学生用の一番簡易なクラスの価格に過ぎませんが、さすがにRICOHの販売だけにそれほどおもちゃっぽくなく数回使って歯車が欠けてしまうような華奢な物でもないようです。ともあれ、小学校一年生の算数学習セットなんかには今でも最適じゃないでしょうか?
Alexe


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January 05, 2008

HEMMI No.255D 電気用

 電気用両面計算尺のHEMMI No.255Dは戦後になって新たに発売されたNo.255の裏面にDI尺を追加したマイナーチェンジ型で、昭和30年代の最末期から一般向け計算尺の生産終了である昭和50年3月頃まで作り続けられたようです。これというのも電気系の国家試験には当時まだ計算尺持込可でも電卓禁止という試験が多数あり、その必要性から一定の需要があったからでしょう。今では逆に電検試験などは指定電卓持込可のようですが、いつのまにか計算尺不可となってしまい、現時点で電卓不可計算尺持込可という変則的な試験は、当方の知る限りは無線従事者国家試験だけのような気がします。ともあれ電気物理のように枯れたというか、古くから完成されてしまったアナログの技術に関しては、有効桁三桁の計算尺との相性が非常に良い事から、古今東西各種の電気用計算尺が存在しており、実際の現場ではかなり後まで愛用されたことは確かです。
 当方の手元にも年々電気系計算尺が増殖し、片面計算尺はHEMMIのNo.80初期型からRICOH、FUJIに至るまで、両面型はHEMMIの戦前ユニバーサル型No.153から20インチのNo.275Dに至るまで転がっているのですが、No.255系統は3種類のパターンモデルがある中で初期型のNo.255しか持っていませんでした。No.255D自体は電気技術系統でかなりの数が使われたためか決して珍しい計算尺ではありません。しかし意外と落札金額が高騰するのと極力塩ビケース入りのNo.255Dを物色していたために今回年末の帳尻合わせで初の入手となりました(笑)内容としては送電線展開のための双曲線関数と度・ラジアンの直接変換以外はごく普通の内容で、表面はπ切断ずらしのCF,DF尺となっていますので、一般乗除算用としての日常使いにも不自由はしないでしょう。逆に電気物理系用途としてはNo.153のほうが使いやすいと思います。
 No.255の発売は他の戦後新シリーズの計算尺と同じく昭和26年のようですが、昭和31年のG刻印までのものは尺のレイアウトが後の255/255Dとまったく異なり、表面がL,K,DF,[CF,CIF,CI,C] D,χ,θ、裏面がSh1,Sh2,Th,A,[B,Tl2,Tl1,SI,C,] D,LL3,LL2,LL1 となっています。昭和32年のH刻印のものから表面がL,K,DF,[CF,CIF,CI,C,] D,LL3,LL2,LL1、裏面がSh1,Sh2,Th,A,[B,TI2,TI1,SI,C,] D,χ,θとなり、昭和40年頃にさらにDI尺が加わったNo.255Dにマイナーチェンジし、昭和50年まで生産が続きます。箱は昭和33年までが「SUN HEMMI BANBOO SLIDE RULE」のスモールロゴが入った緑の貼箱、昭和40年までは「HEMMI」のロゴが大きくなった同じく緑の貼箱、昭和41年から紺色の帯が入った薄いベージュ地模様の貼箱となり、昭和47年の半ばからポリエチレンのブロー成形で作られた角形の青蓋プラケースに変更になり昭和50年の製造中止までこのケースが付属します。このケースは40年代後期のプラ製両面計算尺用に付属する角形青蓋プラケースと長さ・厚さも異なり、プラ両面計算尺用ケースは長さが0.6cmほど長く、厚みは1.5cmと薄いのに、竹製両面計算尺用ケースは1.8cmほどある厚いケースです。大は小を兼ねるような気がしますが、プラ尺は山梨で生産されたようですので、プラの両面尺用ケースも山梨で独自に用意したものなのでしょう。入手先は山口の岩国からで、おまけにNo.P43Sの未使用だけど開封品が2本と裏のアルミが腐食ですっかり抜けたオキュパイド時代のNo.2634が付いてきました。製造刻印が「WK」ですから昭和47年11月の製造です。殆ど計算尺末期の製造ですからろくに使われずにしまい込まれたものらしくきれいな計算尺でしたが、プラケースは湿気が外に抜けないためか金具付近のセルが茶色く変色し、かび臭さを感じさせるような状態でした。茶色く変色した部分はメラミンスポンジできれいになりましたが、プラケースのかび臭さには我慢が出来ず、中性洗剤を溶かした温湯に丸ごと浸け置き洗いしたのにもかかわらずまだ少しかび臭さが残っています。何かいい脱臭法ないでしょうか?(^_^;)
Hemmi_no255d

 HEMMI No.255D 電気用(WK刻印)表面拡大画像はこちら
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January 03, 2008

J型アンテナでニューイヤーパーティ

 アマチュア無線界での年頭行事といえば1月2日の午前9時から翌日の21時まで行われるニューイヤーパーティーということになるのですが、相変わらず年を追うごとに参加局が減少しているようです。初日の9時に始まり20局を交信したらすぐに引っ込んでしまう局が多いために、正に開始後1〜2時間が勝負という感じで、出遅れてしまうとハイバンドの伝搬も低下するのもさることながら、呼びに回っている限りはなかなか20局を達成するのも大変かも知れません。V/UHFのほうもCQを出す局が相対的に少なくなったいことと、20局を達成することが目標の人が多いからか、こちらのほうも2日の午後からCQを出す局を追いかけても20局を達成するのは難しくなりました。6年ほど前まではサイクルのピークに向かって開局した局が非常にアクティブだったからか、市内の局だけでもチャンネルがびっしりになっていたものが、現在ではそのころアクティブだった局が今はCQを出す側に回らず、どこかCQが出ている局がいたら応答するというパッシブ派に転向したこともバンド内が過去に比べて静かになった原因でしょう。また、ニューイヤーパーティというとローカルのハムと知り合えるいいチャンスなのですが、毎年ローカルで4アマ講習で開局する局3桁に達する局がまったく声を出してこないというのも年々ニューイヤーパーティが廃れる要因になっているようです。
 地元のJARL支部が少しでも新規参入局が食いつきやすい環境を作るためにニューイヤーパーティに便乗して独自の2mコンテストを実施しました。これはアクティブなコンテスト常連に少しでも長い時間バンド内に留まってもらうことによってニューカマーにも声を出してもらう機会にすることを目標にしたようです。しかし、144MHzは当局の屋根よりちょっと高いだけのモービルアンテナ程度のゲインしかないGPアンテナと10W機では、市内からCQを出している局に応答するくらいが関の山で、隣の町からの電波は辛うじて聞こえるのに相手にまったくこちらの電波は届かない(2年前に9時のスタートから1時間CQを出して一度もコールバックがなかった@_@;)ため、ニューイヤーパーティでの2m運用は応答だけで市内局と20局交信するのは現在では不可能です。そのため、ニューイヤーパーティは運用解禁当初から14メガで局数を稼いで2mで落ち穂拾いをするという運用を続けてきました。今年2日は朝の最低気温が氷点下7.7度ながらも快晴でした。7時の起床直後にFT-101ZDに火を入れ、真空管とアナログVFOを暖めておきます。2時間ウォーミングアップするとさすがにQRHも落ち着きます。スタート直後に市内ローカル局3局と2mで交信し9:05に14.1275付近でCQを開始すると程なく小豆島と兵庫県の局から応答があり交信成立。9時代前半はあまりコンディションが上がらずにバンド内で聞こえる局も少なかったのですが、9時代の中頃から急に1エリア千葉近辺が開き始め、何局かと交信。一番聞こえたときは何と千葉の市原と交信する7エリアは花巻の局の声がかすかに聞こえました。何故か都内局が聞こえなかったのですが3エリアや6エリア局も聞こえ始め、久しぶりにバンド中がざわざわする状況だったのでした。その好調な伝搬も10時代後半には急速にコンディションが低下し、国内局がスキップして九州の末端から沖縄・台湾・フィリピンが聞こえる状況になりました。ここまでで19局程度交信できましたので、気が楽になりました。翌3日の朝に当支部の支部長と年始の挨拶がてら交信し20局達成。しかし、2mコンテストの立案に係わった手前もあり、家のアンテナはダメでもモービルで高いところから声を出せば少しは交信できるかと思って久しぶりに車を出し、市内の展望台もある小高い丘に2mの移動運用を掛けました。移動運用といって移動用の機材はまったく持っておらず、モービルアンテナも風の抵抗が少ない短いアンテナしか持っていませんので、いつぞやアンテナフィーダで作り上げたJ型アンテナと釣り竿を久しぶりに持って出掛けます。窓から突き出した釣り竿に垂らしたJ型アンテナのセッティングはたったの30秒(笑)この場所でこのJ型アンテナを使いバンド内をワッチするとさすがに60キロ先の運用局あたりも聞こえます。145.00より上はさすがに混んでいるため、145.00アンダーのチャンネルを探し144.86でチェックをかけると交信中でもないのにトラックの運転手から「使ってるよ」の声が(@_@;) 正月の3日だというのに地元の製紙工場宛のチップ輸送トラックは動いているらしいようです。そのため、抑圧もなくクリアーな144.78でチェックを掛けメインで呼んでからCQを開始するといきなり渡島は知内町の局からコールバックがありました。この局は市内ではタワーに3段GPを上げている局とは普通に交信できているようですが、当方の屋根より少しだけ高いだけでモービルアンテナ程度のGPアンテナでは微かに声が聞こえるだけの局でしたので、顔は知っているのですが今日始めて交信した局でした。その後ローカル局からコールバックがあった直後にこれも少し距離がある登別からもフルスケールでコールバックがあり交信成立。その後これまた顔は知っているのに交信歴のなかった合併前の門別町である日高町の支部監査委員の方からコールバックがあり交信成立。その後約40キロ圏内から頻繁にコールバックがあり家からだとまったく交信できない局と交信できてけっこう面白かったというのが感想です。
080103_133941 しかし、ローカルのきらわれ者、某が特定のチャンネルに居座り、人を小馬鹿にしたような非常に「うざい」CQを出し、しかもメインで余計なことを付け足して頻繁に長々と独演会を繰り返すので、こっちもメインが長々とビジーにされ迷惑を被りました。メインからのコールで「○○が50Wで××市は△△からウンヨウシテマ〜ス」なんて何で50W運用をメインで宣言する必要があるというのか(−_−#)またカード交換目的で食いついてきた局に長々と話した後に「JARLに入っていないのでノーカード」宣言をずっと繰り返してますので、一度交信した局からは2度と相手にしてもらえず、周辺部にだんだん交信相手がいなくなるのに本人は気が付いていないようで、まさに「KY」そのものかもしれません(笑)中学の無線部顧問であった担任の先生に「俺も無線の免許、取ろうかな」と宣言したら「おまえなんか絶対にムリだ」と無視された男も今や講習で第3級アマチュア無線技士となり「50Wでウンヨウシテマ〜ス」ですからアマチュア無線も変わりました。しかし、良くわからないのはこヤシ、モービル機の片方を受信用に、もう片方を送信用にして2台でトランスミッタ・レシーバーセパレートで運用しているようなことを自慢げに話しているようでしたが、どうも常人には何を目的にどうしたいのかが理解できません。何せ「俺の車は+アースだからモービルアンテナのSWRが下がらない」って言っているらしいし(おまえの車は初期のダイナモ発電6V車か?)。あっ、この一連の話はオフレコでっせ、ってしっかり書き込みしてるじゃん(゚o゜)☆\バキ

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