« October 2008 | Main | December 2008 »

November 30, 2008

HEMMI No.260 表面の書き込み

 江戸時代から石炭が採掘されてきた大牟田から荒尾にかけて鉱区が広がる三池炭田は官営を経て明治の中期に三井財閥の手に渡りますが、三池の石炭は炭質も埋蔵量も国内屈指の優良炭で、明治期から船舶などの燃料用として東南アジア方面にも輸出されてきました。明治末期にはほぼ陸上部分を掘り尽くし、有明海の海底部分に向かってどんどん採掘場所が延伸していきますが、我々の時代の社会科教科書などにも出てきたように、坑道が海底深く延びたことによって通気が悪くなり坑内温度が上昇して採掘環境が悪化したため、有明海に初島という人工島を築いて通気のための竪坑を構築したなどという話は良く知られています。その三池炭鉱は1950年代末期に「全国総労働対総資本の戦い」といわれるほどの壮絶なる労働争議を経て、保安管理の不備から多数の犠牲者を出した三川坑の炭塵爆発事故、有明坑の坑内火災などの大非常災害を起こし、平成の時代に入った1997年3月に採炭条件の悪化と海外炭との価格差により三井資本になってからも約110年を数える歴史に終止符を打ちました。当方、閉山三日前に最初で最後となる現役時代の三池炭鉱を訪れています。当時、坑内員は高田町の有明坑から入坑し、採掘した石炭は三川坑から坑外に搬出されており、三川坑側には貯炭場や船積み設備ならびにホッパーから石炭貨車に石炭が積み込まれ、それを凸型の電気機関車が牽引するという具合に炭鉱の設備が広がっていましたが、大牟田市内には明治期から残る多くの炭鉱遺跡が残ります。その殆どは採掘場所が有明海の遙か沖に延伸するに従い用済みとなったものです。また大牟田・荒尾の広大な範囲に炭鉱住宅が広がり、一部は周囲の主要坑口を半環状に結んだ三井鉱山専用線と支線でつながって坑員の通勤列車などが運行されていた時代もありました。また大牟田は炭鉱を中核とする三井グループの化学工場が広がっており、炭鉱亡き後の大牟田は宇部などと同様に化学工場が産業の中心をなしているようです。また、大牟田と荒尾は福岡県と熊本県と別な県に属しますが、市街地で切れ目無くつながっているために「他県の町」という感覚は住民でももっていないのではないでしょうか?その大牟田、正確には万田坑のあった荒尾市の万田からHEMMIのNo.260が転がり込んできました。HEMMIのNo.260は以前に茨城の竜ヶ崎から1本入手していますが、前回のものは刻印が固定尺側面に刻まれている初期型、今回のものは滑尺のちょうど金具で隠れる部分に刻まれた後期型です。どっちにしてもNo.259Dと同じボディにめいっぱい尺を詰め込んだことで型式刻印やトレードマークを入れる場所に苦労したようですが、刻印位置をあえて変える必要があったのかどうかは甚だ疑問です。そのおかげで計算尺コレクターという人種は、刻印違いのNo.260を両方とも集めなければならないのですから因果なものですが(笑)
 今回入手したNo.260は「SD」で昭和43年4月製です。前回入手したものが「RA」刻印で昭和42年1月製ですからこの間に刻印位置の変更が行われたようです。尺配置は表面がLL/1,LL/2,LL/3,DF,[CF,CIF,CI,C,]D,LL3,LL2,LL1の12尺、裏面がLL/0,LL0,K,A,[B,T,S,ST,C,]D,DI,P,Lの13尺の合計25尺です。No.259Dとの違いはP尺が加わったこととカーソルの裏面に副カーソル線を備える事ならびに尺の右側に数式が刻まれたことですが、DI尺が加わってNo.259がNo.259DになってからはさほどNO.260とNo.259Dとの機能差は無いはずです。価格差もさほど開いているわけではなく、それならば世の中にはNo.259DよりNo.260のほうが多く出回りそうなのですが、実際にはNo.259Dの数には到底かないそうもありません。ほんの何年か前まで在庫が取り寄せられた計算尺ですから希少価値はありませんが、中古でもNo.259Dほどは入手するチャンスの少ない計算尺です。製造初年は昭和39年のようで緑の貼箱入りですが、見かけるものは昭和41年以降の紺帯の入った模様貼箱のものが殆どです。また昭和47年3月製造からプラケース入りとなりましたが、プラケース入りのNo.260もあまり見かけることがありません。最終の製造は断定しきれませんが昭和49年1月製造の「YA」刻印のもののようです。またNo.260はRELAY/RICOHの高級両面計算尺、No.151の内容とほぼ同じで、No.151のほうが遙かに発売時期が古いのですが、露骨に延長尺部分までコピーしてオフサイズの計算尺を作ることをはばかったためか、No.255D/259Dなどと共通の本体を流用しています。そのため、横幅一杯に尺を並べざるを得なく、メーカー名型式刻印位置には最後まで苦労したのでしょうか。「RA」刻印のNo.260と「SD」刻印のNo.260の型式刻印の相違以外に何か違いが無いかと2本を並べて穴の開くほど観察したのですが、そもそも昭和30年代最末期に加わった新製品だけあって、目盛の切り方・刻印の書体ともにまったくと言っていいほど双方に相違は無いように感じます。
 万田からやってきたNo.260はいまならポケコンでプログラムを組んでしまうようなある種の定型業務をこなすことだけを目的に使われた計算尺らしく、その手順と計算式が表面にびっしりと書き込まれていました。まるで小泉八雲の耳なし芳一ではありませんが、このありがたい経文ではなく数式の書き込みが嫌われたのか、はたまた型式が不明だったからか、ほぼ野口先生1枚で入手した物です。書き込みはたとえ油性のサインペンで書かれようがきれいに消し去ることは出来るのですが、実際に届いてみると鉛筆書きでした。記録も取らずに消してしまうに忍びなく、スキャナで数式を取り込んでからメラミンフォームで磨くと跡形もなくきれいになりました。カーソルも分解してガラスの裏面も磨き、元に戻すと裏表のカーソル線が甚だしく合いません。No.260専用カーソルはカーソル線がオフセットして刻まれていることをすっかり忘れてました(^_^;)
 この数式ですが、当方、電気物理系の数式なら多少なりともわかりますが、力学的計算には疎いのでこの計算式のタイトルからどういう用途に使用されたのかわかる方がおられましたらご教授下さい。それにより大牟田の、どの会社のどんな部門で使用されたのかが特定できるかもしれません。しかし、これだけの目的にNo.260を使わなければいけなかった必要性が理解できませんが、会社の備品だったらとりあえず高級が付く技術用両面計算尺を要求したのでしょう(笑)
Hemmi_no260

 HEMMI No.260の表面書き込み拡大画像はこちら


| | | Comments (2) | TrackBack (0)

November 22, 2008

KEUFFEL & ESSER No.4081-3  10インチ両面型「DECITRIG」

 日本では外国製計算尺に過去、どれくらいの税率で関税を掛けていたかわかりませんが、おそらく外貨を獲得する優秀な輸出産業である計算尺製造業を保護するためにけっこう高額な輸入関税をかけていたのでしょう。さらに1ドル500円から360円の相場にレートが下がったとはいえ、輸入しても割高な外国製計算尺を売ろうとする業者がおらず、全くといっていいほど日本国内で外国製計算尺を見ることがないのは、至極当然の事です。ところが手動計算機や電動計算機に関しては戦後もスェーデン製のオドナーやコンテックス、ドイツ製のワルサーやアメリカ製のモンローなどが輸入されていますので、やはり機械式計算機は計算尺とは違って需要の増大を国内メーカーだけではまかないきれなかったのでしょうか。
 ドイツやアメリカの名だたる有名メーカー製計算尺が日本に輸入されなかったせいで、我々がこれらの優秀な計算尺を目にすることは希です。そのなかでもドイツのFABER CASTELLと並んで歴史・質・種類の3拍子揃った計算尺メーカーがアメリカのKEUFFEL & ESSER、通称 K & Eでしょうか。このKEUFFEL & ESSERはアメリカの量産計算尺メーカーとしては一番の古株で、その創業は1867年で日本では慶応三年ですからまだ幕末。ちょうど坂本龍馬が暗殺された年です。K & Eは当初から製図用品の製造販売ビジネスからスタートし、計算尺はその事業のなかでは小さな部門に過ぎなかったようです。それでも100年に近い計算尺製造の歴史を持ち、初期の木製計算尺から末期のプラ製計算尺まで多種多様な計算尺をリリースしてきました。昭和5年にHEMMIが最初に発売したユニバーサル両面型計算尺のNo.150は、 K & Eの4088の丸コピー商品で、HEMMIのその後の両面型計算尺のスタイルというのはすべてこのNo.150を踏襲しましたので、結局、終始一貫して K & Eの両面型計算尺のスタイルから抜け出せなかったということになります。また、片面計算尺にしても位取りのインジケーター付カーソルやフレームレスカーソルなど、初期のJ.HEMMI時代の計算尺もそのかなりの部分がドイツのA.W.FABERとともにK & Eの片面尺の影響を受けたことが伺えます。
 K & Eは日本におけるHEMMI計算尺のようにアメリカでは大量に使用された計算尺ですので、アメリカ本国には古いものから比較的に新しいプラスチックのものまで豊富に残っていますが、日本ではアメリカンアンティークの雑貨として紛れ込むか、もしくは進駐軍あたりから手に入れた技術屋さんあたりの放出でもなければお目に掛からない計算尺です。またK & Eのある年代の計算尺には、素材に起因する経年変化でカーソルバーがバラバラになるという「致命的な欠点」があり、今回入手したものも例外ではなく、カーソルグラスも片方が真っ二つで上下のカーソルバーはバラバラに崩壊していました。これを承知で「補修の練習用」として入手したもので、その分安くしてもらい、600円が入手金額です。届いたK & Eの両面計算尺のカーソルバーの風化ぶりは聞きしにまさる状態で、破片を指先でつぶすと白い粉に戻ってしまうくらいなのです。材質はフェノール樹脂のようなものかと思っていましたが、なんか白いクレーを糊で固めたのではないかと疑いたくなるくらいで、当然の事ながら当時の樹脂ですから石油製品であるエンジニアプラスチックの射出成型品ではなく、型に流し込んだ樹脂を加熱して固めたようなものなのでしょう。主要部分が欠落したカーソルバーは型取りしてレジンで複製するわけにもいかず、大まかな寸法は取れたので樹脂板を積層に接着して削りだし、いつか自作することにしましょう。片面のカーソルグラスが真っ二つでしたが、このカーソルグラスは厚みが2ミリを超え、さらに角がラウンドで上下の縁がフレーム枠にむかってテーパー状に削られているというPETで自作するにはとんでもなく手間の掛かる形状をしています。とりあえずHEMMIの古いNo.251のカーソルを合わせるとカーソルグラスの厚さの相違分だけガタがありますが、実用にはまったく差し支えがないのでしばらくはこのNo.251のカーソルを装着しておきます。そもそもヘンミがNo.152/153のユニバーサル型を発売するときにK & Eの両面計算尺の寸法をそのままコピーしたわけですから、No.153/251系のカーソルが合わないわけがありません(笑)
 今回入手したK & Eの両面計算尺は型式がNo.4081-3で、「DECITRIG」の愛称が付いたLOG LOG尺です。また5インチバージョンにNO.4081-1、20インチバージョンにNo.4081-5もあったようです。No.4081-3は戦前戦後と一貫して同じ形式名ながら尺配置が何回か変更になったようです。今回のものは表面に大きなK + Eマークがなく、シリアルナンバーが12万番台の製品ですから戦前の製品でしょう。ところがK & Eのシリアルナンバー付番は1924年に始まり、1から999,999が終了した時点で1にリセットするという方式を取っており、それが1975年の計算尺生産終了まで三回のリセットがあったそうです。一回目のリセットが1943年から1944年と言われていますので、その後の12万番台だとすると、戦中・戦後の微妙なところでの生産年代になるかもしれません(当時の生産は年間7万本といわれています)。表面がL,LL1,DF,[CF,CIF,CI,C,]D,LL3,LL2、裏面がLL0,LL00,A[B,T,ST,S,]D,DI,Kの20尺です。DF,CF尺はπ切断ずらしです。ナローボディですからだいたいこのあたりの尺を詰め込むのが限度ですが、非常に良くまとまっていて使いやすい両面尺だったからか、かなりの数が生産されたようで、K & Eの両面計算尺の最もよく残っているものの一つかもしれません。本体は竹製の両面計算尺よりも軽い木製で、おそらくマホガニーでしょう。木製ながら狂いが出ていないところも特筆されます。明るい茶皮のとても上質な皮ケースが付属していていましたが、さすがは馬具などの実用革製品が発達したアメリカ製だけあってとても日本ではこのようなクオリティの高いものは作れません。いまこんなものを作らせたらいったいいくらになるのでしょう?だたし中身は戦中の生産ですが、この皮ケースは戦後のもっと後のもののように感じます。しかし、この4081-3が大戦末期の製品だとすると、この系統の計算尺でVT信管から初期のジェットエンジンまで設計していたアメリカに対して、日本では戦時仕様の計算尺を使って専ら特攻兵器を設計していたのですから何か感慨深いものがあります。また、K & Eの4081-3は1962年に計算尺の型番が一斉に変更されたことにより 68-1220という型番に変更されています。
Ke40831
 カーソルはHEMMIの153/251用を装着
 KEUFFEL & ESSER No.4081-3 表面拡大画像はこちら  KEUFFEL & ESSER No.4081-3 裏面拡大画像はこちら

 

 

 

| | | Comments (0) | TrackBack (0)

November 21, 2008

POCKET CALCULATOR(ポケット計算機)

Mbcpocket ポケットカリキュレーターという非常にわかりやすい名前のスタイラス計算器ですが、クラフトワークの名曲と違い、どのボタンを押しても音楽は奏でませんから念のため。そもそもボタンらしきものは何にもありませんが(笑)会社の名前からしてポケット計算機株式会社という会社が昭和30年代の末に発売していたスタイラス式の加算機で、その名の通り小型でポケットに収納できる大きさの加算機ながら9桁の有効桁を有するものです。スタイラス式計算器は基本的には加算減算に特化していますが、国内では算盤があまりにも普及していたためにこの手のスタイラス式計算器が算盤を押しのけて普及する余地が無く、そのためその殆どはアメリカあたりに輸出することを目的として作られました。しかし、このポケットカリキュレーターは日本国内で本格的に普及させようとして競技会を開催するという案内が付いていて、一等の賞品は何とスバル360が一台当たるというのです。各地方で予選会を開いて、決勝大会は東京で交通費宿泊費も主催者負担で開催するというふれこみなのですが、「地方大会の出場者が100人以下の地区は開催を次年度に繰り延べ」などという但し書きが付いていますから、この計算機の売れ行きを考えるとおそらく東京を含めて競技会など一度も開催されないうちに会社ごと無くなってしまったのではないでしょうか?この競技会が実際に行われたかどうかご存じの方はご教授ください。このMBCの商標が付いたスタイラス計算機はドイツのADDIATORのような縦長のタイプも存在し、やはりアメリカあたりへの輸出がメインだったようですが、本格的に国内に普及させようとした意図が今ひとつわかりません。
 このスタイラス計算機の内部はラック(歯つきレール)が桁の数だけ並んだ単純な構造で、上に引いて操作する帰零レバーを備えます。歯車式加算器のように自動的に桁を繰り上がるような構造ではありません。たとえば3+8を計算しようとすると3は単純にスタイラスの先端で下端まで引くだけですが、このとき8のポジションは赤になっていますので、このときは8のポジションから逆に上端に引いて上端右の桁上がりポジションを下げると次桁が一桁上がり、表示窓に「11」を得るものです。減算は逆操作すればいいのですがこの「表示が白と赤のときには逆に引く」というお約束ごとだけ覚えておけば、それほど操作は難しくないと思います。いちおう乗除も出来るのですが、算盤での乗除同様に一桁ずつ操作してゆくので、その計算速度は計算尺の比ではありません。本体はプラスチックの成型部品をまったく使っていない単純なプレス部品により構成されている総金属製です。バネさえも一本も使われていない単純な構造で、おそらく町工場で作られた部品を内職のおばちゃんあたりが組み立てていたのではないでしょうか。川崎から届いたポケットカリキュレーターはよく無くなっている鉄製のスタイラスも残っていますし、例の競技大会の案内が記された説明書も残っていました。機構的には問題ないのですが、かなり使い込まれた個体で、内部には削れて生じたと思われる金属粉だらけで、あまつさえスタイラスを差し込むことによって出来る傷によりラックの赤表示部分が削れて白くなっています。とりあえず外側ケースの爪を起こして分解し、内部清掃とグリスアップを行うことにします。内部はリセットレバー、ラックのベースプレートとラックが9本という至極単純な構成で、ネジ一本さえありません。ラックはすべて同一形状の部品です。最初は赤がはげた部分を脱脂して焼付塗装してしまおうかと思いましたが、赤がはげて醜い部分は日常激しく使用された下3桁のラック3本に限るので、あまり使わない上3桁のものと交換することによって日常使用には差し支えないと考え、この3本を交換します。グリスアップしてラックの動きはスムースになったのですが、真ん中の桁のラックがリセットレバーを本体に戻す操作に連動して下がってしまうようになりました。あまりにもベースプレートとの摩擦が無くなってリセットレバーとの接点の摩擦のほうが大きくなったことが原因のようです。ベースプレートとラックのはまりこむ部分をラジオペンチで曲げ、意図的に摩擦を大きくしてリセットレバーのリリースと干渉しなくなりました。このスタイラス式計算機の操作具合ですが、う〜む流石に算盤の国に受け入れられなかった訳が実感できます。慣れれば計算速度も向上してくるのでしょうが、加算する数字がラックの赤表示か白表示を判断して上に引くか下に引くかの判断でタイムロスがどうしてもつきまとうため、どう熟練したとしてもその計算スピードは算盤の足下にも及びません。せめて自動的に桁の上がり下がりをしてくれれば少しは使い勝手は向上するのでしょうが…。MBCマークですが、これはどうもアメリカで大量に売られた「MAGIC BRAIN CALCULATOR」の略のようです。おそらくこのMAGIC BRAIN CALCURATORはアメリカ国内の登録商標らしく、かなり色々な形状のスタイラス計算機が発売されていましたが、このポケット計算機株式会社というのは古くからそのMAGIC BRAIN CALCULATORの製造供給元だったのでしょう。おそらくポケット計算機やポケットカリキュレーターの登録商標を取っていたのではないかと思われますが、今その商標は流れ流れてどこが持っているのでしょうか?そういえばラジコンやプラモデルというのも一般名称化していますが、れっきとした登録商標です。

| | | Comments (0) | TrackBack (0)

November 13, 2008

J.HEMMI No.2の末期型

 逸見次郎の個人商店時代に作られた「J.HEMMI」時代の計算尺は、昭和3年の合資会社逸見製作所の設立を経て翌年のユニバーサル型発売を機に「"SUN" HEMMI」の商標に変更して新しいモデルナンバーを与えられ、J.HEMMI "SUN"の商標は消滅します。J.HEMMI時代の計算尺は大正2年から大正14年頃までは本体の刻印やカーソルの形状に関しては僅かな違いしか確認されませんが、大正15年から昭和の4年(1926-1929)に至る3年間は本体構造・カーソルの形状ならびに刻印からケースに至るまで目まぐるしい変化を見せています。これを「J.HEMMI計算尺に於けるローリングトゥエンティ」と言うかどうかは別にして、大変に興味深い3年間だと感じます。
当方にはまったく縁がないものと思っていたJ.HEMMI時代の計算尺も、最初に入手したNo.2を皮切りに現在では8点を数えるようになりました。その中で位取りポインター付きカーソルのNo.2は今回入手したものを含めて3点になりますが、その3点とも同一の型番ながら、その姿は一つとして同じものがありません。
 今回多摩方面から入手したNo.2は、構造や刻印などを含めて新しい"SUN"HEMMI時代以降の計算尺に近いことからNo.2としては最末期のモデルということになります。以前入手したNo.1の末期型とベースはまったく同じもので、見かけは後の練習用計算尺No.47そのままのものです。以前のNo.1及びNo.2と比べると、構造的には格段に進歩していて、竹がむき出しだった裏面は少し前のセルロイド平貼りを経て末期型はスケール部分と一体の被せセルロイドとなり、格段に剥がれにくくなったようです。また副カーソル線窓はオーバルから⊃⊂に変わりますが、裏板も以前の真鍮板に錫メッキを掛けたものからアルミの厚板に変わっています。この末期型直前に尺種類を表すA,B,C,D,の刻印が追加されるようになりましたが、この末期型に限ってはうるさいほどに数字刻印が追加され、初めて度・ラジアン変換用のゲージマーク3種類が追加されています。PAT.51788のA型位取り付カーソルも文字盤に肉抜きのないものから肉抜きされ隙間のあいたものになり、ポインターの根元が蟹爪状に開いたものに変わり、以後このA型位取り付きカーソルが標準のスタイルとなって昭和十年代以降までそのまま使われました。ケースはフラップが欠落していましたが、本来はフラップが以前のものよりも長くなり、フラップ部分だけに横書きで「PATENT HEMMI'S SLIDE RULE」とだけ入れられた黒の擬皮紙貼りの紙ケースです。入手した末期型のNo.2は前持ち主が、とはいっても昭和29年1月ですから約55年前に引き継いだときにはすでにカーソルグラスが失われていたらしく、透明セルロイドの薄板を使った自作のカーソルグラスが付いていました。しかし、経年でセルは黄変して透明度を失い、さらにベコベコに変形していました。さらにA型カーソルのスタイルを知らなかったようで、カーソル枠の4本のネジで止まるようにセルのシートに4つのネジ穴が空いていました。これでは格好が良くないですし、あまりにも擦り傷だらけで黄変が激しかったため、無条件に1.5mmのPET樹脂板でカーソルグラスを自作し、それに交換しました。さらにスケール部分などセルの欠落が醜かったため、以前セルが一部欠落したNo.45Kを部品取り用のおまけとして貰ったものからセルを皮膚移植しました。ただし年代が40年ほど隔たっていますので、色合いが少々異なるのは仕方がありません。セルの皮膚移植用に色合いを合わせるため、あえて日焼けさせたセルを確保しておかなければいけませんな(^_^;) ちなみにセルロイドの素材は工芸品として少量が町工場で作られるのを除き、工業用材料としてのセルロイドはタキロンを始めとした各メーカーでも昭和40年代前半までに製造を終了しており、最古参のダイセル化学(旧大日本セルロイド)にしても製造を終了してかなりの年数が経っているため、現在は計算尺の素材となるようなセルロイドの生産は途絶えました。
Jhemmi2_2
 J.HEMMI時代、No.2のバリエーション3種
 J.HEMMI No.2末期型表面拡大画像はこちら
 J.HEMMI No.2末期型裏面拡大画像はこちら

| | | Comments (0) | TrackBack (1)

November 12, 2008

東芝照明用計算尺(円形)

Photo  東芝の照明用計算尺は照明設備の設計において、ある一定の照度を得るためにはどのような光度の照明器具がいったいどれくらい必要かを大まかに計算するための計算尺で、大正末期のまだ白熱灯しかない時代に最初のものが作られたようです。照明器具が発達して蛍光灯などが普及するに従い、何度も改訂版がリリースされましたが、昭和30年代までは棒状の計算尺、昭和40年代からは円盤状の計算尺に変化していったようです。どっちにしても文房具店の店頭で市販されていたものではなく、東芝の照明器具を使用していた電気工事店などにサービスとして配られた程度のものであったためか、数十年に渡って存在していた割には計算尺コレクターの世界でもあまり見かけない特殊な計算尺の一つです。まあ、こういう特殊な計算尺は関係者以外には使いようのないシロモノなのですが、当方電気工事士の資格持ちですから、一応は守備範囲内の計算尺ということになります(笑)サイドが切り取られて形状は完全な円形ではありませんが、直径10cmの円形計算尺で、「照度を知るためには・灯数を知るためには」の2つの計算法が裏側に印刷されていますが、実際には部屋の広さや照明の種類ならびに直接・間接照明の差による照明率などの補正値の目盛などがあって、けっこう複雑に感じます。また照明種類の違いによって照度の大小を算出するために透明なカーソルが付いています。古い東芝のロゴが入ったブルーグレーのビニールケースに入っていました。
 この照明用計算尺は熊本からの入手でしたが、廃業した東芝家電販売店からの品物らしく、東芝の名前の入った店頭用のディスプレーやMT管のピン直しなんかと一緒に出てきたものです。メール便で送ってもらったのですが、売り主のミスでまったく別人の元に発送され、そのため返送から再発送を経て送金から手元に届くまで12日も経ってしまいました。でもまあ無事に届いたのですから良しとしましょう。しかし、この手の一般には使いようのない計算尺というものはさすがにあまり欲しがる人もいないでしょうし、竹製ならまだしもビニールの円盤に過ぎませんから残しておこうという気も起こらず、おそらく現場で用済みになればゴミとして捨てられてしまう存在であることは確かで、そのため、計算尺マニアの手に渡る機会は殆ど無いといって構わないかもしれません。この手のものは、取りあえず使用するあてはなくとも見かけたら捕獲しておいたほうがいいかもしれません(笑)

 東芝照明計算尺(円形)表面拡大画像はこちら
 東芝照明計算尺(円形)裏面拡大画像はこちら

| | | Comments (0) | TrackBack (0)

November 11, 2008

戦中戦後、混乱期のHEMMI No.2640と内藤多仲

 最近、なぜか戦中戦後の旧制中学校生徒用計算尺のNo.2640が自分の意志に関係なく増殖し始め、貰ったり本命計算尺のおまけに付いてきたりで4本を数えるようになりました。不思議なことにすべてMADE IN OCCUPIED JAPAN以前の製品になりますが、けっこう興味深い差異が見受けられ、おもしろいので研究材料にしてしまいます。この時代のHEMMI計算尺は製造刻印が有りませんので、それぞれの正確な製造年を特定するのは困難なのですが、知り合いから譲られたNo.2640の一本がちょうどその知り合いの父親が昭和19年春に神田の電機学校(現東京電機大学)に入学するときに持参したというものらしく、そのためこの一本が昭和18年製と推定できる標準標本となりました。
 ところで、この中学校生徒用計算尺のNo.2640は内藤多仲博士が東京タワーを始めとする各地の電波塔を設計した計算尺として「内藤多仲と三塔物語」という展示会に氏の計算ノートなどとともに展示されたことから「東京タワーを設計した計算尺 = HEMMI No.2640」として計算尺マニアの間では認識されていましたが、氏が生前に語った新聞記事(昭和38年9月20日神戸新聞夕刊)によると:東京タワーを設計した内藤多仲氏の「東京タワーは1本の計算尺が造った」という話はよく知られている。内藤さんが、伊勢湾台風の3倍の大きさの台風がやってきても大丈夫なタワーの設計に使ったのは「大正2年いらい愛用している小型計算尺1本だけだ。私にとって、これは船頭のサオのようなものです」と話している……所を見ると、昭和18年発売のNo.2640が「東京タワーを造った計算尺」でないことは確定的なようです。「大正2年いらい愛用している小型計算尺」が何であるか、今や調べる余地がありませんが、時期的には逸見次郎が竹製計算尺のパテントNo.22129を取った直後のころですから、どうひいき目に考えても当時内藤氏が入手した計算尺は国産ではなくドイツのFABER CASTELLかALBERT NESTLERの5インチ計算尺ということが想像できるのではないでしょうか?シーメンス・シュケルトが日本で配ったNESTLERのNr.11を内藤氏が受け取って、それをずっと愛用していたとすると、話はもっと面白くなります。もっともNo.2640をサブ的に入手して何かに使っていたことは否定できませんが、氏は一貫して大型計算尺を使用せずに小型の計算尺1本で各地の電波塔を設計したというのは事実です。そういえば建て替えが発表された東銀座の歌舞伎座も基本構造設計は内藤多仲博士だそうです。
 さて、話はNo.2640のほうに戻りますが、MADE IN OCCUPIED JAPAN 以前の"SUN"HEMMI刻印が入ったNo.2640は戦争末期から終戦直後にかけての混乱期に造られていますので、色々なところに相違点がたくさんあり、ケースだけでも戦時仕様の紙製黒サックケースから終戦直後の紙製茶皮もどきの中子が存在するキャラメル箱状のケースさらに通常の紙製黒ケースの3種類も存在し、刻印の相違点だけでも戦時仕様で赤をまったく使用していない「逆C」から終戦直後の赤で「逆C」刻印のあるもの、さらに赤の「CI」のものまであります。メーカー刻印も戦時中の"SUN"HEMMIしかないものから"SUN"HEMMI No.2640 MADE IN JAPANに至りますが、こののち連合軍総司令部の命令で"SUN"HEMMI No.2640 MADE IN OCCUPIED JAPANと占領下の日本製を明示して輸出が許可されるようになったようです(ところがNo.2640は当然の事ながら輸出された節がありませんが)。換算表は戦時中のものが敵性語禁止の折からすべてカタカナと漢字の換算表で、終戦後は赤の「逆C」刻印のものは英語表記に変わっており、さらに三角関数などの図表も加わっています。さらに「CI」刻印となったものは換算表は漢字表記ながら三角関数や滑尺操作の解説まで印刷された換算表で、三本ともまったく違う換算表がはめ込まれていることになります。手元の4本はすべて裏の補助カーソル線窓が左右両端にありました。本体に形式名No.2640が刻印されているのはCI刻印のものだけでした。戦時仕様のものの裏板を止める釘は上下合わせてたったの6本しか使われていませんが、終戦直後のものからは上下で10本に変更になっています。裏板は戦時仕様が灰色アルマイトの戦前計算尺共通なアルミ板で終戦後のものから白っぽいアルマイトのアルミ板に変わっています。価格的にはラベルの残っているものが2点あり、戦時中のものが4円、終戦直後の黒ケースのものには殆どガリ版印刷のようなラベルが残っていてそれには29円40銭となっています。戦時仕様はNo.2640に限らず昭和18年末以降の計算尺が、今ではことごとく黄変したものが多いのですが、考えるに物資が逼迫してステープルファイバーなどを回収して再度ニトロセルロース化し、回収セルロイドとして使用していたか、もしくは時節柄不純物を十分精製出来ないまま製品化されたセルロイドしか使えなかったから現在では黄変してしまったものが戦時仕様に多いのかもしれません。またこの時期は従来よりかなり薄いセルロイドを使用しており、経年変化による縮でセルロイド表面にしわが寄ったようなものもあり、さらにカーソルのメッキの質も戦前のものと比べると見る影もありません。
 しかし、戦時仕様は仕方がないにしても戦時中から終戦直後の短期間に、ころころと仕様が変わったというのは、どうやら旧制の中等学校生徒用として生まれた8インチのNo.2640が、戦後連合軍総司令部GHQの命令で計算尺教育を禁止されてしまい、一時「非学生計算尺」となってしまった結果なのかもしれません。学習指導要領上に新制中学生の計算尺教育が曲がりなりにも採用されるのは昭和26年で、このころから新発売のずらし尺搭載 No.45とともにNo.2640は、再度そのままで学生用 8インチ計算尺としての復権を果たしたようです。実際に中学一年の数学教科書に必須項目として掲載されるのは昭和37年の新学期からのようです。連合軍総司令部は「義務教育で計算尺教育は必要なく、成人が任意で学べばよい」という自国のポリシーを押しつけたようですが、日本国が義務教育で計算尺を取り上げた事により、日本人の数学力向上と戦後技術大国を支える人材の育成に多大なる貢献をしたのは確かです。算盤と計算尺を捨て、電卓を得たことによって「ちまちまと計算するのは時間のムダ」が当たり前になってしまった事と引き替えに空間数値認識力が欠如し、「推薦で入学した理工系の学生が小学校の分数の乗除も出来ない」という基礎学力低下を招いたのは的はずれとも言えないでしょう。
Hemmi2640_2
 戦時中から終戦直後のNo.2640 バリエーション三種

| | | Comments (3) | TrackBack (1)

November 10, 2008

☆Relay☆T-401 4"ポケット型計算尺

 個人的には4インチの計算尺が好みではないため、戦前の計算尺でもない限りは4インチの計算尺を単独で入手することはまずありません。今回の4インチ尺はヘンミ計算尺レポート2冊におまけでくっついてきた2本の計算尺のうちの1本でした。ということで、これが目的で入手したものではありませんが、あんまり見かけないものなのでコレクション入りしたものです。型番はダブルスター時代のRELAY T-401で、本来は1957年あたりまでの輸出用の型番ですが、Tは一般・機械技術用を、400番台は4インチの片面計算尺を表しています。日本仕様の旧型番はRELAY No.41だったようですが内容的には両者はまったく差が無く、HEMMIのマンハイムタイプポケット尺のベストセラーNo.30のデッドコピーです。尺配置は表面がA,[B,CI,C,]D,の5尺、裏はS,L,T,の3尺で裏面も逆尺ではないためHEMMIのNo.30との差異もなく、何らオリジナリティーのない計算尺ですが、20年代から30年代のRELAY計算尺はHEMMIのデッドコピーでありながらコストダウンで値段が少し安いことだけが売りでしたから仕方がありませんが。ところが、このRELAYの4インチポケット尺にはHEMMIのNo.30系にはない特徴として、これだけミニサイズの計算尺でありながら戦前の製品から換算表がはめ込まれています。何ポイントの活字か知りませんが、とても数字が細かすぎてルーペでも当てないとよく見えません。とても実用的な換算表とは言い切れませんが、HEMMIの30系に換算表がないのはおそらくパンチングによって「SUNの商標」もしくは企業名を入れたノベルティー商品としての側面もありましたので、あえて換算表は当初から無かったのでしょう。また、HEMMIの戦前30系には下固定尺側面にインチの尺がありましたが、戦後の30系にはありません。しかし、今回のRELAY T-401は戦後のものながら下固定尺側面にもちゃんとインチスケールが刻まれています。本来、RELAYの4インチ尺はフラップ付きの皮ケースが付属しますが、このT-401は5インチの皮ケースをスケールダウンしたようなオープントップの皮ケースでした。
Relay_t401
 下はまだCI尺のない戦前IDEAL RELAY時代の4"ポケット尺です
 ☆Relay☆T-401 4"ポケット型計算尺表面拡大画像はこちら
 ☆Relay☆T-401 4"ポケット型計算尺裏面拡大画像はこちら


| | | Comments (0) | TrackBack (0)

« October 2008 | Main | December 2008 »