J.HEMMI No.6 5インチポケット型計算尺
おそらくこの手の戦前HEMMI計算尺であれば日本一のコレクターであるHEMMI FANことvoola氏の守備範囲に土足で踏み込む昭和初年のJ.HEMMI時代の5インチNo.6です。J.HEMMI時代の10インチ以外の計算尺といえばNo.14しか持っておらず、過渡期のフレームレスカーソルが付属したものも欠落していたので、入手できたのはラッキー以外の何物でもありません。形態的にはスケール部分にも剥がれ止めの鋲が付くタイプですが、カーソルに金属フレームがなく分厚いカーソルグラスが樹脂のカーソルバーに直接ねじ留めされているタイプです。ケースはフラップがまだ短いタイプの物が付属しています。
このJ.HEMMI No.6の持ち主は何と海軍軍医で終戦時の階級が軍医大佐です。軍歴からすると大正の末期、医大卒業後に軍医中尉を任官し、築地の軍医学校で海軍軍人たる教育を受け、艦隊に配属というのが海軍軍医のコースですから、おそらくこの時代に買い求めたものだと思われます。実際に軍艦の中で使用されたという話でしたが、終戦時に軍医大佐というとおそらく艦隊の軍医長、海軍省医務局の課長もしくは海軍病院の院長クラスの階級です。持ち主は太平洋戦争時には主に陸上勤務だったと想像していますが、空襲等には遭遇したとしても、艦で戦火をかいくぐらなかったおかげで昭和初期の計算尺がそのまま残ってくれたのでしょう。ちなみに戦中に存在した臨床医の速成を目的とした帝大系医学部付属の医学専門部卒業生は軍医少尉として任官し、海軍軍医学校で教育を受けたようです。戦前は軍医というと帝大医学部出身者よりも国立私立の医科専門学校出身者の方が圧倒的に多かったのでしょう。帝大出の医師などは家が貧乏で研究生活の援助がまったく受けられないような状況を除けば軍医の道など歯牙にも掛けなかったかもしれません。軍医の世界では帝大医学部出身者も医学専門学校出身者も差別は殆どなかったようですが、陸の上の医学界では特に戦時中の医学専門部で大量に養成された医学専門部出身の医師に対しては歴然とした格差が生じていたようです。手塚治虫が大阪帝大医学部の出身ではなく旧制中学を卒業して進学した大阪帝大医学部付属医科専門部出身であることはよく知られています。医学部では教授の授業が行われていたのに対して、医学専門部では講師が授業を行っていたなどともいわれていますが、戦後は新制大学に変わり医科専門部も廃止されたため、医学部出身者も医学専門部出身者も「同一大学出身者」となり、わざわざ「旧医学専門部出身」などとカミングアウトするお医者さんも少なかったのでしょう。そういえば薬害エイズ事件の被告となった安部英・元帝京大学副学長は昭和16年に東京帝大医学部を卒業の後海軍軍医となり、軍医大尉で終戦を迎えた後に東京帝大に戻っていますが、同窓生からは「優秀な医学生ならば当然、軍医なんかにはならずに大学に残っていたはずだ」などと陰口を叩かれていたという話を聞きましたが…。
海軍軍医で話は脱線しましたが、このNo.6は大正末から昭和の4年頃までの短時間の間にNo.1系統やNo.3系統と同様にカーソルや裏セルの有無ならびに目盛に至るまで細かい部分でのマイナーチェンジを繰り返しています。No.6は大正初期からNo.1と平行して製造されたようですが、当初はNo.1同様にアルミの四角いカーソルが付属していたようです。PAT.51788によるフルフレームカーソルに大正10年頃から変わり、昭和に入ってからフレームレスカーソルにモデルチェンジしたようです。また、昭和期に入ると目盛が馬の歯形から櫛形に、尺にA,B,C,D,の尺種類が刻まれ、副カーソル線窓がオーバルから「⊃⊂」に。さらに裏側にも白いセルが平貼りになったものがJ.HEMMI時代の最終型 No.6のようです。世には逆Cカーソル(A型カーソル)が付属したNo.6がありますが、そういうモデルがあったのか、樹脂カーソルバーが崩壊して後にA型カーソルに換装されてしまったのかは定かではありません。今回入手したNo.6は部品が交換されていない全くのオリジナルのようで、スケール部分にも鋲留めがあり、目盛は馬の歯形。裏が竹のむき出しでカーソルはフレームレス。副カーソル線窓はオーバルでケースのフラップは短いタイプなので、おそらく昭和に年号が変わった前後の製造でしょう。ケース裏側に創業30周年の口上が貼られており、このシールが貼られていた期間もごくごく短かったようです。同様のシールは10インチ尺に於いてはボール紙の外箱に貼られていたようです。さすがに軍医ともなると職務上は普通の技師より計算尺の利用など限られてくるのでしょうが、このケースのきれいさは秀逸です。おそらく私物の将校行李の中にでもしまい込まれたままだったのでしょうか…。ゲージマークは同時代の10インチ尺より省略され、A,B,C,D,尺にそれぞれ刻まれたπのみです。時代が少し下るとJ.HEMMI No.6と型番は同じでも10インチ尺同様にC,C1,M,および左右の位取り指示などのマークが追加され副カーソル線窓も「⊃⊂」に変わりました。No.6は後に練習用計算尺のNo.48にモデルチェンジしたと言われていますが。構造的にはNo.48は薄型で裏板が金属板のみで上下固定尺を止めている、また副カーソル線窓が一カ所などという違いがあり、無理に後継者指名しなくともいいような(笑)
J.HEMMI No.6 5"マンハイムタイプ計算尺表面拡大画像はこちら
J.HEMMI No.6 5"マンハイムタイプ計算尺裏面拡大画像はこちら
J.HEMMI No.6 ケース裏面ラベル拡大画像はこちら
| Permalink | 0
Comments
(変なコメントの後では書きにくいですが・・・)計算尺と軍医の話を一つ書きます。半世紀以上前の話です。小生が肥後之守を持って遊んでいたとき、誤って左手の親指と人差し指の間をザックリ切ってしまいました。痛さより血を見て大泣きして家に飛んで帰りました。父は軍隊に10年ほどいましたからすぐ止血して当時ほとんど無かった3輪トラックに載せて医者のところに連れていってくれました。
4~5針縫うということになったのですが、麻酔無しです。その医者は軍医上がりで「男の子がこれくらいで泣くやつがあるか」と怒られ「麻酔をすると怪我の回復が遅れるし、これくらいは怪我のうちに入らない」というのです。しかも「縫うところをちゃんと見ておけ」というのです。小生は泣きながら見ていました。
今でも傷の跡はありますし、押さえると痛くて仕方がないくらいです。長じて思い起こすと、軍医の経験からすれば数針縫えば良くなるくらいの怪我は怪我のうちに入らなかったのも良くわかります。
7年ほど前に右手の人差し指の先をつぶしてしまい、医者に行ったとき「爪は剥がないとだめだ」と言われて、流石に麻酔をして剥ぎましたが小生は「見ているからそれでオペしてくれ」と言ったところ医者が「見ている患者は始めてだ」と言っていました。
修羅場を経験した医者に会ったのは小生にとって宝物です。
大昔のその年の刻印のある34RKを父が買って使っていました。小生が中学(45を買わされましたが)、高校、大学と使ってその後数十年革ケースに入れて机の引き出しに入れていました。今は父の形見となってしまいました。もちろん、製造年月の刻印の意味が判ったのは最近のことです。
34RKを見ると、そのころのことが鮮明に思い出されますし、JEYKANZさんのこのスレを見て又改めて思い出してしまいました。人間を長くやっていると本当に面白いです。
Posted by: YOSHI | February 05, 2009 09:30 PM