海軍兵学校計算尺教本
以前から是非とも中身を見てみたかった旧海軍兵学校の計算尺使用法という小冊子を入手することが出来ました。この小冊子は海軍将校を養成する海軍兵学校が逸見製作所に作らせたNo.2664のスケール省略版、通称「兵学校計算尺」と呼ばれるずらし尺を備える計算尺のための解説書です。この通称兵学校計算尺は、もう少し以前から使用され続けてきたのかと思いましたら、教本の発行は昭和19年の12月でした。マリアナ海戦、レイテ沖海戦に敗れ、テニアンを基地とするB-29の空襲が本格化して本土にじわじわとその戦略爆撃のボディブローが効果を現し、次は硫黄島、沖縄を経て米軍が本土に上陸することを想定して本土防衛構想が実行に移されつつあったころです。そのため、この計算尺と教本は昭和20年入学の海軍兵学校最後の生徒である「海兵77期」の生徒の為のもので、現に入手した教本には青山学院を修了して海兵77期に入学した方の個人名が記入されていました。最後の兵学校生徒海兵77期は総勢4000名の大所帯で、江田島内の本校、分校以外に岩国、舞鶴に分かれて昭和20年の4月から終戦の8月15日まで各種の勉強を行ったようですが、4艦隊司令長官から海軍兵学校校長に一種の左遷人事となった井上成美校長が貫いた「戦争を遂行する人材ではなく、日本が負けた10年20年後の日本を背負って立つ人材を育てる教育」の一環として英語も数学も力を入れて行われていたようです。おもしろいことにこの小冊子の冒頭に「本書ニ依リ計算尺ヲ修得スベシ」という言葉を載せている兵学校の校長が小松輝久という臣下に下った旧皇族中将で、19年の10月あたりに発生した江田島本校の武道場だったかの失火火災事件に引責して辞任しているのにも係わらず12月発行のこの冊子にそのまま校長として記載されています。確かこの小松校長の辞任の後を受けたのが、レイテ沖開戦でレイテ湾に突入せずに謎の転進をして戦場を離脱した責を問われたのか、井上成美中将同様に左遷人事となった栗田健男中将です。栗田健男校長は終戦まで兵学校校長を務めていますので、最後の海軍兵学校校長となりました。
この冊子の編纂は海軍技術中尉の後藤三郎という人で、おそらく予備学生上がりの若い技術屋さんだったのでしょうか。基本的には逸見の片面計算尺用の説明書からの引用が殆どだと思われますが、応用問題がさすがは軍隊らしく、敵機との高度や距離の問題だったり航路や進路に関する問題になっていたりしました。全部で49頁の内容的にはかなり詰め込まれたものですが、印刷は兵学校内の印刷設備で行われたようで、紙も物資が豊富だった軍隊らしく、その当時のヘンミの計算尺説明書より遙かに良いものを使っているようです。さすが金属枯渇時代の軍隊らしく、綴じ込みは真ん中のステップラー一本だけで製本してありました。計算尺の教本は自前の印刷設備で4000名にくまなく配られたようですが、肝心の計算尺の方は入学時に全員に配られた訳ではなく、兵学校の備品として共用されたような節があります。終戦時にこれらの備品は極力生徒に持ち帰らせたようで、何かの役に立つだろうと計算尺のみ持ち帰った岩国分隊の77期生の話がネット上にありました。この小冊子を入手するも肝心の兵学校計算尺が当方の手元にはありません。同時代のNo.2664なら3本くらいあるのですけどね。
| Permalink | 0
Comments