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June 25, 2011

液晶が白いまま表示しないPC-9821NP

Dvc00126
 最近のパソコンの設定は、あまりにも個人でカスタマイズする余地に欠け、面白みが薄れてしまったために、もう一度PC-98のDOS環境に回帰しようと思い(もちろん今のネット環境に対応はできません)、いろいろとPC-98ノートをジャンクで入手してきましたが、1989年から1994年にかけてのNEC PC-9801ノートにはコンデンサーの電解液に起因するコンデンサー液漏れ不良という重大な欠陥を抱えており、経年劣化で十中八九は電源が入りません。また運よく起動している個体でもしばらく使っていれば確実に動かなくなります。うちのPC-9801nx/cなんか電源系やグラフィック系の主要な液漏れコンデンサーを交換してしばらく快調に使っていたのに、新しいHDDパックをフォーマットしている最中に突然電源が落ちました。その点はマザーボードが欠陥電解コンデンサーからチップコンデンサーに変わった1994年以降のPC-9821ノートのほうがはるかに安心して使えますし、そのまま起動する個体も多いようです。ただ9801系ノートに比べて大きくて分厚くて重いというのが欠点ですが、DOSで快適に使うには我慢するしかありません。また画面表示が480X600なのでWINDOWS95にも当然ながら対応していますし、PC-9801系ノートのようにそもそもの設計不良でヒンジが破壊して液晶部分がしまらなくなることもありません。Dvc00127
 このPC-9821NPは1994年の発売でintel486DX4 75MHzという当時としては高速で、さらに液晶パネルが高価なTFTカラー液晶というものです。そのため当時のノートPCとしては高額な84万円(驚)もっとも半年後には64万円に値下げになったようですが、それにしても個人でしかもノートPCにこんなにお金をかけるのは清水の舞台から飛び降りるというより東京スカイツリーの天辺からパンジージャンプするような覚悟が要ったでしょう。もっともこれ以前にMacintoshのデスクトップとモニターを買いにいったときは財形貯蓄を100万円取り崩しても周辺機器までは買えませんでした。パソコンや周辺機器の価格が劇的に下がったのがWINDOWS95によりパソコン出荷激増以降のことで以前はメモリー1MBあたり1万円、HDD1MB(SASIの時代ですが)あたり1万円していたのが、今や5月の連休中に買ったHDDが2TBでたったの5980円です。1MB1万円の定義に当てはめると2TBのHDDの換算金額たるや200億円ですか?あんまり単位が大きすぎて混乱します。もっとも出始めの3.5インチ2HDフロッピーディスクでも一枚2000円してました。
 Videocont_2そのPC-9821NPを昨年の12月ごろにオークションで落札しました。内蔵クロック用バックアップ電池がだめで、電源を落とすと日付が狂ってしまうのが鬱陶しいですが、それ以外は完璧に起動しました。しばらくはそのままの環境で使用し、DOS版のTURBO HAMLOGなんぞで遊んでいましたが、先月、しばらく入力待ち状態でそのまま放っておいたら画面が真白になる状態が発生しました。明らかにグラフィック系の基盤のコンデンサー抜けが起因する故障と推測できます。ネットで調べると、液晶パネル裏側のTFTコントロール基盤に例の欠陥コンデンサーが多用されており、ここの液漏れが原因の故障のようでした。9821NPは本体左右のヒンジを開くと液晶パネルが上に抜け、逆向きに液晶パネルをはめ込んでプレゼンなんかに使えるというギミックが仕込まれており、液晶部分をはずしての作業が非常に楽なんですが、ねじをはずしてプラスチックのはめ込みを剥がす液晶パネルの分解が大変でした。TFTコントロール基盤にはかなりの欠陥コンデンサが使用されており、高周波周りのため、高周波特性の悪い高インピーダンスの安物電解コンデンサを使うと通電不良を起こしたりするのを恐れて高周波特性が優れ、かつ低インピーダンスなタンタルコンデンで液漏れコンデンサを置き換えることにしました。本当は全部のコンデンサーを無条件で交換したいところなのですが、タンタルコンデンサーは高価で全部交換すると部品代だけで5k円を超えますので、33μF 25Vのコンデンサー3本(@250円)と47μF 16Vのコンデンサー(@220円)2本の交換に留めます。液漏れコンデンサーの電解液は魚の生臭さのような独特な臭いがしますが、この電解液は漏れた部分のパターンを腐食しますので、リレー洗浄スプレーを掛けて徹底的に洗浄するか、薄めた酢酸溶液を綿棒につけて中和させてからふき取ります。ところが47μF 16Vの液漏れコンデンサーが込み入ったところに配置されていて、筒を囲っているプラのケースの接着をこじって剥がそうとしたらパターンまで剥がしてしまいました。実体顕微鏡を久しぶりに持ち出して観察するとこのパターンは裏からのスルーホールでかしめてあるだけのようで、表面のパターンにはどこにもつながっていません。このスルーホールにパターンを半田付けしようとしてもうまく行かず、何時間か試行錯誤した挙句、このパターンがマイナスの接地側だったことにやっと気がついて、2本分のコンデンサーの接地部分をまとめて一本にして、件のスルーホールと導通のある部分と半田付けして一件落着しました。この基盤はLCDパネルに出力部分が半田付け処理されており、剥がして裏側からジャンパーを引き出してくるわけにはいけなかったのが手間取った原因です。タンタルコンデンサーに交換し、液晶パネルを組み立てなおして本体にはめ込み、電源ボタンを押しても液晶に表示しませんでした。コンデンサーの極性はしつこく確認したはずなので、なんでかと思いましたら、電源が入ってからコンデンサーに充電する時間が少し必要だったのか、もう一度起動しなおしたらちゃんとメモリーチェックが画面に表示されて無事に起動しました。その後、何時間かつけっぱなしにしましたが、二度と画面が真白になる現象には遭遇していません。
Dvc00128 こういう手を掛けたジャンクは愛着が湧くというもので、使いにくいDOSSHELLのままだったものをファイラーとページャーの往年の定番「FDとMIEL」をインストールし、エディターは手持ちのMIFESを組み合わせたら劇的にDOS環境の使い勝手が上昇。DOSSHELLを止めてAUTOEXEC.BATをFDが立ち上がるように書き換えました。これで各ディレクトリーの移動やファイルの書き換え、実行ファイルの起動なんかも瞬時に可能になったところで、久しぶりにアンダーグラウンドな不謹慎ゲームの代表、FD12枚組みの「上九一色村物語」をインストール。98DOSのグラフィックと音源を極限までに叩く幻のゲームを今動作させています。この上九一色村物語の入手に関しては当時面白いエピソードがあったので、後日別途でネタをあげる予定です。

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June 24, 2011

夏至を過ぎた6mの近接Eスポ

 今シーズンも相変わらず6mの大オープンというような状況にはなかなか行き当たりません。昨年と比べるとほとんど変わらないコンディションが続いているような気がします。5月はそこそこ聞こえた日もあったようですが、相変わらずJR6YBR/Bが聞こえる時間が極端に短かったようで、今年もトマトの支柱で作った2エレのHB9CVアンテナでは交信の機会には恵まれませんでした。6月に入り5日に応答で今期初交信するも、その後CQを出す日があってもすべて交信するまでには至らない状態が続いています。夏至の日は聞いた話しによるとこちらでは殆ど一日中JA6YBR/Bが聞こえていたということで、やっと6mの伝搬コンディションも急上昇しはじめたようです。
 今日は朝の5時半に6mのリグのスイッチを入れるとこの時間なのにも係わらずJR6YBR/Bが559くらいで聞こえていて、これから朝の9時台くらいにかけてかなりコンディションに恵まれるような予感がしました。そして7時台後半にもう一度ワッチをかけてみると6エリアから2エリアあたりまで開いています。中部九州から北九州、山口にかけての局が特に強く、その局を呼び出す1エリアの局がかすかに聞こえるという久しぶりにかなりFBなコンディションになってきました。残念ながら出かけなければいけないため3局ほど応答して終了。たまたま忘れ物を取りに戻った9時半に未練がましくもう一度リグのスイッチを入れるとかすかに紋別郡遠軽町移動というコールが聞こえました。道内局ではちょうど今時分に21メガあたりのスキャッタでオホーツク方面や青森北部がつながることはままあるのですが、6mで同じ道内のオホーツク側からCQが聞こえたことは初めてです。悲しいかなローテーターもない南側固定アンテナでは応答しても取ってもらえるわけもなく、残念ながら交信できませんでした。平日なので、あまり応答している局もいなかったようで、ある意味チャンスだったんですが、こっちの電波が届かないのなら仕方が無い。そういえばGWならかろうじてザラザラにしか聞こえない北広島局が6エリアの局に応答している声が今日ははっきり入感てました。

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June 20, 2011

小柳式安全燈(炭鉱用カンテラ)Type Koyanagi's Flame Safety Lamp

Photo 日本国内で製造された炭鉱用安全燈というと江戸商会の横田式と横田式改良型の江戸式、本多商店の本多式(ウルフ式のデッドコピー)くらいしか文献や実際の物をいろいろ探しても見当たりませんが、実際には産炭地周辺の金属加工業者の手でデービー燈やクラニー燈あたりの旧式灯油安全燈が製作された例もあったのでしょうか。しかし、炭鉱とともにすでに歴史に埋もれてしまい、それらの実態を知ることはなかなかかなうことではありません。今回発掘した安全燈はそういう名も知れない金属加工業者の旧式灯火器とは違い、主に炭鉱用の金属加工品等を製造していたと思われる東京の合資会社小柳金属品製作所という会社が製造した小柳式安全燈というもので、基本的には外国製安全燈のコピーながら独自のアレンジが加えられて、日米欧などの特許を取得しているようです。ところが、炭鉱技術の文献をあさっても、大正期に直方安全燈試験場で行われた各種安全燈試験結果を探しても小柳式安全燈というのは出てきません。現在東京には大田区と小平市に小柳製作所という金属加工の会社がありますが、この小柳金属品製作所とは直接関係は無いようです。当方がわかる限りでは、唯一の直方の安全燈試験場に納入された「安全燈静止瓦斯試験機」が東京小柳製という記録があり、小柳金属品製作所が製造した金属加工品が炭鉱と浅からぬ因縁があったことは間違いないようです。割と簡単に過去検索できるアメリカのパテントを調べると早くも明治44年8月22日付けで東京のICHITARO KOYANAGIの申請した安全燈の「閉鎖機構とバーナー設計」に関して特許No.1001052号が認められていました。日本では他に安全燈に関して世界的にパテントを申請した会社はなく、まるっきりウルフ式揮発油燈のメカやデザインまでパクった本多商店の「本多式」が日本における安全燈の標準になるのですから皮肉なものです。
 この小柳式安全燈の特徴としては、丸型ボンネットの両脇にガードメッシュで覆われた透明な窓が設けられていることで、このことでメタンに晒された炎が腰硝子上の金網にまで達してもどこまで炎が伸びたのか、どれだけ金網が赤熱されたのかが観察できるということが特徴となっています。セノー式やピーラー式瓦斯検定燈と異なり、たとえ金網にまで伸長した炎を観測できたとしてもその長さを正確に測るゲージがあるわけではなく、メタンガス濃度検定用としては中途半端、坑内の明かりとしては側面透明窓などの破損リスクが大きく、またウルフ揮発油燈のような再着火装置を持たなかったために簡易メタンガス測定用具としても使いにくかったのでしょう。さらにエジソン型の帽上蓄電池燈の普及期にあって大手の炭鉱では照明もより安全な防爆電気照明が大量に採用されていった時期と重なりますので、この小柳式安全燈が実際に製造された数量はかなり少ないのかもしれません。また、小柳金属品製造所のその後の動静が不明のため、関東大震災によって江戸商会同様、この小柳製作所も甚大な被害を受けて廃業してしまたのではないかと思ってました。しかしこの小柳金属品製作所の顛末は意外な結果となっていたことが後にわかりました。
 大正5年1月から大正7年3月までに実施され大正9年3月に発表された直方安全燈試験所の各種安全燈試験成績の中に江戸式同様に小柳式の試験記録もありません。余談ながらこの試験成績で江戸商会の横田式安全燈がメタンガスを含む通気に晒された場合に火焔の動揺が大きいとの指摘を受けたため、腰硝子上のリングに吸気スリットとバーナー周りに導風盤を設けた横田式の改良型が江戸式のようです。
 入手先は福岡県の最南部の大牟田市。音に聞こえし三井三池炭鉱のお膝元ですから当然のこと一度は三池炭鉱で使用されたものなのでしょう。解体家屋からこんなものが出てくるなんて、さすがは歴史ある石炭の街です。実は当方、三池炭鉱には2度ほど訪れており、2度目は1997年3月末の三池閉山3日前のことでした。当時は隣の高田町の有明坑に繰込場があって、坑内員はここから海底部の坑内に降り、海底の運炭坑道を通って三川坑側に石炭を運び出していました。閉山まであとわずかだというのに、三川坑側では相変わらず凸型の電気機関車が牽引する石炭貨車にホッパーから石炭が落ちる騒音が響き渡ってました。三池港外の貯炭場周りの道路に落ちていた石炭をひとかけらいただいてきましたが、惚れ惚れとするような漆黒の瀝青炭でした。しかし、カロリーは高いのにもかかわらず、硫黄分が多いことが三池炭の欠点だったと言われています。閉山からすでに十数年が経過し、三川坑側の選炭設備もすっかり撤去されて更地になったようで、今では熾烈な三池闘争の痕跡を想像することも難しくなってしまったようです。当時はまだ単独運行だったブルートレインのはやぶさで大牟田駅から東京駅まで帰ってきたのも今では昔話になってしましました。(宇宙探査機はやぶさは小惑星イトカワの塵を持ち帰り、ブルートレインはやぶさは三池炭鉱の石炭のカケラを持ち帰った訳です)ブルトレB個室の中で、大牟田駅前の百貨店食料品街で買い求めたタイラギの貝柱と海茸の刺身を大牟田駅のキオスクに置かれていた瀬高の「園乃蝶」というカップ酒で飲むのは格別でした。その「園乃蝶」も今は廃業してありません。また、大牟田の駅弁屋も百貨店もいつのまにか廃業してしまったようです。
 三池炭鉱の話に戻りますが、三井鉱山系の三池炭鉱は筑豊の本洞、田川の両炭鉱とともに三井物産が輸入したドイツのサイペル式揮発油燈が明治の41年(1908年)年に入っており、おそらくその後もいろいろな安全燈を試していたのでしょう。その中のひとつが取引のある小柳金属品製作所の小柳式安全燈だったのかもしれません。そして各種揮発油燈を試した結果、結局はウルフ式安全燈の使用に落ち着くのでしょうが、すぐに輸入・国産の帽上蓄電池燈が台頭してきて揮発油安全燈の明かりとしての役目は長くはありませんでした。この小柳式安全燈が手元に届いてまずわかったことは、なんと平芯の油燈式安全燈だったことで、形式的にはマルソー式安全燈に分類されるものであることです。そのために再着火装置がありません。また芯は一般的な英国製カンブリアンタイプのような4分芯ではなく7分芯ほどの幅広の芯が付いており、さぞかし明るかった代わりに燃費が悪かったはずです。どうりで揮発油燈のような分厚い油壷が付いているわけです。ガードピラー根元のリング部には何らかのロックシステムが仕込まれているようで、これがパテントの対象になった閉鎖機構なのかもしれませんが、どういうロックシステムになっているのかさっぱりわからず、すぐには分解出来そうもありません。何らかの磁気ロックシステムなのかもしれませんが、磁気ロックはウルフのパテントを回避して新たなパテントを得ることが出来たのかどうか。このリング部には1351の数字が打刻されていて、これは安全燈の管理番号でしょうから、ある程度の数がまとめて三池で使われたことが伺えます。結論としてこの小柳式安全燈は揮発油安全燈以前のアーキテクチャーということになり明治末期の製品となるのでしょう。となるとパテントの申請時期はかなり早かったのだけど、実際にパテントも降りた頃にはすでに一世代前の安全燈ということになってしまい、輸入のウルフ揮発油安全燈やサイペル揮発油安全燈、そして横田式や本多式などの国産揮発油安全燈のライバルともなりえなくて、人知れず日本炭鉱技術史の記録に残らず消えてしまったのではないかと想像します。これが揮発油燈だったら各種安全燈試験の対象になってもおかしくはないのでしょうが、安全燈静止瓦斯試験機が小柳製なのに、試験対象に小柳式安全燈がないというのも皮肉なものです。もっとも小柳金属品製作所は自身の安全燈開発のために設計したのがこの安全燈静止瓦斯試験機だったのでしょうけど。また気流瓦斯試験機のほうはさすがに外国製だったようです。
 銘板をよく見ると小柳金属品製作所の所在地は東京市京橋区新佃西町となっているので調べたところ、いろいろ住居表示に変遷はありますが、現在の中央区佃2丁目のあたりでしょうか。場所的に考えると旧石川島造船所の下請け的な仕事もあったのかもしれません。佃島はいまや高層マンションが林立していますが戦前は漁師の町で、昭和39年まで対岸から渡し舟が通ってました。戦災を免れたこともあって二十数年前までは住吉神社近辺に細い路地があり戦前の木造住宅が多く残る非常に味のあるいい町でした。よく古いカメラを持って路地から路地を歩き回っていたことがあるのですが、もしかしたら知らずに小柳金属品製作所跡を通り過ぎていたかもしれません。
 ここにきて神戸大学図書館がデジタル化してくれた興味深い古い新聞記事に行き当たりました。中外商報大正6年7月11日のものですが、要約すると小柳金属品製作所は職工500人を抱える近辺でも屈指の工場であったが、前月に会計主任の小口某が(当時の金額で)三万円を横領していたのが発覚し憲兵隊に検挙されたことで出資者数名が善後策の検討を工場主に迫るも工場主はこれを放擲し、また職工たちも物価高騰の折、賃上げを要求するもこれもそのまま放置し、賃金支払日の10日になって突然表門に「機械修理のため臨時休業」云々の張り紙を出し職工の大半を解雇することを聞き知った多数の職工が表門に押し寄せたのを月島署が警戒しているというものです。たぶんこの日を以って小柳金属品製作所は事業停止になってしまったのでしょう。また別の記事によると、この小口某というのは花柳界に出入りしてこの会社の運転資金三万円を使い込んだとあります。従業員500人を抱える近辺でも屈指の大工場というと新聞記事に書かれていましたが、この記事より3年前の大正3年の東京府工場統計によるとこの時点での従業員総数はたったの20名ですので、「従業員500人の近辺では屈指の工場」というのは相当大げさに書かれたようです。この規模なら小工場の部類で、このとき同じ町内の石川島造船所は従業員1049名の当時としては正真正銘の大工場です。また製造品目も鉱山燈ブリキ缶装飾金具というような小柳式安全燈以外は取り立てて技術的にどうのこうの言うような製品ではなく、実際にはちょっと規模の大きい板金屋という程度の技術力の会社だったのでしょうか。この合資会社小柳金属品製作所は、結局事業継続資金に窮し、債権者によって清算させられ、工場敷地ともにどこかに売却され、現在は高層マンションが林立している大川端リバーシティー21の一部になっているというのが正解なのかもしれません。石川島造船所はこの翌年大正7年から第一次大戦の戦災による船腹不足で造船事業が大幅に増収増益して事業基盤を確固たるものにしていきますが、このおこぼれに少しでもあずかっていれば小柳金属品製作所も昭和の恐慌までは生き残っていたかもしれません。
ところで、同じ東京府工場統計の神田区のところを調べても江戸商会というのは掲載されていません。横田式や江戸式の江戸商会という会社はどうやら工場を構えていたわけではなく、完全な問屋というか商社を神田区の今川小路に構えていたようです。ということは、横田式や江戸式などの江戸商会製安全燈は自身が製造所を兼ねていたわけではなく、どこか別の下請けに作らせていたということになり、そうなると俄然、横田式安全燈に関しては小柳金属品製作所の関与が疑われます。どうりでなんとなく小柳式と横田式および江戸式は加工や仕様にある共通点が感じられるのですが、もしかしたらというかかなりの確率で江戸商会がこの小柳金属品製作所の出資者の一つであり、小柳金属品製作所に横田式や安全燈検査機などの付属物を製造させていたとなれば、小柳金属品製作所の主要製品のトップが「鉱山燈」で、従業員も20人以上いたとしてもおかしくないのでしょう。さらに江戸商会はこの小柳金属品製作所騒動後の大正8年に東京で開催された「災害防止展覧会」に出展してますが、そこに横田式とならんで丸型と鎧形のウルフ式揮発油燈ならびピーラー式検査燈に開錠装置や検査装置、整備機械などを展示しています。元から輸入のウルフ式揮発油燈の国内販売代理店となっていたのかもしれませんが、それよりコストの安い国産の横田式揮発油燈と二本立てで商売をしていたことになります。このときまだ横田式の改良型である江戸式はまだ完成していないようですが、この時点ですでに小柳金属品製作所は存続していないと思われるので、この江戸商会は安全燈製造に関する製造設備を小柳金属品製作所から引き上げ、別な業者に渡して横田式安全燈の生産を継続したのではないかとも考えられます。しかし、正規の輸入品ウルフ式揮発油燈を扱っていた江戸商会にとっては、となり日本橋に店を構えてウルフ式丸パクリの本多式揮発油燈を大々的に売り出し、本家ウルフ揮発油燈のシェアを席巻したコピー品販売の本多商店はまさに商売敵以上の存在だったのでしょう。本多商店は関東大震災後から現在に至るまで存続していますが、江戸商会は関東大震災後その動静が途絶えます。まさか小柳金属品製作所は本多商店からの発注を受けて本多式揮発油燈の製造にまで係わってはいなかったでしょうが、もしそうであればこの小柳市太郎という人物は策士です。それで従業員が3年で20人から500人に急成長を遂げたということは現実的には考えられないでしょう。もっとも第一次大戦特需で軍需品の生産に手を染めていたとすると話は別で、従業員が20人からいきなり500人に増えてもおかしくはありません。それくらい従業員がいないとなかなか三万円という資金を会計主任が着服できないかもしれません。
 ちなみに東京府工場統計をよくよく調べ返してみると、小柳金属品製作所と同じページに個人商店時代の「本多船燈製造所」というのが出てきました。八丁堀というと旧日本橋区だとばかり思っていたら京橋区に属しており所在地は本八丁堀五丁目で本多敏明という人の個人商店です。後の大正六年に本多商店と改組されるようですが、この時点で従業員は20人で小柳金属品製造所と規模は殆ど変わりません。製造品目は鉱山用安全燈及船燈ということで、船舶用の標識燈などの製造も行っていたようです。

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June 19, 2011

クラニー安全燈(炭鉱用カンテラ)Hughes Bros. Scranton PA.

Photo クラニー燈というのは英国の医師が本業であったウイリアム・クラニーによって開発された、デービー燈の金網による燈外メタンガスへの引火防止機構を応用しつつ、炎が金網で囲われてしまったために本来の明るさの30パーセントしか利用できなかったデービー燈の暗さを腰硝子を用いることで解消した炭坑用安全燈です。日本におけるクラニー燈使用の嚆矢は早くも明治初年にトーマス・グラバーと鍋島藩の共同開発によって開鉱された長崎の高島炭鉱のようですが、すぐに土佐藩の後藤象二郎の手に渡り、近代採炭法が試されるも成功には至らず官営を経た後、土佐出身の岩崎弥太郎に譲り渡され、昭和61年の閉山まで三菱の手によって経営されてきました。筑豊地区で安全燈が使用され始めたのは以外に遅く明治30年代も中ごろの日露戦争のようで、それまでは土瓶のような形をした裸火のカンテラが使用されてきましたが、相次いで竪坑が開坑して採炭場所が深くなるにしたがい、メタンガスの爆発による災害の洗礼を受けるようになり、筑豊のヤマでも急速に裸火のカンテラから安全燈へのシフトが進んでいきます。明治40年あたりから大手のヤマを中心に煤の出る油安全燈からウルフ式を決定版とする揮発油安全燈に代わっていきますが、大正期に入ると大手のヤマを中心に充電式帽上灯(いわゆるキャップランプ)が普及していき、昭和になると安全燈は明かりとしての役目を終え、簡易メタンガス検知器としての役割になります。
 今回入手した安全燈は数年前からしばしばオークション上に登場する謎の安全燈で、スタイルがまるっきりドイツのものなので、古いサイペル式ベンジン燈かと思いしや、実際はウィックピッカーで芯を上下する平芯の油灯でした。形式的にはクラニー燈ということになります。下から貫通するロックボルトが螺子でせり上がり、ガードピラーリングの切り欠き部分に嵌まり込むことで坑内で安全燈本体を分解できないロックシステムを備えますが、これもドイツの初期サイペルに多い形式です。サイペルも揮発油燈以前はクラニー燈を製作しており、当初はてっきりサイペルのクラニー燈かと思ってました。クラニー燈というと軽く110年ほどは経過している計算になりますが、金網のトップは失われ本体も一面に錆に覆われ、残っている銘板はすでに判読不能。銘板に赤外線を当て、赤外線スコープで判読を試みたところ、興味深い事実が判明してしまいました。銘板に辛うじてHughes Bros.の名前が見て取れます。ドイツ製だとばかり思っていたこのクラニー燈はアメリカの炭鉱地帯で有名なペンシルベニア州のスクラントンに存在したヒューズ・ブラザースという会社で製作されたアメリカ製の安全燈だったのです。ヒューズ・ブラザーズの名前なら当方も知っていますが、一貫して旧式のニューカッスルタイプのデービー燈やクラニー燈、一見マルソー燈のようなボンネッテッドクラニー燈などを製造しています。しかし、独自の改良型安全燈を開発するような技術力がこの会社には無かったようで、アメリカの炭鉱でもウルフ安全燈やケーラー揮発油安全燈などが鉱山監督局の形式認定を取得し、各炭鉱に普及したことにより安全燈のビジネスから退いてしまったようです。それでなくとも鉱山保安監督局からデービー燈やクラニー燈の流動メタンガスに晒された場合の危険度がリポートされていたでしょうし、エジソンによって発明された帽上蓄電池灯が普及してからは、尚更旧式安全燈の製造は衰退してしまったのでしょう。終末期になるかどうかは知りませんが、1915年のヒューズ・ブラザースの広告に旧式デービー燈やクラニー燈が掲載されています。しかも英国スタイルの安全燈に混じって今回のようなドイツスタイルのクラニー燈が載ってました。1915年というと日本でも直方の安全燈試験場(後の直方石炭坑爆発予防試験場)で盛んに各種安全燈の危険度実験を行っていた時期になります。
ちなみにこのペンシルベニア州スクラントンには他にもAMERICAN SAFETY LAMP & MINE SUPPLYとかJAMES M.EVERHARTなどという安全燈メーカーが存在しており、いずれも英国スタイルのデービー燈クラニー燈のデッドコピーを製造していたようです。ヒューズ・ブラザーズを含めてすべて金属加工屋で安全燈以前は坑帽の前に取り付ける真鍮の灯火器(OILWICK CAPLAMP)などのブラスウエアや、ほかに坑道の風速を計るアネモメーターや各種炭鉱用計測ゲージなんぞを作っていたようです。
 余談ながらこのペンシルベニア州のフィラデルフィア北東に位置するスクラントンという町はまさに時代とともに石炭で栄えて閉山で衰退していった町で、何か夕張市に象徴される「閉山凋落の町」のようです。夕張と違うのは、単に石炭を他の工業地域に収奪されただけではなく、スクラントンの町自体に早くから製鉄所が建設され、鉄道の支線も建設されて、一時は産業と鉄道交通の要地になったようです。また、町には全米で初めて1886年に路面電車が開業し、「エレクトリックシティ」という愛称までつけられていましたが、1900年代初めに原料調達の便から製鉄所がエリー湖沿岸に移転したことから、単なる採炭地として他の工業地帯に石炭を供給する町になってしまいました。さらに第二次大戦後、産業界が石炭から石油エネルギーへの転換が進んだことからこの町は衰退し、すべての鉄道が廃止され、エレクトリックシティーの愛称由来となった路面電車も1954年に無くなり、人口も最盛期の半分以下に減少し、日本の採炭地同様に凋落の道を辿っていったようです。このスクラントン周囲のワイオミングバレーと呼ばれる炭田地帯は、すべて炭化度が進んだ無煙炭の炭田だったようで、そのためメタンガスのリスクが少なくこのような旧式のデービー燈やクラニー燈でも危険度がさほど高くなかったため、かえって安全燈の技術革新が遅れたのではないかと思われます。
 さて、このヒューズ製クラニー燈を日本に持ち込んだのはどんな商社で、どこの炭鉱で使われたのでしょうか。残念ながら他の安全燈同様に特定の炭鉱を示すような刻印などはありません。しかも過去数個ほど同じ広島は芸備線沿線の町から発掘されていますが、このあたりは過去ロウ石や石灰石の露天採掘くらいしか鉱山の存在は思い当たりません。となると、隣は山口県の宇部炭田あたりからもたらされたものでしょうか。宇部近辺の炭鉱ではかなり早い時期にクラニー燈が使われていたとしても不思議はありません。なぜ、ニューカッスルスタイルのデービー燈、クラニー燈が基本のヒューズ・ブラザースにドイツスタイルのクラニー燈を作らせたのかという疑問に関しては、想像するしかありませんが、三井物産が取り扱ったドイツサイペルのサイペル式揮発油燈に外見だけ似せた「まがいもの」を日本の輸入代理店が作らせたのでしょうか?当然のことながら揮発油燈より油灯のほうが製造コストが安いですし、油灯は菜種油でも魚油でも使用出来た(実際には灯油と半々に混合していたそうです)ため、中小のヤマでは燃料入手の面からもあえてクラニー燈を使わざるを得なかったというのが真相かもしれません。ただ、揮発油燈に比べて菜種油や魚油を使用したクラニー燈はガーゼメッシュに溜まるカーボンも多く、赤熱されたカーボンがメタンガスを含む坑内通気に晒されると、たとえ風速が小さい(風速1.5m/S)ときでも燈内火焔の動揺激しく、燈外メタンガスに引火する可能性大で、きわめて危険であるという実験結果が大正期に発表された直方安全燈試験場の「各種安全燈実験成績」に出ています。


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