クラニー安全燈(炭鉱用カンテラ)Hughes Bros. Scranton PA.
クラニー燈というのは英国の医師が本業であったウイリアム・クラニーによって開発された、デービー燈の金網による燈外メタンガスへの引火防止機構を応用しつつ、炎が金網で囲われてしまったために本来の明るさの30パーセントしか利用できなかったデービー燈の暗さを腰硝子を用いることで解消した炭坑用安全燈です。日本におけるクラニー燈使用の嚆矢は早くも明治初年にトーマス・グラバーと鍋島藩の共同開発によって開鉱された長崎の高島炭鉱のようですが、すぐに土佐藩の後藤象二郎の手に渡り、近代採炭法が試されるも成功には至らず官営を経た後、土佐出身の岩崎弥太郎に譲り渡され、昭和61年の閉山まで三菱の手によって経営されてきました。筑豊地区で安全燈が使用され始めたのは以外に遅く明治30年代も中ごろの日露戦争のようで、それまでは土瓶のような形をした裸火のカンテラが使用されてきましたが、相次いで竪坑が開坑して採炭場所が深くなるにしたがい、メタンガスの爆発による災害の洗礼を受けるようになり、筑豊のヤマでも急速に裸火のカンテラから安全燈へのシフトが進んでいきます。明治40年あたりから大手のヤマを中心に煤の出る油安全燈からウルフ式を決定版とする揮発油安全燈に代わっていきますが、大正期に入ると大手のヤマを中心に充電式帽上灯(いわゆるキャップランプ)が普及していき、昭和になると安全燈は明かりとしての役目を終え、簡易メタンガス検知器としての役割になります。
今回入手した安全燈は数年前からしばしばオークション上に登場する謎の安全燈で、スタイルがまるっきりドイツのものなので、古いサイペル式ベンジン燈かと思いしや、実際はウィックピッカーで芯を上下する平芯の油灯でした。形式的にはクラニー燈ということになります。下から貫通するロックボルトが螺子でせり上がり、ガードピラーリングの切り欠き部分に嵌まり込むことで坑内で安全燈本体を分解できないロックシステムを備えますが、これもドイツの初期サイペルに多い形式です。サイペルも揮発油燈以前はクラニー燈を製作しており、当初はてっきりサイペルのクラニー燈かと思ってました。クラニー燈というと軽く110年ほどは経過している計算になりますが、金網のトップは失われ本体も一面に錆に覆われ、残っている銘板はすでに判読不能。銘板に赤外線を当て、赤外線スコープで判読を試みたところ、興味深い事実が判明してしまいました。銘板に辛うじてHughes Bros.の名前が見て取れます。ドイツ製だとばかり思っていたこのクラニー燈はアメリカの炭鉱地帯で有名なペンシルベニア州のスクラントンに存在したヒューズ・ブラザースという会社で製作されたアメリカ製の安全燈だったのです。ヒューズ・ブラザーズの名前なら当方も知っていますが、一貫して旧式のニューカッスルタイプのデービー燈やクラニー燈、一見マルソー燈のようなボンネッテッドクラニー燈などを製造しています。しかし、独自の改良型安全燈を開発するような技術力がこの会社には無かったようで、アメリカの炭鉱でもウルフ安全燈やケーラー揮発油安全燈などが鉱山監督局の形式認定を取得し、各炭鉱に普及したことにより安全燈のビジネスから退いてしまったようです。それでなくとも鉱山保安監督局からデービー燈やクラニー燈の流動メタンガスに晒された場合の危険度がリポートされていたでしょうし、エジソンによって発明された帽上蓄電池灯が普及してからは、尚更旧式安全燈の製造は衰退してしまったのでしょう。終末期になるかどうかは知りませんが、1915年のヒューズ・ブラザースの広告に旧式デービー燈やクラニー燈が掲載されています。しかも英国スタイルの安全燈に混じって今回のようなドイツスタイルのクラニー燈が載ってました。1915年というと日本でも直方の安全燈試験場(後の直方石炭坑爆発予防試験場)で盛んに各種安全燈の危険度実験を行っていた時期になります。
ちなみにこのペンシルベニア州スクラントンには他にもAMERICAN SAFETY LAMP & MINE SUPPLYとかJAMES M.EVERHARTなどという安全燈メーカーが存在しており、いずれも英国スタイルのデービー燈クラニー燈のデッドコピーを製造していたようです。ヒューズ・ブラザーズを含めてすべて金属加工屋で安全燈以前は坑帽の前に取り付ける真鍮の灯火器(OILWICK CAPLAMP)などのブラスウエアや、ほかに坑道の風速を計るアネモメーターや各種炭鉱用計測ゲージなんぞを作っていたようです。
余談ながらこのペンシルベニア州のフィラデルフィア北東に位置するスクラントンという町はまさに時代とともに石炭で栄えて閉山で衰退していった町で、何か夕張市に象徴される「閉山凋落の町」のようです。夕張と違うのは、単に石炭を他の工業地域に収奪されただけではなく、スクラントンの町自体に早くから製鉄所が建設され、鉄道の支線も建設されて、一時は産業と鉄道交通の要地になったようです。また、町には全米で初めて1886年に路面電車が開業し、「エレクトリックシティ」という愛称までつけられていましたが、1900年代初めに原料調達の便から製鉄所がエリー湖沿岸に移転したことから、単なる採炭地として他の工業地帯に石炭を供給する町になってしまいました。さらに第二次大戦後、産業界が石炭から石油エネルギーへの転換が進んだことからこの町は衰退し、すべての鉄道が廃止され、エレクトリックシティーの愛称由来となった路面電車も1954年に無くなり、人口も最盛期の半分以下に減少し、日本の採炭地同様に凋落の道を辿っていったようです。このスクラントン周囲のワイオミングバレーと呼ばれる炭田地帯は、すべて炭化度が進んだ無煙炭の炭田だったようで、そのためメタンガスのリスクが少なくこのような旧式のデービー燈やクラニー燈でも危険度がさほど高くなかったため、かえって安全燈の技術革新が遅れたのではないかと思われます。
さて、このヒューズ製クラニー燈を日本に持ち込んだのはどんな商社で、どこの炭鉱で使われたのでしょうか。残念ながら他の安全燈同様に特定の炭鉱を示すような刻印などはありません。しかも過去数個ほど同じ広島は芸備線沿線の町から発掘されていますが、このあたりは過去ロウ石や石灰石の露天採掘くらいしか鉱山の存在は思い当たりません。となると、隣は山口県の宇部炭田あたりからもたらされたものでしょうか。宇部近辺の炭鉱ではかなり早い時期にクラニー燈が使われていたとしても不思議はありません。なぜ、ニューカッスルスタイルのデービー燈、クラニー燈が基本のヒューズ・ブラザースにドイツスタイルのクラニー燈を作らせたのかという疑問に関しては、想像するしかありませんが、三井物産が取り扱ったドイツサイペルのサイペル式揮発油燈に外見だけ似せた「まがいもの」を日本の輸入代理店が作らせたのでしょうか?当然のことながら揮発油燈より油灯のほうが製造コストが安いですし、油灯は菜種油でも魚油でも使用出来た(実際には灯油と半々に混合していたそうです)ため、中小のヤマでは燃料入手の面からもあえてクラニー燈を使わざるを得なかったというのが真相かもしれません。ただ、揮発油燈に比べて菜種油や魚油を使用したクラニー燈はガーゼメッシュに溜まるカーボンも多く、赤熱されたカーボンがメタンガスを含む坑内通気に晒されると、たとえ風速が小さい(風速1.5m/S)ときでも燈内火焔の動揺激しく、燈外メタンガスに引火する可能性大で、きわめて危険であるという実験結果が大正期に発表された直方安全燈試験場の「各種安全燈実験成績」に出ています。
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