小柳式安全燈(炭鉱用カンテラ)Type Koyanagi's Flame Safety Lamp
日本国内で製造された炭鉱用安全燈というと江戸商会の横田式と横田式改良型の江戸式、本多商店の本多式(ウルフ式のデッドコピー)くらいしか文献や実際の物をいろいろ探しても見当たりませんが、実際には産炭地周辺の金属加工業者の手でデービー燈やクラニー燈あたりの旧式灯油安全燈が製作された例もあったのでしょうか。しかし、炭鉱とともにすでに歴史に埋もれてしまい、それらの実態を知ることはなかなかかなうことではありません。今回発掘した安全燈はそういう名も知れない金属加工業者の旧式灯火器とは違い、主に炭鉱用の金属加工品等を製造していたと思われる東京の合資会社小柳金属品製作所という会社が製造した小柳式安全燈というもので、基本的には外国製安全燈のコピーながら独自のアレンジが加えられて、日米欧などの特許を取得しているようです。ところが、炭鉱技術の文献をあさっても、大正期に直方安全燈試験場で行われた各種安全燈試験結果を探しても小柳式安全燈というのは出てきません。現在東京には大田区と小平市に小柳製作所という金属加工の会社がありますが、この小柳金属品製作所とは直接関係は無いようです。当方がわかる限りでは、唯一の直方の安全燈試験場に納入された「安全燈静止瓦斯試験機」が東京小柳製という記録があり、小柳金属品製作所が製造した金属加工品が炭鉱と浅からぬ因縁があったことは間違いないようです。割と簡単に過去検索できるアメリカのパテントを調べると早くも明治44年8月22日付けで東京のICHITARO KOYANAGIの申請した安全燈の「閉鎖機構とバーナー設計」に関して特許No.1001052号が認められていました。日本では他に安全燈に関して世界的にパテントを申請した会社はなく、まるっきりウルフ式揮発油燈のメカやデザインまでパクった本多商店の「本多式」が日本における安全燈の標準になるのですから皮肉なものです。
この小柳式安全燈の特徴としては、丸型ボンネットの両脇にガードメッシュで覆われた透明な窓が設けられていることで、このことでメタンに晒された炎が腰硝子上の金網にまで達してもどこまで炎が伸びたのか、どれだけ金網が赤熱されたのかが観察できるということが特徴となっています。セノー式やピーラー式瓦斯検定燈と異なり、たとえ金網にまで伸長した炎を観測できたとしてもその長さを正確に測るゲージがあるわけではなく、メタンガス濃度検定用としては中途半端、坑内の明かりとしては側面透明窓などの破損リスクが大きく、またウルフ揮発油燈のような再着火装置を持たなかったために簡易メタンガス測定用具としても使いにくかったのでしょう。さらにエジソン型の帽上蓄電池燈の普及期にあって大手の炭鉱では照明もより安全な防爆電気照明が大量に採用されていった時期と重なりますので、この小柳式安全燈が実際に製造された数量はかなり少ないのかもしれません。また、小柳金属品製造所のその後の動静が不明のため、関東大震災によって江戸商会同様、この小柳製作所も甚大な被害を受けて廃業してしまたのではないかと思ってました。しかしこの小柳金属品製作所の顛末は意外な結果となっていたことが後にわかりました。
大正5年1月から大正7年3月までに実施され大正9年3月に発表された直方安全燈試験所の各種安全燈試験成績の中に江戸式同様に小柳式の試験記録もありません。余談ながらこの試験成績で江戸商会の横田式安全燈がメタンガスを含む通気に晒された場合に火焔の動揺が大きいとの指摘を受けたため、腰硝子上のリングに吸気スリットとバーナー周りに導風盤を設けた横田式の改良型が江戸式のようです。
入手先は福岡県の最南部の大牟田市。音に聞こえし三井三池炭鉱のお膝元ですから当然のこと一度は三池炭鉱で使用されたものなのでしょう。解体家屋からこんなものが出てくるなんて、さすがは歴史ある石炭の街です。実は当方、三池炭鉱には2度ほど訪れており、2度目は1997年3月末の三池閉山3日前のことでした。当時は隣の高田町の有明坑に繰込場があって、坑内員はここから海底部の坑内に降り、海底の運炭坑道を通って三川坑側に石炭を運び出していました。閉山まであとわずかだというのに、三川坑側では相変わらず凸型の電気機関車が牽引する石炭貨車にホッパーから石炭が落ちる騒音が響き渡ってました。三池港外の貯炭場周りの道路に落ちていた石炭をひとかけらいただいてきましたが、惚れ惚れとするような漆黒の瀝青炭でした。しかし、カロリーは高いのにもかかわらず、硫黄分が多いことが三池炭の欠点だったと言われています。閉山からすでに十数年が経過し、三川坑側の選炭設備もすっかり撤去されて更地になったようで、今では熾烈な三池闘争の痕跡を想像することも難しくなってしまったようです。当時はまだ単独運行だったブルートレインのはやぶさで大牟田駅から東京駅まで帰ってきたのも今では昔話になってしましました。(宇宙探査機はやぶさは小惑星イトカワの塵を持ち帰り、ブルートレインはやぶさは三池炭鉱の石炭のカケラを持ち帰った訳です)ブルトレB個室の中で、大牟田駅前の百貨店食料品街で買い求めたタイラギの貝柱と海茸の刺身を大牟田駅のキオスクに置かれていた瀬高の「園乃蝶」というカップ酒で飲むのは格別でした。その「園乃蝶」も今は廃業してありません。また、大牟田の駅弁屋も百貨店もいつのまにか廃業してしまったようです。
三池炭鉱の話に戻りますが、三井鉱山系の三池炭鉱は筑豊の本洞、田川の両炭鉱とともに三井物産が輸入したドイツのサイペル式揮発油燈が明治の41年(1908年)年に入っており、おそらくその後もいろいろな安全燈を試していたのでしょう。その中のひとつが取引のある小柳金属品製作所の小柳式安全燈だったのかもしれません。そして各種揮発油燈を試した結果、結局はウルフ式安全燈の使用に落ち着くのでしょうが、すぐに輸入・国産の帽上蓄電池燈が台頭してきて揮発油安全燈の明かりとしての役目は長くはありませんでした。この小柳式安全燈が手元に届いてまずわかったことは、なんと平芯の油燈式安全燈だったことで、形式的にはマルソー式安全燈に分類されるものであることです。そのために再着火装置がありません。また芯は一般的な英国製カンブリアンタイプのような4分芯ではなく7分芯ほどの幅広の芯が付いており、さぞかし明るかった代わりに燃費が悪かったはずです。どうりで揮発油燈のような分厚い油壷が付いているわけです。ガードピラー根元のリング部には何らかのロックシステムが仕込まれているようで、これがパテントの対象になった閉鎖機構なのかもしれませんが、どういうロックシステムになっているのかさっぱりわからず、すぐには分解出来そうもありません。何らかの磁気ロックシステムなのかもしれませんが、磁気ロックはウルフのパテントを回避して新たなパテントを得ることが出来たのかどうか。このリング部には1351の数字が打刻されていて、これは安全燈の管理番号でしょうから、ある程度の数がまとめて三池で使われたことが伺えます。結論としてこの小柳式安全燈は揮発油安全燈以前のアーキテクチャーということになり明治末期の製品となるのでしょう。となるとパテントの申請時期はかなり早かったのだけど、実際にパテントも降りた頃にはすでに一世代前の安全燈ということになってしまい、輸入のウルフ揮発油安全燈やサイペル揮発油安全燈、そして横田式や本多式などの国産揮発油安全燈のライバルともなりえなくて、人知れず日本炭鉱技術史の記録に残らず消えてしまったのではないかと想像します。これが揮発油燈だったら各種安全燈試験の対象になってもおかしくはないのでしょうが、安全燈静止瓦斯試験機が小柳製なのに、試験対象に小柳式安全燈がないというのも皮肉なものです。もっとも小柳金属品製作所は自身の安全燈開発のために設計したのがこの安全燈静止瓦斯試験機だったのでしょうけど。また気流瓦斯試験機のほうはさすがに外国製だったようです。
銘板をよく見ると小柳金属品製作所の所在地は東京市京橋区新佃西町となっているので調べたところ、いろいろ住居表示に変遷はありますが、現在の中央区佃2丁目のあたりでしょうか。場所的に考えると旧石川島造船所の下請け的な仕事もあったのかもしれません。佃島はいまや高層マンションが林立していますが戦前は漁師の町で、昭和39年まで対岸から渡し舟が通ってました。戦災を免れたこともあって二十数年前までは住吉神社近辺に細い路地があり戦前の木造住宅が多く残る非常に味のあるいい町でした。よく古いカメラを持って路地から路地を歩き回っていたことがあるのですが、もしかしたら知らずに小柳金属品製作所跡を通り過ぎていたかもしれません。
ここにきて神戸大学図書館がデジタル化してくれた興味深い古い新聞記事に行き当たりました。中外商報大正6年7月11日のものですが、要約すると小柳金属品製作所は職工500人を抱える近辺でも屈指の工場であったが、前月に会計主任の小口某が(当時の金額で)三万円を横領していたのが発覚し憲兵隊に検挙されたことで出資者数名が善後策の検討を工場主に迫るも工場主はこれを放擲し、また職工たちも物価高騰の折、賃上げを要求するもこれもそのまま放置し、賃金支払日の10日になって突然表門に「機械修理のため臨時休業」云々の張り紙を出し職工の大半を解雇することを聞き知った多数の職工が表門に押し寄せたのを月島署が警戒しているというものです。たぶんこの日を以って小柳金属品製作所は事業停止になってしまったのでしょう。また別の記事によると、この小口某というのは花柳界に出入りしてこの会社の運転資金三万円を使い込んだとあります。従業員500人を抱える近辺でも屈指の大工場というと新聞記事に書かれていましたが、この記事より3年前の大正3年の東京府工場統計によるとこの時点での従業員総数はたったの20名ですので、「従業員500人の近辺では屈指の工場」というのは相当大げさに書かれたようです。この規模なら小工場の部類で、このとき同じ町内の石川島造船所は従業員1049名の当時としては正真正銘の大工場です。また製造品目も鉱山燈ブリキ缶装飾金具というような小柳式安全燈以外は取り立てて技術的にどうのこうの言うような製品ではなく、実際にはちょっと規模の大きい板金屋という程度の技術力の会社だったのでしょうか。この合資会社小柳金属品製作所は、結局事業継続資金に窮し、債権者によって清算させられ、工場敷地ともにどこかに売却され、現在は高層マンションが林立している大川端リバーシティー21の一部になっているというのが正解なのかもしれません。石川島造船所はこの翌年大正7年から第一次大戦の戦災による船腹不足で造船事業が大幅に増収増益して事業基盤を確固たるものにしていきますが、このおこぼれに少しでもあずかっていれば小柳金属品製作所も昭和の恐慌までは生き残っていたかもしれません。
ところで、同じ東京府工場統計の神田区のところを調べても江戸商会というのは掲載されていません。横田式や江戸式の江戸商会という会社はどうやら工場を構えていたわけではなく、完全な問屋というか商社を神田区の今川小路に構えていたようです。ということは、横田式や江戸式などの江戸商会製安全燈は自身が製造所を兼ねていたわけではなく、どこか別の下請けに作らせていたということになり、そうなると俄然、横田式安全燈に関しては小柳金属品製作所の関与が疑われます。どうりでなんとなく小柳式と横田式および江戸式は加工や仕様にある共通点が感じられるのですが、もしかしたらというかかなりの確率で江戸商会がこの小柳金属品製作所の出資者の一つであり、小柳金属品製作所に横田式や安全燈検査機などの付属物を製造させていたとなれば、小柳金属品製作所の主要製品のトップが「鉱山燈」で、従業員も20人以上いたとしてもおかしくないのでしょう。さらに江戸商会はこの小柳金属品製作所騒動後の大正8年に東京で開催された「災害防止展覧会」に出展してますが、そこに横田式とならんで丸型と鎧形のウルフ式揮発油燈ならびピーラー式検査燈に開錠装置や検査装置、整備機械などを展示しています。元から輸入のウルフ式揮発油燈の国内販売代理店となっていたのかもしれませんが、それよりコストの安い国産の横田式揮発油燈と二本立てで商売をしていたことになります。このときまだ横田式の改良型である江戸式はまだ完成していないようですが、この時点ですでに小柳金属品製作所は存続していないと思われるので、この江戸商会は安全燈製造に関する製造設備を小柳金属品製作所から引き上げ、別な業者に渡して横田式安全燈の生産を継続したのではないかとも考えられます。しかし、正規の輸入品ウルフ式揮発油燈を扱っていた江戸商会にとっては、となり日本橋に店を構えてウルフ式丸パクリの本多式揮発油燈を大々的に売り出し、本家ウルフ揮発油燈のシェアを席巻したコピー品販売の本多商店はまさに商売敵以上の存在だったのでしょう。本多商店は関東大震災後から現在に至るまで存続していますが、江戸商会は関東大震災後その動静が途絶えます。まさか小柳金属品製作所は本多商店からの発注を受けて本多式揮発油燈の製造にまで係わってはいなかったでしょうが、もしそうであればこの小柳市太郎という人物は策士です。それで従業員が3年で20人から500人に急成長を遂げたということは現実的には考えられないでしょう。もっとも第一次大戦特需で軍需品の生産に手を染めていたとすると話は別で、従業員が20人からいきなり500人に増えてもおかしくはありません。それくらい従業員がいないとなかなか三万円という資金を会計主任が着服できないかもしれません。
ちなみに東京府工場統計をよくよく調べ返してみると、小柳金属品製作所と同じページに個人商店時代の「本多船燈製造所」というのが出てきました。八丁堀というと旧日本橋区だとばかり思っていたら京橋区に属しており所在地は本八丁堀五丁目で本多敏明という人の個人商店です。後の大正六年に本多商店と改組されるようですが、この時点で従業員は20人で小柳金属品製造所と規模は殆ど変わりません。製造品目は鉱山用安全燈及船燈ということで、船舶用の標識燈などの製造も行っていたようです。
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