本多船燈製造所製クラニー安全燈(炭鉱用カンテラ)
北海道には沢山の炭鉱が操業していたわけですから、さぞかしいにしえの炭鉱の忘れ形見といえる数々の炭鉱用カンテラ、すなわち安全燈が残っていそうなものですが、実際に出てくるものというと後々まで簡易メタンガス検知に使用された本多商店改め本多電気製ウルフ揮発油燈ばかりです。それというのも北海道の炭鉱は九州の炭鉱と異なり大手の会社によって近代的な設備が逐次導入された炭鉱が殆どだったからか、安全燈の使用も早かったかわりに充電式帽上燈に切り替わるのも早く、大正期の中ごろを過ぎた頃にはウルフ揮発油燈でさえも明かりとしての役目を帽上燈に譲り渡して、自らはメタンガス検知としての役回りに退いてしまったからでしょうか。そのため、100年以上前のテービー燈やクラニー燈などの旧式灯油安全燈が北海道内から出てくることは非常にレアなケースです。今回入手した旧式のクラニー燈は深川の4代続いた農家の納屋にひそかに眠っていたというもので、へたをすると一世紀もそのまま納屋に収まっていた物なのかもしれません。日露戦争直後の道内主要炭鉱の安全燈使用状況を調べると北炭の夕張炭鉱ではすでに切羽に最新の輸入品ウルフ揮発油燈が導入され、運搬坑道などのガス気の少ないところでクラニー燈が補助的に使用されたということが書かれており、当時すでにクラニー燈は第一線から退いていたころがわかります。その後続発する重大ガス爆発事故を受けた直方の安全燈試験所などの実験により、ボンネットのないクラニー燈はメタンガスを含む風速2メートル程度の坑内通風で筒外に引火する危険性大で、さらに風速3メートル・メタンガス濃度4~5%の状態で必ず筒外ガスに引火し、きわめて危険という判定を受け、乙種と分類される炭鉱でこれら旧式油燈を使用するところはなくなりました。
旭川から届いたクラニー燈はニューカッスルタイプとでもいうべき英国型のクラニー燈で、ウイックピッカーという鉤状の針金で棒芯を上下する棒芯式の油燈でした。ロックシステムは古いリードリベットロックで、毎回ごとに鉛のリベットで封印し、安全燈使用後にはリベットの頭を切り落として開錠するという簡易なものですが、もちろん南京錠を使用することもできます。金網(ガーゼメッシュ)のガードピラーはたったの3本で、腰硝子のガードピラーは6本です。風除けボンネットのないクラニー燈は金網がむき出しですが、今残るクラニー燈の殆どは金網の上部が腐食で失われています。それというのも金網の上部はそれでなくとも炎に晒されて酸化し劣化しているのに加えて、長年の保管でむき出しの金網上部は埃がたまりやすく、その埃が湿り気を帯びてついには金網を酸化により腐食脱落させてしまうのが原因かもしれません。ボンネットで覆われているタイプの古い安全燈はその点、金網上部の喪失率はさほど高くありませんし、たとえ金網が喪失していても外観的にはわかりませんし。
このクラニー燈は油壷を外してもどこにも刻印のようなものがありませんでした。リードリベットロックのリング外周に番号札のようなものがロウ付けされていたような痕がありましたが、銘板などが付くスペースもありません。英国製の安全燈であればメーカー名や形式くらいの刻印はありますし、よっぽど古い安全燈でないかぎり腰硝子に硝子のサイズや製造元名が焼付ペイントされています。また切れないバイトの痕が残る工作の稚拙さなどから見てもどうもこのクラニー燈は「国産」の可能性が非常に高いように思われました。明治の末には東京に「鉱山燈」を製造している工場が複数存在していましたし、このクラニー燈は早くも幕末には日本に伝来していて、明治一桁台の年代にはトーマス・グラバーの手により高島炭鉱で使用されたことが確認されていますので、クラニー燈の国産化は割りと早くから行われていたのかもしれません。しかし、より安全なウルフ揮発油燈が発明され、主要炭鉱では揮発油燈が大量に使用されるようになったことから日本の鉱山燈製造工場も国産の揮発油燈製造を試みますが、結局は横田式などのオリジナル品製造販売の江戸商会を圧倒し、輸入の揮発油をも駆逐したのは節操なくウルフ揮発油燈を完全複製した本多商店の「本多式揮発油燈」だけです。
このクラニー燈の構造ですが吸気は上部の金網から腰硝子の周りを伝って芯にともった炎に吸気し、排気は金網の上部から抜けてゆくという単純な構造です。また腰硝子と金網はアスベストのパッキングを介して気密を保っていますが、腰硝子はガードピラー根元のリングの内側に切られたねじリングによって金網側に締め上げられており、油壷と分離したときに腰硝子が落ちてくることがありません。このあたりは横田式などと同様に油壷とガードピラーリングの間の気密性に問題があり、直方の安全燈試験結果を見ても「危ないから使うな」とでもいうような試験結果しか残っていません。ところでこのクラニー燈には坑木に打ち込むための鉤(ひあかし棒=火明し棒)が別途取り付けられていましたが、これは金属鉱山同様の裸火のカンテラ時代に作られたものを安全燈に流用したもので、鍬や鎌を作る野鍛冶の手によるものから鉱山の営繕場(主につるはしなどの焼きいれなどの仕事場)で作られたものまで多種多様のものがありますが、金属鉱山ではカーバイドランプに取り付けられたものが良く残っています。
そしてこのクラニー燈が国産である証拠をついに見つけました。笠のところに「CHONO TOKYO」?とでも判読できそうな刻印が打たれていたのです。さらにNの活字が裏返っているのはさすがは明治時代の産物とでもいうべきものなのでしょうか。これで確かにクラニー燈あたりの旧型安全燈は輸入品だけではなく国内で製造されてきたことが証明されました。この刻印がどういう会社のものだったのか調べがつきませんでしたが、小柳製作所にしても本多船燈製造所にしても大正初期でたかだか従業員数20名の会社ですから同程度の金属加工業者なことは確かでしょう。
打刻が不鮮明で判読しにくい「CHONO TOKYO」の正体を知ろうと、またしても大正4年版の東京府工業統計をくまなく探してみても鉱山燈に関連する工場は小柳金属品製作所と本多船燈製造所のほかはカーバイド燈製造の東京旭商会工場くらいにしか行き当たりません。それで刻印を再度いろいろな角度から検証するとどうも「T.HOND TOKYO」と見え始めてきました。語尾にあるべきAが判読できませんが、となるとどうやら明治時代に東京は京橋区本八丁堀五丁目にあった当時の名称が本多船燈製造所(当時はまだ個人商店)、後の本多電気が製造したクラニー燈であるということになります。大正4年の事業主は本多敏明、従業員は21名で、工場の規模としては佃島の合資会社小柳金属品製作所とほとんど変わりません。当時の本多船燈製造所は自前の揮発油燈開発をせずに後にドイツのウルフ揮発油燈を節操なく丸パクリし、国内の炭鉱に大量納入して企業基盤を作り、さらには帽上燈などの電気照明に進出するのですからさすがというかなんというか…。とはいっても国内の炭鉱資本からウルフ揮発油燈と同じものを安く納入出来たら大量発注するというような働きかけがあったことは確かでしょうし、この時代の日本では舶来品の丸パクリがいけないことという意識はまったくなかったはずです。むしろ舶来とまったく同じものが製造できたということが、技術力の証とされていたのかもしれません。しかし、直方の安全燈試験場の試験結果をみると当時の本家輸入品ウルフ揮発油燈と国産本多式揮発油燈との間には材料や工作精度などの問題か、防爆性にあきらかに差があったようです。さて、北海道に限らずこのクラニー燈やカーバイドランプ、発破の穴繰りに使うせっとうや鏨、採炭に使用した片鶴嘴などの古い鉱山の道具類などは全国的によく農家の納屋の中から発見されます。それだけいにしえの日本には鉱山が無数に存在していた証拠なのですが、今みたいにホームセンターに行けば必要な道具が手に入る時代と違って、こういう鉱山払い下げの道具類を扱うぼろ市のようなマーケットが存在していたのでしょうか。このクラニー燈があった4代続いたという深川の農家も、昔は提灯代わりに水田の見回りなどの用途で活用していたのかもしれません。通常は棒芯が使われたものですが、このクラニー燈の芯は晒し布が丸められたもので代用されていました。
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