本多式普通型ウルフ安全灯(炭鉱用カンテラ)
福岡県南部の大牟田から熊本県北部の荒尾にかけて鉱区を持っていた三井の三池炭鉱は江戸時代から石炭が採掘されていた国内でも最古の歴史を誇る炭鉱のひとつでしたが、惜しくも1997年の3月に閉山となりました。実は当方、現役最後の三池炭鉱の様子を見ようと閉山数日前に大牟田に入り、三川坑周辺をカメラを抱えて歩き回っていましたが、絶えず選炭装置のホッパーからガラガラと音を立てて凸型の電気機関車に牽引される石炭列車に積み込まれる様子は数日後にはまったく活動を止めてしまうような感じはまったくありませんでした。それ以来、大牟田には訪れたこともありませんが、いくら三井の企業城下町とはいえその中心だった三池炭鉱の閉山により大牟田の町は人口流出によって相当寂れてしまったという話は、たまにつながるアマチュア無線の交信で大牟田の人から聞いています。
その歴史ある三池炭鉱ですが、明治の時代に政府から三井財閥が払い下げを受けたのち、近代化に着手していきますが、その過程で外国から最先端の設備装備を導入しています。
こと安全燈に関しては明治期大正期の絵葉書や記録などから推測すると、初期には油灯のクラニー燈が使用され、明治の41年にドイツのザイペル式揮発油燈が使用されたのちにウルフ揮発油燈の使用に至ったというのが時系列ですが、三池の安全燈整備作業の写真が残っており、そこには丸型ボンネットの付いたおびただしい数のおそらく丸型のボンネッテッドクラニー燈(平芯なのでたぶん国産の油燈と推察される)が記録されています。その他色々な安全燈が試用されており、当方が三池で使用された小柳式安全燈を入手した同時期に安全燈界の鬼才・ヘイルウッドのパテントによる英国アイクロイド&ベスト社の電気着火式のオールアルミ製油灯なんかまで出てきました。このオールアルミニウム製安全燈というのは、坑道掘進の際の測量に使用する磁気コンパスを狂わせないために必要だったんだそうですが、当時の日本ではアルミニウムの精錬はおろかアルミニウムの加工技術なども従業員たかだか20人規模の本多船燈製作所や小柳金属品製作所の手には負えなかったらしく、国産のオールアルミニウム安全燈は見たことも聞いたこともありません。もっとも蓄電池式帽上燈が出てきてからコンパスを狂わせないオールアルミ安全燈をわざわざ使用する必要もなくなりました。
今回熊本から入手した丸型ボンネットの安全燈もいにしえの三池炭鉱坑内で使用されたもので、腰硝子も失われたまさに残骸というべきものでしたが、まったく読めなくなった楕円の銘板が残っており、この銘板が解読出来れば三池で使用された安全燈の新事実が明らかに出来そうな気がして、その興味だけで入手したものです。さすがにランプとしての原型をとどめていない安全燈を欲しがるランプマニアはいないらしく、1000円でなんなく落札することができました。届くまではもしかして小柳金属品製作所が製造した平芯のボンネッテッドクラニー燈じゃないかとも考えましたが、ウルフパテントの磁気ロックが付いているのがわかっているため、国産のウルフ燈の類に間違いはなく、届いた安全燈は間違いなくウルフ揮発油燈でした。楕円の銘板は真っ黒に腐食しているエッジング板で、かろうじてTOKYOの文字が解読できるので国産のウルフ燈です。磁気ロックがちゃんと生きていますが、ゴムのような詰め物をして爪が油壷にかみ合わないよう細工されているので、難なく分解できました。銘板の解読ですが、少し研磨剤をつけたウエスで擦ってルーペで拡大してみると菱形にHのマークとHONDA & CO.,TOKYOの文字がかろうじて確認できましたので、本多商店時代の丸型ウルフ揮発油燈であることが判明しました。磁気ロック横のリングに968、油壷のリングに899の番号が打刻されていて、上下がアンマッチングであることがわかりますが、この番号からしても相当数の本多式ウルフ燈が三池炭鉱に納入されていたことがわかります。再着火装置はパラフィンマッチ式ではなく一般的な発火金属をやすり車で擦って火花を出すライター式です。
銘板からすると本多船燈製作所から本多商店に改組した大正6年以降の製品だと推察できます。当時は坑内の明かりとして使用されるウルフ燈や国産のウルフコピーは丸型ボンネットのものが殆どだったのですが、直方安全燈試験場の気流試験などの実験結果から鎧型のウルフ燈が最適ということが判明してのち、さらに坑内の明かりが蓄電池式帽上燈に変わってからはウルフ燈の役目も簡易メタン瓦斯検知器として使用されるようになってからは丸型ウルフ燈は製造されず、すべて鎧型のウルフ燈になってしまったようです。そのため、丸型ウルフ安全燈は鎧型ウルフ安全燈に比べて残存数が少なく、さらに程度の良いものも少ないように感じます。本多商店製造であることが辛うじてわかった楕円銘板ですが、後年の本多製楕円銘板と異なり、下端にパテントナンバーらしきものが入っています。ウルフ揮発油燈をそのままコピーしておきながらパーツの形状が異なる部分などを日本国特許として申請したのかその厚顔無恥ぶりに少々あきれるような気がしますが、何とか解読を試みると特許14836号だということが判明しました。この特許は明治末期に取得された小柳式安全燈の第17258号と第20483号より古く、HEMMI計算尺が明治45年に取得した第22129号よりも古いことになりますので、推定でも明治30年代末期から明治40年代初期の古い特許ということになります。特許の内容を知りたいところですが、ネットからは簡単には調べがつきませんでした。しかし、この特許によって他社を牽制し、油燈式のクラニー燈から揮発油燈への変換期に「本多式揮発油燈」として国内の炭鉱におけるトップシェアを席巻し、他社がたどり着かなかった蓄電池式帽上灯製造に業種変換してしまったのですからたいしたものです。しかし、この本多式揮発油燈を分解していくうちに一箇所だけ本家ウルフと異なる点を見つけました。それは油壷側の吸気リングがボンネット下端の磁気ロックリング部分とかみ合う機構があり、そのため、分解すると腰硝子がボンネット部分から落っこちてこないという利点があります。これはボンネッテッドクラニー燈までは一般的で、腰硝子をロックリング側からリングのネジで固定するのは横田式などでも同じですが、本多式揮発油燈は下端吸気リングに突起があり、同じく磁気ロックリング側にはこの突起がはまる溝が切られていて、腰硝子をはめ込んだ下吸気リングの突起を溝に合わせてほんのわずか捻ってやると固定されるという一種のバヨネット式腰硝子固定システムです。本多式独自の部分というとこれくらいしか見当たらないので、この部分の特許が第14386号だったのかもしれません。しかし、直方安全燈試験場の試験結果を見ると本家輸入のウルフ燈と比べて瓦斯通気試験における火炎の動揺などが大きく、この部分と油壷の結合に問題ありと判断したのか、後の本多式揮発油安全燈にはこの腰硝子ロックシステムが廃され、一般的な本家ウルフ揮発油燈そのままになりました。よく研究されて改良され完成したシステムを、理屈もわからずに勝手に手直ししてはろくなことがないという教訓みたいなものです。のちの本多式揮発燈の楕円銘板にはパテントナンバーがありません。当初から予測はしていましたが、腰硝子のサイズまでが本家ウルフ揮発油燈とコンパチで、後年の本多製ウルフ揮発油燈ともまったく同サイズだったため、部品取りに集めておいた戦後のウルフ燈から腰硝子を調達し、組み立ててみると見事に当時の姿がよみがえりました。
ところで実際に坑内で使用された古い安全燈は本来は正円形のつり鉤が横にひしゃげているものが多く、いままでは考えもなく全てオリジナルの形に整形していたのですが、同じようにひしゃげている今回のものを良く観察すると、どうも工場だしのものだと実際に坑内で使用するとき、坑木などに打ち込みにくいため、現場の坑夫が吊り鉤を横にオフセットさせ、さらに先端を尖らせるという加工を施したものだということがわかりました。そのため、今回はあえて整形せずにそのままにしておきました。
ところで、昔の資料から面白い記述を見つけました。明治から大正に年号が変わり、2年も経たない大正3年に第一次世界大戦が始まり、ウルフ安全燈の再着火のためのパラフィンマッチ(細い布管に癇癪玉のようなものが一定間隔で詰められているようなもの)が欧米からまったく入ってこなくなり、このパラフィンマッチを国産化しようとしたもののまったく実用にならず、そのためその時期にウルフタイプの揮発油燈ながら再着火装置を省いてしまったもの(横田式など?)が出回ったんだそうで。発火金属着火式(ライター式)は再着火の際、火花が金網の外に漏れてメタンガス爆発を起こす危険性が指摘され、元来イギリスとベルギーでは使用禁止だったという話ですが、本多商店だけはこのライター式の再着火装置をコピーしてパラフィンマッチ式の再着火装置と交換可能にしておいたらしく、そのため、今回の丸型ウルフは元来パラフィンマッチ式再着火装置だったものが新たにライター式に交換された個体だったのかもしれません。
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