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July 25, 2013

FUJI No.1280-S 工業高校用計算尺

 一般向けHEMMI計算尺の製造が実質的に終了した昭和50年以降、昭和53年まで継続して販売され続けたのがFUJIの計算尺ですが、当然のことながら工業高校特納扱いで片面尺も両面尺も「工業高校用」のシールがつけられました。しかし、No.1280シリーズは内容的には工業高校生にはもったいないくらい機能が充実し、日本製計算尺の終末期を飾るにふさわしいものになっています。以前、未開封新品のNo.1280-Tという26尺装備のフルログログデュープレックスを入手してますが、もったいなくてとても使う気になれず、手軽に使用可能な中古のNo.1280-TかNo.1280-Sが欲しいと思っていたのですが、元来終末期のFUJIの両面計算尺はさほど出回っているわけではなく、さりとてあんまり高い金額を払う気もなく、何年か経過して今回3本まとめて1,100円で落札した一本がFUJIのNo.1280-Sでした。No.1280-Tと比べるとLL-0とLL0が省略され、T尺が2分割になっておらずST尺になっている等の違いがありますが、P尺も備え裏面カーソルにはしっかり副カーソル線まで備えるというなかなかの高級両面計算尺です。表面からLL-1,LL-2,LL-3,DF,[CF,CIF,CI,C,]D,LL3,LL2,LL1の12尺、裏面がL,K,A,[B,ST,T,S,C,]D,DI,P,の11尺の合計23尺で、裏面のA,B,C,D,尺は延長尺を持つため全長33.5cmもあり、身幅も4.9cm余りある幅広の計算尺です。角度の単位は1度が60秒分割です。末期のFIJI 両面計算尺の分類は非常にわかりづらいのですが、角度の単位が60分割のものがNo.330-DとNo.1280-Sおよび数はすくないながらNo.1280-D、100分割のものがNo.1280-Tとなります。そのうち、No.330-DにST尺を追加した発展形がNo.1280-S、フルログログデュープレックスで角度60分割がNo.1280-D、100分割がNo.1280-Tとなるのですが、このうちNo.1280-D自体、なぜか過去に1本しか見たことがありません。デッドストックで出てくるものの殆どはNo.1280-SとNo.1280-Tの2種類で、昭和50年代に突入し、工業高校でも関数電卓を使い始めた学校も多くなり、店頭在庫が売れ残って今に至ったのが真相でしょうか。とはいってもHEMMIのデッドストック出現率に比べると生産数が少ないせいなのか文具店などでデッドストックに遭遇する確率はきわめて低確率です。以前より国内よりも海外向けOEMやHEMMI向けのOEMなどが主力で、国内向けに販売された量がそもそも少ないのが理由です。
Fuji 末期FUJI両面計算尺の特徴として机の上に置いてカーソルと滑尺操作が無理なく行われるように分厚いプラスチックのブリッジと反対側にも丸いゴム付きの足がついています。そこまでデスクトップでの使用にこだわる意味がわかりませんが、尺本来の厚みともあいまって、何ともぼってりした印象の計算尺で、さらに塩化ビニール素材ということでかなりの重量もあり、好みが分かれるところです。ケースは緑蓋のポリエチレンブロー成型のケースですが、これには二種類あって、初期(40年代末期)までが模様が細かい縦線になってるもの、50年代に入ってからは革シボのような模様が入ったもので、デッドストックで出てくるものは殆どがこの革シボ模様のポリエチレンケースに入ったものです。実はこの革シボポリエチレンケースにはエラーものがあって、本体にエンボスで入っている「FUJI SLIDE RULE」のロゴがなんと「FUJI SLID RULE」とSLIDEのEの字が抜けてしまって出荷されたものがあり、今回のものはまさにそのエラーものケースが付属していました。さすがに痛恨の極みと感じたかどうかはわかりませんが、わざわざ金型を修正して後の出荷分はちゃんとEの字を加えた正しい綴りに修正されています。ところがよくよく観察すると、このスペル修正版ケースは同じ革シボタイプながら、ケース周囲にリブを設けたまったく異なる仕様で、Eのロゴだけ付け足したのではなく、新たに金型を起こしてしまったようです。そうなると緑蓋の両面用ケースは初期の細かい縦線タイプ、スペルミスの革シボタイプ、周囲にリブが入ったスペル修正版の3種のケースが存在することになります。入手先は神戸の垂水区で、神戸市内から発掘されたのかどうかはわかりませんが、震災をかいくぐって今に残った事実に感謝しなければいけません。神戸市内からは殆ど未使用のタイガー計算器を初め、数本の計算尺を入手しています。
Fuji1280s
Fuji1280s_2


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July 14, 2013

本多船燈製造所デービー式安全燈(炭鉱用カンテラ)

2  英国の大化学者ハンフリー・デービーが考案した炎を金網で囲うことによって外部のメタンガスに引火しない元祖炭鉱用安全燈を特にデービー式安全燈というようになりましたが、デービー式安全燈は金網によって炎の光度が30パーセントに減光されることや、メタンガスを含んだ流速のある通気に対して無防備であることなどから徐々に改良クラニー燈やマルソー燈、ミューゼラー燈などの油燈式安全燈を経てウルフ式揮発油安全燈とその派生型に時代とともに世代交代することになりました。ところが採炭する石炭の炭化度が高く、メタンガスのリスクが比較的に少なかったアメリカはスクラントン周辺のワイオミングバレーと呼ばれるペンシルベニア州東部の炭鉱地帯では安全燈の改良が遅れ(カール・ウルフやアーネスト・ヘイルウッドのような炭鉱技師出身の熱心な安全燈研究者がおらず、単なる真鍮加工業者による外国製旧型安全燈の模倣に終始した)、20世紀の初頭までクラニー燈と共に、このデービー式安全燈が使用されました。どうやら1915年頃のアメリカ鉱山保安局(UNITED STATES BREAU OF MINER)の検査を受け、形式認定を受けた安全燈しか使用できなくなるまでスクラントン周辺の数社でこの旧式安全燈が作り続けられたようです。
 日本では明治の初期から一部の炭鉱でデービー燈とクラニー燈が使用されましたが、大半の炭鉱では明治の30年代を迎えるまで裸火のカンテラが使用され、竪坑の相次ぐ開削により採炭場所が深部に及ぶにいたり、メタンガス爆発の洗礼を受け始めて大手以外の炭鉱でも安全燈が本格的に使用されるようになったようです。その当時は菜種油や魚油を灯油で半々にした裸火のカンテラの燃料等を流用できるデービー燈やクラニー燈が使用されたようですが、当時のクラニー燈の腰硝子は本体を傾けたりするとすぐに炎の熱で割れてしまい、そうなるとまったく安全燈の役目を果たさなくなり、そのため、ガラス破損のリスクの無いデービー燈が好んで使われた例もあるようです。ちなみに腰硝子の破損は坑夫の実費弁済で、国産の腰硝子は脆く、2週間に一度くらいの頻度で腰硝子の交換を要し、その費用がばかにならなかったとのこと。それに引き換え外国製安全燈の腰硝子は1年使用しても一度も破損しなかったとの話も伝わっています。ガラスの材質、熱処理のクオリティーの差が国産と外国製ではまだ雲泥の差があった時代でした。デービー安全燈もクラニー安全燈も大手の炭鉱では日露戦争後の明治38年くらいに揮発油安全燈に取って代わられ、その後大正6年の直方安全燈試験場の各種気流試験機による実験結果からこれらの旧型安全燈、特にデービー式安全燈はメタンガス濃度4-5%で流速1.5m/秒の通気に晒される場所では確実に筒外のメタンガスに引火して爆発を引き起こし、気流のある場所での使用はきわめて危険との結論が出て、完全に炭鉱の照明器具としての役目を終えます。
 国産の炭鉱用安全燈は当方の調査で過去に東京佃島の小柳金属品製作所と本八丁堀の本多船燈製造所、および神田今川小路の江戸商会の3社が製造していたことまで判明していますが、今回神奈川から入手した安全燈はかなり初期の本多船燈製造所製デービー式安全燈です。典型的なニューカッスルスタイルのデービー燈で、以前入手した本多製クラニー式安全燈とトップハットなどの部品が共用されたところがありますが、以前のクラニー燈はリードリベットロック、今回のデービー燈はサイドからのロックボルトによる閉鎖という違いがあります。年代は明治20年代末から30年初期のものに間違いなく、そうなると120年は経過した本物のアンティークです。当方の国産安全燈コレクションのなかでは間違いなく作られた時代が一番古い安全燈です。上の笠の部分はクラニー燈と共用で、今回は刻印がT.HONDA TOKYOとはっきり解読できましたが、共通の打刻印を使用しているため、Nの字が裏返っているのはさすがに庶民にはアルファベットに馴染みが無かった明治の仕事です(笑)
 本多船燈製造所の創業は明治の4年で、創業当時は鉄道用燈火と船舶用燈火の製造がメインだったとのこと。芯はクラニー燈同様に棒芯ですが、棒芯ランプの芯より太く、現在この太さの綿芯を探すのがなかなか大変です。芯の上げ下げはウィックピッカーという鈎針で行うタイプです。ガードピラーは本多のクラニー燈同様に3本ですが、今出来の複製品ブラス製安全燈と違ってちゃんとした鉄製ピラーです。今回のデービー燈の入手先は神奈川の大和市からですが、炭鉱と縁も所縁も無い場所であり、保存状態も良く殆ど打痕なども認められないため、おそらくは実際に坑内に下がったものではなく取り扱い業者の見本のようなもの、もしくは教育機関の教材が今に伝わったのでしょう。どうやら元はいわゆるコールマンランタンコレクターの所蔵品だったようで、同時期にかなりの点数のコールマン製ランタンが出品されたようです。こんなものまで一緒にリサイクルショップに出回ったところを見ると安全燈の歴史的な価値についてはまったく興味がなかったようです。
  安全燈を船舶で使用するため、後の本多商店製ウルフ安全燈は他の船舶用燈火同様に船舶用として形式認定を受けたものもありますが、いくら大和市近隣に横浜港があるといえども実際にデービー燈を明かりとして使用するとなると元の光度の30%しかないわけですからクラニー燈ならいざ知らず、船舶内の明かりとして、このデービー燈が使用されたことはないと思われます。また炭鉱の坑内以外でわざわざ光度の落ちるデービー燈を照明として使用した例も思い浮かびません。外国製のデービー燈の中には少しでも光を集束させるため、また通風による炎の動揺を防ぐため、カードピラーに金属の反射板兼風除けを付けたものも見かけます。
 ところで、このニューカッスルスタイルのデービー燈はハンフリー・デービーの安全燈発明の僅か数年後の1820年にはこの形として完成形になったようで、それまでのデービー燈は吊るタイプではなく、卓上燈の上部を網で囲ったようなスタイルだったようです。もちろんこのデービー燈に本多船燈製造所のオリジナルの部分はまったく見受けられず、どこか外国製の安全燈を1個入手してそれを丸々コピーしたのは明白ですが、はたしてどのモデルを参考にしたのか興味のあるところです。個人的にはサイドボルトロックセフティーの形状や国内導入の履歴があることからアメリカはペンシルバニア州スクラントンのHughes BrosやJames Everhartあたりの米国製デービー燈を見本にしてそのままコピーしてしまったのではないかと想像しています。サイドボルトロックセフティーというのも欧州よりは米国に多いような感じもしますし、そのあたりも米国製デービー燈コピーの根拠になるやもしれません。
130718_161103 ところで、もう30年位前の筑豊在住の古老の聞き取りが活字になったものを見たのですが、明治の時代に坑内の運搬を行っていた女性坑婦だったおばあさんが、スラという石炭の運搬箱を引くときに四つんばいで坑道をスラ綱を引きながら登るので、少しでも目前が明るくなるように安全燈を歯でぶら下げて狭い坑道を行き来していたら若いうちに前歯がみな欠けて無くなってしまった、などという話が掲載されていました。ウルフ安全燈などの後の近代的な安全燈は重くてとても歯などでぶら下げられないと思いましたが、このデービー安全燈はウルフ安全燈などに比べるとかなり軽いので、そういうこともあったのかと妙に納得してしまいました。しかし、ガラスではなく金網を通して照らす炎の明かりというのは何か独特で、その明かりの向こうに敷次郎という坑夫の幽霊がいてもおかしくないような雰囲気を作ります。行灯の明かりなどと合い通じるものがありますが、やはり明かりの機能としてはクラニー燈の敵ではありません。(左クラニー燈、右デービー燈の明るさ比較、ともにウルフ揮発油灯以前の本多船燈製造所製明治30年代の油安全燈。引火点の低い現代の灯油100%を使用するとウィックピッカーで芯を動かすバーナーステムのスリット部分から芯に引火し、炎が大きくなるので引火避けに8ミリ穴のワッシャーをバーナーステムにはめ込んでますが、もともとは引火点の高い菜種油との混合油を使用することを前提にバーナーの設計がされていたのでしょう。)

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