ヘイルウッドアルミ製安全灯 by ACKROYD & BEST
英国のエイクロイド&ベスト社が製造したアーネスト・ヘイルウッド設計の近代的な安全灯は本国以外にも進出し、アメリカでもいち早くペンシルバニア州ピッツバーグに現地法人を設立してアメリカ国内でも鉱山監督局の形式認定を早期に取得し、一部の炭鉱で使用されたようです。時期的に第一次大戦と重なり、敵国であるドイツ本国からウルフ安全灯の入荷が望めなくなり、ウルフ燈のピンチヒッターとして急遽開発されたケーラー揮発油安全灯やヘイルウッド安全灯が必要とされることになったのでしょう。その時期の日本ではすでに旧型の油安全灯から国産のウルフタイプ揮発油灯に切り換わりつつあるころで、本田式揮発油灯や横田式揮発油灯が各地の炭鉱に大量に出回りました。そのため、外国製新型安全灯、特に英国に多い灯油安全灯が輸入されて使用される余地はまったくなく、その当時の最新式の英国製灯油安全灯が日本の炭鉱に大量に導入された例はありません。ところが国会図書館のデジタルアーカイブで安全灯関係の記事をあさっていると、この英国製新型灯油安全灯をなんとか日本にも売ろうという動きがあったようです。明治45年の新聞記事および広告によると、当時門司港にあったホーレス&ナッター商会という外国人商社がエイクロイド&ベスト社製品の九州地区代理店となっていて、九州内の各炭鉱にヘイルウッド安全灯を無償サンプルとして配ったとのことです。おそらくそのときに配られたヘイルウッド安全灯のひとつが二年半ほど前に三池炭鉱の大牟田から小柳式安全灯といっしょに発掘され、残念ながら小柳式安全灯しか入手できなかったものの、その三池のヘイルウッド安全灯は当時の日本では作ることが出来ないアルミ切削加工で出来たアルミ製安全灯だったのです。新聞広告および現物が発掘されたことにより、明治の末年に英国製新型灯油安全灯が一部の炭鉱で試験的に使用されていたことが確認できました。なぜアルミの安全灯が要求されたかというと、炭鉱では坑道掘進を行う際の測量に磁気コンパスなどを使用していて、その磁気コンパスを狂わせないために非鉄金属の安全灯が必要だったからのようです。しかし、磁気の問題だけなら真鍮加工の安全灯で事足りるような気もしますが、そもそも日本ではその当時まだアルミの精錬も加工も行われておらず、日本では製造されなかった安全灯の種類になります。そのうえすぐにメンテナンスが簡単なエジソン帽上蓄電池灯の時代に突入して磁気の問題がクリアされ、アルミの安全灯の存在意義もなくなりました。
このヘイルウッド安全灯を製造した英国エイクロイド&ベスト社には三人のキーパーソンがおり、創業者のウィリアム・エイクロイドとウィリアム・ベスト、ならびに開発者のアーネスト・アーサー・ヘイルウッドの3人です。3人が3人とも貧しい炭鉱労働者の大家族のなかの一人であり、ともに高等教育を受けることも無く12歳から炭鉱や製鉄所などでの労働を強いられてきた人間でした。アイクロイドとベストの2人が炭鉱安全灯の製作所をヨークシャーのモーリーに起こしたのが1896年のことで、ヘイルウッドがこの安全灯製造所に入社したのは1899年、彼がまだ22歳のことでした。アイクロイド&ベスト社と社名を定めて有限会社化したのが1897年のことで、アイクロイドが社長、ベストが総支配人でした。工場は規模が拡大するごとに移転し、1906年までに累計25万台の安全灯を出荷するに至りますが、1908年に創業者アイクロイド、ベストの創業者両名と他の取締役が経営上で対立し、結果としてウイリアム・ベストが会社を追われるという出来事がおこっています。その後釜の総支配人の席に座ったのがアーネスト・ヘイルウッドでした。会社を追われたウイリアム・ベストはその後も安全灯の改良研究を続け、亡くなる1932年まで数々の特許を取得し続けたようです。またヘイルウッドはドイツのカール・ウルフとならび賞される稀代の安全灯改良家で、初期のウイリアム・ベスト名義で出されている会社名義の特許や後のランプ硝子に関するものも含めると200近い特許を取得しているそうです。有名なものでは油壷下からプランジャーがガードピラー下のラックにかみ合う垂直式磁気ロックや一連のバーナーの改良、電気着火システムなどで、彼の登場により旧式の安全灯に過ぎなかった油安全灯がさらに改良発展していくきっかけになりました。またヘイルウッドも亡くなる直前まで安全灯改良に関する特許を出願し続けています。 エイクロイド&ベスト社は1911年のベーコン新工場操業に合わせて積極的な海外進出の拠点とするべく米国ペンシルベニア州ピッツバーグに現地事務所を設立します。また1015年にはベーコン新工場近隣に腰硝子なども製造するランプガラス工場を立ち上げ、このガラス工場は1979年まで存在したそうです。その間、ウイリアム・エイクロイドが1920年に亡くなったあとも会社はヘイルウッドの手によって存続し、1927年に社名をヘイルウッド&エイクロイドに変更。1937年に亡くなるまで安全灯の製造を指揮し続けたのだとか。
ところで門司港のホーレス&ナッター商会がエイクロイド&ベストの九州内代理店を名乗ったのが1912年のことで、エイクロイド&ベスト社の積極的な海外展開の時期と重なります。エイクロイド&ベストの安全灯製造数のなかではやはりアルミ製のものは特殊扱いだったのか製造の割合は小さいようで、日本の国内からヘイルウッドの安全灯は今のところアルミ製のものしか出てこないというは、やはり坑内測量などの特殊用途に食い込み、あわよくば通常型の需要も見込んだのかもしれませんが、実際の受注にはまったく繋がらなかったようで、三池炭鉱で使用されたものも安全灯の管理番号さえ打たれていないのを見ても実用に供されなかったのは確かでしょう。また後の直方安全灯試験場で行われた各種安全灯の気流試験機による試験サンプルの中にもありません。実はヘイルウッド安全灯はアメリカでもケーラー揮発油灯に続いて2番目にアメリカ鉱山監督局の形式認定を受けた(ウルフ揮発油灯は3番目)のにもかかわらず、ビジネス的にはまったく振るわず、その原因としてボンネット下から空気が入気し、下降した空気が燃焼してガーゼメッシュを上昇してボンネット上部から排気するという吸気プロセスはマルソー灯などの旧式灯油安全灯からまったく変わっておらず、通気量が不足する構造的な欠点と、油灯ゆえに電気式再着火装置を使用していて外部から高電圧を供給しなければ再着火できず、坑内でメタンガスで筒内爆発して消火してしまった時に備えて、坑内に何箇所かイグニッションコイルと電池を用いた再着火装置を坑内火番所として設置しなければなりませんでした。そのためすでにライター式着火装置に改良されたウルフやケーラー揮発油灯の使い勝手の良さには比べようもなく、また油安全灯ゆえにガーゼメッシュにたまるカーボンなどの清掃の手間も揮発油灯より余計にかかり、利点といえばランニングコストが揮発油灯より低いということくらいです。一言加えますと、当時の英国ではライター式再着火装置が安全灯検定の対象と認められなかったため、このような電気着火式灯油安全灯が使用される必然性があったのです。このように海外進出は振るいませんでしたが英国内では伝統的に灯油安全灯が使用し続けられ、後年の高輝度安全灯などの改良に繋がっていきました。今回大阪から入手したヘイルウッド安全灯は当然のこと1912年以前の製造で、形式は確証がありませんがNo.0Aではないかと思います。驚いたことに届いたヘイルウッド安全灯は2年半前に競りそこなった三池炭鉱から出たそのものズバリのようで、2年前の画像と見比べるとバーナー部分が一部外れてその部品がいい加減にぶら下がっており、まるで双芯バーナーのように見えることからも間違いなく2年前に競りそこなったヘイルウッド安全灯そのものです。またコールマンコレクターが入手したもののロックの解除もままならず転売してしまったものかと思いましたが、落札者本人の転売ではなく流出経緯もわかりませんが代理出品者からの落札で、落札金額も前回の半分以下となりました。3年前に大牟田から発掘された状態からまったく手が加えられておらず、100年の時を隔ててアルミの表面に満遍なく粉が噴出してざらざらの状態でしたが、かえってこれが中のアルミを保護していて、真鍮ワイヤーブラシをかけると見違えるようになりました。さすがに総アルミ製だけあってウルフ安全灯などとくらべると相当軽い安全灯です。重いウルフ灯をぶら下げて一日坑内の見回りに回るのはかなりの負担になりそうですが、このアルミ製ヘイルウッド安全灯なら負担も軽くなりそうです。アルミ製安全灯にはそういう存在意義もあったのかもしれません。
ところが、本来は油壷上から組み付けてある垂直型のマグネットロックが固着して動く様子もなかったため、下穴をドリルで徐々に広げ、下に抜き取ったまではよかったのですが、ロックがなくなったのにも係わらず、油壷はいくらトルクをかけても回りそうな気配もありません。素材研究の経験のある同期の話で、アルミ同士のネジが経年で固着してしまった場合、真鍮や鉄などと違ってCRC556を浸潤させようがどうしようが、絶対に回らないといわれてしまいました。おそらく100年間もそのままで日本の湿潤な場所に放置されてきた総アルミ製安全灯ですからネジ部分の腐食でやはり分解は不可能かもしれません。このままバーナー部分がバラけている状態は不本意ですが、あくまでもヘイルウッドの安全灯が日本に入っていたという証拠としてそのままの状態にしておくしかないようです。
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