ザイペル式揮発油安全燈(炭鉱用カンテラ)
このいかにもドイツ製らしい姿をした揮発油安全燈は正真正銘北海道から出てきたものです。製造所の刻印はありませんでしたがおそらく明治末に輸入されたドイツはウイルヘルム・ザイペルのザイペル式揮発油安全燈です。ザイペルの揮発油安全燈は明治の後期にドイツから輸入されて三井系の炭鉱で使用された記録がありますが、すぐに構造が優れてより安全なウルフ安全燈やその国産コピーの本多式や横田式の揮発油安全燈に置き換えられ、「名前は知られていても現物にお目にかかることの出来ない」安全燈の代表でした。今回当時のザイペル揮発油燈が入手出来たことにより、ウルフ揮発油燈のパテントが生きていた時代のザイペル揮発油燈がどういう構造だったかということがよくわかりました。ザイペルの揮発油燈は戦後のものを一個所持していますが、こちらはまったくのウルフ揮発油燈で、下ガードピラーリングから金網のはまったホールを通して筒内に吸気して燃焼させ、上部の二重メッシュの金網から排気するというシステムでしたが、この初期のザイペル式揮発油燈は単純にクラニー燈を揮発油燈にしただけのものです。吸気も下から行うのではなく上部のガーゼメッシュを通して行い、排気もガーゼメッシュを通して行う効率の悪いものです。またガーゼメッシュも二重ではなくその構造からして十九世紀末の安全燈で、二十世紀初頭の安全燈事故防止に関する各国の保安基準には適合しない構造なのですが、その頃にはウルフ揮発油燈の基本パテントが切れてザイペルでもウルフタイプの揮発油燈が作られていたようです。それゆえにザイペル式などと呼ばれるような特徴的な構造は一切なく、旧型のクラニー燈を揮発油燈にしただけのものですが、なぜか後の直方安全燈試験場のサンプルにもザイペル式として記載されています。
日本では明治30年代後半に主要炭鉱でドイツからの輸入のウルフ揮発油燈が使用されていた記録がありますが、なぜ同時期に構造的にはクラニー燈と変わらないザイペル式揮発油燈が輸入されたのかがわかりません。どうも三井系の炭鉱に最初に使用されたことから三井物産が係わったことが想像されます。同時期の三井系企業である王子製紙苫小牧工場の建設顛末と三井物産の干渉に関して調べたことがありますが、三井系企業に対する部材調達を三井物産が一手に支配したがり、他の商社からの部材のほうが優秀で価格が安くても、ときには三井物産が三井総本家まで告げ口をしてまで強引に部材調達を独占するということも多かったようです。おそらくフリードマン・ウルフ商会には実績のある日本国内の代理店がすでに存在し、三井物産がフリードマン・ウルフ商会と独占的な代理店契約を結べなかったために、利ざやが大きいが実は間に合わせ的なザイペル式揮発油燈に手を出してしまったのでしょうか。正にドイツの亜炭鉱と日本の瀝青炭鉱の違いもわからないような技術的な素人商社員が単純に商売優先で輸入し、「三井全体の利益」として三井系の炭鉱に押し付けたザイペル式揮発油燈ですが、案の定日本の炭鉱の実情には合わなくて、あまり使用されずに国産揮発油燈に置き換えられてしまったようです。かろうじて大正期の直方安全燈試験場の試験サンプルの中にザイペルの名前を見ることは可能でした。この三井物産とザイペルの係わりは想像の域を出ないので、今後新たなエビデンスが必要です。
構造的には棒芯を油壷底のネジで繰り出すタイプです。ロックシステムはサイドボルトを締めることでロックする簡単な方式ですが、輸入された当時はまだウルフの磁気ロックシステムのパテントが有効だったからでしょうか。油壷はウルフのようにスチールの外皮を持つ真鍮との二重構造ではなく一重の銅合金製です。ボンネットがないこともあって非常に軽い安全燈です。かんしゃく玉式の再着火装置があるはずなのですが、それを装着して出荷するとウルフのパテントに抵触してしまうため、これはオプション扱いだったふしがあり、この個体には再着火装置がついていませんでした。単純に大正初期に第二次大戦が勃発し、かんしゃく玉が輸入できなくなったときに再着火装置を装着できずに出荷された国産他機種に流用された可能性はありますが、輸入コストを抑えるため、再着火装置のオプションなしで輸入されたということも否定できません。(直方安全燈試験場のサンプルになったザイペルもわざわざ「着火装置なし」と注記があります) ドイツの亜炭鉱で使用されるため、メタンガスの気流にさらされるリスクが少なく、ボンネットがありません。その分小型軽量で吊り環までの高さは23.5cmほどです。サイズ的にはジュニアウルフ燈のサイズです。メッシュは一重でその高さは8cm程しかなくそれを保護するガードピラーは3本、腰ガラスのガードピラーも3本です。本多のクラニー燈でさえ腰ガラスのガードピラーは6本あります。跳ね上げ式の反射板を装着するであろうヒンジが一箇所ありました。重量は燃料と再着火装置抜きで800gと超軽量です。これが本多のウルフ燈だと倍の1.6kgもあります。ボンネットレスだということと、油壷が一重で肉薄なことが全体の重量に影響しているようです。ちなみに総アルミ製のヘイルウッド安全燈はさすがに950gと軽量です。
入手先は北海道の岩見沢で、いにしえは石炭輸送の中継地として広大な操車場を抱える鉄道の町でした。近くには幌内や幾春別、美唄の大炭鉱、旧栗沢町に中小の炭鉱などが存在しますが、売主に入手先を尋ねるも知り合いから入手したもので、その出自は不明とのこと。輸入雑貨品に混じっていたというものではないので道内の炭鉱にもたらされたザイペル揮発油燈には間違いないのですが、どこの炭鉱が使用していたものかわからないのが玉に瑕です。時期的には鉄道国有の保証金を元手に開発により出した室蘭の製鋼所の建設資金繰りで三井の軍門に下った北海道炭鉱汽船の炭鉱に三井の手によって押し付けられたものなのでしょうか?当時すでに北炭では輸入のウルフ揮発油燈が切羽で使用されており、ザイペル式揮発油燈は運搬坑道などのガス気の少ないところでクラニー燈などから置き換えられた程度でほどなくお蔵入りしてしまったのでしょうか?
この時代のウィルヘルム・ザイペルの揮発油燈には技術的な独自性がまったく感じられず、技術的にはフリードマン・ウルフ商会とは雲泥の差、英国のエイクロイド&ベストの足元にも及ばず、英国や米国の炭鉱地帯のブラスウェアの安全燈製造会社程度の技術力の会社です。しかし、ザイペルの揮発油燈はその後ウルフのパテントが切れたころに構造的にはウルフ安全燈の完全コピーを果たし、またドイツの炭鉱では1960年代まで揮発油安全燈が明かりとして使い続けられたことから、長期間にわたり揮発油安全燈製造会社として永らえたようです。ただ、第二次大戦後に戦争協力企業として解体されたというようなことを何かで読んだような気がするのですが、戦後は名前を変えて存続したのでしょうか?
ところで、ウルフ揮発油安全燈ですが、どうも最初の市販品は平芯の油燈だったようです。これは日本にも入ってきており旧型ウルフ燈とされることもあるようですが、構造的にはのちのウルフ揮発油燈に共通なものの平芯油燈ですから再着火装置もありませんが、下部リングからメッシュを通して吸気するまぎれもなくウルフ式です。揮発油燈になるまでの間に合わせ的なものだったのか、イギリス国内では油燈が好まれ、また再着火装置が認められなかったことからイギリス国内向けと揮発油の供給が困難な地域向けに作られた代物だったのでしょうか?
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