教材だったクラニー安全燈(炭鉱用カンテラ)
一度も坑内に下がったことのない本多船燈製造所製のクラニー安全燈おおよそ明治30年代の製造品を入手しました。以前北海道の深川の4代100年以上続いた農家の納屋から出てきた同じく本多船燈製造所製のクラニー安全燈を入手していますが、そちらは実際に坑内で酷使されたのちに古道具屋経由で農家に入ったようで、農家に入ってからもすでに100年は経過してガーゼメッシュのトップが欠落しているような状態でしたが、今回の物はまったくの完全品で、すべてのパーツが揃っており、一度も坑内で使われていない証拠に本体に打ち傷ひとつありません。それもそのはず、学校の教材としてずっと保管された個体だったからなのです。以前にも本多船燈製造所製デービー安全燈を入手したときにまったく傷が無く新品のような状態だったために、学校の教材落ちを指摘していましたが、今回のものはさる富山県内の高等学校の備品管理シールが底に残っていました。この炭鉱用安全燈がどういう授業で使用されるために学校に入ったのかはよくわかりませんが、実際の安全燈製造メーカー以外に大阪の教材メーカーがどこか金属加工業者に製造させて自社の銘板を装着した構造的には坑内では使用するのが危険なほどの怪しげな教材用安全燈を見たことがあります。
昔の資料をいろいろ読み解くとクラニー安全燈は明治25年くらいから国産化されたのをきっかけに各地の炭鉱に普及したようですが、日露戦争で石炭の生産が拡大したことで各地で安全燈が原因の重大事故が頻発し、これを契機に大手の炭鉱では早くも新型の揮発油安全燈を導入しクラニー安全燈はメタンガス引火の危険が大きい切羽から運搬坑道などの使用に限定されます。しかし中小零細の炭鉱ではコスト的に揮発油安全燈を導入することなく大手炭鉱でお役御免になったデービー安全燈やクラニー安全燈などを使用し続けますが、まだ裸火の灯油カンテラよりもマシだと思ったのでしょうか。デービー安全燈やクラニー安全燈が完全に炭鉱坑内から引退するのは大正初期に直方安全燈試験場の実験結果からメタンを含む気流にさらされた場合の危険度が証明されてからのようですが、その時期にはすでにほとんどの炭鉱で揮発油安全燈が普及していました。
入手先は富山県の高岡市ですが、上記のとおり富山県内の統合されて無くなった高校の備品落ちです。以前の深川の古い農家から出たクラニー燈と異なり金網以外の全体にニッケルメッキがかけてありました。できた当初は高級感漂うなかなか華やいだ安全燈だったはずです。芯はロープをほぐしたようなもので、灯火用の棒芯とは異なります。これは神奈川から入手したこれも教材備品落ちらしい本多のデービー燈のものとも同じでした。この時代の安全燈全般がそうですが、使用するのは引火点の低い原油由来の灯油ではなく、植物性のともし油もしくは植物性油と灯油の混合物でしょう。
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