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September 20, 2016

JEPPESEN CR-5 航法計算盤

Jeppsencr5  比較的に航法計算盤としては安価に売られているJEPPESENのフライトコンピュータ類ですが、このCR-5は元JALのクラシックジャンボに長く搭乗されていた航空機関士のSさんから譲っていただいたものです。自家用航空機のライセンス訓練生が使用していたものではなく、実際にジャンボジェット機のコックピットの中でSさんとともに歩んできたフライトコンピュータですから、いくら安価なフライトコンピュータとはいえ道具としての歴史が違います。しかし、クラシックジャンボが国内線から消えて久しく、またジャンボ自体も日本の航空会社から引退してしまう時代となりましたが、おそらく国土交通省のライセンス的にはいまだに航空通信士と航空機関士は残っているのでしょうか? このJEPPESEN という会社はコロラド州デンバーに存在する会社で1955年からフライトコンピュータやプロッターなどの航法計算用具を現在まで作り続けているようです。比較的に安価なプラスチック素材の物ばかりでその価格も30ドル以下の価格帯ですが、日本ではこういうものを必要とする人口がすくないため、どうしてもコンサイスのフライトコンピュータのような価格にならざるをえません。さすがに自家用車並みに自家用機があふれているアメリカだけのことはあります。
もっとも航法計算の世界でも基本教育はこういうアナログのものを使用するようですが、実践で使用するのはすでに電卓方式の航法計算機です。

Jeppsencr5_6 また大型機では航空会社のディスパッチャーが作成したフライトプランをブリーフィングでクルーと確認しあいますが、運行途中で何かの都合で変更が生じた場合には離陸地のディスパッチャーと連絡を取り、ディスパッチャーがはじき出したデータをコンピューターリンクで受け取って使用するようで、2人乗務員体制では機上で飛行経路と飛行高度変更、燃料の残計算や到着時間の算出などの計算からは一切開放されたようで、この省力化もあって航空機関士が要らなくなったことにもつながるのでしょう。

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September 19, 2016

フラー円筒計算尺

2_2 イギリスはロンドンのW.F.スタンレー社によるフラー円筒計算尺No.1です。カービック社のオーティス・キングス同様にらせん状に尺を巻いて有効基線長を高めた計算尺で基線長はなんと驚異の500インチで有効桁も4桁と格段の精度を誇ります。その分大きさも大きく、もはやポケットに入れて持ち運ぶようなものではなく、タイガー計算機なみの可搬性しかありません。同じように円筒形の計算尺としては同時代にサチャー円筒計算尺というものが作られていますが、こちらはらせん状の目盛りがあるものではなく、目盛りを分割した固定尺を星型に配置し、その中心を円筒の滑尺がスライドするという仕組みで、基本的に構造が異なります。またこのフラー円筒計算尺はオーティス・キングスの上下のC,D尺の円筒を伸縮させ、真ん中のカーソルになっている筒をスライドさせて計算するのではなく、対数目盛りは真ん中の円筒の一本だけで、真鍮の自由に動く2本のポインターをセットし円筒を回転させて計算するというオーティス・キングスとは真逆の方式の円筒計算尺です。
 このフラー円筒計算尺は北アイルランドのベルファスト市にあるクイーンカレッジの土木学の教授ジョージ・フラー博士が1878年に開発し1879年に特許を取得したものをロンドンのW.F.スタンレー社が商品化したものです。

 重厚な木箱に収納されており、真鍮製のスタンド金具を使用して木箱の片面から斜めにセット出来るようになっています。この箱と金具がセットになっていないと相当価値が落ちてしまうようです。

 このフラー円筒計算尺は特に計算精度を要求される研究部門などに限って使用されたようで、実際には内藤多仲博士がドイツ製の5インチポケット尺で殆どの建築の構造計算(実際は手回し計算機を併用)をおこなったくらいですので、一般の用途にはまったく必要ないものでした。そのため、製造は1878年あたりから1960年代まで牛の涎のように細々と続いたようですが、その間の製造総数たるやイギリスのコレクターの調査によると14,000本あまりにしか過ぎません。また製造終了後も1978年ころまで探せば店頭入手可能だったという話です。製造年数80年の長きにわたり14,000本の製造総数というと一年の出荷数でたったの175本です。需要もさることながら殆ど手作りだったという証拠でしょう。ありがたいことにすべての個体にシリアルナンバーが打たれており、末尾の二桁が製造年を現しているため、各個体の製造年の確認は容易です。

アメリカではK&EがOEM先として1895年から販売され、当初のモデルナンバーはNo.1742でしたが1901年よりNo.4015に改番されます。1895年のNo.1742のカタログプライスは28ドル、1901年のNo4015のプライスは30ドル、時代が下った1925年のプライスは42ドルと年々価格は上がっています。しかしK&Eは自社で製造したサシャー円筒計算尺No.4012のほうが力を入れて販売していたのは当然で、こちらのほうが若干値段が高く1892年版のカタログプライスは30ドル、1913年版のプライスは35ドルです。3_2 また後の年代にNo.2というLog計算に特化したフラー円筒計算尺が発売され、こちらのほうは円筒にある500インチのC尺はそのままですが、内円にプラスとマイナスのべき乗尺が刻まれ、対数計算が精密に行なうことができるというものです。1941年発行の説明書には追加でNo.2のべき乗尺の解説が載せられています。しかし、WEB上でNo.2の存在を詳細に解説してあるところが見つからず、いつから追加になったのか、シリアルナンバーがNo.1に含められているのか、それども独立しているかはよくわかりません。少なくとも昭和の始めくらいの年代にはNo.2はすでに作られていたようでシリアルナンバーもNo.1と連番だったようです。

入手先は同じく道内の旭川で、なぜ東京や京都ではなく地方のそれも旭川というところからこのフラー円筒計算尺が出てきたのか、計算尺そのものよりその出自のほうに大いに興味があり、自分としてはかなり高額で入手したものなのですが、出品者の言によるとさるアンティークコレクターからの買い取り品とのことで、それ以上のことはわからないとのことでした。旭川という土地柄、旧陸軍第七師団や大手の炭鉱などの備品が流れてきたものかと妄想をめぐらせていたのですが、届いた品物の製造番号は8千番台で製造年を見たらなんと第二次大戦中の1943年の品物でした。交戦国イギリスの計算尺が日本に入ってきたわけがありませんし、シンガポールから鹵獲したとしても年代が合いません。敗戦国日本が戦後すぐにこういうものを輸入できたはずもなく、おそらくはそのアンティークコレクターが海外から買い付けたものということが言えそうです。その事実がわかってちょっとだけ興味が失せてしまいました。入手した業者はよくデパートなどの骨董フェアなどを回っている業者で、そういうイベントでの換金に失敗してオクに出したようですが、ケースに貼られていた値札には28万円となっていました。e-bayなんかの落札相場を無視するといつまで経っても不良在庫です。入手価格はe-bayの落札平均相場より若干安い程度でした。

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September 18, 2016

K1型金利スケール/不動産スケール

K1  東京新橋の新製品開発センターという少々怪しげな会社が発売した一種のアイデア商品で、おおまかに金利シリーズのK型、レジャーシリーズのY型G型および実務シリーズのS型B型が説明書に記載されていますが、果たしてすべてのものが製造され発売にいたったのかは不明です。また特許出願中とありますが、この手の換算尺は明治末期から昭和にかけてありとあらゆるものが特許申請されあえなく討ち死にしてますので、はたして実際に特許申請したのかどうかも怪しいところです。
 それで金利スケールは表面が共通で裏面が異なるK1からK4までの4種類、Y型はレジャーシリーズとされる外貨換算尺でY1とY2型2種類とG1型は競馬専用、S型はビジネス用とされる仕入れ用のS1型と建築板金スケースのB2型がカタログ上に記載され、それぞれ定価が940円となっています。大昔の銀行通帳入れのように粗末で薄いビニールシースに入っています。
 おそらく発売は昭和40年代後半ごろでしょうか?というのも説明書きにこの会社で出版した非常に高い月刊誌の広告が載っていて、その「月刊世界のアイデア」という雑誌が昭和41年創刊で別の「月刊世界の新商売」という雑誌は昭和46年創刊ということになっています。前者が12ヶ月で45,000円、後者が12ヶ月で16,000円となっていますが、もしかしたら総会屋が各企業から利益誘導を受けるような形で各企業に何口か購読させる雑誌で一般の書店にはもちろん並ぶような雑誌ではないでしょう。
 キャッチフレーズが「どなたにも使える頭脳兵器シリーズ」とは人を食ったようなキャッチフレーズです。このK1型金利スケールは表面が元金と年利をあわせると期日が何日でどれくらいの利息が掛かるかということが一目でわかるような換算尺になっており、年利18%が上限とは昔のグレーゾーン金利時代のサラ金や闇金では使えませんね(笑) 
 裏側の不動産スケールは坪と平米の換算と坪単価をあわせて何坪でいくらかの総額がわかるようになっていますが坪単価の最小単位が30万円です。まあ位取りを変えて換算すればいいわけですが、表示の最小単位が坪30万円というと主に東京の不動産屋を対象にしたということでしょう。 監修は東京工大名誉教授の川下研介、製作は横浜国大助教授松本久志となっています。
 故川下研介名誉教授は東工大の主に熱学・熱力学の専門家。松本久志教授は同姓同名のマンガ家のほうが有名ですが横浜国大の科学教育・美学、美術史の専門家です。しかしなぜこの人たちがこのような計算尺に係わったのかがわかりません。もしかしてお金だけもらって名前だけ使わせたとか? 入手先は確か愛知県の西尾市だったと記憶しています。


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UTO No.930U Poly-e

Img_0698 デンマーク製の計算尺は日本では直接輸入されたことがないため、DIWAくらいしか知られていないと思いますが、今回入手したものは同じくデンマークのUTOというメーカーのNo.930Uという計算尺だと思われます。このUTOというメーカーは品物自体日本でまったく見たことが無く、予備知識はぜんぜんありませんでしたが、DIWAが計算尺の終末期まで特殊な計算尺がほとんど無かったのに対し、このUTOではHEMMIを上回るほどの特殊計算尺をリリースし、おもに北米市場に流していたということが特筆されます。
 またこの計算尺はアメリカの化学繊維大手だったCHEMSTRAND社の特別なノベルティーになっており、ROLEXの腕時計ケースのような緑の表皮をあしらった木製クラムシェルケースに収められ、さらに計算尺本体のブリッジに金メッキが施され、カーソルバーにも金のメタルが埋め込まれているという「特別仕様の別注品?」です。得意先に配ったのか、それとも懸賞の景品にでもしたのかはわかりませんが、ケースにまで会社のキャッチフレーズと社名が金色で入れられているような状態で、とても実用にするようなものではなかったためか、まったく使われた形跡の無い計算尺でした。

 通常型番が刻印されている滑尺端にCHEMSTAND社のマークが入っているため、型番がわかりませんでしたがどうやらNo.930の一族であることはわかりました。しかしこのNo.930は同一型番で尺のレイアウトがかなり細かく異なるバリアントがたくさんあるようで、そのものズバリの型番がよくわかりませんがおそらくはNo.930Uなのでしょう。尺種類は表面がLL03,LL02,LL01,DF,[CF,CIF,CI.C,]D,LL3,LL2,LL1の12尺、裏面がL,K,A,[B,T,ST,S,]D,D1,Pの10尺の合計22尺です。いちおうシステムリッツということになるのでしょう。表面はほぼノーマルなのに裏面はS尺とD尺が相対していたり同一固定尺上にD尺,DI尺とP尺が並んでいたり、意図することは良くわかりますが、日本の計算尺になれてしまうと何か妙な違和感があります。このあたりの尺配置で同一型番で年代によっていろいろなバリアントが存在するようです。製造年代は1950年代後半から1960年代初頭にかけてでしょうか?
 このUTO社はアメリカのニュージャージー州にHOFFMAN PRODUCTSという代理店が存在したようで、そこを通じていろいろな計算尺が輸出されたようですが、それはすべて第二次大戦後のことのようで、すでにプラスチックの計算尺のみのアメリカ輸出だったようです。
 またこのUTOのプラスチック製計算尺の終末期は日本のFUJIあたりの構造がそっくりな計算尺も存在したようですが、やはり計算尺終末期には日本の山梨でOEM製造された事実もあったのでしょうか?日本で入手できる個体がないのでその追跡は困難ですが今後の研究が必要です。
 入手先は横浜市の神奈川区だと記憶してます。しかしなぜ日本にこういうものが手付かずで残っていたのかが不思議です。
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September 17, 2016

竹内改良計算尺

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 大田スター計算尺同様に国産計算尺の黎明期に発売されたものの逸見式計算尺のように後に実を残さず歴史のなかに埋もれてしまったのがこの竹内計算尺です。過去にオークション上で出品されたのが数本というレアな計算尺で現在知られているのは5インチと10インチのマンハイム型2種だけです。10インチのものはKimさんのコレクションに納まっておりまして本体はおそらくマホガニーと思しき木製の計算尺でした。それで5インチのポケット型も木製には違いないと思っていたのですがやはりマホガニー材が使用された木製計算尺です。裏側が寸、英インチ、米インチの換算尺になっている表面4尺滑尺裏4尺のマンハイム型ポケット尺です。尺種は表がA,[B,C,]Dの4尺で滑尺裏がS,L,T,の3尺で副カーソル線窓は開いておらず三角関数などを計算する場合は滑尺を裏返す方式です。
 面白いのは裏の単位換算テーブルを使用するときはカーソルを反対側にはめ込むことが出来るような構造になっており、そのために通常のポケット尺のように上面にスケールを持たない練習用計算尺のような上下が平らな上下対称系の計算尺です。
目盛りはJ.HEMMIのように刻まれたものではなく、おそらくセルロイドの上から目盛りを印刷したもののようです。そのため一部消えかかっている部分があり、またおそらく磨くと確実に目盛りが消えそうできれいにすることも出来ません。英国系木製尺のようにその上から薄い透明セルロイドシートでも被せてあれば目盛りも消えることがないのでしょうがこのあたりの細工はJ.HEMMI計算尺の敵ではありません。

 カーソルはJ.HEMMI初期のもの同様にA.W.FABERのコピーでアルミフルフレームのものが付いていますが、これは実にJ.HEMMIのNo.1のものとまったく同一のものです。以前当方はめまぐるしくカーソルのフレームが変わるJ.HEMMI計算尺を見て、おそらくカーソルはJ.HEMMIが自社製造していたのではなく、どこか別の金属加工屋に作らせていたのではないかと推測していましたが、どうやらそれはあながち間違いではなかったようです。このカーソル製造元がどこであるかは知りませんが、少なくともここではフルフレームのカーソルと位取り付きのカーソルの2種類を製造し、J.HEMMIだけではなく大田スター計算尺と竹内計算尺にも供給していたことになります。そしてなぜかそれらのカーソルを大正14年以前に何らかの理由で供給できなくなりJ.HEMMIでは大正15年式計算尺からカーソルの供給元でなぜか迷走して短期間でいろんなカーソルが出現し、大田スター計算尺は独自のフレームレスカーソルを付けざるを得なかったということなのでしょうか?

 表面刻印はC.TAKEUCHI'S IMPROVED SLIDE RULEとなっており、竹内改良計算尺となりますが何に対してどこが改良されたのかがわかりません。Cは当然名前の頭文字なのですがそうなると頭がCHA,CHU,CHOで始まる名前なのでしょうか?CHAは加藤茶のCHAくらいしか思い当たりませんがCHUなら忠一、忠太郎などいくらでも考えられますし、CHOならいかりや長介をはじめとし長一、長一郎など長男を連想させる名前はたくさんあります。さてこの竹内さんの名前はいったい何でどういう人だったのでしょうか?
 また表面にAPART OF USED PATENT 21257とありますが、この明治の末のパテントナンバーを記してわざわざそれを使用していないと記する理由と意図がわかりません。
 裏面の単位換算尺部分に大阪竹内製とあり、この計算尺が東京で作られたものでなく関西は大阪で製造されたということがわかりました。ケースにはY.T.SLIDE RULEとありおそらくはYさんとTさんのダブルネームだなんて想像していますがTは当然竹内さんでしょうがYさんはいったい誰?

 この竹内計算尺に関しては異論もあるでしょうが、製造年代が大正初年あたりから大正10年代までのごくわずかな期間の製造だったのではないかと推測しています。おそらく第一次大戦の混乱で欧米でHEMMI同様に輸出主体で製造していたものの大戦終了でドイツ計算尺の為替安による輸出復活台頭で欧米への輸出が立ち行かなくなり、あわてて国内に販売をシフトしたのでしょうか。しかし、この竹内計算尺はHEMMIのように目盛りを刻むという技術が無く、目盛りが印刷のため使用しているうちに消えてしまうという重大な欠点があり、またマホガニーの複雑な形状加工ということもあって大田スター計算尺同様にポリフェーズトマンハイム尺に改良されることもなく早々に淘汰されてしまったのでしょう。大阪竹内製と漢字で印刷が入っているのと換算尺が寸と吋なことからこの個体は国内向けの製造のものということになります。
 ただ幸いなことは形状とその厚みから大田スター計算尺のように反ってしまって滑尺も動かないということもなく、さほど狂いも無く未だに可動することでしょうか。
 入手先は和歌山県の橋本市は高野口からです。いかにも古いものが残りそうな場所ですが、こういうところでいったい何の用途で使ったのでしょうか?
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September 16, 2016

中央計器製作所標準速算器

Photo_2 日本における円形計算尺で古くからよく知られたものは玉屋商店から発売された藤野式計算尺だと思います。この藤野式は乗除用と金属重量計算用のほかにスタジアと切削時間計算器などが揃っていましたが、どうやら戦時中の金属統制で姿を消し、戦後になってからコンサイス円形計算尺としてよみがえり、今に至るのは周知の事実です。
 その他の円形計算尺といえば大正末期から昭和の初期にかけてメートル法の施行により度量衡の単位換算尺で円形のものが多く作られた以外には目新しいものがなく、わずかに単位換算機能に簡単な対数尺をつけたようなものが存在するくらいでしょうか?

 この標準速算器というのは大阪の斉藤喜代治という人が昭和10年くらいに発売したものを戦後になって中央計器製作所という会社が発売した円形計算尺です。昭和10年の発売当初はA号B号C号に特号の4種類があったようで、A号は直径3寸5分、B号は3寸、C号は2寸9分なのに対して特号は8寸5分というまるで通称「円盤」と呼ばれるラリー用計算尺ほどの大きさがあるもののようです。A型で定価2円だったのに対して特号は8円の定価がついていたようです。ヘンミの標準的な10インチ片面尺が当時8円前後ですから特号でやっとヘンミの10インチ片面尺の価格相当で他のものはポケット用や練習用にも届かないような価格の廉価な計算尺ということになります。それというのもブリキの円形盤に薄いセルロイドの円盤を重ねて鳩目でカーソルと一緒に止めてあるというような簡単な構造なためです。それはおそらくA号という2円のバージョンでB号はセルロイドのみの構造、C号は紙にコートをかけただけの構造と推定されます。その材質別の3種類は中央計器製作所の発売となっても継続し、今回入手したのは紙にコートだけ掛けた一番安いバージョンです。
 しかし戦後になって斉藤喜代治の標準速算器がなぜ再登場したのかはわかりませんが、この中央計器製作所の説明書によると説明書の著作兼発行人が斉藤喜代治で製造発売元が中央計器製作所というようになっています。そのため、戦前は考案発売は斉藤喜代治だったものの製造は中央計器製作所が行っており、戦後は製造も販売が中央計器に移ったということかもしれません。
 手元にあるものはコートされたボール紙製のもので発売価格が250円となっています。他に500円と1000円のものがありますので、おそらく内容は同じながらセルロイド製、ブリキのプレス製などの材質違いで内容はまったく同じものだったのでしょう。裏面はまったくのブランクです。高いものには単位換算の早見表くらいついていたのでしょうか?


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不明金属重量計算器(藤野式コピー)

Photo 円形の金属重量計算器というものは国内では大正時代に作られた藤野式計算器に始まり、戦時中の金属枯渇時代に一旦姿を消した後、戦後はコンサイス金属重量計算器として若干の改良を施した上で発売されたことはコンサイスの説明書にもわざわざ書かれていることなので明白ですが、実は藤野式金属重量計算器の丸々コピーのイミテーションが出回っていたことは意外と知られていません。
 このコピー品の金属重量計算器は一度しかオク上で見かけたことがありませんが、それは単なる茶封筒に入れられ、半紙一枚分の使用説明書のペラが一枚入っているという実に簡単なものです。その藤野式コピーを今回見つけてしまいましたので捕獲しておきました。

 今回入手したものは当然のこと茶封筒も説明書きも失われて酷使されたものですが、出所が広島の呉なのでまた根拠のない仮説を立ててみました。そもそも呉は海軍工廠もあった日本海軍の中では横須賀を上回る最重要の軍港です。かの戦艦大和をはじめ、数々の軍艦が設計・製造された場所ですが、以前から呉から出たドイツ製の計算尺を複数入手しています。それだけ計算用具が重要で各種使用されていたことがわかりますが、軍艦は当然のこと金属の塊ですから船体設計だけではなく造船の現場などでも材料や加工品の重量計算のため、藤野式重量計算器が使用されていたことだと想像しています。藤野式計算尺は一般計算用よりも金属重量計算器のほうが数がはけているようで、その証拠として現在オクに出てくる藤野式計算尺は一般計算用よりも金属重量計算器のほうが多いように思えます。それだけ原材料の重量計算では現場で重宝されていたのでしょう。

 藤野式計算尺は大正6年ころから戦時中の金属調達ができなくなったころまで30年近く販売されたようですが、いざ製造中止になったところで困ったのは軍の工廠、兵器廠だったのではないでしょうか?軍艦や飛行機製造のため、民需用の金属製品の製造を禁止したら、今度は製造に必要な金属重量計算器が調達できなくなったなんてお笑いもいいところですが、それはさすがに軍隊で、おそらく軍需用に材料を藤野式の製造元に送って軍需品として特納させたのかもしれません。戦時中ということもあり、包装は単なる茶封筒で説明書も藁半紙一枚というのも説明がつくと思います。さらに製造元の刻印などがないのも軍特納品ということで説明が付くはずです。
 それで藤野式の鋼・鋳物・砲金用金属重量計算器には寸法と重量単位により2554~2556号の三種類存在しましたが、この藤野式コピーには長さがメトリック、重量がキログラムのNo.2555号に相当するものしか現在見つかっていません。当時の設計はヤード・ポンドから完全にメトリックに移行してましたので、軍需品として1種類しか無いというのも納得出来ます。


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September 15, 2016

中岸式万能図形計算器

Photo  戦前の円形計算尺の有名どころはしっかりした工作と別途の解説書などか充実した藤野式計算器ですが、大正末から昭和の初期にかけて度量衡の尺貫法からメートル法への移行に沿ったかたちで単位換算に便利な円形計算尺がいくつか出現しています・
 代表的なところは昭和2年のイソメ式円形計算器ですが、やや遅れて昭和4年ごろから発売されたのがこの中岸式計算器です。

 実はイソメ式計算器も中岸式計算器もそれほど高価な計算用具ではなかったからか、発売された数に比較して
残存している数が少なく、オークションに登場してくるもののみでその全貌を推測しようとするのも困難です。それでもいままで判明したことは東京製作所と称する会社で発売された円形計算器はまったく同じものでイソメ式と中岸式の両方の名前が存在することと、そののちこのA,B尺のみの単位換算系円形計算器は昭和4年に新しい版を起こして中岸製作所名でP.N.242591を冠して発売されていること。その他中岸式には一歩踏み込んだセルロイドのカーソルが付き、表面にA,B,C,D,尺の4尺を備える「万能図形計算器」とタイトルの付いた円形計算尺が存在する、のたったこれだけしか判明していません。こちらの中岸式のほうもP.N.242591が印刷されていますので、おそらくこのプレスで製作されたブリキ製計算尺の構造的な特許を取得していたのではないかと想像しています。
 富山から入手した中岸式の万能図形計算器は戦前の製品でその証拠に奇跡的に残っている中岸製作所の所在地が東京市浅草区千束町1-85というように記載されていますので、昭和18年以前であることは間違いありません。いちおう製造販売元ではなく発売元となっていますので、製作所を名乗りながらも別な下請工場で作らせていたのでしょうか?

 プレスのブリキ円盤塗装をかけてメモリを印刷というのはイソメ式の時代と変わりありませんが、おそらくはこんなブリキ細工の計算尺でも金属枯渇で民生品の製造禁止を受けて戦争が激しくなる前に製造中止となってしまったのでしょう。

 A,B,C,D,の4尺と書きましたがこれは尺の種類ではなく説明上の位置を示すだけのものでありイソメ式の尺種がイ、ロと表記されていたことと同様です。A,B,尺は実質的なC,D,尺でこの部分だけ可動し計算することができますが、Cは二乗尺、Dは三乗尺でお互いには可動しません図形計算器のタイトルだけあって平方立方計算に特化した使い勝手を考えてのことだと思います。
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September 04, 2016

新スプリアス規制後までの無線局延命作戦その1

 平成29年11月30日に終了する10年間の猶予期限終了を以て旧技適機を含む旧スプリアス規格で製造された無線機は新規の申請も再免許申請もおりないことに決まっています。新規申請や従前使用している旧スプリアス規格無線機再免許申請の場合には新たなスプリアスの規格を満たしているという個別の検査結果を添えるということになっていますが、現在使用されている無線機の総数を検査するとなるとそれこそ各地に陸運事務所並みの検査場や民間車検場などのような設備を多数設ける必要があり、それでなくとも趣味だけの世界のアマチュア無線機にそれだけの税金を投入することなど到底ありえません。それで旧技適機以前の機種を使用しているアマチュア無線家の殆どは救済措置として現在JARDが実施しているアマチュア無線機のサンプリングによるスプリアス実証試験の結果によりJARDから新たな制度の保証認定を受けられるだろうという目論見で積極的な対策を施していないようです。少なくともうちのローカルではみなそのように楽観的に構えている人たちばかりですが、当方の設備はHFが真空管ファイナルのアナログ機ばかりで、他の無線機も30年以上の骨董品をかき集めてQRVしている始末ですので、まずスプリアスの新規格を通る見込みも保証認定が成立する見込みもありません。 そのため、最悪局免の期限切れで廃局ということになります。さらに悪いことには固定局が29.11.30の猶予期限から半年のタイミングで期限が切れてしまいます。

 しかし、移動局の局免の期限が今年10月で、再免許を申請すれば29.11.30の期限を迎えても4年近く使用できるため、まずは現在真空管機のみ申請してある状態をもっと新しいトランジスタファイナルの無線機を追加し、ついでに真空管のアナログ機ではQRHのために諦めていたデジタルモードを使用するために付加装置を接続した状態で保証認定を取得して変更申請し、その上ですぐに再免許申請をしてしまおうという延命対策を企てる事にしました。おまけに修理目的で落札して修理が完了した後そのまま放り出してあったハンディー機多数ともらい物のモービル機などをあわせて変更申請の保証認定に加えることにします。

 それで新たな無線機選びですが、新しい技適の無線機を導入するとなると、固定局維持の方まで予算が回らなくなるために再免許後5年使うことだけを考えてデジタル運用との親和性が高くて世の中にたくさんで回っており中古としての値段がある程度こなれているHF無線機を選びます。最近は旧技適機もオークションでは投売り状態なのですが、結局技適以前のKENWOODのTS-690SATのオートマチックチューナー付きを38,000円で落札しました。これ、3月の頭に入手したのですが、製造年が製造番号から見ると1991年らしいので実に25年落ちです。 いろいろコンパクトなボディーに機能を詰め込みすぎたため、けっこうノイジーだという話もありますが、外部入出力のDINのACC端子があり、デジタルモードとの親和性も高いようです。その使い勝手の良さから名機と呼ばれるのも間違いではないでしょう。おまけにTS-680時代と異なり50MHzが50W出力なので、IC-551以来の10W割り当ての出力から晴れて50MHzも50W出力の運用が可能になります。
 
3月の頭に入手したTS-690SATですが、デジタルモードの諸元内容等を調べるのが面倒くさくてなかなか変更申請の書類がまとまりません。その間にずるずると時が過ぎていきました。

 現在保証認定は以前どおりTSSと新たに加わったJARDの二社で行っています。この二社には保証認定手数料に差があり、TSSは変更申請の保証認定は何台でも3000円、それに比べてJARDは1台は3000円ですが2台以上は5000円です。今回の変更申請は旧技適機を含めて台数が10台にもなるためにTSSのほうがお得なのですが、以前JARD主催のアマチュア無線免許養成講習で講師料を何度もいただいたので、今回はJARDに少し還元することにしました。
(続く)

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September 01, 2016

CEAG炭鉱用蓄電池式防爆安全灯(炭鉱用カンテラ)

160831_094935  英国シーグ社の炭鉱用蓄電池式防爆安全灯、あちらのカテゴリーによるとインスペクションランプと呼ばれるものです。炭鉱の坑内での設備点検などに使用された手提げの携帯電灯ですが、メタンガスなどに引火しないように中が完全にシールドされ、万が一中でスパークなどが発生しても外部のメタンガス等に引火しない構造になっています。
 その仕組みは灯油や揮発油を使用する安全灯に比べれば簡単なものですが、万が一ランプのガラスが破損して電球を壊した際には直ちに電球の回路を離断して電球のフィラメントがメタンガスに触れない構造が必要です。

 日本ではこの手のインスペクションランプはキャップランプの蓄電池とランプの本体を合体させた弁当箱にキャップランプが付いているようなインスペクションランプしかありませんが、外国では吊り下げの蓄電池式安全灯が最初に使用された関係で筒型の蓄電池が存在し、そのためにインスペクションランプもこれを流用した筒型のものが作られています。
 炭鉱用の防爆蓄電池灯としてはスウェーデンのNIFE(ニッフェ)社とイギリスのCEAG(シーグ)社が有名で、個人もちの坑内用灯火としては1920年代から徐々に石油安全灯や揮発油安全灯に取って代わられました。筒型の吊り下げ蓄電池灯は中の蓄電池も筒型ですが、液槽は一つのみで、二つの電極が壁面のカーブにあわせて湾曲しており、鉛蓄電池ゆえに電圧は2Vです。キャップランプの蓄電池は鉛蓄電池式は2層構造にするため角型で4V、アルカリ蓄電池式は2層型で2.5Vの公称電圧でしたのでそれより低電圧の蓄電池を使用したものです。ちなみにシーグは鉛蓄電池式でニッフェはアルカリ蓄電池式でした。さらにウルフも比較的に早くから蓄池式安全燈を発売していましたが、こちらもアルカリ蓄電池式です。

話は英国製蓄電池灯から脱線しますが、昭和23年に発行された「電気安全燈の理論と実際」という本を偶然入手しまして、当時の紙不足のおり、大変に紙質が悪く70年ほど経過した今では崩壊しそうな本なのですが、この本の著者が長年三井三池炭鉱の安全燈係として勤務されてた方ゆえに歴史から理論、日常の取り扱いにいたるまで実に詳しく書かれた蓄電池安全燈の参考書です。
 その蓄電池安全燈の歴史の中で、蓄電池式安全燈を使用したのは三池炭鉱のような大炭鉱ではなく、実は大正2年にガス爆発事故で423人の犠牲者を出して経営が傾いた石狩石炭の新夕張若菜辺坑を買収して設備面のてこ入れを図った北海道炭鉱汽船により大正9年7月にエジソン蓄電池式安全燈100個を導入したのが嚆矢だったそうです。しかし、この新夕張炭鉱はガス気が多く危険なヤマでその後も小さな事故が続き、設備投資の割には収益が上がらず、早くも昭和6年に閉山させてしまったようです。その大正9年から10年にかけて北炭系の夕張本鉱、空知鉱などに使用が広がり、九州では三池炭鉱が大正12年12月にエジソンD型蓄電池安全燈が600個導入されたのを皮切りに大正13年から14年にかけて高島、方城、鯰田、新入、上山田の三菱系炭鉱と豊国などの明治系炭鉱、田川などの三井系炭鉱でもエジソン式蓄電池燈が導入され、揮発油安全燈から電気安全燈へのシフトが広がっていったそうです。わが国では手提げの蓄電池安全燈はまったく使用がひろがりませんでしたが、唯一本多商店より手提げの蓄電池安全燈が製作されたようです。160831_095125  大正から昭和にかけての工学博士で採鉱学という著書のある永積純次郎によるとシーグ、ニッフェ、ウルフの各手提げ蓄電池安全燈の比較で「シーグ燈は此種の電燈中構造最も完備し、且つ製作優秀なるものとせらる」と記しています。どうやらこれは個人の感想ではなく誰かの受け売りのような感じですが、確かに真鍮のダイカストとプレスを組み合わせた部品構成は精度が高そうで、また落としたりしたところで何の不都合もないような安定感が感じられます。しかし鉛蓄電池を使用していることで鉛の電極や電解液の希硫酸の重量もあり、インスペクションランプでは鉛蓄電池の電解液抜きで2.2キログラムという超重量級です。これはウルフ揮発油安全燈の1.6キロをはるかに上回ります。坑内で分解されないように電球部分と取っ手のついた蓋の部分がリードリベットロックになっていています。さらに蓋の部分を30度ほど回転されると鉛蓄電池の電極の導通が切れて消灯、取っ手の部分を正位置に回すと鉛蓄電池との導通が出来て点灯するというスイッチになっていて、鉛蓄電池の電極にはスプリングが仕込んであるプランジャーになっています。この仕組みは外部と完全に隔離されていて独立したスイッチも設けることも要らずシンプルで良いアイデアだと思います。
 このシーグのインスペクションランプはある種の揮発油安全燈がそうであったように船舶の搭載品として日本にやってきたようで、出所は国際貿易港の神戸からでした。時代的のは1940年から1950年代くらいの代物で、インスペクションランプの形態としてはセカンドタイプになるようです。届いた当初は酸化皮膜で真っ黒でしたが極力パーツを分解してバレルと蓋だけにし、酸性溶液に3時間ほど浸したのちにブラシでこすり洗いし、磨き上げたのがこの状態です。ブラスウエアとしても相当な異彩を放っており、机の上に置いておくだけでも部屋の雰囲気が変わります。入手価格はたったの1k円です。少し前まで中の蓄電池のないシーグのインスペクションランプがオクで半年以上も再出品を繰り返していましたが、やっと最近落札された価格は8k円でした。


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