竹内改良計算尺
大田スター計算尺同様に国産計算尺の黎明期に発売されたものの逸見式計算尺のように後に実を残さず歴史のなかに埋もれてしまったのがこの竹内計算尺です。過去にオークション上で出品されたのが数本というレアな計算尺で現在知られているのは5インチと10インチのマンハイム型2種だけです。10インチのものはKimさんのコレクションに納まっておりまして本体はおそらくマホガニーと思しき木製の計算尺でした。それで5インチのポケット型も木製には違いないと思っていたのですがやはりマホガニー材が使用された木製計算尺です。裏側が寸、英インチ、米インチの換算尺になっている表面4尺滑尺裏4尺のマンハイム型ポケット尺です。尺種は表がA,[B,C,]Dの4尺で滑尺裏がS,L,T,の3尺で副カーソル線窓は開いておらず三角関数などを計算する場合は滑尺を裏返す方式です。
面白いのは裏の単位換算テーブルを使用するときはカーソルを反対側にはめ込むことが出来るような構造になっており、そのために通常のポケット尺のように上面にスケールを持たない練習用計算尺のような上下が平らな上下対称系の計算尺です。目盛りはJ.HEMMIのように刻まれたものではなく、おそらくセルロイドの上から目盛りを印刷したもののようです。そのため一部消えかかっている部分があり、またおそらく磨くと確実に目盛りが消えそうできれいにすることも出来ません。英国系木製尺のようにその上から薄い透明セルロイドシートでも被せてあれば目盛りも消えることがないのでしょうがこのあたりの細工はJ.HEMMI計算尺の敵ではありません。 カーソルはJ.HEMMI初期のもの同様にA.W.FABERのコピーでアルミフルフレームのものが付いていますが、これは実にJ.HEMMIのNo.1のものとまったく同一のものです。以前当方はめまぐるしくカーソルのフレームが変わるJ.HEMMI計算尺を見て、おそらくカーソルはJ.HEMMIが自社製造していたのではなく、どこか別の金属加工屋に作らせていたのではないかと推測していましたが、どうやらそれはあながち間違いではなかったようです。このカーソル製造元がどこであるかは知りませんが、少なくともここではフルフレームのカーソルと位取り付きのカーソルの2種類を製造し、J.HEMMIだけではなく大田スター計算尺と竹内計算尺にも供給していたことになります。そしてなぜかそれらのカーソルを大正14年以前に何らかの理由で供給できなくなりJ.HEMMIでは大正15年式計算尺からカーソルの供給元でなぜか迷走して短期間でいろんなカーソルが出現し、大田スター計算尺は独自のフレームレスカーソルを付けざるを得なかったということなのでしょうか? 表面刻印はC.TAKEUCHI'S IMPROVED SLIDE RULEとなっており、竹内改良計算尺となりますが何に対してどこが改良されたのかがわかりません。Cは当然名前の頭文字なのですがそうなると頭がCHA,CHU,CHOで始まる名前なのでしょうか?CHAは加藤茶のCHAくらいしか思い当たりませんがCHUなら忠一、忠太郎などいくらでも考えられますし、CHOならいかりや長介をはじめとし長一、長一郎など長男を連想させる名前はたくさんあります。さてこの竹内さんの名前はいったい何でどういう人だったのでしょうか?
また表面にAPART OF USED PATENT 21257とありますが、この明治の末のパテントナンバーを記してわざわざそれを使用していないと記する理由と意図がわかりません。
裏面の単位換算尺部分に大阪竹内製とあり、この計算尺が東京で作られたものでなく関西は大阪で製造されたということがわかりました。ケースにはY.T.SLIDE RULEとありおそらくはYさんとTさんのダブルネームだなんて想像していますがTは当然竹内さんでしょうがYさんはいったい誰?
この竹内計算尺に関しては異論もあるでしょうが、製造年代が大正初年あたりから大正10年代までのごくわずかな期間の製造だったのではないかと推測しています。おそらく第一次大戦の混乱で欧米でHEMMI同様に輸出主体で製造していたものの大戦終了でドイツ計算尺の為替安による輸出復活台頭で欧米への輸出が立ち行かなくなり、あわてて国内に販売をシフトしたのでしょうか。しかし、この竹内計算尺はHEMMIのように目盛りを刻むという技術が無く、目盛りが印刷のため使用しているうちに消えてしまうという重大な欠点があり、またマホガニーの複雑な形状加工ということもあって大田スター計算尺同様にポリフェーズトマンハイム尺に改良されることもなく早々に淘汰されてしまったのでしょう。大阪竹内製と漢字で印刷が入っているのと換算尺が寸と吋なことからこの個体は国内向けの製造のものということになります。
ただ幸いなことは形状とその厚みから大田スター計算尺のように反ってしまって滑尺も動かないということもなく、さほど狂いも無く未だに可動することでしょうか。
入手先は和歌山県の橋本市は高野口からです。いかにも古いものが残りそうな場所ですが、こういうところでいったい何の用途で使ったのでしょうか?
追記:Y.T.SLIDE RULEの謎解きですが、このY.T.は発明者竹内彌一(たけうちやいち)のイニシャルであることが判明しました。この竹内彌一は在野の発明家の一人らしく、計算尺の専門家とか計算尺ヲタクというほどではなく、単に構造的な興味しかなかったようで、特許を取得してどこかが商品化してくれたものの、それ以上発展させる気はまったくなく、他の発明に興味が移ってしまったようです。そのため、これ以上改良されて商品展開が始まらなかったのは当然でした。世の中には「竹内式洗米機」という手動式の米研ぎ器が出回っており、これがどうも竹内彌一の発明品らしいのですが、一升用から五升用までのサイズが有り、家庭用から業務用まで揃っているところを見ると、これが竹内彌一の発明品のうちで最大のヒット商品らしいのです。構造的には上にクランクがついた手動式の二層構造となったワンドラム洗濯機のようなものです。
| Permalink | 0
Comments