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December 12, 2017

NEPTUNE 8x30mm双眼鏡(板橋光学機械製作所製?)

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 NEPUTUNEブランドの双眼鏡というと日吉光学OEMのSWIFT NEPTUNEブランドの双眼鏡が海外でも有名ですが、それ以前昭和20年代から30年代初期にかけてもNEPTUNE名の双眼鏡は存在しました。それは特定の会社のブランドなのかOMEGAやSUPER ZENITHなどのような仲間内の協同ブランドなのかはわかりませんが、少なくとも昭和20年代初期から中期にかけてのmade in pccupied Japan(占領下の日本製)時代には存在し、I.O.C.すなわち板橋光学機械製造所製のNETUTUNEが見られます。
 パーツなどの共通点も多いため、仮に板橋光学機械製作所もしくはその仲間内の双眼鏡とさせていただきます。


 板橋輸出双眼鏡にしてはまだコストダウンのしわ寄せが来ていない時期の双眼鏡らしく飯盒型牛皮ケースに牛皮ストラップが付属しているのですが、これが昭和30年代に差し掛かると板橋輸出双眼鏡のケースはボール紙芯に豚革張りケースと豚革ストラップに変わり、昭和30年代末以降はそれさえも廃されてビニールケースにビニールストラップに変わってしまいます。
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 このNEPTUNE双眼鏡は防水でもないのにIF(単独繰出焦点調整)で、金属部分は黒染ではなく黒の焼付塗装です。以前紹介した鈴木光学製の8x30双眼鏡とパーツの形状が殆ど変わらないのですが、鈴木光学のほうは金属プレス部分が真鍮製だったのにこちらは軽合金に変わっており全体的に軽量化しています。そのため、鈴木光学の双眼鏡が615gだったのに対し、こちらは500gちょうどと30年代生産の標準的な板橋輸出用8x30mmCF双眼鏡とほぼ変わりません。
 また近代的な双眼鏡らしく各レンズ面にはシアン色のハードコーティングが施され、表示も「FULLY COATED」と表記がありますが、プリズム面はノーコートです。対物レンズには真鍮製黒染の遮光筒が嵌っていますが、プリズムの迷光処理はありません。それでも鏡体内部が丁寧に黒塗装されているせいで、そこそこは見えてくれる双眼鏡だと思いました。
 このNEPTUNEブランドの双眼鏡の視軸調整には相当苦労しました。鏡体プリズム装着部の加工精度の関係か可動範囲が多く取られており、さらに錫箔による微調整箇所が何箇所もあって、プリズムの黴取り後にまともに組み付けると遠くの送電線鉄塔の先端が激しく上下左右にずれており、プリズムの位置を微調整してもなかなか上下の視差が修正できず、しばらく放り出してしまったこともあったくらいです。それでも根をつめて何度も微調整を繰り返し、これならエキセンリングの調整のみで行きそうなくらいに持ってゆくのにどれほど苦労したか。
 錫箔で微調整の入っている双眼鏡はその位置をしっかり把握しておかないと後で調整に相当手間取ることを実感しました。Dvc00613
 板橋光学機械製作所は昭和22年5月と戦後まだ間もない時期に板橋区前野町に設立された双眼鏡などの組立調整屋さんで、made in occpied Japanの時代から輸出向け双眼鏡のOEM製造を始めたようです。
 その種類も一般的なZ型以外にもマイクロ型などの輸出もあり、さらにオペラグラスはもちろんのこと後にはライフルスコープなども手がけているようです。そのあたりは野口光学工業と同様で、自社ではまかないきれない発注は組立調整まで含めて仲間内に仕事を流すなどのブローカー的な仕事もしていたのでしょう。 
 板橋光学機械製作所の輸出メーカーコードはJB22ですが、こちらの双眼鏡は昭和34年以前の双眼鏡には間違いなく,メーカーコードなどの刻印はありません。昭和20年代後期には従業員数20人以上の規模で板橋区常盤台に工場を構えていたようなのですが、昭和40年の主な双眼鏡組立調整業者のなかに名前が無いので、それ以前に何らかの理由があって事業を辞めてしまったのでしょうか?しかしその後に板橋光学工業という会社が新たに板橋区前野町に設立されていますので、そちらが事業を継承したのかもしれません。

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December 10, 2017

ユニオン光学UNION 8x30 7.5°双眼鏡

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  昭和23年創立の工業用顕微鏡メーカーであるユニオン光学の製品らしき双眼鏡です。ユニオン光学は7年ほど前に悪徳ファンドの手に掛かり、仕手筋と共謀して株価操作したファンド出身の社長が逮捕されて一度破産し、それでも金属顕微鏡としては世界的なメーカーとしての技術を買われて現在は新生ユニオン光学としてよみがえっています。
この本来は顕微鏡専門のユニオン光学と双眼鏡製造の係わりですが、どうも昭和40年代半ばまでは双眼鏡を手がけたことがないらしく、そのため双眼鏡製造メーカーコードを取得しておらず、おそらくはJBコードの表示廃止後になって双眼鏡製造を手がけたようなのです。その理由は判然としませんが、廃業した下請け会社の工場を取得したら、双眼鏡製造の職人まで付いてきて新たに双眼鏡製造業務に参入なんて理由だったかもしれません。
 ところが付属のケースなどからして明らかに昭和30年代後半くらいに作られたユニオン名の双眼鏡があり、それらにもJBナンバーが打たれていないことから推定すると、どうも海外の
顕微鏡輸出先からの要望で顕微鏡と抱き合わせで輸出用の双眼鏡を製造もしくはOEM製造させたということもあったのでしょうか?
Dvc00645 手元にある8x30mm7.5°のUNIONネームの双眼鏡もいえる事ですが、UNIONの双眼鏡は板橋輸出双眼鏡の中にあってもけっこうコントラストが高くてクリアな視界は特筆物で、プリズムもBK7を使用しており、取り立てて特別ではないシングルコートを施されたレンズの組み合わせながら切れ味の良さを感じさせる双眼鏡です。プリズムの表面はコーティングさえ施されておらず、FULLY COATEDという表記ではなくCOATED LENSと表記されているのは表記を素直に信じがたい板橋輸出双眼鏡の中では正直な表示です。
 それでなんでコントラストが高く切れの良い見え方をするのか不思議なのですが、おそらくは鏡体内部の反射防止に黒のメッキか何かの処理が丁寧に施されているのが主因でしょうか。まだ逆光でどれほどコントラスト低下するか試してはいないのですが、いままでに10台くらい試した8x30mmクラスの板橋輸出双眼鏡の中では群を抜いています。ただ、他の双眼鏡に比べて妙に画像が小さく見えたので、実倍率を計測したら6倍しかありませんでした。実質的には6x30mm双眼鏡です。まあこのスペックの方が夜間は使いやすいと思いますが(笑)
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 重量はストラップ抜きで480gと軽量なほうの部類でした。このころになると鏡体は精密ダイキャストの成型で肉薄に仕上げられるようになったのでしょうね。

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December 09, 2017

瑞宝光学精機ZUIHO 8x30mm7.5°双眼鏡

Dvc00624 瑞宝光学精機は双眼鏡などの一般向け光学製品のほかにおもにトランシットなどの測量機器を作っていた会社です。創業は戦時中の昭和18年で多くの光学会社がそうであったように戦時中は陸海軍向けの双眼鏡を補助的に生産する業務を行っています。
測量機器メーカーらしく双眼鏡もニコンやフジノンなどには及ばないもののなかなかしっかりとした製品を出していたようです。この瑞宝光学はカメラの生産も行っていたこともあり、コピーライカのHONORはその希少性から一時期相当の高値で取引されていたようです。
 当方も一時期本家のライカ以外にNiccaやLeotax、TanackからYashicaまで相当な台数、それもアメリカ帰りの美品ばかり持っていたのですが、さすがにMelconやHonorは高くて手に入りませんでした。これらは引越し費用を捻出するために新宿のカメラのキムラですべて委託販売に出してしまい、現在本家のライカM3とIIIgしか残っていません。

Dvc00625  戦後、光学メーカーで少し技術力のあったところはより収益性の高いカメラに手を出すところがあり、さすがにニコン・キャノン・ミノルタ・トプコンなど独自に機械もレンズも生産できるメーカーを除き、双眼鏡同様に既製の部品をかき集めて組み立てるのを本業としていたところが多かったようです。それがリコーフレックスで火がついた前玉回転式の2眼レフの製造でしたが、本家のリコーあたりでもリコーフレックスの生産が間に合わずにおそらくは板橋の4畳半メーカーに組立外注というケースもあったのでしょう。それでカメラ製造のノウハウを得た組立調整屋が独自に2眼レフ製造に手を出しその後35mmレンズシャッターカメラ製造に発展していったメーカーもあったのでしょうが、昭和36年のキャノネットの発売、いわゆるキャノネットショックですべて淘汰されてしまいましたが。

 そういうカメラに手を出して結果的に倒産してしまったメーカーが多かったため、瑞宝光学もより複雑なレンズ交換式フォーカルプレーンシャッターカメラに手を出してそれが原因で討ち死にしたのかと思っていたのですが、測量機器製造と双眼鏡組立で昭和40年代後半まで命運を保ったようです。双眼鏡としては主に輸出用として手間のかかるミクロン型などの製造も手がけています。
 手元にある瑞宝光学の双眼鏡は8x30mm7.5°と標準的なもので、プリズムはBK7ながら全面コーティングされています。さらに鏡体内部も黒のつや消し塗装が施され、対物レンズ筒後部にプラスチックの遮光筒も付いているのですが、当然のことプリズムの迷光防止溝や側面つや消し塗装などは施されていません。見え方は標準的な板橋輸出双眼鏡と比べると、さすがにニコンの双眼鏡よりは見劣りしますがなかなか切れ味の鋭い見え方がすると感じさせます。
 重量はストラップ抜きでちょうど500gでした。瑞宝光学はメーカーコードJB-25が与えられており、この個体にもJB-25刻印がありました。そのため昭和34年以降44年以前、付属品からすると昭和40年以降の製品なのでしょう。
 ケースは表面に革シボ風の加工があるビニール製ポシェット型ケースで野口光学工業の双眼鏡のものに似ているのですがジッパーがこちらは樹脂製のものでした。それを見てもさほど古い製品ではないようです。
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このZUIHOネームの双眼鏡は輸出用としてはかなり雑多な種類のものが輸出されており、中小零細の双眼鏡業者に組立てさせたものを自社のブランドをつけて輸出に回したというものも見受けられます。そのため、種類により出来不出来の差がありそうです。アメリカのコレクター情報によるとやはり昭和40年代のZUIHO商標の双眼鏡はどこかが取得してOEMでどこかに作らせていたという話もあります。

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December 08, 2017

鈴木光学精機SUZUKO SILVER 8x30mm双眼鏡

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  昭和2年に創業した鈴木光学精機製8x30双眼鏡です。元来は顕微鏡メーカーとして設立されたようです。
戦時中には補助的に陸軍の6x24mm双眼鏡および海軍用7x50mm双眼鏡を製造しています。
  この8x30mm双眼鏡はおそらくは戦後の製造のものだろうと思うのですが、それというのも戦時中の鈴木工学の双眼鏡はおにぎりマークに光という文字の入ったもので、さらに8x30ということもあり戦後の製品に違いないと思うのですが、右の接眼鏡内部に十字のミルスケールが刻まれています。

 レンズにもプリズムにもコーティングがまだ施されない時代の製品ですが、それというのも昭和25年あたりにはすでに鈴木光学は戦時需要で肥大化した屋台骨を支えきれなかったらしくて富岡光学や第一光学同様に倒産の憂き目に遭ってしまったからのようです。富岡光学の双眼鏡製造部門を大船光学として再出発したように鈴木光学も東洋光学と社名も変わって再出発したようなのですが、その後の動向は把握していません。
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 ところが昭和20年代後半から昭和30年代前半に掛けて同じ鈴木光学というカメラマニアでは知らないものがいない会社が存在し、ローマの休日という映画で使用されたライター型カメラ「エコーエイト」や旭光学のタクマーレンズを使用したプレスパンなどの製造で有名な会社だったのですが、こちらは戦前から存在した鈴木光学とは何ら関わりがありません。エコーエイトの製造元の鈴木光学の社長は戦前から戦時中にかけて35ミリコピーライカを手がけていたカメラ技術者だったようです。

 このSUZUKOブランドマークの8x30mm双眼鏡はSILVERの商標名が刻まれています。後の8x30mm双眼鏡と比べるとやたらに重い双眼鏡で、昭和30年代末ころの製造の8x30mm板橋輸出双眼鏡が500g強の重量なのに対して600g強の重量があります。おそらくは鏡体が金型を起こして成型されたダイキャストというよりもロストワックスによる鋳物なのでしょう。そのため収縮率の関係で肉薄にすることが出来ず、大変に重い鏡体が出来上がったのだと思われます。
鋳物ということもあり、プリズムの収まるポケットは後加工である程度プリズムの可動範囲の余裕寸法が取られているため、プリズム洗浄後の視軸調整はかなり大変でした。こういうのは後の精密ダイキャストの成型品になって、プリズムがピタリと収まり、あとは対物レンズのエキセンリング調整だけで済んでしまう双眼鏡とは隔世の感があります。
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 ノーコートということもあり対物の遮光筒以外の迷光防止もなく、鏡体内部に一部しか黒塗りもされていないせいでコントラストはかなり低いのですが、光軸合わせに相当苦労したこともあってこの双眼鏡で遠くの送電線鉄塔の天辺を見てみると思わず笑みがこみ上げるのです(笑)
 ノーコートとばかり思っていたのですが光に透かしてみるとわずかに対物レンズと接眼レンズ張り合わせ面にのみ薄いシアン色のコーティングが見受けられました。当時ゆえにハードコーティングの技術が無くソフトコーティンングのようで、触れるこのとない対物レンズと接眼レンズの接合面にのみコーティングを施したということでしょうか。

 実は昭和28年2月に同名の鈴木光学精機という会社が江戸川区の西瑞江に設立され、双眼鏡製造に携わったようです。戦前の鈴木光学精機との関連性は判明せず、どういうブランドの双眼鏡も作っていたかも判然としないのですが、板橋からかなり距離の隔たった千葉県に近い場所で部品の輸送にも時間がかかるところでなぜ双眼鏡組立屋を始めたのかその理由を知りたいところです。
 さらにややこしい事には昭和35年板橋区前野町にも鈴木光学という会社が操業し、双眼鏡組立調整を行っていたようですが、商業統計などを調べると従業員はたったの2名のまさに4畳半メーカー。おそらくは旦那と奥さんもしくは父親と息子の家内工業だったのでしょう。鈴木姓は日本で2番目に多いだけに光学関係でもこれだけの会社が双眼鏡製造に関わっていて歴史を複雑にしています。

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December 07, 2017

HANSA 8x30 7.5°双眼鏡(三和光学製)

Dvc00635 HANSAブランドで有名だった近江屋写真用品は戦前から富士フィルムの有力代理店のひとつで、フイルムの各販売店への卸業務が収益の柱だったものがデジカメの台頭でフイルム需要の激減により富士フィルムが代理店から直接販売に切り替えるという発表を受けて2004年に特別清算手続の地裁決定を受けて廃業してしまいました。
 フイルムカメラの時代には現像用品から引き伸ばしの機器や薬品類までありとあらゆる種類の写真用品がつきものだったのですが、デジカメの時代になった途端にそれらの需要もまるっきり減ってしまって、まさにデジカメに倒産させられたようなものでした。

その近江屋写真用品ですが、古くから自社のHANSAのブランドをつけた双眼鏡をカメラ店ルートに乗せて販売しており、古くは昭和30年代の板橋輸出双眼鏡メーカーから、新しくはオールプラスチックの中国製と思しき双眼鏡にHANSA/SUPER ZENITHのダブルネームの双眼鏡までありました。
 そんなわけで昭和30年代から40年代初期に掛けてOEM製造されたJBコード付きの双眼鏡を製造元が知りたくて100円で入手しました。
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 岩手から届いたHANSAブランドの双眼鏡はこちらも板橋輸出双眼鏡クオリティーには違いなく、BK7材のプリズムはいちおうコートはされており、シアン色モノコートの対物レンズには遮光筒もあるものの鏡体内部はダイキャストの銀色の地肌がそのままです。そして許せないのはプリズムのひとつの端のほうに、おそらく机の上から床に落としたときに硬いものにでも当たったのか小さな貝殻上の割れがあったことです。見え方には影響は無いものの、おそらく逆光などではフレア発生の原因になってしまうでしょう。
 こんな仕事をした組立屋がどこなのかと思ったらJB82というコードから三和光学という会社が作ったものとわかりました。

 この三和光学という会社は板橋からやや離れた中野区の鷺宮に存在した輸出双眼鏡組立の会社で、創業は昭和30年7月と零細輸出双眼鏡業者が雨後の筍のように乱立しはじめる時期にあたります。当時すでに部品分業体制が確立しており、足りないのは組立調整の人手が一番かかる部分だけとの状態だったため、組立調整屋がつぎつぎに開業していった時代だったわけですが、この零細組立調整屋のうえに国内流通業者や貿易業者に営業を仕掛けて仕事を取ってくる周旋業者がいて、従業員4人から6人くらいの組立調整屋はその双眼鏡製造ギルドの中に組み入れられていたのでしょう。
 そのようなわけで、国内写真用品卸大手のHANSAと三和光学との間には中間業者が存在したことは確かで、HANSAブランドの双眼鏡に一貫性がないことから見ても発注のたびに一番手空きの組立調整屋に仕事を回していたふしがあります。 Dvc00633

 この三和光学製のHANSAブランド8x30mm視界7.5°双眼鏡ですが、製造はおそらく昭和40年代前半くらいでしょうか。国内大手写真用品卸が発注元だったためにプリズムのコーティングまで省略されるほどのコストダウンはされていないものの鏡体内部は塗装もされておらず、高級品にはなれなかった板橋輸出双眼鏡の流れを汲むものには違いない双眼鏡ですが、そのままでもそこそこは使える双眼鏡です。迷光防止対策として鏡体内部やプリズム側面のつや消し塗装を施せばおそらくもっとコントラストが高くなるのではないかと思うのですが、いかんせん光路に影響がないもののプリズムの欠けた部分が逆光では迷光発生の原因となり、見え方に影響するのは必至です。
 今だったら一発クレームもので、品質管理を問われて仕事が激減しそうな事態ですが、当時は員数合わせのほうが優先されたのでしょう。
 ケースはHANSAのエンボスロゴが入ったピニール製ポシェット型ソフトケースでした。

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December 06, 2017

輸出双眼鏡製造の野口光学工業TOKUTATARONICA 8x30mm双眼鏡

Dvc00627_2  今から30年ほど前の夜の新宿西口路上のこと。にわかに色とりどりに着色されたプリズムを並べた露店が並んだことがありました。それは円高不況で輸出専業業者が大打撃を被り、倒産廃業が相次いだあとだったため、直感的に輸出用の双眼鏡をやっているところが倒産してバッタものとして流れたものだと思いました。
それでも一個一個は換金性に乏しい双眼鏡部品ですからせめてプリズムくらいは着色すれば幾ばくかは売れると思ったのでしょうか。1個300円ほどで売られていた双眼鏡用のプリズムは見た目はたいへんにきれいなのですが、それを買ってどういう用途に使用するかということを買い手に丸投げしてもペーパーウエイトくらいにか使いようもなく、売れているところをついにぞ一度も見たことがなく、しばらくしたのちそのプリズム売り自体見かけなくなりました。
Dvc00628_2  戦後、輸出産業の花形のひとつだった光学機器、特に双眼鏡は外貨獲得の手段として重要な輸出商品でした。 その殆どは東京都の板橋区の零細光学部品屋とそれを統括する組立調整屋によるものでした。最盛期の昭和40年前後にはそういう双眼鏡関連部品や組立調整屋が板橋区内だけでも二百数十軒存在していたそうですが、昭和46年12月のスミソニアン合意による円の切り上げならびに昭和48年4月の円完全変動相場制移行により円の対ドルレートが一年半の間に100円も下がったことにより輸出に大打撃を被り、さらにその後のオイルショックによる部材の高騰によって産業自体が成り立たなくなったために零細の双眼鏡関連業者は廃業を余儀なくされたのです。
 その後も円高不況は続き、昭和60年のプラザ合意により円が250円から200円に高騰したことで日本の双眼鏡輸出は止めを刺され、倒産した部品屋からプリズムがバッタに出回り、新宿西口の露天に並ぶことになるのです。
Dvc00629_2 その少しあとのことですが、当時勤めていた玩具製造メーカーに板橋の双眼鏡屋と称する人から売込みがありました。その人は野口光学工業の野口さんという方でした。その野口さんが少々パンチパーマっぽい髪型にイタカジ風のいでたちで、当時まだ狂乱バブルも訪れていなかった時期にBMWを乗り回すというおおよそカタギっぽくない方でしたが、話を聞くと板橋でも老舗の双眼鏡屋だということでした。
 ところがその名刺に書かれてあるTOKUTATARONIKAという登録商標が冠された双眼鏡というのは見たことも聞いたこともありません。それでAR-18とAR15用の特殊なマウントのライフルスコープをオファーしたのですが、これをアメリカに輸出したのが野口さんだということです。このそれぞれ特殊なスコープマウントも仲間の部品屋の手になるものなので、1ヵ月少々あれば完成品として納品できるとのこと。
 それで高価なものなので1ロット200個で発注したと思いますが、意に反してすぐに売り切れてしまいました。
 その後他のメーカーや問屋にも通常のライフルスコープの売り込みに成功したようで、今残っていてオークションに出てくるTOKUTATARONICAの商標の光学製品はこの当時エアガン用に売り込まれたライフルスコープが殆どです。また、話によるとどうもこの野口さんは現在自社組立は行っておらず、仲間の光学部品屋に仕事を取ってくるというブローカー的な仕事を専業にしているようでした。
  その野口光学工業の野口さんとは主にうちの工場のほうに納品となったために2度ほどしか接触がなかったのですが、工場のほうでは若いのが「モロボシ・ダン隊長」などとすぐに陰でニックネームをつけられたくらいの見かけが個性的な人でした。当方、あまり森次晃嗣に似ていらしたとは思わないのですが(笑)

 そんなことも忘れかけて30年も経過しましたが、オークションでTOKUTATARONICAネームの入った双眼鏡を入手してしまいました。普通このクラスの板橋輸出双眼鏡というと500円程度が相場なのですが、陣笠が一部欠けているのにもかかわらず2000円もしました。届いた8x30 7.5°のZタイプの双眼鏡は典型的な板橋クオリティーのもので、対物レンズも接眼レンズもシアンのモノコートながらBK7のプリズムの一応はコートされていました。鏡体内部は黒メッキをかけたようで、反射防止としては手間もコストも掛かっていないものです。鏡体のプリズムが納まる部分の加工精度はあまり正確に出ていなかったようでプリズムとの接触面に錫箔により修正箇所がありました。しかし、たがね打ち込まれプリズムが踊らないように加工されたプリズムポケットはしっかりしています。後の怪しげな海外製品とは異なりニコンやフジノンなどに及びもしないながらちゃんとまじめに作られた製品です。ただし実用的には迷光防止処置が甘いのでそれがコントラストなどに影響して少々コントラストとシャープネスに不満はありますが、一般的な水準の板橋クオリティーの双眼鏡です。
 野口光学工業は輸出双眼鏡製造業者としてJB-171の識別コードが割り当てられていましたが、この個体には組立業者を表すJBコードも鏡体を製造した業者を表すJEコードも打たれていなかったことや、接眼見口が眼鏡用に折込が可能なゴム見口ではなかったことなどから昭和40年代半ばの製品だと思われます。野口光学工業の商標が打たれた双眼鏡を殆ど見たことが無いため、おそらくは輸出用として製造したもののキャンセルを食ったとかそういう理由で自社ブランド品として国内に流したような事情があったのでしょう。
ケースはこの当時に8x30双眼鏡などに一般的だったビニールのソフトケースですが、ピカピカの安っぽい黒ビニールではなく革もどきのシボが入ったポシェット型ケースでした。

 その野口光学工業ですが、最近調べたところによると創業は何と昭和の6年で板橋ではトプコンの東京光学機械より古い会社です。全盛期の昭和40年には板橋に200坪の組立工場と従業員20人を抱えた板橋の零細双眼鏡組立調整工場にしては中堅以上の規模を誇っていたようです。他の組立調整業工場は八百屋のような建物の一階が資材倉庫兼機械置き場、階段を上がった二階が調整場で300mほど先の風呂屋の煙突の先端を見ながら光軸修正を行うなどという規模の工場が殆どだったようです。それも親方と奥さんに職人2人から4人という4人から6人というのが普通でした。またこれらの工場はいちおう独自の商標は持っていたものの自分のところの商標を使った双眼鏡を製造するということはごく一部を除いては稀で、納入先や貿易商社の指定する商標を冠したOEM製造が殆どでした。
 このあたりの板橋双眼鏡産業事情に関してはビクセン光学にいらした斉藤氏が詳しく書かれていますが、クラウンやセドリックはおろか、外車を乗り回すほど羽振りの良かった双眼鏡屋さんたちも円の切り上げや完全変動相場性以降で輸出が立ち行かなくなったあたりで廃業が相次ぎ、野口光学工業さんも昭和47年ころには早くもブローカー専業となったようです。 早くから自社の建物を建てたところは未だに会社は存続しているものの40年以上不動産賃貸業としての実態しかないような会社があるようです。すなわち板橋輸出双眼鏡組立屋の勝者というのは輸出双眼鏡組立で得た儲けで自社ビルでも建て光学製品から足を洗い、不動産賃貸業に転業した組立屋さんだということです。

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