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August 31, 2019

半纏・志ん宿十二社いずみ(新宿区熊野神社祭礼)

Photo_20190831134301 Photo_20190831134302  背中に大きく志ん宿十二社(しんじゅくじゅうにそう)と染め抜かれた、半纏襟にいずみという表記のある熊野神社祭礼用の長半纏です。十二社(じゅうにそう)というのは東京でも難読地名の一つですが、現在は西新宿4丁目という住所表示になっています。十二社界隈にはその昔、熊野神社の境内に大きな滝があり、それに付随して大小の池(そもそもは農業用のため池だったという)があって江戸の時代から景勝の地だったという話です。熊野神社は室町時代の応永年間に紀州出身の商人、鈴木九郎によって熊野三山の十二所権現全てを祭ったのが十二社の名前の始まりといわれています。その十二社池の畔は今でいう江戸っ子のちょっとした行楽の地となり、やがて茶屋や料亭などが立ち並び、花街として最盛期には100軒の茶屋や料亭がひしめいていたとのこと。
 その十二社池も新宿副都心整備の一環として昭和43年に淀橋浄水場などとともに埋め立てられてしまったようで、現在は池に向かって道路がわずかに傾斜している地形でしかその痕跡をたどる事ができません。今でも十二社通から一歩入ってしまうと少し時代が止まってしまったような路地が現れるようです。それが西新宿のビル群とのコントラスト深めています。
 実は当方、れっきとした元新宿区民で、新宿区で成人式に出席しています。成人式の講演は生活の知恵などでおなじみのNHKの酒井広アナウンサーと当時ナナハン師匠だった現人間国宝柳家小三治師匠でした。住んでいたのは柏木と呼ばれる北新宿なので、熊野神社のテリトリーからは外れてしまうのですが、西新宿には今でも何となく郷愁を感じてしまいます。
 現在、熊野神社の春と秋の例大祭には熊野神社氏子の町神輿が13基出るようで、それぞれの睦が存在するらしいのですが、昔から13睦なのか、いつの時代から町会が統合され、13睦になったのかはわかりません。十二社のいずみという睦がいまでもちゃんとあるのなら申し訳ないのですが、やはり十二社界隈の居住人口減少と高齢化で十二社宮元に統合してしまったのでしょうか?いちおう現在の13睦は十二社宮元、角三、西新宿、角一東部、西新宿1丁目、角一南部、歌舞伎町、欅橋、柳橋、淀橋宮本、谷中、元淀、新宿西口でしょうか?角は「かく」ではなくこの界隈の旧名角筈(つのはず)の「つの」ですので念のため。
 この十二社いずみの半纏はけっこう厚くて立派な生地が使用されている長半纏です。いまのように多色染めというわけではなく紺の木綿地に白染め抜きですが、時代的には昭和30年代から40年代くらいでしょうか。このころはまだ西新宿の各商店街も賑わっていたでしょうし、居住人口もまだまだ多数あったのでしょうけどその時代は知りません。でも当方が新宿に住み始めた昭和53年頃は京王プラザホテルの西側にはまだ高いビルは一棟もありませんでした。

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August 30, 2019

半纏・アツミ自転車(渥美自転車製作所:台東区)

 Photo_20190830124101 Photo_20190830124102 アツミの自転車と表記のある自転車メーカー渥美自転車製作所の割と長めの半纏です。時代はおそらく昭和20年代後半から30年くらいに掛けてのものだと思います。自転車メーカーの半纏というのは意外に種類が多く、というのも当時の町の自転車屋さんは普段着に半纏を引っ掛けてパンクの修理などの作業をしていたのでしょう。今は自転車生産から手を引いてしまっている日米富士自転車や片倉工業、水谷自転車、ツノダ自転車、宮田自転車、ブリジストンなどの半纏もあり、酒屋半纏同様ある一定のコレクターが存在するようです。このアツミ自転車は東京の台東区に存在した当時ですから丈夫な実用車のメーカーで、おそらくはフレームだけ自社製造でその他のギアやチェーン、ブレーキはハブ、タイヤやスポークは専門部品メーカーから仕入れるいわゆる組立工場だったのでしょう。ところが昭和30年に近づいた頃、何とオートバイに手を出してしまいその後資金繰りに窮したのか倒産してしまったようです。自転車メーカーは本田の赤カブ(補助エンジンの方)やビスモーターのように原動機を自転車に着けた時代から本格的にオートバイとして設計された物の時代が来たのを好機と見て、オートバイに進出するところが多くありました。その結果はアツミ同様に山口自転車は倒産、宮田、日米富士や片倉は早々に撤退、ブリジストンは輸出のみという形で粘りはしましたがオートバイから撤退しています。その原因は少なからず本田のスーパーカブ発売が原因なのでしょう。キャノンのキャノネット発売で弱小カメラメーカーが次々に倒産に追い込まれたのと同様です。
 まあこのアツミ自転車は「自転車屋がオートバイに手を出して成功したところなし」を地でいったような会社ですが、そのオートバイの存在は手元の資料ではもう30年以上前に八重洲出版から出版されたモーターサイクリスト別冊国産モーターサイクル戦後史に掲載されていたと思い、今回探してみましたが見つかりませでした。
 しばらく前であれば古典自転車マニアの人がアツミ自転車の紹介をしている頁に行き当たったのですが、現在は自転車の頁は閉鎖されてしまったようで、謎のオートバイとしてアツミオートバイを公開している人の頁にしか行き当たりません。
 この半纏は東北方面から入手したものだったため、おそらくは関東を越えて東北方面にも自転車はシェアがあったのかもしれません。黒木綿の半纏で腰模様がローマ字というのが洒落ています。背模様はおそらく前輪の大きいオーデイナリー型自転車の前輪にアルファベットのAのデザイン文字があしらわれたもののようです。半纏のデザインとしてもなかな秀逸なデザインだと思います。もっとも自転車は商店で配達に使用するようなごつい実用車でしたが。

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August 29, 2019

半纏・朝日鷹(高木酒造:山形県村山市)

Photo_20190829121101 Photo_20190829121201  山形県村山市は実は母方の実家があり、その実家の所在地だった大字名取の最上川を挟んで北西の方向にあるのが富並という古くからの稲作地域です。その富並に江戸時代初期から綿々と続く酒造会社が高木酒造です。朝日鷹を商標にした酒で、ごく地元の配達出来る範囲に直売するくらいの規模のいわゆる地酒の醸造元だったのですが、25年程前に十四代という銘柄の日本酒が日本酒マニアに大好評を博し、一気に全国に名前を轟かすことになった酒造会社です。その人気ぶりは山形県内から小売価格で十四代をかき集め、倍以上のプレミアム価格で売るというようなブローカーが暗躍し、地元でも手に入らないという現象が生じました。実は当方の母方の伯父が地元の税務署勤務で、酒税担当ではないものの高木酒造の13代目、14代目はよく知っているという話でした。当方千葉の成田近辺に在住の時は電車で品川まで出てからわざわざ東急の武蔵小山に立寄り、酒屋のかがた屋さんに立ち寄って十四代の一升瓶を2本抱えて目黒線、大井町線、田園都市線から横浜線に乗り換え、山形を引き払って町田在住だった伯父の所に行き、よく十四代を酌み交わしたものです。そのときに高木酒造に関する話も聞きましたが、13代目を高木の親父、14代目を高木の息子と称していました。高木の親父が村山市長選に立候補したけど落選したとか、村山で最初にクラウン買ったのは高木の息子で、楯岡から天童の税務署に出張するときたまたまそのクラウンに便乗させてもらったら雪で滑って雪山に突っ込んだとか、そんなような与太話ばかりです。その大正14年生まれ伯父も亡くなって今年で7年も経ち、そんな話を聞きながら酒を酌み交わしたのも昔話になりました。
 この高木酒造の半纏はまだ十四代ブランドが確立する前のおそらくは昭和末期くらいのものではないと思っています。今は十四代の半纏しか作っていないのでしょうか。酒屋半纏には珍しい茶色のメクラ縞半纏で、なんか遠目には丹前生地にも見えてしまいますが(笑)
 表の半纏襟には清酒朝日鷹の染め抜き。裏は清酒朝日鷹の文字が黄色い起毛印刷で描かれています。

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半纏・金滴(金滴酒造:樺戸郡新十津川町)

Photo_20190829093701  樺戸郡新十津川町にある金滴酒造の半纏です。
新十津川町は明治22年の奈良の十津川郷の大水害で被災した人たちが移住して築き上げた開拓地でした。十津川郷の人たちは古くから朝廷に仕えており、南北朝時代に南朝を支えた関係で十津川郷士として特別な地位を与えられ、幕末には朝廷警護のお役を賜ったほど勤王の志厚く、明治になってからも全員が士族身分となった由。明治22年8月の大水害は台風がらみの大雨で十津川(熊野川)の流域の山腹が崩れてあちこちで天然ダムが形成され、その決壊による大洪水で甚大な被害を生じたとされています。このとき、十津川郷の復旧には30年は掛かるだろうなどといわれるほど地形も変わってしまい。十津川郷6か村内の戸数2403戸の約1/4、610戸が被災、同年10月に被災者2489人が北海道に移住。翌明治23年6月に600戸2489人が石狩川支流の徳富川流域のトック原野に開拓に入ったのが新十津川町のそもそもの始まりです。未開の原野の原生林を切り倒し、耕地として整備し、米が取れるようになるまで10年は酒を飲まずに開拓に従事するという誓いを立たそうです。一面の水田地帯にするまでは並大抵の苦労ではなく、その辺りは昔のNHKドラマ「新十津川物語」にもなるほどでした。入植から10年を経て、やっと稲作の目処が付くようになりましたが、度重なる石狩川の水害、害虫の大発生などの災害にも見舞われながらも一大稲作地帯としての基盤を固めて行ったそうです。
 そのような開拓の歴史の中で明治39年に主に十津川郷出身者90人の出資により創立したのが金滴酒造の前身の新十津川酒造で酒名は徳富川でした。他の酒造会社というのはたいてい地元資産家の個人経営の酒蔵が殆どですが、こちらは最初から地元出資者による株式会社組織の会社でした。大正7年に増資したのを機に酒名を金滴、銀滴、花の雫に変更。金滴はピンネシリ山から流れる砂金のイメージから命名したもので、これが今に続いています。戦時中昭和19年には企業整備法で他の3蔵を統合合併し、存続会社となり、戦後の昭和26年に現在の金滴酒造に社名変更し今に至ります。金滴酒造は2008年に売り上げ不振から負債6億円余りを抱えて札幌地方裁判所に民事再生法の適用を申請。千歳鶴の日本清酒の支援が入り、社長が元道議会議長、取締役が元日本清酒役員の新体制で2009年4月に再建計画が裁判所で承認され旧資本全額減資のうえ1社7人の新たな出資1500万円で再建着手。その翌年に迎え入れられたのが現上川大雪酒造の川端杜氏です。川端氏は北海道産酒造米の吟風を使用していきなり2011年の新酒鑑評会で金賞を獲得。普通酒の生産がほとんどで、取立てて日本酒通の話題にも上る事もなかった金滴の名を一躍有名にしたのですが、川端杜氏は2014年の11月の取締役会で突然他の従業員数名とともに解任されます。この辺りの話は憶測が憶測を呼んでいますが、会社側は円満退社、川端氏側は解雇というように考えており、杜氏は以前の小野寺氏が復帰したとことでした。
 その金滴のメクラ縞半纏ですが、実際に仕込みに従事したことのある蔵人さんの持ち物だったのでしょうか。男山の半纏と一緒だったものです。かなり着古されたもので襟の上などぼろぼろになってます。普通の酒蔵は蔵じまいのときには蔵人に新しい半纏と帆前掛を配るのがしきたりだったとのことですが、よっぽど資金に余裕がなかったのでしょうか(笑)
 なお、半纏裏には背文字等ありません。

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August 27, 2019

半纏・北海男山(株式会社男山:旭川市)

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 北海男山は旭川の株式会社男山が醸造販売する清酒の酒名です。こちらの男山は新酒鑑評会金賞の常連ですし、モンドセレクションにも毎年出品して金賞を受賞し、今や北海道を代表する日本酒の蔵元です。
 関ヶ原の乱が起こった1600年頃、伊丹の鴻池善右衛門(後の鴻池財閥の始祖)が清酒の大量醸造の方式を編み出したことにより摂津の伊丹周辺が清酒醸造の一大産地となり、江戸に大量に下り酒として日本酒を送り出します。その後幕府の江戸に送られる伊丹酒の総量規制が掛かってから伊丹周辺の酒造業は衰退しますが1666年(寛文6年)に伊丹の領主になった公家の近衛家が醸造を保護育成したためその後も発展を続け、剣菱が将軍の御前酒にもなったという話です。そのなかで木綿屋山本本家の男山は元禄から享保にかけて最盛期を迎え、男山は8代将軍吉宗の御前酒にもなったという銘酒でしたので、その男山の名前にあやかった酒が全国に広がることになります。その伊丹酒も享保の末期から兵庫の灘が地の利なども活かして伊丹や池田の酒を脅かし、江戸後期の天保年間に西宮で宮水が発見されたことにより灘の酒質が向上して伊丹の酒造業は衰退し、剣菱や松竹梅は灘に移転し、男山の木綿屋山本本家は明治の初めまでに休醸してしまいます。
 北海男山は明治32年に山崎與吉が旭川に山崎酒造場を開設したのが始まりです。地元の上川米を使用し、今泉という酒名で軍都旭川の第七師団、鉄道建設に携わる人夫たちの需要を支えましたが、戦時中の昭和19年に北の誉の野口酒造場を存続会社とする旭川酒類に戦時統合されてしまいます。
戦後に多くの旭川の酒造メーカー同様に昭和24年に旭川酒類より分離独立し山崎酒造として北海男山の酒名を使用しますが、昭和43年に木綿屋山本本家の末裔を探し出して男山の名と印鑑及び納め袋を正式に継承。会社の名前も男山株式会社に改称し今に至ります。蔵元は代々山崎與吉の名前を継承しています。
 北海男山が日本酒の衰退後も生き残ったのはひとえに技術を磨いて酒質の優れた日本酒を作り続けてきた事につきます。現在旭川の蔵は高砂酒造、男山、合同酒精の大雪乃蔵の3酒造業者にまで減ってしまいましたが、どの業者も酒質を追求したことにより一時の日本酒離れをによる酒蔵廃業ラッシュを乗り越えた酒造場です。ただ、高砂酒造は本業以外のゴルフ場子会社の経営破綻で資金が焦げ付き、千歳鶴の日本清酒の子会社になってしまいましたが。
 この黒の半纏は製造元はわかりませんが半纏襟には清酒男山、背には北海男山のロゴが染め抜きされたものです。おそらくは昭和40年代のもので丈が短く詰められているので実際に仕込み作業に使用していたのかもしれません。いっしょに金滴の半纏も同様に短く詰められたものが出て来ています。男山と金滴の両方の仕込み作業に携わったことのある元蔵人さんの持ち物だったのでしょうか。

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半纏・北の錦(小林酒造:夕張郡栗山町)

Photo_20190827090101 Photo_20190827090102  北海道の栗山町で現在も盛業中の小林酒造、北の錦の半纏です。
栗山町の表玄関のJR室蘭本線栗山駅というのはその昔、大変ににぎわっていた駅で、それというのも炭都で最盛期は12万人の人口を誇った夕張市への短絡路線である夕張鉄道の接続駅だったのです。夕陽に照らされた3両編成の珍しい夕張鉄道湘南フェイスの気動車。額からは長いタイフォンのラッパが飛び出しているその姿は目に焼き付いています。
 その炭都夕張の炭鉱従事者人口の需要で隆盛を極めていたのがこの小林酒造でした。
 小林酒造の創業は何と明治11年だそうで、江戸時代から続く酒蔵が普通にある内地と比べるとせいぜい140年程ではありますが、北海道でいまだに続いている酒蔵としてはもっとも古い日本清酒の前身柴田酒造店(明治5年)に続くものです。日露戦争直前の明治33年に栗山町に移転、以後順調に規模を拡大し、旺盛な炭鉱関係の需要に応えて来たようです。昭和18年の企業調整法によっても札幌市内の酒造メーカーなどと統合されず、逆に陸軍指定工場になって原料の確保が出来、単独の経営が可能だったとのこと。
 戦後、炭都夕張の凋落と人口減少により大幅に石高を減らしてゆくものの、いち早く道産酒造米に注目し、前蔵元と前社員杜氏の脇田征也氏(苫小牧工業高校OB)の二人三脚によって酒質を高め、本州産山田錦と協会9号に頼らず、道産米だけで鑑評会金賞を受賞するまでになったというのは画期的なことでした。以後道内酒造メーカーのほとんどが道内産酒造米を使用して高品質な酒を作出すること北海道全体の日本酒の評判を上げる結果になっています。また、この小林酒造はプライベートブランドが非常に多く、旅館やホテルの名前のラベルの酒があったかと思ったら北の錦だったり、各地の酒屋などの協同組合が自分の土地の水をわざわざ持ち込んで特別に仕込んでもらうような事に広く対応しているようです。
 この北の錦、株式会社小林酒造のめくら縞半纏は比較的に新しい昭和の末期頃のものだと思います。というのも背中の清酒王北の錦のロゴがベルベットのような起毛印刷になっており、これは今出来の化学繊維の酒屋半纏でもよく使われている印刷法だからです。半纏襟は○田株式会社小林酒造の染め抜きで、半纏襟裏にひょうたん型の記名部分の染め抜きがあり、おそらくは君が袖と同じ仙台の業者の半纏でしょう。

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August 26, 2019

半纏・登鶴(登鶴酒造:旭川市)

Photo_20190826133401  登鶴酒造は旭川にかつて存在した酒蔵の一つです。北海道内におけるシェアはかなりあったようで、広く北海道内に製品が出荷されていましたが、昭和61年に廃業し、商標は栗山の小林酒造に譲渡されました。うちの近所の酒屋さんの表にも未だに登鶴と北の錦の看板が掲げられています。登鶴の醸造元は旭川で米穀商・肥料商などを営んでいた京都出身の世木澤藤三郎が、大正7年に地元の瀬古太郎助の酒造場(明治37年創業)を買収した酒造会社で、おそらくは事業を継いだ長男の世木澤登の名前にちなんだのが登鶴ではないかと思います。
 軍都旭川の旺盛な日本酒需要に支えられ、隆盛を極めますが、戦前の石高総量規制、統制経済による原料米の制限などを経て昭和19年には北の誉の野口酒造を存続会社とした旭川酒類株式会社に戦時統合されてしまいます。戦後の昭和24年に旭川酒類から分離独立して登鶴酒造になりました。昭和40年頃には北の誉などと同様にTVのCMが頻繁に流れるほどだったのですが、アルコールの嗜好変化による日本酒離れには抗しがたく廃業となってしまった由。レンガの酒蔵は移築され確かお菓子の会社のお店になっているらしく、またレンガ造りの蔵のある世木澤家の本宅はいまだそのままの姿で残っているそうです。
 このめくら縞半纏もざっくりと分厚いもので、仙台青山染工場の「青山製」の染め抜きが半纏襟裏にあるものです。背模様はありません。
 ちなみに登鶴はその音読みで「とうかく」から選挙には欠かせなかった酒だそうです。現在では酒を振る舞うのは当然ダメとして、選挙事務所に陣中見舞いとして酒を送るのもはばかられるのかこういう酒の姿も減りました。 なお、商標を受け継いだ小林酒造では業務用、宴会用などの一合瓶に登鶴の名称を使用したものが作られています。よほどおめでたい酒名と認識されているのでしょうか。

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半纏・君が袖(君が袖酒造:網走市)

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 網走監獄のイメージか最果ての地の印象が強い網走市ですが、ここにも昔は漁業関係者などの旺盛な日本酒需要に支えられた酒蔵が存在しました。その酒名は「君が袖」です。万葉集にある額田王の確か天智天皇に対する相聞歌『茜さす紫野ゆき標野ゆき野守は見ずや君か袖振る」から命名された粋な酒名で電氣正宗などという世俗的な命名とは比べ物になりません。創業は昭和4年で廃業は昭和47年となっているようですが、平成7年頃から網走の酒店有志が網走の水をわざわざ新十津川の金滴酒造に送り委託醸造してもらった君が袖ブランドの日本酒が復活しています。ただ、滋賀に同じく「君が袖」の名の焼酎があるためか、ブランド名は「君が袖」を避けて「君が袖ふる」までがブランド名とされたような気もしますが、地元ではもちろん君が袖としか呼ばれていない由。
 このメクラ縞半纏はざっくりと分厚い昭和30年代くらいまで遡るもので、おそらくは仙台産らしいのですがどこの製品なのかわかりません。ただ、半纏襟裏に白くひょうたん型に染め抜きされた記名部分があるという特徴があり、他の半纏にもひょうたん型の染め抜きの存在するものが確認出来ます。なお、裏に背印などはありません。

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半纏・優等清酒福泉(水村酒造店:不明)

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 福泉というと都内のスーパーあたりに必ず置いてあった料理酒やみりん風調味料のイメージがあり、その線で探してみたのですが、この清酒福泉の水村酒造店に関しては何ら情報のかけらにも行き当たりませんでした。福泉というブランドは静岡県富士市の現福泉産業及び鳥取県東伯郡湯梨浜町の福羅酒造の二社が使用しているようですが、他にも旭川高砂酒造の前身である小檜山酒造が創業時に用いてた酒名の一つが福泉だったそうです。福泉というといかにも水に関しておめでたい名称なので、他にも多くの酒造店で使用された名称なのでしょうが、酒造店の数というのは明治の末から大正期の好景気時代に全国的にピークを迎え、いささか乱立ぎみだったところにまずは昭和の世界恐慌で体力のなかったところが破綻して数を減らし、さらに昭和10年代からの酒造組合の生産石高規制、さらに戦時統制経済の米の配給制減を経て昭和18年の企業整備令により統合や廃業で一気に数を減らしてしまったということです。
 この水村酒造店というのもそういう時代の流れの中で統合又は廃業してしまった酒造店だったのでしょうか?背印の優等清酒の文字が逆なのでおそらくは戦前の半纏なのかもしれません。
 福泉は全国的にあった酒名なのでしょうが、青森のおそらく津軽地方に「電氣正宗」という今にしてみればとんでもない酒名を出していた酒造店があったらしいです。明治の末期にはいままでランプ生活していた田舎が電気の開通で一気に文明開化が訪れたため、電気というと時代の最先端をいくハイカラな名前だったのでしょう。まあ、大都会浅草の神谷バーにも「電氣ブラン」なるものもありましたが。また大正末期にはやたらと「ラジオ」の付く名前が流行っていて、ラジオ湯という銭湯やラジオ劇場などという映画館が多数あったというお話です。
 岩手の喜久盛の「電氣菩薩」はマンガから命名されたっていうお話のようですが。

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August 25, 2019

半纏・六花酒造(青森県弘前市)

Photo_20190825141501 Photo_20190825141502  清酒じょっぱりで盛業中の弘前は六花酒造の酒蔵半纏には珍しいえんじ色の半纏です。
六花酒造は弘前を代表する3つの酒蔵である高嶋屋酒造(白藤)、白梅酒造(白梅)、川村酒造店(一洋)の3社が昭和47年に合併し、一番歴史が長かった高嶋屋酒造(1719年創業)の免許を活かし、他社が免許を返上することで出来上がった酒造会社です。六花酒造の六花は雪の結晶の意で当時の弘前市長の命名だったとか。
 この合併経緯というのはやはりアルコール嗜好の変化と大手酒造会社の製品台頭で地元市場が狭まるのを危惧した3社が経営強化のために合併したとのこと。弘前近辺の中小の酒蔵は最盛期には100軒を数えたそうですが、戦時統制での廃業で一気に数を減らし、さらに昭和40年代からの市場環境の変化でさらに淘汰され、現在弘前市内の酒蔵は10軒ということですが、人口比にして10軒の酒蔵はかなり多いという印象です。さらに4年程前に弘前市内の白神酒造が火災で消失し、廃業かと思われましたが六花酒造の一部を借りて仕込みを継続し、3年を経て新たに自社の酒蔵を建て直したといううれしいニュースもありました。
 この半纏も仙台青山染工場製で、おそらくは昭和の後期のものだと思われます。木綿をえんじに染め、半纏襟に六花酒造株式会社、裏に六花のロゴが染め抜きされています。


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半纏・松緑(斉藤酒造店:青森県弘前市)

Photo_20190825084902 Photo_20190825084901  この清酒松緑の半纏は山形の村山市の楯岡駅近くにあった松緑(現在六歌仙に統合)の蔵元半纏かと思って入手したのですが、実は青森県弘前市の明治37年創業の斉藤酒造が醸造する松緑の半纏でした。松緑という清酒は他にも白雪の小西酒造でも使用している名称ですが、おそらくは「めでためでたの若松様よ」にでもちなむようなおめでたい名称でなのでしょう。でもこちらの松緑は敷地内の樹齢300年にもなる老松にちなんでの命名だとのこと。
 この弘前斉藤酒造は今年(2019年)になってブランド名の松緑酒造に商号変更したとのこと。蔵元は代々斉藤仁左衛門という名前を襲名するらしく、現蔵元は十八代目で女性だそうです。酒造業に進出したのは明治37年ながら、それまでは長年にわたり日本酒作りには欠かせない酒母を近辺の酒蔵に出荷するのを生業としていたらしいです。それだけ蔵には優秀な酵母が住み着いていたのでしょう。
 半纏は昭和30年代あたりまで時代が遡るもので生地は黒。半纏襟にヤマニの屋号と株式会社斉藤酒造店、背に清酒松緑の印の染め抜きです。製造は仙台のほまれ屋でした。

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August 24, 2019

半纏・清酒阿櫻(阿櫻酒造:秋田県横手市)

Photo_20190824141402 Photo_20190824141401  秋田県の横手に現存する明治19年創業の阿櫻酒造の半纏です。
 名前の由来は地元横手城の別名である阿櫻城から取ったというもの。
 横手は米どころ秋田ということもあり、昔は中小の酒蔵が多数存在した場所でしたが、やはりアルコール類の嗜好変化による日本酒需要の減少から酒造場も淘汰され、現在の横手では自社で日本酒を醸造販売しているところは阿櫻酒造のほかに日の丸醸造、浅舞酒造、舞鶴酒造、備前酒造、新日の丸工場などを数えるだけです。この他にも他社ブランド、いわゆる桶買いメーカーも存在するかもしれません。
 この半纏は仙台青山染工場製で表に清酒阿櫻、裏に阿櫻のロゴが染め抜きで描かれた黒半纏です。おそらくは昭和40年代くらいの半纏でしょう。

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August 23, 2019

半纏・線路工手(箱根登山鉄道:小田原市)

Photo_20190823182601 Photo_20190823182602  この線路工手と半纏襟に染め抜きされた半纏は国鉄ではなく、おそらくは中京・近畿方面の私鉄で保線に使用された半纏だとの思い込みで、その正体解明でどつぼに入り込み、なんとそのマークがどこの鉄道会社か確証を得るのに10年も掛かってしまったものです。
 確か愛知から入手したということもあり、最初は名鉄に買収された小規模の電鉄会社を。つぎに近鉄に買収された小規模の電鉄会社の社章をしらみつぶしに探したのですがまったく手がかりがつかめず、さらに名鉄系以外の中京地区の廃止鉄道を当たったのですが、らちがあきませんでした。
 そこで学習したのは社名を図案化してレールマークで囲ったという鉄道の社章が多いということで、たとえば東武鉄道などの旧マークは東の図案化。西武鉄道の旧マークは西の字の図案化。京王帝都の旧マークは京の字の図案化です。そして今回半纏コレクションのアップにあたり、冷静にこの半纏の背に染め抜かれた社章を観察すると、何とカタカナの「ハコネ」の文字が浮かび上がり、これがヒントになって正体が判明しました。その鉄道会社は「箱根登山鉄道」です。
 私鉄史ハンドブックに現存私鉄の社章掲載されていたのに、ピント外れの検索をしていたのと掲載されているマークと半纏裏の社章の印象がまったく異なるため、気がつきませんでした。
 線路工手という職名からおそらくは戦前くらいまで時代が遡る作業系半纏です。平地と違い、高低差の激しい箱根登山鉄道の保線工事はさぞかし大変な職場環境だったと思われます。平地では桜が咲き始めているのに箱根の山ではまだ雪がちらつくということもあったでしょうし、戦前ということもあり、重い保線工事の道具を人力で引き上げながら日々事故がないように鉄路のメンテナンスを行うというのは並大抵なことではなかったと思われます。
 何せ標高のある場所での作業でしょうから気候的にも環境は厳しかったことを裏付けられるように、本来一重の半纏に手作りで子供用着物の端切れかなにかで裏地が施されています。生地自体も戦前の半纏に共通して紺の割と厚めの生地が使用されています。

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半纏・清酒万葉(万葉酒造:岩見沢市)

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 岩見沢市にかつて存在した万葉酒造の半纏です。清酒万葉はかつて幌内三笠方面や美唄方面の旺盛な炭鉱需要に支えられた酒造メーカーでしたが、相次ぐ炭鉱閉山で周辺人口も流出してしまい、またアルコールの嗜好変化や大手メーカーの日本酒流通等もあり、惜しくも昭和62年頃に廃業し、万葉の商標は栗山町の小林酒造に引き継がれました。今でも小林酒造が出荷する宴会用のとっくり型一合瓶などに清酒万葉の商標が使用されていますが、中身はまぎれもなく北の錦です。
 このめくら縞半纏は仙台の青山染工場製でメクラ縞半纏には珍しく背中にも万葉の商標と葵の葉のような染めが施されています。おそらくはこの半纏も岩見沢近辺の飲食店に配られたものなのでしょう。

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半纏・神威鶴(白方酒造:小樽市)

Photo_20190823120602 清酒神威鶴は小樽の奥沢にあった白方酒造が醸造していた日本酒の商標です。白方酒造は積丹半島の突端の余別というところで醸造を開始したのがそもそもの始まりで、大正5年に小樽の奥沢に移転しましたが、今でも余別には白方家本家筋の酒屋があるという話を聞いています。神威鶴の名前は積丹の神威岬から名付けられたそうで、余別という当時は余市から美国を経由してくる汽船でしか交通手段が無かった場所。こんな辺鄙なところで地産地消出来たわけですから、当時のニシン景気とそれに携わる出稼ぎのやん衆の数はいかほどのものがあったのでしょうか。
 日本酒需要の衰退により白方酒造は昭和58年に廃業しますが、健在でも小樽の奥沢に蔵の建物がそのまま残り、往事の様子を垣間見せてくれているそうです。神威鶴は現在、小樽の田中酒造が製造して小樽近辺と積丹方面で売られているそうです。
 神威鶴の半纏はめくら縞で常に良い酒神威鶴の染め抜きの半纏襟。裏文字はありません。おそらくはこれも問屋経由で飲食店に配られたものなのでしょう。

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半纏・清酒大雪山(北海道上川郡愛別町)

Photo_20190823120601  世の中には日本酒の酒造メーカーの半纏というのがよく残っており、紺や黒の色の濃い半纏のほかにめくら縞と呼ばれる細かい縦ストライプの半纏があります。蔵元に働く蔵人の労働着としてのものと、得意先の酒問屋経由で小売店や飲食店に配られるものがあり、こちらは一種の広告宣伝費として消費されたものなのでしょう。そのほかに帆前掛けと呼ばれる帆布の紺染め抜きの前掛けなどもあり、これも宣伝用として問屋経由で大量に配られたようです。
 今から50年程前までは宴会といえばまず日本酒で、重量物ゆえに地産地消の商品として地方の中小酒蔵のいわゆる地酒がまだまだ地元で流通消費され商売出来る環境だったのですが、昭和40年代も半ばを過ぎてアルコール消費の嗜好変化、輸送環境の改善で地元の中小酒蔵は大打撃を受け、日本酒の蔵元は一気に数を減らしました。今に残っている地方のメーカーは何かしら特徴を持ち、ある程度のリピーターを抱えているところばかりで、普通酒や日常酒に関しては大手の日本酒メーカー製品が全国津々浦々まで出回っている状況です。普通酒しか仕込んでいなかった地方酒蔵は大手の傘下に入り、桶買い専門として仕込んだ酒はタンクローリーで運び出されるか、大手の商標が付けられたいわゆるOEM生産、もしくは大手の看板が掲げられてしまうところもあるようです。
 この大雪山という名前の清酒は上川の愛別町に蔵を構えていた酒造メーカーでしたが昭和56年に廃業しています。旭川周辺の地域を商圏としていた小規模の酒蔵でした。それゆえに札幌以南の道南あたりで見かけた事はありません。
 愛別にまだ蔵の建物が残っているという話も聞きましたが、もう20年近く前に美瑛の有名な酒屋さんの倉庫でそのまま大雪山が未開封で発見されたというのが新聞に載ったことがあります。大雪山の名はお隣の上川町で40数年ぶりに日本酒酒造免許を獲得した蔵元が地元の酒造米を使用した清酒が上川大雪という名前で間接的に継承しています。蔵元は金滴酒造で日本酒鑑評会で金賞を受賞した程の杜氏なので、これからの発展が楽しみな酒蔵です。
 半纏はざっくりとした大きめのメクラ縞で半纏襟にはよいお酒大雪山の染め抜き文字があります。裏に染め文字その他はありません。問屋経由で飲食店向きに配った半纏でしょうか。

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August 22, 2019

半纏・中山炭鉱(山形県新庄市)

Photo_20190822182101 Photo_20190822182102  中山炭鉱というのは山形県新庄市鳥越(6坑)にあった日本最大の亜炭田、最上炭田の亜炭炭鉱です。Wikiの鉱山一覧に無責任にも最上炭田から遠く離れた山形県東村山郡中山町に存在したようなことが書かれていますが、まったくの誤りです。また中山炭鉱は複数の坑口を持ち、当初は最上炭田の中心地である舟形町鼠沢が創業地らしいです。
 その最上炭田の中でも中山炭鉱はもっとも規模の大きい炭鉱で、その産出炭は古くは最上川の水運で、陸羽西線が開通してからは鉄道で酒田方面に送られ、醸造業などで使用するボイラーの燃料になったと言われています。たぬき掘りに近いほどんどは数人規模の亜炭炭鉱が多い中で中山炭鉱は戦後すぐに鉄製カッペや摩擦鉄柱などを導入した炭鉱でした。それというのも採掘場所は地下200mにも及び、近代設備導入が不可欠だったのでしょう。その終焉は定かではありません。というのも炭鉱の閉山は閉山交付金支給の関係でいつ閉山の届けが出たのかは昭和29年頃からすべて判明するのですが、亜炭山にはその適用がなかったからです。ある資料によるとこの最上炭田の中では中山炭鉱と郡一炭鉱の2鉱だけが規模を縮小しながらも昭和50年代まで残り、採掘した亜炭は燃料用としてでなく、主に土壌改良材としての需要だったとか。この中山炭鉱の名前は終戦で復員したのち山形で税務署員になった伯父がよく知っていて、山形の村山地方ではそこそこ名前が知れた炭鉱だったようです。
 その山形は最上炭田最大の亜炭鉱中山炭鉱の半纏ですが、通常のものよりやや長めの黒の木綿地の半纏です。背中に山に中の背印が入り、腰には入山型の模様が白抜きされています。山形の亜炭鉱も小規模の炭鉱が多かったためか、その存在を今に伝えるものもあまり残っていません。その中でこの中山炭鉱の半纏というのはかなりレアな資料です。
 

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半纏・磐城炭鉱(福島県いわき市)

Photo_20190822161901 Photo_20190822161902  磐城炭鉱は明治17年に実業家の渋沢栄一、浅野総一郎により磐城炭鉱社として創業されましたが、それというのも西南戦争によって筑豊炭が途絶えた苦い経験から東京により近い常磐炭田の開発が急がれたためということらしいです。その渋沢栄一と浅野総一郎らは安定的に常磐炭を東京に輸送するため、日本鉄道磐城線(現常磐線)の建設のも着手することになります。その常磐炭ですが九州や北海道の石炭にくらべて灰分が多くカロリーが低い褐炭がメインで、6000cal~7000calの九州北海道炭に比べると5000calそこそこの低品位炭です。そのため、コークスなどの製鉄用原料炭にはならず、もっぱら火力発電等の燃料炭として使用されて来たようです。その磐城炭鉱は戦時中の昭和19年に川崎財閥が主体だった入山採炭と合併して常磐炭鉱となり戦後の高度経済成長を支えて来ますが、坑内から発生する温泉水の高温には常に悩まされて来たようで、「石炭1トン掘るごとに温泉水が4トン湧き出る」などと言われる程だったようです。その常磐炭鉱も昭和60年の中郷炭鉱の閉山をもってその歴史に終止符を打ちました。
 その常磐炭鉱合併前の戦前磐城炭鉱の割と厚地の炭鉱半纏です。おそらくは実際に坑外作業用として使用されていたものではないでしょうか。背印は磐城炭鉱のマークで赤、腰には波型のグレーが入る割と凝った染色の半纏で生地は厚地木綿の紺染めです。

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半纏・渡辺炭鉱(仙台市)

Photo_20190822140001 Photo_20190822140002  渡辺炭鉱というのは仙台にあった八木山近辺の亜炭の採掘業者でその名前は当方の資料では内田老鶴社の日本の鉱山という資料に記されているのみです。
仙台の広瀬川沿い青葉山と八木山の間には炭化度の低い亜炭が存在するのは藩政時代から知られており、炭化度の特に低い埋もれ木は埋もれ木細工の素材として仙台特産工芸品として認知されてきました。亜炭の採掘が特に盛んになったのは戦後のことらしく、家庭用燃料不足を補うために盛んに採掘され、暖房や風呂の燃料として使用されたようですが、その採掘業者というのは大きくとも数人規模くらいのたぬき掘に近いような業態で、農閑期の秋冬だけ稼働するようなところも多かったという話です。その中には八木山地区から亜炭搬出用にトロッコ軌道まで作った業者もあったという話ですが。その仙台亜炭も仙台に整備された都市ガス網の普及により昭和35年あたりまで終息し、一部の業者により採掘が続けられたもののそれも昭和30年代末には終息したというお話。今ではどこにあるのかも把握出来ない旧坑道が陥落して家が傾いたとかそういうネガティブな話しか伝わってきません。
 その渡辺炭鉱の半纏ですが、仙台市の八木山近辺にお住まいの方から東日本大震災直後に入手したものです。どういう関わりがあるのかお尋ねしたのですが、なぜこの半纏が家にあるのかは御存知ありませんでした。それでも震災後長い間ガスが止まって風呂にも入れなかったときに作業の応援に入った北海道のガス会社の人が復旧に来てくれて本当にありがたかったというお話をお聞きしています。昔は地元の亜炭を燃やして風呂を沸かしていたのでしょうけどね。
 この半纏はおそらくは昭和30年代の仙台ほまれ屋のラベルがついた黒地半纏です。このほまれ屋の半纏も東北北海道ではよく見かける物ですが、おそらくは染工場ではなく呉服店のような業種だと考えています。生地は黒の割と目のつまっているもので背文字は○健。字が違いますが渡辺健さんだったのでしょうか?あとで調べた所仙台のほまれ屋は現在でも盛業中でした。昭和7年に江刺屋として染色業を開始したものの、のちに染色業と縫製業を分社化したりし、また早くからシルクスクリーン印刷などの新しい染色法の工場を仙台郊外の町に作ったりして時代を生き残り、現在も仙台であらゆる布染色製品に対応した会社を経営しているようです。ただし、染め抜きなどの伝統的な染色が絡むものはすべて外注だそうです。

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半纏・北海道炭鉱汽船

Photo_20190822133701 Photo_20190822133702  うちの半纏コレクションのうちでは一番古いとおぼしき北海道炭鉱汽船の半纏。
おそらくは明治の末から大正期に掛けて使用されたものでしょう。北海道炭鉱汽船は自身の炭鉱から採掘される石炭を室蘭港や小樽港に搬出するための鉄道網を持っていましたが、明治38年に国家買収され鉄道業から撤退し、おそらくはその後に配られたものではないかと思われます。当時は縫製なしで布として配られたようで、縫製はおそらくその家の奥さんの手縫い。炭鉱坑内では半纏などは着用しないため、会社幹部などを迎えるためやその他会社の行事式典のための晴れ着。もしくは北海道炭鉱汽船が所有していた石炭埠頭などで働く港湾作業員のための作業着だったのかもしれません。布に一部ダメージがありますが、北海道の炭鉱が盛んだった頃の炭鉱資料としても貴重です。
 昭和の仕事着の半纏と比べると非常に丈の長い長半纏になっています、生地は紺木綿地に赤の五芒星の北炭マークに腰文字はグレーで炭の字を模したもので、染めの色数などの行程を考えてもけっこう割高な半纏で流石は石炭需要と鉄道買収の保証金で潤っていた会社です。
 その北海道炭鉱汽船は鉄道買収の保証金を元手に室蘭に英国鉄鋼メーカー2社と共同出資で製鋼所を建設するもののその資金がかさみ、製鋼所は後に三井財閥に取得されてしまうことになります。


  

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半纏・仙台の染工場から生まれた北の仕事着

1_20190822132601 2  企業や商店で昔、ユニフォームとして使用されていた半纏。これは明治の末に染色技術の新たな技術革新により急速に普及し、以前はバラバラなスタイルで勤務していた労働者がどの集団に所属するのかということを明らかにしたという効果がありました。とくに土木建設関係の業種ではいろいろな下請けが労働力を提供しており、どこの下請けがどれだけ現場にきているかということもわかりますし、元請け下請けの人別も半纏の文字や印だけでわかる事になりました。一種のアイデンティフィケーションの役目を果たしており、変な話ですが現場で事故で死んだ人間がどこから派遣されてきたかというのもすぐに判別が付くことになります。
 また、酒蔵の蔵人などの杜氏に引き連れられて季節労働に入った農民などは、仕込みに入った酒蔵の半纏を身につけることにより一体感が高まり派遣先の帰属意識を高め、誇りを持って仕事をさせるいう効果もあるのでしょう。
 この企業や商店ものの印半纏ですが、東北北海道ではそのほとんどが仙台で作られていたということを知る人はどれくらいいるのでしょうか?
仙台は伊達政宗の時代から機業と染色業がさかんに行われていて、有名な仙台平の袴生地や木綿の藍染めは江戸時代から盛んに行われてきたようです。
染色業に関しては、藩政によりすべて若林区の南染師町というところに集められ、七郷堀という川で水洗いをする風景というのが戦後まで見られていたようです。
この染色業は明治の末に常盤紺型という新たな染色法により染めの輪郭が非常にくっきりとした染め物が出来上がったことにより印半纏、帆前掛、手拭などの生産が隆盛を極め、その中でも最大の工場が青山染工場でした。青山染工場の青山惣吉は明治16年の生まれで江戸時代からの歴史があるものの衰退しかけた家業を常盤紺型の染色技法を用いた印半纏や帆前掛を北海道から樺太というフロンティアに売り歩き、明治末期から大正期に掛けては仙台では比べるものの無い大染色工場を築きました。
 特に北海道、樺太では港湾荷役業や鉄道建設業に携わる会社からの大量発注をうけ、早くも明治40年頃には北関東から樺太までのシェアを獲得していたようです。
 その青山染工場も不動産、金融業にまで手を広げていたのが昭和始めの世界恐慌で打撃を受け、当主の青山惣吉を昭和7年に失ったことなどもあり、以前のような勢いは無くなったものの、その後も長く昭和40年代前半くらいまで印半纏は帆前掛などを生産していたものの、その後にやってくる作業服の変化、化学繊維の普及によるシルクスクリーン印刷の台頭などにより染色業からは撤退し、会社は残っていたものの平成22年に破産宣告を申請して廃業してしまいました。
 現在でも半纏の襟裏に○定、青山製の染め抜きが残る酒屋半纏などは多く残っています。

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