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August 31, 2019

半纏・志ん宿十二社いずみ(新宿区熊野神社祭礼)

Photo_20190831134301 Photo_20190831134302  背中に大きく志ん宿十二社(しんじゅくじゅうにそう)と染め抜かれた、半纏襟にいずみという表記のある熊野神社祭礼用の長半纏です。十二社(じゅうにそう)というのは東京でも難読地名の一つですが、現在は西新宿4丁目という住所表示になっています。十二社界隈にはその昔、熊野神社の境内に大きな滝があり、それに付随して大小の池(そもそもは農業用のため池だったという)があって江戸の時代から景勝の地だったという話です。熊野神社は室町時代の応永年間に紀州出身の商人、鈴木九郎によって熊野三山の十二所権現全てを祭ったのが十二社の名前の始まりといわれています。その十二社池の畔は今でいう江戸っ子のちょっとした行楽の地となり、やがて茶屋や料亭などが立ち並び、花街として最盛期には100軒の茶屋や料亭がひしめいていたとのこと。
 その十二社池も新宿副都心整備の一環として昭和43年に淀橋浄水場などとともに埋め立てられてしまったようで、現在は池に向かって道路がわずかに傾斜している地形でしかその痕跡をたどる事ができません。今でも十二社通から一歩入ってしまうと少し時代が止まってしまったような路地が現れるようです。それが西新宿のビル群とのコントラスト深めています。
 実は当方、れっきとした元新宿区民で、新宿区で成人式に出席しています。成人式の講演は生活の知恵などでおなじみのNHKの酒井広アナウンサーと当時ナナハン師匠だった現人間国宝柳家小三治師匠でした。住んでいたのは柏木と呼ばれる北新宿なので、熊野神社のテリトリーからは外れてしまうのですが、西新宿には今でも何となく郷愁を感じてしまいます。
 現在、熊野神社の春と秋の例大祭には熊野神社氏子の町神輿が13基出るようで、それぞれの睦が存在するらしいのですが、昔から13睦なのか、いつの時代から町会が統合され、13睦になったのかはわかりません。十二社のいずみという睦がいまでもちゃんとあるのなら申し訳ないのですが、やはり十二社界隈の居住人口減少と高齢化で十二社宮元に統合してしまったのでしょうか?いちおう現在の13睦は十二社宮元、角三、西新宿、角一東部、西新宿1丁目、角一南部、歌舞伎町、欅橋、柳橋、淀橋宮本、谷中、元淀、新宿西口でしょうか?角は「かく」ではなくこの界隈の旧名角筈(つのはず)の「つの」ですので念のため。
 この十二社いずみの半纏はけっこう厚くて立派な生地が使用されている長半纏です。いまのように多色染めというわけではなく紺の木綿地に白染め抜きですが、時代的には昭和30年代から40年代くらいでしょうか。このころはまだ西新宿の各商店街も賑わっていたでしょうし、居住人口もまだまだ多数あったのでしょうけどその時代は知りません。でも当方が新宿に住み始めた昭和53年頃は京王プラザホテルの西側にはまだ高いビルは一棟もありませんでした。

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