半纏・北海男山(株式会社男山:旭川市)
北海男山は旭川の株式会社男山が醸造販売する清酒の酒名です。こちらの男山は新酒鑑評会金賞の常連ですし、モンドセレクションにも毎年出品して金賞を受賞し、今や北海道を代表する日本酒の蔵元です。
関ヶ原の乱が起こった1600年頃、伊丹の鴻池善右衛門(後の鴻池財閥の始祖)が清酒の大量醸造の方式を編み出したことにより摂津の伊丹周辺が清酒醸造の一大産地となり、江戸に大量に下り酒として日本酒を送り出します。その後幕府の江戸に送られる伊丹酒の総量規制が掛かってから伊丹周辺の酒造業は衰退しますが1666年(寛文6年)に伊丹の領主になった公家の近衛家が醸造を保護育成したためその後も発展を続け、剣菱が将軍の御前酒にもなったという話です。そのなかで木綿屋山本本家の男山は元禄から享保にかけて最盛期を迎え、男山は8代将軍吉宗の御前酒にもなったという銘酒でしたので、その男山の名前にあやかった酒が全国に広がることになります。その伊丹酒も享保の末期から兵庫の灘が地の利なども活かして伊丹や池田の酒を脅かし、江戸後期の天保年間に西宮で宮水が発見されたことにより灘の酒質が向上して伊丹の酒造業は衰退し、剣菱や松竹梅は灘に移転し、男山の木綿屋山本本家は明治の初めまでに休醸してしまいます。
北海男山は明治32年に山崎與吉が旭川に山崎酒造場を開設したのが始まりです。地元の上川米を使用し、今泉という酒名で軍都旭川の第七師団、鉄道建設に携わる人夫たちの需要を支えましたが、戦時中の昭和19年に北の誉の野口酒造場を存続会社とする旭川酒類に戦時統合されてしまいます。
戦後に多くの旭川の酒造メーカー同様に昭和24年に旭川酒類より分離独立し山崎酒造として北海男山の酒名を使用しますが、昭和43年に木綿屋山本本家の末裔を探し出して男山の名と印鑑及び納め袋を正式に継承。会社の名前も男山株式会社に改称し今に至ります。蔵元は代々山崎與吉の名前を継承しています。
北海男山が日本酒の衰退後も生き残ったのはひとえに技術を磨いて酒質の優れた日本酒を作り続けてきた事につきます。現在旭川の蔵は高砂酒造、男山、合同酒精の大雪乃蔵の3酒造業者にまで減ってしまいましたが、どの業者も酒質を追求したことにより一時の日本酒離れをによる酒蔵廃業ラッシュを乗り越えた酒造場です。ただ、高砂酒造は本業以外のゴルフ場子会社の経営破綻で資金が焦げ付き、千歳鶴の日本清酒の子会社になってしまいましたが。
この黒の半纏は製造元はわかりませんが半纏襟には清酒男山、背には北海男山のロゴが染め抜きされたものです。おそらくは昭和40年代のもので丈が短く詰められているので実際に仕込み作業に使用していたのかもしれません。いっしょに金滴の半纏も同様に短く詰められたものが出て来ています。男山と金滴の両方の仕込み作業に携わったことのある元蔵人さんの持ち物だったのでしょうか。
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