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August 22, 2019

半纏・仙台の染工場から生まれた北の仕事着

1_20190822132601 2  企業や商店で昔、ユニフォームとして使用されていた半纏。これは明治の末に染色技術の新たな技術革新により急速に普及し、以前はバラバラなスタイルで勤務していた労働者がどの集団に所属するのかということを明らかにしたという効果がありました。とくに土木建設関係の業種ではいろいろな下請けが労働力を提供しており、どこの下請けがどれだけ現場にきているかということもわかりますし、元請け下請けの人別も半纏の文字や印だけでわかる事になりました。一種のアイデンティフィケーションの役目を果たしており、変な話ですが現場で事故で死んだ人間がどこから派遣されてきたかというのもすぐに判別が付くことになります。
 また、酒蔵の蔵人などの杜氏に引き連れられて季節労働に入った農民などは、仕込みに入った酒蔵の半纏を身につけることにより一体感が高まり派遣先の帰属意識を高め、誇りを持って仕事をさせるいう効果もあるのでしょう。
 この企業や商店ものの印半纏ですが、東北北海道ではそのほとんどが仙台で作られていたということを知る人はどれくらいいるのでしょうか?
仙台は伊達政宗の時代から機業と染色業がさかんに行われていて、有名な仙台平の袴生地や木綿の藍染めは江戸時代から盛んに行われてきたようです。
染色業に関しては、藩政によりすべて若林区の南染師町というところに集められ、七郷堀という川で水洗いをする風景というのが戦後まで見られていたようです。
この染色業は明治の末に常盤紺型という新たな染色法により染めの輪郭が非常にくっきりとした染め物が出来上がったことにより印半纏、帆前掛、手拭などの生産が隆盛を極め、その中でも最大の工場が青山染工場でした。青山染工場の青山惣吉は明治16年の生まれで江戸時代からの歴史があるものの衰退しかけた家業を常盤紺型の染色技法を用いた印半纏や帆前掛を北海道から樺太というフロンティアに売り歩き、明治末期から大正期に掛けては仙台では比べるものの無い大染色工場を築きました。
 特に北海道、樺太では港湾荷役業や鉄道建設業に携わる会社からの大量発注をうけ、早くも明治40年頃には北関東から樺太までのシェアを獲得していたようです。
 その青山染工場も不動産、金融業にまで手を広げていたのが昭和始めの世界恐慌で打撃を受け、当主の青山惣吉を昭和7年に失ったことなどもあり、以前のような勢いは無くなったものの、その後も長く昭和40年代前半くらいまで印半纏は帆前掛などを生産していたものの、その後にやってくる作業服の変化、化学繊維の普及によるシルクスクリーン印刷の台頭などにより染色業からは撤退し、会社は残っていたものの平成22年に破産宣告を申請して廃業してしまいました。
 現在でも半纏の襟裏に○定、青山製の染め抜きが残る酒屋半纏などは多く残っています。

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