半纏・金滴(金滴酒造:樺戸郡新十津川町)
樺戸郡新十津川町にある金滴酒造の半纏です。
新十津川町は明治22年の奈良の十津川郷の大水害で被災した人たちが移住して築き上げた開拓地でした。十津川郷の人たちは古くから朝廷に仕えており、南北朝時代に南朝を支えた関係で十津川郷士として特別な地位を与えられ、幕末には朝廷警護のお役を賜ったほど勤王の志厚く、明治になってからも全員が士族身分となった由。明治22年8月の大水害は台風がらみの大雨で十津川(熊野川)の流域の山腹が崩れてあちこちで天然ダムが形成され、その決壊による大洪水で甚大な被害を生じたとされています。このとき、十津川郷の復旧には30年は掛かるだろうなどといわれるほど地形も変わってしまい。十津川郷6か村内の戸数2403戸の約1/4、610戸が被災、同年10月に被災者2489人が北海道に移住。翌明治23年6月に600戸2489人が石狩川支流の徳富川流域のトック原野に開拓に入ったのが新十津川町のそもそもの始まりです。未開の原野の原生林を切り倒し、耕地として整備し、米が取れるようになるまで10年は酒を飲まずに開拓に従事するという誓いを立たそうです。一面の水田地帯にするまでは並大抵の苦労ではなく、その辺りは昔のNHKドラマ「新十津川物語」にもなるほどでした。入植から10年を経て、やっと稲作の目処が付くようになりましたが、度重なる石狩川の水害、害虫の大発生などの災害にも見舞われながらも一大稲作地帯としての基盤を固めて行ったそうです。
そのような開拓の歴史の中で明治39年に主に十津川郷出身者90人の出資により創立したのが金滴酒造の前身の新十津川酒造で酒名は徳富川でした。他の酒造会社というのはたいてい地元資産家の個人経営の酒蔵が殆どですが、こちらは最初から地元出資者による株式会社組織の会社でした。大正7年に増資したのを機に酒名を金滴、銀滴、花の雫に変更。金滴はピンネシリ山から流れる砂金のイメージから命名したもので、これが今に続いています。戦時中昭和19年には企業整備法で他の3蔵を統合合併し、存続会社となり、戦後の昭和26年に現在の金滴酒造に社名変更し今に至ります。金滴酒造は2008年に売り上げ不振から負債6億円余りを抱えて札幌地方裁判所に民事再生法の適用を申請。千歳鶴の日本清酒の支援が入り、社長が元道議会議長、取締役が元日本清酒役員の新体制で2009年4月に再建計画が裁判所で承認され旧資本全額減資のうえ1社7人の新たな出資1500万円で再建着手。その翌年に迎え入れられたのが現上川大雪酒造の川端杜氏です。川端氏は北海道産酒造米の吟風を使用していきなり2011年の新酒鑑評会で金賞を獲得。普通酒の生産がほとんどで、取立てて日本酒通の話題にも上る事もなかった金滴の名を一躍有名にしたのですが、川端杜氏は2014年の11月の取締役会で突然他の従業員数名とともに解任されます。この辺りの話は憶測が憶測を呼んでいますが、会社側は円満退社、川端氏側は解雇というように考えており、杜氏は以前の小野寺氏が復帰したとことでした。
その金滴のメクラ縞半纏ですが、実際に仕込みに従事したことのある蔵人さんの持ち物だったのでしょうか。男山の半纏と一緒だったものです。かなり着古されたもので襟の上などぼろぼろになってます。普通の酒蔵は蔵じまいのときには蔵人に新しい半纏と帆前掛を配るのがしきたりだったとのことですが、よっぽど資金に余裕がなかったのでしょうか(笑)
なお、半纏裏には背文字等ありません。
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