津田式體格計
體格計(体格計)というと解剖標本や生理体力測定器の老舗だった山越工作所の大串式體格計が知られており、当方も新旧2枚の大串式を入手していますが、大串式体格計の考案者が大串菊太郎という非帝大出身英国留学帰りの解剖学者でれっきとした医学博士だったのに対して、こちらの津田式體格計は軍医出身で在野の開業医だった津田侃二の3点の特許を基に作られた身長体重胸囲によって発育の良不良などを合理的に導き出すためのれっきとした計算尺です。この津田侃二医師が大正2年に開業した津田医院は子息の2代目院長の代を経て、現在は広島医療生活協同組合の津田診療所として広島市安佐北区可部町に現存しています 今年2020年で開業107年目に入るそうです。
この津田式體格計は陸軍軍医時代に円形のものを開発して特許を取ったのが最初のものらしく、この計算尺式のものは学校教育の現場でも校医だけではなく教師でも容易に使用し、年齢なりの体格に育っているかどうか判定できるために開発した改良品のようです
特許が3点降りておりNo.32891が大正7年5月、No.37613が大正9年11月、No.37817が大正9年12月の許可です。
実は大正9年7月に文部省訓令第9号というものが出て、その「発育概評決定基準」というものがいかに不合理であるかということを訴え、体格判定基準には年齢なりの身長・胸囲・体重の三要素が基準に判定されるべきということを説いた津田侃二の小冊子が国会図書館でデジタルアーカイブ化されており、その発刊が大正10年ですからこの津田式體格計もおそらくはその前後製品、というよりも今に残った数からして特許を取得するために実際に製造したものと古巣の陸軍に買い上げられたものなどの「非常に限られた数」しか製造されなかったのではないでしょうか?
というのも、この津田式體格計の材質は間違いなく「黒檀」です。紫檀や黒檀、紅木などの三味線の棹素材には特に目利きの三味線弾きでもある当方の見立てですから間違いはありません。黒檀(エボニー)というのもいろいろな種類があり、今ではワシントン条約の関係で輸入できないものが多いのですが、こちらに使用されている黒檀は間違いなく特に重量の重いいにしえに高級仏壇に使用された最高級に近い黒檀素材です。 それだけに超ヘビーな計算尺なのですが、おそらくは本当に仏壇などを製造していた指物師に作らせたものなのでしょう。目盛りを刻んだ薄いセルロイド板を固定尺・滑尺にニスかニカワで張り付けるタイプの構造をしています。そのため、長年の湿気のためかセルロイドは縮み、最大で8mmほど短くなっていますが、そろそろ100年近く前の計算尺ですから致し方ありません。
また相当分厚い黒檀の板の一枚板を見事に削り出した細工なのですが、それも湿気のせいかややセルロイドの縮む側に反っており、そのためやや滑尺の動きを阻害している感じです。しかし、滑尺は両面にセルロイドが張り付けられているため、反りもなく良好な形態を保っていました。
下固定尺には津田式體格計 PATENT.No.32891. No.37613. No.37817. TSUDA'S CORPORIMETER No.788の刻印があります
形状は当時のA.W.Faberなどによくある形状でカーソル枠なども同一ですので、A.W.Faberの計算尺をサンプルを実際に見せ「こういう形状で作ってくれ」と仏壇の指物師に製造させたのでしょう。
当初はその縦横のバランスから5インチのポケット尺かと思い、届くまでこれほど大きな計算尺とは思わなかったのですが、実際の大きさは横が31.4cm、縦が6.5cmと横幅は10インチの両面計算尺並みですが、縦はそれを遥かにしのぎます。滑尺が3本あるという国産の計算尺としてはかなり特殊な計算尺で、上から年齢,[男胸囲(尺)],年齢[男体重(貫)],身長(尺),[評点]となっており、滑尺裏は性別が女、評点の滑尺裏は劃(画)度(標準からどれほどずれているか) の目盛りがl刻まれています。
対象年齢は学童年齢の7歳から壮丁21歳までで、文部省が大正9年に交付した「発育概評決定基準」に対する矛盾点を科学的にではあるもののやや感情的に批判する冊子が残っていることから、その主眼は学童教育の現場での使用を目指して開発したものであることは確かなようです。それでも冊子の中で陸軍軍医としての勤務中に甲種合格者の体格体力のばらつきからそれらを合理的に判定することがそもそもの体格計開発のきっかけというようなことが書かれているようなので、最初の円形計算尺はそのような徴兵目的のための体格判定が主眼だったのかもしれません。 形式番号かと思われるNo.788の謎解きですが、どうもNo.7という刻印が先に刻まれ、あとから88が打たれた、ような節があります。そうするとNo.7が最初のパテントが降りた大正7年を意味する番号、88は製造番号なのかもしれません。おそらく材料も手間もかかる、また用途も限られる計算尺を大量に製造することができず、おそらく100本前後の数しか作られず、しかも広島ローカルの範囲内にしかでまわっていないのかもしれません。また古巣の陸軍の買い上げも多少はあったのでしょうか。この個体の入手先も広島市内でした。
この個体は計算尺のみの発掘でしたが、以前に最初期の逸見計算尺同様に立派な木製のクラムシェル型ケースに入ったものを一点だけ見かけたことがあります。
開発者津田侃二医師は可部町の開業医として地域住民の信頼も厚く、診療所は2代目の津田医師に受け継がれ、今も診療所として地域医療に貢献しているようなのですが、実は昭和20年8月6日の広島原爆投下の際に主に可部町に搬送された被爆者たちの治療に他の可部町内の開業医を率いて治療に当たったそうで、医薬品の不足している中で治療に苦労されたという話が残っています。また当時ひどいやけどで搬入された患者に水を飲ませてはいけないという方針に反して水分補給をふんだんに行ってそれによって命を救われた被爆者も多かったという話も伝わっています。
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