HEMMI No.51/3 10インチ片面技術用
このHEMMI No.51/3は宮崎治助氏のお孫さんの宮崎敏雄さんからのいただきものです。
実際に宮崎治助氏が使用していたものではなく、宮崎敏雄さんが宮崎治助氏の宮崎家のルーツや足跡をたどるうちに資料として入手した3本のうちの1本のようです。宮崎家のルーツに関してはもう少し機が熟してから書きたいと思いますが、そもそもは江戸時代から秋田の荒川鉱山に関わる仕事に携わっていた家系です。うちの祖父の従兄弟である宮崎卯之助氏は宮崎家に婿養子に入ったらしく、当家と宮崎治助氏は直接の血縁関係は無いとのことですが、計算尺という因縁で目に見えない繋がりがあるような気がします。
宮崎治助氏は明治24年に秋田県の現在は大仙市にある荒川鉱山の生まれで、荒川鉱山で電気技師として働き始めたころには岩手の個人から三菱鉱山に経営が移ってから久しく、これにより鉱山の設備も近代化し、アメリカから巻き上げの電動機や排水ポンプ、それに電力を供給する発電機なども設置され、荒川鉱山は秋田市内よりも先に電灯が灯った場所だったのだそうです。宮崎家は江戸時代からの鉱山を労働力請負業、いわゆる飯場を経営していて、その一族には小説家の松田解子さんがおり、この松田解子さんは宮崎治助氏の継母の孫娘にあたるのだとか。この松田解子さんの「おりん口伝」の中に当時の荒川鉱山の様子と宮崎家の飯場の様子などが生々しく書かれています。当家の祖父の従兄弟の宮崎卯之助氏は小学校卒業するかしないかの歳でこの宮崎家の飯場に年季奉公に出され、本人も「タコ部屋に入れられて苦労した」などと自嘲的に話していたらしいのですが、元来真面目で器用だったこともあり、荒川鉱山のポンプやモーターなどを取り扱う電気技師になり、それを治助氏継母の「これからは電気」という考えから継母の実の孫娘の養子にさせられたというのが宮崎家に連なった理由らしいのです。
当時秋田県は全国でも有数の短命県で男子の平均寿命は40歳もいっていなかったらしく、それというのも保存食としての塩魚や漬物の類で塩分を大量に摂取し、さらに名だたる日本酒の生産県ですから酒量消費も多く、さらに冬の寒さが厳しいということで、高血圧が原因での脳卒中による死というのが多かったことが短命を決定づけており、その壮年男子の死というのが宮崎家の家系を複雑にしています。松田解子氏からすると宮崎治助氏は義叔父にあたり、直接の血縁ではないですが本人はずっと従兄弟だと思っていたそうで、同じく宮崎卯之助氏の奥方も宮崎治助氏は同じく義叔父にあたるのですが、本人はやはり従兄弟だと思っていたというのは卯之助氏を含めて年齢は10歳程度しか差がなかったからなのでしょう。
HEMMI No.51/3に戻りますが、うちにはNo.51/1ならあったものの、No.51/3にはいままで縁がなく初の一本になりました。おそらくは昭和一桁台末期から昭和13,4年あたりのセカンドモデルとでも言うべきもので、目盛は馬の歯型のままですがセル剥がれ止めの鋲がなくなりややすっきりした姿に変わったものです。後にものさし型目盛と改良A型カーソルに変わったサードモデルに比べればまだ滑尺を抜いたセルの部分にものさしとして使う目盛も刻まれてますし、まだまだJ.HEMMI時代を引きずるというか、元になったA.W.FABERの古い意匠を継承している感があります。しかし、この滑尺を抜き差しした全体の長さを物差し代わりにするという仕組みは本当に役に立ったのでしょうか?
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