J.HEMMI No.9(TAMAYA No.1900) 5インチ技術用(精密目盛入)
TAMAYAブランドのJ.HEMMI時代の計算尺は過去においてたったの一本しか捕獲に成功していませんが、創世記のJ.HEMMI時代の計算尺はこのTAMAYA、A.NAKAMURA、K.HATTORIの当時の代表的な計測器販売店名義のOEMとして売られていたということは、まだまだJ.HEMMIブランドで広く販売できるような実績も知名度もなく、そもそも逸見治郎は職人であって商売人ではなかったため、竹製計算尺を完成させたはいいが、どうやって販売していくかに苦労したことを感じさせます。ちなみにTAMAYAは江戸時代から続く銀座の玉屋商店。A.NAKAMURAは築地の中村浅吉測量器械店。K.HATTORIは服部金太郎を創業者とする銀座の服部時計店です。この国内OEM販売は大倉龜という商売人が逸見計算尺にかかわったことから徐々に解消し、"SUN"HEMMIブランドが確立した昭和4年ころには完全消滅したようです。このあたりはもう少し検証作業が必要ですが、OEMものがなかなか出てこないので絞りきれないというのが本音です。
その中で久しぶりに発掘したのがTAMAYAブランドのJ.HEMMI No.9。5"のJ.HEMMI No.6の位取り付きでさらに10インチ尺同等の精密目盛が刻まれたために拡大レンズ入りカーソルのついた豪華版です。さらに発掘先が同じく北海道内で、ケースの内側にS.Y.の略号および室蘭発電所のスタンプとエビナの記名があるというもの。地元胆振で使われたものが出てきて、それを入手するというのはこんなにうれしいことはありません。No.6でフレームレスカーソルに変わったJ.HEMMI時代末期のものだったらかなり昔に終戦時海軍軍医大佐の持ち物だったというかなり程度の良いものを入手していますが、今回のTAMAYA No.1900/J.HEMMI No.9はそれよりもおそらく10年ほど時代が遡った大正2-3年頃の製品で、No.6系5"ポケット計算尺としては最初期に属するものです。一応竹製計算尺構造のPAT.22129が降りたのちの製品ですが、パテントナンバーは滑尺を抜いた溝のセルの部分に控えめに刻まれ、表面には逆字で特許の文字しかありません。またA,B尺にしかπマークが無い仕様というのは、うちにある他の計算尺でいうとJ.HENMI(not J.HEMMI)TOKYO JAPANの刻印のある逸見治郎が豊多摩郡渋谷町猿楽町に工房を移した直後の製品と思しきNo.1と全く同じです。しかし、このNo.6シリーズは後のNo.30系のポケット計算尺と異なり、厚みは普通の10インチ計算尺と同じで、それはやはりドイツのNESTLERやA.W.FABERの5インチポケット計算尺のような重厚感があり、一生使えそうな道具感を強く感じます。内藤多仲博士が恩師のドイツ土産にもらった5インチポケット尺をカーソルがバラバラになりながらもずっと使い続けることが出来たのもうなずける話なのですが、これが後の薄い5"ポケット尺ではこうはいきません。また、おそらくこの最初期に属すると思われるNo.9は拡大レンズが左端にオフセットされており、当然カーソル線もカーソルグラスの真ん中ではなく左側にオフセットされています。後のNo.9は素直に真ん中に収まりましたので、最初期型だけの特徴でしょうか?カーソルグラスの右端に半月型の割れがあるのですが、その価値を毀損するものではありません。あと、他のNo.6系では見かけない目盛というよりも馬の歯型の升目が刻まれていて、これはまったく意味不明です。
ところで、この室蘭発電所の正体の解明は非常に困難を極めまして、のちの室蘭電燈という電力会社とは数年ほど年代も合わず、おそらくは北海道炭礦鉄道が鉄道事業の国有化の際に莫大な補償金を得て、それを原資に建設した輪西製鉄所(現日本製鐵)内の火力発電所のことではないかと思うのですが、確証はありません。S.Yはもしかしらた英語ではなくてローマ字読みで石炭ヤード、すなわち貯炭場の意味だったのでしょうか?
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