HEMMIの最初の両面型計算尺として昭和4年に発表されたユニバーサル型両面計算尺3種類(No.150,No.152,No.154)中の一つ、No.152電気技術電気技術者用計算尺です。どうもその2年後くらいに発売されたNo.153が2尺多くなり、そちらのほうがスタンダードな電気技術者用計算尺となってしまったために、2年で一気に影が薄くなってしまった気の毒な存在のユニバーサル型計算尺ですが、それでもNo.153と同様に終戦時まで併売されていたようです。製造された数はNo.153のほうが圧倒的に多いため、このNo.152は滅多に見つからない両面計算尺の一つです。No.153の方は昭和40年代末期の青蓋ポリエチレンケース時代まで発売され続けていたわけですからやはりNo.153に比べて2尺少ないという同じ用途の計算尺は定価の設定をやや安くするという以外に存在価値を失ったということでしょうか。その価格差というもの当時で50銭にも満たないくらいだと思いますが、その差だったら誰もがNo.153を買ってしまったのでしょうね。このNo.152はNo.150同様に発売当初はフレームレスカーソル付きで発売されていたようですが、破損が多いためかまもなく金属フレームタイプのカーソルに変更になったようです。
No.152の尺度は表面 K,A,[B,CI,C,]D,T,の7尺、裏面はNo.153と共通のθ,Re,P,[Q,Q',C,]LL3,LL2,LL1,の9尺の合計16尺です。No.153と比べて表面のL尺とGθ尺の2尺が無いということもあり、ややレイアウト的に余裕があったためか、No.153はA尺より下の尺種に刻まれる数字はすべて級数が同じなのですが、No.152のT尺の数字は特別に大きな級数が使用されています、またT尺下に余裕があるため、その余白に"SUN" HEMMI U.S.PATENT NO.1459857 MADE IN JAPANが刻まれていますが、No.153はレイアウト的に余裕なく尺が詰まったため、トレードマークや社名、パテントナンバーが右端に移動してしまいました。
またゲージマークは後発のNo.153のほうが豊富で、No.152の方はC尺D尺上にC,π,C1,2πがあるのみ。A尺B尺上にはπ,Mの2つしかなく、いささか寂しい感じですが、No.153のほうは分秒の微小角計算のためのゲージやR,G,などのゲージまで新たに加わりました。裏側は数字の級数や目盛の刻み方にも差異がないので、目盛を刻む原版は共通だと思われます。
このNo.152とNo.153の二乗尺目盛ですが、日本ではヘンミ計算尺大倉龜(ひさし)名義で出願され、日本では特許は降りたもののアメリカに輸出するにあたって、アメリカ国内に先にパテントが出願されており、そのままではアメリカで販売できないので、そのアメリカ特許の出願者から特許権自体か特許の独占的実施権を買い取ったのだそうです。
その二乗尺目盛の考案者とされている宮崎治助氏は、自身の考案がすべて会社名義で取得されることについて、社長の大倉龜には言わずともけっこう不満が溜まっていたようで、宮崎卯之助氏の家族に「龜(カメ)にぜんぶ取られた」としばしば愚痴をこぼしていたそうです。宮崎治助氏考案の特許は計算尺よりも後の大倉電気の関連のもののほうが多数に上るようですが、やはりそのアイデアが金銭面にあまり反映されなかったのが不満だったのか、昭和7年頃に大倉電気の仕事ばかりになって計算尺考案に関われなくなったのが不満だったのか、どちらだったのかはよくわかりません。ヘンミ計算尺研究部の部長は昭和10年に宮崎治助氏から平野英明氏に交代になっていたのは周知のことですが、それは大倉龜が宮崎治助を計算尺考案に専従させるよりも計算尺詳解などの解説書を書かせ、教職だった平野英明氏を計算尺設計に専従させるための人事処置だったのかもしれません。当時、宮崎治助は電気式計算機のアイデアを持っており、それは戦争のためと非常に高価になったため商品化することはありませんでしたが、こちらの方向性を探るために設立した別会社が大倉電気だといわれています。ここにNo.152とNo.153に関する宮崎治助氏が昭和39年に記した「想像と偶然」というコラム記事のなかに興味深い記述があったので、引用させていただきます
「昭和6・7年頃のことではあるが、その当時、日本独自の非対数尺度を中心としたヘンミNo.152は、新しい目盛配列のものとしてアメリカなどでもかなり評判になったのであるが、欲を言えば、この計算尺で双曲線関数を簡単にすることが出来ない。どうにかして、この問題を打開する策がないかと、日夜考え詰めた時代が相当長く続いたことがある。この2・3年前の1929年にはアメリカのK&E社から発売されたロッグロッグヴェクトル計算尺には双曲線関数の対数尺度ShやThがつけられていることを知ってはいたが、悲しいことにヘンミNo.152にはこれをつけるほどのスペースがない。つけられる目盛はせいぜい1本が限度である。これは実に筆者にとっては相当こたえた難問題であった。この救済策は不図したことから、いとも簡単に解決されることになった。それは昭和6年にマサチューセッツ工科大学(MIT)のケネリー教授が来朝し(当方補足:アーサー・エドウィン・ケネリー、当方でもその名は知る1861年インドの南ムンバイ生まれの著名な電気学者で電離層ケネリーヘビサイド層(E層)などにも名を遺す1939年マサチューセッツ州ボストンで没)、早稲田講堂で「交流工学に対する双曲線関数の応用」という講演をしたのであるが、その講演の中で言われたグーテルマンの角の話が電撃的にわたしのアタマに響いたのである。飛ぶようにして家に帰ったわたしは、その日からこの面積角の尺度化に没頭しつづけた結果としてGθ尺度の考えにたどりつき、この尺度をNo.152に添加するだけで円関数と双曲線関数の交流を可能とするヘンミNo.153の創造に成功することになったのである。今にして思えば、あの日、ケネリー教授の講演をきく機会がなかったならば、この工夫は永久にわたしの頭脳に湧いてくることがなかったのではないか。Gθ尺度は偶然の所産ということができるかもしれない。」
以上で分かる通り、No.152は宮崎治助氏が苦労してGθ尺を考案したNo.153が出来た時点ですでにオワコン化してしまい、どうでもいい存在になってしまったため、その後はもしかしたら在庫分だけ牛の涎のように出荷し続けていただけの計算尺だったのかもしれません。実際にNo.153との価格差は2円50銭くらいあったようですが、この金額でわざわざ安いNo.152を選ぶか、No.153を選ぶかは微妙なところです。今でいうアルバイトの一日分の賃金は50銭くらいだったそうですから。
このHEMMI No.152は北陸富山の魚津市からの入手で、糸魚川のNo.153同様に水力発電所関連で使用されたものだったのでしょうか?
追記:「二乗目盛、反数目盛及び角目盛を併用する計算尺」の特許は大正14年8月29日付で特許65414号が宮崎治助個人で取得されていますが、宮崎敏雄氏によるとこのアイデアは秋田の荒川鉱山から岡山の吉岡鉱山に転勤後、こちら岡山時代に考案したものだそうです。岡山内陸部の夏の猛暑には秋田人の治助氏の体が合わなかったのかどうか、その後三菱鉱山を退職、上京し、東京で短期間電気関係の仕事に就いたのち、つてで三菱電機に職を得たとのこと。特許取得後にこのアイデアを持って渋谷町猿楽町の逸見計算尺工場事務所を訪ねたそうなのですが、その時にはすでに何人か自分の考案した計算尺のアイデアを持ち込む今でいう計算尺ヲラクが何人もいたそうで、その中には宮崎達男氏、本田織平氏、別宮貞俊博士、平野英明氏などの後に計算尺界に名前を残す方もいたそうです。ところでこの宮崎治助氏が苦労して考案したGθ目盛は「グーデルマニアン目盛」として昭和8年6月19日付で特許101458号が大倉龜名義で取得されています。このことに関して宮崎卯之助氏の家族に「カメに取られた」の愚痴が出ていたのでしょうか?それまでのヘンミ計算尺の特許は考案者が誰にも関わらず「逸見治郎」名義で取得されています。しかし、大倉龜と宮崎治助の関係は晩年まで良好だったようです。片や帝大出身の元官僚、片や秋田の工業学校出の鉱山電気技師ながら同じ明治24年生まれでなぜか馬が合ったということもあったのでしょうか。宮崎敏雄氏によると昭和35年に大倉龜が亡くなったとき、宮崎治助氏は心身ともに憔悴してしまったのだとか。
Recent Comments