焼津からやってきたHEMMI No.266 電子用(QI)
7MHzのトラップコイルの共振周波数を計算しているときに偶然新たに静岡の焼津から落札したHEMMIの電子用計算尺No.266です。焼津と言えば今も昔も遠洋漁業の街で無線の街であるということは周知の事実ですが、最近は漁業の幹部が冷凍マグロやカツオの漁獲を中抜きして横領し、自身の水産会社の冷凍倉庫に隠匿していたという負のニュースが伝わっていました。その焼津の漁業無線局は民間漁業無線局としては日本で最初の開局らしく、時期的には大正末のNHK東京のJOAKが放送開始した時期にほぼ一致します。当時の漁業無線局は瞬滅火花式の電信で減幅電波(B電波・ダンプ)と呼ばれるもの。それが持続電波のCWに変わったのはいつ頃でしょうか。コールサインはJFGで現在は静岡県内の清水・御前崎漁業無線局と統合して静岡県漁業無線局となりましたが、いまだに焼津の地に送信・受信設備を構えております。各地の漁業無線局から電信が無くなる中でここはA1Aの1kW設備が稼働中です。ただ、今の世の中。船舶も電信設備なども無く総合通信士ではなく海上無線通信士が乗船するご時世で電信の扱いがどれくらいあるのかわかりません。20年くらい前ならなニュースで公衆電信業務としての新年祝賀の電報取り扱いで大忙しの漁業無線局の映像などがニュースで流れていたのですが。
また、焼津は日露戦争前に三浦半島との間で海軍の34式それの改良型36式の無線設備の通信実験を行うために別途送受信設備が設けられたそうで、その記念碑がどこかのお寺に設けられているそうです。その36式無線機とB電波の日本海海戦時の活躍は相当昔に記事に書きましたので割愛しますが、これだけ日本の無線の歴史と関わりが深かったのが焼津の街なのです。またビキニ環礁の水爆実験で被爆した第5福竜丸も焼津の所属で、無線長の久保山愛吉さんが被爆治療で仲間とともに東京に送られたときや、久保山愛吉さんが危篤になったときなどは焼津の無線局に仲間の船からの「久保山がんばれ」の電報が殺到したそうで、その模様は新藤兼人監督の映画「第5福竜丸」でも描かれています。所属の漁船が多いとなるとそれに関係する無線関係を生業とする業者も多く、これだけプロの無線屋が多い街はアマチュア無線も非常に盛んだと言う印象があります。というのも船を降りてからアマチュアを開局した人や無線関係の生業をしながら開局した人はその殆どが上級アマ局で、もちろんのこと無線に関する高いスキルやノウハウを持っていますから後から開局した人たちもその影響を受けて自然と地域全体のレベルアップがなされているような印象です。北海道では昔は根室や函館がそのような感じの街でした。でも今や漁船の通信士あがりのOMさんや漁業無線局OBの上級ハム局のOMさんもサイレントキーが増え、この法則はもはや薄れてしまいましたが。
それで焼津からやってきた当方3本目のHEMMI No.266ですが、おそらくはプロの無線屋さんの持ち物だったのでしょう。通信士系か無線技術系かはわかりませんが、どういう職種のプロが使用したのかを想像するだけでも楽しいものですし、敬意を払わなければいけません。デートコードは「QI」ですから昭和41年の9月の製造。箱は紺帯箱です。厚木のOMさんから譲っていただいた米軍落ちのNo.266が「PK」で昭和40年の11月製の緑箱ですからこの間に緑箱から紺帯箱に変わったことがわかります。時代はウルトラQからウルトラマンに替わり、空前の怪獣ブームを巻き起こした時代のNo.266で、当然のこと周波数の記号はまだMHzではなくMcの時代。当方すでにNo.266も3本目なのですが、いまだMHz表記に変わったNo.266には縁がないようです。
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