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April 17, 2022

半纏・雪の花酒造(小樽市)

 雪の花酒造は小樽の勝納川の沿いに明治の時代に創業発展した北の誉の野口本家などの酒造場と比べると比較的に新しい昭和4年創業の桶売り専門蔵の酒造免許を昭和36年に引き継いで創業したという若い酒蔵でした。もともとは自社ブランドで日本酒を販売していたわけではなく、他社への桶売りや観光地の名前を冠したOEMに徹していた営業方針の酒蔵でしたが、日本酒の需要後退とともに平成に入ってから自社ブランドを前面に出した営業戦略に転換したものの、売上の減少には抗しきれず、一度はスポンサー企業(旧苫小牧臨床検査センター系)の経営参入で息を吹き返した様子も見たものの、そのスポンサー企業の経営分割分社化により資金援助が絶たれ新たな仕込みを中止。在庫のみで営業を継続していたものの2011年7月に経営破綻し、雪の花のブランド名とともに消滅してしまいました。数年後には合同酒精を中核とするオエノングループの一部門になっていた北の誉の野口本家も小樽での醸造を中止して旭川に拠点を移設。野口本家に委託醸造していた山二わたなべの北寶も廃業してしまいました。勝納川沿いに発展した酒蔵は現在では宝川の田中酒造の亀甲蔵のみという現状です。
 明治24年に北の誉の野口本家酒造が小樽で最初の日本酒の蔵として開業しましたが、それ以降勝納川沿いの地域に日本酒の蔵が集中したというのはひとえに水、それも天狗山からの伏流水が日本酒醸造に最適だったからといわれています。当時の小樽は北海道における金融・商業・交通の中心地で、本州からの物資や人を受け入れた玄関口のような町でした。そのため、ここ小樽を拠点に野口本家が旭川や札幌にまで醸造所を設けるほど隆盛を極めたわけですが、今や野口本家と神谷酒造が中心になって設立したアルコールプラントの合同酒精の持株会社のオエノングループの一部門に組み込まれ、小樽から完全撤退したというのも時代の流れかもしれません。
 この雪の花酒造の半纏は黒襟に紺木綿生地という組み合わせで、背には雪の花酒造のマークがあしらわれています。さほど古いものではありませんがざっくりとした大きめの半纏です。仙台物ではないようで、もしかしたら旭川あたりの染工場で作られたものかもしれません。

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April 03, 2022

HEMMI No.80K 10"電気用初期型「HD」

Hemmi80k

 HEMMIの電気用計算尺No.80KのルーツはJ.HEMMI時代のNo.3にまで遡りますが、No.3自体はA.W.FABERのNr.368 Elektroのまるまるデッドコピーでした。というのもHEMMIの創業者の逸見治郎はあくまでも目盛職人で計算尺の原理原則などわかるはずもなく、あくまでも渡された見本を忠実に作ってみせることには長けていたものの、それ以外のことは不得手で、あるとき西洋の文字で書かれた手紙が猿楽町の逸見治郎の作業場に舞い込んだとき、彼は学校の先生なら何が書かれているかわかるだろうとさっそく近所の小学校にくだんの手紙を持ち込み助力を求めると発送先はイギリスのロンドンからで、サンプルを至急3本送られたいという内容だったということがわかったとのこと。当時のイギリスは第一次大戦でドイツからの計算尺供給が途絶え、新たな計算尺の供給元が早急に必要だったのでしょう。その後、どのような手段でロンドンの会社とやり取りしたのかは知りませんが、おそらくその会社から同じものを作ってほしいと送られてきたサンプルがこのA.W.FABERのNo.368だった可能性もあります。そして大正時代の前半にはマンハイムタイプの計算尺しかなかったところにいきなり加わったのがNo.3なわけなのです。ちなみにこのロンドンの会社が逸見治郎の猿楽町の工場に手紙を出さなければ。また逸見治郎が近くの小学校に駆け込まなければ。そしてロンドンとの取引が始まらなければ、そのロンドンでヘンミの計算尺を後のヘンミ製作所社長となる大倉龜が見つけることもなく、おそらくヘンミ計算尺は大正14年の工場火災とともに途絶えてしまったかもしれません。そしてヘンミ計算尺は大田スター計算尺や竹内式計算尺同様に時代の徒花となり、以後の日本の計算尺は河井精造が正式に理化学研究所の資本投下をうけて会社化した「理研計算尺」というものが設立され、戦前戦後の日本の計算尺界をリードしていた可能性だってあるのです。逸見治郎が英語がわからないからとその手紙を放置せず、取引の始まったロンドンでその製品を目の当たりにした大倉龜が経営参加を申し出、いろいろな人材が自分のアイデアを猿楽町の事務所に持ち込むために集まり、結果として次々に新しい計算尺が発売されていったのです。
 そのHEMMI No.3電気用ですが、コピー元のA.W.FABERがNr.398にモデルチェンジしたことでいささか陳腐化し、べき乗尺、逆尺などを備えたNr.398コピーがHEMMIのNo.80です。発売当初はNo.3同様のナローボディだったという話を聞きますが、その後すぐにNo.64同様のワイドボディ化し、両端にセル剥がれどめの鋲が無くなったと同時に延長尺を備えるようになったのが戦前から戦後の昭和27年頃まで続いたNo.80になります。その戦前のNo.80ですが、べき乗尺を備える片面尺が他になかったためNo.153と同様に電気関係者だけではなく、機械技術関係者にまで広く使われたためか、今でもかなりの数が残っており、決して珍しい存在ではありません。No.50系統を除き、技術用の計算尺としてはリッツのNo.64に次いで多用された片面計算尺かもしれません。そのNo.80の滑尺溝内のモーター・ダイナモ効率尺度を廃し、表面に持ってくることにより特殊な構造の滑尺インジケータをやめ、No.2664などと共通化したボディを使用し、さらに二乗尺のK尺を下固定尺側面にあらたに追加したのがNo.80Kになります。そのNo.80K電気用ですが、他の延長尺を持つNo.64やNo.130等と同様に延長尺の始点の違いで初期型と後期型に分類されるのはあまり気にはされていないと思います。というのもNo.80系統は戦後に多種多様な計算尺が発売されたおかげで戦前に比べるとNo.64同様に相対的に重要度が下がったため、さほど数がさばけなくなったのか数が少ないため、目にする機会も少ないためだと思います。現にNo.130の初期型でさえ昨年立て続けに2本入手しましたが、それまでは現物を目にすることさえ出来なかったのですから。この延長尺の始点が旧タイプはA,B尺C,D尺それぞれ0.785と0.890だったものが0.8と0.9に短縮されています。旧タイプはなぜ、このように半端な数値の始点だったかというと、コピー元のA.W.FABERがそうだったからということしか言いようがありません。同じドイツのNESTLERあたりも似たような延長尺始点なので、おそらくは意味のある数値であったとは思うのですが、当方はよく理解していません。後に0.8と0.9にしてしまったわけですから最初からあまり意味のなかった数値かもしれません。HEMMIの延長尺トリオNo.64、No.80K、No.130のうちで延長尺が一番長かったのはNo.130初期型のそれぞれ0.7と0.84で、後期型とは見た目ですぐに違和感がわかるのですが、No.64とNo.80Kは言われなければわからない人が多いのではないでしょうか。その初期型No.80Kですが、開始価格1000円スタートで出品されたものの送料一律1500円を嫌がったのか誰も入札者がなく、開始価格が下げられて出品され続け、400円になり送付方法もメール便210円に下げられたところで落札したものです。入手先は東京都内です。
 デートコード「HD」ですから昭和32年4月製なので、この初期型では最後の製造年度になると思います。最初期型のHコードのNo.2664S等と同様に裏側固定尺真ん中にSUN HEMMI のトレードマークとデートコード、右の端に形式名が入っているのがこの年までのHEMMI片面計算尺の共通仕様です。手元にあるデートコード「OH」の後期型との違いは構造的には裏板のネジ止めの有無くらいなものですが、あとは表面延長尺部分の数字の色、D尺上にCおよびC1ゲージマークが無くなったくらいしか変更はありません。πマークも釣り針足形で変更がありません。ただ、D尺のCとC1ゲージマーク廃止は後期型でも中途の変更だったらしく昭和36年製造年の「L」にはちゃんと残っているのです。

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