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June 09, 2022

幕末江戸時代鉱山用鉄製カンテラ(一名:李朝鉄製燈火器)

Dvc00575  江戸時代から明治の初期くらいまで使われてきた鉄製鉱山用燈火器です。この燈火器は骨董の世界では「李朝鉄製燈火器」などと言われることもあるようですが、李氏朝鮮時代に江戸時代の日本の金山や銅山のような本格的な坑内掘りの鉱山技術があったという話は聞いたことがありません。欧米の安全燈コレクターは「China」のランプとしているようで、鎖国して鉱山技術も、まして取り立てて重要な鉱山資源もなかった朝鮮の「李朝鉄製燈火器」とするのは一寸無理のような感じがします。ともあれ、この鉱山用燈火器は日本の各地から発見されているようですから簡単な作りと相まって幕末期には蝦夷地を除く全国に普及していたようです。この幕末期の鉱山用燈火器は一番安価で簡単なものはサザエの殻に灯芯を立てたもの。もっとましなものは陶器や磁器で出来た灯明皿や片口のようなもの。そして坑夫が持ち歩けるようないわゆるポータブルの燈火器がこのような鉄製燈火器となり、幕末期には急須のような形の鉄製、欧米でレンチキュラーランプと呼ばれる分厚い凸レンスのような胴体に火口と蓋を付けた鉄製、そしてこのカラスの頭のような鉄製燈火器のの三種類があったようです。どうやら最初の2種類は欧州がルーツで幕末に長崎から入ったものを日本で真似て作ったもの。カラス頭型鉄製燈火器はそれ以前にこれも長崎から入った支那渡りの燈火器を国産化したものなのでしょう。構造が一番簡単なので蝋で原型を作り砂型で鋳鉄を流し込んで一度に何個も作っていたようです。それにしても華やかな場所で使われた美しい灯火器というわけでもなく、地底で使われた無骨で地味な真っ黒い灯火器ということもあって、いつ頃どこから渡ってきて主にどこで作られたかという情報もまったくないのです。個人的には江戸時代からの鉱山技術を友子親について3年3ヶ月と10日を修行期間として技術を習得し、友子親から盃をもらい、坑夫自助組織の友子取り立て式を受けて晴れて友子になった坑夫のうち、各地の鉱山を渡り歩いた「渡り坑夫」たちが持ち歩いた道具の一つだったのではないかと考えています。鉱山労働供給元の飯場や納屋といういわゆるタコ部屋においても仕事の道具は自弁で、道具を持たない年季奉公の坑夫は食費から道具から何から何まで天引きされ、飯は立ったまま食わされたという話もありますが、技能者で渡りの坑夫の自友子は自前の道具は持っており、飯場での待遇も年季奉公の坑夫とはまったく違って酒も自由に飲めたし、外出もお構えなしだったとか。その独り者の渡りの自友子が亡くなるとその亡骸はその鉱山の共同墓地に友子同士の互助金で葬られ、道具は食費や宿泊費の精算分として飯場の所有になったのではないかと思うのですが、この灯火器も渡りの自友子の移動とともに全国に散らばり、そして明治の時代になっても一部は使用されたのか北海道からも出てきたことがありました。 しかし、地底で使われて文字通り日の目を見なかった道具ゆえか、どうもこの灯火器の正式名がわかりません。道具である限りはちゃんとした標準和名があるはずなのですが、古美術の範疇に入らず、長らく単なる汚い古道具扱いだったためでしょうか?それが「李朝鉄製灯火器」と名前が変わっただけで格付けされ、取引価格が一桁以上上がってしまうというのは解せません(笑) 発掘先は茨城県で、茨城は水戸藩以前の佐竹氏の時代まで遡り、後に日立鉱山と名前を変えた赤沢鉱山などの古くからの鉱山が点在しています。そのため、いにしえから渡りの友子が江戸の昔から集まっていたのでしょう。その渡り友子の忘れ形見だとしてもちっともおかしくないのです。もちろんのこと、本来は鉱山用目的に作られたわけではなく、携帯用の灯火器として作られたものを鉱山の坑内用として転用したものですが、なぜ坑内でロウソクが使われなかったかというのは江戸時代のロウソクは蜜蝋もしくは木蝋を使用した和蝋燭で、非常に高価なものであったためです。そのため、庶民は行灯などの燃料に種油を使用したものの、この種油も高価だったため、一部イワシなどから取られた魚油と混ぜて使われたりしたものの非常に臭くて盛大に油煙が生じたのだそうで。イメージ的にはもっと小ぶりで小さなものかと思ったのですが、意外に大きく一般的な急須型の燈火器よりもやや大きいほど。油壺の容量が極端に少なくて、作業の途中で火が消えてしまっては困りますし、ある程度のミニマムの容量があったのでしょう。さらに構造的に言うと作りがかなりプリミーティブな鋳物で、おそらくは蝋で上下2ピースの原型を作り、油壺部分をくり抜いて中に粘土を詰め込み、蝋の原型を一つにした後に外側を砂で覆って砂型を作り、湯口を作ってそこに溶けた鉄を流し込み、後から中子の粘土を掻き出すという奈良時代の大仏鋳造方法と何ら変わらない方法で作られたものですが、技術的に肉を薄くすることは無理だったようで、かなり肉厚で重い燈火器です。それに比べると急須型の灯火器は鉄瓶づくりの技術のフィードバックもあるのか肉薄で軽く仕上げっていることから時代的にはこちらのほうが断然古い、時代が遡った燈火器なのは確かのようです。

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