SCI DUH RULES M.CO.(四達計算尺工廠)No.1309 10"マンハイムタイプ
10インチの逆尺もないマンハイム型片面計算尺で、竹製のようなのにHEMMIでもRelayでもない特徴をもつ計算尺。強いて言えばA.W.Faberにこのようなものがあったのではないかと思い、カーソルがないのにもかかわらず購入した計算尺です。実は非常に興味深い来歴をもった計算尺だったのです。その正体は戦前の上海で作られた四達計算尺No.1309というもの。製造は昭和でいうと一桁からおそらくは15年位までの製造だと思われますが、それがちゃんと日本に渡って実際に日本人によって使用されていたというのは本体に刻まれた所持者名が証明してくれています。戦前の上海はアヘン戦争によって欧米列強に租借されており、租界という治外法権地域が存在していました。租界の外では軍閥、国民党軍、八路軍が入り乱れて騒乱を繰り返していたのに、租界の中は西洋文化が花開き、ヨーロッパ式の建物が立ち並び、銀行、百貨店、ホテル、ダンスホールなど、欧州と米国の文化が溢れた街に発展しましたが、そこには外国人や中国人資本家がアジアのマーケットをターゲットに軽工業を始めています。メインは繊維関係の工場だったようですが、中には文房具、パーカー万年筆なども上海に進出していたようです。しかし昭和16年12月8日の日本の開戦に伴い、外国人資本家は資産を中国人に売り払い帰国。さらに日本の敗戦後の中国内戦で国民党軍の本土撤収時に外国人・中国人資本家や技術者、熟練工や文化人に至るまで共産党支配を恐れて数十万人が香港に流出したというお話。それまでアジアの商業製造業の中心だった上海から香港がその地位を奪う結果になってしまったということです。四達計算尺のマークである「Ruyi」というのは中国仏具の「如意」というものであり、本来は背中を掻くための孫の手を模したものなのですが、それが権威の象徴のようなものになり、民間では「力と幸福を象徴する印」として目出度いマークなのだそうで。また、四達は星を意味する言葉でもあるようです。この四達計算尺の歴史は古く、1920年代半ばにはすでに製造されていたらしいのです。初期は片面尺はFaber Castelの模倣、両面尺はK&Eの模倣から始まった竹製計算尺です。これもHEMMI計算尺同様ですが、HEMMIの竹製計算尺の特許は内戦状態の中国では出願するすべもなかったのか竹を組み合わせた構造がそのまま使用されていたようです。入手した四達No.1309はA.W.FaberのNr.55/99あたりのデザインをコピーしており、本体も木製です。ただ本家が西洋梨材なのに対してこちらは白樫材を使用しています。白樫といえばハンマーの柄にも使用されるほどの固くて緻密でさらにリーズナブルな木材ですが、三味線の世界でも小唄の5厘大胴の三味線に限って使用される棹の材料なのでこちらも馴染みがあり間違いありません。その固定尺には表面に対して直角に、滑尺は表面に対して平行に金属の板の補強が入っており、反りを防ぐ構造になっています。この構造もA.W.Faberのパクり。尺度はシンプルな表面A,{B,C,]D,で滑尺裏がS,L,T,の7尺。また裏面には10インチと25センチメートルのスケールが刻まれています。滑尺溝とケースにはSCE DUH RULES M.CO. MADE IN CHINAとあり、戦後の中共時代のShanghai Si Da Rule Factory表記とは異なります。おそらくは工場は租界から日本支配、国民党支配から中共支配という変遷を経ながらも工場自体は上海に残ったものの、国営の公企業化されたのち、同じく上海にあった計算尺工房とともにに上海飛魚ブランドの上海計算尺廠に統合されたのでしょう。なお、四達には星という意味もあると書きましたが、太田スター計算尺の太田粂太郎が大正末に会社を潰した後に上海に渡り、四達計算尺に関わったなんて「義経が大陸に渡りジンギス汗になった」的な伝聞があれば、話はもっと面白いのですが(笑)なぜならば滑尺の金属板補強構造の特許は彼が持っていた…。それにしても所持者名は日本人ですが「友愛」なんてキラキラネームが戦前にあったのでしょうか?(^_^;) おそらくは明治末の社会的な考えの人達がそのまま「ゆうあい」と読ませる名前を男子につけたのでしょう。決して女の子キラキラネームの「ゆあ」ちゃんとは読まないはず(笑)
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