September 05, 2007
支部長の介添役ということで、泊まりがけで函館行きということになり、久しぶりに防湿庫からカメラを取り出しました。最近はどこの集まりでもデジタルカメラばかりで、当方も普段は携帯電話の3メガピクセルデジカメで事足りるのですが、今回は無線趣味人の集まりということで「どんなカメラを持ち出すか」悩んでしましました。こういうときにはSLRなんかよりも知らない人間から見ると「得体の知れない古いカメラ」に見えて、知っている人間には思わず手に取りたくなるようなカメラの方が会話が進みそうです。「スピグラ」じゃこけおどしには最適なのですが、業務用のカメラだし手持ちのシートフイルムはかなり前に期限が切れた物しか残っていません。おまけに重くてとても大荷物を持ち込む気にならず、けっきょくライカのIIIGにズミクロンのスクリューマウント35/F2.0とこれもスクリューマウントのエルマリート90/F2.8に誰かにもらった期限切れだけどずっと冷蔵庫保管だったアグファのVISTAを詰めて函館に出掛けました。
しかし、以前は底蓋ライカのフイルム装填というと鋏付きのスイスアーミーナイフを持ち歩き、新しいフイルムはリーダー部分を10センチ切らなければうまく装填できないので、必ず鋏でリーダー部分を切り取る儀式が必要だったのですが、今回初めて圧板にテレホンカードを差し込んでフイルムガイドレールに引っかからないようにフイルム装填してみました。今までの苦労は何だったのでしょう。この技は10年前には聞いて知っていましたが、今回初めてやってみたということは、10年間一度もフイルムを入れていなかったという証拠です(^_^;) テレホンカードはCO-COの皮ハーフケースとカメラの間に納めることが出来ますので、いざというときに無くすこともなく、また空港でいくら小型とはいえ警備員とスイスアーミーナイフで揉めることもありません。しかし昔は底蓋ライカやニコンFに何秒でフイルム装填できるか「まじめに練習」したもんです。回転式コルトシングルアクションアーミーに空薬莢を抜いて何秒で実包を6発装填できるかの秒数を競うのと同じノリですね(笑)
同じテーブルにいた石狩のM支部長はデジタルのSLRでしたがU監査長が商売柄フイルムSLRのα8でした。うちの支部長に食べ物を取り、ちょっと目を離した隙にIIIGはテーブルの上から消え去り、M支部長の手に渡ってさっそくライカ蘊蓄話です(笑)当方実質的にカメラ蒐集から足を洗って10年以上経つので銀塩フイルムカメラ撤退騒動のときの状況は全然知りません。気が付いたら銀塩フイルムカメラが売り場から無くなり、業務用の中版カメラまで撤退が相次ぎ、当方もGSW-690がダメになったらどうしようかと考えることもありますが、GSW-690自体12年ほどフイルムが入っていない計算になります(^_^;)
ところが、その会場で当方以外に唯一ライカのフイルムカメラをぶら下げてきたのが韓国はKARL釜山支部の支部長の金さんです。同じ金姓で、さすがにバルナック型とR型との違いはありますが、付いているレンズも単焦点35ミリのズミクロン35/F2.0で同一、おまけに身につけているDUNHILLのベルトまで同じとは恐れ入りました(笑)当方、ライカのR型というとライカフレックス以外にはまったく機械としての興味が無く、近年のR型は見た目で何型とわからないのですが、たぶんREのような感じがしました。銀色のR型でしたが…。当方のM型時代の35/F2.0ズミクロンですが、これも散々使ったM3用のメガネ付35/F2.0よりカラーの発色やコントラストなどがおとなしい気がします。いくら冷蔵庫保管とはいえアグファフォト以前のアグファゲバルト時代の期限切れVISTAでは本来の発色は望むべくもないのでしょうが。
帰った翌日、近所のショッピングセンターなどに併設されたミニラボを捜すもここ2年くらいのうちにどこもかしこも撤退。40分仕上げで簡単に請け負ってくれるところが見当たりません。そのため少し離れたところの昔からの写真店に依頼して2時間ほどで出来上がりました。写真店にDPEが持ち込まれず、ショッピングセンターのミニラボ流行だったのですが、結局いくらデジカメプリントを前面に押し出しても商売が成り立たず撤退。残ったのは細々と商売を続ける昔からの写真店だったりするのですから皮肉な物です。
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January 20, 2006
コニカ・ミノルタがフイルムとカメラ事業から完全撤退するというニュースにはニコンに引き続き「ブルータスよ、おまえもか?」状態なのですが、合併して一つの会社になったとはいえ、一度に2つの老舗カメラメーカーの名前が消滅してしまうというのは、時代の流れとは言えなんだかなぁという感じです。しかし、デジタルカメラってそんなにいい物でしょうか?最終的に自分が外に持ち出してまじめな写真を撮るためのカメラというと、ブローニーの中版カメラか4×5のフィールドカメラというフイルムカメラになってしまいます。
考えてみたらコニカのカメラもミノルタのカメラも変化球的な物しか使ってはいませんでした。まずコニカはパールのIV型、こいつはいいカメラでしたが、普段使うセミ版はフジのGS-645ばかりでコレクションと化し、引っ越し費用を捻出するための貴重な資源になりました。あとは1眼レフのFS-1くらいかなぁ。ミノルタは家にあったMODEL3というレンジファインダーカメラとは小学生のときからの付き合いで、去年自分でファインダー回りのオーバーホールをしたばかりです。他に貰い物の古いマニュアル1眼レフ2台とあとは珍しく未使用新古品で揃えたライカMマウントのCLEでしょうか?このなかで一番使ったのはCLEで、1眼レフより圧倒的にかさが少ないためによく海外に持ち出しました。まあ、その程度の付き合いですからコニカにもミノルタにも売り上げ的には殆ど貢献していませんでしたけど。
しかし、かつてキヤノネットの出現によって多くのレンズシャッター機メーカーが倒産・廃業に追い込まれ、さらにキャノンAE1の出現によって電子化に付いていけなかったメーカーが淘汰されていったように、デジタルカメラの時代になって多くの家電メーカーが参入したデジタルカメラ戦国時代の到来により、半導体製造技術や画像処理技術に遅れたフィルムカメラメーカーはデジタルカメラの市場に食い込めずにフィルムカメラ事業もデジタルカメラ事業からも撤退と相成ることとなった次第です。しかし、かつてのキャノネットショック、AE1ショックの様相が、デジタルカメラにより老舗の小西六と千代光だったコニカ・ミノルタで繰り返されるとは思いもしませんでした。コニカ・ミノルタはレンズでは他社には絶対に負けないはずです。ところがデジタルカメラはCCDの感度を上げて豆カメラのような暗いレンズでも構わないわけで、レンズがよいだけではデジタルの世界ではやっていけなくなりました。デジタルカメラはレンズで選ぶという話はあまり聞きません。そのため、老舗のカメラメーカーではなく家電メーカーのデジタルカメラもすんなりユーザーに受け入れられるようです。なにせこの世界にデジタルカメラを普及させたのは計算機屋の印象の強いカシオですからねぇ(^_^;) しかし、これでまた大手カメラ量販店のフィルムカメラコーナーの品揃えがますます寂しくなります。いい加減ヨドバシカメラ・カメラのサクラヤ・ビックカメラはヨドバシパソコン・パソコンのサクラヤ・ビックパソコンに社名変更しなければ。すでにカメラ売り場なんて店の片隅のほんの狭いスペースしか宛われておりません。とはいえ、ベトナム戦争で沢田教一がライカのM3を手放さなかったように、自然環境の厳しいところで最後に生き残るのはフイルムの機械式カメラであることは変わらないと思います。もっとも自然環境の厳しいところに1台だけどんなカメラを持って行くかという「究極の選択」を迫られたら……おそらく旧タイプのニコノスでしょう(^_^;) ところで、コニカとミノルタの戦後60年の名機を選ぶとしたらどんなものが出てくるでしょうか? コニカだったら迷わずパールIV型、コニカF、35III型、FS−1、ジャスピンコニカ、ビックミニ、などが上げられ、ミノルタだったらミノルタ16、オートコードIII、SR−101、ミノルタCLE、α-7000、あたりでしょうか?総合カメラメーカーらしく35ミリ1眼レフから2眼レフ、レンズシャッター機、ミニカメラに至るまでその幅の広さはニコンの及ぶところではなかったようです。でもこの中で百万台単位で売れたのはもう20年前のミノルタα-7000シリーズだけかな? 忘れていましたが、ミノルタ製品といえば当方、スポットメータなんかの露出計ユーザーなんです。もちろん新品で購入し、ブローニーや4×5撮影のために国内はおろか海外まで持ち歩き、数千カットで済まないくらい撮りましたが、これらも製造中止なんでしょうね。デジタルカメラでスポットメータ使って露出補正計算している人間なんか見たこと無いもんね(^_^;) でもこのスポットメータFが壊れてしまったら、いったいあたしゃどうすりゃいいのか?
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January 15, 2006
13日朝刊に掲載され「ニコン、フイルムカメラから事実上撤退」という報道は少なからずショックを受けました。フイルムカメラはF6ともう1機種を残し、交換レンズも大幅に整理して製造を終了させ、新たな開発はデジタル1眼レフに振り向けるということですが、これも時代故に仕方がないことなんでしょうか…。しかし、デジタルカメラがここまで急速にフイルムカメラに取って換わられることを誰が想像したでしょうか?報道の世界ではすでに画像をリアルタイムで転送できる速報性ゆえにとっくにデジタルカメラの独壇場で、フィルムカメラなんぞ第一線に残っていません。報道といえばスピグラがまだ蔵前国技館で使われていた時代を知る自分にとっては隔世の感がありますが、報道からもフイルムの消費がなくなり、コマーシャルの世界からもフイルムの消費がなくなると、これからは新たな高性能のフイルム開発も止まり、フィルム自体も「注文」しなければ手に入らない事態も十分考えられることも覚悟しなければいけません。
しかし、機械式カメラの技術継承で複雑カメラの代表「ニコンSP」を復刻させたかと思ったら、今度はフイルムカメラからの事実上の撤退ですか?何かポリシーが一貫しない感じがしますが、現在ニコンではカメラ事業自体が収益の柱から外れつつあるのですから致し方がない事でしょうか。我々が現ニコンである日本工学に抱くイメージというのはキャノンやオリンパスとはまったく違った「精密工学会社」のイメージで、さながらドイツの「ツアイス」のような感じでした。8センチの屈折赤道儀付天体望遠鏡がビクセンの光友社あたりが6万くらいだったときに同じ8センチの赤道儀が日本光学のものだと何と16万8千円(@_@) 事、光学製品に限ってはなんか日本光学製というだけで特別な「プロのための道具」という感じであり、何となく殿様商売というか宣伝が下手だったイメージがあるのは、そもそも三菱系の企業で官僚主義の経営が支配している会社だったからでしょうか? それが30年くらい前から大衆化してしまいキヤノン、ミノルタ、オリンパスと同じ土俵に立ってしまってからは「日本光学」ではなく単なる「ニコン」になってしまいました。しかし、大ニコンがフイルムカメラからの事実上の撤退といえば、残る国内メーカーにも波及することは必至でしょう。まあ、考えてみれば未だデジタルカメラなんて発展途上であり2年3年でどんどん買い換えられる商品ですが、フイルムカメラなんてそうは買換需要が見込める物ではありません。当方なんか外に持ち出すメインカメラといえば未だに20年前のT-90ですよ(笑)それだけ「写る」という本質はもう何十年も変わっていないものなのです。14日放送の「ウルトラマンMAX」に40年前の撮影シーンということで、16ミリのアリフレックス16Mが出てきました。ウルトラQの3人が揃ったのもすごいことでしたが、事もあろうにアリフレックスが怪獣にたたき落とされて壊されてしまうシーンがありました。今のデジタルムービーしか撮らないクルーは、アリフレックスに何の思い入れもないでしょうから、というよりアリフレックスがどれだけ高価な機材だったかまったく知らない世代だから、いくら時代考証に忠実でも(だったら16STを出すべき)こんな破壊シーンに登場させたのでしょうか?当方から見たらリンホフやディアドルフも知らないデジタルカメラ世代の世代が、これらのジャバラのカメラを焚き付けにするシーンを取っているようなものです。どうせ壊すんだったらアリフレックスじゃなくてキャノンスクーピック16あたりにしろって、それじゃウルトラシリーズと時代が合わない
(゚o゜)☆\バキ
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September 06, 2005
昔、千葉を引き払って都落ちし北海道に帰ってくるときに、換金性の高い日本製レンジファインダーコレクションは新宿のカメラのきむらで委託販売に出し、ニッカ・レオタックス・キャノン・タナック・ヤシカ(YF)の本体十数台と共に、トプコール・フジノン・ニッコール・キャノン・ヘキサー・ロッコールのLマウント交換レンズもすべて換金して引っ越し費用に化け、残った代金も車の修理代金(中古エンジン換装)に消えてしまいました。ところが換金性が低いためにまるまる残ってしまったのがミランダの一眼レフ群なのです。ミランダは古い物から比較的新しいものまで本体6台と28ミリから135ミリまでの数々の交換レンズ、ならびに箱付きのアクセサリーの類まで色々と揃っていて、システムの充実ぶりとしてはニコン・キャノンを押さえてうちの中ではナンバーワンのメーカーなのです(笑)あのPMアダプターもあるんで、世界のありとあらゆるプラクティカマウントのレンズもミランダで使えるというわけです。ただしPMのレンズは一本もありませんが(^_^;)
その中でも一番のお気に入りというか、ニコンFを押さえてランキング1番がこのミランダAなんですが、何がすごいというとこのA型、ハッセルブラド同様にミラーがクイックリターンしないタイプの1眼レフなんですね。そのためにミラーショックがなくて非常に静かなカメラですが、ファインダーを覗いたままシャッターを切ると視野がブラックアウトして驚くでしょう。さらにニコンSのような高低二軸式シヤッタースピードダイアル、交換式の大きなペンタプリズムにクロームメッキの大きな鏡胴のレンズはシャッターボタンを押すと絞りが絞り込まれるというプリミーティブな自動復元手動絞りです。おそらくこのタイプの絞りを使用したのはエキザクタ以外では国産でいうとトプコンRくらいなものだったのではないでしょうか?またクロームメッキのレンズというのもライカフレックスみたいで異彩を放ちますが、ライカフレックスのほうは外式露出計の測光に影響してすぐにレンズが黒塗りになったようです。そして、ファインダーの視野の中はマイクロプリズムもスプリットイメージもないまったくのマット面だけのファインダーで、あれこれごたごたとしたファインダーになれている目で見ると、なんと新鮮な眺めか。ただし滅茶苦茶暗いですけどね(笑)
ミランダのカメラで手作り感のある重厚な印象のカメラはT型から始まってA,B,C型までです。D型になると見た目にもいきなりコストダウンされたような安っぽさが目に付き、以後精密感とは無縁の「手頃で安いカメラ」の代名詞になりました。なにせD型になるまでは本体が安物の合成皮じゃなくて本皮ですよ。手に持った感触からしてしっとりとした高級感が感じられるのはそこのためかもしれません。さらにこの頃までのミランダはアメリカでも「特別なカメラ」だったわけで、それは距離計連動機や2眼レフがヌーキーとかプロクサーなどというアクセサリーを使わなければ出来なかった近接撮影が本体だけで行うことができ、さらにビゾフレックスなどのアクセサリー無しに顕微鏡撮影から天体望遠鏡撮影などの学術撮影に使うことが出来るという機能からでした。そのために多くのミランダが大学や研究機関で使用されましたが、D型以降はだんだん大衆機としての意味合いしかなくなってきました。
ところで、ミランダは基本的にダイカストがT型の12角型から発展したラウンド型とオートメックスの系統の2つしかなくて、それをセンソマート系統・センソレックス系統まで改良しながらずっと同じ金型を使い続けたというのが驚異的です。言うなれば金型の呪縛に縛られ、同じ金型を使いながら中身を改良していったわけで、まったく新しいものといえば倒産直前に出したdx-3というプログラムオート機しかないのですね。そのために最後までデザインに陳腐さが拭いきれず、ついにはキャノンのAE-1発表により企業として成り立たなくなったわけですね。
このミランダAは16年ほど前に松坂屋カメラで捕獲してきたアメリカ帰りのもので、この時代は国内販売していなかった為に当然すべて海外からの里帰りカメラになります。湿気による痛み、カビがないのはいいのですが、ミラーを他のものに変えたらしく、そのミラーも端が少し欠けていて、さらに絞り羽根にオイルがべっとり付いていて粘って絞りが絞られず、ミランダ全般が最後までそうでしたがスローガバナーの動きが宜しくないということで、手を加えないと殆ど飾りのためのカメラというようなシロモノでした。そのために、いままでずっと防湿庫に入りっぱなしで一度もフィルムが入ったことがありません。最近、カメラの分解ばかりやってましたので、こいつもまな板ならぬ分解マットの上に乗ることになりました。レンズの分解ですが、最近は数もこなしてきましたので、簡単に前群・後群を外し、前から絞り羽根を押さえている円筒を外せば絞り羽根が現れます。これを1枚1枚外してオイル分を洗浄して乾かし、1枚つづ組み付けてゆけばそれ良いのですが、組立に手間取って少し時間を食ってしまいました。しかしアメリカ帰りのカメラには絞り羽根に油分がべっとり付いて、羽根がくっついて動かないものが良くありますが、レンズシャッターに差した油が絞り羽根に回るのはまだしも、1眼レフの絞りの基部に油を差すなんてどういう神経しているんでしょ。もう一台のセンソレックスも絞りに油が回って膠着してました。スローガバナーの動きが思わしくないのはA型以降のラウンド型系統共通のもので、1軸不回転ダイアルのセンソマートの時代になってもその症状が良くあるようです。これは基本的にスローガバナーの設計と材料が悪いのが原因のようで、これは底板を分解してスローガバナーを洗浄し、注油して何回か作動させる以外に動きを良くする方法がないみたいです。少しでも使わないとまたスローガバナーの動きが悪くなるようで、頻繁にスローシャッター切ってやる以外に予防法はないのですが、当時でも有名メーカーのカメラのスローガバナーはメッキされたギアが使われて加工精度もよかったものを、ミランダのスローガバナーは真鍮の切りっぱなしのギアだったりしますから、なんとなく安物のピンレバーウオッチのメカみたいで、ここいらの問題も大きいのでしょう。低速は精度が出ないと割り切って1/30以上のシャッターしか使わない方が利口です。でもうちのD型はスローガバナーは絶好調だし、センソレックス系はダイアルを回してもギアの音が聞こえず、スローガバナーが効かなかったということもありません。基本的にセンソレックス系はスローガバナーの構造がまったく違うんでしょう。個人的にはダイアル回すたびにギアの音がギーギー聞こえるのはあんまりいい感じはしませんが。ということで、未だにスローガバナーの調子は完調ではありませんが、とりあえず絞りの方が作動するようになって、曲がりなりにもフィルムを詰めて写真を撮れるレベルにまで持ってきました。T型にはズノーのレンズが装着されていたことが知られていますが、このA型に付いているレンズはソリゴール50mm/f1.9です。この時代はフジタ66の藤田工学あたりか、コーワのレンズだっていう話だったかなぁ、詳しいことは忘れましたが、同じソリゴール50mm/f1.9であってもA型から数えて16年後のオートセンソレックスEE用ソリゴール50mm/f1.9 EEまで新旧5本のレンズがあるので、これを全て同じ条件で撮り比べてみるのも面白いかもしれません(笑)
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September 05, 2005
オートボーイJETの分解ならびにジャンクから取り出した部品の交換、ヤシカ35の分解ならびに巻き止めスプリング製作あたりからカメラの軍艦部の分解にけっこうはまり、というのもプラスチック製でない年代物のカメラの軍艦部ははめ込みで止まっているようなものはなく、一種のパズルのようにあちこちのネジを緩めて部品を外すことに初めて分解にいたるわけですが、設計者の設計意図をくみ取ってどこにネジが隠れているかなどを推定しながらカメラを分解してゆくのは、実に楽しいお遊びだということを発見しました(笑)その後けっこう曇り始めたファインダーのカメラが耐えられなくなり、ミランダセンソレットのファインダー清掃、ミノルタ35IIの軍艦部分解によるファインダー清掃、FD200/F4.0の3枚目の玉の白内障手術、s用ニッコール85/F2.0のヘリコイド分解とグリスアップなどを行いました。
ミランダセンソレットは1眼レフ専業のミランダが出した唯一のレンズシャッターコンパクトカメラです。確か73年あたりに「ストロボと取り付けて本体にガイドナンバーをセットすると距離に従って絞りを自動的に変化させるとともに、絞りの値をファインダー内に表示させる」メカニズムによって「日本の歴史的なカメラ」に選ばれたような気がします。「日本の歴史的なカメラ」を系統的にコレクションするマニアにとっては必須のカメラなんですが、ミランダ好きの自分にとっては、手元のミランダセンソレットは実は2台目のセンソレットです。というのも先代のセンソレットはアメリカ帰りのものを松阪屋カメラからタイミング良く平日金曜日に5,000円で奪い取ってきたのにも係わらず、取り引きしていた成形工場の火災でその被災状況を「写るんです」代わりに同僚に持たせたままになって喪失してしまいました。その後都内のカメラ屋を巡って歩くも縁がなく、オークションなどある時代でもなかったために、4年余りに渡って捜していたのに入手出来ず、押上界隈に営業に出た帰りに錦糸町の光カメラのショーケースの中に入っているのを発見し捕獲に成功したものです。値段は皮ケースと純正ハンドストラップ付きで15,000とまずまず高額でしたが、そんなことより足で歩いて4年見つからなかったものが再び入手できてうれしかったことのほうが大きかった15,000でした。アメリカ帰りのセンソレットと違って入手当初から若干ファインダーが曇り気味でした。それから10年以上経ち、ファインダーの清掃を思い立って軍艦部を分解。ファインダー曇りの原因はファインダー周りのショックアブソーバーとして入っているモルトブレーンが分解し、そのガス分がファインダーを曇らせていたようです。30年代のカメラはモルトに起因する曇りは殆どないんですが、40年代以降のカメラは比較的に多いですね。MマウントカメラでもM3はいつまで経ってもクリアなファインダーなのに、CLEはモルトプレーンの分解に起因して10年余りでファインダーが曇り始めました。センソレットは作業時間30分少々で耐えられるファインダーに変わって作業終了。ミノルタ35II型は、うちの母親が嫁に来るときに持ってきた由緒正しいカメラで、実は町田在住の兄の持ち物だったものを、新しいカメラの購入のために買い取ってやったといういわれのあるものでした。長い間うちのカメラとしては唯一のもので、昭和48年にキャノンのFTbに変わられるまでは現役であり続け、わたくし小学生の時には1眼レフの砲列のなかをこのカメラで急行ニセコのC62 2号機を追ったりしてます。ということで、場合によってはライカのIIIgよりも大切なカメラですが、東京に持ち帰る前に長い間押入の天袋に保管されていたために、ファインダー系統にカビが侵入し、見るに耐えられなくなっていたため今回思い切ってオーバーホールです。シャッター速度変更つまみなど細かいネジが多く分解が大変ですが、まずアクセサリーシューから外して巻き上げノブ、巻き戻しノブ、シャッターリング&シャッターボタン、シャッター速度変更つまみなどを取り外してあっさり軍艦部が分解出来ました。接眼アイピースは引き抜けば外れます。そこでプリズムやミラーをクリーニングペーパーで磨き、カビの部分は爪楊枝を平たく削ってクリーニング液を浸してこそげ取るように磨きます。その甲斐あって信じられないくらいにきれいになり、元通りに戻して完成です。ファインダーがきれいになると途端にフイルム入れて撮ってみたくなりましたが、この附属の4.5cm/F2.8の通称「梅鉢」といわれるレンズは、ミノルタの「仙人」といわれた斉藤氏が非点収差の計算式を一部間違えて、絞ってもなかなか均一性が良くならない迷レンズだったようで。ボディ設計は宮部甫氏ですが、基本設計が古いので、後のライカモドキのカメラと比べても精密度その他見劣りがしますが、ライカコピーに走らずまったくの独自設計のカメラなのでその独自性は評価できるでしょう。実は当初ホットシュー付きだったのですが、フラッシュキューブの暴発事故が続出し、ホットシュー無しに改めたのだとか。現にアクセサリーシューを外したらしっかりホットシュー用の穴が軍艦部に開いていましたし、後面に設けられたDINタイプのシンクロ接点はリード線で繋がっているのではなくて、このホットシュー基部と接点で接触していましたので、軍艦部を外すときにはんだごての必要がありませんでした。これは新たな発見でしたね。しかし、こんなボデイにライカのズミクロンなんか付けた日には、完全な「げだう」に陥ってしまいますな(^_^;) 古いFD 200/F4レンズは前から3枚目のレンズに曇りが発生し、絞りの基部から油が蒸発して曇らせているのだろうと思って殆ど20年放り出していたものですが、開けてみてびっくり。何と3枚目のレンズ後面のコーティングの変質で曇っていたっものでした。研磨剤で一皮剥く覚悟で磨いたんですが、あまり改善せず、洗浄してそのまま組み立ててしまいました。S用ニッコール 85/F2.0は実力の割に過大評価され、偉くいい値段が付いていますが、17年くらい前の松屋デパートのカメラショーでヘリコイドに引っかかりがあり、前玉に拭きキズが多い真鍮にクロームメッキのタイプのレンズを16,000で入手したものです。それいらい防湿庫の肥やしになっていましたが、パズルにはまってしまったために分解してヘリコイドのグリスアップに挑戦。余計なところまで分解してしまいましたが基本的には前群と後群のユニットをはずせばヘリコイドのグリスアップ部分が露出します。50年以上経ってすっかりヘリコイドに油分がなくなりがさがさした状態でしたので、薄くグリスアップして何回かヘリコイドを回すことによって入手以来初めてまともなレンズに生まれ変わりました。これ、ニコンSPに装着すると見栄えがいいので、少し町の中を持ち歩こうかしら?そういえばSシリーズで85mmのフレームがあるカメラってニコンSPだけなんですってね。そんなこととんと忘れてましたが、ニコンSPの再生産に合わせてこの85mmもますます相場がアップしたのでしょうか?。
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August 15, 2005
お盆休暇シーズン中はどこかしらの移動局がかならず声を出してくれていましたので、朝方と夕方に6mで交信チャンスが巡ってきて、昨日14日の夕方にも何局かと交信出来ましたが、さすがにシーズン末期らしく、2エリアから北とは交信できるチャンスに恵まれないようです。本日15日は昨日14日よりさらにコンディションが落ちましたが、朝方6mで佐賀県内のみ開け、2局ほど移動局と交信しましたが、8エリアからは夕方はコンディションが戻らず、クラスタの方にも交信報告が上がっていなかったようです。
さて、このカメラは2眼レフメーカーとして発展した「諏訪の風雲児」牛島社長のヤシカが始めて作った35mmフイルムを使うカメラで、当時のカメラが主にそうであったように外貨を稼ぐために海外に多く販売されたカメラです。外観がコンタックスに似ておりまして、これでライカマウントのレンズ交換式でフォーカルプレーンシャッター付きのカメラだったら、吸収したニッカで作ったYFよりは、現代ではよっぽど人気があったと思うのですが、残念ながら普及機というべきレンズシャッター機にすぎません。でもこの「ヤシカ35」はボディの出来に似合わず、当時のテストからして「レンズの描写が抜群」と評されていて、おそらく新種のガラスを使用した富岡工学あたりのレンズを使用したのではないかと。「レンズを外してライカマウントの鏡胴に移植してしまいたい」などと言われるほどで、その描写は「少し絞り込むと中心部から周囲に掛けても非常にシャープでコントラストも高い均一な像を結ぶ」といわれるようです。一時期2万円を超えるような値段で取引されるようなことがあったようですが、ヤシカのレンズシャッター付きカメラとしては一番相場が高かったんじゃないかしら?レンズは45mm/f2.8と2.0の2種類あったようですが、輸出用としては圧倒的に2.8付きのカメラが多かったようです。このカメラの入手経緯は、もう15年ほど前、松阪屋カメラでアメリカから届いたカメラを店内に並べ始めた木曜の午後に立ち寄り、確保してきたもので、アメリカ帰りということもあり、ファインダー内の曇りもレンズのカビも見あたりませんでした。値段はたったの3,000円。当時、ライカもどきの国産レンジファインダーカメラを集めていたわたくしが、なぜこんな物を持ち帰ったのかわかりませんが、多分コンタックス風で見栄えが良かったから飾りにでも使おうと思って買ったのだと思います。そんで、一度もフィルムを入れる機会がなく、防湿庫が一杯の時はタンスの中に収められたりして数年経って動かしてみると、フイルムを巻いてシャッターチャージしても巻止めが効かないんですね。購入した当初はちゃんと効いていた物が何もしないうちに巻止めが効かなくなるのも釈然としない感じがしましたが、中学生の時に叔父のミノルタA3というレンズシャッター機が巻止め不良になるのを経験しましたので、おそらくシャッターがチャージしたときに巻き上げ軸を止める爪かなにかのスプリングが外れたのではないかと思って、いつか自分でなおしてやろうと思い、そのまま8年ぐらい経過し、2年前にカメラの分解トレーニングついでに軍艦部を取り外し、爪らしきものを発見したのにも係わらず、バネが掛かっている様子もなく、そのまま組立直してガラスケースのオブジェになってました。今回JETの部品交換をしたついでに、この巻止めの効かないヤシカ35をもう一度分解し、巻止めの作用をする爪をもう一度観察すると、髪の毛ほどの細いねじりバネが下部に装着されていて、そのテンションで爪をラッチに押し付けるものが、そのバネの材質不良の為に40年以上という経年劣化ですでにテンションを失って、爪をラッチに押しつけられなくなってしまっているのが巻止め不良の原因だと判明しました。こうなったらテンションを掛けるためのねじりバネを自分で作るしかありません。家の中で手に入るねじりバネの材料といえば、使い古しのノック式ボールペンのコイルスプリングを延ばして使うくらいしか見あたりません。それで細いドライバーの軸にバネ材を巻き付けて、似たような形のスプリングを作りました。いざ装着してみると、テンションが強すぎて、常にギアをがりがり擦ってしまい、とてもフィルムをスムースに巻き上げられるようなものではありません。また、シャッターを切ったら巻き上げをフリーにするための爪の規制梃子のスプリングとのバランスを欠いてしまって、全くダメでした。この爪は常にラッチに対してテンションは掛かるようにしなければいけないが、梃子を押しのけるようなテンションの強さではいけないということで、ここいらのバランスが非常に微妙でこれは明らかに設計ミスというか、ずぼらな設計なんでしょう。それで爪を押しつけるという動きではなく、バネが微妙に元に戻ろうとする寸前のテンションを見つけるのに試行錯誤で何回もバネを作り、結局半日仕事で何とかシャッターを押さなければ確実に巻き上げ軸を止めるところまで持って行き。ついでにファインダーを掃除して元通りに組み立てました。まあバネ一本でけっこうな暇つぶしでしたけど。なんか自分で部品を作ってやっとカメラを修理して完動品に仕上げたというと、なんとなく偉そうに聞こえますね(^_^;)
15年間一度もフイルムを入れたことがないので、せっかくだから1本くらい撮ってみましょうか?
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August 14, 2005
巷では民族大移動の様相を呈して、このガソリンの高い時代に高速道路や観光地周辺も大渋滞のようですが、こちらお金の掛からない趣味としてお盆の休み中は、ちょうど部品取りのためのカメラが入手できたりしたために、一気に2台のカメラを分解し、修理などをする暇の潰し方をしてました。このオートボーイJETというカメラは、今から14年ほど前に、会社の社長の息子である専務から「オートボーイJETを買ってくれるんだったらGSW-690と交換してもいい」ということで、2つ返事で承諾したバーター取引のために自分がお金を出して購入したカメラでした。相場を知らないと言うことは恐ろしいことですが、相手は6万円くらいする最新機種の新品カメラと交換したと思ってましたが、そのころすでにオートボーイJETは不人気機種として場所によっては19,800円で売られていたことを相手は知らなかったようです(^_^;)
そのオートボーイJETで専務が土木の院生時代に論文のスライド作りに親に購入させた、フィルム20本も撮っていないフジの4年落ち位のGSW-690を巻き上げたのですから、正に「エビでタイを釣った」ようなものでした。そのGSW-690は中判のメインカメラとして北海道から九州まで持って歩きましたが、その後エビであったはずのオートボーイJETも「壊れたから捨てる」の一言を聞いて、タダでもらってきたカメラなんです(笑)
このオートボーイJETが発売された1990年当時、オリンパスを皮切りに「ブリッジカメラ」というコンパクトでズームレンズ固定のSLRが流行したことがありましたが、そのブリッジカメラとも明らかに違う形態で、ズームレンズの本体をそのままカメラにしたような形態の、おおよそカメラの形態とは思えないような、当時としてもかなりエキセントリックなカメラがオートボーイJETでした。確か広告はJETがミサイルよろしく空間を飛んでいるイメージ広告だったと思います。そのカメラとしては常識破りの姿・形のためか日本では全くと言っていいほど受け入れられず、早々に在庫を投げ売りされる状況でしたが、アメリカ方面ではかなり目を引いたらしく、その前持ち主もアメリカに持参したらよくこのJETを売ってくれと言われたとのこと。後継機種としてズームレンズが135mmまで拡大されたオートボーイJET135が出ましたが、その後の後継機種はありませんでした。今は似たような形態のデジタルカメラがありますのでカメラとしての形態の抵抗感はないとは思いますが、15年前ではまだまだカメラの形態としては日本の市場に受け入れられる物ではありませんでした。出現が10年早すぎたカメラと言えるでしょう。本体がこのままでデジタル化してほしいカメラではありますが、その意に反してあまりにも売れなかったカメラのために、この金型が使われてデジタル化されることはありませんでした。このカメラが普通のコンパクトカメラと違って優秀な点は、レンズ部分の収納寸法に余裕があったために、口径比が多く取れ、35mm側でコンパクトカメラには出来ないF2.8という明るさにあります。さらに広角側では並のSLRレンズに匹敵する解像力ですが、ズーム105mm側では35mm側よりかなり解像力が落ちるのはいたしかたがないでしょう。距離に連動してズームする大容量ガイドナンバー25のストロボがヒンジで開くレンズの蓋にビルドインされていて、レンズ近くで発光するためにあまり影を心配することがありません。そのために赤目に陥りやすいのでプレ発光システムが着いています。露出はプログラムのみ。そのため動きのある物を静止させるような撮り方は不適当で、高感度のフイルムを使用するしかありません。往年のキャノネットのようにシャッター速度優先モードが欲しいところです。
この「壊れたから捨てる」の原因は、電池室の爪が折れて、そこにスペーサーで詰め物をしてあり、フイルム交換の度に電池が外れて年月日のメモリーがクリアになってしまうというもので、それに目をつぶれば使用可能な状態なんですが、入手した当初は何回かオフ会などで使ったものの、いつか修理しようと思って10年間そのままになっていたものです。部品代としては100円そこそこの部品でしょうが、けっこうな工賃を取られそうな気がしてついにそのままでした。ところが先日、部品取りジャンクのオートボーイJETを入手して、電池室爪を交換することを企てました。昔のカメラと違って、プラスチックのパズルである現代のカメラは、ネジを外せば部品が外れるというものではなく、プラスチックの弾性を利用してはめ込んである部品がありますので、それを読みとって時計裏蓋分解用のハガシなどを使って慎重に分解。けっこう隠しネジ的なものもあるので、設計者の意図を読みとりながらの分解になりました。ジャンクカメラの部品取りから修理カメラの分解と部品移植、再組立まで30分程度で済ませ、見事10年ぶりでオートボーイJETがよみがえりました。
プログラムシャッターのみということで、一般のスナップ写真撮影以上には用途の限られるカメラですけど、普通のコンパクトカメラとは比べ物にならないストロボの容量を生かせばストロボ外付けのカメラ以上に使い物になるはずです。さらに忘れていましたがファインダーは実像式ケプラーファインダーでズームに連動し、さらにウエストレベルで使えるように上からも切換で覗けるようになっており、ローアングルから変わったアングルで写真が撮れそうですが、実像ファインダーゆえか光路上のゴミが拡大されて気になるのが欠点でしょうか。フォーカスも赤外線3点アクティブ式評価測距で、今のカメラと比べては芸がありませんが、当時の安いオートフォーカスカメラと比べて中抜けもなく優秀な部類でしょう。もちろん動体予測機能なんかありませんけどね(笑)
ただ、マニュアルフォーカス機械式カメラしか使わないこちらとしてはあのタイムラグの大きいシャッターは我慢できません。飲み会なんかのスナップに特化した使い方しかしないと思いますが、意外とモノクロフイルムを詰めて町の風景を切り取るのもいいかもしれません。
もう一台の暇つぶし用修理カメラはヤシカの35mm第一号「ヤシカ35」の巻止め不良修理です。このカメラは部品を作らないといけないためにたっぶり修理・調整に半日かかりました(^_^;)
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August 09, 2005
カメラというものはまったくアマチュアの世界でしか使われないものが殆どで、プロ用と言われるカメラの中にもアマチュア用とプロ用という垣根は殆ど無くなってしまったように思われますが、このカメラだけはその終焉までアマチュアに手にされることが無く、言うなれば「プロのための道具としてその使命を負えた」希有な存在だったと思います。さらにこのカメラは、毎日新聞社の長尾靖カメラマンが捉えた社会党委員長浅沼稲次郎の刺殺の映像を始め、多くのピューリッツァー賞に輝く映像を残しました。そのカメラこそ数多くの35mmフィルムカメラが機動性を生かして広くプレス関係で使用される以前、プレスカメラマンの象徴として世界各国の新聞社や通信社で使用されたスピードグラフィック、通称「スピグラ」です。日本では戦後、進駐軍によってもたらされ、その軍用スピグラを手に入れるために、各新聞社とも「夜中に基地の塀からロープで吊してもらい、やっと1台手に入れた」というような、いまでは笑い話のような涙ぐましい努力で手に入れたとのこと。以後、報道系カメラマンの象徴として、事件現場でもこのスピグラを抱えていると、警察の阻止線でもお構いなしに自由に出入りできたというような、大変なカメラだったことがありました。30年代からは逐次日本製の35mmカメラに取って変わられ、とくにニコンFとモータードライブの組合せにとどめを刺された感じになりましたが、一部昭和40年代半ばまで新聞社で使われていたと思います。特に昔の大相撲は今のように相撲協会の専属カメラマンから各新聞社が写真の配信を受けるわけではなくて、各新聞社がそれぞれ砂かぶりにスピグラを構えた新聞記者を配して写真を撮っていたのをご記憶の方も多いのではないでしょうか?このスピードグラフィックは使用するフイルムのサイズによって色々と種類がありますが、圧倒的に使われたのが4×5(しのご)のシートフイルムを使用するスピグラです。最近では手札判とか名刺判とかのオフサイズのフイルムの入手が困難ですが、4×5のシートフイルムだと、未だに入手には苦労しません。ただし、当時使用されていたパックフイルムというベースの薄いスピードローディングが可能なフイルムパックが姿を消して25年経ちますので、速写するためには「グラフマチック」というシートフイルムを6枚セットできる特別なフイルムパックを使わないといけません。でも今時、高い4×5のフィルムを速写しようなんて人はいないでしょうが。また、スピードグラフィックにはピントグラスの前にフォーカルプレーンシャッター幕が付いており、大型のために幕速はさほど早くないのですが、最高1/1000まで露光できるんだったかな?35mmのセルフキャッピング(こんな言葉、知ってるかな?)のシャッターと違って、幕にスリットが切っているだけなので、基本的に35mmカメラと扱いが違いますが、大型カメラで唯一高速シャッターが切れるカメラのため、特殊用途、学術用途でも使われた用です。もう少し開口部が大きければ、シャッター内蔵以前の古典大型レンズをソルトン無しに使うことが出来るんですけどねぇ(^_^;)
そういえば、戦後はレンズシャッターの精度も向上し、フォーカルプレーンシャッターもあまり使われなくなったために、クラウングラフィックというフォーカルプレーンシャッターを省略し、レンズシャッターのみのモデルも通称「スピグラ」などといわれますが、フォーカルプレーンシャッターを省略したために軽量化されたのはいいものの、あくまでもクラウングラフィックであって、スピードグラフィックじゃありませんから食指が動きませんでした(笑)もっともスピードグラフィックが製造中止になったあとも2年くらいクラウングラフィックの方が長生きしたようですが。
写真のスピグラはグラフレックスの全盛期である戦後から昭和29年にかけての製品で、カラートの距離計が縦に付いているタイプです。昭和29年に距離計横置きでフレームファインダーがワイヤーのタイプにモデルチェンジしましたので、あえて「旧型スピグラ」などといわれることもありますが、スピグラがプレス系カメラの王座にあったときの製品らしく、工作、品質とも出来は一番良いのではないでしょうか?報道系のスピグラは広角系のエクター127mmが付いていることが多いのですが、このカメラは珍しくエクター150mmf4.5が付いていました。アイオワのタイル工場の備品として長く使われてきたらしく、フードやガン、フードを介して装着するコダックラッテンフィルター、それに6×9のブローニーフィルムを使うためのウォーレンサック90mmレンズがそのまま一式揃っていましたが、ロールフィルムホルダーが欠品でした。本体は木製で、金属フレームで補強され、上質の獣皮で覆われていますが、50年以上経っても未だに皮の匂いが漂うような上質な細工で、最近のすぐに剥がれてしまうようなリンホフ・マスターテヒニカとは比べようもありません。シャッターはフラッシュにシンクロし、連動するソレノイドで切ることが出来るようになっており、大ガイドナンバーのフラッシュキューブを使ってレンズを絞って撮影することにより、シャープなネガを得られるようなそういう使い方をしたようです。本体左のボタンを押すと前蓋がぱたんと開き、その際レンズを引き出すときに10フィートとなるように自動的にセットされるのが優れた機構です。また、あえて大きな4×5が多く使われた理由は、4×5画面の一部を大延ばしすることによって望遠で捕らえたようなネガを得るための4×5だったようで、これはニコンFと望遠レンズの組合せに取って代わられたことがスピグラの報道第一線からの引退を決定づけたようです。
リンホフに比べると、あおりの機能が「あおりが出来るという程度」のために、基本的に物取りに適するカメラではなく、もっぱらその軽さを生かすためにロケーションフォトに特化したカメラといえるかもしれません。特に車を使わずに手持ちで移動できる4×5のカメラとしてはスピグラの重さが限界ではないでしょうか?グラフマチックを3個くらい一緒に持ち歩くと、けっこう無敵かもしれません。もっともロケではフィルムコストがリーズナブルな6×9判のGSW-690ばかり使ってましたけどね(^_^;)でも、デジタルカメラの台頭で、富士は中判カメラの生産を止めてしまうし、札幌のヨドバシカメラに出掛けても、カメラ売り場は2階の片隅に追いやられ、感光材料も以前の半分以下、4×5のシートフィルムも富士のリバーサルしか在庫していないとはどういうことでしょう?そういえば一度も使っていないジョボの4×5用デーライト現像タンクがあるはずだから、じっくり4×5モノクロの写真でも撮ってみましょうか(笑)しかし、4×5を引き延ばせないのもつまりませんが、実はスピグラ本体を簡易引き延ばし器に変えてしまうライトとコンデンサのハウジングキットがあったんだそうです(@_@) こういうことは35mmカメラでは考えられないようなシステムですね。確かミランダのオリオン光機で作ったとかいう話を聞いたような聞かないような…
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July 21, 2005
昨年末にネット上でニコンSPの限定再生産を知ったときには、以前のS3のこともあり、さほどオドロキはしませんでしたが、あれだけの複雑なファインダーフレーム機構を現代にあって手作業で再現することに挑戦するというだけでも、ニコンに拍手を送りたい気分でした。
まあ、これから数年で産業界の第一線から団塊の世代が消えて行き、技能の継承というものが途絶えようとしてゆく現代において、こういう機械物の製作技術を今の若者に伝えてゆくというのは大切な仕事ですが、ことカメラ業界に於いては日進月歩のデジタルカメラの進歩によって生産は東南アジアにシフトし、カメラの生産をまったく国内で行わなくなったメーカーも出てきたくらいで、あのライカ社でさえ、デジタルカメラの立ち後れによって企業としての存亡の危機に立たされているとか。70年前に生産されたカメラを未だに修理受付してくれるようなカメラメーカーは世界中にライカしかありません。まあ、そういう企業姿勢だからこそどんどん買い換えが進まずに企業としては成り立たないんでしょうか?わたくしも50年前のM3とIIIg、おまけにミノルタのCLEと3台あれが事足ります(笑)
さて、再生産ニコンSPでしたが、確か7月の受け渡しということで予約を取ったような気がしましたが、すでに初期の予約者のところには品物が届いたのでしょうか?わたくしは70万もするカメラをおいそれとキャッシュで購入することができるわけではありませんが、ニコンSPなら後期に近い18000番台のオリジナルを一台所有しております。けっこうこいつも海外に持参して活躍してくれました。再生産SPとの大きな違いはシャッター幕がニコンF同様にチタン幕であることで、多少がさつなシャッター音であるにしても、太陽で幕を焦がさないだけでもチタン幕のほうが絶対的な安心感があります。けっこう1眼レフからカメラを初めてレンジファインダーカメラを最近になって使い始めたような人はあまり気にしないでしょうが、昔、家に1台しかカメラが無くて、それがフォーカルプレーンシャッター付きのレンジファインダーカメラだった我が家では、そのカメラを使い始めた小学生のわたくしに母親が「レンズを太陽に向けると幕に穴が開くから太陽に向けるな。カメラを置いておくときにはキャップを着けろ」と口うるさく言ったものでした。なぜ、こんな知識が母親にあったかというと、母親の兄が無類のカメラ好きだったことからそのような知識を得たのだと思います。中古のレンジファインダーカメラのシャッターにもけっこうこの焼けこげによるピンホールを黒のゴムで補修してあるのをよく見かけますが、最終的にレンジファインダーカメラとして生き残ったキヤノンがステンレス幕を使用していたことでもわかるように、このシャッター幕焼けこげピンホールの問題はレンジファインダー式フォーカルプレーンシャッター機ではシャッター幕の材質を考慮しない限りは避けられない問題だったようです。
ニコンSPが布幕からチタン幕に変わったのはいつ頃でしょうか?また、布幕とチタン幕との生産構成比は最終的にどれくらいになったのかも判然としませんが、チタン幕に生産シフトしたのは、ニコンFのチタンシャッター幕の量産化の目処がついて、SPにも流用できるようになってからのことなのでしょうね。そのニコンFにあっても初期生産ロットは布幕シャッターなんだそうです。
手元のニコンSPはクラカメブーム到来以前の今から18年くらい前の購入品です。シャッターオーバーホール済みということで購入した商品でしたが、そこそこ使い込まれた実用品レベルで、ご多分に漏れずファインダー接合部分のバルサムが少し染みになっているものでした。ニコンは後々になるまで、このバルサムのおかげで価値の下がるものが多いですねぇ(^_^;) まあ、こういうレベルのシロモノなので、気兼ねなく外に持ち出して実用にしました。やはり35mm/f1.8との組合せが最高で、標準レンズの50mm/f1.4が今となっては古くさい描写のレンズなのに、この35mmはカラーバランスもコントラストも固くてカリカリのニッコールらしい良いレンズです。そういえば再生産SPはこのレンズが標準装備なんでしたっけ?このレンズのフードがなかなか歩き回っても見つからず、1年半おくれてやっと2個見つけ、1個捕獲に成功。2万円もしましたが、これがあるのと無いのとでは見かけ上でも大違い。ニッカに供給していたライカマウントのニッコール35mm/f1.8も十数年間所有していましたが、中身は同じながらこちらのほうが市場では圧倒的に数が少ないようで、500個以下の生産だったとか。実はこのライカマウントニッコール、某ライカ系レンズコレクターのウエブページに掲載されているものをよく見たら、製造番号からして以前わたくし所有のニッコールL35mm/f1.8ではないですか(@_@)オークションで売り払って巡り巡ってこんな所に落ち着いているとは思いませんでしたが、今のコレクターの看板掲げている人たちは、足で歩かなくてもオークションをよく見て金額を出せば、大抵の物は手にはいるのですから楽ですね(笑)レンズ35mmファインダーはきれいなのが手に入らず、実用上は問題ないが、コレクターズアイテムとしては並クラスの物を装着しています。これにライカのSBLOOを載せたらそれこそ「げだう」でしょう(笑)
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June 25, 2005
実は24日は私の誕生日です。同じ日に生まれた有名人というと、ギターのジェフ・ベックが6月24日生まれということはエレキギター小僧の時から知っていましたが、ネット検索が簡単になって6月24日生まれの有名人を捜してみると出てくるわ出てくるわ。アンブローズ・ビアス って「悪魔の事典」の作者ですな。ピート・ハミルというと、「幸福の黄色いハンカチ」の脚本の元になった詩人。与那嶺 要氏というと日系2世の巨人軍選手で、中日の監督時代巨人の9連覇を阻んだ監督。エリスン・オニヅカ氏というとスペースシャトルの発射事故で亡くなった鬼塚大佐です。上甲 正典氏って地元苫小牧駒沢高校と昨年甲子園決勝で死闘を演じた愛媛斉美学園の上甲監督ですな?ナポレオンズのパルト小石 も作詞家の康 珍化も6月24日生まれか?清水 圭、おやおやちょうど2年違いで同じ誕生日やん(笑)野々村 真?こいつと同じ誕生日とは、ちょっとショックだぞ(^_^;) 中井 広恵というと同郷の女流棋士。サッカーの中村 俊輔、これは何となく自慢できそうだけど、19歳違いだよ。ということで、いままでジェフ・ベックしか知りませんでしたが、改めて顔ぶれを見渡すと、ちょっとクセのありそうな人間が揃っているではありませんか。とりあえず6月24日生まれのみなさん、お誕生日おめでとうございます。
ところで、私を含め6月24日生まれの皆さんは、そのおめでたいバースデーが、ある日を境にある有名人が亡くなったことによってそれ以後「命日」と呼ばれるようになりました。これは私にとっても誕生日が命日と呼ばれることに大変ショックを受けました。その有名人というのが美空ひばりだったのです。忘れもしない1989年の6月24日。その日確か土曜か日曜で会社が休みだったために、節目の誕生日にこれから一生残っていくような記念品を買いに出掛け、前から目を付けていたライカのIIIgというその時すでに御歳32歳のクラシックなカメラを購入しました。その足で下北沢の馴染みの店に飲みに行って、それだけで誕生日が終わってしまったんですが、午後からかなり強いにわか雨に見舞われた雨の東京となりました。家に帰ってラジオか何かで美空ひばりが亡くなったことを知りましたが、その意味することがその時は深く飲み込めていませんでした。その日を境に6月24日を迎えるたび、マスコミでは「美空ひばりさんの○回目の命日」って報道されるようになったのです。これからも一生、更に私が死んでからも後に至るまで、6月24日が「美空ひばりの命日」という言われ方以外に変わることは無いのでしょうね(T_T)
さて、6月24日は6mが午前中から昼に至るまで、8エリアでは九州から山口あたりまでがスポット的に開いたようです。宮崎ビーコンは朝から強力に聞こえてましたので、出がけにちょっとだけ50.175近辺でCQをかけると鹿児島県姶良郡、熊本県天草郡、福岡県宗像市からコールバックをいただきました。九州の末端部分から開け出すのは割とレギュラーなEスポの開き方ですけど、こういう開き方をし始めるともうEスポも盛りを過ぎて終わりの方向に向かいつつあるというような感じがします。昨年のログを引っ張り出すと、10時台から14時過ぎまで大オープンしており、10時台には8エリアのこちらから7エリア釜石と平泉町が近距離Eスポで開くなど、なかなか素晴らしい電波伝搬状況に遭遇したのですが、今年は夏至の前後に至ってもちょっと寂しいですね。6mよりも21メガの方が広範囲に開いていて、けっこう楽しめるような様子でした。夕方からは昨日同様にハイバンドは全くダメ。わずかに21メガで厚木のアンリツのAMCがCQかけているのをスキャッタで聞いただけです。6mも夕方からは宮崎ビーコンさえ聞こえなくなりました。そういえば最近、宮崎大学のビーコンが送出定形文を入れ換えたみたいで、ちょっと長い文章に変わったみたいです。なんかこれからの上級試験の通信術練習用に2分で50文字くらいの送信に気を利かせて変えたのでしょうか?そういう意図だったら宮崎大AMCあっぱれ!でもいつから変わったのか気が付かなかったけど結局いつから?
ちょっとピントが甘いんですが、これが節目の誕生日の記念品のはずが、美空ひばりの死去した日に重なってしまったMYライカIIIgです。あとからSBLOOとズミクロン35mm/f2.0のスクリューマウントをおごり、さらに極めつけはエルマリート90mm/f2.8のスクリューマウントレンズを備え付けました。なにせIIIgはファインダーにパララックスが補正される90mmのフレームが出ているんですから90mmのレンズを使わないと勿体ない。特にスクリューのエルマリート90mmを持っていないのは「正宗を持っていない大名家」みたいなもので、IIIg使いの人は1本は欲しかったもの。その他IIIg時代にM用レンズをベースに新たにスクリューマウントとして作られたレンズに固定鏡胴のズミクロン50mm/f2.0があったんですけど、その希少性もさることながら30万近い値段に恐れをなして、結局入手出来ませんでしたね。標準レンズはカラーバランスに優れて描写に潤いのあるキャノン50mm/f1.8を使うことがありましたが、ライカボディにライカでないレンズを使うことは「げだう」なんだとか(^_^;)でもレオタックル用トプコール50mm/f2.0とかフジノン50mm/f2.0なんかもいいレンズでした。タナックのタナー50mm/f1.9はちょっとコントラストの甘いレンズだったな。黒はちまきニッコール50mm/f2.0のスクリューはもう設計が古すぎて、良いレンズとは言えませんでしたが、ニッコール35mm/f1.8スクリューはその希少性もさることながら、描写・カラーバランスも現代出来のレンズにひけをとりませんでした。売り払って引っ越し費用に化けましたが。
このカメラ、ミノルタCLEと共に何回も外国その他、旅をしてきましたが、ここ7年くらいはずっと防湿庫の肥やし状態になってます。そういえばライカビットを持っていたのですが、このカメラのシャッター幕交換に出してからふんどしの長さの微妙な違いでライカビット1回の動作でシャッターが巻き上げられなくなり。面倒くさくなってオークションに出したら福岡の人に落札され、三味線の皮の張り替え代に化けてしまいました(笑)
実は実家にあった唯一のカメラがミノルタのモデルIIIという似たようなフォーカルプレーンレンジファインダーカメラで、子供の頃そのカメラでさんざん蒸気機関車、あまつさえニセコ1号C62の2号機なんかも撮影しましたので、この手のカメラにはまったく違和感がありませんでした。しかし、このカメラは宮部甫さんの手によるものだったか、ライカを脱却して裏蓋開閉式だったわ距離計ファインダー一体式だったわで、底ブタ式のライカとは操作感の異なるものでしたが。ライカ本家の底ブタ式のフイルム装填は慣れないうちはフイルムの装填に苦労しました。常にフイルムをカットするために鋏の付いた小型のスイスアーミーナイフを持ち歩いてましたが、後にはテレホンカードをフイルムレールと圧板の間に靴べら代わりに差し込んで、一発装填可能となりました。まあ、バルナック型であり、底ブタ式なのに圧板がヒンジで横に開閉するニッカ5型なんかは確かにフイルム装填は楽でしたが、その分分厚くなって持った感触が悪くなりました。
ライカIIIgの良いところは、IIIfやM3・M2は常にジャーナリズムの最前線で実用品として使い尽くされてきたのに比べて、まったくそのような使い方はされずに常に趣味的に愛用されてきた非実用品というところではないでしょうか?唯一の例外は黒塗りのスウェーデン軍用スリークラウンのIIIgです。
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