5月27日は日本海海戦から100年の節目を迎えたそうで、戦前はこの勝利を記念して「海軍記念日」という祝日だったらしいです。この100年前の日本海海戦で無線機が始めて海戦で使われてその情報が勝利に貢献したことは有名な話ですが、1905年の明治38年というとマルコーニの無線実験からまだ10年余りしか経っておらず、いまだに真空管発振・増幅など実用化されていない時代に、日本海軍が実用的な無線通信を利用した監視網を構築し、その情報によって艦隊を動かしたということは驚異に値します。
マルコーニの無線実験から10年という無線初期の段階に置いて未だ世界では「火花式」という発振方式をとっておりましたが、これを簡単にいうと、現代では「垂直接地アンテナの途中にスタンガンの電極を接続した」というのが一番わかりやすいんじゃないでしょうか?このアンテナ電極間にスパークさせてその発振のある・なしでモールス符号を送ろうとしたのが初期の無線の方法で、受信するほうはコヒーラというガラス瓶に金属粉と電極を入れたもので検波するというまことに効率の悪いものでした。その方式は発振が普通火花式→瞬滅火花式→電弧式→発電機式→電子管式というように改良されてゆき、検波のほうもコヒーラ→磁気検波式→電解検波器→鉱石検波器→2極管検波器にという道をたどってゆきます。
しかし、初期の普通火花式の発振方式で作られる電波はほとんど「近くをオートバイが通るときにラジオに入る雑音」というよりも、雷の空電ノイズに近いもので、任意の周波数を得ることが難しい高調波の固まりのいわゆる「雑音」だったのですが、それでも改良によってだんだんサインカーブに近いようなきれいな減幅電波を得ることが出来、磁気検波器・鉱石検波器で受信することによって印字受信から音響受信が可能になっていったんだそうです。その火花放電によって得られる電波形式を「B」、B電波(減幅電波:Damped)といい、高周波発電機や電気的な発振回路で得られた持続電波(Continuas Wave)「A」と区別していました。そもそも高調波除去と周波数帯幅を狭めることが難しいために、1921年の国際無線通信諮問委員会ですでになるべく使用を止めることとされ、例外的に船舶用の450m,600m,800mの波長の使用は認められましたが、1965年1月1日を持って国際通信条約上で通信に使用禁止となりました。実際に第二次大戦後に至るまで救難無線機などとしてB電波を使用する送信機が一部使用されていたようです。そういえば、大昔のインベーダゲームとかパチンコ台なんかを電子ライターのカチカチで誤作動させるということがありましたが、このカチカチでB電波が発生しているんですね。
日本海軍ではマルコーニの無線実験の成功を新聞で知った英国派遣の新造軍艦回航員や駐英武官から無線の存在を知り、未だマルコーニが大西洋横断通信に成功する以前に実験に着手しています。海軍では沿岸防衛を担当する外波内蔵助少佐が中心になり、独自に無線実験を行っていた逓信省の松代松之助に海軍に出向してもらって共同で実験を行いますが、ここに仙台二高で教師をしながら電波の研究をしていた木村駿吉を文部省から転出してもらって実験に加えます。この木村駿吉がすでに松代松之助が作り上げていた実験用の無線機を改良して後の三四式無線電信機作り上げ、さらに三六式無線電信機に改良して海軍の電信による監視網を構築するのに寄与しています。この木村駿吉は幕末に咸臨丸でアメリカに向かった遣米使節の代表、木村摂津守の次男とのこと。兄は海軍少佐の木村浩吉でした。東大理学部大学院から一時教職に就いていたものの内村鑑三の不敬事件(教育勅語に礼をしなかったことで免職になった。国歌斉唱しないで処分される現代に歴史がくりかえされようとしています)に連座し、教職に嫌気がさしたのか米国に留学し、電気磁気物理を修得して博士号を取得し、海軍を辞したあとは日本無線の設立にも係わったという経歴の持ち主です。
当初は外国から無線機一式を導入して装備するという話もあったようですが、マルコーニの特許を日本が受理しなかったことでマルコーニ社からの最新技術が導入できなかったことと、各国の実験の進行状況は軍事秘に該当するために容易に情報を得ることは出来なく、特にインダクションコイルの良いものを得るために外波と木村は欧米に視察に出掛け、ニコラ・テスラの研究所なども訪れますが日本で行っている実験以上に大きな成果は得られませんでした。そして価格や保守の面を考えて国産の部品で無線機を改良していくことを考えていたところに、元東京帝大の助手で電気技術者の安中常次郎が苦労してインダクションコイルの製造に成功。更にイギリス経由でドイツシーメンス社の継電器を入手したことによって感度が飛躍的に向上し、80海里程度だった通信可能距離が200海里まで延びて実用の域に達し、安中電気(現アンリツ)に製造をさせた三六式無線電信機として海軍の各艦艇ならびに沿岸監視望楼に装備され、無線電信による監視網が完成することになるのです。なお、受信の検波器であるコヒーラを独自に改良したのは、英国船のマルコーニ式無線電信機を見学した海軍の山本大尉で、この海軍式のコヒーラは明治の42年頃に鉱石検波器に変わるまで受信の要として使われたそうです。他に逓信省式のコヒーラも存在したようですが、JCS銚子無線局も開局当初は火花式送信機にコヒーラ検波式受信機の組合せだったものが1年経たないうちに鉱石検波式音響受信機に取って代わったようです。
ところで、「敵第二艦隊二〇三地点に見ゆ」の暗号電報を打電した仮設巡洋艦「信濃丸」は監視のために徴用された日本郵船の北米航路貨客船で、永井荷風がアメリカに留学したときにも乗船した由緒ある船でした。北米航路から引退したあとは貨物船として太平洋戦争も生き抜き、戦後も引揚船として活躍した後、昭和26年に解体されるまで船歴51年という異例の長寿命を保った船でした。たしか水木しげるの「ねぼけ人生」という本で読んだと思いますが、水木しげるがラバウルに送られた時に乗船させられた船がこの信濃丸で、掴んだ手摺りがぽろっと剥がれてしまうような、当時すでに浮かんでいるのが不思議なほどのボロ船だったそうです。
信濃丸が打った「敵の第二艦隊230地点に見ゆ」の暗号電文が「タタタタ モ 456 YRセ」と書かれている文章を目にします。司馬遼太郎もわざわざ4:56分に敵艦隊を発見したという注釈を付けていたようですが、内容の「敵第二艦隊230地点に見ゆ」の第一報に合致しません。どうも海戦の大勢が決してからの追撃戦で信濃丸が残敵を発見した電文と混同されているようです。なお「タ」の連射は「−・」ではなく「・・——・——」の連射だったそうで、その暗号の意味が日露戦争の進行に従ってどんどん変わってゆき、日本海海戦時は「敵の第二艦隊見ゆ」の意味になっていたそうです。それに発信地点のコードと発信艦名のコードを合わせて一つの暗号電文になっていたらしいですが。信濃丸から軍艦厳島経由で連合艦隊旗艦三笠に中継された「敵第二艦隊230地点に見ゆ」の報告によって、連合艦隊は宇品の大本営に「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊は直ちに出動し之を撃滅せんとす、本日天気晴朗なれども波高し」の参謀秋山真之中佐の手になる電文を送信して鎮海湾から出港するのですが、どうもこの電文も「無線で大本営に送信された」と勘違いしている人も多いようですが、当時鎮海湾から広島の宇品まで安定的に無線で通信できません。海底ケーブルを使って有線で打電したのですが、電信といえばすべて無線だと思っている無線も有線も区別できない人がいるようです。実際の電文は「(アテヨイカヌ)ミユトノケイホウニセツシ(ノレツヲハイ)タダチニ(ヨシス)コレヲ(ワケフウメル)セントス ホンジツテンキセイロウナレドモナミタカシ」だったそうで、暗号と平文の混じった不思議な電文ですね。
三六式無線電信機は複製品が横須賀の三笠記念館に飾られており、20数年前に実際に目にした事がありますが、火花式無線電信機というものはおろか、まったく無線というものに無知だったために、なぜモーターらしきものから革のベルトでプーリーに動力が伝えられるものが無線機なのか理解できませんでしたが、この動力によって接点を断続し、インダクションコイルによって高電圧を得ていたんですな。この時代の送信機は有線の電信通信装置と違って高電圧を電鍵で直接断続してB電波の信号を打電していたんでしょうから、木製台の単流電鍵だと絶縁が悪くてヘタをすると電撃を食らう可能性もあり、このころから無線電信用に感電除けの大理石台の電鍵が作られるようになったのではないでしょうか?明治の海軍は艦船も技術も教育もすべて外国から導入したもので日露戦争を戦いました。しかし、開明的な一部の海軍軍人の働きと松代、木村両名の天才的な技術によって無線通信機だけはまったく自前で整備され、その無線機の力によって日本海海戦をパーフェクトゲームに導いたのは驚異に値します。ただし、その後の海軍は先端技術の使用、特に情報戦によって勝利したことを忘れて精神論に走り、大艦巨砲主義を振りかざして情報戦を軽視したことで国民多数の命を奪う結果に至ったことを忘れてはいけません。
Recent Comments