November 30, 2021

焼津からやってきたHEMMI No.266 電子用(QI)

 7MHzのトラップコイルの共振周波数を計算しているときに偶然新たに静岡の焼津から落札したHEMMIの電子用計算尺No.266です。焼津と言えば今も昔も遠洋漁業の街で無線の街であるということは周知の事実ですが、最近は漁業の幹部が冷凍マグロやカツオの漁獲を中抜きして横領し、自身の水産会社の冷凍倉庫に隠匿していたという負のニュースが伝わっていました。その焼津の漁業無線局は民間漁業無線局としては日本で最初の開局らしく、時期的には大正末のNHK東京のJOAKが放送開始した時期にほぼ一致します。当時の漁業無線局は瞬滅火花式の電信で減幅電波(B電波・ダンプ)と呼ばれるもの。それが持続電波のCWに変わったのはいつ頃でしょうか。コールサインはJFGで現在は静岡県内の清水・御前崎漁業無線局と統合して静岡県漁業無線局となりましたが、いまだに焼津の地に送信・受信設備を構えております。各地の漁業無線局から電信が無くなる中でここはA1Aの1kW設備が稼働中です。ただ、今の世の中。船舶も電信設備なども無く総合通信士ではなく海上無線通信士が乗船するご時世で電信の扱いがどれくらいあるのかわかりません。20年くらい前ならなニュースで公衆電信業務としての新年祝賀の電報取り扱いで大忙しの漁業無線局の映像などがニュースで流れていたのですが。
 また、焼津は日露戦争前に三浦半島との間で海軍の34式それの改良型36式の無線設備の通信実験を行うために別途送受信設備が設けられたそうで、その記念碑がどこかのお寺に設けられているそうです。その36式無線機とB電波の日本海海戦時の活躍は相当昔に記事に書きましたので割愛しますが、これだけ日本の無線の歴史と関わりが深かったのが焼津の街なのです。またビキニ環礁の水爆実験で被爆した第5福竜丸も焼津の所属で、無線長の久保山愛吉さんが被爆治療で仲間とともに東京に送られたときや、久保山愛吉さんが危篤になったときなどは焼津の無線局に仲間の船からの「久保山がんばれ」の電報が殺到したそうで、その模様は新藤兼人監督の映画「第5福竜丸」でも描かれています。所属の漁船が多いとなるとそれに関係する無線関係を生業とする業者も多く、これだけプロの無線屋が多い街はアマチュア無線も非常に盛んだと言う印象があります。というのも船を降りてからアマチュアを開局した人や無線関係の生業をしながら開局した人はその殆どが上級アマ局で、もちろんのこと無線に関する高いスキルやノウハウを持っていますから後から開局した人たちもその影響を受けて自然と地域全体のレベルアップがなされているような印象です。北海道では昔は根室や函館がそのような感じの街でした。でも今や漁船の通信士あがりのOMさんや漁業無線局OBの上級ハム局のOMさんもサイレントキーが増え、この法則はもはや薄れてしまいましたが。
 それで焼津からやってきた当方3本目のHEMMI No.266ですが、おそらくはプロの無線屋さんの持ち物だったのでしょう。通信士系か無線技術系かはわかりませんが、どういう職種のプロが使用したのかを想像するだけでも楽しいものですし、敬意を払わなければいけません。デートコードは「QI」ですから昭和41年の9月の製造。箱は紺帯箱です。厚木のOMさんから譲っていただいた米軍落ちのNo.266が「PK」で昭和40年の11月製の緑箱ですからこの間に緑箱から紺帯箱に変わったことがわかります。時代はウルトラQからウルトラマンに替わり、空前の怪獣ブームを巻き起こした時代のNo.266で、当然のこと周波数の記号はまだMHzではなくMcの時代。当方すでにNo.266も3本目なのですが、いまだMHz表記に変わったNo.266には縁がないようです。

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October 12, 2005

電離層にはなぜA〜C層が無いのか?

 電離層はその高さによってD層、E層、F層におおまかに別れることは4アマ養成講習の電波の伝わり方という項目でも教える事柄なので、その時間に居眠りでもしていなければアマチュア無線の従事者免許持ちならたとえ4級でも当然知っていなければいけないことです。さらに上級試験に挑戦するともなると、臨界周波数や最適使用周波数の計算や正割の法則などの計算もマスターしていなければいけないし、知っていなければ恥ずかしい事柄なんですが、意外に「それではなぜ電離層にはA〜C層が無いのか?」といわれると答えに窮する人が多いのではないでしょうか?わたくしもマックスウェルによる電波の存在の予言からヘルツの実験によって電波の存在が実証され、マルコーニによって実用化されていく歴史の課程に関してはいろいろな本を読んでいて知識としてはあるのですが、A〜C層がなぜ存在しないのかに触れられた本がまったくなく、もしかしたら、以前は周波数別にそれを反射する電離層が細かく別れていると仮説が立てられていて、その後の研究でA〜C層の存在が否定されて現在のようにD層E層F層の3つが残ったのだと思ってました。マルコーニによる電波の実用化以降何年かは商用通信といえば長波や超長波の大電力無線局がメインストリームで、短波は長距離が飛ばないものとされ、そのころから盛んになってきた私的な無線実験局(アマチュア無線)は混信の可能性から国際通信会議で長波・超長波から追い出されて短波帯に封じ込められました。ところが熱心な私的無線実験局によって、飛ばないとされた短波帯の電波が大陸を超えて伝搬することが証明され、短波帯の商業利用が長波帯通信に変わって加速してゆきましたが、その短波帯の電波がなぜ大陸間を超えて伝搬するかを電離層というものの存在で証明し、その基本構造を解明したのがイギリスの物理学者であるアップルトンなのです。アップルトンは近代物理学の父であるラザフォードの弟子で、のちに電離層の基本構造を証明したことで1948年にノーベル物理学賞を受賞しますが、そのアップルトンが最初にその存在を証明した電離層を「E層」と名付けたかに関して、同じ物理学者のデリンジャー(デリンジャー現象の発見者)に宛てた手紙の中で、電離層の存在を実験で確かめ、数式をいろいろ書いている中で「E=」という電界強度を表す数式をたくさん使ったために、最初の電離層にE層と名付けたと書き送っております。そのために最初にE層があって、以後それより上層に見つかった電離層をF層、下に見つかった電離層をD層と呼ぶようになってのがごく自然な成り行きで、そのためにA〜C層は最初から無かったというわけなんですね(笑)さあ、経験何十年という物知りのOMさんに「なぜ電離層A〜C層が存在しないのか?」の素朴な疑問を投げかけてみましょう。しっかり答えてくれれば信頼感も高まるというわけですが、いい加減な答えが返ってきたり、はぐらかすようなOMさんはいけませんねぇ(^_^;) 知らない事は正直に知らないと言い、即答できなくても後でしっかり調べて教えてくれるような態度の人のほうがよっぽどアマチュア無線界の指導者たるOMさんと言えるでしょう。まわりにこういうOMさんが残念ながらいません(T_T)

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May 28, 2005

B電波と火花式無線機

 5月27日は日本海海戦から100年の節目を迎えたそうで、戦前はこの勝利を記念して「海軍記念日」という祝日だったらしいです。この100年前の日本海海戦で無線機が始めて海戦で使われてその情報が勝利に貢献したことは有名な話ですが、1905年の明治38年というとマルコーニの無線実験からまだ10年余りしか経っておらず、いまだに真空管発振・増幅など実用化されていない時代に、日本海軍が実用的な無線通信を利用した監視網を構築し、その情報によって艦隊を動かしたということは驚異に値します。
 マルコーニの無線実験から10年という無線初期の段階に置いて未だ世界では「火花式」という発振方式をとっておりましたが、これを簡単にいうと、現代では「垂直接地アンテナの途中にスタンガンの電極を接続した」というのが一番わかりやすいんじゃないでしょうか?このアンテナ電極間にスパークさせてその発振のある・なしでモールス符号を送ろうとしたのが初期の無線の方法で、受信するほうはコヒーラというガラス瓶に金属粉と電極を入れたもので検波するというまことに効率の悪いものでした。その方式は発振が普通火花式→瞬滅火花式→電弧式→発電機式→電子管式というように改良されてゆき、検波のほうもコヒーラ→磁気検波式→電解検波器→鉱石検波器→2極管検波器にという道をたどってゆきます。
 しかし、初期の普通火花式の発振方式で作られる電波はほとんど「近くをオートバイが通るときにラジオに入る雑音」というよりも、雷の空電ノイズに近いもので、任意の周波数を得ることが難しい高調波の固まりのいわゆる「雑音」だったのですが、それでも改良によってだんだんサインカーブに近いようなきれいな減幅電波を得ることが出来、磁気検波器・鉱石検波器で受信することによって印字受信から音響受信が可能になっていったんだそうです。その火花放電によって得られる電波形式を「B」、B電波(減幅電波:Damped)といい、高周波発電機や電気的な発振回路で得られた持続電波(Continuas Wave)「A」と区別していました。そもそも高調波除去と周波数帯幅を狭めることが難しいために、1921年の国際無線通信諮問委員会ですでになるべく使用を止めることとされ、例外的に船舶用の450m,600m,800mの波長の使用は認められましたが、1965年1月1日を持って国際通信条約上で通信に使用禁止となりました。実際に第二次大戦後に至るまで救難無線機などとしてB電波を使用する送信機が一部使用されていたようです。そういえば、大昔のインベーダゲームとかパチンコ台なんかを電子ライターのカチカチで誤作動させるということがありましたが、このカチカチでB電波が発生しているんですね。
 日本海軍ではマルコーニの無線実験の成功を新聞で知った英国派遣の新造軍艦回航員や駐英武官から無線の存在を知り、未だマルコーニが大西洋横断通信に成功する以前に実験に着手しています。海軍では沿岸防衛を担当する外波内蔵助少佐が中心になり、独自に無線実験を行っていた逓信省の松代松之助に海軍に出向してもらって共同で実験を行いますが、ここに仙台二高で教師をしながら電波の研究をしていた木村駿吉を文部省から転出してもらって実験に加えます。この木村駿吉がすでに松代松之助が作り上げていた実験用の無線機を改良して後の三四式無線電信機作り上げ、さらに三六式無線電信機に改良して海軍の電信による監視網を構築するのに寄与しています。この木村駿吉は幕末に咸臨丸でアメリカに向かった遣米使節の代表、木村摂津守の次男とのこと。兄は海軍少佐の木村浩吉でした。東大理学部大学院から一時教職に就いていたものの内村鑑三の不敬事件(教育勅語に礼をしなかったことで免職になった。国歌斉唱しないで処分される現代に歴史がくりかえされようとしています)に連座し、教職に嫌気がさしたのか米国に留学し、電気磁気物理を修得して博士号を取得し、海軍を辞したあとは日本無線の設立にも係わったという経歴の持ち主です。
 当初は外国から無線機一式を導入して装備するという話もあったようですが、マルコーニの特許を日本が受理しなかったことでマルコーニ社からの最新技術が導入できなかったことと、各国の実験の進行状況は軍事秘に該当するために容易に情報を得ることは出来なく、特にインダクションコイルの良いものを得るために外波と木村は欧米に視察に出掛け、ニコラ・テスラの研究所なども訪れますが日本で行っている実験以上に大きな成果は得られませんでした。そして価格や保守の面を考えて国産の部品で無線機を改良していくことを考えていたところに、元東京帝大の助手で電気技術者の安中常次郎が苦労してインダクションコイルの製造に成功。更にイギリス経由でドイツシーメンス社の継電器を入手したことによって感度が飛躍的に向上し、80海里程度だった通信可能距離が200海里まで延びて実用の域に達し、安中電気(現アンリツ)に製造をさせた三六式無線電信機として海軍の各艦艇ならびに沿岸監視望楼に装備され、無線電信による監視網が完成することになるのです。なお、受信の検波器であるコヒーラを独自に改良したのは、英国船のマルコーニ式無線電信機を見学した海軍の山本大尉で、この海軍式のコヒーラは明治の42年頃に鉱石検波器に変わるまで受信の要として使われたそうです。他に逓信省式のコヒーラも存在したようですが、JCS銚子無線局も開局当初は火花式送信機にコヒーラ検波式受信機の組合せだったものが1年経たないうちに鉱石検波式音響受信機に取って代わったようです。
 ところで、「敵第二艦隊二〇三地点に見ゆ」の暗号電報を打電した仮設巡洋艦「信濃丸」は監視のために徴用された日本郵船の北米航路貨客船で、永井荷風がアメリカに留学したときにも乗船した由緒ある船でした。北米航路から引退したあとは貨物船として太平洋戦争も生き抜き、戦後も引揚船として活躍した後、昭和26年に解体されるまで船歴51年という異例の長寿命を保った船でした。たしか水木しげるの「ねぼけ人生」という本で読んだと思いますが、水木しげるがラバウルに送られた時に乗船させられた船がこの信濃丸で、掴んだ手摺りがぽろっと剥がれてしまうような、当時すでに浮かんでいるのが不思議なほどのボロ船だったそうです。
 信濃丸が打った「敵の第二艦隊230地点に見ゆ」の暗号電文が「タタタタ モ 456 YRセ」と書かれている文章を目にします。司馬遼太郎もわざわざ4:56分に敵艦隊を発見したという注釈を付けていたようですが、内容の「敵第二艦隊230地点に見ゆ」の第一報に合致しません。どうも海戦の大勢が決してからの追撃戦で信濃丸が残敵を発見した電文と混同されているようです。なお「タ」の連射は「−・」ではなく「・・——・——」の連射だったそうで、その暗号の意味が日露戦争の進行に従ってどんどん変わってゆき、日本海海戦時は「敵の第二艦隊見ゆ」の意味になっていたそうです。それに発信地点のコードと発信艦名のコードを合わせて一つの暗号電文になっていたらしいですが。信濃丸から軍艦厳島経由で連合艦隊旗艦三笠に中継された「敵第二艦隊230地点に見ゆ」の報告によって、連合艦隊は宇品の大本営に「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊は直ちに出動し之を撃滅せんとす、本日天気晴朗なれども波高し」の参謀秋山真之中佐の手になる電文を送信して鎮海湾から出港するのですが、どうもこの電文も「無線で大本営に送信された」と勘違いしている人も多いようですが、当時鎮海湾から広島の宇品まで安定的に無線で通信できません。海底ケーブルを使って有線で打電したのですが、電信といえばすべて無線だと思っている無線も有線も区別できない人がいるようです。実際の電文は「(アテヨイカヌ)ミユトノケイホウニセツシ(ノレツヲハイ)タダチニ(ヨシス)コレヲ(ワケフウメル)セントス ホンジツテンキセイロウナレドモナミタカシ」だったそうで、暗号と平文の混じった不思議な電文ですね。
 三六式無線電信機は複製品が横須賀の三笠記念館に飾られており、20数年前に実際に目にした事がありますが、火花式無線電信機というものはおろか、まったく無線というものに無知だったために、なぜモーターらしきものから革のベルトでプーリーに動力が伝えられるものが無線機なのか理解できませんでしたが、この動力によって接点を断続し、インダクションコイルによって高電圧を得ていたんですな。この時代の送信機は有線の電信通信装置と違って高電圧を電鍵で直接断続してB電波の信号を打電していたんでしょうから、木製台の単流電鍵だと絶縁が悪くてヘタをすると電撃を食らう可能性もあり、このころから無線電信用に感電除けの大理石台の電鍵が作られるようになったのではないでしょうか?明治の海軍は艦船も技術も教育もすべて外国から導入したもので日露戦争を戦いました。しかし、開明的な一部の海軍軍人の働きと松代、木村両名の天才的な技術によって無線通信機だけはまったく自前で整備され、その無線機の力によって日本海海戦をパーフェクトゲームに導いたのは驚異に値します。ただし、その後の海軍は先端技術の使用、特に情報戦によって勝利したことを忘れて精神論に走り、大艦巨砲主義を振りかざして情報戦を軽視したことで国民多数の命を奪う結果に至ったことを忘れてはいけません。

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July 28, 2004

霊界通信機とエジソン&ニコラ・テスラなど

 晩年のエジソンがその死まで真剣に取り組んでいた発明は霊界通信機というものでした。エジソンは人間が死んだあとにはその霊魂がエネルギー(電磁波)の形で残って、不滅なものではないかと考え、その霊魂が発するメッセージをとらえようとゲルマニウムとコイルを利用し、真空管で増幅する受信機を作って霊界と交信する実験を繰り返していました。エジソンというと電灯、蓄音機、映画などの人類の生活をまったく変えてしまうような発明を多数行った半面、数多くの首を傾げるような発明品も作っております。また、人間的にはケチで人を信用しないひねくれた思いやりのない性格だったためか、有能な人材を育てて会社を大きくし、経営は任せて自分は発明に没頭するというようなことが出来なかったために、自分の部下だったニコラ・テスラとの直流・交流送電闘争にやぶれ、エジソン・ジェネラルエレクトリック社は早々に資本家の手に渡り、経営権を失ってしまいます。以前、彼の下で働いていた自動車王ヘンリー・フォードはエジソンを評して「彼は史上最大の発明家であるとともに、史上最悪の経営者である」と。又、ニコラ・テスラという人間も晩年はかなり紙一重の方向の人間だったようですが、現在も使用されている誘導モーター、交流トランス、交流発電機の発明者として、又イタリアのマルコーニに先んじて電波の実験(ラジオの発明の件に関してはマルコーニの間と長い法廷闘争が繰り広げられたようですが)なども行ったようで、今日ではその功績を記念して磁束密度の国際単位をガウスからテスラに変更して今にその名前を残しています。磁束密度として身近な存在はあのピップエレキ判の磁石の性能目安の単位でしょうか(笑)
 エジソンとテスラの直・交流闘争は、その件だけでも一冊の本が出来てしまうほどネタには事欠かないんですが、もともとテスラはクロアチア出身の人間で、フランスのエジソン電灯会社で働いていたときに上司にその才能を認められ、本国のエジソンの元で働かせようと紹介状を持たせてエジソンの元に送ったのですが、エジソンはその来訪を一蹴し、たまたま港で船の発電装置が故障して修理を求めてきたので、この発電装置の修理が5時間で完了したら採用してやろうという難題をテスラに押しつけました。エジソンはこの修理が1日で終わらないことをわかっていたのです。ところがテスラはこの難題を2時間でこなしてエジソンの元へ現れ、エジソンを驚かせると共に、エジソンもこの約束を反故にするわけにはいかず、エジソンの研究所員としての生活が始まりました。しかし、交流モーターをすでに発明し、交流システムの優位性を説くテスラの存在は、直流送電システムに多額の投資をし続けてきたエジソンにとっては相容れない物であったし、他に天才の存在を許さないエジソン研究所にとってもテスラはじゃまなものでした。ある時エジソンはテスラに、ある発電機の効率を高めることが出来たら5万ドルのボーナスを払ってもよいといい、それを真に受けたテスラはほどなくその改良をやってのけ、エジソンの元に現れました。まさかこの改良を出来るわけがないとたかを括っていたエジソンは非常に驚きましたが、この5万ドルの約束を冗談だったと反故にし、怒ったテスラはエジソンの元を離れることとなりました。
 その後テスラは自身が発明した放電灯(アーク灯。後にネオンや蛍光灯の原型も発明している)制作会社をニューヨークに設立しますが1年で破綻させ、その後肉体労働者として働いていた後にマンハッタンに研究所を作り、このときにすでに交流発電・送電システム理論をほぼ完成させました。そのころにフィラデルフィアの鉄鋼事業家、ウエスチングハウスと出逢い、彼の資金援助で交流送電の実用化に力を注ぎます。ウエスチングハウスは製鉄所で使用する大量の電力を効率よく伝達する手段を探しており、テスラの交流送電の特許多数を巨額な費用で買い取りました。
 これに危機感を持ったエジソンは、得意のマスコミを使った反交流キャンペーンを大々的に展開することになります。新聞記者らを多数集め、犬や猫を交流で感電死させる実験を行ったり、政治家に働きかけ、自身の発明した交流を使用した電気椅子でマスコミを集めて死刑囚を公開処刑にし、交流はいかに危険で世の中に害がある物かという子供じみたネガティブキャンペーンを行い続けます。その姿は何か世界征服に固執するマッドサイエンティストの姿のようですね(^_^;)
 これに対してテスラ側では100万ボルトの高周波放電の下で椅子に座った人間が平気で本を読むという実験を行い、交流は危険ではないと言うキャンペーンを展開しますが、1900年のシカゴ博覧会にむけてのナイヤガラの滝発電所の発電システムをウエスチングハウスの交流システムが受注することが決定し、結果的に送電効率に優れ、変圧器の使用により電圧を可変させることが自由自在の交流の優位さが証明されることとなるのです。
 その後テスラの興味は高周波の研究にうつり、マルコーニに先んじて実用的な送受信機の発明にとどまるところを知らず、遠距離通信の実用化の実験などにも取り組み、将来的には高周波でロスのない電力の送電を行うということまで踏み込み、さらに定常波と振動を利用すれば地球上から無尽蔵にエネルギーを取り出すことが出来、発電所も不要になるという理論を証明するために大がかりな高周波伝搬システムの実験施設を作るのですが、実験途中でマルコーニの大西洋横断通信実験成功に先を越されて、実験は中断され、その後無線送電に重点をおいて実験を行いますが、資金援助者が資本を引き上げ、不遇の晩年を送りました。
 ということで、エジソンもテスラも晩年は神懸かり、凡人には荒唐無稽な理論と実験に明け暮れていたような気がしますが、霊界通信機を含めて今の世の中にはその理論の存在を狂信的に信じる人たちもいるんですね。某教団のPSIヘッドギアや又別の教団のテスラー波防護の白布、コイルの絵などに知識の欠如の怖さを感じる様な気がします。
 そういえばこんなことが某無線雑誌に投稿されていました。「1.9メガ帯で電信で交信し、そのまま受信機の電源を入れ続けたまま、1時間近く経って、自分のコールサインがスピーカから聞こえるんで、一瞬アンカバ(不法無線局)が自分のコールサインを語って送信しているのかと思ったら、1時間以上前に自分が打った電信がいまになって聞こえて来たのがわかって、とても驚いた」とのこと。1.9メガ帯というとラジオ放送のすぐ上のバンドで、中波帯に属しますが、1時間も前の自分の電波が今になって聞こえてくるのも理論的には解せません。たぶんエジソンのいうラジオの周波数近辺に霊界と交信できる周波数があると考えたのも、ここいらに秘密があるのでしょうか? エジソンは自分が死んだ後は現世にメッセージを送り続けるから、確かに受信してその理論が正しかったことを証明してくれと言い残して亡くなったそうですが、今までエジソンからの霊界通信をキャッチしたものは誰もいないようです。

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