October 23, 2007
(今日ニュースを見てびっくりしましたが、何と日高本線の1型式1両しかない気動車キハ160が苗穂工場でハイブリッド車に改造され、報道陣に公開されたようです。)
これを撮影したのは確か1997年9月に北海道入りしたときにたまたま苫小牧駅で遭遇したキハ160という全国レベルからすると大変に珍しい気動車です。というのも同型車が全くない1車種1両という気動車で、それというのもJRコヒになって日高本線に新製投入されたキハ130のうち確かキハ130-5か-6が日高本線の浜厚真近辺で無理に踏切を渡ろうとしたダンプと衝突して廃車となり、その補充として新潟鐵工所で新製された1両しかない気動車だからです。現在はキハ130の後釜に入ったキハ40と同系統のカラーリングになってますが、この写真が登場時のオリジナル塗装となります。JR発足直後に投入されたキハ130は閑散時の日高本線での輸送密度に合わせ、キハ40の代替として15.8mという各地の第三セクターに移管された地方鉄道で多用されたレールバスと同等の車格として製造されたものです。しかし、荒天時には波しぶきを直接浴びるような場所を走り、冬場には厳しい寒さに曝される北海道では耐候性に問題があり、十数年ですべて廃車となってしましましたが、キハ160はこの辺りを改良し、北海道の厳しい冬場に適合した車両となっており、キハ130が全て廃車になり、キハ40が日高本線に再度登板した後も保留車扱いながらその後も本線にちょくちょく顔を出し(残念ながら目撃したことはありません)、この9月の初めには苗穂工場を出場したようです。この写真を撮った9月でまだ半年しか経っていない真新しい状態でした。ライトも新製気動車らしく最初からハロゲンとディスチャージの2本立てでした。(そのハロゲンとディスチャージランプおよびキハ130っぽい顔つきが種車バレしましたが、しかしハイブリッド車化して苗穂を出場していたとは鉄分の薄いわたくしには想像もつかないことで)(^_^;)
ライカIIIgにズミクロン35/f2.0という取り合わせで撮影
やはりこちらのオリジナルカラーのほうが好きでした
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October 06, 2007
ちょうどお盆の帰省シーズンである8月15日前後の道南地方は統計的に低気圧の通り道となって天気が良くないことが多いような気がします。千葉の成田の近所に住んでいたときは交代で夏休みを取っていた関係で、意図的に民族大移動の状況を呈するお盆を避けて8月末から9月に入ってから夏休みを取り北海道に帰省してました。天気のリスクを回避して晴天下で写真を撮りたいという目論見からです。また、急ぐ旅でもないために飛行機に乗らず、北斗星で北海道まで来るというのは何度かやっていましたが、日中の列車乗り継ぎで北海道まで帰省するというのはこのときが初めてだったような気がしました。
たぶん1995年ですから12年前の帰省は9月になってからの事だと思います。主目的が廃止になる深名線の名寄から深川までの完乗だったと思いました。出発は成田駅で、コースとしては成田から東京まで特急の「すいごう」、東京から東北新幹線で盛岡まで、盛岡から青森までは「はつかり」、青森から函館までは「快速海峡」函館からは「北斗」でとりあえず苫小牧まで「海峡」以外は指定席特急券をすべて事前に購入し、乗車券は成田から名寄回り深名線経由で深川までというものです。成田駅で発行された乗車券は経由地が印刷しきれずに駅員に「深名線回りで深川行きだとこれだとわかりませんが?」と尋ねると「金額で判断すれば大丈夫だと思うんですが、念のため名寄を手書きしておきます」などと手書きで経由地を追加されてしまいました(^_^;) 成田を7時代の特急すいごうに乗ると8時台後半には東京駅に到着し、そうすると9時代の東北新幹線やまびこで盛岡から11時38分青森行きのはつかりに接続、このはつかりは青森で15時何分か発の海峡に接続し、海峡は函館で19時何分か発の北斗に接続するという乗り継ぎです。正確な出発時刻の記録が取れないのは深名線廃止時の記念にとって置いた時刻表が出てこないからなんですが、当方は本物の「鉄」じゃないので、時刻表にはとんと無関心だからというのもありますか(^_^;)
さて、当方の記憶が正しければ7時38分発の183系特急すいごうは東京方の先頭車が指定席。ドンケのカメラバック担いでザックを背負って最初から立って東京駅まで行くのもイヤだなあと思って指定席券取ったら、なんと1号車の指定席の乗客は当方1人でした(@_@;) 京成のモーニングライナーも走ってますし、ちょっと中途半端な時間帯の特急のため通勤客にそっぽをむかれ、現在では7時台の特急はNEXが成田に止まるようなスジになっているようですが、当時は朝の上りのNEXに成田停車は無かったような気がします。東京駅の京葉線地下から東北新幹線ホームに上がりやまびこに乗り朝からビール付きの弁当(笑)酒を飲まない現在の生活からは考えられませんが、その昔は「汽車酒の楽しみを語る会」を自認してましたので、とにかくよく寝台車から新幹線までよく飲みましたな (^_^;) ビール如きでは当然のことアルコールが足りないので紙パックのワインをストローで飲んだらこれが不味かった。やっぱり酒をストローで飲むなんていうのはいけません。また汽車酒の楽しみを語る会的にいいますと、新幹線と酒との相性は良くないです。あんまり早すぎるのとトンネルが多いために車窓を楽しみながらの汽車酒が落ち着いて楽しめないのと、車窓の景色が早く動きすぎて目が回ります(笑)この「汽車酒の楽しみを語る会」には剛の者がいて、かなりの宿酔いで小倉駅から181系特急いそかぜに乗ろうとして気持ち悪くなり、線路に向かって吐いたら直前に飲んだトマトジュースで線路が真っ赤になり、それを見たいそかぜの車掌がビックリして救急車を呼ぼうとした、なんちゅうヤシもいました(^_^;) 当方も六本木でオフ会やって、さんざん飲んで成田まで帰るのがイヤになり、新宿から急行アルプスに乗り松本で急行千曲に乗り継ぎ、篠ノ井から碓氷峠経由で高崎に下り、東京に戻ってくるという汽車泊をしたのですが、揺れる電車で眠るどころか酔いが回って散々な目に遭い、ついに横川で電車を降りてホームのトイレに駈け込んで吐いたら、そこは男子トイレじゃなくて女子トイレだったということもありました(自爆)
東京駅から盛岡駅に移動する新幹線はあまり「鉄道」的な感動は薄いのですが、新幹線ホームから降りて在来線のホームに降りてゆくそのプロセスがすでに東北の匂いを感じさせ、いかにも「ここが本当の東北の玄関口」を感じさせられて非常に好きでした。在来線3番ホームにはすでに485系国鉄色のはつかりが短い編成で新幹線の接続を待っており、ホームは駅弁のワゴンが何台か出ています。なんか国鉄時代の特急始発駅の賑わいを思い出させましたが、列車の編成も短く決して乗り継ぎ客でホームが溢れるという状況ではありません。昼前なので弁当を買いますが、あえてむつ弁の幕の内とお茶を買います。幕の内は内容が普遍だからこそおかずの味付け、米のうまさなどに差があり、食べて比べる面白みがあると感じさせます。たとえば中身の焼き魚一つを取っても北海道の幕の内は小さくても「紅鮭」ですが、他の所はトラウトとか塩鱒のところが多いです。ちょっと気取った所の幕の内の魚はさわらの塩焼きやぶりの照り焼きだったりするところもあります。弁当を買ったところで485系はつかりに乗り込みますが、座席のモケットが張り替えられたくらいでオリジナルのセミリクライニングシートの車両でした。485系はつかりが走り出したところで幕の内に手を付けますが、煮物の味付けが濃くなり、安いカマボコとたまごが分厚くなりました(^_^;) なんか東京駅の幕の内と比べるとあまり洗練されていない内容の幕の内ですが、半分にしたコロッケは駅弁の幕の内には勘弁してもらいたい物です。485系はつかりは刈り入れが終わりはさ掛けされた稲穂が金色に輝く穀倉地帯を抜けて山越えに掛かります。途中沼宮内と好摩の側線には運用から外れた50系レッドトレインが土崎か郡山での解体待ちか、延々とかなりの両数が留置されていました。
翌年も同じコースで帰省しましたが、国鉄色の485系がリニューアルされたプラスチック内装でフルリクライニングシートに変わった485系3000番台に変わってしまい、盛岡からの「奥の細道」紀行の風情が失われ、まして八戸まで新幹線が開通し、快速海峡が終焉を迎え、新型の直通特急が函館まで通じるようになってからこのコースはまったく興味を失ってしまいました。快速海峡の乗り継ぎの間、青森駅ホームの上り側売店で十和田の地酒「鳩正宗」のカップを2本買って陸奥湾の光る水面を眺めながら、また津軽林鉄の痕跡を車窓に探しながら、あまり乗り心地の良くない津軽線の50系51型での汽車酒の楽しさも過去帳入りして久しいです。
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October 02, 2007
地元紙によると1日午後7時、旭川駅発車の特急スーパーカムイが何らかの不具合で発車不能になり、結局24分遅れで札幌に向けて出発したとのことです。原因はまだ詳しく判明しておりませんが、発車手順を最初から繰り返すことによってようやく24分遅れで動き出したとのことです。そこで思い出したのはもう50年近くなりますが(当然リアルタイムでは知りません)東北本線のというよりも、世界で初めて登場したDC特急「はつかり」の数々のトラブル発生による運転事故です。ここに「80系特急気動車の故障と処置」なるトラブル事例と対策に関して書かれた分厚い部内教育用資料がありますが、バルブの開閉による機械的な操作によって蒸気機関車を動かしていた乗務員が、電気的スイッチの断続により動かす特急気動車への転換に関して、いかに想定外のトラブルが多発したのかがわかるという物です。
しかし、今回は789系1000番台ということで、スーパー白鳥の運用経験からすると考えられないトラブル発生だと思うのですが、いかがなもんでしょうか?(笑)このままトラブルが続出すると一時的に789系1000番台が運用から外れて対策を施すまで一時的に781系で運行されるってことは「考えられない」でしょうけど(^_^;)
まあ、最近の電車はコンピュータ仕掛けで走る部分が多いので、一部プログラムのバグなんていうのが原因の一旦なんでしょうが。
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October 01, 2007
32年前の蒸気機関車廃止のときもそうでしたが、前日まで普段通り貨物列車の牽引に当たっていたD51があの日を境に永久に見られなくなったのと同様に、昨日まで特急すずらんの運用を担当していた781系が運用を外れ、今日から室蘭本線では新顔の785系ずずらんが登場しました。
下りの1号は時間の都合で撮れませんでしたが、3号を昨日と同じ青葉駅から撮ってきました。2分ほど遅延していたからか、もともと130キロ運行の電車だからか、781系に比べてかなり早くなった印象で、当方の旧式デジカメではシャッターのタイミングに神経を使いました。LED表示の列車名表示が残念ながら見えません。どう変わったのか楽しみです。でもまあ、個人的には大嫌いな電車です(^_^;) ところが電車では珍しくグッドデザインマークに選定されているんですね。ちなみにこのすずらん3号はNE-1編成5両のようで、481系のときより1両増えました。沼ノ端停車になったとは言え、一両増える必要があったのかどうか…
10/1特急すずらん3号青葉駅2分遅延で通過
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September 30, 2007
北海道専用特急電車として485系1500番台にかわり投入された781系特急電車もついにこの北海道から一度も離れることなく終焉を迎えます。昭和53年に先行量産車が「L特急いしかり」に投入され昭和55年に量産車が増備されて耐雪性能で散々苦労させられた485系1500番台と置き換わり、今日まで30年余りに渡って北の大地を走ってきましたが、特急スーパーカムイ用789系1000番台新型電車登場と余剰になったスーパーホワイトアロー785系のすずらん置き換えにより残念ながら本日限りの運行となりました。全国的にもそうですが、旧国鉄から引き継がれたいわゆる国鉄型車両がどんどんと型式消滅し、プラスチックの成型品を多用したようなオリジナル車両が増えています。
JRコヒ海道でも例外ではなく、183系ボンネット車も711系も風前の灯火。キハ40系も数年のうちに置き換えが進み、はまなすの14系座席車もそろそろ列車自体の存続も怪しいでしょう。ライラックは廃止セレモニーなどの予定もあったようですが、すずらんの方は特別なお飾りもなく普段通り。市民の関心もそれほどなく、撮影でこの2日間一緒になったのは青葉駅での1人だけでした。1日のダイア改正で785系に置き換えられたすずらんが沼ノ端駅(無人駅ですぜ)に停車することになり、1日の7時30分から記念セレモニーを行うとの張り紙が沼ノ端駅にありました。一般には新しい特急電車への置き換えの方が当然の事ながら歓迎されているようです。あんな785系走るんです特急でインバータノイズがやかましい電車のどこがいいんでしょう(^_^;)
9/30特急すずらん3号青葉駅通過
2002年1月1日、お役後免になったのか?先頭車の山・全6両@苫小牧駅
多分年末年始の増結用に中間車を取られて留置されてたんでしょうねぇ(笑)
それにしてもこんなところに放っておくか?(^_^;)
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January 19, 2006
最近また寒気が日本列島に入り込んで冷凍庫のなかにいるような真冬日が続きますので、鉄ヲタ歴史研究家として列車暖房の話をひとつ。最近、列車暖房用蒸気発生装置「SG4」系統のマニュアルを入手しまして、それに合わせて列車のスチーム暖房の歴史などを改めて検証してみました。
今の鉄道車輌では全ての列車が「電気暖房」となっておりますが、それ以前の明治の時代には北海道の鉄道の「石炭ストーブ」を除いて列車には暖房装置がありませんでした。そのため、冬場は優等車の乗客に限って「湯たんぽ」を貸し出すなどという対処がされていましたが、本格的な列車の暖房が始まったのは、「鉄道百年略史」によると、明治33年12月の東海道本線優等列車にスチーム暖房が取り付けられたのが最初とのことです。この時代はまだ蒸気機関車からの高圧蒸気をそのまま客車のスチーム管に引き回したために、客車の編成中、前の車輌では大変に暑く、後ろの車輌では寒くてたまらないと言う温度差が激しかったのですが、その後スチーム暖房は徐々に他の路線にも波及していきます。当時の蒸気機関車は飽和式蒸気機関車でしたので、直接客車にスチームを引き回すことは問題なかったのですが、後の大正時代になって過熱式蒸気機関車の時代になると高圧の蒸気を客車に引き回すことが出来なくなり、レギュレータで減圧した蒸気を客車ごとに分配するという方式となりました。大正時代に首都圏から始まった電化によって通勤電車はスチームを発生することができないために電気暖房となりましたが、これらの電化区間を当時輸入が始まった電気機関車で客車を牽引する場合、夏場は問題がありませんが、冬場は電気機関車に蒸気を発生する手だてがありませんから暖房するのに困ります。そのため、客車に電気暖房を取り付けたりしましたが、電化路線と非電化路線をまたいで運行する列車の場合、電気暖房だけでは都合の悪い状況が生じます。そのために冬場だけ「マヌ」という暖房蒸気発生のためだけの石炭ボイラ搭載車輌を連結したりしましたが、その暖房車の運用だけでもいろいろとコストが嵩みます。そのために戦前から電気機関車の中に小型のボイラを置いて、そのボイラで発生させた蒸気を客車に送って暖房とするという計画が立てられました。そして戦前の旅客用電気機関車EF56からEF57の2形式に新製時から蒸気発生用ボイラが備えられましたが、この小型ボイラのことをスチームジェネレータ、略してSGといいます。このEF56と57に搭載されたSGは重油燃焼の煙管式ボイラだったと言われておりますが、その図面を見たことがないのでどういう構造だったかわかりません。おそらく縦型の炉筒煙管ボイラだったのでしょう。ところが戦争に突入する時代の産物だったために暖房用の重油が鉄道に回ってくるはずもありません。この暖房用SGは殆ど使われない装置だったと思われます。
戦時中に設計され、戦後製作された旅客機のEF58は当初SGを持たないデッキ付き電気機関車として製作されましたが、昭和24年のドッジプランによる引き締めで一旦製造が中止されました。ところが朝鮮戦争による輸送量増加で昭和27年に新たに製造を再開され、このときから暖房用のSGが搭載されるようになりました。このときのSGが形式名「SG−1」といわれる物です。このときのSGは水管式の重油ボイラとなり、戦前のEF-56,57に搭載されたSGが専任の機関士が必要だったにもかかわらず、半自動制御となったためにボイラ専任者が必要なくなりました。ところがこのSG−1がよく故障して、上越線筋のEF58牽引列車などはよく暖房無しで乗客が凍える思いをしたなどということがあったようで、昭和32年に制御回路の信頼性を増したSG−1Aというものが出来たことによってEF58もやっと「冷凍機関車」の汚名を挽回し、SG−1装備の機関車も順次改良型に換装されていったそうです。
ところが、昭和34年に冷暖房装備の20系客車が登場し、電源車を連結した電気式冷暖房客車だったために優等列車牽引機関車はSGを装備する必要がなくなりました。また、東北など路線によっては客車の電気暖房化が進みましたので、他の機関車には波及することなく、このためにSG−1Aを搭載した機関車はEF58にとどまります。その後スチームジェネレータは蒸気機関車の置き換えとして無煙化路線に登場したディーゼル機関車と電気機関車に受け継がれます。資料がないので定かではありませんがSG−2は重油燃焼水管ボイラでDF50形式のディーゼル機関車に、SG−3は軽油燃焼の貫流式ボイラでEF61,ED72,76に搭載されたのではないかと思うのですが間違っておりましたら誰かご指摘下さい。余談ですが、中央本線の客車列車はかなり後まで暖房用蒸気発生車の「マヌ」が残っていたようで、このボイラは日露戦争によって大量に輸入されたC型タンク機関車「B6」のボイラを転用した石炭焚き煙管ボイラを持つ車輌でした。当方の育った北海道では30年前まで蒸気機関車が現役だった土地ですから、こういう暖房車も白いスチームに包まれる電気機関車も生で目にしたことがないのですが、かなり特異な風景に見えたことでしょう。
今回入手したマニュアルはディーゼル機関車用スチームジェネレータのSG4A−SとSG4B−Sについて書かれたものでした。SG4AはDD51とDD54用、SG4BはDE10用の蒸気発生装置です。両者共にほぼパッケージ型の貫流ボイラなんですが、DE10用はSG本体に全ての付加装置があるのにも係わらず、DD51用は給水ポンプなどを車輌側に装着しなければいけないという違いがあります。燃料はディーゼルエンジンと同じく軽油。貫流ボイラというのは瞬間湯沸かし器のように水の通るパイプが螺旋状にぐるぐる何重にも巻いていて、そこをバーナーで加熱するとその中を通った水が蒸発して蒸気になるという仕組みのボイラで、炉筒煙管ボイラや水管ボイラに比べてさらに熱効率の高いボイラです。しかし、純水に近い物を使わなければ内部にスケールが貯まりやすく、さらに発生した蒸気に水分量が多いために乾燥した蒸気を得るためには気水分離器を通す必要があり、給水にはイオン交換樹脂などを通した水などが必要になりますが、要は瞬間湯沸かし器の巨大なものみたいな物ですから、自動制御の方法が容易で、保水量が少ないために万が一事故で破裂しても大事故に陥る危険性が低くなっています。そのために法令ではボイラ技士の資格を必要としないで伝熱面積12平米未満の大きさのものが扱えるはずですが、ここいらはうろ覚えです(^_^;)
今回の資料は53年3月の発行。私がちょうど上京した年で、まだ上野発黒磯行き普通列車は茶色い旧型客車をEF58が牽いてましたし、東海道本線貨物列車はハカイダーカラー(笑)のEH10が現役でした。そして南武線も横浜線も茶色い73系電車が健在。2年ちょっと前に蒸気機関車の終焉を見送ったばかりでしたので、これら旧型電気車にはまったく興味が持てずに、今考えると写真の1枚も取らなかったことが惜しい気もしますが。この資料にはSG本体の伝熱面積の記載がないんですね。考えるに国鉄の動力車運転関係はボイラの資格持ちには事欠かなかったのに、だんだん蒸気機関車乗務経験のないものが増えたため、ボイラの資格を取らせるよりも資格が不要で実技講習程度で扱える小型の貫流ボイラをSGに採用したのではないかと。昭和53年頃から急速に茶色い旧型客車が淘汰され、赤い50系客車に置き換えられますが、50系客車は電気暖房/蒸気暖房併用型がありました。個人的には朝一番で乗ると足下は暖かくても車体が冷え切っている電気暖房よりも温もり感がまったく違うスチーム暖房の時代の方が好きでした。特に極寒地の北海道はやっぱりスチームに限ります。さらにスチームの放熱器でカップ酒の燗をつけるという汽車酒の楽しみ方も出来ますが(^_^;) しかし、送気の初め頃は放熱管がウォータハンマでカンカン鳴ってうるさいのがスチーム暖房の欠点です(笑)
貫流ボイラはゴーという燃焼音やその他けっこう騒音があってうるさく、狭いキャビンの中でSGを動作させたときの環境では難聴になりそうですが、そのためDD51やDE10のSG搭載車には列車無線を聞き逃さないように車内にトランペットスピーカが付いていたようでした。
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December 24, 2005
本日12月24日は国鉄の本線上から蒸気機関車の最終運行が行われて30年目の日となりました。30年前の当日はD51 241の夕張線最終貨物列車の6788レの追分駅到着を迎えることもなく、その日は同じ高校の合唱部によるクリスマスイブコンサートに顔を見せざるを得ず、追分駅には出掛けませんでした。それでも3日前の12月21日に追分機関区に出掛け、一足先に機関庫内のD51たちに別れを告げましたので、さほど歯がゆい思いをしたわけではありません。自分にとっての蒸機との惜別の儀式は3日前にすでに終わっていました。12月21日に追分機関区に降り立ったときは、さほどマニアの姿は見ることが出来ませんでした。線路を渡り機関区に行くとすでに火を落としている9600やD51もありましたが、機関庫内は白い蒸気のまとわりつく火の入った機関車ばかりで、あと3日でこの機関車達がすべて火を落としてDD51に取って代わられるということがまったく信じられない程でした。ひっきりなしに牽引任務を終えたD51が帰ってきますし、機関庫からもD51が出てきて転車台で方向を変え、牽引任務に出てゆきます。入換の9600も忙しそうに駅の構内を走り回っておりました。まったく以て蒸気機関車が「余力を持ちながらの強制的な幕引き」にさらされたような印象をさらに強めたような感じでした。
追分機関区の蒸気機関車は入れ換えの9600を残してすべてこの昭和50年12月24日を以て全て火を落としました。9600型だけは翌年の3月まで追分駅構内の入換作業に従事しておりましたが、全道各地から保存を目的に追分機関区の扇形庫に集結されていた機関車の多くは、翌年4月の追分機関区の火災によって新造のディーゼル機関車とともに焼失してしまいました。国立博物館に展示される予定だった最後の本線牽引蒸機D51 241もこの火災に遭遇し、残っておりません。すでに火の気の無くなった機関庫で全ての機関車が焼け落ちるような火災がなぜ起こったのか未だに原因はわかっておりませんが、国鉄労使関係の対立が頂点にあった頃ですし、ディーゼル機関車転換による人員配置上の問題もあり、「放火か?」という噂もありながら、結局は有耶無耶になってしまったようでした。新聞には「蒸気機関車の焼身自殺」などと書かれたものもあったようですが、剥製のようになりどこかの公園に雨ざらしで放置され、ガラスは割られて部品も盗まれ錆びて穴だらけの躯を晒して「危険」という理由で、結局は解体されてしまうより、そのまま終焉の地で機関車として荼毘にふされたほうが結局は良かったのではないかと考えています。
昭和50年12月21日の追分機関区
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December 14, 2005
本日12月14日は特別な記念日です。とはいっても雪の本所松坂町吉良邸討ち入りではありません。日本で最後まで残った蒸気機関車旅客列車(C57 135牽引225レ)が終焉を迎えた昭和50年12月14日から数えて30年目の記念日なのです。当時、まだ地元にいて蒸気機関車の終焉に立ち会えたのは、蒸気機関車マニアの端くれとしてはまったくもって幸運なことでした。また、この日まで旅客列車も貨物列車もその殆どが蒸気機関車牽引だった室蘭本線の沿線に育った自分にとっては、蒸気機関車というのは特別な存在ではなく、ごく日常の風景だったのにも係わらず、12月14日には旅客列車が、12月24日からは貨物列車からも蒸気機関車が引退し、それまではだんだんDD51に置き換えられて細々と運行されていた蒸気機関車が徐々に姿を消していったのではなくて、蒸気機関車はその前日まで当たり前のようにひっきりなしに走っていたものがその日を境にぷっつりと姿を消したというか「動力近代化」のポリシーのもとにまだ余力を残しながら強制的に引退されられたというような印象でした。追分機関区では入換えのためのDE10が揃わずに翌年3月まで9600型が煙を上げ続けていたのは有名な話です。
最後まで残った蒸気機関車牽引旅客列車は室蘭本線の室蘭と岩見沢を結んでいました。岩見沢に親戚がいた関係で、苫小牧から岩見沢まではこの客車列車に何度も乗りましたが、鋼体化改造客車と鋼体客車の寄せ集めで、近代化改装済の青色客車は末期に編成に混じることはあっても40年代初めはニス塗りの茶色い客車ばかりでした。中には「オハニ」とかいう半分荷物車になった客車もありました。優等列車がなかった室蘭本線ではかなり遅くまでこの古い客車に似つかず車内販売も行われており、沿線の追分駅でもアイスクリームや追分饅頭の立ち売りが、栗山駅でも栗饅頭の立ち売りがあった時代がありました。40年代までは白いグローブのついた白熱灯照明でしたが、いつの間にか旧白熱灯の台座にサークラインを配した蛍光灯照明に変わりました。室蘭から岩見沢までの中間地点がちょうど苫小牧で、ホームの先端に蒸気機関車の炭水車に給水する給水塔が立っており、旅客列車が入るたびに燃料掛の職員がテンダに上がって給水と石炭のかき寄せをしたものです。ちょうどホームから岩見沢寄りに40年代の始めまで駅前から支笏湖方面に向かう道路の踏切があって、以前は踏切警士がいて踏切の開閉をおこなっていたのですが、1キロほど先に陸橋が出来たためにこの踏切が廃止になり、その変わりに人道跨線橋が出来ました。この跨線橋が絶好の列車観察ポイントでホームからは離れていますが、貨物列車はすぐ目の前で停止して給水をし、乗務員交代などが行われるために、その作業を見るために飽きずに通ったものでした。乗務員交代の時は機関車を降りてきた乗務員が黒い学生鞄のようなものに挟んでいた小さなヘッドのハンマーを取り出し、ロッドの辺りをカンカンたたき始めるのですが、この作業がなんか格好良くてね(笑)小学生の時は将来断然「蒸気機関車の機関士」志望だったのですが、その時すでに数年後に廃止で、大人になるときまで保たない職業だった
(^_^;) 結局DLは蒸機を廃止に追い込んだ敵だった為DL運転士にはなりたくなかったし、国鉄も赤字続きで鉄道員にはなりませんでした。
昭和50年になってからは北海道内でも蒸気機関車廃止路線が次々に出てきて、旅客列車では一足先に宗谷本線の普通列車から蒸気機関車が引退し、夏にはここ室蘭本線にC57 38,44,57,135,144が残るだけとなりましたが、列車によってはDD51牽引になったり、C57の員数調整でD51牽引の列車に変わったりして、そういう列車に乗り合わせると何か損をしたような気になりました。貨物列車は比較的に当時はまだ石炭貨物列車が多かったために根室本線芦別から赤平、滝川を経て岩見沢に至る滝川機関区のカマ、歌志内、上砂川を経て同じく岩見沢に至る滝川・岩見沢第一機関区のカマ、幌内線から岩見沢に至る岩見沢第一機関区のカマ、夕張からと岩見沢から苫小牧を経て室蘭までに至る追分機関区のカマなどが未だに健在でした。また、各操車場では9600型が未だに煙をあげておりましたが、地元の苫小牧機関区は日高本線からすでにC11が引退し、苫小牧貨物ヤードの石炭貨車入換えもDD13により無煙化が一足先に済んでおり、寂しいものになっておりました。昭和40年代初めには苫小牧は九州の若松を抜いて貨物取扱高200万トンを超える日本一の貨物取扱高を誇ったことがあります。というのも従来は明治時代からの長きに渡って室蘭港から積み出していた石炭を距離の短い苫小牧から積み出すことを計画して、砂浜海岸を人工的に掘削して「掘込式の港」を築き、石炭埠頭を設置したことによります。そのために苫小牧操車場は広大な敷地を擁し、上り線から到着した石炭貨車を臨港鉄道のロッド式DLが受け取って石炭埠頭に送り込み、広大な貯炭場でストックされたのち、本州の火力発電所に向けて船積みされるという作業を延々と繰り返していたのです。そのため、ヤードに多くの入換用機関車が必要になって、昭和44年当時の最盛期には「苫」の区名札を着けた9600が9両ほどもおり、さらに日高本線貨物用にC11が何両もいて、あのときが苫小牧機関区の最盛期だったのでしょうね。その後だんだんDD13が増えて、気がつくと9600は1両もいなくなってしまいました。苫小牧貨物ヤードには上下の本線をまたぐオーバークロス跨線橋が設けられており、本線を塞ぐことなく空になった石炭貨車を下り線側に移動できるなっており、現在はその土台部分の一部が残っていて当時のなごりを目にすることが出来ますが、それだけ石炭貨車の取扱量が凄まじかったということですね。全盛期石炭取扱高300万トンを30トン積みのセキに換算するとのべ10万両分ですか?(@_@) 1日の取扱両数にしても270両近いですねぇ。その石炭輸送のおかげで室蘭本線は当時の輸送コスト高の国鉄路線では珍しく黒字の優良路線だったのです。岩見沢・追分方面から苫小牧ヤードで貨車を開放したD51は単機で苫小牧駅への側線を進行し、苫小牧駅構内のターンテーブルで方向を変え、給水を済ませてヤードに戻り、空のセキを牽いて追分・岩見沢方面に戻るという繰り返しで、苫小牧駅のホーム西側にはそんなD51が4〜5両かたまって駐泊しておりました。こんなことが苫小牧では1年365日24時間ぶっ通しで続いていたわけです。そんな苫小牧ヤードにも石炭産業の斜陽化によって40年代後半には空の側線ばかりが目立つようになり、石炭埠頭の広大な貯炭場は出番を失ってぺんぺん草が生えているような状況になりつつありました。石炭埠頭はその後コンテナ埠頭に変わり、現在では東港にコールセンタが設置され、積み出すのではなくオーストラリアからの石炭を運搬船から降ろし、道内各火力発電所に石炭を供給するための60万トン規模の貯炭場と化しております。
C57さよなら列車の写真ですが、これは苫小牧駅の例の人道跨線橋から撮った写真です。室蘭出発は雪の中の出発だったそうですが、苫小牧は朝からいい天気でした。新聞社や放送局の飛行機やヘリコプが飛び交う中で、到着1時間前から寒い中を立って待っていましたが、もちろん1番乗りでした。三々五々人が集まり出しますが、到着予定の9時半近くになっても一向に煙が見えてきません。そのなかでやっと50分遅れくらいでC57 135号機に牽引された最後の旅客列車が苫小牧駅に到着いたしました。入換え作業および予定時刻通過列車はウヤ状態だったんでしょうね。今のように頻繁に特急列車が走る時代では考えられませんが、駅構内にこんなに人が立ち入って溢れることは未だかつてありませんでした。そして225レはいよいよ出発の時を迎え、汽笛と共に最後の旅客列車が走り始め、周りの人たちは拍手でそれを迎えました。人道跨線橋を懐かしい石炭と蒸気の混じり合った匂いとドラフト音で包み込みながら、C57さよなら列車は客車のボギー台車が鳴らすタタンタタンというポイントを渡る音を残して、永遠の世界に走り去りました。そして12月24日、クリスマスイブの夜に夕張線上でD51の貨物列車が最終運行を迎え、この日を以て日本の鉄道路線上から蒸気機関車牽引列車が消滅しました。以後、復活蒸気機関車の運行にも興味が無く、近づいたことさえありません。ただ、東京に出て20年目にして初めて交通博物館でC57 135と再会しましたが、体温の感じられない蒸機の躯はセミの抜け殻みたいでもの悲しかったです。また、各地で蒸気機関車の復活運転が行われるようになりましたが、動物園の人寄せパンダみたいで、「働いている蒸気機関車」らしさがまったく感じられません。やっぱり蒸気機関車は煤にまみれて、またブレーキ粉の赤サビで汚れ、時には「スト権奪還」や「団結」のペイント跡も生々しく文句も言わずに走り回る「生き物」であって欲しいものです。
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