June 10, 2022

秋田の鉱山で使用された鉄製燈火器(鉱山用カンテラ)

Photo_20220610104101  これはかなり以前に弘前の古道具屋から落札したもので、その古道具屋の話では秋田のほうから仕入れたという急須型の鉄製カンテラです。正式な標準和名は知りません。紛れもなくカーバイドランプが出てくる明治末まで秋田のどこかの鉱山で実際に使われていたカンテラで、その証拠としてどこかの鍛冶屋がこしらえた坑木に打ち付けて吊るすのに使うひあかし棒という鈎がついています。かなり使いつくされたカンテラで、本来あるべき鉄製の蓋は失われて単なる木の栓で蓋がされ、錆止めのため漆を塗られた表面もサビだらけ。木栓を開けて中を覗くと乾いた種油のテカリがまだ残っていました。こういう吊りの急須型カンテラは幕末から明治の初期までにあっては真鍮製と鋳物製の二種類が見られますが、新品同様のきれいな欠品などもちろんなく、芯挟みもちゃんと残っている完品がいいのか。それとも実際に鉱山で使用されたことが明白なものの、他人から見たら小汚い欠品だらけのものが良いのか。資料価値としては断然後者のほうが勝っていると思います。
 秋田ということもあり、おそらくは弘前と峠を挟んだ大館の近所には小坂鉱山や花岡鉱山。もっと内陸に入れば江戸時代には一時期、日本で一番銅の産出量が多かった阿仁鉱山などがあり、その周囲にも明治時代には稼働していた小鉱山も星の数ほどは大げさにしてもたくさんあったのが秋田ですから、どこの鉱山で使用されていたのかはこのカンテラにしかわからないこと。この急須型のカンテラはおそらく文化文政期あたりの幕末に長崎を通じてもたらされたヨーロッパ製の燈火器を日本でデッドコピーしたもので、そのときに「カンテラ」という外来語も入ってきて、今でも携帯用の燈火器を意味する普通に通じる外来語になりました。そもそもはラテン語のろうそくを意味し、英語のキャンドルも同意語ですが、ポルトガルやオランダでは手持ちの燈火器も意味したようで、その言葉がそのまま日本語にもなったものです。以前から存在した李朝鉄製燈火器よりも鋳物技術が向上して肉薄で軽い燈火器で、使い勝手も良かったため明治に入ってからもしばらく使われたようですが、明治時代には新しく西洋からもたらされたブリキの板を板金加工した安価なブリキ製のカンテラに取って代わられたようです。そして明治の末から鉱山用燈火器にはカーバイド燈の出現という一大革命がおき、大手の経営する鉱山から光度が高くて立ち消えしにくいカーバイド燈に一気に取って代わられたのは、日本国内で電気分解法によるカルシウムカーバイドの工業的生産が可能になったからこそに違いありません。それで一気にお役御免になった油燈のカンテラですが、坑木に打ち付けてカンテラを吊るすために使われた鉄製の鈎、通称ひあかし棒のみカーバイド燈に付け替えられて使われている例が多く見られます。鉱山でも炭鉱同様に蓄電池式の帽上灯が普及し始めてからもカーバイド燈は一部使われていて、これは金属鉱山は炭鉱と違ってメタンガスなどの可燃性ガスの爆発という危険はないものの、坑道内にはところどころ酸素の欠乏空間があり、危険なのでカーバイド燈の炎が小さくなったら直ちに退避するという酸欠事故防止のための検知器として使用されたのだとか。それにしても本来あるべき蓋や芯ハサミもなくなっているわ、種油の燃え残った不純物がタール状になってかたまっているはで、本来だったらきれいにして漆もカシューで代用して塗り直てきれいにしたほうが万人受けするのでしょうが、実際に秋田の鉱山で使用されていたという史実と過酷な労働を物語る証人としてもこのままにしておくことにします。さて、この燈火器の産地ですがすでに江戸時代から鉄器の製造が盛んだった南部地方や羽前山形もしくは仙台近辺の作という線が強そうです。まあ上方で作られたものが北前船で運ばれてきた可能性も大いにありますが、鉄器類の見立てはまったくの門外漢です(笑)

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June 09, 2022

幕末江戸時代鉱山用鉄製カンテラ(一名:李朝鉄製燈火器)

Dvc00575  江戸時代から明治の初期くらいまで使われてきた鉄製鉱山用燈火器です。この燈火器は骨董の世界では「李朝鉄製燈火器」などと言われることもあるようですが、李氏朝鮮時代に江戸時代の日本の金山や銅山のような本格的な坑内掘りの鉱山技術があったという話は聞いたことがありません。欧米の安全燈コレクターは「China」のランプとしているようで、鎖国して鉱山技術も、まして取り立てて重要な鉱山資源もなかった朝鮮の「李朝鉄製燈火器」とするのは一寸無理のような感じがします。ともあれ、この鉱山用燈火器は日本の各地から発見されているようですから簡単な作りと相まって幕末期には蝦夷地を除く全国に普及していたようです。この幕末期の鉱山用燈火器は一番安価で簡単なものはサザエの殻に灯芯を立てたもの。もっとましなものは陶器や磁器で出来た灯明皿や片口のようなもの。そして坑夫が持ち歩けるようないわゆるポータブルの燈火器がこのような鉄製燈火器となり、幕末期には急須のような形の鉄製、欧米でレンチキュラーランプと呼ばれる分厚い凸レンスのような胴体に火口と蓋を付けた鉄製、そしてこのカラスの頭のような鉄製燈火器のの三種類があったようです。どうやら最初の2種類は欧州がルーツで幕末に長崎から入ったものを日本で真似て作ったもの。カラス頭型鉄製燈火器はそれ以前にこれも長崎から入った支那渡りの燈火器を国産化したものなのでしょう。構造が一番簡単なので蝋で原型を作り砂型で鋳鉄を流し込んで一度に何個も作っていたようです。それにしても華やかな場所で使われた美しい灯火器というわけでもなく、地底で使われた無骨で地味な真っ黒い灯火器ということもあって、いつ頃どこから渡ってきて主にどこで作られたかという情報もまったくないのです。個人的には江戸時代からの鉱山技術を友子親について3年3ヶ月と10日を修行期間として技術を習得し、友子親から盃をもらい、坑夫自助組織の友子取り立て式を受けて晴れて友子になった坑夫のうち、各地の鉱山を渡り歩いた「渡り坑夫」たちが持ち歩いた道具の一つだったのではないかと考えています。鉱山労働供給元の飯場や納屋といういわゆるタコ部屋においても仕事の道具は自弁で、道具を持たない年季奉公の坑夫は食費から道具から何から何まで天引きされ、飯は立ったまま食わされたという話もありますが、技能者で渡りの坑夫の自友子は自前の道具は持っており、飯場での待遇も年季奉公の坑夫とはまったく違って酒も自由に飲めたし、外出もお構えなしだったとか。その独り者の渡りの自友子が亡くなるとその亡骸はその鉱山の共同墓地に友子同士の互助金で葬られ、道具は食費や宿泊費の精算分として飯場の所有になったのではないかと思うのですが、この灯火器も渡りの自友子の移動とともに全国に散らばり、そして明治の時代になっても一部は使用されたのか北海道からも出てきたことがありました。 しかし、地底で使われて文字通り日の目を見なかった道具ゆえか、どうもこの灯火器の正式名がわかりません。道具である限りはちゃんとした標準和名があるはずなのですが、古美術の範疇に入らず、長らく単なる汚い古道具扱いだったためでしょうか?それが「李朝鉄製灯火器」と名前が変わっただけで格付けされ、取引価格が一桁以上上がってしまうというのは解せません(笑) 発掘先は茨城県で、茨城は水戸藩以前の佐竹氏の時代まで遡り、後に日立鉱山と名前を変えた赤沢鉱山などの古くからの鉱山が点在しています。そのため、いにしえから渡りの友子が江戸の昔から集まっていたのでしょう。その渡り友子の忘れ形見だとしてもちっともおかしくないのです。もちろんのこと、本来は鉱山用目的に作られたわけではなく、携帯用の灯火器として作られたものを鉱山の坑内用として転用したものですが、なぜ坑内でロウソクが使われなかったかというのは江戸時代のロウソクは蜜蝋もしくは木蝋を使用した和蝋燭で、非常に高価なものであったためです。そのため、庶民は行灯などの燃料に種油を使用したものの、この種油も高価だったため、一部イワシなどから取られた魚油と混ぜて使われたりしたものの非常に臭くて盛大に油煙が生じたのだそうで。イメージ的にはもっと小ぶりで小さなものかと思ったのですが、意外に大きく一般的な急須型の燈火器よりもやや大きいほど。油壺の容量が極端に少なくて、作業の途中で火が消えてしまっては困りますし、ある程度のミニマムの容量があったのでしょう。さらに構造的に言うと作りがかなりプリミーティブな鋳物で、おそらくは蝋で上下2ピースの原型を作り、油壺部分をくり抜いて中に粘土を詰め込み、蝋の原型を一つにした後に外側を砂で覆って砂型を作り、湯口を作ってそこに溶けた鉄を流し込み、後から中子の粘土を掻き出すという奈良時代の大仏鋳造方法と何ら変わらない方法で作られたものですが、技術的に肉を薄くすることは無理だったようで、かなり肉厚で重い燈火器です。それに比べると急須型の灯火器は鉄瓶づくりの技術のフィードバックもあるのか肉薄で軽く仕上げっていることから時代的にはこちらのほうが断然古い、時代が遡った燈火器なのは確かのようです。

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April 17, 2022

半纏・雪の花酒造(小樽市)

 雪の花酒造は小樽の勝納川の沿いに明治の時代に創業発展した北の誉の野口本家などの酒造場と比べると比較的に新しい昭和4年創業の桶売り専門蔵の酒造免許を昭和36年に引き継いで創業したという若い酒蔵でした。もともとは自社ブランドで日本酒を販売していたわけではなく、他社への桶売りや観光地の名前を冠したOEMに徹していた営業方針の酒蔵でしたが、日本酒の需要後退とともに平成に入ってから自社ブランドを前面に出した営業戦略に転換したものの、売上の減少には抗しきれず、一度はスポンサー企業(旧苫小牧臨床検査センター系)の経営参入で息を吹き返した様子も見たものの、そのスポンサー企業の経営分割分社化により資金援助が絶たれ新たな仕込みを中止。在庫のみで営業を継続していたものの2011年7月に経営破綻し、雪の花のブランド名とともに消滅してしまいました。数年後には合同酒精を中核とするオエノングループの一部門になっていた北の誉の野口本家も小樽での醸造を中止して旭川に拠点を移設。野口本家に委託醸造していた山二わたなべの北寶も廃業してしまいました。勝納川沿いに発展した酒蔵は現在では宝川の田中酒造の亀甲蔵のみという現状です。
 明治24年に北の誉の野口本家酒造が小樽で最初の日本酒の蔵として開業しましたが、それ以降勝納川沿いの地域に日本酒の蔵が集中したというのはひとえに水、それも天狗山からの伏流水が日本酒醸造に最適だったからといわれています。当時の小樽は北海道における金融・商業・交通の中心地で、本州からの物資や人を受け入れた玄関口のような町でした。そのため、ここ小樽を拠点に野口本家が旭川や札幌にまで醸造所を設けるほど隆盛を極めたわけですが、今や野口本家と神谷酒造が中心になって設立したアルコールプラントの合同酒精の持株会社のオエノングループの一部門に組み込まれ、小樽から完全撤退したというのも時代の流れかもしれません。
 この雪の花酒造の半纏は黒襟に紺木綿生地という組み合わせで、背には雪の花酒造のマークがあしらわれています。さほど古いものではありませんがざっくりとした大きめの半纏です。仙台物ではないようで、もしかしたら旭川あたりの染工場で作られたものかもしれません。

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March 13, 2022

ザイペル式揮発油安全灯 WILHELM SEIPPEL Z.L.630A(炭鉱用カンテラ)

Dvc00486  最近のキャンプブーム到来でキャンパー人口が激増したからか当然のことながらキャンプギアの人気も高まっています。そのキャンプギアの中でもコレクターズアイテムとしてプレミアムが付くのがキャンプングストーブとランプのようで、特に人気のあるものがコールマンのオールドガソリンシングルバーナーストーブやオールドガソリンマントルランタンでしょうか。当方、キャンピングストーブにはあまり興味はないものの、叔父の形見でコールマンの502とホエーブスの旧タイプ625を所持していましたが、アルミのコンテナ付き502は向かいに引っ越してきたキャンプ好きの若夫婦に進呈してしまいました。さすがはキャンプギアマニアでコールマン好きとあり、夫婦でものすごく喜んでくれましたので、こういうものは死蔵させておくよりも好きな人に受け継いでもらったほうがいいような。502も625もパッキンやグラファイトなんかの消耗品は交換済みでちゃんと使えるように整備済みでしたが、なにせインドア派にはキャンピングストーブなんか利用価値がありません(笑)というキャンピングブームによるキャンピングギアマニア人口の増加もあって、ここ2-3年はキャンピングギア的には変化球ながらアメリカ本国からケーラーやアメリカンウルフの炭鉱用揮発油安全灯が多数日本国内に持ち込まれるようになり、それらがキャンプギアマニアの手に渡るようになってケーラーやウルフはすでに日本では珍しくなくなりましたが、ヨーロッパの炭鉱用安全灯はアメリカ物の安全灯と比べるとタマ数も情報もまだまだ少なく一般的ではありません。
 そんなヨーロッパの炭鉱用安全灯を久々に入手しました。通算3台目のドイツ製SEIPPEL揮発油安全灯です。以前、このザイペル式安全灯に関してはあまりにも情報がなかったため、未確定情報しか書くことが出来ませんでしたが、今回オランダからもたらされたかなり詳しい情報によりより詳細なヒストリーを書くことが出来ました。Dvc00488
 WILHELM SEIPPEL GmbHは創業者WILHELM SEIPPELが1858年にルール工業地帯にあるウエストファーレン州ボーフムに開店した金物屋にルーツを持ちます。1841年に開鉱した炭鉱から産出させる石炭がルール工業地帯の鉄鋼産業を支えたことからボーフムの町は年々発展を遂げ、ウィルヘルム・ザイペルは小さな工場を建設して最初は炭鉱用の金物類やオープンタイプの灯油のカンテラ。まもなく炭鉱用安全灯などの製造に乗り出しました。安全灯としてはザイペルの工場には取り立てて有能な設計者も技術者も存在しなかったようで、ベルギーあたりのクラニータイプ安全灯を参考にしたような油灯式クラニー安全灯なのですが、ベインブリッジのように下のリングに蜂の巣状に穴を開けて吸気効率を高めた安全灯が見受けられます。ただ、この吸気リングの裏側にはベインブリッジ同様に金網も張っていないので、メタンガスへの引火の安全性には少々疑問ながらガス気の少ない亜炭がメインのドイツの炭鉱ではこれでも通用したのかも知れません。またドイツの安全灯に共通の特徴。すなわちメタンガスの通気にさらされるリスクが少ないためか金網部分に風よけのボンネットがないというのは終始一貫していました。まあ国内で必要のないものを着けないというのはドイツの合理性ですが、そういう事情を理解できない商社が明治の末期に日本に輸入したサイペル式安全灯と称するものにもボンネットがなく、構造的にもクラニー灯を揮発油灯にしただけのものということもあり、すでに輸入されていたウルフ安全灯に取って代わるようなものではありませんでした。ただしザイペル式でもベルギーあたりのガス気の多い炭鉱用にはちゃんとボンネット付きの安全灯を輸出していたようです。Dvc00489
 そのザイペル社は1906年に息子のロベルト・ザイペルの時代になってウルフ式安全灯の特許喪失部分も応用した改良型の揮発油安全灯を作りますが、同時にカルシウムカーバイドを燃料とした安全灯も発売。第一次世界大戦後の1919年に会社を売却し、以後の事業はザイペル家の手を離れ、戦勝国英国の蓄電池式安全灯の雄であるCEAG(シーグ)社に買収されます。営業拠点はボーフムから南西の鉄鋼の街であるドルトムントに移転してしまったようです。この揮発油安全灯がドイツでいつ頃まで使われたのかという話はよくわからなくて1925年に蓄電池灯以外禁止になったという話もあれば、1960年に炭鉱研修生として渡った日本人(その実、西ドイツの労働力補間)の話では「日本ではもう見かけなくなった旧式の揮発油安全灯を持たされて坑内に入り、歩くときは腰に下げ、それを適当なところに吊るしての作業に驚いた」などという話もありますので、戦後にもかなり長い間使われていたということは確実のようです。
 今回神奈川から入手したザイペル揮発油安全灯は構造的には前回入手した無刻印のものと変わりありませんが、社名とZL630Aの形式名が残ってました。前回のもとと異なる点は安全灯のトッププレートとガードピラーが真鍮ではなく鉄製であること。また油壺もウルフ灯なんかと同様に真鍮の中子に鉄を被せたものです。まあ、真鍮製というとレプリカ臭が強くて敬遠してしまいがちですが、カンブリアンランタンと違ってザイペルまでレプリカを大量に作ったかどうかは知りません。ただしこちらの方も1985年に開催された何らかの技術会議の記念品だったようです。それで、以前入手したSEIPPEL式安全灯との比較で気がついたのですが、このSEIPPEL式揮発油安全灯は後にウルフ式揮発油安全灯の形式を踏襲して下部の空気吸入口から金属メッシュを通して取り入れた空気により燃焼し、上部のカーゼメッシュを通過して筒外に出るというドラフトではなく、上部のカーゼメッシュを通して取り入れた空気が燃焼し、カーゼメッシュ上部を通して筒外に抜けるという「非ウルフ形式」の揮発油安全灯で、言うなればマルソー形式の揮発油安全灯だということです。その形式というのは20世紀に入った頃から安全灯の終末期まで変わらなかったということになります。また特徴的なの再着火装置(Relighter)のメカニズムがウルフ式とまったく異なり、真ん中に棒芯のガイドステムが出る穴の空いた懐中時計のような円盤にすべてのメカニズムが収められており、給油の際はこの再着火装置の円盤をすっぽり外し、ガイドステムをカニ目で緩めて外すことにより油壺に注油するというものです。この再着火装置の円盤は油壺を貫通するシャフトとはまり込み、底のツマミを回すことによってメカニズムが動作するようになっています。またロッキングシステムはケーラーあたりと同様のマグネットロックです。Dvc00487
その炭鉱の町ボーフムですが、1943年3月に始まったルール工業地帯爆撃の標的になりました。というのもエッセンにあったクルップ社の鉄鋼工場が最重要目標だったものの、そこに石炭を供給するボーフムも例外ではなく1943年の3月5日のエッセン初空襲に続き、早くも3月29日に初空襲を受けています。それから5月6月と定期的に爆撃の目標になり、連合軍の空爆で市街の40%が被害を受けたそうです。戦後のボーフムは炭鉱の閉山が相次ぎ、1970年までにすべての炭鉱が操業を停止したとのことですが、その炭鉱跡地に1962年から自動車のオペルが工場を開設し、第一工場から第三工場までのすべてが炭鉱跡地に設けられたものだったとか。そのボーフムにはドイツ炭鉱博物館と鉄道博物館があるそうで、どういう経緯かは知りませんが茨城のつくば市と姉妹都市を締結しているのだそうな。またこのボーフムはザイペル以外にも同程度の規模の安全灯製造メーカーが複数存在したようですが、日本にはザイペル以外は研究用にしても輸入されたことがないのでまったく馴染みのないメーカーばかりでした。

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July 28, 2020

昭和期のDIETZ No.80 BLIZZARD ハリケーンランタン

Dvc00553 Dvc00552 Dvc00554   世の中は空前のキャンプブームだという話です。キャンプ芸人なるジャンルが出来て、それぞれそれだけでゴハンが食べられるくらいにキャンプというのが社会的にバズって来たようですが、当方はまったくのインドア派。
おまけに家の猫を放置して頻繁にキャンプに出かけられるような環境でもないのですが、それでも中学時代の昭和40年代後半には同好の志数人と光害の少ない所を求めてテントを張り、2泊3日くらいの日程でペルセウス流星群観測に出かけるのが恒例で、それくらいのキャンプ経験はあります。その時に購入したのが今は無きホープのLサイズのコッヘル。コンロはケロシンストーブなどを買う余裕もなく、缶入りのテムポの固形燃料を使用してご飯を炊き、おかずは缶詰かレトルトのカレーを食べながら、夜はもっぱら流星観測。そのため照明は赤いセロハンを張った懐中電灯と乾電池式のランタンくらいしか必要なく、マントル式のランタンなんか誰も使い方さえ知りませんから当然そんなものありません。なにせレジャー目的のキャンプではないわけですから(笑)
 それから20年くらい経過して当時のNIFTY酒フォーラムのメンバー有志に誘われて参加したキャンプはすでにテントや明かりも調理器具もコールマンに占領されていて、ホープやエバニューしか知らない当方には隔世の感がありました。調理はコールマンのツーバーナー2台、明かりもコールマンのツーバーナーマントルランタンが複数台で、灯油ランプしか知らない当方にとってはキャンプサイトが目が眩むほど明るい(笑)
そういう近代的なキャンプの洗礼を受けたものの、当方コールマンのガソリンランタンにはまったく興味がなく、明かりと言えばもっぱら明治大正昭和の吊りの石油ランプ及び炭鉱用安全燈に対する歴史資料的な興味しかわかなかったのです。
 そういうコールマンコレクションから始まるランプマニアとは一線を画す当方ですがどうしても欲しかったのが大型ハリケーンランタンのDIETZ No.80 BLIZZARD。それも無残にコストダウンされた現行品ではなく40年近く前のNo.80にしか興味が持てないのです。というのも米国本国のR.E.DIETZは1992年に廃業していますし、1956年に設立されたR.E.DIETZ in HONG KONGがすべてのDIETZランタンの製造を1971年以降、行っていますが、その香港DIETZは香港内での人件費高騰から1982年以降はDIETZランタンのすべてを中国国内の製造に移行させています。そのため、広州月華や上海光華牌などの安価なハリケーンランタンを作っていたメーカーがDIETZの商標がついたランタンも並行して製造するというようなことになり、安価なランタンを未だに製造し続けることが出来たというか、逆に言うとコストダウンと妥協の産物になってしまい、もはや同じ型番の製品ながら「DIETZの商標のついた中国製ランタン」でしかなく、道具として愛着が湧かず、単なる消耗品に近い存在に思えてしまうのです。
 DIETZきっての大型ハリケーンランタンNo.80にしても香港で製造していた時代のホヤはDIETZが陽刻ですし、ホヤの左右にガードにはまり込む突起が着けられていますが、今のすべてのDIETZランタンはDIETZマークはシルクスクリーン印刷で済まされて、No.80のホヤも突起のない単なるらっきょう型ホヤになってしまいました。また中国にありがちですが、正規品として香港DIETZを通さない形でヤミのDIETZが正規品以上に大量に出回っているような節があります。

 このNo.80を入手したのはもう15年も前で、それなりに使い込まれていてサビなどもあり、見てくれも悪いのですが古いDIETZのハリケーンランタンには違いありません。おそらくEVERNEWが輸入した時期の製品だと思うのですが本体にはMade in HongKongなどの刻印やシールはありませんでした。ビニールハウスの保温用に使用されていた個体だったらしいのですが、今はビニールハウス保温に特化したランプがありますからこんなものをわざわざ買って使う農家はいないでしょう。ちなみにEVERNEWは大小様々なハリケーンランタンを自社ブランドで発売していましたが、中身は香港DIETZあり、中国本土のランタンメーカーの製品ありで玉石混交でした。80年代初頭、すでにHOPEは廃業していましたがTOKYO TOPも同じように中国製ランタンを自社ブランドで輸入発売していたようです。

 No.80は芯の幅が約21mmあまりのいわゆる7分芯で、昔の一般家庭では5分芯の吊りランプの下で家族が生活していたことを考えればそれなりに明るいランプです。それにしても一般のキャンプで使われるような300CPや500CPのマントルランプの光に比べたら豆電球並の明るさの感覚しかありません。
 ゆえに今更キャンプでメインの明かりとして活躍することはなく、単なるノスタルジーに浸るための小道具の一つでしかないと言えるのかもしれませんが、そのありがたみと有効性を改めて感じたのは胆振東部地震による「ブラックアウト」と呼ばれた北海道全道停電事故でした。
 実は地震前日に本州、特に近畿地方で暴風被害が大きかった台風が夜中に通過するということを知り、停電に備えてハリケーンランタン2個に給油して置いたのですが、台風による停電被害はなく、翌日夜中に起きたのが隣の厚真町で震度7を記録した胆振東部地震でした。
 うちの街では震度5強の記録でしたが寝室は落下物で瓦礫の山を築き、ドアが開かないので屋根伝いに脱出して階下に降りるとまだ水道も電気も通じていたのでありったけの容器に水を確保し、風呂桶にも水を貯めました。そのうちに停電で真っ暗になり、マグライトを探し出してリビングにぶら下がっていたDIETZのNo.80に火を入れましたが、その間も余震が収まらずそのNo.80を持って逆のルートで猫二匹が待つ2階の寝室まで戻りました。
 しかし、街全体がブラックアウトしているときにNo.80の光はなんと明るいことだったでしょうか。朝を迎えて明るくなるまで一時間半あまり、余震に怯える猫どもをなだめながらNo.80ハリケーンランタンの光で電池の残量を気にすること無く過ごしたのです。
 翌日、ホームセンターなどでは乾電池やカセットガスボンベ、飲料水を求めて長蛇の列が出来ましたが、当方灯油ランプは売るほどの数を所持していますし、そもそも家がプロパンガスのままなので明かりと煮炊きにはまったく心配がありませんでした。
「空き缶とアルミ箔、ティッシュの芯で即席のサラダ油ランタンを作る」くらいだったら万が一に備えてハリケーンランタンを一個購入し、給油したままどこかに吊るしておくのがいかに有効であるか、一度は考えてみましょう。
 うちの町内は地震後11時間で停電が復旧し、暗い夜を再びNo.80とともに過ごすことはありませんでしたが、うちの市の半分以上は翌朝まで、札幌は場所により4晩くらいまっ暗な夜を過ごさなければいけなかったところもあったようです。当方は余震を警戒して一週間近く、リビングに簡易ベッドを広げて再度の停電に備えランタン吊りっぱなしで寝てました。




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July 13, 2020

Patterson HCP炭鉱用高輝度安全燈(炭鉱用カンテラ)

Dvc00536 Dvc00535  Dvc00534イギリスはニューカッスルに存在したパターソン社のミュゼラータイプの安全燈A3型は当方が入手した2番めの安全燈でした。このパターソンA3型は二重ガーゼメッシュの中にチムニーが存在するマルソー型とミュゼラー型のいいとこ取りのような存在の安全燈で、英国の鉱山監督局の検定を通った近代型の安全燈のはしりのような製品でした。しかし、アーネスト・ヘイルウッドが設計した一連の安全燈と比べると目新しい仕組みなどもなく、ロックシステムは旧態依然のリードリベットロック。芯の繰り出しも先が曲がった針金で平芯を引っ掛けて上下させるというウィックピッカー式などと取り立てて工夫のない油燈安全燈です。
 それから何年か経過して突然登場したのがこのパターソンHCPというランプです。HCPの意味はHIGH CANDLER POWERの略で、高輝度安全燈を意味します。というのも1915年頃を境に英国内の炭鉱でも手提げの蓄電池安全燈であるシーグやオルダム、ニッフェなどが普及しはじめ、その明るさは旧態依然の油燈式安全燈がかなうようなものではなく、そのため油燈式安全燈で蓄電池式安全燈には及ばずとも明るい高輝度の安全燈を作ろうという試みから生み出されたものです。

 光量はウルフ燈のような棒芯燈よりも平芯燈のほうが炎が大きい分単純に明るいのですが、同時に発熱量も多く、さらに棒芯などよりも燃焼により多くの空気流入量が必要なため、さらなる高輝度のためには根本的に空気の流入なども含めた安全燈の再設計が必要でした。そのため、ガラスのインナーチムニーを用いて空気の流入経路を一方通行にし、よくはわかりませんがボンネット内部で一種のホットブラスト化して外部からの吸気を高め、燃焼効率を上げてより多くの光量を得たのがこのPatterson HCPランプのようです。

 ただ、小型の石油ストーブ並みにボンネット部分が高熱になり、石炭採掘現場の坑内員の半裸の作業環境では肌に触れると即火傷という事故を免れることが出来ず、外側に放熱を兼ねたコルゲート状のシールドが取り付けられているのですが、それがいかにも頭でっかちというか不自然で、おそらくは当初の設計にはなく後付で追加されたものなのでしょう。この高熱問題は後々まで後を引き、温度を多少和らげたHCP9という改良版が最終版なのですが、その間にもインナーチムニーの保持などを変更した改良が次々にほどこされていったようです。年代的には1920年代後半から1930年ころまでの製品らしいのですが、設計がそもそも誰だったのかなど、詳しいことはよくわかりません。
 着火は据え置き型の蓄電池とイグニッションコイルを使用した再着火装置を接続し、火花を発生させて着火させる「電パチ」です。このリライターのパテントはアーネスト・ヘイルウッドが取得していたと思いますが、その当時はすでにパテントも失効し、自由に使用できたものだと思われ、各メーカーでも普通にこの電気式リライターシステムを使用しています。古い時代の安全燈と同様にガードピラーが一本だけ長くて油壷を取り付けるとボンネット下部にはまり込む仕組みのボンネットロックが着いています。また油壷のロックは取り去られていましたが、おそらくはヘイルウッドがパテントを取った油壷下部からのプランジャーが腰ガラス下部のガードピラーリングの内側のギザギザに噛み込む仕組みで、油壷下部に磁石を当ててプランジャーを引っ込めて解錠する磁気ロックシステムだったのでしょう。

 それでこのパターソンHCPは日本にあったものではなく、英国で使用されていたものを日本に輸入した方から入手したものです。年代的にも1930年というと昭和の5年ですから日本の炭鉱でも明かりとしての揮発油安全燈はまだ数は残っていたもののほぼ用済みで、よほど小さな石炭鉱山でもない限り帽上蓄電池燈にほぼ切り替えが完了しつつあったころです。そのためこの手の油燈の高輝度安全燈を試験名目でも輸入したことはありません。
 よく外国船の備品として搭載された安全燈と思しきものが神戸や横浜の古い港町から発掘されることもありますが、このパターソンHCPは船舶搭載用の防爆燈としては少々使いにくく、そのルートから日本に入ってきたこともなさそうです。

 

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May 22, 2020

ドイツ製ウルフNo.856鉱山用カーバイドランプ

Dvc00427  日本で工業的にカーバイドの大量生産を開始したのは最近アビガンのマロン酸ジエチル原料再生産でも名前が出てきた化学メーカー「デンカ」の母体になった会社で場所は北海道の苫小牧市でした。時は明治の末期、木材資源や水力発電の好立地が近く、鉄道もつながっていた苫小牧市に王子製紙の苫小牧工場が建設されますが、その水力発電の余剰電力と王子製紙の工場内でも製薬に使用される石灰石が共同で購入でき、さらに日高方面から豊富に調達できる木炭があったため、この電力・石灰石・木炭を使用して北海カーバイド工場が設立されたことに始まります。アセチレン発生源としてのカーバイド生産というよりも炭化カルシウムと窒素を反応させて農業用肥料として生産がほとんどだったとは思いますが、この苫小牧におけるカーバイドの生産は大正末に王子製紙の拡張で余剰電力が得られなくなったために新潟の糸魚川に移転。そのカーバイド工場の社宅や職員以外の職工たちは王子製紙苫小牧工場に転職しました。
 我々の世代はカーバイド工場があったことさえ年寄りからの又聞きでしかありませんが、昔は「元カーバイドにいた〇〇さんの息子が…」なんて会話が普通にあったものです。現在、王子紙業という回収紙から再生パルプを生産する会社の敷地内に「デンカ発祥の地」という小さな記念碑があります。
 日本におけるカルシウムカーバイドを使用したカンテラですが、当初は灯具もカーバイドも輸入品で高価なものでしたが、取り扱いの容易さと旧来の油燈カンテラよりも光度があり、明治の末頃から主に金属鉱山を中心に普及してゆきます。明治末期にはカーバイドランプを専門に製造する会社も何社か出現し、どういう経緯か規格品24号とか言う真鍮製のカンテラを等しくどこのメーカーでも作り始め、全国の金属鉱山に急速に広まったという歴史があります。
 それ以前に使用された輸入品のカーバイドカンテラは主にアメリカ製の真鍮プレス製のものが使用されていたようですが、日本では西欧諸国のように帽子を被る習慣がないため、米国のような小型のカーバイドキャップランプというものはなく、中型サイズ以上の取っ手付きのものが坑内巡視の職員の手によって使用されたという程度だったためか、今になって残る輸入品のカーバイドカンテラは大変希少な存在です。
 Dvc00426 このカーバイドカンテラは日本国内にあったもので、おそらくは明治の末期から大正初期にかけて国内に持ち込まれたものらしいのですが、正体がわからず、また炭鉱で使用されたカンテラではないため鈎の形状から旧ドイツ製ということはわかるものの入手以来3年ほど放り出していたものです。
 今回、ドイツ製カーバイドランプで画像検索して得た結論は、なんとウルフ揮発油安全燈の製造元であるドイツはフリーマン・ウルフ商会で製造されたNo.856というカーバイドランプらしく製造は1910年から1920年らしいのです。得体のしれないカーバイドランプがウルフの名前を冠することがわかって俄然興味が湧いてきたとは我ながらお恥ずかしい限りですが。
 形状は炭鉱用のウルフ揮発油安全燈と比べるといかにも無骨でデザインの美しさの微塵も感じさせませんが、そのメカニズムの秀逸さとして、本体タンク部分のロックシステムにあります。金具を引っ掛けて取っ手を起こせば本体とタンクが圧着して気密がたもたれる仕組みで、ネジで締め付けるものと比べるとその設計の巧みさはさすがはウルフ氏の手に掛かった灯火器という感じがします。この圧着システムは前製品のより効率的な改良システムです。
 材質もウルフ揮発油安全燈同様にスチール外皮ですが、ウルフ揮発油安全燈のように真鍮の中子は必要がなく、タンク部分は単なるカーバイトを格納するスチールプレス製圧力容器です。。この辺りは真鍮のプレスや鋳物の加工でしかカーバイト燈を製造できなかった明治から大正期の日本とは基礎工業技術の差を感じさせます。
このウルフカーバイドランタンはアメリカに輸出されたものが日本に再輸出されたのではないかと思われますが、このNo.856の時代にはちょうど第1次世界大戦が勃発し、炭鉱用のウルフ揮発油安全燈もこのウルフカーバイドランタンもアメリカへの輸出が止まってしまいました。日本でもウルフ揮発油安全燈同様に輸入が止まってしまい、カーバイドカンテラ本体の国産化が推進されるきっかけになったのでしょう。それ以後外国製のカーバイドランタンが日本で輸入・使用された形跡は残念ながらありません。
 入手先はたぶん群馬県内だったように記憶していますが、売主は舶来の油さし容器だと思っていたような。おそらくは防炎を兼ねた反射板を取り付けられるようになっていたのでしょうが、その取り付け金具のロウ付けがはがれて欠落してしまったようです。
 ちなみにドイツのウルフ商会では炭坑用に揮発油ではなくカーバイドを使用するカーバイド式安全燈も製造していました。しかし、灯油などと違って灯火器用カーバイドの入手はまだまだ困難な国が多かったためかまったく普及しないで終わってしまったようです。

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March 24, 2020

オリンピックの聖火を運ぶランタンはどこのメーカーの製品か?

 オリンピック発祥の地ギリシャから航空自衛隊松島基地に降りたオリンピックの聖火。 そのときにチャーター機から降り立ったランタンがどこのランタンであるか、売っていたらほしいなどというキャンピングランタンマニアがあれこれツィートしているのを見かけて少々WW

 あのランタン、英国製のトーマスウイリアムスなどの灯油使用の炭鉱安全燈レプリカではなくて、英国製Protector lamp & Lighting社のEcless揮発油安全燈Type 6のレプリカ、オフィシャルオリンピック仕様でしょう。 油壺のロックシステムの形状を見れば炭鉱安全燈マニアはすぐにわかるW もともと創業1873年の英国ランカシャーの安全燈メーカーだったのですが、Type 6は英国の鉱山保安局の検定を通った本物の炭鉱安全燈です。オリジナルは鉄製ボンネットの油燈Type6がいつのころからかボンネットを鉄から真鍮に変更したいかにもレプリカ然とした揮発油燈になったものを、どこかの会社が社名Protector lamp & LightingとEclessの名前を継承して製造しています。

 そのProtector & LightのEclessオリンピックランプはすでに30年ほどの採用実績があるようで、大会ごとに微妙に姿を変えているようですが、一貫して腰ガラス(明治の炭鉱用語)側面に鎖でつながれたプラグが付いていて、ここから火種を取り出せるようになっているのが特別仕様の証拠。 燃料は国内ではおそらくどこでも手に入るジッポのライターオイル(粗製ガソリン=ナフサ)を使用するのでしょうか?再着火のためのリライターシステムが付いており、なぜか外側からラックが刻まれたピンを差し込んでライター石のホイールを回すという特異なシステムを備えます。チャーター機から降りてきた大きなループ状の取っ手のついた安全燈と各地を巡回する炭鉱安全燈の姿そのものの真鍮フックが付いたものの2種類が使用されているようです。 実は、56年前の東京オリンピック時にギリシャから聖火を運び、各地を巡回した安全燈は当時の国産本多電気製(旧本多商店)の本物のウルフ揮発油安全燈と予備にハッキンカイロが使われたんだそうで。 今や日本国内でこんなものを作る機械も技術も継承されなくなってしまい、技術立国日本の聖火が国産安全燈ではなく英国製レプリカ安全燈だっていうのが少々釈然としないとは当方だけでしょうか。それだけ炭鉱技術という忘れ去られた負の遺産は顧みられないのでしょうね。

 なお、オリンピックマークなどをあしらったトータルデザインは吉岡徳仁さんというデザイナーさんらしいので、まったく同じデザインの物を入手するのは無理なようで。 

 ベースになったProtector & Lighting Co. Ecless Type 6レプリカは英国FOBで£299.00くらいらしいです。どうしても欲しい人は
https://www.protectorlamp.com/olympic-torch-relays/ 

に問い合わせてみましょう(笑)

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November 10, 2019

高田式揮発油安全燈(炭鉱用カンテラ)Type Takada Flame Safety Lamp

Dvc00063-2    この見慣れない安全燈は札幌の白石区から出てきたものです。今ではスーパーBIG HOUSEになってしまったようですが、JRの白石駅と12号線の間に昔、石炭坑爆発予防試験場というものがありました。ここは大正時代初期に設置された福岡県の直方安全燈試験場改め直方石炭坑爆発予防試験場に続いて国内で2箇所目の試験場として昭和13年に開設されたものです。この試験場では実際にメタンガスを発生させて防爆実験を行っていたそうで、その危険性や爆発音が周囲に影響を与えないように当時は駅の南側が未開の土地だった札幌郡白石村に誘致されたものだそうです。その後この施設は昭和23年に北海道炭鉱保安技術研究所に変わったのち、北海道石炭鉱山技術試験センターという名称に最終的に変わり、平成13年度末で廃止されたとのこと。この白石区はそのような経緯もあり、炭鉱技術とは縁が深いのですが、よもやこんなものが出てくるとは夢にも思いませんでした。
 安全燈の名称は高田式安全燈、発売元は東京の東洋工業社とあります。形式的にはライター式の再着火装置が付属している普通型のウルフ揮発油安全燈で、下部リング部分に設けられたメッシュから吸気して上部の二重メッシュから排気するというのもウルフ揮発油安全燈のセオリー通り。最大の特徴は油壷やボンネットを含めた総アルミ製の安全燈で、紛れもなく坑内測量時に磁気コンパスを狂わせないという目的で製造されたものだと思われます。
 同時に空で1.6kgもある鎧型ウルフ安全燈に対して軽量化という目的を持っていたであろうことが見受けられ、なんとアルミ製の油壷部分には鋳造時からの肉抜き部分があって、一部は前後に丸棒が通るくらいの穴が貫通しています。当初この肉抜きは爆発予防試験場での構造試験のためにカットアウトされたものではないかと思ったのですが、ダイキャストの砂型成形時からこの部分の肉抜きが行われていたことがわかります。
  そこまでして軽量化した揮発油安全燈にはお目にかかったことがなく、そこまでするか?というのが正直な感想ですが、素材がアルミということもあって、燃料が入らない空の状態で鎧型ウルフ安全燈よりもなんと500gも軽量な1100gに過ぎません。ロッキングシステムはマグネットロックで、100均で売られているような強力磁石で簡単に解錠できました。給油リッドはカニ目ではなくマイナスドライバーで開けることが出来、芯の繰り出し方式や再着火装置はウルフ燈コピーの繰り出し式です。
 安全燈のボンネットにまるでモーターの銘板のような色気のない四角い銘板が貼り付けられていて、そこには歯車のなかに十字のあるマークと「専売特許・新案登録 高田式安全燈 発売元株式会社東洋工業社 東京」とあります。この発売元の東洋工業社はマツダの旧社名東洋工業とは何ら関係がないようで、マツダの東洋工業は大正末から昭和のはじめはコルクの製造を手掛ける会社だったとのこと。あといくつかの東洋工業を名乗る会社を検索してみたのですが、戦前からの会社は少ないようでした。
Dvc00054-2  また発売元とあるので、江戸商会の横田式安全燈のように製造はどこか別なところが行い、あくまでも販売代理店的な存在だったのかもしれません。表面が白いアルマイト処理を施しているようで、少なくとも製造してから80年ほど経過した現在でも表面に腐食などはまったく見受けられません。これが黄色いアルマイト処理だったら思わずヤカンと感じてしまい、ブサイクな安全燈に見えてしまったでしょう。
 年代的には白石に試験場が開設されたのが昭和13年ですからそれ以降に試験場に持ち込まれた試作品なのか、それとも研究用に直方の試験場から分けられたサンプルだったのかは判然としません。ただ、この普通型ウルフ安全燈というのは鎧型ウルフ安全燈に比べてやや気流に対して炎の動揺が激しいという直方試験場の試験結果から大正時代末には淘汰されてしまった形態のウルフ安全燈です。アルミの板を鎧型にプレス成形するのは当時としては難しかったとはいえ、普通型の安全燈を昭和に入ってから作る必要があったのかどうかというのが甚だ疑問であり、また大正末期から蓄電池式のキャップランプが大手炭鉱をメインに急速に普及し、坑内用の灯火器としての揮発油安全燈は昭和5年ころまでにその役目を終え、以後は鎧型のウルフ安全燈で吸気リングが付いたものが簡易メタンガス検知器としての用途で坑内で使われるだけでした。
 坑内測量もアルミの安全燈を使用せずともキャップランプは磁気コンパスに影響を与えないでしょうし、昭和に入ってさらに昭和10年代にこんな総アルミの軽量揮発油安全燈を作っても需要がなかったことは確かでしょう。しかし、市販されなかったであろう試作品が試験場に保管されてきたことでこのように日の目を見たわけですが、そうなるとまだ白石近辺にはまだこんな安全燈の埋蔵品がまだまだ転がっているかもしれません。ちなみにこの安全燈はリサイクル業を営む売り主の元に個人から持ち込まれたものだそうです。
Dvc00061  二重メッシュカーゼとオリジナルの腰ガラスが失われていて戦前ドイツのイエナ時代のショット社の腰ガラスが取り付けられていました。おそらくは実験中にオリジナル腰ガラスが破損したので、試験場に腰ガラスの強度試験サンプルとして転がっていた高価な舶来腰ガラスを間に合わせではめられていたようです。フランスの安全燈にはバカラ社の腰ガラス、ドイツの安全燈にはショット社の腰ガラスが使用されている例が多いのですが、ガラスの品質や加工精度など到底国産品が叶うようなシロモノではありません。この腰ガラスは初期の国産クラニー燈や初期の国産普通型ウルフ安全燈のようにガードピラーリング部分にバヨネット式に固定されるタイプでこの構造は本多商店製普通型ウルフ安全燈とまったく同じですが、「油壷との結合部分の気密性に難があり」という試験結果がすでに大正初期に出てますから、今更こんな構造で試験に出されても結果が芳しくないことはわかりそうなものですが。実際に実験に供された証拠としてボンネット裏側は煤煙で黒く煤けていました。
 腰ガラスから上の部分が欠品でボンネットと腰ガラスの間に隙間が開いて見栄えが悪かったので戦後の本多製ウルフ燈から部品を調達し、なんとか安全燈の体裁を整えましたが、本多のウルフ燈とガーゼメッシュ押さえのバネの形状が合わず、ここだけ流用不可でした。
 これがもし大正年間に直方試験場に提出された試験サンプルだとしたらまだ理解できるのですが、何せ銘板が左から右への箇条書きですから時代がぐっと下ったものであることがわかるというもの。
Dvc00060  ただ、この高田式安全燈というものが当初から船舶搭載用の備品としての防爆燈として開発したのであれば、アルマイトの防錆性もあり、海事用としてその存在価値は昭和10年代でも失われてはいなかったと思います。ただ、日中戦争が泥沼状態に突入し、太平洋戦争に向かっていったこの時代に民間需要用の軽合金の確保は難しかったでしょうし、それならば船舶用備品として逓信省から形式認定を受けた本多商店製ウルフ安全燈で事足りるわけですから、船舶用防爆燈としても商品として日の目を見なかったというのは想像できます。

 追記:夕張石炭の歴史村の資料館にこの高田式揮発油安全燈が陳列されています。ただ、いつの間にかピラー式ガス検定燈にプレートがすり替わってしまって展示されているようです。実際に坑内で使用されたようで、3番のペイント書きが油壺にほどこされていますが、そうすると製造年は昭和初期くらいまで遡るのでしょうか。ただ、油壺との結合に旧タイプの揮発油安全燈同様の問題があり、本多のウルフ検定燈の牙城を崩せず淘汰されてしまったのかもしれません。ただ、坑内測量で磁気コンパスを狂わせないという利点は否定できないため、帽上蓄電池灯が普及するまでのほんの短い間だけ試験的に使用されたのでしょう。そのため、やはり製造数は非常に少ないため、今に残っている数も少ないはずです。

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September 08, 2019

ウルフ安全燈型ライター(麻生創業100年記念品)

Photo_20190908092701  筑豊の炭鉱御三家の一人、麻生太吉が飯塚で炭鉱事業に着手してから100年を記念して昭和48年6月1日に飯塚で開催された麻生100周年記念式典で配られたと思しき記念品がこのウルフ安全燈型ライターです。当時の麻生本社は昭和41年に炭鉱事業から完全撤退し、麻生セメントを中核とする企業体勢に完全にシフトしており、麻生100年を節目として父親から現内閣副総理兼財務大臣の麻生太郎に麻生セメントの社長を譲るということが発表されていました。その後麻生太郎氏政界進出とともに麻生セメントを始めとする麻生グループの経営を弟に譲りましたが、現在の麻生グループはセメントなどの製造業よりも飯塚周辺に所有する広大な不動産を活用し、飯塚病院を始めとする医療や介護・福祉などのサービス業のほうに比重が移っています。
 その麻生100周年で配られたと思しき卓上ライターですが、本多のウルフ揮発油安全燈を模したもので、一見ブロンズ風に青い緑青風フィニッシュを施しているものの、その素材は鋳鉄の鋳物で、磁石が付着します。昭和48年当時、どこかのデパートの法人担当部に発注したとしても千円というわけにはいかなかったでしょうから、もしかしたら式典で配られたというよりも得意先に配るために作られたのかもしれません。そうなると桐の箱に入って5千円以上はコストが掛かっていたのでしょうか?
 安全燈油壷部分に「麻生創業100周年記念」の陽刻があります。
 このウルフ安全燈型卓上ライター、以前はたまにオークションなどでもたまに見かけたのですが、最近はまったく見つかりません。そういえば炭鉱業時代の麻生産業本社は炭鉱坑内にならって社屋全面禁煙で休み時間には屋外に出ないと喫煙出来なかったそうです。それがいつまで踏襲されたのかはわかりませんが、炭鉱業から撤退し、いまだに喫煙者の麻生太郎氏が社長になるに及んで社内は喫煙おかまいなしになったのは想像に難くありません(笑)

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