July 28, 2020

昭和期のDIETZ No.80 BLIZZARD ハリケーンランタン

Dvc00553 Dvc00552 Dvc00554   世の中は空前のキャンプブームだという話です。キャンプ芸人なるジャンルが出来て、それぞれそれだけでゴハンが食べられるくらいにキャンプというのが社会的にバズって来たようですが、当方はまったくのインドア派。
おまけに家の猫を放置して頻繁にキャンプに出かけられるような環境でもないのですが、それでも中学時代の昭和40年代後半には同好の志数人と光害の少ない所を求めてテントを張り、2泊3日くらいの日程でペルセウス流星群観測に出かけるのが恒例で、それくらいのキャンプ経験はあります。その時に購入したのが今は無きホープのLサイズのコッヘル。コンロはケロシンストーブなどを買う余裕もなく、缶入りのテムポの固形燃料を使用してご飯を炊き、おかずは缶詰かレトルトのカレーを食べながら、夜はもっぱら流星観測。そのため照明は赤いセロハンを張った懐中電灯と乾電池式のランタンくらいしか必要なく、マントル式のランタンなんか誰も使い方さえ知りませんから当然そんなものありません。なにせレジャー目的のキャンプではないわけですから(笑)
 それから20年くらい経過して当時のNIFTY酒フォーラムのメンバー有志に誘われて参加したキャンプはすでにテントや明かりも調理器具もコールマンに占領されていて、ホープやエバニューしか知らない当方には隔世の感がありました。調理はコールマンのツーバーナー2台、明かりもコールマンのツーバーナーマントルランタンが複数台で、灯油ランプしか知らない当方にとってはキャンプサイトが目が眩むほど明るい(笑)
そういう近代的なキャンプの洗礼を受けたものの、当方コールマンのガソリンランタンにはまったく興味がなく、明かりと言えばもっぱら明治大正昭和の吊りの石油ランプ及び炭鉱用安全燈に対する歴史資料的な興味しかわかなかったのです。
 そういうコールマンコレクションから始まるランプマニアとは一線を画す当方ですがどうしても欲しかったのが大型ハリケーンランタンのDIETZ No.80 BLIZZARD。それも無残にコストダウンされた現行品ではなく40年近く前のNo.80にしか興味が持てないのです。というのも米国本国のR.E.DIETZは1992年に廃業していますし、1956年に設立されたR.E.DIETZ in HONG KONGがすべてのDIETZランタンの製造を1971年以降、行っていますが、その香港DIETZは香港内での人件費高騰から1982年以降はDIETZランタンのすべてを中国国内の製造に移行させています。そのため、広州月華や上海光華牌などの安価なハリケーンランタンを作っていたメーカーがDIETZの商標がついたランタンも並行して製造するというようなことになり、安価なランタンを未だに製造し続けることが出来たというか、逆に言うとコストダウンと妥協の産物になってしまい、もはや同じ型番の製品ながら「DIETZの商標のついた中国製ランタン」でしかなく、道具として愛着が湧かず、単なる消耗品に近い存在に思えてしまうのです。
 DIETZきっての大型ハリケーンランタンNo.80にしても香港で製造していた時代のホヤはDIETZが陽刻ですし、ホヤの左右にガードにはまり込む突起が着けられていますが、今のすべてのDIETZランタンはDIETZマークはシルクスクリーン印刷で済まされて、No.80のホヤも突起のない単なるらっきょう型ホヤになってしまいました。また中国にありがちですが、正規品として香港DIETZを通さない形でヤミのDIETZが正規品以上に大量に出回っているような節があります。

 このNo.80を入手したのはもう15年も前で、それなりに使い込まれていてサビなどもあり、見てくれも悪いのですが古いDIETZのハリケーンランタンには違いありません。おそらくEVERNEWが輸入した時期の製品だと思うのですが本体にはMade in HongKongなどの刻印やシールはありませんでした。ビニールハウスの保温用に使用されていた個体だったらしいのですが、今はビニールハウス保温に特化したランプがありますからこんなものをわざわざ買って使う農家はいないでしょう。ちなみにEVERNEWは大小様々なハリケーンランタンを自社ブランドで発売していましたが、中身は香港DIETZあり、中国本土のランタンメーカーの製品ありで玉石混交でした。80年代初頭、すでにHOPEは廃業していましたがTOKYO TOPも同じように中国製ランタンを自社ブランドで輸入発売していたようです。

 No.80は芯の幅が約21mmあまりのいわゆる7分芯で、昔の一般家庭では5分芯の吊りランプの下で家族が生活していたことを考えればそれなりに明るいランプです。それにしても一般のキャンプで使われるような300CPや500CPのマントルランプの光に比べたら豆電球並の明るさの感覚しかありません。
 ゆえに今更キャンプでメインの明かりとして活躍することはなく、単なるノスタルジーに浸るための小道具の一つでしかないと言えるのかもしれませんが、そのありがたみと有効性を改めて感じたのは胆振東部地震による「ブラックアウト」と呼ばれた北海道全道停電事故でした。
 実は地震前日に本州、特に近畿地方で暴風被害が大きかった台風が夜中に通過するということを知り、停電に備えてハリケーンランタン2個に給油して置いたのですが、台風による停電被害はなく、翌日夜中に起きたのが隣の厚真町で震度7を記録した胆振東部地震でした。
 うちの街では震度5強の記録でしたが寝室は落下物で瓦礫の山を築き、ドアが開かないので屋根伝いに脱出して階下に降りるとまだ水道も電気も通じていたのでありったけの容器に水を確保し、風呂桶にも水を貯めました。そのうちに停電で真っ暗になり、マグライトを探し出してリビングにぶら下がっていたDIETZのNo.80に火を入れましたが、その間も余震が収まらずそのNo.80を持って逆のルートで猫二匹が待つ2階の寝室まで戻りました。
 しかし、街全体がブラックアウトしているときにNo.80の光はなんと明るいことだったでしょうか。朝を迎えて明るくなるまで一時間半あまり、余震に怯える猫どもをなだめながらNo.80ハリケーンランタンの光で電池の残量を気にすること無く過ごしたのです。
 翌日、ホームセンターなどでは乾電池やカセットガスボンベ、飲料水を求めて長蛇の列が出来ましたが、当方灯油ランプは売るほどの数を所持していますし、そもそも家がプロパンガスのままなので明かりと煮炊きにはまったく心配がありませんでした。
「空き缶とアルミ箔、ティッシュの芯で即席のサラダ油ランタンを作る」くらいだったら万が一に備えてハリケーンランタンを一個購入し、給油したままどこかに吊るしておくのがいかに有効であるか、一度は考えてみましょう。
 うちの町内は地震後11時間で停電が復旧し、暗い夜を再びNo.80とともに過ごすことはありませんでしたが、うちの市の半分以上は翌朝まで、札幌は場所により4晩くらいまっ暗な夜を過ごさなければいけなかったところもあったようです。当方は余震を警戒して一週間近く、リビングに簡易ベッドを広げて再度の停電に備えランタン吊りっぱなしで寝てました。




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July 13, 2020

Patterson HCP炭鉱用高輝度安全燈(炭鉱用カンテラ)

Dvc00536 Dvc00535  Dvc00534イギリスはニューカッスルに存在したパターソン社のミュゼラータイプの安全燈A3型は当方が入手した2番めの安全燈でした。このパターソンA3型は二重ガーゼメッシュの中にチムニーが存在するマルソー型とミュゼラー型のいいとこ取りのような存在の安全燈で、英国の鉱山監督局の検定を通った近代型の安全燈のはしりのような製品でした。しかし、アーネスト・ヘイルウッドが設計した一連の安全燈と比べると目新しい仕組みなどもなく、ロックシステムは旧態依然のリードリベットロック。芯の繰り出しも先が曲がった針金で平芯を引っ掛けて上下させるというウィックピッカー式などと取り立てて工夫のない油燈安全燈です。
 それから何年か経過して突然登場したのがこのパターソンHCPというランプです。HCPの意味はHIGH CANDLER POWERの略で、高輝度安全燈を意味します。というのも1915年頃を境に英国内の炭鉱でも手提げの蓄電池安全燈であるシーグやオルダム、ニッフェなどが普及しはじめ、その明るさは旧態依然の油燈式安全燈がかなうようなものではなく、そのため油燈式安全燈で蓄電池式安全燈には及ばずとも明るい高輝度の安全燈を作ろうという試みから生み出されたものです。

 光量はウルフ燈のような棒芯燈よりも平芯燈のほうが炎が大きい分単純に明るいのですが、同時に発熱量も多く、さらに棒芯などよりも燃焼により多くの空気流入量が必要なため、さらなる高輝度のためには根本的に空気の流入なども含めた安全燈の再設計が必要でした。そのため、ガラスのインナーチムニーを用いて空気の流入経路を一方通行にし、よくはわかりませんがボンネット内部で一種のホットブラスト化して外部からの吸気を高め、燃焼効率を上げてより多くの光量を得たのがこのPatterson HCPランプのようです。

 ただ、小型の石油ストーブ並みにボンネット部分が高熱になり、石炭採掘現場の坑内員の半裸の作業環境では肌に触れると即火傷という事故を免れることが出来ず、外側に放熱を兼ねたコルゲート状のシールドが取り付けられているのですが、それがいかにも頭でっかちというか不自然で、おそらくは当初の設計にはなく後付で追加されたものなのでしょう。この高熱問題は後々まで後を引き、温度を多少和らげたHCP9という改良版が最終版なのですが、その間にもインナーチムニーの保持などを変更した改良が次々にほどこされていったようです。年代的には1920年代後半から1930年ころまでの製品らしいのですが、設計がそもそも誰だったのかなど、詳しいことはよくわかりません。
 着火は据え置き型の蓄電池とイグニッションコイルを使用した再着火装置を接続し、火花を発生させて着火させる「電パチ」です。このリライターのパテントはアーネスト・ヘイルウッドが取得していたと思いますが、その当時はすでにパテントも失効し、自由に使用できたものだと思われ、各メーカーでも普通にこの電気式リライターシステムを使用しています。古い時代の安全燈と同様にガードピラーが一本だけ長くて油壷を取り付けるとボンネット下部にはまり込む仕組みのボンネットロックが着いています。また油壷のロックは取り去られていましたが、おそらくはヘイルウッドがパテントを取った油壷下部からのプランジャーが腰ガラス下部のガードピラーリングの内側のギザギザに噛み込む仕組みで、油壷下部に磁石を当ててプランジャーを引っ込めて解錠する磁気ロックシステムだったのでしょう。

 それでこのパターソンHCPは日本にあったものではなく、英国で使用されていたものを日本に輸入した方から入手したものです。年代的にも1930年というと昭和の5年ですから日本の炭鉱でも明かりとしての揮発油安全燈はまだ数は残っていたもののほぼ用済みで、よほど小さな石炭鉱山でもない限り帽上蓄電池燈にほぼ切り替えが完了しつつあったころです。そのためこの手の油燈の高輝度安全燈を試験名目でも輸入したことはありません。
 よく外国船の備品として搭載された安全燈と思しきものが神戸や横浜の古い港町から発掘されることもありますが、このパターソンHCPは船舶搭載用の防爆燈としては少々使いにくく、そのルートから日本に入ってきたこともなさそうです。

 

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May 22, 2020

ドイツ製ウルフNo.856鉱山用カーバイドランプ

Dvc00427  日本で工業的にカーバイドの大量生産を開始したのは最近アビガンのマロン酸ジエチル原料再生産でも名前が出てきた化学メーカー「デンカ」の母体になった会社で場所は北海道の苫小牧市でした。時は明治の末期、木材資源や水力発電の好立地が近く、鉄道もつながっていた苫小牧市に王子製紙の苫小牧工場が建設されますが、その水力発電の余剰電力と王子製紙の工場内でも製薬に使用される石灰石が共同で購入でき、さらに日高方面から豊富に調達できる木炭があったため、この電力・石灰石・木炭を使用して北海カーバイド工場が設立されたことに始まります。アセチレン発生源としてのカーバイド生産というよりも炭化カルシウムと窒素を反応させて農業用肥料として生産がほとんどだったとは思いますが、この苫小牧におけるカーバイドの生産は大正末に王子製紙の拡張で余剰電力が得られなくなったために新潟の糸魚川に移転。そのカーバイド工場の社宅や職員以外の職工たちは王子製紙苫小牧工場に転職しました。
 我々の世代はカーバイド工場があったことさえ年寄りからの又聞きでしかありませんが、昔は「元カーバイドにいた〇〇さんの息子が…」なんて会話が普通にあったものです。現在、王子紙業という回収紙から再生パルプを生産する会社の敷地内に「デンカ発祥の地」という小さな記念碑があります。
 日本におけるカルシウムカーバイドを使用したカンテラですが、当初は灯具もカーバイドも輸入品で高価なものでしたが、取り扱いの容易さと旧来の油燈カンテラよりも光度があり、明治の末頃から主に金属鉱山を中心に普及してゆきます。明治末期にはカーバイドランプを専門に製造する会社も何社か出現し、どういう経緯か規格品24号とか言う真鍮製のカンテラを等しくどこのメーカーでも作り始め、全国の金属鉱山に急速に広まったという歴史があります。
 それ以前に使用された輸入品のカーバイドカンテラは主にアメリカ製の真鍮プレス製のものが使用されていたようですが、日本では西欧諸国のように帽子を被る習慣がないため、米国のような小型のカーバイドキャップランプというものはなく、中型サイズ以上の取っ手付きのものが坑内巡視の職員の手によって使用されたという程度だったためか、今になって残る輸入品のカーバイドカンテラは大変希少な存在です。
 Dvc00426 このカーバイドカンテラは日本国内にあったもので、おそらくは明治の末期から大正初期にかけて国内に持ち込まれたものらしいのですが、正体がわからず、また炭鉱で使用されたカンテラではないため鈎の形状から旧ドイツ製ということはわかるものの入手以来3年ほど放り出していたものです。
 今回、ドイツ製カーバイドランプで画像検索して得た結論は、なんとウルフ揮発油安全燈の製造元であるドイツはフリーマン・ウルフ商会で製造されたNo.856というカーバイドランプらしく製造は1910年から1920年らしいのです。得体のしれないカーバイドランプがウルフの名前を冠することがわかって俄然興味が湧いてきたとは我ながらお恥ずかしい限りですが。
 形状は炭鉱用のウルフ揮発油安全燈と比べるといかにも無骨でデザインの美しさの微塵も感じさせませんが、そのメカニズムの秀逸さとして、本体タンク部分のロックシステムにあります。金具を引っ掛けて取っ手を起こせば本体とタンクが圧着して気密がたもたれる仕組みで、ネジで締め付けるものと比べるとその設計の巧みさはさすがはウルフ氏の手に掛かった灯火器という感じがします。この圧着システムは前製品のより効率的な改良システムです。
 材質もウルフ揮発油安全燈同様にスチール外皮ですが、ウルフ揮発油安全燈のように真鍮の中子は必要がなく、タンク部分は単なるカーバイトを格納するスチールプレス製圧力容器です。。この辺りは真鍮のプレスや鋳物の加工でしかカーバイト燈を製造できなかった明治から大正期の日本とは基礎工業技術の差を感じさせます。
このウルフカーバイドランタンはアメリカに輸出されたものが日本に再輸出されたのではないかと思われますが、このNo.856の時代にはちょうど第1次世界大戦が勃発し、炭鉱用のウルフ揮発油安全燈もこのウルフカーバイドランタンもアメリカへの輸出が止まってしまいました。日本でもウルフ揮発油安全燈同様に輸入が止まってしまい、カーバイドカンテラ本体の国産化が推進されるきっかけになったのでしょう。それ以後外国製のカーバイドランタンが日本で輸入・使用された形跡は残念ながらありません。
 入手先はたぶん群馬県内だったように記憶していますが、売主は舶来の油さし容器だと思っていたような。おそらくは防炎を兼ねた反射板を取り付けられるようになっていたのでしょうが、その取り付け金具のロウ付けがはがれて欠落してしまったようです。
 ちなみにドイツのウルフ商会では炭坑用に揮発油ではなくカーバイドを使用するカーバイド式安全燈も製造していました。しかし、灯油などと違って灯火器用カーバイドの入手はまだまだ困難な国が多かったためかまったく普及しないで終わってしまったようです。

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March 24, 2020

オリンピックの聖火を運ぶランタンはどこのメーカーの製品か?

 オリンピック発祥の地ギリシャから航空自衛隊松島基地に降りたオリンピックの聖火。 そのときにチャーター機から降り立ったランタンがどこのランタンであるか、売っていたらほしいなどというキャンピングランタンマニアがあれこれツィートしているのを見かけて少々WW

 あのランタン、英国製のトーマスウイリアムスなどの灯油使用の炭鉱安全燈レプリカではなくて、英国製Protector lamp & Lighting社のEcless揮発油安全燈Type 6のレプリカ、オフィシャルオリンピック仕様でしょう。 油壺のロックシステムの形状を見れば炭鉱安全燈マニアはすぐにわかるW もともと創業1873年の英国ランカシャーの安全燈メーカーだったのですが、Type 6は英国の鉱山保安局の検定を通った本物の炭鉱安全燈です。オリジナルは鉄製ボンネットの油燈Type6がいつのころからかボンネットを鉄から真鍮に変更したいかにもレプリカ然とした揮発油燈になったものを、どこかの会社が社名Protector lamp & LightingとEclessの名前を継承して製造しています。

 そのProtector & LightのEclessオリンピックランプはすでに30年ほどの採用実績があるようで、大会ごとに微妙に姿を変えているようですが、一貫して腰ガラス(明治の炭鉱用語)側面に鎖でつながれたプラグが付いていて、ここから火種を取り出せるようになっているのが特別仕様の証拠。 燃料は国内ではおそらくどこでも手に入るジッポのライターオイル(粗製ガソリン=ナフサ)を使用するのでしょうか?再着火のためのリライターシステムが付いており、なぜか外側からラックが刻まれたピンを差し込んでライター石のホイールを回すという特異なシステムを備えます。チャーター機から降りてきた大きなループ状の取っ手のついた安全燈と各地を巡回する炭鉱安全燈の姿そのものの真鍮フックが付いたものの2種類が使用されているようです。 実は、56年前の東京オリンピック時にギリシャから聖火を運び、各地を巡回した安全燈は当時の国産本多電気製(旧本多商店)の本物のウルフ揮発油安全燈と予備にハッキンカイロが使われたんだそうで。 今や日本国内でこんなものを作る機械も技術も継承されなくなってしまい、技術立国日本の聖火が国産安全燈ではなく英国製レプリカ安全燈だっていうのが少々釈然としないとは当方だけでしょうか。それだけ炭鉱技術という忘れ去られた負の遺産は顧みられないのでしょうね。

 なお、オリンピックマークなどをあしらったトータルデザインは吉岡徳仁さんというデザイナーさんらしいので、まったく同じデザインの物を入手するのは無理なようで。 

 ベースになったProtector & Lighting Co. Ecless Type 6レプリカは英国FOBで£299.00くらいらしいです。どうしても欲しい人は
https://www.protectorlamp.com/olympic-torch-relays/ 

に問い合わせてみましょう(笑)

Dvc00333


 

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November 10, 2019

高田式揮発油安全燈(炭鉱用カンテラ)Type Takada Flame Safety Lamp

Dvc00063-2    この見慣れない安全燈は札幌の白石区から出てきたものです。今ではスーパーBIG HOUSEになってしまったようですが、JRの白石駅と12号線の間に昔、石炭坑爆発予防試験場というものがありました。ここは大正時代初期に設置された福岡県の直方安全燈試験場改め直方石炭坑爆発予防試験場に続いて国内で2箇所目の試験場として昭和13年に開設されたものです。この試験場では実際にメタンガスを発生させて防爆実験を行っていたそうで、その危険性や爆発音が周囲に影響を与えないように当時は駅の南側が未開の土地だった札幌郡白石村に誘致されたものだそうです。その後この施設は昭和23年に北海道炭鉱保安技術研究所に変わったのち、北海道石炭鉱山技術試験センターという名称に最終的に変わり、平成13年度末で廃止されたとのこと。この白石区はそのような経緯もあり、炭鉱技術とは縁が深いのですが、よもやこんなものが出てくるとは夢にも思いませんでした。
 安全燈の名称は高田式安全燈、発売元は東京の東洋工業社とあります。形式的にはライター式の再着火装置が付属している普通型のウルフ揮発油安全燈で、下部リング部分に設けられたメッシュから吸気して上部の二重メッシュから排気するというのもウルフ揮発油安全燈のセオリー通り。最大の特徴は油壷やボンネットを含めた総アルミ製の安全燈で、紛れもなく坑内測量時に磁気コンパスを狂わせないという目的で製造されたものだと思われます。
 同時に空で1.6kgもある鎧型ウルフ安全燈に対して軽量化という目的を持っていたであろうことが見受けられ、なんとアルミ製の油壷部分には鋳造時からの肉抜き部分があって、一部は前後に丸棒が通るくらいの穴が貫通しています。当初この肉抜きは爆発予防試験場での構造試験のためにカットアウトされたものではないかと思ったのですが、ダイキャストの砂型成形時からこの部分の肉抜きが行われていたことがわかります。
  そこまでして軽量化した揮発油安全燈にはお目にかかったことがなく、そこまでするか?というのが正直な感想ですが、素材がアルミということもあって、燃料が入らない空の状態で鎧型ウルフ安全燈よりもなんと500gも軽量な1100gに過ぎません。ロッキングシステムはマグネットロックで、100均で売られているような強力磁石で簡単に解錠できました。給油リッドはカニ目ではなくマイナスドライバーで開けることが出来、芯の繰り出し方式や再着火装置はウルフ燈コピーの繰り出し式です。
 安全燈のボンネットにまるでモーターの銘板のような色気のない四角い銘板が貼り付けられていて、そこには歯車のなかに十字のあるマークと「専売特許・新案登録 高田式安全燈 発売元株式会社東洋工業社 東京」とあります。この発売元の東洋工業社はマツダの旧社名東洋工業とは何ら関係がないようで、マツダの東洋工業は大正末から昭和のはじめはコルクの製造を手掛ける会社だったとのこと。あといくつかの東洋工業を名乗る会社を検索してみたのですが、戦前からの会社は少ないようでした。
Dvc00054-2  また発売元とあるので、江戸商会の横田式安全燈のように製造はどこか別なところが行い、あくまでも販売代理店的な存在だったのかもしれません。表面が白いアルマイト処理を施しているようで、少なくとも製造してから80年ほど経過した現在でも表面に腐食などはまったく見受けられません。これが黄色いアルマイト処理だったら思わずヤカンと感じてしまい、ブサイクな安全燈に見えてしまったでしょう。
 年代的には白石に試験場が開設されたのが昭和13年ですからそれ以降に試験場に持ち込まれた試作品なのか、それとも研究用に直方の試験場から分けられたサンプルだったのかは判然としません。ただ、この普通型ウルフ安全燈というのは鎧型ウルフ安全燈に比べてやや気流に対して炎の動揺が激しいという直方試験場の試験結果から大正時代末には淘汰されてしまった形態のウルフ安全燈です。アルミの板を鎧型にプレス成形するのは当時としては難しかったとはいえ、普通型の安全燈を昭和に入ってから作る必要があったのかどうかというのが甚だ疑問であり、また大正末期から蓄電池式のキャップランプが大手炭鉱をメインに急速に普及し、坑内用の灯火器としての揮発油安全燈は昭和5年ころまでにその役目を終え、以後は鎧型のウルフ安全燈で吸気リングが付いたものが簡易メタンガス検知器としての用途で坑内で使われるだけでした。
 坑内測量もアルミの安全燈を使用せずともキャップランプは磁気コンパスに影響を与えないでしょうし、昭和に入ってさらに昭和10年代にこんな総アルミの軽量揮発油安全燈を作っても需要がなかったことは確かでしょう。しかし、市販されなかったであろう試作品が試験場に保管されてきたことでこのように日の目を見たわけですが、そうなるとまだ白石近辺にはまだこんな安全燈の埋蔵品がまだまだ転がっているかもしれません。ちなみにこの安全燈はリサイクル業を営む売り主の元に個人から持ち込まれたものだそうです。
Dvc00061  二重メッシュカーゼとオリジナルの腰ガラスが失われていて戦前ドイツのイエナ時代のショット社の腰ガラスが取り付けられていました。おそらくは実験中にオリジナル腰ガラスが破損したので、試験場に腰ガラスの強度試験サンプルとして転がっていた高価な舶来腰ガラスを間に合わせではめられていたようです。フランスの安全燈にはバカラ社の腰ガラス、ドイツの安全燈にはショット社の腰ガラスが使用されている例が多いのですが、ガラスの品質や加工精度など到底国産品が叶うようなシロモノではありません。この腰ガラスは初期の国産クラニー燈や初期の国産普通型ウルフ安全燈のようにガードピラーリング部分にバヨネット式に固定されるタイプでこの構造は本多商店製普通型ウルフ安全燈とまったく同じですが、「油壷との結合部分の気密性に難があり」という試験結果がすでに大正初期に出てますから、今更こんな構造で試験に出されても結果が芳しくないことはわかりそうなものですが。実際に実験に供された証拠としてボンネット裏側は煤煙で黒く煤けていました。
 腰ガラスから上の部分が欠品でボンネットと腰ガラスの間に隙間が開いて見栄えが悪かったので戦後の本多製ウルフ燈から部品を調達し、なんとか安全燈の体裁を整えましたが、本多のウルフ燈とガーゼメッシュ押さえのバネの形状が合わず、ここだけ流用不可でした。
 これがもし大正年間に直方試験場に提出された試験サンプルだとしたらまだ理解できるのですが、何せ銘板が左から右への箇条書きですから時代がぐっと下ったものであることがわかるというもの。
Dvc00060  ただ、この高田式安全燈というものが当初から船舶搭載用の備品としての防爆燈として開発したのであれば、アルマイトの防錆性もあり、海事用としてその存在価値は昭和10年代でも失われてはいなかったと思います。ただ、日中戦争が泥沼状態に突入し、太平洋戦争に向かっていったこの時代に民間需要用の軽合金の確保は難しかったでしょうし、それならば船舶用備品として逓信省から形式認定を受けた本多商店製ウルフ安全燈で事足りるわけですから、船舶用防爆燈としても商品として日の目を見なかったというのは想像できます。

 追記:夕張石炭の歴史村の資料館にこの高田式揮発油安全燈が陳列されています。ただ、いつの間にかピラー式ガス検定燈にプレートがすり替わってしまって展示されているようです。実際に坑内で使用されたようで、3番のペイント書きが油壺にほどこされていますが、そうすると製造年は昭和初期くらいまで遡るのでしょうか。ただ、油壺との結合に旧タイプの揮発油安全燈同様の問題があり、本多のウルフ検定燈の牙城を崩せず淘汰されてしまったのかもしれません。ただ、坑内測量で磁気コンパスを狂わせないという利点は否定できないため、帽上蓄電池灯が普及するまでのほんの短い間だけ試験的に使用されたのでしょう。そのため、やはり製造数は非常に少ないため、今に残っている数も少ないはずです。

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September 08, 2019

ウルフ安全燈型ライター(麻生創業100年記念品)

Photo_20190908092701  筑豊の炭鉱御三家の一人、麻生太吉が飯塚で炭鉱事業に着手してから100年を記念して昭和48年6月1日に飯塚で開催された麻生100周年記念式典で配られたと思しき記念品がこのウルフ安全燈型ライターです。当時の麻生本社は昭和41年に炭鉱事業から完全撤退し、麻生セメントを中核とする企業体勢に完全にシフトしており、麻生100年を節目として父親から現内閣副総理兼財務大臣の麻生太郎に麻生セメントの社長を譲るということが発表されていました。その後麻生太郎氏政界進出とともに麻生セメントを始めとする麻生グループの経営を弟に譲りましたが、現在の麻生グループはセメントなどの製造業よりも飯塚周辺に所有する広大な不動産を活用し、飯塚病院を始めとする医療や介護・福祉などのサービス業のほうに比重が移っています。
 その麻生100周年で配られたと思しき卓上ライターですが、本多のウルフ揮発油安全燈を模したもので、一見ブロンズ風に青い緑青風フィニッシュを施しているものの、その素材は鋳鉄の鋳物で、磁石が付着します。昭和48年当時、どこかのデパートの法人担当部に発注したとしても千円というわけにはいかなかったでしょうから、もしかしたら式典で配られたというよりも得意先に配るために作られたのかもしれません。そうなると桐の箱に入って5千円以上はコストが掛かっていたのでしょうか?
 安全燈油壷部分に「麻生創業100周年記念」の陽刻があります。
 このウルフ安全燈型卓上ライター、以前はたまにオークションなどでもたまに見かけたのですが、最近はまったく見つかりません。そういえば炭鉱業時代の麻生産業本社は炭鉱坑内にならって社屋全面禁煙で休み時間には屋外に出ないと喫煙出来なかったそうです。それがいつまで踏襲されたのかはわかりませんが、炭鉱業から撤退し、いまだに喫煙者の麻生太郎氏が社長になるに及んで社内は喫煙おかまいなしになったのは想像に難くありません(笑)

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August 31, 2019

半纏・志ん宿十二社いずみ(新宿区熊野神社祭礼)

Photo_20190831134301 Photo_20190831134302  背中に大きく志ん宿十二社(しんじゅくじゅうにそう)と染め抜かれた、半纏襟にいずみという表記のある熊野神社祭礼用の長半纏です。十二社(じゅうにそう)というのは東京でも難読地名の一つですが、現在は西新宿4丁目という住所表示になっています。十二社界隈にはその昔、熊野神社の境内に大きな滝があり、それに付随して大小の池(そもそもは農業用のため池だったという)があって江戸の時代から景勝の地だったという話です。熊野神社は室町時代の応永年間に紀州出身の商人、鈴木九郎によって熊野三山の十二所権現全てを祭ったのが十二社の名前の始まりといわれています。その十二社池の畔は今でいう江戸っ子のちょっとした行楽の地となり、やがて茶屋や料亭などが立ち並び、花街として最盛期には100軒の茶屋や料亭がひしめいていたとのこと。
 その十二社池も新宿副都心整備の一環として昭和43年に淀橋浄水場などとともに埋め立てられてしまったようで、現在は池に向かって道路がわずかに傾斜している地形でしかその痕跡をたどる事ができません。今でも十二社通から一歩入ってしまうと少し時代が止まってしまったような路地が現れるようです。それが西新宿のビル群とのコントラスト深めています。
 実は当方、れっきとした元新宿区民で、新宿区で成人式に出席しています。成人式の講演は生活の知恵などでおなじみのNHKの酒井広アナウンサーと当時ナナハン師匠だった現人間国宝柳家小三治師匠でした。住んでいたのは柏木と呼ばれる北新宿なので、熊野神社のテリトリーからは外れてしまうのですが、西新宿には今でも何となく郷愁を感じてしまいます。
 現在、熊野神社の春と秋の例大祭には熊野神社氏子の町神輿が13基出るようで、それぞれの睦が存在するらしいのですが、昔から13睦なのか、いつの時代から町会が統合され、13睦になったのかはわかりません。十二社のいずみという睦がいまでもちゃんとあるのなら申し訳ないのですが、やはり十二社界隈の居住人口減少と高齢化で十二社宮元に統合してしまったのでしょうか?いちおう現在の13睦は十二社宮元、角三、西新宿、角一東部、西新宿1丁目、角一南部、歌舞伎町、欅橋、柳橋、淀橋宮本、谷中、元淀、新宿西口でしょうか?角は「かく」ではなくこの界隈の旧名角筈(つのはず)の「つの」ですので念のため。
 この十二社いずみの半纏はけっこう厚くて立派な生地が使用されている長半纏です。いまのように多色染めというわけではなく紺の木綿地に白染め抜きですが、時代的には昭和30年代から40年代くらいでしょうか。このころはまだ西新宿の各商店街も賑わっていたでしょうし、居住人口もまだまだ多数あったのでしょうけどその時代は知りません。でも当方が新宿に住み始めた昭和53年頃は京王プラザホテルの西側にはまだ高いビルは一棟もありませんでした。

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August 30, 2019

半纏・アツミ自転車(渥美自転車製作所:台東区)

 Photo_20190830124101 Photo_20190830124102 アツミの自転車と表記のある自転車メーカー渥美自転車製作所の割と長めの半纏です。時代はおそらく昭和20年代後半から30年くらいに掛けてのものだと思います。自転車メーカーの半纏というのは意外に種類が多く、というのも当時の町の自転車屋さんは普段着に半纏を引っ掛けてパンクの修理などの作業をしていたのでしょう。今は自転車生産から手を引いてしまっている日米富士自転車や片倉工業、水谷自転車、ツノダ自転車、宮田自転車、ブリジストンなどの半纏もあり、酒屋半纏同様ある一定のコレクターが存在するようです。このアツミ自転車は東京の台東区に存在した当時ですから丈夫な実用車のメーカーで、おそらくはフレームだけ自社製造でその他のギアやチェーン、ブレーキはハブ、タイヤやスポークは専門部品メーカーから仕入れるいわゆる組立工場だったのでしょう。ところが昭和30年に近づいた頃、何とオートバイに手を出してしまいその後資金繰りに窮したのか倒産してしまったようです。自転車メーカーは本田の赤カブ(補助エンジンの方)やビスモーターのように原動機を自転車に着けた時代から本格的にオートバイとして設計された物の時代が来たのを好機と見て、オートバイに進出するところが多くありました。その結果はアツミ同様に山口自転車は倒産、宮田、日米富士や片倉は早々に撤退、ブリジストンは輸出のみという形で粘りはしましたがオートバイから撤退しています。その原因は少なからず本田のスーパーカブ発売が原因なのでしょう。キャノンのキャノネット発売で弱小カメラメーカーが次々に倒産に追い込まれたのと同様です。
 まあこのアツミ自転車は「自転車屋がオートバイに手を出して成功したところなし」を地でいったような会社ですが、そのオートバイの存在は手元の資料ではもう30年以上前に八重洲出版から出版されたモーターサイクリスト別冊国産モーターサイクル戦後史に掲載されていたと思い、今回探してみましたが見つかりませでした。
 しばらく前であれば古典自転車マニアの人がアツミ自転車の紹介をしている頁に行き当たったのですが、現在は自転車の頁は閉鎖されてしまったようで、謎のオートバイとしてアツミオートバイを公開している人の頁にしか行き当たりません。
 この半纏は東北方面から入手したものだったため、おそらくは関東を越えて東北方面にも自転車はシェアがあったのかもしれません。黒木綿の半纏で腰模様がローマ字というのが洒落ています。背模様はおそらく前輪の大きいオーデイナリー型自転車の前輪にアルファベットのAのデザイン文字があしらわれたもののようです。半纏のデザインとしてもなかな秀逸なデザインだと思います。もっとも自転車は商店で配達に使用するようなごつい実用車でしたが。

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August 29, 2019

半纏・朝日鷹(高木酒造:山形県村山市)

Photo_20190829121101 Photo_20190829121201  山形県村山市は実は母方の実家があり、その実家の所在地だった大字名取の最上川を挟んで北西の方向にあるのが富並という古くからの稲作地域です。その富並に江戸時代初期から綿々と続く酒造会社が高木酒造です。朝日鷹を商標にした酒で、ごく地元の配達出来る範囲に直売するくらいの規模のいわゆる地酒の醸造元だったのですが、25年程前に十四代という銘柄の日本酒が日本酒マニアに大好評を博し、一気に全国に名前を轟かすことになった酒造会社です。その人気ぶりは山形県内から小売価格で十四代をかき集め、倍以上のプレミアム価格で売るというようなブローカーが暗躍し、地元でも手に入らないという現象が生じました。実は当方の母方の伯父が地元の税務署勤務で、酒税担当ではないものの高木酒造の13代目、14代目はよく知っているという話でした。当方千葉の成田近辺に在住の時は電車で品川まで出てからわざわざ東急の武蔵小山に立寄り、酒屋のかがた屋さんに立ち寄って十四代の一升瓶を2本抱えて目黒線、大井町線、田園都市線から横浜線に乗り換え、山形を引き払って町田在住だった伯父の所に行き、よく十四代を酌み交わしたものです。そのときに高木酒造に関する話も聞きましたが、13代目を高木の親父、14代目を高木の息子と称していました。高木の親父が村山市長選に立候補したけど落選したとか、村山で最初にクラウン買ったのは高木の息子で、楯岡から天童の税務署に出張するときたまたまそのクラウンに便乗させてもらったら雪で滑って雪山に突っ込んだとか、そんなような与太話ばかりです。その大正14年生まれ伯父も亡くなって今年で7年も経ち、そんな話を聞きながら酒を酌み交わしたのも昔話になりました。
 この高木酒造の半纏はまだ十四代ブランドが確立する前のおそらくは昭和末期くらいのものではないと思っています。今は十四代の半纏しか作っていないのでしょうか。酒屋半纏には珍しい茶色のメクラ縞半纏で、なんか遠目には丹前生地にも見えてしまいますが(笑)
 表の半纏襟には清酒朝日鷹の染め抜き。裏は清酒朝日鷹の文字が黄色い起毛印刷で描かれています。

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半纏・金滴(金滴酒造:樺戸郡新十津川町)

Photo_20190829093701  樺戸郡新十津川町にある金滴酒造の半纏です。
新十津川町は明治22年の奈良の十津川郷の大水害で被災した人たちが移住して築き上げた開拓地でした。十津川郷の人たちは古くから朝廷に仕えており、南北朝時代に南朝を支えた関係で十津川郷士として特別な地位を与えられ、幕末には朝廷警護のお役を賜ったほど勤王の志厚く、明治になってからも全員が士族身分となった由。明治22年8月の大水害は台風がらみの大雨で十津川(熊野川)の流域の山腹が崩れてあちこちで天然ダムが形成され、その決壊による大洪水で甚大な被害を生じたとされています。このとき、十津川郷の復旧には30年は掛かるだろうなどといわれるほど地形も変わってしまい。十津川郷6か村内の戸数2403戸の約1/4、610戸が被災、同年10月に被災者2489人が北海道に移住。翌明治23年6月に600戸2489人が石狩川支流の徳富川流域のトック原野に開拓に入ったのが新十津川町のそもそもの始まりです。未開の原野の原生林を切り倒し、耕地として整備し、米が取れるようになるまで10年は酒を飲まずに開拓に従事するという誓いを立たそうです。一面の水田地帯にするまでは並大抵の苦労ではなく、その辺りは昔のNHKドラマ「新十津川物語」にもなるほどでした。入植から10年を経て、やっと稲作の目処が付くようになりましたが、度重なる石狩川の水害、害虫の大発生などの災害にも見舞われながらも一大稲作地帯としての基盤を固めて行ったそうです。
 そのような開拓の歴史の中で明治39年に主に十津川郷出身者90人の出資により創立したのが金滴酒造の前身の新十津川酒造で酒名は徳富川でした。他の酒造会社というのはたいてい地元資産家の個人経営の酒蔵が殆どですが、こちらは最初から地元出資者による株式会社組織の会社でした。大正7年に増資したのを機に酒名を金滴、銀滴、花の雫に変更。金滴はピンネシリ山から流れる砂金のイメージから命名したもので、これが今に続いています。戦時中昭和19年には企業整備法で他の3蔵を統合合併し、存続会社となり、戦後の昭和26年に現在の金滴酒造に社名変更し今に至ります。金滴酒造は2008年に売り上げ不振から負債6億円余りを抱えて札幌地方裁判所に民事再生法の適用を申請。千歳鶴の日本清酒の支援が入り、社長が元道議会議長、取締役が元日本清酒役員の新体制で2009年4月に再建計画が裁判所で承認され旧資本全額減資のうえ1社7人の新たな出資1500万円で再建着手。その翌年に迎え入れられたのが現上川大雪酒造の川端杜氏です。川端氏は北海道産酒造米の吟風を使用していきなり2011年の新酒鑑評会で金賞を獲得。普通酒の生産がほとんどで、取立てて日本酒通の話題にも上る事もなかった金滴の名を一躍有名にしたのですが、川端杜氏は2014年の11月の取締役会で突然他の従業員数名とともに解任されます。この辺りの話は憶測が憶測を呼んでいますが、会社側は円満退社、川端氏側は解雇というように考えており、杜氏は以前の小野寺氏が復帰したとことでした。
 その金滴のメクラ縞半纏ですが、実際に仕込みに従事したことのある蔵人さんの持ち物だったのでしょうか。男山の半纏と一緒だったものです。かなり着古されたもので襟の上などぼろぼろになってます。普通の酒蔵は蔵じまいのときには蔵人に新しい半纏と帆前掛を配るのがしきたりだったとのことですが、よっぽど資金に余裕がなかったのでしょうか(笑)
 なお、半纏裏には背文字等ありません。

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