February 11, 2017

前川合名会社教材用クラニー灯

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 これは炭鉱とはまず縁の無い岡山の津山から手に入れたクラニー灯ですが、実は最初から炭鉱用として作られたものではなく、学校教材用として作られた種類のクラニー灯と目論んで入手した代物です。学校教材と炭鉱用安全灯とは関連性がよくは浮かびませんが、物理化学の分野で網のなかの炎に外部の可燃性ガスが引火しないというハンフリー・デイヴィーの実験成果の検証でもしていたのかもしれません。もっとも過去に入手した学校教材用と思われる本多のデーヴィー灯は実際に火をつけた形跡も無く、富山の統合されて今はない高校の備品ラベルが付いていた本多のクラニー灯にも火をつけた形跡も無いため、おそらくは教科書だけではなく現物がこうであるという「形あるもの」を見せて実際には実証実験をしないで終わってしまったのではないかと思われます。

 本多製のデーヴィー灯もクラニー灯も一度は明治時代に実際に炭鉱の坑内で使用するために作られた本物ですが、世の中には教材用として作られた実際の坑内ではあぶなくてとても使用に耐えないような安全灯が存在します。おもに大阪の教材メーカーが大阪市内の安治川あたりの船燈製作所に作らせたもので、確認しているところでは大阪寶文館(ほうぶんかん)機械店とこの前川合名会社の2社です。
寶文館機械店は現在大阪の北区大淀中に宝文館機械株式会社として盛業中ですが、この前川合名会社は戦前の南区塩町通(現中央区南船場)に存在した総合教材商社だったものの戦後の情報がないため、おそらく戦災で廃業したものと思われます。他にも教材用の安全灯を製作していたところもあったかもしれませんが、関東のほうでは本多商店製作のちゃんとまともな旧型デービー灯やクラニー灯が教材用として出回っているのに対し、なぜ大阪がこういう教材用の安全灯モドキをわざわざ作らせていたのかが謎です。
 考えるに昭和に入ってからは本多商店あたりでも明治の安全灯をわざわざ小ロットの発注には応じてくれなくなり、防爆性能は怪しくとも学校の実験程度には使用できる安価な安全灯を安治川近辺の船灯業者に作らせたということなのでしょう。その教材用安全灯が一種類だけではなく今のところ異なる教材会社による二種類が存在し、仕様も構造も共通ではないという事も特筆されます。おそらく別々の船灯製造所で作られたものなのでしょう。
 
 この前川合資会社というのは戦前昭和13年ごろに発行した学校向け教材の目録をネット上で目にすることが出来ますが、ありとあらゆる理科実験器具や運動用具とともに学校教練用の歩兵銃や機関銃などというものもあり、実際に軍から払い下げられた廃銃のサンパチ式のほかに教練用にわざわざ作られた銃などもあったようで、サンパチ式の教練銃が30円の値段をつけているのが目を引きました。それ以上の情報はネット上でもうかがい知れず、大阪空襲後にどうなったかのかも判然としません。塩町通が南船場のどの辺りに位置するのかはよくはわからないのですが、昔の取引先が松屋町筋にあって何度か心斎橋の駅から松屋町筋まで歩きましたので、その道すがらだったのでしょうか?資料によると戦前塩町通には名前どおりの塩屋ではなくなぜか砂糖問屋が多かったとのこと。いろいろ塩町通を調べてみましたが、やはりこの界隈は昭和20年3月13から14日の大阪大空襲で殆どの建物が壊滅してしまい、古い建物は鉄筋コンクリートの一部のものしか残っていないそうです。このときの空襲の模様はNHK朝ドラの「ごちそうさん」の中で地下鉄心斎橋の駅に逃げ込んで地下鉄電車で梅田に避難し難を逃れるというエピソードで見たことがあります。
 この前川の教材用クラニー灯は腰ガラスに部分が寸詰まりでメッシュガーゼ部分が長いために一見して不恰好です。通常の本多クラニー灯の腰ガラスが外国のものの寸法を踏襲しているため約5.8センチ超の高さがあるのにくらべてわずか3.8センチしかないのが原因です。またガーゼメッシュの部分のガードピラーが3本なのはまだ許せますが、腰ガラスのガードピラーも3本しかなく、どのクラニー灯でもこの部分は5本のガードピラーを使用しているため、教材用とはいえ実用のクラニー灯とは異なります。また、本来分解されないための安全灯なのに外に露出したナットを外すことによって分解可能で、またロック機構がありません。ガーゼメッシュは二重ですが吸気は一枚メッシュのところから内部に入り、排気はミュゼラー式のような金属のチムニーではなくメッシュのチムニーを通って二枚のメッシュを通して抜けるというマルソーでもない変な方式です。芯の繰り出しはウルフ灯のように丸いノブが付いているので繰り出し式かと思いきや、ウィックピッカーで引っ掛けて芯を上げ下げする前時代的な方式です。時代が下っているだけに本多のデーヴィー灯やクラニー灯のように種油を使用するものではなく灯油が使えるタイプだと思います。

 学校では実験器具扱いだったようで、実験器具にふさわしく総クローム鍍金仕上げになっています。元はおそらく顕微鏡のように個別の木箱にでも入れられていたのでしょうか。

 内陸の津山市から出てきたものですが、この手の安全灯は考案者ハンフリー・デービーの発明として教科書で扱われていたためか底に備品名「デーヴィー氏安全灯」と書かれたラベルが貼付けられていました。

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September 01, 2016

CEAG炭鉱用蓄電池式防爆安全灯(炭鉱用カンテラ)

160831_094935  英国シーグ社の炭鉱用蓄電池式防爆安全灯、あちらのカテゴリーによるとインスペクションランプと呼ばれるものです。炭鉱の坑内での設備点検などに使用された手提げの携帯電灯ですが、メタンガスなどに引火しないように中が完全にシールドされ、万が一中でスパークなどが発生しても外部のメタンガス等に引火しない構造になっています。
 その仕組みは灯油や揮発油を使用する安全灯に比べれば簡単なものですが、万が一ランプのガラスが破損して電球を壊した際には直ちに電球の回路を離断して電球のフィラメントがメタンガスに触れない構造が必要です。

 日本ではこの手のインスペクションランプはキャップランプの蓄電池とランプの本体を合体させた弁当箱にキャップランプが付いているようなインスペクションランプしかありませんが、外国では吊り下げの蓄電池式安全灯が最初に使用された関係で筒型の蓄電池が存在し、そのためにインスペクションランプもこれを流用した筒型のものが作られています。
 炭鉱用の防爆蓄電池灯としてはスウェーデンのNIFE(ニッフェ)社とイギリスのCEAG(シーグ)社が有名で、個人もちの坑内用灯火としては1920年代から徐々に石油安全灯や揮発油安全灯に取って代わられました。筒型の吊り下げ蓄電池灯は中の蓄電池も筒型ですが、液槽は一つのみで、二つの電極が壁面のカーブにあわせて湾曲しており、鉛蓄電池ゆえに電圧は2Vです。キャップランプの蓄電池は鉛蓄電池式は2層構造にするため角型で4V、アルカリ蓄電池式は2層型で2.5Vの公称電圧でしたのでそれより低電圧の蓄電池を使用したものです。ちなみにシーグは鉛蓄電池式でニッフェはアルカリ蓄電池式でした。さらにウルフも比較的に早くから蓄池式安全燈を発売していましたが、こちらもアルカリ蓄電池式です。

話は英国製蓄電池灯から脱線しますが、昭和23年に発行された「電気安全燈の理論と実際」という本を偶然入手しまして、当時の紙不足のおり、大変に紙質が悪く70年ほど経過した今では崩壊しそうな本なのですが、この本の著者が長年三井三池炭鉱の安全燈係として勤務されてた方ゆえに歴史から理論、日常の取り扱いにいたるまで実に詳しく書かれた蓄電池安全燈の参考書です。
 その蓄電池安全燈の歴史の中で、蓄電池式安全燈を使用したのは三池炭鉱のような大炭鉱ではなく、実は大正2年にガス爆発事故で423人の犠牲者を出して経営が傾いた石狩石炭の新夕張若菜辺坑を買収して設備面のてこ入れを図った北海道炭鉱汽船により大正9年7月にエジソン蓄電池式安全燈100個を導入したのが嚆矢だったそうです。しかし、この新夕張炭鉱はガス気が多く危険なヤマでその後も小さな事故が続き、設備投資の割には収益が上がらず、早くも昭和6年に閉山させてしまったようです。その大正9年から10年にかけて北炭系の夕張本鉱、空知鉱などに使用が広がり、九州では三池炭鉱が大正12年12月にエジソンD型蓄電池安全燈が600個導入されたのを皮切りに大正13年から14年にかけて高島、方城、鯰田、新入、上山田の三菱系炭鉱と豊国などの明治系炭鉱、田川などの三井系炭鉱でもエジソン式蓄電池燈が導入され、揮発油安全燈から電気安全燈へのシフトが広がっていったそうです。わが国では手提げの蓄電池安全燈はまったく使用がひろがりませんでしたが、唯一本多商店より手提げの蓄電池安全燈が製作されたようです。160831_095125  大正から昭和にかけての工学博士で採鉱学という著書のある永積純次郎によるとシーグ、ニッフェ、ウルフの各手提げ蓄電池安全燈の比較で「シーグ燈は此種の電燈中構造最も完備し、且つ製作優秀なるものとせらる」と記しています。どうやらこれは個人の感想ではなく誰かの受け売りのような感じですが、確かに真鍮のダイカストとプレスを組み合わせた部品構成は精度が高そうで、また落としたりしたところで何の不都合もないような安定感が感じられます。しかし鉛蓄電池を使用していることで鉛の電極や電解液の希硫酸の重量もあり、インスペクションランプでは鉛蓄電池の電解液抜きで2.2キログラムという超重量級です。これはウルフ揮発油安全燈の1.6キロをはるかに上回ります。坑内で分解されないように電球部分と取っ手のついた蓋の部分がリードリベットロックになっていています。さらに蓋の部分を30度ほど回転されると鉛蓄電池の電極の導通が切れて消灯、取っ手の部分を正位置に回すと鉛蓄電池との導通が出来て点灯するというスイッチになっていて、鉛蓄電池の電極にはスプリングが仕込んであるプランジャーになっています。この仕組みは外部と完全に隔離されていて独立したスイッチも設けることも要らずシンプルで良いアイデアだと思います。
 このシーグのインスペクションランプはある種の揮発油安全燈がそうであったように船舶の搭載品として日本にやってきたようで、出所は国際貿易港の神戸からでした。時代的のは1940年から1950年代くらいの代物で、インスペクションランプの形態としてはセカンドタイプになるようです。届いた当初は酸化皮膜で真っ黒でしたが極力パーツを分解してバレルと蓋だけにし、酸性溶液に3時間ほど浸したのちにブラシでこすり洗いし、磨き上げたのがこの状態です。ブラスウエアとしても相当な異彩を放っており、机の上に置いておくだけでも部屋の雰囲気が変わります。入手価格はたったの1k円です。少し前まで中の蓄電池のないシーグのインスペクションランプがオクで半年以上も再出品を繰り返していましたが、やっと最近落札された価格は8k円でした。


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August 31, 2016

COSSET DUBRULLEミュゼラー式安全燈(炭鉱用カンテラ)

160831_094809  フランスの北部、ベルギーとの国境を接するノール=バ・ド・カレー地域圏は古くから石炭資源に支えられた重工業が発展してきました。その重工業の発展とベルギーに隣接するという地理的な要因で両大戦ともにドイツ軍の侵攻ルートとなり、第一次世界大戦では一帯が主戦場となってしまうという不幸な歴史も抱えています。そのベルギー国境をまたいだ炭鉱地帯はイギリスの炭鉱と比べてメタンガスの量が多く、古くからガス爆発事故が多発していましたが、そのためイギリスに先駆けて安全燈の改良が進み、クラニー燈を改良したミュゼラー型安全燈やマルソー型安全燈、ガス検知燈としてのセノー型ガス検定燈などはすべてフランスで開発され、それがイギリスでも普及していたものです。しかし、ドイツで考案されたウルフ揮発油燈の登場によってフランスでも1910年代以降は油燈から揮発油燈に変化してゆき、その後蓄電池式安全燈に世代交代していったのは諸外国同様です。
 以前、札幌から入手したARRAS製の揮発油燈はフランスからのアンティーク雑貨類に混じっていたということでしたが、明治時代からの文献をいろいろ調べてみてもフランス製の安全燈を輸入しようとした動きはありませんでした。思うに安全燈の導入初期がちょうど三国干渉の時期と重なり、三国干渉に中立だった米国や英国から調達できる物品をわざわざ三国干渉の当事国であるフランスからも選択する必要を認めなかったということだったのかもしれません。もっとも臥薪嘗胆のスローガンの矛先は、遼東半島を獲得して極東艦隊を旅順港に送り込み、日本ののど元に飛び出しナイフをちらつかせた帝政ロシアに向けられることになりましたが。そのため、安全燈に関する明治期からの技術書や試験などの記録をいろいろ探してもミュゼラーやマルソーならびにセノーがフランスで開発されたことは記されているものの、実際のフランス製安全燈を扱ったものは見当たりませんでした。
 今回入手したちょっと変わった形の油壷を持つ安全燈はフランスからの雑貨に混じって日本にやってきたCOSSET DUBRULLEというノール=バ・ド・カレー地域圏の工業都市リールに存在した会社の製品で、形態的には初期のミュゼラータイプの安全燈になります。
ガーゼメッシュが一重で、その中に金属製のチムニーが入っている構造の典型的なミュゼラー式安全燈で、年代はおそらく1870年代から1880年代にわたって使用された大変に古い安全燈です。焼き物ではありませんが高台付きの油壷で、その真ん中に芯をネジ式に上下するためのノブが鎮座しています。下からロックボルトをねじ込んで施錠するタイプのロックシステムが付いていたらしいのですが、プレス製のガードピラーリングの中身のメカが欠損していてその構造がどうなっていたか確認できません。また油壷と結合できないためにカーゴピラーリングからネジで仮止めになっていました。そして腰硝子はえらい気泡のたくさん入ったものが装着されていましたが、割と早い時代に廃品になった腰硝子の欠損したランプの体裁を整えるために何かのビンをカットしてはめ込んだものらしいです。唯一フランス的だと思ったのは芯押さえの金具が鰐口状になっていて、そのギザギザで平芯を押されているため、芯の交換が簡単だということくらいでしょうか?芯は底のつまみを回して繰り出す方式になっています。普通切られているは油壷とカードピラーリングの双方にまったくネジが切られていないため、おそらくはカードピラーリングの中身と油壷をロックボルトで結合し、それがロックシステムを兼ねるというような構造だったのかもしれません。まあ欠損だらけで資料にもなりませんが、ここまで古い安全燈に、しかもフランス製にお目にかかることもそうはないので、いちおうコレクション入りだけはしてしまいました。形態的にもフランス以外では見かけない特徴のある安全燈です。そのデザインはルノー・4やシトローエン・2CVにつながるようなフランスのインダストリアルデザインの粋を感じさせます。

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August 25, 2016

小柳式安全燈(炭鉱用カンテラ)Type Koyanagi's Flame Safety Lamp

160825_132136   明治から昭和初期までの外国に比べて短かった日本の炭鉱用安全燈の歴史において、小柳市太郎の経営していた小柳金属品製作所の安全燈はまったく知られていない安全燈の類だったようで、各地の炭鉱博物館でもその姿を見たこともなく、数年前に三池炭鉱の大牟田から発掘されるまで炭鉱技術系の文献にもまったく載っていない世の中にも知られていない幻の安全燈でした。当方、それ以前から日本人が安全燈で欧米の特許を取得していたことは知っていましたが、それが現実に製品化されていたことはぜんぜん知りませんでした。
 参考資料や手がかりもまったく無かったために国会図書館の資料や神戸大学のデジタルアーカイブ中の新聞記事などを調査した結果、この小柳式安全燈の小柳金属品製造所は、どうやら大正6年ごろに経理担当者の運転資金使い込みによる背任横領が発覚して資金繰りに窮して事業を停止し、出資者によって設備その他を差し押さえられたことによってこの小柳金属品製造所は地上からも歴史からも消滅してしまったであろうことを知りました。そのあたりの詳しいことは前回大牟田から入手した小柳式安全燈のときに詳しく書きましたので割愛しますが、当時渡船でしか渡ることの出来なかった佃島の石川島造船所のそばに従業員20名くらいの小工場を構えていたのが小柳金属品製作所です。現在は大川端リバーシティー21の敷地に呑み込まれているのではないかと思います。
 何せ前回と今回の2個の残存個体しか見たことが無いので全容はいまだ謎に包まれている小柳式安全燈ですが、経営者小柳市太郎によって早くも明治の末期にバーナーデザインとロックシステムの国際的なパテントを取得していることが特筆されます。しかし、いまだにその公開特許の内容を精査できていないため、いったいどういう特許だったのかはわかっていませんでしたが、今回ロックが開錠されてバーナーが原型のまま出てきた小柳式を入手したことによってその概要が判明しました。

 入手先は炭鉱とは縁の無い都内の質店が営む「ペン先からロケットまで何でも買取り」というリサイクルショップがオクに出品したものでした。どういう経緯で持ち込まれたか来歴をたずねたのですが、質屋という信用がものを言う商売柄か、残念ながらやんわりと無視されてしまいました。しかし都内といえども戦前の炭鉱に勤めていた炭鉱技師のOBは都内に戻ってきて居を構えている例が多く、山下洋輔氏のご父君も三井の炭鉱技師ですし、下北沢在住の知り合いの祖父も三井の炭鉱技師で、山野炭鉱の鉱長まで務めていたという話しでした。そういう炭鉱技師OBが炭鉱の象徴としての安全燈を記念に持ち帰り、それから何十年も経過した後、なにも知らない子孫が屋敷の建て替えで家財とともに処分してしまったものがリサイクル業者の手によりオークション上に出回るということはあるのでしょう。 160825_132315_2  
 届いた小柳式安全燈は以前大牟田から入手したガス検定用と思しき特殊なものではなく、明かりとして使われた通常型の安全燈です。ロックのかみ合う部分が切断されて開錠されていたため、かみ合う部分がどういう形状だったかはわかりませんが、油壷からスプリングで押し上げられたプランジャーが下部ガードピラーリング底面の穴に結合してロックするシステムで、同様のロックシステムは英国のアーネスト・ヘイルウッドが考案してアイクロイド&ベスト社名でパテントを取った油壷下部から磁石を当てて開錠するものがありますが、どうやらこちらは上部から同極の磁石をガードピラーリングに押し当てて反発力でプランジャーのかみ合いを解除するタイプの磁気ロックシステムなのかもしれません。燃料は灯油なので平芯ですが、英国などの油燈安全燈の芯はハーフインチですから約4分芯なのに対して当時の家庭用吊りランプ同様に5分芯です。芯の上げ下げはウィックピッカーという針金の鉤で上下させるものではなく油壷下部のネジを回して繰り出す割と近代的なタイプですが、バーナステムの中の芯押さえの横にラックを刻んであって、底ネジシャフトに固定されたウォームギアの回転によって芯を繰り出すというまったく凝った方式です。この個体には燃焼効率を上げるためか側面に穴がたくさん開いたフード状の導風板が付いていて、白いので陶器かと思ったら瀬戸引きのプレスで作られたものでした。以前大牟田から入手したものはガス検定用に基準炎を作り出すためかこのバーナーキャップは付いていませんでした。燃料の補給は本多式ウルフなどと同様にカニ目回しでネジを外して燃料を補給するタイプで、灯油用のため揮発油燈のように油壷に中綿がつめられておらず空洞です。しかし、油壷の給油口が漏斗状になっていていちいち漏斗をあてがわなくともビンにでも入れた灯油をそのまま注くことが出来るというアイデアは他に例がありません。ガーゼメッシュは二重になっていましたので、形態的にはマルソー式安全灯ということになります。 160825_132334_2  この貴重な小柳式安全燈はロックシステムの意味も構造も理解していないようなランプコレクターの手によって破壊的な開錠を試みられたため、ガードピラー4本の上部が切断されボンネットが分離しています。それで開錠できるわけもなく、結局は油壷と下部ガードピラーリングの間に薄い刃物をあててプランジャーのかみ合う部分を切断して分解に成功したというな無残な個体でした。さらに動かない繰り出しネジのつまみを無理やり回して軸をねじ切ってしまっています。それほど坑内で使用されないうちに引き上げられたようなきれいな個体だっただけに、素人の手にかかって資料としての価値が落ちてしまったのが至極残念でしたが、接着剤でつなげられたガードピラーは真鍮の丸棒ですから受けの部分も含めてISOのネジを切りなおして近々新しく製作することにします。油壷とガードピラーリングのナンバーは1029番とマッチングでした。以前の三池炭鉱で使用された小柳式の検定燈が1351番でしたが、このナンバーの書体と級数がまったく同じなので、おそらくは同じ福岡は三池炭鉱の坑内で一度は使用された三池炭鉱の遺物の可能性が高いと思われます。
 しかし、さすがに国際的にパテントを申請しただけあってバーナーの芯の繰り出しにラック&ウォームギアを使用しただけでも小柳市太郎の非凡な才能を感じさせますが、明治の末に自社工場でウォームギアを切り出す工作が可能だったとすると、この小柳金属品製作所は対岸の本多船燈製造所などと比べものにならない高い工作技術を持っていたことになります。ただし、英国を除いて世界的には灯油の安全燈から揮発油安全燈に急激にシフトしていた時期にあたり、日本も例外ではなく本多船燈も江戸商会もほぼウルフ揮発油燈をまるパクリして大量に販売していった波に飲み込まれて、この独創的な小柳式安全燈は旧式油灯の烙印を押されて日本の炭鉱からは淘汰され、炭鉱技術史からもその存在さえ無視されたのでしょうか。国際パテントナンバーを記載した大きな銘盤はイギリスの安全灯を意識してのことででしょうが、おそらく小柳市太郎はアイクロイド&ベスト社の天才安全灯考案者のアーネスト・ヘイルウッドの存在を知っていて、ヘイルウッドに対抗して新しい油灯式安全灯の開発に情熱を注いでいたのかもしれません。
160825_132418_3 三池の宮浦鉱らしき明治期における安全燈整備風景の画像がネットにアップされていますが、そこに大量にならぶ安全燈が揮発油燈のようでいてどうも平芯の油燈に見えて仕方がありません。油灯式の旧普通型ウルフ灯かもしれませんが、これが小柳式のマルソー燈だとするとある時期には三池炭鉱には小柳金属品製作所の安全燈がたくさん入っていたものの、明治の末にはドイツのザイペルあたりの揮発油燈が入ってきて早々に淘汰されたということなのかもしれません。

 それで結局ガードピラーを作って交換し、完全な安全灯の姿に再生するまでに1年と2ヶ月掛かってしまいました。小ロットの材料調達が東急ハンズも何にもない田舎では難しく、また、本来分解することが出来ないように作ってある安全灯をどのように分解してガードピラーを付替えるかという工程に自信が持てなかったということもあって手がつけられなかったのですが、リペットの頭をやすりで平らにしてポンチを打ち、ドリルを当ててリベットの頭をさらうとボンネットが分解出来そうだという確信が生まれ、これが成功したことで大方80%ほどの技術的な問題がクリアできた感じでした。本来は小型の旋盤とボール盤くらいないととても出来ない作業ですが、金切ノコ、ハンドドリル、やすり、タップ&ダイスおよびハンドリペッターのみでやり遂げた部品製作および再生作業でした。
 

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July 07, 2015

教材だったクラニー安全燈(炭鉱用カンテラ)

150706_083836  一度も坑内に下がったことのない本多船燈製造所製のクラニー安全燈おおよそ明治30年代の製造品を入手しました。以前北海道の深川の4代100年以上続いた農家の納屋から出てきた同じく本多船燈製造所製のクラニー安全燈を入手していますが、そちらは実際に坑内で酷使されたのちに古道具屋経由で農家に入ったようで、農家に入ってからもすでに100年は経過してガーゼメッシュのトップが欠落しているような状態でしたが、今回の物はまったくの完全品で、すべてのパーツが揃っており、一度も坑内で使われていない証拠に本体に打ち傷ひとつありません。それもそのはず、学校の教材としてずっと保管された個体だったからなのです。以前にも本多船燈製造所製デービー安全燈を入手したときにまったく傷が無く新品のような状態だったために、学校の教材落ちを指摘していましたが、今回のものはさる富山県内の高等学校の備品管理シールが底に残っていました。この炭鉱用安全燈がどういう授業で使用されるために学校に入ったのかはよくわかりませんが、実際の安全燈製造メーカー以外に大阪の教材メーカーがどこか金属加工業者に製造させて自社の銘板を装着した構造的には坑内では使用するのが危険なほどの怪しげな教材用安全燈を見たことがあります。
 昔の資料をいろいろ読み解くとクラニー安全燈は明治25年くらいから国産化されたのをきっかけに各地の炭鉱に普及したようですが、日露戦争で石炭の生産が拡大したことで各地で安全燈が原因の重大事故が頻発し、これを契機に大手の炭鉱では早くも新型の揮発油安全燈を導入しクラニー安全燈はメタンガス引火の危険が大きい切羽から運搬坑道などの使用に限定されます。しかし中小零細の炭鉱ではコスト的に揮発油安全燈を導入することなく大手炭鉱でお役御免になったデービー安全燈やクラニー安全燈などを使用し続けますが、まだ裸火の灯油カンテラよりもマシだと思ったのでしょうか。デービー安全燈やクラニー安全燈が完全に炭鉱坑内から引退するのは大正初期に直方安全燈試験場の実験結果からメタンを含む気流にさらされた場合の危険度が証明されてからのようですが、その時期にはすでにほとんどの炭鉱で揮発油安全燈が普及していました。
 入手先は富山県の高岡市ですが、上記のとおり富山県内の統合されて無くなった高校の備品落ちです。以前の深川の古い農家から出たクラニー燈と異なり金網以外の全体にニッケルメッキがかけてありました。できた当初は高級感漂うなかなか華やいだ安全燈だったはずです。芯はロープをほぐしたようなもので、灯火用の棒芯とは異なります。これは神奈川から入手したこれも教材備品落ちらしい本多のデービー燈のものとも同じでした。この時代の安全燈全般がそうですが、使用するのは引火点の低い原油由来の灯油ではなく、植物性のともし油もしくは植物性油と灯油の混合物でしょう。


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July 06, 2015

ザイペル式揮発油安全燈(炭鉱用カンテラ)

150705_091546  このいかにもドイツ製らしい姿をした揮発油安全燈は正真正銘北海道から出てきたものです。製造所の刻印はありませんでしたがおそらく明治末に輸入されたドイツはウイルヘルム・ザイペルのザイペル式揮発油安全燈です。ザイペルの揮発油安全燈は明治の後期にドイツから輸入されて三井系の炭鉱で使用された記録がありますが、すぐに構造が優れてより安全なウルフ安全燈やその国産コピーの本多式や横田式の揮発油安全燈に置き換えられ、「名前は知られていても現物にお目にかかることの出来ない」安全燈の代表でした。今回当時のザイペル揮発油燈が入手出来たことにより、ウルフ揮発油燈のパテントが生きていた時代のザイペル揮発油燈がどういう構造だったかということがよくわかりました。ザイペルの揮発油燈は戦後のものを一個所持していますが、こちらはまったくのウルフ揮発油燈で、下ガードピラーリングから金網のはまったホールを通して筒内に吸気して燃焼させ、上部の二重メッシュの金網から排気するというシステムでしたが、この初期のザイペル式揮発油燈は単純にクラニー燈を揮発油燈にしただけのものです。吸気も下から行うのではなく上部のガーゼメッシュを通して行い、排気もガーゼメッシュを通して行う効率の悪いものです。またガーゼメッシュも二重ではなくその構造からして十九世紀末の安全燈で、二十世紀初頭の安全燈事故防止に関する各国の保安基準には適合しない構造なのですが、その頃にはウルフ揮発油燈の基本パテントが切れてザイペルでもウルフタイプの揮発油燈が作られていたようです。それゆえにザイペル式などと呼ばれるような特徴的な構造は一切なく、旧型のクラニー燈を揮発油燈にしただけのものですが、なぜか後の直方安全燈試験場のサンプルにもザイペル式として記載されています。

 日本では明治30年代後半に主要炭鉱でドイツからの輸入のウルフ揮発油燈が使用されていた記録がありますが、なぜ同時期に構造的にはクラニー燈と変わらないザイペル式揮発油燈が輸入されたのかがわかりません。どうも三井系の炭鉱に最初に使用されたことから三井物産が係わったことが想像されます。同時期の三井系企業である王子製紙苫小牧工場の建設顛末と三井物産の干渉に関して調べたことがありますが、三井系企業に対する部材調達を三井物産が一手に支配したがり、他の商社からの部材のほうが優秀で価格が安くても、ときには三井物産が三井総本家まで告げ口をしてまで強引に部材調達を独占するということも多かったようです。おそらくフリードマン・ウルフ商会には実績のある日本国内の代理店がすでに存在し、三井物産がフリードマン・ウルフ商会と独占的な代理店契約を結べなかったために、利ざやが大きいが実は間に合わせ的なザイペル式揮発油燈に手を出してしまったのでしょうか。正にドイツの亜炭鉱と日本の瀝青炭鉱の違いもわからないような技術的な素人商社員が単純に商売優先で輸入し、「三井全体の利益」として三井系の炭鉱に押し付けたザイペル式揮発油燈ですが、案の定日本の炭鉱の実情には合わなくて、あまり使用されずに国産揮発油燈に置き換えられてしまったようです。かろうじて大正期の直方安全燈試験場の試験サンプルの中にザイペルの名前を見ることは可能でした。この三井物産とザイペルの係わりは想像の域を出ないので、今後新たなエビデンスが必要です。

 構造的には棒芯を油壷底のネジで繰り出すタイプです。ロックシステムはサイドボルトを締めることでロックする簡単な方式ですが、輸入された当時はまだウルフの磁気ロックシステムのパテントが有効だったからでしょうか。油壷はウルフのようにスチールの外皮を持つ真鍮との二重構造ではなく一重の銅合金製です。ボンネットがないこともあって非常に軽い安全燈です。かんしゃく玉式の再着火装置があるはずなのですが、それを装着して出荷するとウルフのパテントに抵触してしまうため、これはオプション扱いだったふしがあり、この個体には再着火装置がついていませんでした。単純に大正初期に第二次大戦が勃発し、かんしゃく玉が輸入できなくなったときに再着火装置を装着できずに出荷された国産他機種に流用された可能性はありますが、輸入コストを抑えるため、再着火装置のオプションなしで輸入されたということも否定できません。(直方安全燈試験場のサンプルになったザイペルもわざわざ「着火装置なし」と注記があります) ドイツの亜炭鉱で使用されるため、メタンガスの気流にさらされるリスクが少なく、ボンネットがありません。その分小型軽量で吊り環までの高さは23.5cmほどです。サイズ的にはジュニアウルフ燈のサイズです。メッシュは一重でその高さは8cm程しかなくそれを保護するガードピラーは3本、腰ガラスのガードピラーも3本です。本多のクラニー燈でさえ腰ガラスのガードピラーは6本あります。跳ね上げ式の反射板を装着するであろうヒンジが一箇所ありました。重量は燃料と再着火装置抜きで800gと超軽量です。これが本多のウルフ燈だと倍の1.6kgもあります。ボンネットレスだということと、油壷が一重で肉薄なことが全体の重量に影響しているようです。ちなみに総アルミ製のヘイルウッド安全燈はさすがに950gと軽量です。

 入手先は北海道の岩見沢で、いにしえは石炭輸送の中継地として広大な操車場を抱える鉄道の町でした。近くには幌内や幾春別、美唄の大炭鉱、旧栗沢町に中小の炭鉱などが存在しますが、売主に入手先を尋ねるも知り合いから入手したもので、その出自は不明とのこと。輸入雑貨品に混じっていたというものではないので道内の炭鉱にもたらされたザイペル揮発油燈には間違いないのですが、どこの炭鉱が使用していたものかわからないのが玉に瑕です。時期的には鉄道国有の保証金を元手に開発により出した室蘭の製鋼所の建設資金繰りで三井の軍門に下った北海道炭鉱汽船の炭鉱に三井の手によって押し付けられたものなのでしょうか?当時すでに北炭では輸入のウルフ揮発油燈が切羽で使用されており、ザイペル式揮発油燈は運搬坑道などのガス気の少ないところでクラニー燈などから置き換えられた程度でほどなくお蔵入りしてしまったのでしょうか?

 この時代のウィルヘルム・ザイペルの揮発油燈には技術的な独自性がまったく感じられず、技術的にはフリードマン・ウルフ商会とは雲泥の差、英国のエイクロイド&ベストの足元にも及ばず、英国や米国の炭鉱地帯のブラスウェアの安全燈製造会社程度の技術力の会社です。しかし、ザイペルの揮発油燈はその後ウルフのパテントが切れたころに構造的にはウルフ安全燈の完全コピーを果たし、またドイツの炭鉱では1960年代まで揮発油安全燈が明かりとして使い続けられたことから、長期間にわたり揮発油安全燈製造会社として永らえたようです。ただ、第二次大戦後に戦争協力企業として解体されたというようなことを何かで読んだような気がするのですが、戦後は名前を変えて存続したのでしょうか?
 
 ところで、ウルフ揮発油安全燈ですが、どうも最初の市販品は平芯の油燈だったようです。これは日本にも入ってきており旧型ウルフ燈とされることもあるようですが、構造的にはのちのウルフ揮発油燈に共通なものの平芯油燈ですから再着火装置もありませんが、下部リングからメッシュを通して吸気するまぎれもなくウルフ式です。揮発油燈になるまでの間に合わせ的なものだったのか、イギリス国内では油燈が好まれ、また再着火装置が認められなかったことからイギリス国内向けと揮発油の供給が困難な地域向けに作られた代物だったのでしょうか?

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July 05, 2015

船舶用ボンネッテッドクラニー安全燈

150705_091446  炭鉱用安全燈として製作されたものは船舶用の灯火として使用するために海事用として転用されたものがありますが、これは炭鉱同様に密閉された空間に可燃性ガス(ボイラーが損傷して燃焼中の石炭に缶水が触れて一酸化炭素が発生したり、揮発油の気化等によるもの)や粉塵(船倉内に舞い上がった積荷の粉体など)が引火点に達する濃度となった場合に引火爆発する可能性があり、また船倉内には酸素欠乏箇所もあって酸素濃度を検知する必要もあり、あるトン数を超える船舶は逓信省(戦後には運輸省)の形式認定を受けた防爆燈を備える義務があったようです。実際に昭和の初期には米国本国などから石油製品を輸入するタンカーなどで気化した可燃性ガス引火事故が発生したということですし、現在でも船倉内の点検や清掃に入って有毒ガスや酸欠で命を落としたという事故があります。当方の知る限りでは戦前戦後を通して唯一本多電気(本多船燈製造所の後身)が炭鉱用に供給していたウルフ安全燈コピーの本多式簡易ガス検定燈が逓信省と運輸省の双方とも形式認定を取った唯一の揮発油燈タイプの防爆安全燈だと思いますが、双方とも形式名・製造メーカー・検定番号・製造年月・製造番号などが刻まれた大型の銘板が油壷に付されることで、逓信省と運輸省の銘板の無い炭鉱用簡易ガス検定燈と区別することが出来ます。この海事用の防爆安全燈は昭和30年代にはバッテリー式の防爆ハンドランプに完全に換わってしまいましたが、実際には相当以前から備え付け義務があったものの使われることのない備品(船舶用の銅鑼やふいご式の霧笛同様に)だったのかもしれません。というのも常時メタンガスの危険と隣り合わせの炭鉱よりも、船舶では安全燈を使用しなければいけない状況というのは酸素欠乏箇所検知を除いて少なく、また揮発油安全燈は蓋の開いたオイルライターのように充填したオイルは蒸発してしまうため、いざ使用する段に燃料充填の手間がかかり、現実には火気使用制限エリアで手あぶり程度の暖房代わりに使われたというのが正しいのでしょうか。船舶用としては昭和30年代に日本船灯によって販売された本多電気製のウルフ燈を見たことがあり、ちゃんと日本船灯の銘板が装着されていましたが、運輸省の形式番号や製造年月が記載された銘板には本多電気と記載されていました。
 今回入手した安全燈は日本製であることは疑いの無い代物なのですが、イギリス在住の安全燈コレクターが所有しているもの以外にまったく見かけたことがなく、製造所を含めて謎の安全燈でした。そのコレクター所有の刻印から得られた情報が唯一「SENTO」だったことから船燈であることを想像し、日本船燈あたりの製造ではないかとを疑いましたが、日本船燈は昭和10年代からの会社なのでこのような燈火を製造していたことは考えられず、本多船灯製造所の刻印は「T.HONDA TOKYO」でのちには松葉の菱形にHの文字の社紋となり「Sento」の刻印は一度も使用しておらず、どうやら本多製でもなさそうです。また明治時代から「船燈製造及販売規則」という法律によって船舶で使用される燈火はプレートに船燈というタイトルとともに製品種類、製造年月、製造番号、製造場所、製造会社(多くは個人商店名)が付されていて、「船燈」がすべてのプレートのタイトルとなると正体を特定するのは困難を極めます。唯一亀甲にNKのマークが確認できますが旧日本鋼管はNKKですし、こんなものに手を出すはずはありませんが、どうやら大阪に存在する中村重政の中村船燈製造所が製造した可能性が高いです。実際に届いた代物にはペイントが塗り込められたトップハットにエッジング銘板が装着されていました。剥離剤でペイントをはがして銘板の判読を試みましたが判読できた文字は「月製…株式会社…東京大阪」の結局わずかな情報しか得られませんでした。しかし、銘板の感じからするとやはり船舶用の安全燈と判断してよさそうです。あまり大きな商船で使用されたものではなく、往年の木造機帆船あたりの規模の船舶で使用されたものなのでしょうか。
 安全燈としての構造はやはりボンネッテッドクラニー燈なのですが、日本の炭鉱坑内で使用された国産のデービー燈やクラニー燈が種油などの石油由来以外の燃料専用で、精製度の高い灯油を使用するとバーナーステムから炎が燃え上がってしまうのに対してこれはさすがにクラニー燈といえども石油専用になっているようで、逆火がバーナーステムに開いたホールに引火しないようバーナーが改良されています。また空気の流入経路が根本的に改良されていて、ガードピラー下部リング側面の二箇所に網が張られてそこからピンホール3個が内部に貫通していてそこから吸い込んだ空気で燃焼して排気がカーゼメッシュを通して上部から逃げるというウルフ燈に近い空気の経路となっています。芯の上げ下げもウルフ燈同様に油壷下部のネジで繰り出すようになっています。またロックシステムも簡単なサイドボルトロックでした。また炭鉱坑内で使用するものではないため上部の吊り環は鉤ではなく直径も細い環となっていました。ところがカーゼメッシュのところが金属の円筒で囲われた明らかに国産のボンネッテッドクラニー燈がほかにも存在し、一度目にしたことのあるものは明らかに坑道内で使用された形跡のある傷だらけの安全燈でした。それは銅山が多く操業していた秋田から出たものだったのでガス爆発防止のためではなく、発破直後の坑道内で粉塵爆発防止のために試用されたものだったのでしょうか?これは油壷などの形状からして本多船燈製に間違いないようでした。
この手の安全燈に共通する構造として油壷本体は真鍮を旋盤加工してくり抜き、鉄板もしくは真鍮板製の円形底板をロウ付けするものなのですが、打撃により油壷の変形や経年劣化によって、今では灯油を注ぐと底板のロウ付け部分やウイックピッカーステムのロウ付け部分から灯油がじわじわと漏れ出してくるものがほとんどです。逆に揮発油燈はベンジンを油壷の綿にしみこませる構造なので、液体の漏れのリスクは少ないです。そのため、症状の軽いものはガストーチで半田付け部分を炙り直す程度で漏れが止まることもあるのですが、今回の安全燈は複数個所から液漏れしていたので、瞬間接着剤を何層も重ねて埋めなおしてしまいました。構造上灯油を充填するたびに芯上下のためのネジをはずさなければならなく、非常に面倒くさい構造です。また炭鉱用安全燈の腰硝子は熱処理された分厚いものなのにくらべて、この安全燈の腰硝子はそれにくらべると2/3くらいの薄いものが着いています。

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June 29, 2015

炭鉱杖(タンコツ)と玄能つえ

150629_120752   鉱山の坑内で明治の時代から職員や幹部が坑内に入るときに携えていったのがこれらの道具です。長らく名称がわからなかったのですが通称炭鉱つえ(タンコツ)と呼ばれたらしく、採炭用のツルハシ(画像の一番下)とは使用目的がまったく異なるものです。その金属部分は長さ15センチ内外で全体の長さが85~100cmあり、金属の部分は初期の登山用ピッケル、特に戦後の登山ブームのときに夏山用として杖代わりに使用されていたものと形状やサイズが似ていますが、夏山用ピッケルと異なり、シャフトが丸棒で石突もスパイク状にはなっていません。ピッケル部分を止める目釘も簡単なものが一本で、登山用で滑落したときには一発でシャフトとピッケルが分離してしまうこと疑いありません。明治時代のまだ裸火のカンテラを使用していた炭鉱や鉱山の坑内でも洋服を着て足元はわらじ履きの小頭らしき偉そうな人が片手にカンテラ、片手にタンコツを持ち、半裸体でツルハシを振るう坑夫を監督しているようなやらせ写真はけっこう残っていて、いまでもネット上で目にすることは容易です。おそらく明治の時代に炭鉱杖を片手にえらそうに振舞う小頭や炭鉱主なんかを揶揄して「たんこつ」なんていう言葉が生まれたのかもしれませんが、どの鉱山用語解説の本にも出てこない用語です。大正時代以降には炭鉱会社幹部職員の一種のステータスになっていたらしく、幹部の集合写真なんかでは陸軍の将校の軍刀のように幹部職員全員がこのたんこつを携えているような写真もありました。どうも明治期から大正期にかけては杖代わりというよりいざというときの自衛の武器という側面もあったようです。明治の初期の官営炭鉱の時代には囚人を使役していましたし、その後の納屋支配の炭鉱にあってもその労働には暴力的支配が伴っていました。そのため、ツルハシを所持している坑夫のいる坑内に丸腰で入るのも危険で、自衛の武器代わりに携えていったというのがいつのまにか幹部職員の印みたいになっていったのでしょうか?中には仕込み杖になっていたタンコツを持ち歩いていた幹部もいたとか。しかし、時代が大正から昭和に変わり、炭鉱労働も納屋制を廃止して会社直轄雇が増えてゆくのにしたがい、坑内の労働環境も変化を遂げます。もはや自衛の武器がわりは必要ではなくなり、タンコツはヘッドがピッケルからテストハンマー状に変化していき、これを特に「玄能つえ」と言ったらしいのですが、これは支柱の緩みや天板などの緩みを叩いてチェックする実用的なものです。これは昭和40年代くらいまで幹部や技術職員によって坑内で使用されたようですが、ゴジラに続く戦後の怪獣映画第二弾「空の大怪獣ラドン」で佐原健二をはじめ、炭鉱技師の殆どがこの玄能つえを手にしていますので興味のある方は見てみてください。この玄能つえでメガヌロンに対峙するシーンもありますからいまだ自衛の武器という側面は抜けていなかったのかも(笑) 実は戦時中、この玄能つえは不要不急の鉄材として献納供出されてしまったらしく、戦時中の炭鉱幹部の集合写真では同じ形状の白木のものに変わっているのを見ることが出来ます。また昭和24年に昭和天皇が三池の三川鉱坑内に入られたときも天皇陛下を初め会社幹部全員がこの白木のタンコツを使用していました。ちゃんと鉄の玄能つえに戻ったのは昭和20年代半ばを過ぎてからでしょうか?タンコツと玄能つえは現在まとめて4本所持していますが、そのうちタンコツはピッケル部分が磁気を帯びない軽合金で出来ています。おそらく坑内の測量作業で磁気コンパスを狂わせない配慮なのでしょうが、シャフトは円で石突も軽合金製。福島の鉱山の多かった町からの収集品。玄能つえの一本は北海道内から、他の二本はまとめて大阪からで個人の所持名が刻まれています。


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October 02, 2014

キンモクセイの芳香剤はなぜ廃れてしまったのか?

140921_143609  学生生活で初めて東京暮らしとなり、思いっきり暑い夏が終わってそろそろ冬の足音が聞こえ始めたある10月の晩、帰宅のためいつもの路地の角を曲がると路面にプラスチックのようなオレンジの小片が散らばっています。それと同時に特徴的な強い芳香を感じました。キンモクセイでしたが、何で本物を見たこともない北海道出身の人間がすぐにキンモクセイであることを理解したのかというと、兎にも角にもトイレや部屋の芳香剤として嗅ぎ慣れたおなじみの匂いだったためにすぐに気がついたのでした。普通は逆じゃないかと思うのですが、北海道では本物のキンモクセイが育たず、芳香剤でしかかいだことが無いからです。そのため、キンモクセイの香り=トイレを連想してしまうのが当時の年代を過ごした人たちには共通だと思うのですが、今やキンモクセイの香りのする芳香剤はほぼ絶滅品種となり、普通のドラッグストアなどに出かけても並んでいないことが普通になりました。キンモクセイの香りの芳香剤に代わり、平成になってから台頭したのがラベンダーの香りの芳香剤なんだそうで、今やトイレの香りのイメージといえばラベンダーなんだとか。これには汲み取り式から水洗に生活様式が変化して、強い香りで臭気をごまかす必要が薄れたということが大きいそうですが、我々の世代のポトーソ便所には「煙出し片脳油」などという戦前からの定番商品も存在してました。そういえばポトーソ便所にはトイレットロールではないシート状の「ちり紙」というのを使用していて、ちり紙交換などと言葉は残っていますが、再生技術の進んだ現代では信じらませんが当時のちり紙というのは古新聞古雑誌を融かして再生された再生紙ながらところどころに元の活字が残っているような下級の再生紙で、脱墨技術も確立されていなかったため、限りなく灰色の紙だったのです。まあ新聞紙を使うよりはましですが、使用にあたって揉んでやわらかくするという作業が付きまとってました(笑)そういえば当時のポトーソ便所にはちり紙とともに芳香剤としてパラジクロロベンゼンの丸い塊がネットで吊るされているのが普通でした。このネオパラボールなどの名前で売られていた芳香剤も水洗トイレの普及と香りの芳香剤の台頭で急速に廃れていったようです。
 本州からさかんにキンモクセイ開花の便りがラジオで聞かれ始め、改めてキンモクセイの香りの芳香剤を探してみましたが、古にはローズとともに芳香剤の2巨頭の1角であったキンモクセイは見事に店頭から消え去ってしまいました。ネットを検索してみるとわずかに製造はされていることがわかりましたので、改めてスーパードラッグストアホームセンターを何軒も探して入手できたのがエステーの室内用芳香剤「自動でシュパッと」と小林製薬のトイレ用芳香剤「サワデー」の2種類です。ところが双方ともに昔の強烈な香りのキンモクセイ芳香剤とは異なり、オレンジの香りなどを調合したやんわりとしたもので、どうもイメージはキンモクセイながら本物のキンモクセイの香りとは相当異なった現代的なものに進化したことが伺われます。どうもトイレを連想させるような香りではなくなってしまいました。それが何となく古を知る身には物足りないような…。

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March 08, 2014

鉱山用手提げカンテラ油燈

140306_102924  幕末から明治の初めにかけて、家屋の照明といえば蝋燭が非常に高価だったためになかなか普段使いにできず、主に種油を、ときには種油に魚油を混ぜたようなものを使用した灯明や行灯などが使用されましたが、ポータブルの照明として蝋燭の手燭以外に西洋から入ってきた器具を、そのままの形で真似して日本で製作された吊りカンテラが一般でも使用されたようです。このカンテラという語源はオランダ語のカンデラーで、英語のキャンドルと同意語のようですが、日本では主にひょうそくと呼ばれた陶器製の灯火器に類似した土瓶のような形のものの口に綿芯を立て、種油や魚油、ときには臭水(原油)などの液体燃料を使用した灯火器をカンテラと呼んでいたようです。ほとんど西洋から入ってきたものそのままの姿で製作されましたが、材質に鋳物と真鍮の主に2種類が認められます。鋳物のものは形態的に2種類あり、西洋でレンチキュラーランプと呼ばれる鋳物製の比較的に薄手のもので、蓋にピーコックなどの装飾摘みがついているものと、小型の土瓶のような姿のものが認められます。また真鍮製は土瓶型で、いずれも手燭でも梁や長押に引っ掛けても使えるように、鉤のついた柄のようなものが付いています。また朝鮮から渡ってきたカラスの頭のような形の比較的に小型の鋳物の吊り灯火器もあり、こちらは鎖がついていてその先端に鉤が付いているというもので、一般的には手燭兼用のものが屋内の台所や風呂場などで使用されたのに対し、こちらは主に鉱山で使用されたとも言われておりますが、これらの灯火器の歴史には詳しくありません。江戸期の金属鉱山の坑内では、灯明皿を使用した灯火や巻貝に芯を立てた灯火器などが使用されてきたようですが、幕末あたりから西洋渡りのカンテラを模したものが携帯用の灯火器として使用されるようになったようです。
  明治に時代が変わり、旧鉱業法が発効して誰でも国から鉱区を取得すれば地下の資源を自由に採掘できるようになり、各地に炭鉱や鉱山が次々に開鉱しますが、坑内の照明といえば江戸期と殆ど変わりませんでした。しかし、江戸期にはほとんど利用されてこなかった石炭が当初は製塩用に、のちに工業用や船舶用のボイラー燃料として大量に採掘されるようになるにしたがって、採掘場所もだんだん深度を増し、そろそろメタンガスの洗礼を受け始めてガス爆発の被害をこうむるようになる明治20年代後半からメタンガスに引火しにくいデービー安全灯やクラニー安全灯などの油安全灯が普及するようになります。
 その安全灯普及期まで主に炭鉱で使用されたのがそれまで一般で使用されていたブリキや真鍮製の手提げカンテラです。炭鉱用のカンテラは、主に産炭地周辺のブリキ屋がブリキの空き缶などを再利用して製作した土瓶に吊り下げの鉤がついたような形の灯火器で、やはり原型は西洋の鉱山用手提げカンテラそのままのようです。何せ軽く100年以上昔のブリキ製品ですから火にさらされ水にさらされ続けて錆びて朽ち果ててしまい、今となっては残っているものを目にすることは非常に稀です。現代に残っているのは腐食に強い真鍮板を使用したもので、おそらく本多船燈製造所や小柳金属品製作所のような灯火器専門の板金工場が安全灯製作以前に手がけていたものだと思われます。筑豊などで使用されていたブリキの手提げカンテラは断面が丸ではなく角のものが多いようですが、西洋のものに四角い油壷のカンテラが見つからないので、これは加工を容易にするための筑豊オリジナルなのかもしれません。地元のブリキ屋が空缶を利用して作っていたのでは数百個単位での受注に応じきれず、後のものは専門の灯火器製造業者の製作だということは容易に想像がつきます。今回入手した手提げカンテラは銅と真鍮板で出来ていますが、錆びて朽ち果てることはないにせよ、これだってけっこう珍しいのです。この手の灯火器は大抵芯を装着する土瓶の口に相当する部分が二重の構造になっていますが、これは一重だとすぐに熱が伝わってハンダが融けてしまい、ハンダ付けしてある土瓶の口が取れてしまうことと、当時の植物性油は粘性が高くて垂れてしまい、それを油壷に回収するためなんだとか。そういやそのためか口に円い鍔のついた灯火器も見かけます。また安全灯同様に吊り鉤がついていますが、ここの部分に鉄で作った「ひあかし棒」を取り付けて、坑木などに打ち込んで使用していました。金属鉱山のようにメタンガスの心配のない鉱山では明治の後期になるとポータブルのカーバイドランプに取って換わられますが、油灯カンテラからひあかし棒だけ取り外してカーバイドランプに取り付けることはよくされていたようで、今でもひあかし棒付きのカーバイドランプは昔鉱山が近所に存在した地方の納屋や農機具小屋などからよく見つかります。


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