秋田の鉱山で使用された鉄製燈火器(鉱山用カンテラ)
これはかなり以前に弘前の古道具屋から落札したもので、その古道具屋の話では秋田のほうから仕入れたという急須型の鉄製カンテラです。正式な標準和名は知りません。紛れもなくカーバイドランプが出てくる明治末まで秋田のどこかの鉱山で実際に使われていたカンテラで、その証拠としてどこかの鍛冶屋がこしらえた坑木に打ち付けて吊るすのに使うひあかし棒という鈎がついています。かなり使いつくされたカンテラで、本来あるべき鉄製の蓋は失われて単なる木の栓で蓋がされ、錆止めのため漆を塗られた表面もサビだらけ。木栓を開けて中を覗くと乾いた種油のテカリがまだ残っていました。こういう吊りの急須型カンテラは幕末から明治の初期までにあっては真鍮製と鋳物製の二種類が見られますが、新品同様のきれいな欠品などもちろんなく、芯挟みもちゃんと残っている完品がいいのか。それとも実際に鉱山で使用されたことが明白なものの、他人から見たら小汚い欠品だらけのものが良いのか。資料価値としては断然後者のほうが勝っていると思います。
秋田ということもあり、おそらくは弘前と峠を挟んだ大館の近所には小坂鉱山や花岡鉱山。もっと内陸に入れば江戸時代には一時期、日本で一番銅の産出量が多かった阿仁鉱山などがあり、その周囲にも明治時代には稼働していた小鉱山も星の数ほどは大げさにしてもたくさんあったのが秋田ですから、どこの鉱山で使用されていたのかはこのカンテラにしかわからないこと。この急須型のカンテラはおそらく文化文政期あたりの幕末に長崎を通じてもたらされたヨーロッパ製の燈火器を日本でデッドコピーしたもので、そのときに「カンテラ」という外来語も入ってきて、今でも携帯用の燈火器を意味する普通に通じる外来語になりました。そもそもはラテン語のろうそくを意味し、英語のキャンドルも同意語ですが、ポルトガルやオランダでは手持ちの燈火器も意味したようで、その言葉がそのまま日本語にもなったものです。以前から存在した李朝鉄製燈火器よりも鋳物技術が向上して肉薄で軽い燈火器で、使い勝手も良かったため明治に入ってからもしばらく使われたようですが、明治時代には新しく西洋からもたらされたブリキの板を板金加工した安価なブリキ製のカンテラに取って代わられたようです。そして明治の末から鉱山用燈火器にはカーバイド燈の出現という一大革命がおき、大手の経営する鉱山から光度が高くて立ち消えしにくいカーバイド燈に一気に取って代わられたのは、日本国内で電気分解法によるカルシウムカーバイドの工業的生産が可能になったからこそに違いありません。それで一気にお役御免になった油燈のカンテラですが、坑木に打ち付けてカンテラを吊るすために使われた鉄製の鈎、通称ひあかし棒のみカーバイド燈に付け替えられて使われている例が多く見られます。鉱山でも炭鉱同様に蓄電池式の帽上灯が普及し始めてからもカーバイド燈は一部使われていて、これは金属鉱山は炭鉱と違ってメタンガスなどの可燃性ガスの爆発という危険はないものの、坑道内にはところどころ酸素の欠乏空間があり、危険なのでカーバイド燈の炎が小さくなったら直ちに退避するという酸欠事故防止のための検知器として使用されたのだとか。それにしても本来あるべき蓋や芯ハサミもなくなっているわ、種油の燃え残った不純物がタール状になってかたまっているはで、本来だったらきれいにして漆もカシューで代用して塗り直てきれいにしたほうが万人受けするのでしょうが、実際に秋田の鉱山で使用されていたという史実と過酷な労働を物語る証人としてもこのままにしておくことにします。さて、この燈火器の産地ですがすでに江戸時代から鉄器の製造が盛んだった南部地方や羽前山形もしくは仙台近辺の作という線が強そうです。まあ上方で作られたものが北前船で運ばれてきた可能性も大いにありますが、鉄器類の見立てはまったくの門外漢です(笑)
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